DAYS                                            
            めったに更新しない(だろう)近況



今頃言うのもなんだけど、ここでは、釜ヶ崎での活動のハードな面については触れません。また、僕が今主軸にしている野宿者ネットワークの諸活動についても、書ける事は全部ネットワークのページに書き込んでいるので、ここでは書きません。となると、書ける事ってかなり限られるけど、まあ公開の「近況」ってそんなもんでしょう。(2001/12/11より)


なお、文中で、野宿者問題の授業に関して「いす取りゲーム」と「カフカの階段」の譬えがどうだ、とよく書いていますが、それについては「いす取りゲームとカフカの階段の比喩について」を参照してください。

■「近況」(2001年5月16日〜2002年11月2日)
■「近況」(2001年11月13日〜2002年5月11日)



2003/5/29■ ルチアーノ・ベリオの死

25日の日曜日、知り合い(釜ヶ崎日雇労働組合の藤井さん)のお見舞いに京都の病院に行く。
その夜から体の調子がおかしくなり、翌日から体中の痛みとひどい頭痛に襲われる。とにかく、痛み止めの薬を飲んでも痛みでほとんど眠れない。普段は風邪ぐらいでは薬も飲まないし病院にも行かないが、症状の重さが全然ちがうので、病院に行ってみた。体温が38.5度で、医者によると「今のところ風邪らしいが、症状が出そろわないとわからない」。それにしても、風邪だとしたらこれで今年4回目だ。この異常な風邪引きペースには、何か原因があるのか?

その間に、作曲家のルチアーノ・ベリオ(1925生)が77歳で亡くなっていた(27日)。ベリオが20世紀後半最大の作曲家の一人であることは確かだと思うが、その作曲家としての特性はなんと言ったものだろうか。例えば、ほぼ同世代であり、同じイタリアの前衛作曲家であるノーノ(1924生)。ノーノが厳密かつ禁欲的な作曲方法によって、内的な集中による緊迫した音のドラマを追求する傾向があったとすれば、ベリオは多彩で発明力豊かなタイプの作曲家であって、音楽につながるあらゆる要素を総動員することによって、音楽に演劇的なドラマを発展させることに長けていた、と、とりあえず無理矢理まとめることもできるだろうか。その意味で、ベリオは現代的な意味での発明豊かなアイデアメーカーであり、現代音楽界のポール・マッカートニーみたいなところがあった。
ベリオはとにかく多作なので、全体像を語ることはぼくにはとてもできないが、聴いた中で特に印象に残るのは、「ヴィザージュ」と「セクエンツァ」だ(いずれもCDあり。ただし「ヴィザージュ」はおそらく入手困難)。「ヴィザージュ」は、テープ作品だが、事実上(元夫人の)キャシー・バーベリアンの声のみによって成立している声楽作品。ここでは、使われる言葉はイタリア語の palole (言葉)のみで、それ以外はすべて「無意味な声」の多種多様の笑い、怒り、叫び、錯乱などによって作品が成立している。これを聴くと、従来の(あるいは現代の他の)声楽作品が、声の様々な可能性をどれだけ使わないで済ませているか、ということを考えさせられる。しかも、ベリオの場合、その数々のアイデアがあまりに見事で効果的なために、なぜ他の作曲家たちがこれだけ貧しい可能性で声楽作品を「我慢」していられるのかと、首を傾げたくなってしまうほどなのだ。
有名な「セクエンツァ」シリーズもほぼ同様の事が言える。このシリーズでは、何年か前にアンサンブル・アンテルコンタンポランのメンバーによる3枚組のCDが出たが、これを一気聴きすると、音楽的な意味で様々なアイデアが次から次へと展開されていくのを「あれよあれよ」とあっけにとられて聴いていくのと一緒に、各楽器の今まで開かれなかった可能性が次々と引き出され展開されていく離れ業にもすっかり驚嘆させられてしまう。
ベリオは、また有名な「シンフォニア」で音楽における「引用」の意味を前面に押し出すなど、実に様々な意味で音楽における「前衛」の道筋をほとんど軽々と使って我々を魅了した。そのベリオがついに亡くなったのである。20世紀はこうして一歩ずつ遠ざかっていくのか、と実感する。


2003/5/20■ 72歳の女性野宿者の生活保護申請

よまわりで会って以前から気になっていた72歳の女性のアパートでの生活保護の申請をやってきた。
この人は、高速道路の下のダンボールハウスで6年間暮らしていた。それまでは、病院の看護助手やいろんな仕事をしていたが、仕事がなくなって野宿に至り、それからはアルミ缶集めなどして暮らしていた。
最近は、腕がしびれて肩から上に上がらないなど調子も悪くなって、ご近所の野宿仲間から百円もらっては弁当を買ってしのぐ、という調子だったという。もうそろそろ限界ということで、夜回りのときに生活保護の相談をもちかけてこられたわけだ。
あらかじめ西成区で女性が入れるアパートを見つけて、土曜日に「こういう感じのアパートに入る、ということでいきますか」と話をもちかけ、この人も了承した。そして、今日は、まずこの場所に迎えに行き、家主と会い、アパートを見、部屋の契約をし、福祉事務所に行って保護申請をし、帰って民生委員の「通知書」をもらい、また福祉事務所に行き、あとは住民票の変更手続きをやれば終わり、というところまでこぎつけた。
大阪ではまだ少ない女性の野宿者、しかも72歳という年齢もあって、どうしても相談に応えたかったので、とりあえず滞りなく片づいてほっとした。(さすがに、福祉事務所もうるさいことは何一つ言わなかった)。ただ、このダンボールハウスで猫を飼っていて、一匹は目が見えないそうだが、その猫と別れなければならないのが一番つらかったということだ。猫たちは、ご近所の野宿仲間に引き取られることになっているという。


2003/5/12■ SARSと野宿者

毎日、世界のトップニュースとなっている新型肺炎「重症急性呼吸器症候群」(SARS)だが、ここ釜ヶ崎でも日夜話題の的である。なぜなら、この「近況」で何度か触れたことだが、釜ヶ崎は結核の罹患率「世界一」というお土地柄の上、かつては赤痢が大流行するなど「感染病」が集中的に発生しやすい場所だからだ。
第一、シェルター類は数百人が狭い建物やテントに雑魚寝状態、おまけに換気設備などないから、伝染性の病気はあっちゅー間にひろがってしまう。図書館、寄せ場、支援施設なども同様である。そして、いったん病気になっても、保険証などない野宿者の多くは、行きたくても病院になど行けない。その結果、いろんな人に感染させてしまってから、いよいよ歩けない状態になって救急車で運ばれて治療を受けるということになる。
数年前の赤痢の流行のときも、菌のDNA解析の結果、アジア経由であることが判明している。中国、台湾で現在流行中のSARSだが、それが釜ヶ崎にやってきて発生する確率はそう低くないのだ。赤痢ぐらいなら感染力も強くなく、薬を飲んでれば死ぬことはないが、SARSとなると話が全然違う。だから、SARSについてはみんな真剣な顔で話し合っている。
と思っていたら、「寄せ場メール」で次のような今日付けの新聞記事が届いた。


