DAYS                           めったに更新しない(だろう)近況

▼「カフカの階段」は時々アップデートしてますが、それを下に冒頭に置いてます。
「いす取りゲーム」と(「カフカの階段」については「極限の貧困をどう伝えるか」あるいは「いす取りゲーム」と「カフカの階段」の比喩についてを参照してください。
スパムメールを毎日多数削除してますが、間違って知り合いや用事のメールも削除してしまうかもしれません。「返事があって当然なのに、1週間しても返信がないな〜」というときは、(その可能性があるので)お知らせ下さい。
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2015/7/24 「CRIMELESS事業」検討委員会の「意見書」・毎日小学生新聞の記事

NPO法人Homedoor の「CRIMELESS 事業」については、野宿者支援に関わる者を中心に議論を呼び、ホームレス総合相談ネットワークによる意見書や、釜ヶ崎公民権運動による申し入れが行なわれていた。
こうしたことから、Homedoorから検討委員として議論することを要請され、それを受けて会議を数回行なった。
Homedoorが結論を出し、それに対する検討委員の意見書ともどもHomedoorのHPに出された

検討委員の意見書にあるように、
「市民の声をもとに防犯パトロールを行った場合、誤解や偏見にもとづく通報がなされる危険性があり、現に野宿生活を強いられている人達を排除する結果をうみかねません」
「上記事業が「防犯」を標榜する以上、大きなトラブルにまき込まれる可能性はあり、放置自転車対策活動に従事していた当事者にとって、予想外の危険な活動に当事者をまきこみかねません。」
というのはホームレス総合相談ネットワークやいろいろな人から批判があった通りで、われわれもそう思っている、ということです。
こうした点を含め、かなりの時間を費やして議論を行ないましたが、「もかかわらず、当初事業案を撤回せず、事業開始を決定されたことは、遺憾であるといわざるを得ません」ということなんですね。
この件については、個人的に「どうなってるの?」とよく聞かれ、そのときは内輪話を含めいろいろ話しましたが、結論が出たいま、こういうホームページで言えることは、上の検討委員意見書で尽きてると思います。
ただ、グランプリ受賞後に「GPS による治安維持とホームレス雇用の両立」というすごいタイトルで(これはグーグルがつけたそうだ)この事業を知ったときは、「5年以内に日本の犯罪率(件数?)を10%減少させ」るとか「ホームレス4000人(全体の5割)の雇用創出を目指す」とか、信じられない話題しか書いてないので、はじめは何をするつもりなのかさっぱりわからなかったです。話を聞いてみると、現在Homedoorがやってる事業の拡大、ということがわかりましたが、それでも上のような問題点がある、ということです。
Homedoorから最終結論が示されたとき、「やってきた議論がこのように全く反映されていないのなら、検討委員を辞任し、『元検討委員』として意見を出すのが筋ではないか」と言いました。しかし、それは検討委員の全員一致にならなかったので、一人二人だけ辞任するのもどうかと思い、検討委員としての意見書、ということになりました。

毎日小学生新聞(7月10日)で取材を受け、記事になってます。6月のYMCA学院高校での授業を記者の方が取材に来られました。野宿の問題をこどもや若者に伝える意味とは、という内容です。
この記事、「ホームレスと向き合う」という連続記事で、「上」(7月8日)が山王こどもセンターのこども夜まわり、「下」(7月14日)(アップされてない?)がHomedoorの活動紹介ですね。


2015/6/28 北日本新聞・週刊朝日・カフカの階段

原稿書きにエネルギーをあらたか吸い込まれている今日この頃ですが、
北日本新聞(6月1日)の1ページまるまるの記事「虹」の「教育と福祉をつなぐ手 子どもの貧困 放っておけない」で取材を受けてます。5月に記者の方が山王こどもセンターに来られてお話しして、釜ヶ崎も案内しました。
記事では、スクールソーシャルワーカーが全国で増員されることを受けて、「子どもの貧困が広がる中、あいりん小中学校のような活動が全国で必要になってくる」とかしゃべってます。

「週刊朝日」7月23日号の特集「下流老人 あすは我が身」で電話取材を受け、すこし話したことが記事に出てます。
また、「カフカの階段」が貧困問題の図として紹介され、簡略化した図が紙面に載せられてます。


2015/6/8 転送・「子どもの貧困連鎖」(新潮文庫)

本のお知らせ。ぼくも関わってます。

▼ 教育問題を取材している共同通信記者の池谷孝司と申します。
 今日、5月28日、「子どもの貧困連鎖」(新潮文庫)が発売されました。
 池谷と先輩の保坂渉さんの共著で、作家の津村記久子さんが解説を書いてくださいました。
 津村さんは「ポトスライムの舟」で芥川賞を受賞し、「ワーカーズ・ダイジェスト」などのワーキングプア小説の名手です。
 「子どもの貧困連鎖」の解説では、その津村さんが、父親が投資に失敗し、家を売って、やがて両親が離婚へと至った小学生時代のつらい記憶を明かしています。
 その上で、「今までもっともお金の心配をしたのは、小学一年から小学三の頃だった」と告白し、貧困状態にある子どもの苦しみを語ってくださいました。
 とてもジーンときます。
 3年前に出版した「ルポ 子どもの貧困連鎖−教育現場からのSOSを追って」(光文社)の文庫化で、その後の状況の変化を盛り込みました。
 この本では、高校、中学、小学校、保育園の現場ルポとともに、対策を考えようと
 岩波新書「子どもの貧困」の著者で首都大学東京教授の阿部彩さん、
 東大教授の本田由紀さん、
 野宿者ネットワーク代表の生田武志さん、
 福島大教授の大宮勇雄さん
 のインタビューも掲載しています。
 詳しくは、池谷の近著「スクールセクハラ」(幻冬舎)のフェイスブックからもご覧になれます。
 子どもたちの実態を知っていただき、対策を考えていただくために、ぜひお読みいただけるとうれしいです。
 池谷孝司


2015/4/15 講演会とレッスン

3月29日の慶應義塾大学での第30回AKIHIKOの会でのフォトジャーナリストの林典子さんとの講演について、岡村昭彦に焦点を置いた記事が出ている。
岡村昭彦については写真集「岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて all about life and death」を講演前にいただき、林典子さんのフォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳――いま、この世界の片隅で』を買って読んだ。そのどちらも「読んで良かった!というか、と読むの読まないのとで世界への見方が違う!」。
林典子さんの講演「取材を通してみた女性の人権」は、『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳』の内容に加え、直前まで取材していたというイラクの女性たちを追った報告だった。そのイラクで飲んだ水が良くなかったとかで、林さんは熱を出しながらのお話し。
たとえば「誘拐結婚―キルギス」は、「これこそ理想の女性」と一目惚れしたとか、誰かとそろそろ結婚したいという理由で、男性が仲間と組んで女性を誘拐・監禁し、親族一同あげて女性を「説得」して結婚させている。「現地のNGOによると、既婚女性30%から40%が、誘拐で結婚している」。林さんが誘拐現場に遭遇し、説得されて結婚を承諾したり、親族が駆けつけて家に連れ戻されたりという経過を、いくつもの写真とともに報告していく。
この「誘拐結婚」はキルギスの「伝統」として語られることがあるという。事実、女性の一人は「これは私たちの伝統だから」という理由で自分を納得させていた。「誘拐」で結婚して何十年も経ち、「今は幸せです」と言う女性も登場する。このことから、「これはキルギスの文化の一つなのだから、第三者が自分の国の価値観で批判すべきではない」という議論もあるという。
しかし、研究者によれば「誘拐結婚」は遊牧生活から定住生活への変化の中で20世紀になってから増えた現象で、決して「伝統」ではないとも言われる。林さんは、「キルギスでは悩みながら取材を続けていた。当初、誘拐結婚は女性に対する人権侵害だと考えて取材を始めたが、途中から誘拐結婚後に幸せに暮らしている女性たちもいることが分かり、これはキルギス社会に根付いた文化なのではと思うこともあった。(…) しかし、取材を進めるうちに、女性たちがいかに暴力的に連れ去られているかを目の当たりにし、婚約者がいるにもかかわらず誘拐されたり、家庭内暴力に苦しんだり、さらに自殺に追い込まれた女性の遺族の苦悩を知り、これは単なる「キルギス固有の価値観」や「文化」として紹介するべきことではないと思うようになっていった。」(『人間の尊厳』)
「硫酸に顔を焼かれた女性たち―パキスタン」では、好きになって言い寄ったけどふられた、とかDVを続けて家から逃げられた、というだけの理由で男性が女性の顔に硫酸をかける事件が多発しており、「被害者数は年々増加傾向にあり、年間150人〜300人。その大半が10代の女性たち」だという。被害者となった女性たちに林さんが時間をかけて話を聞き、距離を詰めて撮した写真が次々と映し出される。
「ありえない」内容だが、しかし野宿の問題に関わるわれわれは、「ガソリン類をかけられて放火される」「ビール瓶にガソリンをつめた火炎ビンを投げつけられ殺される」「殴る蹴るのあげく殺される」野宿の人たちを知っている。
ぼくの内容は「ヘイトクライムとしての野宿者襲撃」で、特に梅田の襲撃殺人事件を詳しく報告した。「人種・階級・ジェンダー」と並べられることがあるけど、ヘイトクライムはそれぞれについて「人種差別」「野宿者襲撃」「女性・性的少数者への暴力」として現われるのかもしれない。林さんとぼくの報告で、日本と海外で起こる理不尽な、けれども解明しなければならない暴力の問題を多少でも示せたかもしれない。

