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2013/9/30 月刊「保育情報」・SOUNDCLOUD

月刊「保育情報」9月号「巻頭随筆」の「大阪市『子どもの家事業』廃止問題を問い続ける」を書いてます。
「子どもの家事業」の予算は今年度までついてるけど、来年度からは廃止が予告されている。橋本徹市長への要望書提出と、7月23日のシンポジウムなどについて書いてます。
最後に書いたように、「大阪市は、「子どもの家事業」廃止で総計5000万円が節約できるとしています。しかし、「子どもの家事業」廃止は、社会が自らの夢や目標を否定するもののように思えてならない」ということです。

弾いた曲をアップするのに音楽配信サービスの「SOUNDCLOUD」を使っているけど、これはアップした曲がどこの国で聴かれているのか全部わかるようになっている。例えば、一番最近アップした武満徹の「Raim Dreaming」は、最初の一週間のうちに20数カ国で聴かれていた(数はそんなに多くないけど)。音楽は世界中で聴かれるので、それはちょっとおもしろい。
「SOUNDCLOUD」では5トラックを「スポットライト」として一番上に並べることができるので、最近挙げてみた。
1・「ゴルトベルク変奏曲のアリア」(チェンバロ)
繰り返しに関する実験として。全曲をこうして弾くとおもしろいと思う。
2・「Raim Dreaming」(チェンバロ)
武満徹の鍵盤曲の中でも特に多くの人を惹きつける曲では?
3・「すばらしい日々」
弾き直した方。ピアノソロにアレンジしても聴き応えがあります。
4・「ピアノフォリオ
吉松隆のピアノ曲で最もすばらしいと思う。
5・「アヴェ・マリア(カッチーニ・ヴァヴィロフ)
一手の曲から一つ。メロディが美しいです。


2013/9/13 GPS・雑感いろいろ

イギリス旅行中、GPSがついたタブレットを買って持って行ったけど、予想通りに役立ってくれた。
そもそもが方向オンチで、大阪の市内でもよく道がわからなくなって、あちこちさまよって途方に暮れている。行ったことのない国だと、迷うと当然もっとややこしい話になる。地図を持って行けばなんとかなりそうだが、ぼくは大阪市内で地図を見ててもたまに迷子になるのだ。
ロンドンでは、あちらでお世話になった高尾さんに連れていただいて、(一定料金で買うと、決まった日数、地下鉄・バスが使い放題の)オイスターカードを活用してバスや地下鉄を使ったが、歩いて移動するとき、GPS+グーグルマップはやはり効いた。
たとえば、ラッセルスクエア駅を降りて大英博物館に行き、そこから歩いてナショナル・ギャラリーに行き、そこからグリーンパークまで移動した。そこそこの距離だが、GPSを見ると、地図上で自分がどう移動しているかが全部わかる。知らない道路をまったく迷わずに移動することができて、「これは便利!」と思った。いまでは、大阪市内の知らない場所を歩くときも手放せません。
最初は、それこそ「ガーミン」とか山歩きで使うGPS専用機も考えたけど、一般人にはタブレットのGPSで十分かな。
なお、通信用のsimカードは、現地の通信会社「Three」で買った(ヒースロー空港でも自動販売機で売っている。ただし、空港のぼったくり価格)。一週間しかいないのに20ポンドかかったが、これはまあ仕方ないか。

6日のところで、精神的な苦痛で不眠、食欲減退の上、下痢までしばらく続いたと書いた。それであらためて考えたけど、ぼくは野宿者襲撃問題に関連して、「自分を傷つけないと自分の生き場所がない」例として、リストカットなどの自傷行為を挙げることがある。そこで、「心の傷を体の傷で置き換える」「心の痛みを体の痛みでまぎらわせる」という言い方をするが、考えたのは、精神的な問題で下痢(腹痛)を起こすのも、「心の痛みを体の痛みでまぎらわせる(散らせる)」一つの例なんだ、ということだ。
つまり、「心の痛み」だけだと精神がやられてしまうので、「体の痛み」に分散して自分の存在を守る。実際、腹痛を起こすと、その肉体的痛みに対応するのに精一杯になって、精神状態はむしろ、いくらか楽になる(腹痛もあんまりひどくなると、今度は心身共にやられてしまうが。これは自傷についても同じだ)。そういう点では、「意識しないで置き換える」か「意識的に置き換える(傷つける)か」のちがいだけで、「自傷」と「腹痛」はそんなに変わらない。これに気づいて、自傷行為を自分の問題としてようやく理解できた(気づくのが遅すぎるんだが)。
もう少し言えば、掃除専用の歯ブラシをうっかり持って行って歯を磨いてお腹を壊すのも、「意識しないで」自傷する例と言えなくもないだろうか。あるいは、自転車から落ちてケガをするのはどうだろうか。どこかで線引きはできるかもしれないが、自傷とケガ・病気の関係はそう単純ではないかもしれない。
もう一つ考えたのが、「心の傷」という言い方で言えば、「生きること」そのものが外傷的な出来事ではないか、ということだ。外傷(トラウマ)とは、ほとんど耐えがたい経験を指すが、「生きること」はふつうの人にとっては限界を越えたものではないかという気がして仕方がない。事実、ぼくは普通以下に「打たれ弱い」人間なので、耐えていく自信は今のところあまりない。
ソルニットの『災害ユートピア』では、「日常生活はすでに一種の災害であり、実際の災害はわたしたちをそこから解放する」「人々は日常的に苦しみや死を経験するが、通常それは個人的にばらばらに起きている。〃通常〃と〃災害〃の従来型対比では、日常生活に頻発するストレスとそれによる個人的または社会的影響のほうが常に無視されるか、軽視されてきた」とある。
その意味で、「日常生活はすでに一種に外傷であり、災害はわたしたちをそこから解放する」、そして「実際の外傷はわたしたちにそのことを意識化させる」と言えるかもしれない。フロイトは、「ヒステリー研究」から精神分析の創始に至る過程で、当初は重要視した性的虐待の問題を「偽り」だとして、そこから「エディプス・コンプレックス」の提唱に至った。フロイトによるこの「性的虐待の無視」は批判されるべきだが、人間の生の構造そのものに「トラウマ」を発見したことは、事実の一面として鋭かったかもしれない。
ほとんど耐えがたいトラウマであっても、その事実を含む生と和解することが心的外傷からの「回復」の一つの目標だ。ジュディス・ハーマンは『心的外傷と回復』で、治療的関係で作られる「人格の統合性とは死に直面しても人生の価値を肯定しうる能力であり、自己の人生の限界の有限性と人間の条件の悲劇的限界と和解する能力であり、絶望なくして現実がそういうものであることを受容する能力である」と書いているが、これはほぼ人生そのものの目的ではないだろうか。
だが、外傷に苦しむ人すべてがこうした「能力」を持つとは限らないように、人生そのものに対して「絶望」に至る人が多くいるだろう。その意味では、生きている人はみなある意味「サバイバー」と言えなくもない(もちろん、実際の外傷に苦しむ人たちの問題をそれで一般化してはいけないが)。
ハーマンは、「外傷の解消はこれで決定的に終わりということはない。回復に完結はありえない。生存者の生涯を通じて外傷的事件のインパクトはわんわんと心の中をこだまし続けるであろう。回復の一段階においてこれで十分というほど解消した問題も、生存者が発達の新しい段階に入ると再び目を覚ますかもしれない」と言う。「心的外傷と回復」は同時に「心的外傷と反復」であり、われわれはみんな「生」という出来事の中で、インパクトが「わんわんと心の中をこだまし続ける」のに耐え続けなければならないのだろう。
だが、実際の外傷において「事件」だったものは、「生」にとっては何なのだろうか。フロイトによればそれが「エディプス・コンプレックス」であり「去勢」だということになるが、ぼくには別の形で名指しできるような気がする。これについてはしばらく考えてみます。