台湾ではSARSの急速な感染拡大の可能性が示されている。
感染が最も深刻な台北市は、11日から「全市大消毒」と名付けられた大規模な防疫作業に着手。初日は、住民から感染者が出て居住者約700人が隔離された団地のある市西部の萬華区で、消毒が行われた。
 18日までの9日間で、総人口約265万の市内全域で消毒作業を行う。萬華区では、ホームレスをほぼ強制的に軍施設へ収容する措置も併せて進めている。(毎日新聞)



中国などで流行が続いている新型肺炎「重症急性呼吸器症候群」(SARS)に対して、総合的な対策を検討する「県重症急性呼吸器症候群対策連絡会議」が発足し、8日、さ いたま市浦和区仲町の県民健康センターで実務レベルの課長級職員による第1回幹事会が開かれた。席上、患者や「可能性例」の集団発生や特異な場所での発生などを想定したシミュレーションを作成することなどを申し合わせた。
 シミュレーションは、患者や「可能性例」発生時の行動のモデルとなるもので、学校や企業などで症状を訴える人が複数いる場合やホームレスが症状を訴えている場合などを想定(毎日新聞)。

台湾での「ホームレスをほぼ強制的に軍施設へ収容する措置」というのも凄いが、さいたま市の「ホームレスが症状を訴えている場合などを想定」したシミュレーションとは、どんなものなんだろう。
普段は野宿者が「貧困」や「病気」に苦しんでいても知らん顔のくせに、いざ「伝染病」で一般市民に危害が及ぶとなると、突然「危機管理」の対象にし出すのだろうか。そうなると行政にとって、野宿者って「病原体」か「ネズミ、ゴキブリ」程度ってことではないか。(せめて「アザラシ」なみに待遇してはどうだろうか)。
意志に反した路上生活や詰め込み式の「シェルター」を解決、撤去して、衛生的な低家賃住宅でも提供して、貧困や病気を追放することを真っ先に考えた方がいいと思うんだけどな…


2003/5/5■ 姫路の野宿者の状況を聞く

連休の最終日、倉敷から大阪への帰り道に姫路に寄って、姫路で夜回りなど野宿者支援活動をしているグループの人たちと会ってきた。
今年の釜ヶ崎越冬のとき、よく越冬に来ている姫路の高校生と先生を対象に話をしたところ、「6月に授業に来てくれ」という依頼が高校からきて、もちろんそれは引き受けた。しかし、当然、姫路にも野宿者はいるわけで、姫路まで行って大阪の野宿者の話をするのというのもどうもおかしな話だ。それで、姫路で夜回りをしている人たちを捜し出して連絡を取った。電話で「情報交換などしたいのですが」と言うと、先方も「こちらこそ情報交換したい」ということだった。
会ったのは、「路上生活者ふれあいサークルレインボー」の人たち。姫路でも、100人を超える路上生活者が確認されていながら、行政の施策、民間の支援組織は皆無の状況だった。これに問題意識をもった若者たちで去年の春、支援活動を開始したという。
その話によると、姫路の野宿者の特徴は地元出身者が多いことだという。大体が姫路に住民票があるらしい。地元で失業し、そのままここで野宿生活しているという形態だ。4年前には50人ぐらいだったのが、ここ数年で急増し現在は150人以上(女性は60歳以上の人が6人)。
生活は、ほぼ全員がアルミ缶集め。公的就労、炊き出し、医療支援、生活保護などは、一切なかった。つまり、野宿者はみんなアルミ缶で稼いだ月収1〜2万だけでしのいでいることになる。
大阪などでは、医療センター(事実上の無料診療)、炊き出し、公的就労、生活保護関連の相談が行われていることを考えれば、姫路がいかに大変かわかる。何しろ、救急車を呼んでも、受け入れ病院がないという(!)。というのも、病院は生活保護での医療扶助の経験がないため、めんどがって受け入れないから。4割が体調の悪さを訴えている野宿者にとっては、恐るべき状況である。
襲撃も35%程度が経験しており、堀に投げ込まれた、ちんぴらに包丁で刺された、石を投げられたなど、かなり大変。
グループの人たちは、行政・民間の支援組織が全然ない状況で、自分たちにできることも限られており、いろんなジレンマを抱えていて、その点は大変そうだった。電話で話したときも、「怪我をしているが、救急車を呼ぶほどでもないし、生活保護の医療扶助も使えない人」の相談をされたが、ぼくも医療センターも何もない状態ではどうすればいいのかわからなくて返事に窮した。
それで、会ったときに「あの人どうなりました?」と聞くと、グループの人は「ぼくが毎日訪ねていって包帯を交換しています」ということだった。一時が万事こういう調子らしい。
福祉事務所との関係や、夜回りの位置づけ、人集めの方法などいろんなことを延々と話した。全然知らなかった姫路での野宿者関連の話が聞けて貴重な機会だったが、グループの人からも「日頃に貯まっていた、重い感じがとれました。大変有意義な時間を過ごせました」というメールを頂いた。今後ともお互い情報交換やいろんなやりとりをしていきたいものです。


2003/4/29■ コリアンタウンでキムチの買い物

今日は父の葬式に来た親戚への贈り物に、大阪市生野区のコリアンタウンへ買い物に行った(自転車で釜ヶ崎から約20分)。
生野区は、日本で最大規模の在日韓国・朝鮮人の密集地域で、約4万人が生活している。その多くは、日本の植民地時代に朝鮮半島や済州島から渡ってきたり、連行させられたりした人たち、そしてその2世、3世、4世だとされている。在日の人たちは、様々な制約の中で食べ物・祭りなどの面で独自の文化を築いてきた。その点で、沖縄出身の人たちが多く住んでいる大阪市大正区で、大規模なエーサー大会や、2世、3世のこどもたちへ向けての文化伝承活動が行われているのとよく似ている。
実際、コリアンタウンの中は、キムチなんかの朝鮮食材や、チマチョゴリなんかの衣装がいっぱい店頭に並べられていて、初めて行った人はみんな「ここは日本じゃない!」とびっくりする。ぼくは、時々ここに行ってキムチを買って人に送ったりする。キムチの店だけでも何軒もあるが、口コミで下の写真の店がいいと聞いて、いつもここで買っている。「スーパーとかで売ってるのと全然ちがう!」と何しろえらく評判がいいですわ。