翌日は、秋葉原のスタジオでピアニスト榎本玲奈さんにレッスン。
榎本玲奈さんが弾いているケージとか高橋悠治とか吉松隆とか、自分が弾くのとよくかぶるので、数年前からYOUTUBEとかで聴いてたけど、去年出たソロデビューアルバム『In a Landscape〜ある風景のなかで』を聴いて、あらためて演奏者としての力に(特にフィトキンの「Fervent」)感嘆した。
今年の1月18日に梅田でのCD発売記念リサイタルTourがあったので、時間が合ったので聴きに行った(向井山朋子の3月の大阪のコンサートも、ずっと前から行くつもりだったのに用事で行けなかったんだよな…)。で、後日メールで感想を送った。

榎本玲奈様

大阪のリサイタルを聴かせていただいた生田武志です。いまもリサイタルのいろんな曲が耳元で響いています。
「行ってよかった!」と思ったので、会場では遠慮しましたがメールで感想を。

プログラムの構成はよかったですね。
CDとは変更&入れ替えがありましたが、ファーストセッションのラストがトゥールのソナタ、最後が「Fervent」という構成でしっくりきました。
バンの「波紋」も(初めて聴きました)冒頭でいい感じでした。
アンコール最後で「The Cone Gathers」2が来て、会場が解放的な空気に包まれてよかったです。

あたり前ですが、CDでは十分にわからないことが実演でいっぱい聞こえてきました。
たとえば、トゥールのソナタ。あの曲、CDで聴いたときは、「なかなかいい曲だけど、やや閉塞的な感じかも」と感じてましたが、今日「これ、こんないい曲だったんだ!」と思いました。
あの曲、ある種の音型がエコーのように反響していく効果が繰り返されますが、その響きがCDではよくつかめませんでした。実演では、その効果が目の前でホールいっぱいに展開されていくのが聞き取れて、納得させられました。
「In a Landscape」は共感に満ちた夢のような演奏で、長さを感じさせないです(この曲、一手用にアレンジして弾いたことがあります)。
一番記憶に残るのは「Fervent」で、複雑な拍子とリズムが展開する中、ロック的な音型が炸裂する箇所(例えば335〜6小節)が体に直撃してきました。実演で聴けて良かった!(聴く度に思うけど、これ、ロックフェスとかで弾いたら絶対受けると思うんだけど。そういう企画する人、いませんかね)。
ポストミニマルとロックと交差し、そこから時に暴力的なほどの激しさがほとばしる音楽のあり方が魅力的でした。リサイタルを通して、現代のピアノ音楽の一つの可能性が目の前で生きて動いていることを感じさせられました。(以下略)


その後、返信をいただき、講演で東京に行く機会に合わせてレッスンをお願いしたわけ。
レッスンに持って行ったのは一柳慧「Cloud AtlasV」とフィトキン「The Cone Gatherers Part 2,3」。レッスンでは、特にピアノの弾き方そのものについて、打鍵の力みなど、いろいろ指摘されました。
あとでメールで書いたけど、「レッスンを受けてないと自分の欠点がわからないんだとあらためて感じました」「最近、1600キロ走った自転車を自転車屋でメンテナンスしてもらって、調子がすごくよくなりましたが、レッスン後の気分はそんな感じです」。
リサイタルと同様、「行ってよかった!」と思いました。
それにしても、ぼくが買った林さんの『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳』はまだ初版だったし(2014年2月出版)、榎本玲奈さんの大阪のリサイタルも満員盛況とは言えないし、こういう人たちの本やチケットがあまり売れないとすれば(ぼくの本もあまり売れないですが)、なんとかならぬものですか。


2014/12/28■(31日追記) 「フリーターズフリー3号」発行

フリーターズフリー3号は、注文メールをいただいたあと、数日(4〜5日)以内に発送し、その後、振り込み先などを記した確認メールをお送りしています。
詳しくはこちらをどうぞ! 


03のテーマとして背表紙に「日常こそ災害だ!」と入れる予定でしたが、生田・栗田ともうっかりして忘れました!

本文訂正
P5 5行目 意図で「もやい」の稲葉剛さんが「絆原理主義」と批判してましたが、この言葉が→意図で(「もやい」の稲葉剛さんが「絆原理主義」と批判してましたが)、この言葉が
10行目 わりしたち→わたしたち
P7 壱花花→壱花花さん
P117 うしろから3行目 生田武志氏が→生田武志氏の
P239 うしろから3行目 しがらみだけらけ→しがらみだらけ
P239 上段最後 あるか。→ある。


 フリーターズフリー3号の編集・発行責任の生田武志・栗田隆子です。
 2014年12月、フリーターズフリー3号を発行しました。
 2008年に02号を発行してから6年ぶり、そして最後の「フリーターズフリー」です。
 フリーターズフリーは、不安定就労や若年労働問題について当事者から声を上げるということを目的に、有限責任事業組合「フリーターズフリー」として編集発行しました。
 2007年の創刊号は「生を切り崩さない仕事を考える」、2号は非正規雇用と貧困の原点としての「女性の貧困」がテーマです。
 有限責任事業組合「フリーターズフリー」は解散し、今回は生田武志+栗田隆子の任意団体「フリーターズフリー」として3号を編集・発行します。

 3号のテーマは「反貧困運動と自立支援」です。
 反貧困運動は2007年から全国で広がりましたが、現在、それは明らかに以前のような明確な方向を示せなくなっています。
 そして、この10年、様々な現場で「自立支援」という言葉が流行し、完全に定着していきました。障がい者や野宿の現場では、かつて「自立」の概念や「自立支援法」をめぐって激しい論争が繰り広げられ様々な問題が浮き彫りにされましたが、現在、それが「なかったこと」であるかのように、「自立支援」という言葉が普通に使われています。この「反貧困運動」と「自立支援」の意味をあらためて根底から問い直してみよう、というのが、この3号のテーマとなっています。(詳しい内容については、以下の「前書き」と「目次」をごらんください)。

  今回、フリーターズフリー3号は、ISBNを取らず、書店などでの流通はしない、という形を取っています。手売り、あるいはサイトでの注文のみ、という形です。
今回の部数は1000部、どこまでこの形で売れるか、やってみたいと思っています。
ネット注文については、数量・ご氏名(ふりがな付きでお願いします)・ご送付先・希望の書名(フリーターズフリー3号・フリーターズフリー1号+2号+3号等) お電話番号、 emailを明記のうえ、postmaster@freetersfree.org からお願いします。
 フリーターズフリー3号は税抜き1400円、税は不要、送料無料です。
また、1号(1500円)、2号(1300円)も販売しています。「1号+2号」のセット販売は2500円、「1号+2号+3号」のセット販売は3900円となります。
注文後、メールをお送りします。そのメールにある口座番号に、代金の振り込みをお願いします。
 みなさん、フリーターズフリー3号を手に取って読んでくださることを心から期待しています。