2013/9/6 不眠・腹痛とイギリス

中学生のころから「持病が腹痛」なので、常々苦労が絶えない。家にいるときはまだいいけど、通学途中とか授業中の腹痛は本当に苦しかったし、一番困るのが電車、とくに急行とかに乗っているときの急な腹痛だ。トイレは車内にないし、下手すると2〜30分ぐらい停車しないので、その間、足踏みしながら死ぬ思いでガマンし続つづけるハメになる。
いつも思うけど、たかだか下痢で、なんであんなに痛くなる必要があるのかな? 「ちょっと痛いな」ぐらいのサインがあればそれで十分だと思うけど。あの痛みは情け容赦ないし、全然動けなくなるじゃないですか。
下痢や腹痛はたいてい「胃腸の弱さ」から来てるんだけど、別の理由で起こることもある。
8月、精神的な苦痛が続き、不眠、食欲減退に悩まされた上、下痢までしばらく続いた。ちょっとでも冷たいものを飲むとたちまち悪化するので、暑さでノドが渇いてもお湯や熱いお茶だけ飲んで耐え続けた。そんな中、宿泊込みの講演の仕事があったので、いつものように歯ブラシとか着替えも持って出た。
講演は無事に終了し(内容はこどもの貧困問題)、翌日、持って来た歯ブラシを使ったら、「あれ? いつもと感触が違うな」となにやら妙な違和感がある。まあ、それは特に気にしないで、その日は友だちの車に乗っけて出かけたんだけど、昼から激烈な下痢が起こって、何度もコンビニのトイレを借りることになった。「悪いものを食べたか?」と思ったが、しかし原因が特に思い当たらない。
そして、翌日、部屋に帰って歯ブラシを戻そうとして、そこにいつもの歯ブラシが置いてあるので、ようやく気がついた。
台所回りで、スポンジでは汚れが取れない場所ってあるじゃないですか。ぼくはそれを専用の歯ブラシで掃除してたんだけど、なぜか、ふだん使う歯ブラシでなく、その掃除専用の歯ブラシを持って行って歯を磨いていたのだ!
原因はわかっても、腹痛は収まらない。なるべくお腹の負担にならないものだけを食べ、お湯や熱いお茶だけ飲んで耐え続けた。困ったのは、8月末からイギリスに行くので、そのままだと下手すると飛行機に乗ることすらできなくなるからだ。それでなくても、海外旅行では、かなりの人が、現地の水だのストレスだのの関係で下痢を起こすと言われている。
そして、27日、お腹に不安を抱えて関西空港からイスタンブール乗り換えで、ロンドンのヒースロー空港に到着した(到着は部屋を出てほぼ24時間後)。滞在中、招いていただいたイギリス在住の高尾慶子さんにたいへんお世話になりました。そして、9月4日、同じ経路で大阪に戻ってきた。幸いにして、腹痛はなんとかなりました。
イギリスでは、ビッグイシュー事務所とかシェルター(日本よりはるかに充実し、人権的にもまともな自立支援センター)などを見て、イギリスのホームレスの人たちとも何人か会ってきた(リストカットしている20歳ぐらいの女性がロンドンの中心部で物乞いをしていた…)。しかし、これらについては、別の場所で書く予定。
大英博物館やナショナル・ギャラリーにも行ってきたけど、ぜひとも行きたかった場所の一つがチャールズ・ディケンズ・ミュージアムだった。ディケンズが数年間暮らした4階建ての家で、ディケンズが使っていた家具や絵画「ディケンズの夢」などがここにある(映画「ヒアアフター」でミュージアムに来たマット・デイモンがこの絵を見ている)。
『大いなる遺産』を中学生のときに読み、原語でも読んで(かなり読みにくい英語)「荒涼館」「二都物語」「クリスマス・キャロル」「デイヴィッド・コパフィールド」を読んだ。テムズ川を初めて見たとき、「これがピップたちがマグウィッチと船で下った川だ」と思った。イギリスに来て、宿願の一つを果たしたという気分でした。


2013/8/6 「子どもに『ホームレス』をどう伝えるか」など

企画してきた「子どもの家事業」シンポジウム(7月13日)や釜ヶ崎での「生活保護切り下げ問題集会」(5月31日)などあったけど、ここでぜんぜん書いてないな…。何かと忙しい今日この頃です。

本のお知らせ。一般社団法人 ホームレス問題の授業づくり全国ネットで企画・制作してきた本ができました。
『子どもに「ホームレス」をどう伝えるか――いじめ・襲撃をなくすために』
教材DVD『「ホームレス」と出会う子どもたち』と共に野宿問題の授業の取り組みに役立つ内容で、巻末には、授業で使える発問例集、教材DVDの付録ガイドブックの襲撃事件略年表の増補版など資料も掲載。
2013年7月23日発売 四六版216ページ 定価 本体1,200円+税 
発行 一般社団法人 ホームレス問題の授業づくり全国ネット 発売 太郎次郎社エディタス
▼もくじ
・はじめに
・高校生へ 「貧困」と「野宿」の社会的背景 生田武志
・教職員へ 「ホームレス」襲撃は、路上の「いじめ」 北村年子
・教員研修資料
・中学生へ 生きててくれてありがとう−襲撃・いじめをなくすために
   北村年子
 (※各稿は、講演をもとに再構成したものです。)
・授業で使える資料集 
 ・学校ですぐ使える!発問例集
   −教材DVD『「ホームレス」と出会う子どもたち』本編を用いた授業の
  発問例集
    対象 小学校高学年
    対象 中学校
    対象 高等学校(公民科【現代社会】)
  野宿者襲撃事件・略年表
  協力支援団体
  ホームレス問題の授業に役立つ参考文献
  新聞記事等
    (新聞社の許可を得て掲載しています)
漫画家・ありむら潜さんの楽しい「カマやん」のパラパラ漫画もついてます!
という内容です。みなさん、よろしく。

「教育」(教育科学研究会編集)8月号に「大阪・西成で何が起こっているのか―「子どもの家事業」の現状」を書いてます。
「子どもの家事業」問題、西成特区構想、いろいろ話題になった教育バウチャーなどについて書いてます。


2013/6/25 学校関係づくめ・原稿と「子どもの家事業」シンポジウム

先週は月、水、木、金曜に和歌山、滋賀、大阪の中学・高校での授業、火曜は京都府立高校の先生の釜ヶ崎フィールドワークと、学校関係の仕事で明け暮れた。(学校ってこの種の授業や講演ができる時期が決まっているらしく、こういう集中が時々起こる)。
中高生に野宿や貧困の現場の問題を伝える仕事は責任がかかる分、いつも緊張する。その半面、精神的に調子のよくない時期には「気合いが入る」だけに、かえって助かるところがある。
授業・講演では「こども夜まわり」の映像をいつも使うけど、学校の一つでは、話を終わると、金髪に龍の絵柄のシャツを着た生徒がやってきて、「こども夜まわりに行ってみたいんですが」と言ってきた。授業をすると、たびたびこういう生徒が現われる。野宿者ネットワークの夜まわりと合同でやっている山王こどもセンターの夜まわりを紹介して、行ってもらった。こういうことがあるたび、「世の中で意味のあることが一つできた」という実感があります。