2003/4/25■ 井上直幸の死

ピアニストの井上直幸が亡くなった。以下はアサヒ・コムからの引用。

井上 直幸さん(いのうえ・なおゆき=ピアニスト、武庫川女子大教授)は4月22日、肺炎で死去、63歳。通夜、葬儀は近親者のみで行う。喪主は長男直秋さん。自宅は公表していない。
福岡市生まれ。桐朋学園大卒業後、ドイツに留学。68年にミュンヘン国際コンクール二重奏部門で3位に入賞、ヨーロッパ各地で演奏した。76年に帰国後はNHK「ピアノのおけいこ」に出演し人気を集める一方、古典・ロマン派の作品を中心にオーケストラとの公演や録音などで活躍した。98年に出した著書「ピアノ奏法」は5万部を売り上げ、ピアノ入門書としては異例のヒットとなった。 (04/23 12:26)

新聞各紙では、「ピアノ奏法の井上直幸」「ピアノのおけいこの井上直幸」という見出しだったが、ぼくにとっては現役の「最も好きなピアニスト」の死だった。
井上直幸のピアノを最初に聞いたのは、高校生のとき(2年生だったか)、倉敷でのコンサートのときだ(ちなみに、倉敷は当時からフィッシャー=ディースカウやリヒテルのような演奏家が入れ替わり立ち替わり毎年来るとんでもない地方小都市だった。この5月にはツィメルマンのコンサートがある。学生は1000円だとか…)。
スカルラッティの幾つかのソナタ、ベートーヴェンの「悲愴」、後半にシューマンの幾つかの曲というプログラムだった。最初のスカルラッティの演奏でただちに惹きつけられたが、最も感心したのが「悲愴」ソナタだ。一言で言えば、あれほど素晴らしい「悲愴」は実演でも録音でも他に聴いたことがない。定評のあるギレリス、バックハウス、ケンプといったピアニストできく「悲愴」は、「構築美」「叙情」「視野の広さ」といった点で卓越した品格のある演奏だった。それは、確かに素晴らしいものかもしれないが、あくまで年齢と経験を積んだ「巨匠の技」というべきものだった。
それに対して井上直幸の場合、「悲愴」は青春の音楽として鳴っていた。清新な叙情とエネルギーに貫かれた、激しくそして初々しい感性に満ちあふれた音楽として鳴っていた。ぼくは、これを聴いて「悲愴」というのはこういう音楽だったんだ、と納得したものだった。(その後でも、「悲愴」についてこれに近い感触を持ったのは、アワダジン・プラットの大阪でのコンサートのときぐらいだ。プラットの場合は、革新的な音楽を作り出そうとする「風雲児」としてのベートーヴェン、という印象だったが)。
そのあとのシューマン・プログラムでも、井上直幸のピアノの叙情性の新鮮さにひたすら感嘆し続けた。それは、小川の清冽な流れを思わせるような、どこまでも新鮮でさわやかな音楽だった。捜しても捜してもめったに出会わないような、貴重な美しさがそこにはあった。コンサートが終わったとき、幸福な感動が胸一杯に残ったが、おそらくその場にいた多くの人がそのように感じたのではないだろうか。
その後は、井上直幸のレコードを捜して、ドビュッシーの「前奏曲集」第2巻を聴いた。だが、それを聴いても、コンサートのときに満ちていた叙情性や新鮮さは、あるにはあっても、ほとんど聞き取れない状態でしか残っていなかった。この人はあくまでコンサート向きの演奏家なのかもしれない、難しいものだな、と思ったものだ。
その後も、コンサートに行こうと思っていたが、結局その機会はなかった。ほんの時たま「ピアノのおけいこ」を見たくらい。63歳で死去とは、ビアニストとしては非常に早い死で、とても残念である。


2003/4/24■ 父の死

4月15日に父親が亡くなり、葬儀などで倉敷の実家に一週間ほど帰っていた。
父親との関係については、ここで触れるには不適当な話題になりそうなので書かない。ただ、年齢は70歳で、死因は胆管細胞ガンだった。
胆管細胞ガン(肝内胆管ガン)は、日本では10万人当たりの罹患率が1.9とまれな病気だが、非常にたちの悪いガンで、発見されたときにはすでに多くの場合、手遅れとなっているらしい。
うちの父親の場合もそうで、なんか調子が悪いということで2月に入ってから病院に行って、はじめてガンが発見された。そして、2月終わりに家族に告知があり、余命は「年の単位ではない」ということ、もはや手術も意味がなく有効な治療手段がないこと、入院ではなく家で好きなような暮らさせた方がよい、ということを説明された。
その上で、本人に告知するかどうか聞かれた。それには、母親と近くにいる親戚とで相談したが、何の異論もなく「告知しない」ということで一致した。つまり、何か治療の可能性があるなら、本人に告知してがんばっていくということもありえるが、この場合はそうではないこと、また、死の覚悟をしていくとしても「月の単位」ではあまりに時間が少ないことから、告知はとても考えられなかった。その結果、医師と相談して、だましだまし通院しながら、なるべく苦痛の少ない方向でやっていく、という方針になった。
事実、父親は退院してからも時々熱が出たり「調子がなんか悪い」ということはあっても、解熱剤を飲めば収まるし、調子が悪ければ通院してなんとかなる、という具合でやっていた。庭で仕事もするし、車で買い物も行くし、周りから見たら病人とは思えなかっただろう。それが、熱が出て調子が悪いのでまあ病院に行くか、ということで月曜に病院に行ったところ、病院にいる間に急に動けなくなり(このとき、血小板が極端に減っていたらしい)、入院になり、翌朝の8時過ぎに亡くなったのだった。結局、苦しんだのは1日だけだった。担当の医師も想定していなかったほどあっけない死亡だった。
ぼくは、月曜の夜に「ここ1〜2日もてば又なんとかなるらしいが、もしかしたら危ないから帰ってこい」と電話で言われ、では明日帰ろうかと思って準備をしていたら、明け方に「危篤状態になったからとにかくすぐ帰れ」と言われ、早朝に大阪を出て倉敷に向かった。しかし、結局15分遅れで臨終には間に合わなかった。
告知については、言わなくてやっぱりよかったのかなあ、とも思うが、本当のところは誰にもわからないのかもしれない。母親は、本人に知らせていない分、前々から葬儀のこととか亡くなってからのことが頭に浮かんで困ったらしいが、その一つに葬儀用のいい写真がない、ということがあった。しかし、亡くなってから父の部屋を見ていたら、いろんなものが置いてあるところの一番上に、免許証で使うような写真が幾つか置いてあったという。かなり最近撮ったらしいものもあった。結局それを葬儀用に使ったのだが、ガンかどうかは別として、やばい病気かもしれない、ということを察知していたのかもしれない。最近は、部屋の整理や、庭仕事の道具の整理ばっかりやっていたという。
葬儀にやってきた父の姉妹たちは、父は柔道をやっていたが、強いのによく投げられ役になっていた、なんで自分から技をかけていかないのか聞くと、「柔道はそういうものではない」(姉妹の解釈では「柔よく剛を制す」と言う意味)と言っていたと話していた。そういう話となんとなくダブって記憶に残っている。