▼フリーターズフリー3号前書き

 フリーターズフリー3号へようこそ わたしたちの現在地

 フリーターズフリー3号のテーマは「反貧困運動と自立支援」です。
 フリーターズフリーが創刊号を刊行した2007年は、反貧困ネットワークが結成され、2号を刊行した2008年の年末には「年越し派遣村」が作られ、特に「派遣村」については大きく報道されました。こうして、フリーターズフリーは「反貧困」運動の展開とちょうど同時に活動してきたのです。
 確かに、反貧困運動は「この豊かな(?)日本にも貧困があった!」という問題を突きつけ、社会に様々なインパクトを与えました。けれども、いまあらためてまわりを見てみると、事態はむしろ大きく悪化してしまいました。まず、フリーターをはじめとする非正規雇用の労働者は増え、生活保護利用者も増え、ブラック企業まで激増し…。一部の、もともとお金持ちだったり、個人的に能力がある人たちはなんとかなってますが、それ以外の人には「普通に生きていく」ことがさらに困難な「息苦しい=生き苦しい」社会になってしまいました。
 貧困は「経済」的なものであると同時に社会「関係」的なものでもあります。震災後は特に、「絆」という言葉が「2011年の漢字」に選ばれたりして、ブームのように使われました。しかし、「もやい」の稲葉剛さんが「絆原理主義」と批判してましたが、最近の動きを見ていると、貧困や震災などの問題を「(社会を変えるとかじゃなく)個人どうしの助け合いで何とかしろ!」という意図でこの言葉が伝われているのではないかとさえ感じます。実際、わたしたちがこの数年見てきたのは、経済的な「格差」の激化とともに、さまざまな「つながり」の崩壊でした。
 反貧困運動では「反貧困でつながろう!」と言われました。確かに、それまでつながりのなかった様々な団体、個人が運動の中でつながったことには大きな意味がありました。しかしその後、わりしたちは活動の中でのさまざまな分裂を否応なしに見ることになりました。フリーターズフリーも例外でなく、意見の相違などの結果、有限責任事業組合としては解散し、任意団体(法人でない団体、いわばただのグループ)としてこの3号を発行しています。「活動ってなんだろう?」「なぜこうした不幸な軋轢が避けられないんだろう?」ということを、わたしたち自身、問い続けることになっています。
 そしてそれと同時に、貧困者、障害者、母子家庭など様々な現場で「自立支援」という言葉が「業界」で大流行しました。「自立」支援、言い換えれば「自立できない弱い人たちを周囲が支援して助けてあげる」という「上から目線」な話ですが、それがすっかり定着してしまっています。それは「絆」の流行とリンクしていて、いわば「国と企業は侵すべからざるもの」だけど、個々人やNPOとかによる「社会的弱者の自立支援」については多少の補助は出さなくもないよ、という発想ではないかと思います。
 わたしたちは、こうした「バックラッシュ」というか、不吉な事態が進行している中で、あらためて、この「息苦しい=生き苦しい」社会をどう変えていくべきか、そしてそこにどう闘っていくべきかを問おうとしました。これが、巻頭の「共同討議」の内容であり、この3号のコンセプトとなっています。読者のみなさんには、ぜひともこの討議を読んでいただきたいと思います。ここには、自らの身から絞り出すような痛切な言葉がいくつも語られています。
 そして、現在の労働問題の一つの焦点として介護労働があります。この問題を遙矢当さんの「未払い賃金を取り戻せ 介護事業所 編」が自らの体験を通して語っていただいたいます。また、大学の非正規問題も、ここ数年、大きくクローズアップされました。この問題を、渡邊太さんの「非正規の自立―大学労働の経験から考える―」で語っていただいています。
 そして、貧困や非正規の問題を語るとき、日本だけを考えて海外の貧困問題を無視することはできません。この問題を、嶋田ミカさんの「労働破壊という「津波」にのまれて―ジャワから日本への襲来―」、綱島洋之さんの「自律への希望 後編」(前編は2号に掲載)が扱っています。
 「国と企業は侵すべからざる」と言いましたが、もう一つフリーターズフリーが問おうとしたのは「家族」です。この点について、保育と学校について1960年代から70年代にかけて行なわれた貴重な試みとして、中野冬美さんへのインタビュー「共同保育という試み」、そして小柳伸顕さん、岡繁樹さんへのインタビュー「教育と福祉の間で――「あいりん小中学校」の子どもたちとケースワーカー」で様々なことを伺いました。それぞれについて、類例のない貴重な記録になっていると思います。
 生田武志の「反貧困運動と自立支援―それは何からの自立なのか?」は、この3号のテーマをめぐる論考で、同時にフリーターズフリー創刊号の「フリーター≒ニート≒ホームレス――ポスト工業化日本社会の若年労働・家族・ジェンダー」の再検討と批判を行なうものにもなっています。
 そして、イラストは、創刊号で表紙を書いていただいた前田ポケットさん、2号で表紙を書いていただいた壱花花さんに再度登場していただきました。ありがとうございます!
 最後は、生田武志と栗田隆子の往復書簡による後書きです。ご覧の通り、フリーターズフリー結末に至る苦しみがテーマになっています。
 さて、なんと言うか、この3号の発行のためにわたしたちは本当に力を振り絞りました。それはこの「後書き」を見ていただければおわかりだと思います。もう、これ以上は本当に無理です。
 読者のみなさん、協力していただいたみなさん、執筆者のみなさん、数えあげられませんが、多くのみなさん、本当にフリーターズフリーのためにありがとうございました。わたしたちの最後の仕事をご覧下さい。

フリーターズフリー3号目次
○前書き

○共同討議―「自立」そして「支援」とは何か―反貧困運動と自立支援をかえりみる

ケアそして不安定労働
○遙矢当「未払い賃金を取り戻せ 介護事業所 編」

○4コママンガ 前田ポケット

大学の非正規・海外の貧困
○渡邊太「非正規の自立―大学労働の経験から考える―」
○嶋田ミカ「労働破壊という「津波」にのまれて―ジャワから日本への襲来―」
○綱島洋之「自律への希望 後編」

○イラスト 壱花花

家族とは?―保育・教育
○中野インタビュー「共同保育という試み」
○小柳・岡インタビュー「教育と福祉の間で――「あいりん小中学校」の子どもたちとケースワーカー」

○イラスト 壱花花

○生田武志「反貧困運動と自立支援―それは何からの自立なのか?」

後記としての往復書簡

12月31日追記
フリーターズフリー3号を発行して、とりあえずホッとした。
一つは、有限責任事業組合「フリーターズフリー」の解散をはさみながら6年間かかってようやく3号を刊行でき、事業体「フリーターズフリー」としての一つの責任を果たせたということ。
もう一つは、共同討議でも話題になったが、われわれは日ごろはシングルイシュー=個別ケースの対応に追われ、社会変革のヴィジョンを示すという課題を果たすことができなくなった。だが、「反貧困運動と自立支援―それは何からの自立なのか?」を掲載し、自分なりにその責任を少しでも取れたのではないかと感じている。
社会変革のヴィジョンについて、いま多くの人が議論を交わして考えていかなければならないはずだ。だが、その作業をする人は今ほとんどいない。この論考がそうした議論の材料の一つになることをぼくとしては願っている。
前書きにあるように、この論考はフリーターズフリー創刊号「フリーター≒ニート≒ホームレス――ポスト工業化日本社会の若年労働・家族・ジェンダー」の再検討と自己批判を行なっている。「フリーター≒ニート≒ホームレス」が(たとえば『〈野宿者襲撃〉論』と較べて)社会工学的な枠に収まるものかもしれない、ということは書き上げた時点で感じていた。「反貧困運動と自立支援」によって、その課題への応答もできたかもしれない。


2014/10/13 「反貧困フェスタやねん!2014こどもの貧困」とか


梅田野宿者襲撃殺人事件の報告集会とか、大阪市生活保護行政問題調査団とか、自分たちで主催したことも、ここで書くのをついつい忘れてる…
台風がやって来る中、きのうは長居公園で「反貧困フェスタやねん!2014 こどもの貧困」。ぼくは名ばかり実行委員長ですが、実行委員の一人として企画、実行を行ないました。


↑会場の一画でゴム鉄砲やシャボン玉で遊ぶコーナーを作った。

「大阪子どもの貧困アクショングループ」の徳丸ゆき子さんのお話をはじめ、こどもや若者の居場所つくりを行なっている大阪各地の団体から活動の報告。
会場ではテントを並べ、活動団体のフリーマーケットや飲食店の出店があり、健康診断や法律相談もあり、分科会では「ブラックバイト」「奨学金」「定住外国人の子ども」「子どもの貧困対策大綱」などについて話し合いました。
最後に「こどもの里」のこどもたちによるアピール、そして、こどもの里のこどもたちを中心にスタンドアップを行なってすべて終了。



「こどもの里」で思い出したけど、最近出た鈴木大介『最貧困女子』 (幻冬舎新書)を読んでたら、こういう箇所があった。

〃実はここで、非常に興味深い取材コメントがある。僕が取材した家出少女の中には小学校時代に学童保育に通っていたという少女も少なくなかったのだが、高学年まで通える学童を利用していた当事者少女は、「学童ってウザいんだもん」と言うのだ。
 
なぜウザいのかを聞けばごもっともで、学童では出欠確認や連絡帳の提出があったり、放課後に行くはずになっていた学童に行かないと何をしていたのか詰問されるのが嫌だったのだという。あと「ゲームがない」。高学年にもなれば、本の読み聞かせなど「ガキっぽいことに付き合ってらんない」という気持ちもあるし、同級生だちと遊びたくても常に低学年の子が邪魔をしてくるし、同級生も塾に通う余裕のある家庭の子は学童から遠のく。
結局馬鹿馬鹿しくなって行かなくなってしまったと、この少女は言うのだ。
 では少女本人はどんな学童保育だったら良かったのかを聞くと、回答は明快だった。
 「小学校終わるじゃん? そうしたら放課後に友達と遊んで、それで夕方か夜になって腹が減ったら学童に行って食事して、ゲームしたりテレビ見たりして、その後にでも親が迎えに来てくれれば良かったと思う。あと親が切れてる(虐待する)とき、夜遅くとかでも行ったら入れてくれて、泊めてくれるんだったら最高だった。実際(小学)3年のときとか、親に家から追い出されて、学童行ったのね。閉まってるでしよ? 開いてたら良かったって、いまでも思う」


これ、「こどもの里」や「山王こどもセンター」でやってること、そのままじゃん!
ということを、この間、「こどもの里」の館長の荘保さんと、虐待の相談で一緒に区役所に行ったたとき、本を見せて話したら、「へ〜、ホンマやな〜」と言ってましたが。
橋下市政のおかげで今年度から「子どもの家事業」が廃止され、「こどもの里」や「山王こどもセンター」も学童保育として運営してる。「子どもの家事業」は0歳から18歳、障害のある子もない子も来ることもできる枠組みで、貧困や虐待状態にあるこどもたちの対応に適した制度だった。「学童保育」は、小学1〜3年が対象で、基本的に「親が帰ってくる夕方まで」が対応時間なので、上のような少女少年のニーズに対応しにくいのもある意味、無理はない。
けれども、学童保育の枠になった「こどもの里」や「山王こどもセンター」は今も深夜でも開いてて、こどもや20歳越えた若者たちが相談や話をしにやってきている。「こどもの里」はファミリーホームでもあるので、そこでご飯食べたり、泊まったりもしている。
『最貧困女子』にあるように、「こうして利用価値の高い居場所ケアがあれば、そこは貧困や虐待といった家庭の問題が可視化する場ともなるはずだ。親子分離が必要なほどの状態を捕捉もできずに放置してしまうような悲劇を防ぐ防波堤にもなるのではないか。」
「現状存在する設備である学童保育といった場の充実や雰囲気を補正することは、ひとり親への経済支援などという大課題よりは随分とハードルは低いようにも思える。学童保育についてはあくまで一例だが、ここで何より大切なのは、当事者の少女らが『何に飢え、何を求めているのか』だ。」
一言で言えば、「学童保育」を「子どもの家事業」にするということなんですね。
費用対効果の意味でも、現場の必要性という意味でも、「子どもの家事業」廃止は大阪市の大失敗だとしか思えないのだが…