消費者法ニュース95号」で「多重債務と野宿の問題」という原稿を書いてます。「いちょうの会」20周年での発言を元にした原稿。

「女たちの21世紀」No.74【特集】学ぶことの権利――ジェンダー・階層・エスニシティに「『子どもの家事業』廃止が意味するもの」という原稿を書いてます。
「子どもの家事業」廃止問題については、7月13日に大阪弁護士会館でシンポジウムを行ないます。
チラシをご覧あれ。 


2013/6/19 手首を痛める・大学入試に出る『ルポ 最底辺 不安定就労と野宿』・再びビビリ橋

4週間程前、近くを自転車で走ってて、向こうから来た自転車にぶつかりそうになったので急ブレーキをかけた。そしたら、前輪が完全に停止して自転車もろとも前転、転倒して、右腕を思いっきり打った(対抗の自転車のおっちゃんが「大丈夫か!」と吃驚してた)。
肘がケガでズル剥けで、手首も内出血があって、なかなかの状態だ。その後、高校での教員研修に向かうため、ろくに手当てせずに「イテテテテ」状態で夕方まで過ごした。その後も手首が痛くて物が持てないし、洗い物も全然できない。一番困るのがお風呂で、体の左側が洗えない。
三日経ってもさっぱり治らないので病院に行ったら、レントゲンでは骨折はないという。ただ、手首って細かい骨が多くて、レントゲンでは骨折やヒビがわからないという話だ。そして、4週間たった今でも、抗炎症の薬を塗り、マイクロ波を当てるリハビリに通院する今日この頃です。
しばらく前には左手首を痛めたし、何年か前には、やっぱり自転車から転倒して(ウィリーしたら、前輪にスポークが噛んで前転!)右小指を骨折した。手首とか指とかのケガが多い人のようだ。
まあ、自転車だからこの程度で済んでるんで、もし自動車を運転していたら、きっと何かの人身事故を起こして大変なことになってるんだと思う。いつも、ボーっとしながら自転車こいだり歩いたりしているからなあ。
というわけで、いま再び「1手(片手)のためのピアノ曲」を弾いてます。前は右手で弾いたけど、今度は左手だよ、やれやれ…

▼「赤本」(世界思想教学社)に収録するということで、宮城学院女子大学の今年の入試で使われた『ルポ 最底辺 不安定就労と野宿』について掲載許可を求める書類が届いた。
設問は、本で引用した若い野宿者の聞き取りをもとに、「問題の社会的背景に何があるか説明しなさい」など2問。
大学入試に使っても著者に連絡する義務はないということで、こういうことで「入試に使われてたんだ」とわかることがある。
『ルポ 最底辺 不安定就労と野宿』はよく入試に使われる。高校生のみなさん、損しないと思うからこの本を読みましょう。

2009年3月20日にビビリ橋の譬えについて書いた。多少手直ししながらもう一度書くと、
テレビ朝日の「Qさま!!」の企画の一つに「ビビリ橋」がある。海の上の高さ10mに渡された、長さ15m、幅45pの橋を歩く企画。風が強くてかなり揺れる上、橋にはバナナの皮やらシーソーが置かれていて、ものっ凄く怖い(らしい)。たいがいの人は一歩踏み出すだけで何分もかかって、15m歩ききるのに10分ぐらいかかってしまう。(でも、アンタッチャブルの柴田がスタートと同時に全力疾走し、3秒で渡っていた。あれはすごかった)。
しかし、この橋は、海上すれすれで置かれてたら全然怖くなくて、誰でもあっさり渡れるものらしい。
番組の最後、罰ゲームとして、参加者を目隠しして橋に立たせたことがあった。実際には、クレーンで吊った橋は地上50pぐらいに下ろしている。けれども、出川哲朗とか罰ゲームの参加者は、自分が海上10m以上のところにいると思いこんでいるから、泣きながら橋にしがみついて這い続けていた。あれは笑えた。

こういうことを考えた。われわれは普段、自分がいる橋が地表に置かれていると思っている。だから、日常的に特に恐怖もなく、あっさり渡っていく。しかし、本当は海の上10mに置かれた「ビビリ橋」に立っているのかもしれない。一歩踏み外せば、たちまち落ちて、下手したら死んでしまう。
出川哲郎のように自分が「高さ10mにいる」と感じれば、泣きながら橋にしがみつくか、恐怖にふるえながらのヨチヨチ歩きしかできなくなるだろう。それを見て、周囲の人、つまり自分は地表にいると思い込んでる人たちは、「なにビビってるんだ?」「弱いヤツだ」「なんで普通に歩けないんだ?」と思うだろう。
しかし、考えてみれば、10mだろうが100mだろうがあるいは10pだろうが、橋を落ちないで歩く難しさは、本当は当然ながらまったく変わらない。しかし、「落ちたら怖い」という恐怖が足をすくませる(体にくる)。それは不合理な反応なのか?
けれども、事実として、われわれは「落ちたら死ぬ」橋の上に立っているのではないか。というより、「いつ」かは別として、われわれはみんな「いつか必ず落ちる」橋の上にいるのだ。だとすれば、泣きながら橋にしがみつくか、恐怖にふるえながらヨチヨチ歩きをしている方が、現実をまともに見(てしまっ)た反応を示しているかもしれない。
出川のリアクションは笑えたが、それは笑う側が「地表スレスレにいる」「落ちることはない」と思い込んでいるからだ。しかし、出川の方が実はまともなリアクションを示している可能性はある。
少なくとも、どちらが正しいか決めることは不可能ではないか?
いったん、自分が「高さ10mの橋にいる」と気づいてしまえば、それまでのように平気で(平常心で)歩くことはできなくなる。これは当たり前だ。
しかし、それでもなお「歩く」ことを決断したとすれば、どうするべきなのか。いつまでも橋にしがみついているわけにはいかないとしたら。「落ちれば死ぬ高さの橋にいる」ことを忘れさせて、「地表にいるんだ」と勘違いさせて、平常心を取り戻させることなのか(多くの人はそうさせようとする。時に病院にでクスリを飲ませたりして)。
それとも、極めて困難だとしても、アンタッチャブルの柴田のように、スタートと同時にいきなり全力疾走してしまうことなのか。
多分後者だ。危機は切り抜けるのではなく、直面するしかないと思う。