2003/4/13■ だれかテリー伊藤をなんとかしてくれ

朝刊を見ていると、テレビ欄で「新企画・高田万由子 ホームレスを救うの巻」とあった。
毎日放送の日曜朝10時からの「サンデー・ジャポン」。爆笑問題が司会している番組だ。大体、こういうエンタメ系の番組で野宿者が取り上げられるとろくなことはない。(思い出すが、10年ぐらい前、テレビ東京の「浅草橋ヤング洋品店」で、野宿者が散髪・入浴の後、流行のスーツに着替えさせられ、その変身ぶりをスタジオの客とタレントが一緒に笑い万歳三唱で終わるという「ヒッピーはヤッピーになれるか」というコーナーがあった。あまりの内容に、釜ヶ崎の運動関係者が日雇労働者とともにテレビ局側との話し合いの場を設定し、2回に渡る確認会を行なった。テレビ東京・テレビ大阪は非を認め、番組の中でテロップを流して謝罪したものだった)。
まあそれでも一応、「どんなかな」と思って途中から見てみると、高田万由子がどっかの野宿者のテントがいっぱいあるとこに行っておじさんたちと交流しているところだった。テントの中に入ってうどんをごちそうになり、握手をしてしみじみと話をしていたりする。
更に今度は「われわれは信じがたい光景を見た!」とナレーションが入る。何かと思ったら、5才の女の子のいる家族の野宿者の話だった。高田万由子の問いかけで夫婦(50代の夫と40代の妻)が話すには、夫は建設現場の仕事がなくなってしまい、収入がなくなった。福祉事務所に相談に行くと、「家族では保護できません。母子家庭ということになれば施設があります」と言われた、ということだ。家族バラバラになるのは絶対イヤなので、こうして野宿しながらがんばっている、ということだ。(どこでも福祉事務所は似たような形式的な対応しかしないなあ、相談者の実情に合わせて対策を考えればいいのに、と思った)。
さて、スタジオに戻ると、飯島愛、デビ夫人、山本晋也、テリー伊藤たちタレントは、特にこの家族で話題がもちきりになった。何を言うかというと、「あんなこどもを持ってホームレスなんて、親が無責任だ」「捜せば仕事ぐらいあるだろう、甘えてるんだよ」「高田さん、あんたあのオヤジにもっとピシャッと言うべきだったよ」という感じ。特にテリー伊藤が「あのオヤジ、オレとそんなに変わんない歳じゃないか。仕事はあるに決まってる」とかやけに強調してしゃべりまくっていた(飯島愛や山本晋也はそれほどではなかった。「プラトニック・セックス」の著者が野宿者問題をどう語るか、関心があったんだが)。
こういう番組を見ていると頭がクラクラしてくるので、やっぱり見ない方がよかったと思った。テリー伊藤の言ってることはただの「野宿者自業自得論」だが、こういう人は、世の中が不景気になると、いくら捜しても仕事がない状態になる、ということが全くわからないらしい。まあ、野宿者のおかれている状態についての無知はある程度仕方ないとしても、もう少し常識として、人さまの生活への想像力や苦しい生活をしている人への思いやりみたいなものをこの人たちは持てないものだろうか。考えてみれば、テレビのタレントってすごい「成功者」だから、特にこういう発想が強いのかもしれない。自分が才能と苦労(と運)で這い上がったという自信がある分、「野宿になんかなるヤツは、苦労が足りないんだ」というよくある発想になるのだろう。
それにしても、われわれが「野宿者問題の授業」とかで数十人相手にせっせと啓蒙活動をしている一方で、こういう番組は一気に数百万人相手に「ホームレスはなまけものだ、無責任だ、自業自得だ」と情報宣伝してしまう。もちろん、テレビを見ている世の中の人は、こんな高慢チキタレントの意見を鵜呑みにするほどバカじゃないだろうと思う。
が、東京都では石原慎太郎が308万票獲得し、アメリカでは7割以上が「戦争賛成」しているようでは、そうも言ってられないのか?

(また、きのうの統一地方選では、元新潟県議員の武田貞彦さんが県議選で落選している。以前、この人から「野宿者問題の授業」のページについて親切なメールをいただいた上、ホームページでリンクを張ってもらった。落選は残念だが、これからもがんばってほしいと思う。)


2003/4/11■ 深夜の工事・結核の疑いで仕事仲間が入院

昨夜の夜の1時半過ぎ、突然ユンボ(ショベルカー)がガタッガタッと動き出し、土砂をすくい上げる機械音で眠りからたたき起こされた。
ぼくのアパートの真ん前は資材置きになっていて、昼間はよくユンボやトラックが土砂や石を運び込んでいる。しかし、深夜にやるとなると音の衝撃は全く別格だ。
しばらく我慢していたが、どうしたって眠れる状況じゃないので、起きて現場に行き、作業員をつかまえて「何やってんだコラー、こんなんじゃあ眠れないだろー」てな具合に怒鳴って怒った。
しかし、作業員は「水道の工事で夜しかできないんです。場所も、埋め立て地でもあればいいけど、ここしかないんです。あと3日ありますけど、すいませんけどお願いします」と低姿勢で「開き直った」。何を言ってもダメなのであきらめて帰ったが、その後も工事音は続いた。
実は、この場所では何度もこの手の騒音騒ぎがあって、その度に土地を管理している大阪市建設局に抗議してそこから業者に注意してもらっていた。だが、時間がたつと何の反省もなくまた同じ事を繰り返している。
今日も再び建設局に電話を入れたが、「水道局を通じて注意させます」と言っていた。しかし、始まった水道工事がこれで中断されるとは思えない。要するに、こんな場所しか資材置き場のない業者に深夜の仕事を発注してる役所がおかしい。それにしても、業者は周囲の住民の迷惑など何も考えないものなのだろうか。

そして今日は、釜ヶ崎反失業連絡会の(あいりん労働福祉)センターでのビラまき情宣の日で、ほとんど寝ないまま5時前に起きて、手配師の車と日雇労働者が集まる「寄せ場」に行った。
ぼくはだいたい週に一回、朝情宣に出ているが、行ってみると手配師の車が今までの半分以下にまで激減しているのに驚いた。これは釜ヶ崎特有の現象で、公共工事の終わる3月末か4月はじめをもって日雇労働の仕事も一気に減り、7月20日あたりまで続く「アブレ期」に突入してしまう。これによって日雇労働者は一気に仕事を失い、今までなんとかしのいでいた人も、その多くが野宿生活に突入してしまうわけである。ぼくも、今では日雇い労働者ではあっても「寄せ場」を経由しなくても仕事があるが、以前はずっとこの「アブレ期」のために仕事を探し出すのにさんざん苦労をした。
これは何十年も続いているパターンだが、毎度の事ながら、突然仕事が激減するというこの事態は本当に恐ろしい。