2014/8/19 「学校の制服が買えない」・「ホットロード」論修正

「福祉のひろば」5月号に「公立中学の制服代が払えない!」という原稿を書いた(下の4月19日のところで触れている)。
加入している「なくそう! 子どもの貧困」全国ネットワークMLでの議論を見た共同通信の記者が取材して記事にしたもの。20紙ぐらいの地方紙に掲載され、それがゴソッと郵送されてきた。ウェブ上では公開されてないけど、北日本新聞は会員登録すると、全文が読める模様。
問題を投げかけた者で、取材対象者でもあるので、記事を一部させて引用させてもらえうと、
「学校の制服が買えない…
家計が苦しく、子どもの学校の制服代を大きな負担と感じる保護者が増えている。各地で制服のリサイクル活動が広がる一方、制服のあり方も議論になっている。

「制服が買えないんです」。公立中の入学式が迫った3月、兵庫県内の保護者から、教育現場で貧困やいじめの問題に取り組む団体「HCネット」(大阪市)に相談が寄せられた。制服に加え体操着や辞書など入学前にそろえる指定の学用品も多く、計約8万円が必要になるという。

・4万円台に
 同ネットの生田武志代表理事は「衣料品が安くなっている時代でもあり、制服の値段の高さには驚きました」と話す。
 文部科学省の「子供の学習費調査」によると、公立中1年生の制服代は平均約4万7200円(2012年度)。この十数年、4万円台で推移している。一方、給食費や学用品代を補助する就学援助制度の対象となった世帯の小中学生の割合は年々増加。12年度は15・64%と過去になった。
 こうした中で、制服の再利用に取り組む地域が増えてきた。」
(…)

記事は、「公立中学校の1年生の制服代平均額」「学生服の出荷額の推移」について触れ、制服のリサイクルに取り組む地域を紹介している。
取材のときに記者から聞いたけど、文部科学省に確認しても、「そもそも制服を着る義務や種類(価格)について、規定はない」そうだ。慣行で学校が地域の洋品店を指定して、そこで購入することが事実上義務づけられている、という状態が続いている。
安い服が市場でいろいろ買える一方、制服は数万円もするものが指定の店によって独占的に販売される。それはおかしな話なんだけど、特に大店法以降、地域の商店街が壊滅していく中、洋品店にとって数万円の制服を扱えるかどうかが死活問題になっている、という面があるようだ。
しかし、貧困問題が深刻化する中、制服代などで一気に10万円近くが必要となり、こどもが公立中学に進学するだけでたちまち生活に困ってしまう家庭が現実に増えている。時代の変化の中で、誰も特に考えてなかった「制服」がいつのまにか結構大きな問題になっているわけだ。80年代、90年代には管理の象徴として「制服自由化」が問題になったけど、それに加えて貧困問題が重なってきたわけね。
福祉のひろばの原稿で触れたように、「給食費も補助金で実質的に無償」「給食費を徴収せず、教材や入学時の学用品、制服、運動着などを現物支給する。修学旅行費や部活動での移動・宿泊費も全額補助する」という町がある。けど、取材してみると、町おこしというか住民誘致のために行なっているという面が強いそうだ。
この問題は、制服メーカーや小売店、学校管理や貧困などの問題が重なって、思ったより複雑だった。これ一つでルポルタージュが一冊書けそうだ。
記事に最後にあるように、一緒に取材を受けた
「こどもの里」の荘保共子館長は「制服が必要なら、無料での支給や補助の制度を整えたほうがいい」と指摘。一方で「私服の方が負担と感じる保護者もいる」と、私服と制服の選択制も提案している。
ということなんですね。

能年玲奈主演の映画「ホットロード」が16日から上映される。これをきっかけにマンガの新しい読者も増えることを考えて、「ホットロードのための4章」を、読みやすいようにかなり手を入れた。
これを書いていたときは、作品と文章に対して距離が取れなくて苦しみつづけたけど、10数年離れてたおかげで今回はかなりばっさり削除・編集できた。
「ホットロード」について書き始めたのはこの作品の連載中で、ぼくは21才だったが、その頃書いた内容もここに残っている。ほとんどライフワークみたいなものです。
こういうとこで紹介されてた。)


2014/7/18 落とした財布が届いた・『思い出のマーニー』と『ホットロード』

この間(と言っても6月始め)、用事で武庫之荘駅近くに行って、お腹が減ったのでパン屋でパンを買って最寄りの公園で食べた。そして、夕方になって、現金やカードが入った財布がなくなっているのに気がついた。どう考えても、あの公園だ!
あわてて公園に行ったが、当然ながら財布はもうない。財布そのものは100円だが、中には2万円ぐらい入っていたはずだ。
警察に届けようと思ったが、土地勘がないことゆえ交番の場所もわからず、しばらくほったらかしにしていた。そしたら、ある日、カード会社から「尼ヶ崎北署から取得物として届いたと知らせがあり、カードの使用を停止しました」とお知らせが来た。どなたかが警察に届けてくれたらしい。
その後、尼ヶ崎北署に行くと、本当に落とした財布が届けられていた。警官は「3万8千○○○円入ってましたが、間違いないですか?」と言う。「そんなに入ってたんだ!」と驚く僕。
さらに警官は「届けてくださった方は、お礼は必要ないということでしたので、これで結構です」と言う。親切に届けてくださった上、連絡先もこちらに教える必要はない、と言われたようだ。どこのどなたかわかりませんが、ありがとうございました。
いままで財布は何度も落としたけど(特に一人暮らしを始めた時期)、届けてもらったのは初めてでした。

明日からアニメ映画『思い出のマーニー』の上映が始まる。8月16日には能年玲奈主演の『ホットロード』が始まる。
以前、『ホットロード』がファンタジー小説、特に『思い出のマーニー』と同一の構造を持っている、と分析した。ホットロードのための4章 特に「V」(ここで『思い出のマーニー』のあらすじについて触れています。ネタバレ注意!)。
この二つが同時に映画として上映されるというのは興味深いけど、ここで触れたいくつかの細部、映像ではどう処理されるのかなあ…
『思い出のマーニー』はともかく、『ホットロード』は連載同時の読者(和希が連載開始1986年に14才として、現在42才)のこどもたちが10代から20代ぐらいなので、世代が一回りした、という感じですか。
『思い出のマーニー』は上の文章でも触れたように名作中の名作だけど、原書がながらく入手不可能だった。それが、ジブリがアニメ化するということで、ようやくイギリスで復刊されたので手に入れて読んだ(下の表紙に「MAJOR MOTION PICTURE COMING SOON」とある)。いまや、キンドルでも300円ぐらいで読める。
『ホットロード』と『思い出のマーニー』、こうして21世紀にも読み継がれていくのだろうか。




2014/5/7 5月6日TBSラジオ「荻上チキSession-22」特集「ホームレス襲撃事件について考える」

この番組に電話でお話ししました。TBSラジオの崎山敏也記者がずっと夜まわりなどの活動に参加している方で、このテーマを企画立案したそうです。
スタジオでゲストの北村年子さんが話し、ぼくが大阪での裁判で聞き取った話や授業のようすを補足して電話で話す、という流れでした。
あらかじめ質問をまとめた台本をいただいてて、
「荻上:それでは、この事件を傍聴し、北村さんとともに、「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」の代表理事で、野宿者ネットワーク代表の生田武志(いくた・たけし)さんに伺います。
Q:生田さんも、大阪でホームレスの方々の支援をしているんですね?
     →どんな支援? 襲撃は多い?
   Q:今回の、少年たちの襲撃の裁判、傍聴していたようですが、
     彼らの動機は何だったんでしょうか?
   Q:襲撃をする中で、動画も撮影していたようですが、それでも、殺意は認定されなかった?
   Q:裁判で、少年たちの様子はどうだったんでしょうか?
   Q:今回の判決、どう受け止めていますか?
   Q:なぜ、10代の若者がホームレスを襲撃するのか、 《学校でどう教えるのか?》 ※北村さんと生田さん、両方に伺う。
荻上:では、その襲撃を防ぐため、北村さん、生田さんは学校で、ホームレスの授業をやっている。どんな授業をやっているのですか?
Q:どんな風に工夫しているのでしょうか?
Q:それに対して、子供たちはどんな反応なのでしょうか?
Q:実際に襲撃がやんだことはあるのでしょうか?
→学校現場の協力は得られているのでしょうか。」
という感じ。
ふだんなら布団に入ってる午後11時からの電話なので、事前にコーヒーとか飲んで、頭の中を目ざめさせての話でした。
この襲撃事件については、教育委員会と情報交換などを行ない、5月18日に「梅田野宿者襲撃事件の裁判を問う集会」を行ないます。