▼「カフカの階段」など幾つかの比喩を作ったが、ビビリ橋の譬えは、ぼくにとって自分の人生そのものの比喩となっている。いまも「ビビリ橋」がぼくの足下にあって、橋にしがみつくか、恐怖にふるえながらヨチヨチ歩きをしている状態にいる。
2004年6月5日に、「約7年周期でとんでもない苦しみ方をしたあげく、生き方や発想そのものがいわば「モデルチェンジ」するという経験を生まれてからずっと繰り返している」「いつ来るにしても、その度に文字通りに「果てのない苦しみ」、つまり生きるか死ぬかという思いを経験することになる」
と書いた。いままさに、その7年の周期がやってきた。神経をやすりで研がれるような「果てのない苦しみ」にただ耐える日々が続く。その結果、世の中の多くの事に関心が持てなくなっている。それと同時に、「自分の人生をあらためてやり直さなければならない」という切迫感が来ている。
この間、スコセッシの映画『最後の誘惑』を見た。十字架に掛けられたイエスに最後に訪れる悪魔の「最後の誘惑」。「創世記」でアブラハムが神の命じるままイサクを生け贄として殺そうとしたその瞬間「お前が神を恐れる者であることがわかった」と神がアブラハムを祝福したように、十字架で苦しむイエスの前に天使が現われ、天使の導くままイエスは十字架から解放される(旧約聖書の世界観ならそうなるはずだ)。そして、イエスは幼なじみという設定のマグダラのマリアと結ばれ、その後、甦ったラザロの姉と子どもを作り平凡で幸福な家庭を築く。しかし、その天使が悪魔だと最後に理解したイエスは、その「最後の誘惑」を退けて十字架での痛ましい死を改めて選ぶ。
この映画は1988年に公開されたとき、教会から「冒涜」だとして激しい批判を浴びたそうだ。だが、スコセッシが言うように「神であり人である」イエスの人間の部分に焦点を当てたこの作品は、むしろイエスへの共感と信仰を強めるだろう。一つは、映画での十字架の張りつけ方がかなりリアルで、見ていて胸が苦しくなる。われわれは「十字架のイエス」を絵画や彫刻でよく見ているが、実際に手足を釘で十字架に打ち付けられて吊り下げられる状態は、拷問の中でも最高度に苦しいものかもしれない。
ただ、映画を見ながら、「一日十字架上で苦しむのと、その後何十年、精神的に果ての無い苦しみを味わい続けるのと、どっちが苦しいんだろう」と考えた。もちろん、33才で虐殺されるより生き延びる方がいいのは決まっている。だが、苦痛の量としては、較べようのない話だが、もしかしたら「いい勝負」なのではないだろうか。
「最後の誘惑」のイエスは、「ヨハネ福音書」に基づいて「成し遂げられた」と最後に言う。だが、現実のイエスは、マルコ・マタイ福音書が伝えるように「我が神、我が神、なぜ私を見捨てたのですか」と叫んだのだろう。それは、どう考えても絶望そのものの死だ。だが、本人にとって絶望的な死が、他の人々にとって、その後の生そのものを変化させる決定的な意味を持つことがある。キリスト教は、事実、理解できないイエスの死をどう受け止めるかという地点から始まった。イエス自身は絶望の中に死んでいったのかもしれないが、「神の国」は、十字架上のイエスのように、本人がその存在を知ることができない時に、その(いわば)隣に存在するだけなのかもしれない。「隣」が人間であれば、それは「隣人愛」と呼ばれるものになるだろう。
苦しみ続けるとき、昔風に言えば「自分の人生は呪われている」と感じる。「幸せから見放されている」と感じる多くの人が、おそらく同じように思っているだろう。その意味では、特に珍しい話でもなく、「果てのない苦しみ」はよくある話ではある。
こうした苦しみについてぼくが最も身近に感じるのは、カフカを別とすれば、高校1年か2年の時に読んで「ここに自分の将来が描かれている」と思ったヘッセの『荒野の狼』だった。いま読んでも、この小説のイメージと構造に込められたリアリティは、多くの小説の中でも群を抜いていると思う。
激しい苦しみを経てヘッセはあの小説を書いたが、ただ、ぼくはそれが書く物に反映することがあまりない。たとえば、今年は「自立支援」がテーマの原稿を書いてきたが、理論的な論考に個人的な苦しみが反映することはあまりないかもしれない。
思い出すが、ハイデガーが、知り合いがシューベルトの最後のピアノソナタを弾くのを聞いて、感嘆して「哲学にはこんなことは決してできない!」と言ったそうだ。まあ、哲学と音楽ではできることがそもそも違うから、そんな事言っても仕方ないと思うけど、シューベルトの「天国的長さ」(果ての無さ)と「死に至る憂鬱」が一体となった音楽に、ハイデガーが「自分にはできない」という羨望を感じたとしても確かにおかしくはない。
ぼくもシューベルトを聞くと、「自分にはこんなことはできない!」と、あたり前だが思う。ただ、ピアノを弾いてると、自分の苦しみがそこに反映しているのかもと思うことはある。
いま、左手のために編曲されたシューベルトの曲を弾いている。ただ、その演奏に「苦しみがいくらか反映している」と自分が思ったとしても、それが他の人に伝わるかどうかはよくわからないでいる。


2013/5/30 「子どもの家事業」と「慰安婦」「風俗」発言問題

 
下で触れた「子どもの家事業」廃止撤回の申し入れと記者会見は大阪市役所で行なったが、ちょうどその日、橋下市長と韓国人元従軍慰安婦の面会が予定されていた。市役所近辺がそうとうもめていると覚悟して出かけたけど、お二人が「謝罪パフォーマンスを拒否する。市長に会う価値も理由もない」と市長との面会を拒否したため、行ったときは市役所はいつも通りの光景だった。
「慰安婦」「風俗活用」発言について、27日の日本外国特派員協会での記者会見で、イタリア人記者から「飛田遊郭の顧問弁護士をしていたのではないか」と質問され、市長は「事実です」と答えたという。記者から「買春は違法だが?」と聞かれると「違法なことがあれば捜査機関が適正に処罰するし、料理組合自体は違法ではない」と答えたという。日本人フリー記者が「飛田で買春ができることは、ませた中学生なら誰でも知っている」と言ったが、同じ答えをしたらしい。これはどういうこと?
橋下市長はツイッターで、「批判者は、風俗業=売春業=性行為と短絡的に考えているね。日本人は賢いから、性行為に至る前のところで、知恵をこらしたサービスの提供を法律の範囲でやっているよ。そして今の日本の現状からすれば、貧困からそこで働かざるを得ないと言う女性はほぼ皆無。皆自由意思だ。だから積極活用すれば良い」「法律上認められている日本の風俗は買春ではない」など言っていた。
  ぼくは大阪市西成区内の街に25年間住んでいるが、その3丁目はほとんどがその日本最大の遊郭「飛田新地」だ。通りを歩くと、ずらっと並んだお店の入り口に灯りを浴びた女性が座り、「曳き子」の女性が「にいちゃんにいちゃん、ええ子おりまっせ」と呼びかけてくる。現在、その料亭は158軒。「仲居さん」(と呼ぶ)は450人、曳き役の「おばちゃん」が200人(いずれも推定)。
井上理津子の『さいごの色街 飛田』(筑摩書房)は、何人かの「仲居さん」とのやりとりを書き留めて言っている。「話半分で聞くにしても、『好きでこの仕事をやっている』は、あり得ない。男に騙され、捨てられ、お金のために飛田に来た。親きょうだいの貧困のために売られてきた公娼時代と、変わらないではないか。かろうじての違いは、少しは他の世界で仕事をしてから飛田に来ていることだろうか」「彼女たちの中卒率、高校中退率はあまりに高い」。
「飛田で買春ができること」は顧問弁護士でなくても知っているし、今の日本の現状からすれば、「貧困からそこで働かざるを得ないと言う女性はほぼ皆無」なわけがない。飛田遊郭についてはここで書いてますので、関心ある方はどうぞ。また、『さいごの色街 飛田』の後出された杉坂圭介『飛田で生きる〜遊郭経営10年、現在、スカウトマンの告白』も参考になります。
なお、「子どもの家事業」を行なう「山王こどもセンター」はこの「飛田料理組合」から歩いて1分です。
風俗と性暴力の問題については、風俗で働いている人たちの発言が明快だった。
「確かに風俗店は性欲を解消できる場だが、性犯罪は性欲の形を借りた暴力だ。暴力を受け止めるために用意される存在はあってはならないはずで、政治家が堂々と、私たちの体と人権を軽視する発言をしたことに驚いた」(毎日新聞)。〃「わたしたちの仕事は性犯罪の代用品じゃありません」「わたしはデリヘルやそれに類する性風俗では性犯罪の代わりを果たせないと考えております」「『活用』されても暴力は減らないと思います。性犯罪をしたい人は、店で提供されるような性的サービスを受けたいわけではないからです」。性犯罪には暴力や支配欲が密接に関わっている。彼女はそれと風俗を結びつけられては困ると主張している。さらに、犯罪抑止効果という名目を押しつけた挙げ句に「だから風俗嬢は立派」などと言われるのは「日々まっとうな人たちの犠牲となってくれてありがとう」と言われるのと同じだと、不快感を表明している」〃http://exdroid.jp/d/56672/。
確かにそうなんじゃないでしょうか。それにしても、橋下発言を支持する人が結構多いというのが、最近では一番びっくりしたことだ。自分も含め、男性の性の在り方について考えさせられる事件でした(まだ終わってないけど)。
それにしても、「子どもの家事業」問題、「慰安婦」「風俗」発言、人権博物館の補助金廃止、こういう大阪市長のもとで生きて行くのは気が重いです。