今日は特別清掃の仕事仲間の一人が、結核の疑いで入院することになった。
釜ヶ崎は、罹患率「世界一」の結核多発地域で、多くの人が結核専門病棟に長期入院している。もちろん、原因は「貧困」である。
数年前には釜ヶ崎で「赤痢」が流行して、ぼく自身も赤痢の疑いで隔離病棟に強制入院させられたことがある(この「近況」の2002年2月26日で触れた)。
今回入院する人は、もともと神戸の長田区で工場労働していて、震災にあってアパートが全壊した上に両足骨折したという人。その後、仕事を失ない、大阪で野宿生活になり(関西の野宿者には震災経験者が相当数いる)、その後、反失業連絡会の野営闘争に参加し、そこでボランティアでテントの警備を長らくやっていた。
その後、特別清掃の仕事をしていたが、レントゲン検診をやってみたら、肺に影が映っていたというわけだ。ぼくは検診で「シロ」だったが、仕事仲間ではすでにもう一人が「大量排菌者」として結核専門病院に入院している。根本原因が解消できない限り、結核の流行が収まることはありえない。

なお、前回触れたフィールドワークの話だが、下の話題をアップした次の日にフィールドワークの参加者からメールが入り、「この前の取り組みでは、帰ってから感想の交流もし、それぞれにとって本当に意味の深い体験になりました」「読んで本当に忠告いただいた通りだと思い非礼をお詫びすると共に、今回のお礼も是非お渡ししたく思っています」ということだった。
謝礼をもらううと、こちらから請求した形になってしまうので「絶対に要りません」と書いたのだが、そうは言ってもあちらも出さないわけにもいかないだろうから、電話で話した結果、ありがたくいただくことにした。一緒に感想文も送ってくれるということだ。
この返事がもっと前に来ていたら、この件についてここで触れることはありえなかった(あのメールを出してから一週間たって返事がなかったので、先の文章をアップした)。しかし、納得のいく返事が来たとはいえ、いったん書いたものを消すわけにもいかないので、下の文章はそのままにしておくことにする。


2003/4/8■ フィールドワークにともなう「カンパ」ないし「謝礼」の問題など

3月30日のとこでも触れたが、「人文字」の実行委員を含む学生8名ほどから釜ヶ崎のフィールドワークを頼まれた。打ち合わせの結果、午前に2時間ほど釜ヶ崎と野宿者の現状についてレクチャーし、昼は三角公園の「勝ち取る会」の炊き出しに参加してもらい、それから2時間かけて釜ヶ崎周辺をフィールドワークするということになった。
そして、最近それを実際にやったのだが、その翌日ぼくが出したメールから引用。

「きのうはお疲れさまでした。
参加されたみなさんの反応や態度は好感の持てるもので、案内をやったかいがあったと思いました。
今後、野宿者問題にみなさんの何人かが何らかの形で関わってくだされたらいいなあと思っています。

なお、これはおせっかいな忠言になりますが、
今回の場合のように、未知の人に対してフィールドワークや話を依頼した場合、なんらかのカンパ、あるいは謝礼を用意した方がいいと思いますよ。
これはぼく自身のことになるので、こっ恥ずかしくて言いにくいのですが、ともだちや知り合いに依頼する場合ならともかく、運動に関わる者のどうしの場合でも、未知の人を一定時間以上拘束して作業を求める場合、カンパか謝礼が発生するというのが常識だと思います(もちろん、一切謝礼は要らないという人もいるでしょうが)。
もちろん、夜回りなどの野宿者支援活動、あるいはこの前の「人文字」やパレードといった活動の場合は、自分で希望してやっているのですから「自前」「持ち出し」が当然です。
しかし今回の場合のように、未知の人から依頼され、特にその日を空けて(仕事を休んで)、他の運動団体との打ち合わせをやって、コピー代も出して、という手間暇を考えると、何もなしというのは疑問です。早い話、こういう依頼がたて続けに入れば、ぼくはたちまちパンクしてしまいます。
もちろん、大した金額は要らないので、例えば「法定最低賃金」を拘束時間でかけ算した程度でいいわけです。さらに今回の場合のように、学生が主体の場合は、一人数百円程度出し合えば、それで十分です。かりにそれも無理な場合は、事前に「ボランティアでお願いしたいのですが、いかがでしょうか」と言っておくと良いです。
多分、どこの現場の人であれ同じように感じると思うので、あえて言ってみました。
今回は、こんなことを書いてしまった手前、謝礼をもらうのはすごく「変」なので、絶対に要りません。
何より、今後、野宿者問題にみなさんが関わってくださることを希望しています。」

つまり、フィールドワークをやったのに対して、カンパないし謝礼が全然なかったわけである。
メールで最初に言っているように、フィールドワークでの参加者の態度は好感のもてるというか、とても素直なもので、その点は問題なかった。最後に「話がわかりやすかった」「ショックを幾つも受けて、消化するのに何日かかかりそう」と言っていたが、じっくりよく聞いてくれたし、問題の在処もつかんでくれた。
しかし、これだけ手間暇かかった(エネルギーを使った上、これのために5000円ぐらい収入が減った)フィールドワークに対して代償なし、というのはどうしたことか。ぼくだって、人にフィールドワークを頼んだら絶対に謝礼は出している。
おかしな話なので、知り合いに「今日、こうだったんだけど、どうなんでしょう?」と聞くと、「ぼくは京都大学の学生たち相手に釜ヶ崎のフィールドワークをやったけど、そのときは1万円もらったよ」「それは非常識だから、一言言ってあげといた方がいいんじゃない?」ということだった。
それもあって、上のメールを送ったわけである。