2014/4/19 「公立学校の制服代」について

「福祉のひろば」5月号に、「公立中学の制服代が払えない!」という原稿を書いてます。
これ、こどもの貧困問題の講演や、教員に対する研修の時に時々出てくる質問で、「こどもが近くの公立中学に進学するが、制服代などで一気に約10万円近くが必要だとわかった。生活保護や就学援助で被服費などは出るが、それを使ったとしても数万円不足する。ケースワーカーに相談すると、『自力でやってもらうしかない』という返答だった。このままでは、近々家族が生活できくなくなってしまう」というもの。
最近、同じような質問を連続して受け(それだけ、よくある問題ということだ)、解決策がわからなかったので、加入している「なくそう! 子どもの貧困」全国ネットワークMLで「何か方法はないでしょうか」「普通に公立中学に入学しても、生活保護を利用している家族、あるいは生活に困窮している家族は、たちまち生活に行き詰まってしまうしかないのでしょうか」と投稿した。それに対し、20以上の返信が寄せられた。それがすごく参考になったので、MLで掲載をお願いして、やりとりの一部をまとめさせていただいた。
いろいろな方法や制度を教えていただいたけど、でも、本質的な解決に至るのはなかなか難しいようだ。紹介しているように、自治体の一部が義務教育の無償を実現しているのが例外的にあるくらい。
それにしても、義務教育で生活できなくなるって、一体どういう話なんでしょうか。


2014/4/2 「ふしぎな友だち関係」とか

月曜日、起きてすぐ洗濯したんだけど、寝起きでぼんやりしてたせいか洗剤を入れずに水(うちはお湯が出ない)だけで洗濯機を回していた。
「しまった!こんなこと、生まれて初めてやっちまった!」と洗濯が終わってから気づいたが、仕方ないのでそのまま干した。でも、見た感じ、汚れは落ちているようだ。
しかし、今日、シャツを着てると、数時間で汗のにおいが立ちこめてきた。このようにして、洗剤を入れるのはやっぱり意味があるんだと初めてわかりました。

朝日新聞4月1日夕刊の路上生活者襲撃のその後。 
朝日新聞の神田誠司記者の取材に答えたもの。ウェブでは全文読めませんが、全体も短い記事です。

雑誌「ちいさいなかま」5月号に「ふしぎな友だち関係」という文章を出してます。小学校から高校までの友だち何人かについて、すべてイニシャルで書いたもの。
これについて、文中で触れた小学校からの友だちのEに原稿を見せて「考えてみれば、なかなか珍しい話だよね」とメールしたら、「間違いなく、宝くじ一億円当てるより希少価値(^^)」と返信が来た。
確かにそうかも。


2014/4/1 「失われゆく〃居場所〃〜大阪・揺れる子どもの家事業」

ぼくが26年前から関わっている山王こどもセンターの様子が、4月2日(水) 20:00 〜20:29 Eテレ(教育テレビ)で放映されます。
シリーズ 子どもクライシス 第2回「失われゆく“居場所”」

橋下市長の決定で今年度をもって廃止になる「子どもの家事業」がテーマの一つです。
こちらは「子どもの家事業」について雑誌に書いたもの(ファイルが重い!)

以下、山王こどもセンターからのメールを転送。

3月3日から1週間、NHK教育テレビ「ハートネットTV」という番組がこどもセンターを取材していました。
内容は“社会がこどもをどう支えるか”ということに焦点を当てており、こどもたちの居場所であるこどもセンターが紹介されます。
よろしければ、ご覧下さい
【放送予定日時】
4月2日(水) 20:00 〜20:29 Eテレ(教育テレビ)・全国放送
(再放送は翌週9日、午後1時5分から)
【番組タイトル】
『ハートネットTV』「失われゆく居場所 〜大阪・揺れる子どもの家事業」

【番組概要】
 大阪・西成区の下町で50年にわたり、地域の子どもの成長を見守ってきた山王こどもセンター。大阪市の子どもの家事業から補助金を受け、利用料は原則無料。
 障がい児と健常児が共に支えあう施設では、自立をめざした子ども向け料理教室や、子どもによる野宿生活者の支援活動など、貧困の現実を直視する独自のカリキュラムを充実させてきました。
 深刻ないじめや不登校など、問題を抱えた子どもの駆け込み寺となってきたセンターが、いま深刻な危機に直面しています。
 大阪市が巨額の財政赤字削減のため、子どもの家事業を廃止することにしたのです。
 センターを唯一のよりどころとする子どもたちには、不安と動揺が広がっています。
 子どもたちの居場所を守るために奔走するスタッフや子どもたちの苦闘の日々に密着しました。


2014/3/20 梅田野宿者襲撃殺人事件の判決、そして襲撃の詳細について (30日書き足し・書き換え)

(以下、判決当日の20日に急いで書いたけど、いくつか間違いがあったり(友だちからも誤りの指摘があった)、そもそも読みにくかったりしたので、段落を分けるとかしてあらためて書き直した。)

2012年10月に大阪駅で起こった野宿襲撃事件の判決が今日、20日に下りた。

この事件を報道で知り、直後に現場で被害者、目撃者から聞き取りを行なった。そして、襲撃事件を考える実行委員会を作り、事件を考えるシンポジウムを2回行ない、大阪府教育委員会、市教委と意見交換を行なうなどの活動を続けてきた(現在も活動中)。
事件後1年以上たち、2014年2月から裁判員裁判として公判が始まった。
この裁判のしばらく前、少年たちの弁護団から、襲撃する少年たちの問題や襲撃の社会的背景について話をしてほしいと言われ、野宿者襲撃の実態、襲撃する少年たちの背景(いじめや自傷行為との関連)、学校での授業の意義などについて話した。また、少年たちにぼくの書いた『おっちゃん、なんで外で寝なあかんの?―こども夜回りと「ホームレス」の人たち』が差し入れられ、彼らがそれを読んだということも聞いた。
その後、弁護側から裁判での出廷を求められた。弁護団に話したような、野宿者襲撃事件の背景について証言してほしい、という内容だ。
野宿者支援をしている立場なので、加害者の弁護側の証人として出廷・証言することはどうなんだろうと考えた。そんなことをしたら、「加害者の立場に立って応援するのか」という批判もされそうだ。しかし、「襲撃を止めるためには襲撃のメカニズムを理解しなければならない、戦争を止めるためには戦争が起こるメカニズムを理解しなければならないように。そして、『理解』することは『共感』することではない。」「加害者を擁護するのではなく、野宿者襲撃を社会が止めるための理解に寄与するためなら意味がある」と判断して承諾した。
だが、ぼくの証人申請は裁判長から却下になったため、裁判への出廷はなくなった。しかし、裁判が終わった今から振り返って、裁判官のこの判断は誤りだったと思う。(なお、この裁判の裁判長は、大阪地検特捜部の捜査資料改ざん・隠蔽事件やペルー人男性の7才の少女への殺人・強制わいせつ致死事件などを担当している)。
また、何人かの母親は、弁護人とぼくを通して「こども夜まわり」に参加したいと申し入れ、山王こどもセンターの夜回りに参加してこどもたちと夜まわりをした。その経験を、1人の母親は鑑別所の少年に伝えたという。
裁判が始まると、可能な限り傍聴を続けてきた。裁判は4人の少年を同時に扱うために長時間になり、日によっては朝10時から夕方6時前までということもあった。あとで触れるように、内容が非常に重く深刻なため、連日出ていた裁判員の負担は大変なものだっただろう。傍聴しているぼくたちも内容の深刻さにショックを受け、疲労困憊させられた。
裁判の内容は、「家族、本人などによる少年たちの生育歴」「検察による事件の詳細」「冨松さんを解剖した医師の証言」「本人、家族と面会した鑑定人の証言」が主なものだ。
公判で検察は全員に求刑・懲役5年以上10年以下を求め、4人は暴行の事実を認めたが、「殺すつもりはなかった」と殺意を否認し、弁護側も「保護処分が相当」と主張した。今日の判決は、傷害致死罪を適用し、2人に懲役5年以上8年以下、1人に懲役5年以上7年以下、残りの1人に懲役3年6月以上5年以下の不定期刑となった。
公判終了後、MBSテレビ『VOICE』のインタビューを受け、裁判の問題点いくつかについて話した(その番組は見てない)。あらためて、ここで裁判の問題についていくつか触れる。