2013/5/26 「子どもの家事業」廃止撤回の申し入れ・記者会見
毎日新聞の26日の記事がアップされたので追加。

5月24日、2014年度から学童保育事業に統合される大阪市の「子どもの家」事業事業を継続するように求める要望書を、「こどもの里」「山王こどもセンター」など3施設と大阪弁護士会有志で橋下徹市長に提出し、記者会見を行なった。
「子どもの家事業」問題については、提出した要望書(ワード文書)を見てください。あるいは、『断ち切らないで〜小さき者を守り抜く「子どもの家」の挑戦〜』 をどうぞ(アマゾンでも販売中)
 橋下市長は、「学童保育」と事業内容がある程度重なる「子どもの家事業」は利用料ゼロなので「不公平がある」と言い、「子どもの家事業」を「学童保育」に一本化するとした。
だが、「子どもの家事業」に来る子どもたちには生活保護の家庭など貧困層が多く、「月2万円」の負担を求めることはそもそも不可能だ。また、「小学生以下の幼児」「中学生以上」「障がい児(他校区の子が多い)」は来ることが制度的に不可能になる。 
翌日の朝日新聞の記事。
子どもの家継続 大阪市へ要望書 3施設と弁護士会有志

 2014年度から学童保育事業に統合される大阪市の「子どもの家」事業を展開している市内の3施設と大阪弁護士会有志が24日、方針を撤回し、事業を継続するよう求める要望書を橋下徹市長に提出した。
 昨年7月の「市政改革プラン」で、O〜18歳を対象に無料で子どもの居場所を担ってきた「子どもの家事業」 (28力所、利用者約2千人)が、共働き家庭の児童を対象に月平均2万円を保護者が負担する「学童保育事業」に統合されることが決まった。5千万円の支出削減になるという。
 椚座三千子弁護士は「子どもの家は障害を持つ中高生や、貧困世帯の子どもが多く通う。学童保育では担いきれない部分が多い」と訴えた。3施設の一つ、こどもの里(西成区)の場合、100人の利用登録者のうち、学童保育の対象児童は34人で、統合すれば交付額が500万円減って293万円になるという。
 こどもの里の支援を続けてきた生田武志さんは「25年間に100人の子どもをみてきたが、大学進学はたった5人。こどもの里で、生活保護家庭の世帯分離や奨学金の受け方を教えた。続けることは社会にとって意味がある」と話した。
 (阿久沢悦子)

記事は、「山王こどもセンター」と「こどもの里」がごっちゃになっとりますが、
ぼくが25年間山王こどもセンターに関わって、見てきたこどもは数100人を越えているけど、そのうち、大学に行ったとはっきり分かっているのは2人だけ。そして、この4月は3人が保育士を目指して短大や専門学校に進学した。彼女たちは、山王こどもセンターで育って「保育士になりたい」と思ったそうだ。こどもや若者にとっての社会の中で「こう生きたい」というモデルとしてセンターが機能したわけだ。
ただ、そのうち2人は生活保護の家庭で、進学費用が用意できなかった。世帯分離した上で、貸与型の奨学金を申請したが、一人は保障人となる人が親戚にもいないため、山王こどもセンターの施設長が保証人になった。こういった施設がなければ、こどもたちの夢や目標を支えることすらできなくなってしまう。「子どもの家事業」廃止は、大阪市が自分の首を締めるのと同じだと思う。
7月13日には、シンポジウム「子どもの居場所を考える 大阪市「子どもの家」事業の現状から」を大阪弁護士会で午後1時から行なう。これについては、チラシができ次第、ここでアップする予定。


2013/5/13 入試に出る『ルポ 最底辺 不安定就労と野宿』・ジェズアルドの「聖歌集第2巻」

一橋大学から、「『ルポ 最底辺 不安定就労と野宿』の一部を別添のとおり、日本語(私費外国人選抜)の試験問題として使用させていただきました。本来であれば、ご承諾を得た上で使用させていただくところでございますが、入学試験の性格上事前にご連絡することができなかったことをご了承くださるようお願い申し上げます」というお知らせが、ちくま書房経由で来た。
ここんとこ毎年、大学入試に何かの本が使われるけど、今回は外国人対象。「日雇労働とはどのようなものか」の箇所から、「日雇いという労働形態がある理由を本文の内容を踏まえて説明しなさい」などの設問。
他の問題も「格差社会」がテーマの文章などなので、時勢を反映しているという感じでしょうか。

下でジェズアルドの「Canzon Francese del Principe」の楽譜について触れたけど、最近、ウッド&ヴォーカルコンソート・ベルリンによる「聖歌集第2巻」のCDが出た。ジェズアルドは不倫を疑って妻子を殺害し、後半生は鬱に苦しんだ「殺人貴族」作曲家で、特に不協和音を多用した前衛的マドリガルが有名だ。だが、マドリガルより、比較的伝統的な書法で書かれた宗教曲、特に「聖母マリアのためのモテト」(タリス・スコラーズの録音がある)が素晴らしく、すべての音楽の中でぼくが一番好きな曲の一つになっている。
ところで、ジェズアルドが出版した3つのモテット集のうち、1603年に出版された第2巻はもともとパート譜として別々に出版され、そのうちバス声部と第6声部が紛失し、これまで演奏不可能なままになっていた。
それをジェームズ・ウッドが3年間研究を続けて復元し、世界初録音した。この事情はCDのライナーに詳しいけど、いわば「変!」な書法のジェズアルドの復元なんて無理かなあとも思ってたけど、研究すればするほど、厳格な対位法や模倣書法が使われている事が分かってきて、おそらく問題ない形で復元ができた、と本人は言っている。それがこのCD。わくわくして聞きました。
確かに聞いてみると、「あのジェズアルドの音楽が甦った」という実感が。演奏家の努力による素晴らしい贈り物になってました。