それにしても感じさせられたのは、運動を(代々のように)やり続けている学生グループと、最近、特にイラク戦争に対する反対運動をやり始めたような学生たちとの雰囲気の違いである。
従来型の「運動」をずっと続けている学生グループは、例えば人に頼んでフィールドワークをやってもらったら謝礼が必要だ、というような常識はさすがに心得ている(まあ、「1万円」というのは出し過ぎじゃないかと思うけど)。
また、こうしたグループは、フィールドワークの前にも自分たちで学習会などを重ねて、釜ヶ崎の問題についても、こっちがびっくりするほど知識を持っていたりする。
それに対して今回の場合は、何についても「ほぼ白紙の状態」で、フィールドワークやレクチャー中の質問も結構初歩的なものが多かった(「NPOって何ですか」とか)。また、最初に来た依頼のメールも「はじめまして」も何もなくいきなり用件から切り出す「びっくりメール」だったし、そういう意味では常識がなかった。
しかし、そうだとしても、彼ら彼女らが作り出す「人文字」やパレードのような運動が、従来の運動形態からすっぱり切れた新鮮なものであることは間違いがない。
多分、「人文字」やパレードを実行したメンバーの相当部分(そもそもの発案は民青だということだが…)は、従来の社会運動の「批判の上に」現れたのではなく、それらについてほとんど「知らない」のだろう。「反戦」のため、または今回の釜ヶ崎フィールドワークのように社会問題への参加という目的のため、自然発生的に集まってきたのだろう。
従来型の運動のワンパターン化や「どんづまり」という問題に直面している我々から見れば、彼ら彼女らのような社会問題へのアプローチの仕方は、うらやましいほど自由に見える。しかし、あまりに「白紙の状態」なのも、従来型の運動の(正と負の)遺産を持っていないという点で、やはり問題が生まれてくるかもしれない。「人文字」が野宿者のテントに囲まれているという事態に対する無感覚については、3月30日のところでも触れた。だがそれ以前に、今回みたいに、結果的に「自分たちの目的のために知らない人をただ働き」させていたら、各現場で運動やってる人間はあきれてしまうだろう。そういうことを考えると、新しい運動を作っている人たちとつきあっていくとしたら、お互いにいろんな面でそれなりの我慢が必要なのかもしれない。にもかかわらず、こうした新しい層にわれわれは期待するし、またそうしたつきあいを求めていくべきだと思う。
(この文章を、フィールドワークの参加者が読む場合があるかもしれない。でも、決してその人たちの批判が目的ではなく、あくまで一般的な「常識」に関わる話なので、どうぞ気を悪くしないでください)。
(というか、さっき引用したメールになんか返事ください!)


2003/4/6■ 釜ヶ崎の覚醒剤事情がアサヒ・コムのトップ記事に

3月19日のところで、覚醒剤所持で捕まった知り合いに会いに留置場に行った話を書いたが、今日のアサヒ・コムのトップ記事は、釜ヶ崎の覚醒剤密売の話になっている。
以下、引用。

簡易宿泊所が覚せい剤密売拠点 大阪・西成あいりん地区

 大阪市西成区の「あいりん地区」で、軒を並べる簡易宿泊所が覚せい剤の密売拠点として利用されていることが、大阪府警の調べでわかった。従来の路上販売に対する取り締まりが厳しくなり、屋内での売買に目をつけたらしい。一部の宿泊所では、部屋ごとに密売人が「個人商店」を構えていた。

 「あるよ、あるよ」「安いよ」――。地区内を歩くと、通り沿いに立った中年の男性数人から声をかけられる。何が、とは決して口にしない。少しでも興味ありげな表情を見せると、しつこく勧誘される。

 数年前までは、こうした密売人らが郵便ポストや自動販売機の陰に覚せい剤を隠しておき、路地などで客に手渡す光景があちこちで見られた。だが、西成署などが路上での売買に対する摘発活動を強めて以来、簡易宿泊所に客を連れ込み、密売人が借りている部屋の一室で注射させる手口が増え始めている。

 府警は2月中旬、幹線道路沿いにある高層の簡易宿泊所に狙いを絞り、158室のうち密売場所とみられる18室を家宅捜索。それぞれ2、3畳の部屋にいた男女9人を覚せい剤取締法違反容疑などで逮捕した。この宿泊所だけで20人前後の密売人が住んでいた疑いが強いという。

 いずれも西成区を拠点とする複数の山口組系暴力団に日当で雇われている一般人。隣の部屋に住んでいても、互いの顔や名前を知らないケースが多い。同じ1万円分の覚せい剤でも、密売人によって0.285グラムだったり、0.355グラムだったりする。

 逮捕されても大半が入手先について黙秘する。実刑判決を受けて出所した後、「あいつは口を割らなかった」と組から信頼され、再び密売の仕事にありつけるからだ。

 密売人が持ち歩く「客付き」と呼ばれるプリペイド式携帯電話には、常連客の連絡先が登録されている。廃業した場合、多数の客が登録された電話は1000万円前後の高値で引き取られるという。

 西成署が昨年、覚せい剤取締法違反容疑で摘発したのは計267人で、全国の警察署の中でも際立って多い。府警は、地区内の数軒の宿泊所が密売拠点となっているとみて、警戒を強める方針。

 捜査幹部は「警察の目をごまかすため、女性も多く密売人に雇われている。密売拠点になっていることを知らない管理人もいるとみられ、注意を喚起していく」と話す。
DATE:2003/04/06
URL:http://www.asahi.com/national/update/0406/015.html

釜ヶ崎のドヤ(簡易宿泊所)は、お得意だった日雇労働者の大部分が野宿生活化してしまって、その多くがすっからかんになってしまった。そこで近年、目先の利く経営者はドヤを「福祉マンション」に模様替えし(でも、部屋はドヤと代わらない2畳ぐらい!)、野宿者を生活保護にかけて部屋に入れ、月々4万2000円強の家賃を永遠にとっていく、という方向に転換している。
しかし、ドヤをこういう具合に使っていたとは、地元のぼくも気づきませんでした!


2003/3/30■ 「戦争あかん」人文字をつくろう!!アピール

3月30日、大阪城公園の「戦争あかん」人文字をつくろう!!アピールとピースパレードに行って来た。
関西にある医大などの学生10人ほどから、4月に釜ヶ崎のフィールドワークでの案内を頼まれていたが、この学生たちが「人文字」の実行委員に入っていて、しばらく前からこの計画を聞かされていた。
さらに、以前「野宿者問題の授業」をやった和歌山の「きのくに高等専修学校」の生徒の一人(3年)がやはり「人文字」の実行委員をやっている。
おまけに、野宿者問題の授業をした生徒たち(高校1年)4人が、土曜の「夜回り」に参加してくれた上、次の日は「人文字」に参加しに行くということだ。こうして「野宿者問題の授業」を聞いてくれる人たちが作り上げ実行する計画ということで、行ってみようかなと思った。

とりあえず、1時半頃から現場に行って、「野宿者ネットワーク」の夜回りの案内ビラを配り始める。「きのくに」の生徒たちも来て、一緒にビラまきをやってくれた。
「人文字」に集まったのは、こどもから大人までいろいろだったが、やっぱり10代から20代という若い層が多い! ぼくの横では「たまたま通りかかった」というオーストリア人とか、高校生とか、親子連れとか、普段のデモや集会ではまず見ないような人たちがいっぱい来ていた。
パレードは大阪城公園から梅田まで1時間半ほど歩いたが、これも普段の「デモ」とちがって、雰囲気が明るいしなんつーても自由だ。マイクを使った掛け声も、高校生のスピーチや、歌がありで、シュプレヒコールも「戦争はあかん、そうやろー!」「そーだー!」「話し合いで解決せー!」「イエーイ!」とか、まあそういう感じ。特に、高校生たちのスピーチは、こういう場では初めてだろうに、堂々と言いたいことを明確にしゃべっていて感心した。既成の政治団体主導のデモとちがって、高校生や大学生が作り出すと、こんなに雰囲気が違うものなのか。いずれにしても非常によかった。