この裁判の意義
まず、野宿者襲撃について、これほど多くの情報が裁判で明らかにされたのは非常に珍しい。
野宿者襲撃の多くは10代の少年グループによって起こされるが、従来の少年法では、こうした事件が傍聴人のいる法廷で裁かれることは、ほとんどありえなかった。
だが、少年法改正によって、14才、15才でも家庭裁判所が刑事裁判にまわすことが可能になり、16才以上では重大事件をおこした場合、刑事裁判にまわすのが原則になった。この結果、襲撃事件当時全員16才だった少年たちが裁判員裁判で裁かれるという結果になった。ぼくは少年法「改正」に反対だが、襲撃の詳細や少年たちの情報を知り得たこと自体は有益だ(ありがたい)と感じている。今までは、深刻な襲撃事件が起こっても、ホントに「何もわからない」ままだったからだ。
なお、事件の詳細でわかるように、この裁判の4人の少年は野宿者襲撃について当初必ずしも積極的なメンバーではなかった。もともと12人のグループがいて、一部の少年たちが野宿者襲撃を主導していた。それがしだいに過激化し、最終的に14日に冨松さん殺害に至ったが、たまたま14日にいたのがこの4人だったということだ。その意味で、事件の全貌はまだまだ明らかになっていない。
なお、この裁判はマスコミによってほとんど報道されなかった。裁判初日と判決日にある程度の記者が来た程度で、ほとんどの日程については記者による傍聴がなかった。事件内容を報道する気が最初からない、という印象だ。事件の深刻さと、後で触れる社会的に解決すべき差別事件としての意味を考えると、このメディアの無関心は異様ではないかと思う。

襲撃はなぜ起こったのか―「仲間と一緒にいたかった」から?
裁判によって最も明らかにして欲しいのは、「なぜこのような残虐な連続襲撃が16才の少年たちによって野宿者に対して行なわれたのか」「このような事件を繰り返さないために何が必要なのか」ということだ。この裁判では、それについて、検察・弁護人・裁判官の誰からもほとんど解答が示されなかった。
たとえば、判決では「仲間と遊びたい」「面白半分」に襲撃したとしたが、これはほとんど何も言っていない。「仲間と遊びたい」と「面白半分」にふざけあったりゲームをしたりする少年は大勢いるだろう。だが、それがなぜ野宿者への襲撃につながるのか、まったく理解できないからだ。
裁判のかなりの時間は、少年本人、家族への証人尋問によって少年たちの生育歴の詳細を明らかにすることに使われた。これを詳しく書くと、小さい本一冊くらいになってしまうし、そもそも、あまりに個人的な内容なので、ここでは触れない(府教委との意見交換や集会の報告などではある程度話しているが)。
4人の環境はそれぞれ違うが、多くは虐待、いじめ、貧困、育児放棄など、非常に深刻なものだった。弁護人や鑑定人が強調したように、こうした生育歴が少年たちに深い傷を残し、人との関係で常に不安や不信を持ち、信頼感を持って本音を話し合う人間関係を持つことができなくなったということは疑えないと思う。
少年たちは4人とも公立高校を退学し、2人は仕事をしていない状態だった。グループはもともと同じ中学だった12人ほどがいたが、その多くが「仕事がなく、学校に行っていない」状態だった。グループは、彼らが言っていたように「本音では話せない、表面的なつきあい」「仲間の顔色や空気を読みすぎていた」状態だった。家にも学校にも職場にも居場所がなかった少年たちが集まり唯一の居場所を作ったが、それも「仮の居場所」でしかなかったのだ。
鑑定人は4人の少年や両親と面接し、少年たちの生育歴や心理的な問題について詳しく述べた。これについては、直接少年たちと面談した結果のものとして非常に参考になったが、襲撃の要因について、鑑定人は「仲間と一緒にいたかった」という要因を繰り返した他、「普通ではない強い刺激を必要とした」という点を一回だけ述べていた。
確かに、この少年たちに限らず、野宿者襲撃を行なった少年たちには、自分の存在に自信がなく不安なまま、過度に仲間に同調し、絶対に仲間はずれにされないよう衝突しないように友だちの顔色をうかがい続けていることが多い。誰からも相手にされず、世の中全体から孤立してしまうことは、彼らには絶対に避けたいことだからだ。
普通の友だち関係なら、悪いこと、したくないことをみんながしそうになったら、「そんなこと止めよう」と言うだろう。しかし、裁判で少年の一人が言っていたように、「『ノリ悪い』と言われるのはムチャいやだった。顔が腫れるぐらいの暴力なら、ノリ悪いと言われるぐらいなら、行ったほうがいいと思った」。彼らにとって、「仲間はずれ」はどれほど恐ろしいかということを、この発言はよく示している。
その意味で、鑑定人が「仲間と一緒にいたかった」ことを挙げるのは妥当だろう。しかし、裁判でも質問があったように、「仲間と一緒にいたかった」のなら、カラオケに行ったりサッカーをしたりすればよかったのではないかという疑問は当然出る。 
ぼくの「野宿問題の授業」での感想文で、私は野宿者を襲ったりしないけどそうする人の気持ちはわかる、私もその子たちと同じで「人を傷つけなければ、自分の生き場所がない」からだ、と書いた中学2年生がいた。おそらく、野宿者襲撃の要因には、何らかの暴力によってしか解消できないと本人に思わせるような「息苦しさ」「生き場所のなさ」がある。そうした状態にいる場合、こどもたちは常識では考えられない他傷や自傷の暴力を行なうことがある。
例えば、自傷行為を繰り返す人は、「心の傷みを体の傷みに置き換えることで少しだけホッとする」「自分につけた傷によってはじめて自分の存在を実感できる」と言うことがある。それと同じように、野宿者を襲撃する少年たちは、集団による血を見るような暴力、「人間を襲撃する」という常識では考えられない行為によって自分の存在を肯定し実感しようとしているのかもしれない。
自傷する人に対して「自分を傷つけてはいけない」といくら言っても意味があまりない。それと同じように、襲撃する少年たちに「人を傷つけてはいけない」といくら説教しても、それだけではあまり意味はない。自傷、他傷をせざるをえないと本人が感じるような切迫した「生き苦しさ」=「息苦しさ」を解決する必要があるからだ。
しかし、「生き苦しさ」を持つ人が多い中、そうした人がみんな野宿者を襲撃するはずはない。当然、そこには別の要因がある。

野宿者襲撃は差別襲撃だが、裁判はその問題を回避した
裁判で、少年の一人が弁護人から「事件当時、路上生活者についてどう思ってた?」と聞かれ、「公園など、人の遊ぶ所に寝ていて、邪魔な人と思ってた。見下していた」「ホームレスはきたない。殴っていいと思った」と答えている。
「ジャマというのは聞いたことある?」と聞かれ、「聞いたこともあるし、汚いものを見る態度が大人にもあった。母に『仕事をしなかったらあんな人になるんやで』と言われた」と言っている。そう言った母も、その親からそう言われていたという。つまり、長年にわたる野宿者への差別・偏見が社会にあったということだ。明らかに、こうした野宿者への差別意識が少年たちの襲撃の背景にあった。
また、「路上生活者に対してなぜタマゴを投げた?」と聞かれ、彼らは「警察に言われないと思って」「中学生のとき、石を投げたけど、問題にならなかったので」と答えている。彼らが中学生のときに行なった野宿者襲撃を社会が問題にできなかったことが、襲撃のエスカレートを招いたことも明らかだ。
この野宿者襲撃事件は、言うまでもないが野宿者に対する差別襲撃・ヘイトクライムだった(ヘイトクライム(Hate crime)とは、人種、民族、宗教、性的指向などに係る特定の属性を有する個人や集団に対する偏見や憎悪が元で引き起こされる犯罪行為を指す。ウィキペディア)。例えば、在日朝鮮・韓国人に対する襲撃や、障害者や女性に対する襲撃暴行があった場合、事件そのものが差別であり、事件の背景にある差別を究明しなければならないことは明白だろう。
たとえば、京都朝鮮第一初級学校に対する在特会の街宣活動に関する裁判で、京都地裁は「在特会の街宣は人種差別に当たる」として禁止や賠償の司法判断をした。だが、野宿者襲撃に関するこの裁判は、一貫して「差別」にほとんど言及しなかった。最初に言ったように、判決は「仲間と遊びたい」「面白半分」に襲撃したとした。また、検察は「日ごろの欲求不満を解消するため」「ストレス解消のため」とした。これは、事件の内容を考えると非常に奇妙なことだった。
一方、弁護人は少年に対し「本(野宿者についての本)を読んだよね、被害者の調書を聞きましたよね? 今はどう思う?」と聞き、「自分と一緒で家族もいて仕事もしていたんだとわかりました」「当時は?」「わかりませんでした」というやりとりをしている。つまり、弁護人たちは少年たちに対する尋問で、野宿者に対する偏見について当時の彼らの考え方を聞き、それがどのように変わったかを明らかにした。彼らが「反省している」ことを示すためにも、それは必要だったろう。ただ、弁護人も、野宿者への差別を特に事件の焦点として問題にすることは控え続けたと思われる。そこには、「野宿者への差別があるのなら、殺意もあったのではないか」と追究されることを懸念した、という面があったかもしれない。「殺意」の有無が、「殺人」か「傷害致傷」を決める上で決定的なポイントになるからだ。
また、少年たちの証言を聞いていると、1人1人で考え方や深まり方はちがうが、反省は多くの場合は表面的で、自分の身をもって考えることはできていないようだった。それは、少年の1人が「路上生活者には関心がない」「見下していなかった」と言っていたことからも感じられた(「襲撃する対象」としてしか考えない相手を「見下していない」などありえない)。
弁護人の基本的な方針は、少年たちが、たとえば虐待の影響などから精神的に未熟であり、今後の成長に更生を期待すべきだ、というものだったと思う。少年犯罪である限り、それは一面では正しいのだろう。
だが、野宿者への差別は、われわれも含め社会全体として解決しなければならない問題としてある。野宿者へのバッシングや排除などの差別は、主に「成熟」しているはずの大人が意図的に行なっているからだ。人種差別や女性差別と同様、襲撃は社会全体で行なわれている差別の突出した一部としてある。
差別を解消するためには、何が必要だったのだろうか。たとえば、学校などで「野宿問題の授業」が取り組まれたり、本を読む機会があったり、彼らの野宿者に対する偏見を変える機会があれば、こうした事件は起こらなかったかもしれない。神奈川県川崎市で「野宿問題の授業」が全公立校で行なわれた結果、それまで多発していた野宿者襲撃が3分の1程度まで激減したという例はそれを証明している。しかし、大阪ではそうした機会を作ることはできなかった。ぼくたちは繰り返し大阪市、大阪府教育委員会に「年に一度は野宿問題の授業をしてください」と訴えているが、それは依然として実現していない。その意味で、われわれの社会は野宿者差別や襲撃を解決しようとせず放置し続けている。「未熟」な少年たちを断罪すればそれでおしまい、という話ではないのだ。