2013/4/18 新聞の盗難と楽譜の発見

前にもあったんだけど、最近また朝刊が盗まれるようになって困っている。
うちの場合、朝日新聞が朝4時過ぎに配達されているんだけど、朝起きて取りに行く間に何者かが持ってしまっている模様。うちの近所では、駅の近くの路上などで雑誌や(その日の)新聞をよく売っているので、そういうところに持っていかれているのか、それともいやがらせか、ただのいたずらか、そこはよくわからない。なお、夕刊は大丈夫。
不便だし腹も立つので、張り込んで注意してやろうかとも思うが、4時すぎから張り込み続けるのも結構な手間というものだ。
そんな事で悩んでいたら、最近よくCMやってる「朝日新聞デジタル版」を思い出した。さっそくネットで調べて見ると、朝刊(夕刊はない)がそのまんま朝5時に配信され、データや記事を検索する機能もついている。となると、新聞のデジタル化もありか? 紙がかさばる問題も解消されるし。
ただ、紙の新聞を取っている人の場合、「プラス1000円でデジタル朝刊も追加で配信」されるか、紙の新聞は取らずに「3800円でデジタル版のみ配信」されるか、という形であるらしい。3800円といえば、紙の新聞代と同じ。
同額で「デジタル朝刊のみ」はどう見ても損でしょう。「プラス1000円でデジタル朝刊も追加」はありだが、内容が同じで1000円追加か…
そんなこんなを考えて、結局、新聞の入るカギのつく郵便受けを買おうかと考えている。

ゆうべ、20年以上探し求めていた楽譜をついに発見。
http://imslp.org/wiki/Canzon_francese_del_Principe_(Gesualdo,_Carlo)
どこのどなたか存じませんが、できればもう少しスキャンに気を配っていただきたかった…
それにしても、この元本、どういう本でどこで売ってるのだろうか。


2013/4/15 「第十六回文学フリマin大阪」

4月14日、堺市での「第16回文学フリマ」のブースで「フリーターズフリー」関連書籍の販売。
当初は「ここで3号を初売りしよう!」とか言ってましたが、結局「3号」完成に間に合わず、今までの書籍を売ることに。
なお、うちの隣は「POSSE」ブースでした。

それにしても盛況だったな。(画像一部カット)


なんだかんだで全部で20冊ほど売れました。これは3号に向けての資金になります。お買い上げいただいたみなさん、ありがとうございました。

3月はカゼをひいたり、8日には「梅田の野宿者襲撃殺人事件を考える」シンポジウムを主催したりしたけど、ここで書いてなかった…


2013/3/6 小野市の「福祉給付制度適正化条例案」とか

報道されているように、兵庫県小野市で生活保護世帯や児童扶養手当を受けている一人親家庭が、「不正に受給していないか」「ギャンブルでお金を使いすぎていないか」、市民に通報させる「監視」条例案を市議会に提出。
話を聞いてびっくりしていたら、共同通信の記者から電話取材があり、以下の記事になっている。ネットで出てないので、引用させていただきます(記事の引用は本来まずいけど、取材協力者だからいいでしょう)。

★兵庫・小野条例案 「市民は情報提供を」
兵眼県小野市は、生活保護費や児童扶養手当を、パチンコなどのギャンブルで生活が維持できなくなるまで浪費することを禁止する条例案を27日に始まる市議会に提案する。同市への取材で22日分かった。市民の「責務」として、不正受給者や浪費を見つけた場合、市に情報提供を求めることも盛り込む。
 小野市によると、条例案では「受給者は保護費が福祉の増進を図る目的で給付されていることを深く自覚し、パチンコ、競輪、競馬などに費消し、生活が維持できなくなる事態を招いてはならない」と具体的に明記。
 市民から情報捉供があった場合は警察官OBに調査させ、改善を目指すという。罰則はないが、改善されなければ最終的には支給を止める。

偏見あおる可能性 
路上生活者の支援団体「野宿者ネットワーク」(大阪市)の生田武志代表の話
条例は、人さまのお金で生活をしている人は娯楽をしてはいないという発想につながりねない。市民に情報提供を求めるのは、市民と受給者を断し、受給者への偏見をあおる可能性がある。(2月23日京都新聞)

電話では15分ほど話したが、このようにまとめられてている。
こうした問題については、以前に書いた「生活保護受給者は酒もタバコもやってはいけない?」にかなり書いたので、詳しくはそちらを。
生活保護を利用している人たちは、合法的な娯楽も「通報」されるんですか。条例を読むと、将棋やトランプなどの「娯楽」も問題視されかねなくなっているし、身分制度を思い出させるような条例だ。

これもネットで出てなかったので、記事を引用。

★生活保護給付下げ撤回を ……反貧困団体が緊急声明訴え
 2013年度以降、生活保護費の中で食費や光熱費などの生活費に当たる「生活扶助費」の給付水準の引き下げ方針を政府が決めたことに対し、市民団体「反貧困ネットワーク大阪」(生田武志代表)は25日、大阪市役所で記者会見し、引き下げ撤回を求める緊急声明をアピールした。
 政府は3年程度かけて生活扶助費の水準を段階的に引き下げる方針で、厚生労働省によると、3年間で670億円の削減を見込む。
 同団体は、生活保護の受給者が全国の市町村で最多の約15万人の大阪市を中心に2008年秋から活動しており、生田代表は「保護費がこれ以上減ると、受給者はさらに社会から孤立する。社会全体で貧困問題に取り組むべきだ」と訴えた。
 会見に同席し、脳性まひの障害を持つ京都市の小松満雄さん(51)は「私たちはお金を得るために働くことが無理。ぎりぎりで生活している弱い立場の人たちのことも考えてほしい」と話していた。(2月25日 読売新聞)
会見ではぼくは3分ほど話したが、主に下の「2月5日」で書いた内容。
この会見では生活保護を利用している当事者、そして生活保護を受けていないが、生活保護水準ギリギリで働いている人たちからの発言が続き、聞き応えのあるものだった。今年はやはり、生活保護の問題が一つの焦点になりそう。

「信徒の友」(日本基督教団出版局)3月号に、菊池譲『この器では受け切れなくて 山谷兄弟の家伝道書物語』の書評を書いてます。
日雇労働者の街、東京の山谷で日雇労働者として働き、労働者や野宿者のために低価格で食事を提供する「まりや食堂」を始め、牧師として伝道を行なってきた菊池さんの30年来の活動をみずからまとめた本。読み応えありました。


2013/2/10 9日の集会

9日は、多重債務の団体「大阪いちょうの会」の創立20周年記念集会に参加。
こちらに記事
野宿している人の多くが、野宿になる前に借金を重ねることが多く、「いちょうの会」にはお世話になっております。