それにしても、「人文字」を作った広場の周りには、野宿者のブルーテントでいっぱいだ。いまや、大阪城公園は大坂で最も野宿者が多いのだから、「人文字」はほとんど野宿者のテントに囲まれていたようなものだ。
しかし、ぼくの聞いていた限り、集会の間、目の前に見える野宿者のテントについて誰も触れようとしなかった。
以前、平和学習のため、大阪城公園のあたりを小学生たちを引率していた先生は、「平和学習と言いながら、野宿者のテントを素通りしている自分たちに腑に落ちないものを感じた」と言っていた。そして、その先生は自分で「野宿者問題の授業」を始めたものだった。
高校生、大学生たちが作った反戦の動きに感心しながらも、「遠い戦争」については反対しても、あれだけの野宿者の存在を目の前にして「何事もない」かのように事態を進行させていくことには、やはり「腑に落ちない」。
それもあって、ぼくは「人文字」とパレードに参加する一方、夜回りを呼びかけるビラを撒きに行ったわけである。

(読売新聞より)
「イラク戦争に反対する学生の呼びかけで、市民約二千五百人が三十日、大阪城公園・太陽の広場で「せんそうアカン」の人文字を作り、反戦を訴えた。
 大学生や高校生ら約五十人による実行委員会が、インターネットや市民団体を通じて参加を募った。文字は、広場の縦三十三メートル、横六十六メートルのスペースに約三十分間浮かび上がり、この後、参加者のうち約千人が北区の米総領事館前までデモ行進した。」


2003/3/28■ メールから・再び「ホームレス全国調査」について、など

大坂YMCA国際専門学校での「野宿者問題の授業」をきっかけにできたメーリングリストで出したメールから引用。


釜ヶ崎の生田武志です。

前回に触れた厚生労働省の調査についてですが、大阪市の調査方法について情報が入ってきました。
要するにこの調査では、比較的目立つ公園のテントだけを数えていたようです。
つまり、「シェルターなどに入った人」はまったく、そして「段ボールハウスで移動して寝る人」はほとんどカウントされていません。
したがって、大阪市の野宿者「6603人」という結果はほとんど意味がありません。そもそも、5年近く前の調査で「大阪市内で8700人弱」だったのに、それから「減ってる」わけがありません。
なお、この全国調査では和歌山市の野宿者数は75人となっていますが、和歌山市の夜回りグループによると、市内で少なくとも120人を確認したと言っています。つまり、実数は調査結果の1.5倍以上です。多分、どこでもこんな感じなのでしょう。

前回のメールでニューヨークのホームレス数の調査について触れましたが、この結果がきのう公開されました。
市の発表によると、路上のホームレス数は1780人です。しかし、この結果についてホームレス支援団体は「あまりに少なすぎる」「我々が独自に調査したホームレスの90%は、自分は市の調査でカウントされていない、と言っている」ということです。
He noted that in an informal survey of people on the street conducted by his group in the days after the survey, 90 percent of those questioned said they were not included in the city count.

一方、今、ニューヨークのシェルターには毎日「3万8000人」が寝ています。
その内訳を見ると、44%が「こども」です。そして、35%が「大人の家族」です。(World Socialist Web Site 2003年2月15日の記事による)。
現在アメリカは、90年代に進んだ所得の二極分解の後、バブル崩壊による不況とインフレの結果、家賃の高騰についていけない家族が凄まじい勢いでホームレス化していっています。

これは先ほどの浜本さんのメールの「イギリスのこどもたちの反戦活動」ともつながることですが、
きのうの朝日新聞に、アメリカの13歳の少女、シャルロット・アルデブロンが「アメリカ国旗」がテーマの作文に「布きれの旗は大事にされるのに、ホームレスは大切にされない。トマス・ジェファーソンはがっかりするでしょう」と書いたところ、国語教師は「愛国心のないことを書いた子がいる」と突き放した、とありました。
いま、彼女のスピーチがネット上で世界中で読まれているということですが、どう考えても彼女の言うことが正しい。アメリカは、「イラクをはじめ中東を民主化する」独善的な戦争をするエネルギーがあるぐらいなら、足下のホームレス問題を考えた方がはるかにいいでしょう。
なお、彼女の反戦メールはこちらです。
http://www.wiretapmag.org/story.html?StoryID=15291 」


追記(4・7)
「野宿者のための静岡パトロール」のメールによると、ホームレス全国調査では浜松が129名だったが、実際には浜松は200以上おそらく300名はくだらないはずだという。
「調査の仕方に問題があったのではないかと思われます」ということだ。


2003/3/26■ 厚生労働省による「ホームレス全国調査」の結果が出たのだが…

とりあえず、今日の読売オンラインから記事を引用する。

ホームレス2万5千、「倒産・失業」が3割超
公園や河川、駅近くなどで寝泊まりするホームレスの人たちは、全国の581市区町村にいて、計2万5296人にのぼることが、厚生労働省が初めて行った実態調査で分かった。
 面接調査では3割以上が、ホームレスになった理由に「倒産・失業」を挙げており、直前まで正社員だった人が4割にのぼるなど、不況の影響を色濃く映し出している。
 調査は今年1、2月に実施。ホームレスが多かったのは〈1〉大阪府(7757人)〈2〉東京都(6361人)〈3〉愛知県(2121人)の順だった。
 同省は、約2100人に面接調査も実施。ホームレスになった理由(複数回答)は、「仕事が減った」(35・6%)、「倒産・失業」(32・9%)、「病気や高齢で仕事ができなくなった」(18・8%)などが多い。平均年齢は55・9歳で、50歳代が45・2%、60歳代が30・6%。
 ホームレスになる前の職業は、建設作業員が34%、大工や配管工が20%と多く、経営者・会社役員も2%(46人)いた。当時の雇用形態は正社員が39%だった。収入は月1―3万円未満が22%、1万円未満16%と低水準で、無収入も35%に上る。「きちんと就職したい」という人は47%で、「今のままで良い」も13%いた。 (2003/3/26/16:18 読売新聞 無断転載禁止)