検察、弁護人の法廷でのエネルギーのかなりは「殺意の有無」の検証に使われた。これによって「傷害致死」か「殺人」かが問われるのだから、そこに焦点が行くのは無理はないかもしれない。だが、「殺意」の定義をめぐり、われわれから見てあまり意味のない神学的論争が行なわれたという気がする。問題は、なぜ特に野宿者についてあれほど暴力がエスカレートし、常識的に見れば「死ぬに決まってるだろ」としか思えない激しく執拗な暴力を行なったのか、ということにある。それに較べて、「殺意」の定義の問題はほとんど意味のないものだった。これが判決の無内容につながっている。
この裁判は、少年たちの生育歴と襲撃の詳細、特に後で引用するように、被害者の証言など、多くの情報を与えてくれたが、「なぜこのような残虐な連続襲撃が16才の少年たちによって野宿者に対して行なわれたのか」「このような事件を繰り返さないために何が必要なのか」については何も示さなかった。これは、裁判が事件を通して事件の問題と解決の方向を示すという社会的役割を果たせなかったということだ。裁判ができないなら、それはわれわれ自身が行なわなければならないだろう。(現在、この事件と裁判の問題を問う集会を実行委として企画している)。

裁判で報告された事件の詳細
(以下の報告はすべて法廷でリアルタイムで書き取ったメモによるので、言葉遣いなど、細かい点で間違いがあるかもしれない。また、I、O、H、Nの実名はすべて判明している―証言者や弁護人がうっかり「○○君は」などと言ってしまうため。また、他の少年たちや被害者は実名で呼ばれていた―が、ここでは加害者、被害者ともに明記しない。なお、イニシャルは必ずしも実名の頭文字に一致しない。)

I、O、H、N、いずれも当時16才(高校中退)が出廷。彼らは同じ大阪市立中学の出身。
事件は、「小学校への不法侵入」「通行人への暴行・恐喝」「野宿者襲撃事件」の3種、12件。いずれも2012年6月から10月にかけての事件。

▼2012年8月31日、東淀川区で元同級生に「給料を渡せ」と恐喝し、19万円の現金などを脅し取った。
▼8月、三重県の小学校に不法侵入。
▼8月、電車内での寝転んだ態度を注意された31才の男性を車内で暴行、立花駅で降ろし、駐車場内で顔面を殴った。
▼9月、62才の男性に因縁をつけ、橋の上で蹴りなどの暴行。
▼53才の男性に因縁をつけ、蹴る殴るの暴行。2週間の怪我を負わせる。
▼元同級生に「なんで電話に出ない」と呼び出し、河川敷きで殴る蹴るの暴行。

少年たちの生育歴(弁護人と鑑定人による)
(すべて省略)

野宿者襲撃の内容(この襲撃のいくつかは彼ら自身によって撮影されており、その動画を元に報告された)

もともと同じ大阪市立中学の12人のグループがいた。
以前、淀川の野宿者にタマゴを投げつけ、ゴルフクラブを振り回され反撃されたことがある。
高1か中3のとき、カートを引いている野宿者を見て、Rが「蹴ったらおもしろいんちゃう?」と言い、みんなが「やれば」と言い、背中を蹴ったことがある。
2012年夏までグループで遊んでいた。コンビニで立ち読み、おしゃべり、音楽を聴くなど。N「集団は学校に行ってない、仕事してない少年が集まった感じ」。
夏にI加入。そのころから、N「やることがきつくなった」。無銭飲食、万引き、無賃乗車、カゴダッシュ、恐喝などを行なう。
2012年夏からI、O、N、H、Rらで襲撃を開始。淀川河川敷でタマゴをぶつけるというもの。これはKが言い出した。
8月のタマゴ投げつけについて
O「最初は酔っ払いに飲み物をかけたらおもしろいと話したが、近くに交番があって、止めた。それから、淀川のホームレスにタマゴを投げに行こうという話になった。投げたら追っかけられた。逃げる時は楽しかった。」
(弁護人)野宿者に対してなぜタマゴを投げた?
O「警察に言われないと思って」「中学生のとき、石を投げたけど、問題にならなかったので」

2012年9月ごろから、新大阪での襲撃を開始。I、O、H、R、Aが参加した。
Oがまず背中を蹴った。O「それからみんなで顔やお腹を蹴ったり殴ったり。30秒ぐらい。タマゴを投げたときの方が、追っかけられて楽しかった。」

次の日に再度襲撃。I、O、N、H、A、Y、T。
エスカレーターの階段で寝ていた人を見つけ、H、エスカレーターの手すりに乗って防犯カメラに軍手をかぶせる。
O、顔を殴る。N、I、H、腰を蹴る。Aが上のところから飛び降りて顔を踏みつけた。その人は動けなくなった。
新大阪でも梅田でもHが軍手を用意していた。「相談して軍手を用意していた」。H「ホームレスは接触したくないので軍手を使った。汚いので」。カバンを持っているHがライフで軍手をパクってきた(何人かはちがう軍手を使っていた)。

10月10日
東淀川のコンビニで夜に集まっていたが、「梅田やばい、こじきいっぱいおる。しばきに行こう」という話から梅田への襲撃が始まる。
10月10日〜13日、4日連続で深夜に襲撃を繰り返す。東淀川から自転車で移動。
10日は2人を襲撃。11日は3人ほどを襲撃。
10月11日は、I、O、N、H、A、Y、Tで襲撃。

13日の襲撃
Kの証言
〃10月13日午前1時、Kの自宅に電話が入り、IかOから「ホームレスをしばきに行こう」と誘われる。
防犯カメラから身許が割れるのを防ぐためキャップ帽、蹴るためのワーキングシューズを着用。2時すぎ、家を出る。
この日はI、O、NとKで参加。「しばく気まんまん」だった。軍手を渡され、「本格的やなあ、証拠を残さないということだ」と思った。「カメラのない、人のいないところでやる。ポリは自転車ないから逃げられる」と話していた。
梅田で野宿者を見つけた。「こいつしばこうや」。踏みつけるように、頭と腰を踏み続けた。「う、あ」といううめき声がした。I「やばい」。誰かに見つけられたと思い、逃走した。
梅田の別の場所に移動すると、5〜6人が野宿していた。「めっちゃおるやん」〃

13日午前3時35分、富松さんを発見。冨松さんはダンボールをかぶって寝ていた。
OとN、頭を殴る。腹に蹴りを入れる。富松さんを見かけた通行人が10月13日4時27分、「殴られていた」と110番通報。
警察がきたとき、富松さんが座り、そばに通報者の男性がいた。富松さんは血がまじった唾液をたらしていた。「寝ていたので何もわからない。殴られたかもわからない。犯人もわからない」
救急車が来たが、富松さんは「行きません、金がないから」と言った。切り傷にガーゼをあてて、救急車は引き上げた。
被害届を出すことも拒み、富松さんは立ち去った。

13日4時7分、ABCマートで防犯カメラのないところ選んだ上で、Uさん58才を襲う。
O、枕のバッグを蹴る。他3人もいっせいに蹴り始める。
I、土のう袋を投げつける。Nも土のう袋を投げつけた。Uさんは気絶する。
Uさんの医師の診断は、骨折などで入院加療1ヶ月。11月15日まで入院。

Uさんの病院での警察への証言
「10年前から野宿している。地元の埼玉などでパチンコ店の店員などをしていた。四十代後半から仕事がなくなり、野宿に。日雇労働などですごしてきた。飯場に行ったこともある。
去年の5月、関西へ来て、京都で野宿した。日雇労働の仕事もないので、大阪に行き、11月から西成、浪速区、大阪駅などで野宿していた。時々日雇に行っていた。
店舗の前では寝ない、通行人の通るところでは寝ないように気を配っていた。「人に迷惑をかけない」ことを常に考えてきた。
イングスで、12日の夜10時過ぎに屋根のない、植木の近くで寝始めた。
13日になった深夜、枕代わりのバッグを蹴られ、目が覚めた。
3〜4人の男がいて、何かまくしたてて因縁をつけていた。頭部に衝撃。その後のことは何もわからない。背中、顔、腰に激痛があった。寝袋や靴も置いて逃げた。
それから曾根崎警察に行き、被害を話した。そこから119番通報され、入院した。」