先週、目が醒めて5時前に布団を出て、いつものようにパンを焼いたりジャーでお湯を沸かしたりしていると、「ブチッ」と音がして、部屋の電気が全部落ちて真っ暗になった。被災用に充電しているライトをつけ(備えがあって良かった)、半分焼けたトーストを食べて朝食。
ブレーカーはたまに落ちることがあるが、それは落ちてない。これはもう素人では手に負えないと判断して、朝になって電気屋さんに電話すると、「午前には行けます」「お話を聞く限り、古いアパートだと屋根裏で線が切れたのかもしれません。その場合、大がかりな話になるかもしれません」と不気味なことを言う。
バイトに行く時間を遅らせて待ってると、電気屋さんが来て、テスターでいろいろ調べ、線をたどってアパートの奥へ進んでいく。そして、棚の上のゴチャゴチャしたところを調べて「ここが落ちてます」とブレーカーを戻すと、電源が回復した。ブレーカーが2段構えになっていて、その元のが落ちたらしい。しかし、そんなの知ってないとわからないですよ(知ってれば、自分で直せたんだが)。
ついでに、「部屋のタコ足配線がひどいので、壁コンセントを増設したいんですが」と言うと、「集合住宅の場合、それだと家の全部を替えないといけなくて、それが難しいんですよね」ということだった。
結局、電気屋さんへの料金は8400円。高い授業料になりました。電気屋さんは「こういう、古い家は残しておいてほしいですねえ」「でも、電気は気を付けないと、相当古いから危ないですよ」と再び不気味な言っていた。
古いアパートに住みつつ、電源との戦いも続く。


2013/2/5 生活保護切り下げに関する取材とか

きのう、生活保護切り下げ問題についてのテレビ朝日の取材を釜ヶ崎で。いつ放送か(用事が入ったのであわてて)聞かなかったが、きのう関西で放送されたということだ。
この問題については、反貧困運動に関わる団体や個人が様々な論点を出しているので、あらためて付け加えることはあまりないんだけど、

▼生活保護を受けている人の中には鬱の人が非常に多く(鬱だから貧困になったのか、貧困だから鬱になったのか…)、なおかつ、今でさえ生活保護利用者の自殺率は一般の2倍以上だ。
切り下げが報道される中、知り合いの受給者から「本当に下げられるんですか」という心配の電話がかかってくる。ただでさえバッシングなどの差別が激しかった上、具体的に経済的打撃となる切り下げとあって、精神的なショックがかなり大きい。このままでは、生活保護利用者の自殺者がグンと増えてしまうのではないかと、その点が怖くて仕方がない。

▼現政府は、生活保護利用者は「生かさぬよう殺さぬよう」程度で生活していただきたい、と考えているように思える。しかし、「最低限度の健康で文化的な生活」というのは、たぶん、慎ましい生活をして、なおかつ少々貯金ができる程度ではないだろうか。
具体的には、貯金ゼロだと、家電などが壊れたとき、たちまち大変困ったことになる。ぼくも貯金ゼロの生活が長かったが、冷蔵庫が壊れたりしたとき、本当に生活に苦労した。
ここ数年、生活保護利用者で熱中症のために救急搬送される人たちが急に増えて問題になっている。クーラーがない、あるいは壊れた場合、まもとな生活が送れない状態に陥ってしまうわけだ。8月の平均気温が沖縄より高く「日本一暑い」大阪では、真夏に夜まわりすると、「部屋はあるけど、暑くて寝ていられない」という人が多数野宿している。これは「最低限度の健康で文化的な生活」とは言えない。
また、貯金がないと、多くの冠婚葬祭に行けなくなる。冠婚葬祭に行くと、最低1万円とか包むのが社会的常識だが、生活保護利用者はそんなお金はないので、多くの冠婚葬祭に欠席するしかない。実家で親が死んだ場合などでも、「交通費に1万円以上かかる」となると、とうてい行けなくなる。こうして、「貧困だから孤立する」=「経済の貧困が関係の貧困を引き起こす」、俗に言う「金の切れ目が縁の切れ目」状態が激化する。バッシングで孤立させられた上、さらに社会的な孤立を強いられるということだ。
こんな感じで、生活保護切り下げについては、経済的な貧困の問題として語られる事が多いので、「関係の貧困」問題に関わる部分を強調してお話ししました。
生活保護に関しては他にもいろいろ書いてるけど、例えばここをどうぞ。

▼参考に追加
「福祉のひろば」連載の「現代の貧困を訪ねて」、2010年9(か10)月号「今年の暑さと貧困と」全文

 埼玉では、5年前にバナナの苗を買って庭に植えた人がいたが、今年になってバナナが実をつけた。埼玉は「熱帯」になったらしい(バナナは熱帯植物だ)。この夏(6〜8月)の平均気温は平年を1・64度上回り、統計史上最高の酷暑になった。さいたま市では、8月中旬、電気代を滞納した76才の男性が熱中症で死亡した。エアコンが使えなくなり、亡くなる前は長男が氷を首に当てていたという。そして、全国では5月末以降、熱中症で救急搬送された人は5万4千人に上り、直後の死亡は170人になった。
 「8月の平均気温が日本一高い」大阪市で野宿者支援活動をしているが、この夏、夜回りをしていると、野宿している人の中に「部屋があるけど外で寝ている」という人とよく会った。駅近くの歩道や公園で「暑くて眠れないのでここで寝ている」と言う。この人たちはエアコンがないか、あっても電気代が払えないのだ。当然、昼はもっと暑いので部屋で生活なんかできない。部屋があっても「野宿している方がマシ」という状態だ。
 もともと野宿している人たちはどうなのか。野宿者の多くはダンボール集めやアルミ缶集めで生活しているが、それは「炎天下で10時間働いて900円程度」という超「重労働低賃金」の仕事だ。まともに働いていたら、今年の夏の暑さではたちまち暑さで倒れてしまう。なので、働くのはなるべく夜にして、昼は図書館などで座っているという人が多かった。なお、今年の8月は、珍しく釜ヶ崎で日雇労働の仕事がかなり出ていたが、野宿している人たちに聞くと「こんな暑かったら仕事に行っても倒れてしまう」と言っていて、そのため、仕事があっても人手が足りないという状態だった。福岡市では、8月30日、消費者金融の無人契約機コーナーへの建造物侵入容疑で、54歳の野宿者が現行犯逮捕された。利用客から「不審な男がいる」との苦情を受け、消費者金融会社が警察に通報したという。このコーナーは出入り自由でクーラーが効いていて、その人は「涼みたかった」と供述したという(「出入り自由」なのに建造物侵入容疑で逮捕とは?)。異常な暑さ(そして野宿者への差別)がなければ、こんなことは起こらなかったのだ。
 8月6日、「全日本民主医療機関連合会」と「全国生活と健康を守る会連合会」は、一人暮らしの高齢者などのクーラー使用の経費に対する補助制度の実施などを厚生労働省に申し入れた。9月15日には、NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」がアンケートで生活困窮者505人のうち暑さで体調を崩した人は約43%に上ったと、厚生労働省、内閣府に被害防止のための要望を提出した。アンケートでは「歩いている時、激しいめまいで倒れる。食費を切り詰めて、電気代にあてる」「6月以降2度も熱中症と診断される病状になり、2度目は行倒れ状態となった」という声があった。
 大阪府吹田市は8月20日から、市内の4つの消防署の会議室や仮眠室などを24時間開放し、計29人が寝泊まりできる「熱中症シェルター」を開設した。アメリカでは、何年も前からこうしたシェルターを運営しているが、日本でもようやく小規模ながら始まったのだ。
 そして、長妻昭前厚生労働相は、エアコンの電気代などを「夏季加算」として生活保護費に上乗せする考えを示した。暑さと貧困は、これからも「命に関わる社会的問題」としてあり続けるのだろう。