10月14日
I「Nが襲撃を言い出した。Nはバイト先でトラブルがあったようだと思う。」
I、O、N、Hで梅田へ。

14日午前2時43分、阪急三番館の歩道の植え込みの奥で野宿していたHさん80才に殴る蹴るの襲撃。Oがその様子をスマホで撮影する。
20〜30秒、Nが顔を蹴る、踏む。悲鳴をあげ気絶。少年たちは笑いながら「死んだ」「マジおもしろい」と言い合う。
脳挫傷、くも膜下出血、皮下出血なとで「2〜3週間の入院加療が必要」と診断されたが、本人の強い希望で10月15日に退院している。

Hさんの病院での警察の聞き取り。
「きのう14日、ボコボコに足蹴りにされた。痛みと恐怖で逃げ出し、119番通報され入院した。
土工として働いてきた。家族などの身よりはない。働けなくなったため、去年の10月から野宿している。扇町公園などの炊き出しがあるので梅田で野宿していた。
きのうは11時頃から寝ていた。いきなり背中に激痛があった。顔面、頭、体を何か物でなぐられる痛みだった。靴なのだと思う。目を開けると、誰もいなくなっていた。
背中に激痛があり、血が飛び散っていた。「また来るかも」と恐怖があり、逃げ出した。
別の場所で寝ていたところ、誰かが119番通報した。」

2時53分、Sさん73才を襲撃。
Sさんは阪急3番街フランフランの北側歩道で野宿していた。寝ていると、「おっさん起きんか」と怒鳴り声が聞こえ、Nが4回蹴って、Sさんは「わかった」と言った。
少年は「謝れや」と言い、Sさんが「すみません」と言うと、「すみませんでした、やろ」と言って暴行を続けた。Nは20回踏みつけた。Sさんが声を出すと、「何しゃべっとんのや」と言い、その後、Sさんは悲鳴をあげた。Hは20発こぶしでパンチを連発(1秒に4回殴った)。Sさんは顔をガードしていたが出血した。
Sさんは暴行された後起き上がり、曽根崎警察署に行き、救急車を呼んでもらい入院した。全治3週間だったが、2日後にSさんが退院を希望され退院。
襲撃のようすをOがHのケータイで録画していた。「あとで見て楽しむため」。

午前3時ごろ、富松さんを見つける。
OがNに「こいつ、きのうのヤツやん?」「そうやな」。
殴る格好をして威嚇し、「あん、なんだよ。めっちゃ臭い」。冨松さん、上半身起こす。
Nが上半身と顔を殴った。
富松さんは「助けて、助けて」と声を上げる。
H「『助けて』と言った時、富松さんは立ち上がろうとして、蹴られて、それから顔をガードしていた」。
Oは横たわった富松さんの頭部と背中を蹴る。
OとNとIの3人で蹴る。Nは腰を10回蹴る。
富松さんは右を下に半身の姿勢になった。
Iは飛びながらダンボール越しに頭部を10回踏みつける。
富松さんは意識を失う。
O、幅跳びのようにジャンプして頭部を踏みつける(靴底文様の皮下出血が起こる)。
N、支柱に手をかけて4回頭を踏みつける(靴底文様の皮下出血が起こる)。
N、尻蹴る。
少年たちは「失神してる」と言い合う。
撮影していたHがNに代わり、H4回尻を蹴る。
富松さんはいびきをかき始める。
H「いびきをかいているので、起こしてみようという話になった」
Oは富松さんをあおむけにして殴り、あごを踏みつける。
「死んだんちゃう?」と笑いあう。
その後、通行人が富松さんを発見し、119番通報。救急車が到着した時点で、富松さんは心肺停止の状態だった。搬送されるが、くも膜下出血で3時55分、死亡。

10月15日に富松さんを解剖した医師の証言。
「頭部に打撃が集中していた。脾臓にも損傷がある。側頭部、顔部の皮下出血、筋肉内出血、くも膜下出血。高度の脳浮腫。
死因は頭部外傷によるくも膜下出血。頭部が揺れ、脳の血管が切れ、脳浮腫により脳が圧迫され、呼吸機能、循環機能が阻害されたと考えられる。小脳の出血が致命的だったと考えられる。
富松さんの頭部には、少年たちの靴底の文様状の皮下出血がいくつも見られた。これはかなり珍しい現象で、相当に強い打撃だったと考えられる。」

富松さんは中学卒業後、大阪の印刷会社で勤めた。30歳ごろ不動産会社に勤め、その後、不動産会社を経営。60歳ぐらいで会社がなくなる。3年ほど前から、兄弟に連絡がなくなっていた。

午前3時12分、Yさん46才に襲撃。Iが「自転車でホームレスひいて帰ろうや」と言ったことから。
Yさんは事件の数か月前から野宿していた。阪急梅田のロータリーで野宿していたところ、怒鳴り声で「起きろや。なんでそこでねてんねん。起きろや」と少年たちに言われた。足を自転車でOがひいた。何度か背中を蹴った。I「通行人がめっちゃ見てんで」。更に2度蹴った。30代ぐらいの男性が「お前ら何してんねん」と言い、Iが「通報されるぞ。はようせい」と言ったあと、最後にまた蹴ってから逃げた。
男性はケータイで通報しながら追いかけ、また引き返していてYさんに「大丈夫か」と尋ね、警察を呼んだ。

H「次の日の夕方まで寝ていた。起きて、みんなで遊んだ。Hさん襲撃の動画を見た。「これ一番強烈やな」などと話した。15日、富松さん死亡のニュースを見る。
「あんなんで死ぬんや」と思った。「もっとも激しい暴行も新大阪でしたのに」
みんなで相談。I「別に大丈夫やろ」で終わり。みんな強がっていた。
自首は考えたけど、みんなの話に出なかった。家族にも話さず。それ以降は襲撃暴行などはせず。「したらやばい」と思った。「殴って死んだ、そういうのはやばい」
10月31日強盗致傷で逮捕。当初から殺人についても聞かれた。」


2013/11/2 「オーブンで焼いた電気カミソリ」の写真とか

たまには書かないと、「入院してるの?」とか思われるようだ。
10月と11月はシンポジウムや授業、講演が比較的多く、あちこち行っている今日この頃ですが、
この間の夜、電気カミソリ(シェーバー)を洗って、乾かしておく場所がなかったので、とりあえずオーブントースターの中に入れて置いた。
翌日、パンを焼くとき、電気カミソリの本体を取り出してパンを入れ、「250℃・5分」設定でパンをこんがり焼いた。そしてオーブンを開けると、下のように電気カミソリの外刃が無残にドロドロに溶けて湯気を上げていた。そうだ、本体は取り出したけど、外刃は出してなかった!



刃の部分はなんとか取り出したが、ブラスチックは完全にくっついちゃってもう取り出せない。おのれの不注意を呪いながら、ブラスチックの匂いが着いたパンを頂きました。
幸い、網は以前のオーブンの物を保存していたので、オーブントースターは買い換えずに済んだ。しかし、電気カミソリは即日、買い換えとなりました。
ま、この電気カミソリも2年使ったから十分かなあ…



西宮今津高校で全校生徒に話をしたあと、図書館に案内していただくと、写真のようなコーナーがセットしてあった(ぼくが関わった本が6冊入ってる)。感心して、写真を撮らせていただきました。
翌日、別の高校に授業に行くと、話のあと、担当の先生が「質問したい、話をしたいという人は、生田さんがしばらくいるので、応接室に来て下さい」とアナウンスした。待ってると、生徒が6人来てくれた。
「親から野宿の人についてこう言われた」「『二人のひろし』の話を聞いて、こういうことを考えた」といろいろな話をしてくれて、すごく興味深かった。そのうち3人ほどは、山王こどもセンターの「こども夜まわり」に来てくれるそうだ。
学校によって、授業以外に工夫してくれると、あとの展開が広がっておもしろいです。

▼音楽配信サービスの「SOUNDCLOUD」で弾いた曲をアップしているけど、27日にアップしたユーミンの「春よ、来い」(再録)は、5日間に50か国で聴かれていた。
再生回数が多い順に、United States, Japan, France, Indonesia, Canada, Germany, Philippines, Malaysia, Taiwan (ROC), Mongolia, Mexico, Brazil, Korea Republic of, United Kingdom, Thailand, Colombia, Russian Federation, Spain, Netherlands, Viet Nam, United Arab Emirates, Hong Kong, Peru, Ireland, Romania, Turkey, Italy, India, Norway, Singapore, Poland, Venezuela, Czech Republic, Chile, Sweden, Serbia, Ukraine, Australia, Egypt, Portugal, Argentina, Georgia, Greece, Israel, Iraq, Latvia,  Kazakhstan, Lithuania, Belgium, Austria.

武満徹ならともかく、ユーミンで50ヶ国! 同じ日にアップしたバッハの「音楽の捧げ物」の「3声のリチェルカーレ」も38ヶ国で聴かれていたけど、なんでこんなにあちこちで聴かれるんだろう。
ネットは「世界に開かれている」けど、日本語の文章はなんだかんだ言っても日本でしか読まれない。だが、音楽は文字通り世界中で聴かれる。こんな経験は今までないので、なかなか興味深いです。


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