2013/1/17 KINDLEで読む・読めない

以前も書いた
けど、アメリカのアマゾンで買ったキンドルで本を読んできた。そして、「出る出る」と言われてなかなか出なかった日本のアマゾンからもキンドルがついに今年登場。「これで日本語の本をキンドルエディションで読める」、とばかり思っていた。
この間、『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』を急いで読む必要があったので、近所の本屋をまわったけど置いてない。そこで、アマゾンのキンドルエディションでこの本をクリックして買おうとすると、
このコンテンツを利用するには、Kindle端末またはアプリをアカウントに登録する必要があります」となって、
Kindleをお持ちではありませんか? 生田武志 さんではありませんか? サインインして購入手続きを継続してください。
と出た。
要するに、日本のアマゾンで販売するキンドルエディションの本は、日本のアマゾンで買ったキンドルじゃないとダウンロード購入できない、ということなわけね。
つまりこういう事なんですか、アメリカのアマゾンでダウンロード購入した本はアメリカのキンドルで読んで、日本のアマゾンでダウンロード購入した本は日本のキンドルで読みなさい、と。
しかし、いくらなんでもキンドルを2つ持って英語本と日本語本を「読み分ける」なんて事はできない。それで、日本のキンドルエディション本は読むのをすっかりあきらめました(なんとかする方法があったら教えてください)。
なんで同じアマゾンで、こういう囲い込みがあるのか、さっぱりく理解できない。まあ、前にも書いたように、英語(外国語)を読むなら、「英辞郎」をインストールできる電子書籍が最も読みやすい一方、日本語ならKindleでなくて普通の本でいいと思うけど。
今キンドルで読んでいるのはPeter Simple。金井美恵子の『目白雑録(ひびのあれこれ)3』を読んでいたら、こうあった。
「岩波文庫三昧で夜々を過したこの何ヶ月か、文句のつけようのない面白さでワクワクしながら読んだのが、十九世紀前半のイギリスの人気作家、マリアットの海洋冒険小説『ピーター・シンプル』(全三巻 伊藤俊男訳)で、マリアットの名は、スティーヴンスンが自作『宝島』を語っている文章や、キプリングやディッケンズの小説中にも登場する。小説を読んだのはこれがはじめてなのだが、実にはなばなしく晴れやかで楽しい小説で波瀾万丈、つぎからつぎと、まるで近代小説とは縁遠く見せ場たっぷりの横道にそれてサーカスや見世物のように展開するエピソードと物語が、豪胆さとロマンティックさの混じるユーモアで語られ、登場人物たちも、マリアットよりずっと名の知れた名作『宝島』の中で名高いジョン・シルバーの影を薄くしてしまうほどだ。」
そんな本なら読んでみようと思ったが、岩波文庫版は戦中の版を重版した旧字旧仮名遣いの3冊本で、しかも古本でしか入手不可能のようだ。一方、原文はこのように「0円」で買える。結構な長さの物語だが、英語もまあまあ分かりやすいので、毎日少しずつ読んでいる。確かに登場人物たちが船上で晴れやかに笑い続ける爽快な小説だ。
しかし、今このリンクを見たら、「Purchases from the Amazon.com Kindle Store are not available for your current country settings.」となってるぞ、おいおい…。


2013/1/7 正月もいつも通り越冬など

去年11月からハーフタイムのバイトに入り、かなり忙しい日々が続いている。
今年1月1日は、いつも通り西成公園でもちつき大会、あとは夜まわり、電話での生活相談(食料が尽きてもう生活できません、とか)などで年末年始は過ぎていく。
最近、個人的なニュースとしては
☆部屋でネズミが死んでた
講演で愛媛に行って数日して部屋に帰ったら、異臭がすごくてぜんぜん眠れなかった。最初、理由が分からなかったが、部屋の家具の後ろを調べると、毒エサを食べたネズミが死んでいたことが判明。間の悪いことに、出かけている間に死体が腐ってたのだ。
鼻をつまみながら鉄ばさみで死体を回収し、ゴミ袋に入れて処理。死体のあった場所で一日扇風機を回したが、臭いがしみついてなかなか解消できない! コーヒーの粉をまいたりして、数日かけてなんとか平常状態に戻った。
戦前から建つアパートに住みつつ、ネズミとの戦いは続く…
☆泥棒が侵入
用事から帰ったら、うちの部屋からDVD類を持って出てくるドロボーと遭遇。
DVDなどを取り返し、泥棒は逃げていった。
ドアを見ると、カギがニッパーか何かでチョッキン切られていた。道具を用意して、最初から入る気満々で来たようだ。
もう、このままでは心配で外出もおちおちできない。防犯対策を完全にやり直さないといけない状態だ。
古いアパートに住みつつ、ドロボーとの戦いも続く…

梅田での野宿者襲撃・殺人事件については、11月16日に集会と現地でのビラまき、梅田の夜まわりに参加する催しを行なった。現地で撒いたビラはこちら( )。3月にはシンポジウムを行なう予定。

追記・その後、アイザック・シンガーの小説『手紙の書き手』を読むと、主人公は部屋に現われるネズミを愛してエサをあげ、出入りする姿をずっと眺めていた。それから振り返って、ネズミを毒エサで殺したことを反省したが、当時、ネズミのために食糧を荒らされ、眠れない日々を過ごしたことを考えると、他に方法があったかどうか…。ただ、大分あとになって家具を大々的に動かした時、入り口を見つけてようやく封鎖できた。もっと早くそうできればよかった。


2012/10/29 ちゃぐりん・書評・愛媛の講演・梅田での襲撃事件

家の光協会(は、農業・農村文化の向上を目指す、JA(農協)グループの出版・文化団体です)のこども向け雑誌「ちゃぐりん」の「いのちの音色」に、「子ども夜まわりと『ホームレス』の人たち」という文章(と写真)を出してます。単行本『おっちゃん、なんで外で寝なあかんの?』の内容を雑誌向けにしたもの。子ども向け雑誌に書くのは初めてです。

その『おっちゃん、なんで外で寝なあかんの?』の亀井みゆきさんによる書評が、「子どもの本棚」(「子どもの本研究会」が作っている冊子)に載っている(「10月19日 子どもの本棚11月号<今月の書評><目次>をアップしました」のところ)。
短い紹介はいろいろな雑誌に載ったけど、これがいままでで一番詳しい紹介。ありがとうございます。

愛媛県松山市で野宿者襲撃事件が続き、それを考える講演会を地元の支援団体オープンハンドが企画した。そこで10月20日に話をしてきました。毎日新聞の記事愛媛新聞の記事朝日新聞の記事はオープンハンドブログにアップされている。
この日は、襲撃を行なう少年たちや自傷行為をする少女たちの内面的問題を、中高生の感想文や証言を使いながらかなり詳しくたどった。けど、新聞では主に話の前半の紹介だなあ…

そして、大阪では14日、若者たちにわる野宿者襲撃で、一人が死亡、2人が入院するという非常に深刻な事件が起こった。事件の数日後、野宿者ネットワークのメンバーで現場に行き、被害者や目撃者から詳しい話を聞くことができた。
この件では、連日新聞やテレビの取材を受けている。野宿者ネットワークの夜回り地域でも最近襲撃の報告が多く、こちらも気がかりだ。この事件については、運動団体が連携し、事件を考えるシンポジウムなどを行なうことになるだろう。


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