この結果については、いろいろコメントの余地があるが、なんといってもわからないのが「大坂府7757人」という数である。約5年前の調査では、大阪市で8700人弱が確認されていた。その時の調査でさえ、大きな公園しか数を数えていないことがわかっていたので、これは大阪市全体で「1万人強」が実勢人数だなとわれわれは判断していた。そして、それからさらに野宿者数が大阪市、大阪府全域で激増したことから、最近では1万5000人程度と見積もっていたわけだ。
それに対して、大阪府で7757人! 大阪市で6603人! どう考えても少なすぎる。この点は、最近の野宿者の寝場所があまりに拡散してしまっているため、調査員がその相当部分を見逃してしまったと考えるべきだろう。これから野宿者支援団体からいろんな疑問が出されるだろうから、そこから今回の調査の問題点が浮かび上がるかもしれない。
まあ、野宿者数のカウントというのは、どこの国で大問題になることで、今年で言うと、ニューヨーク市がボランティアを大々的に導入して初めて本格的なホームレス数調査を行なったが、事前から支援団体などから批判が絶えなかったあげく(「実数がわかるはずがない!」)、それもあってか未だに結果が公表されていない。今回の結果を見ても、そういう批判の正当性がよくわかるのである。
野宿者数で興味深かったのは、他では沖縄県だ。今回の調査では、158人が確認されている。失業率がヤマトの2倍という過酷な条件ながら、地域、血縁共同体の絆の強さから野宿者があまり発生しなかった沖縄も、すでに茨城県、栃木県より野宿者数が多いようだ。北海道でも142人がいるというし、これで全都道府県で野宿者の存在が確認されたことになる。
さらに、「きちんと就職したい」という人は47%で「今のままで良い」も13%、という結果は、大変疑わしい。少なくとも、われわれの現場経験からは想像しがたい数字である。そもそも「今のままで良い」というのはどういう条件で「今のままで良い」のか、ということが問題だ。
「(今のように生活保護水準以下のシェルター類しかなく、更に出口の就職の結果もおぼつかない対策しかないのであれば、それぐらいなら)今のままで良い」ということではないかと思われる。例えば、ぼくが野宿者であれば当然そう考える。うっかりシェルターなどに入っても再就職の出口がほとんど望めない今の状態では、やがて何ヶ月かあとにシェルターを出され、また野宿の場所を探すことから始める結果になるだけだからだ。
当たり前の話だが、まともな対策がなされていれば、野宿者の多くは自発的にテントや段ボールハウスを畳んでまともな収入が見込める生活に向かうはずである。誰が好き好んで、時給でいえば100円程度のアルミ缶集めでせっせと苦労するだろうか。
いずれにせよ、この結果をもとに、「ホームレス自立支援法」に基づいて全国規模の対策が作られることになる。日本における、野宿者対策の骨子がこれによって作られるのである。


2003/3/23■ 扇町公園から中之島までのピースウォーク

大坂・扇町公園から各種労組、市民グループ、個人によるイラク戦争に反対するデモがあったので行ってきた。釜ヶ崎・反失業連絡会の部隊(釜ヶ崎ではこういう用語が健在です)も100人近くきていたので合流した。
全体では、主催者発表8000人。アメリカ総領事館前を含め、約3`を歩く。
全体としては、まあ普通の穏やかなデモ。デモに参加したことのある人はおわかりだろうが、警察に厳密に規制されて道路の片隅を延々と歩くというスタイルのデモというのは、あまりパッとするものではない。むしろ、公園での集会の巨大な人の波や、在日の人々からの「投票の権利を持つあなた方の作ったこの社会の、戦争への動きをどうか停めて欲しい」という訴えが印象に残った。
ピースウォークでは、前後を他の労組の隊列に挟まれて進む。われわれの隊列のプラカードを見て、いろんな人が「野宿生活の…」「野宿のか…」とか言っていた。ま、初めて見たら、「へーっ」と思うんだろう。
(そう言えば、去年は沖縄の普天間飛行場の名護市辺野古沖への移設決定に抗議するデモにも行ったが、ここで書かなかったなあ…)




2003/3/21■ 岩波ブックレット「ホームレス問題」を読む

3月18日発行の岩波ブックレット「ホームレス問題 何が問われているのか」を読んだ。著者は小玉徹・大阪市立大学経済研究所教授。面識はないが、ぼくも入っている野宿者問題のメーリングリスト「寄せ場メール」で時々投稿をしている人だ。
目次を見ると、「はじめに」「ホームレスの素顔」「公共空間から排除されてよいか」「政府、自治体による対策の問題点」「野宿者支援団体の活動からみえてくること」「セーフティネットの再構築に向けて」となっている。
まず、■野宿当事者の数々の聞き取りを使って野宿生活や野宿に至った経緯を明らかにし(不安定就労→失業→野宿)、■特に長居公園のシェルター問題でもめにもめた「市民―野宿者―行政」の問題を出し(市民も、野宿者も、公的な就労と住居対策を望んでいる)、■行政の行なう自立支援センターの不十分さと生活保護支給に対する消極性の問題を明らかにし、■釜ヶ崎のまち再生フォーラム、反失業連絡会、釜ヶ崎医療連絡会議などの支援団体の取り組みを紹介し、■最後に、公的就労対策と住居対策の構築・強化、特にその両面をサポートした「半福祉・半就労」スタイルの取り組みを提案している。
このように、野宿者問題全体を俯瞰し、妥当な解決策を提示しているという点で、推薦できる内容のパンフレットになっている。今まで、一般の人が簡単に入手できる「野宿者問題」の入門書が全然なかったことを考えると、こういう本が出たことの意味は相当に大きいだろう。
もちろん、細かい点では突っ込みたくなる内容もいろいろある。例えば、1999年に大阪市立大学が野宿者672人に対して行ったアンケートの設問の一つ「体の具合が悪い」の結果について、「34%と意外に少ない」と書いているが、おそらくこの結果は間違っている。われわれも、夜回りその他で「体の具合はどうですか」とよく聞くが、多くの人は「いや、大丈夫」と答える。しかし、よくよく突っ込んで聞いてみると、「いやあ、実は腰の具合がどうも…」とか「内蔵に持病があるけどまあ、なんとか」といった答えがほとんどの人から帰ってくる。
つまり、「体の具合が悪いですか」と聞かれて「はい」と答えるのは、「今マジで調子が悪い」人である。持病その他で慢性的に調子がよくない場合は、「いや、今のとこはなんとか…」と、普通は言葉を濁す。われわれも、そこら辺はわかっちゃいるけど、そういう持病については聞いても手が打てないから、「ああそうですか」と済ませておく。おそらくは主に学生によるアンケートだったのだろう大阪市立大学の調査では、そこら辺の機微もわからないから「大丈夫」という答えを真に受けてしまったのだろう。
他にも、この本では、若者層については不安定就労問題にふれた上で「ホームレス予備軍」として考察しているのに、女性野宿者の問題について全く触れていない。女性野宿者は東京を中心に増加し、深刻な問題となっているのに、全然触れていないというのはどんなものか。パンフレットとはいえ「野宿者問題」全般についての本であるだけに、この点は疑問が残る。野宿者問題の要因として、家族問題(共同体の失敗)について触れていないことと、その点はつながっているだろう。
ついでに、一般市民に対する野宿者問題の啓蒙が不足している状況にも触れていない。更にはその延長で、ぼくらのやっている「野宿者問題の授業」などについても触れてほしかったというのはあるが、まあ、それを言うのはわがままというものだろう。
さて、では一読した第一印象はどうだったのか。一口で言えば、「大学(院?)生向けのテキストだなあ」という感触である。第一、前半の野宿当事者の聞き取りのあたりはいいとして、後半のあたりは文章が堅すぎる。内容的にも、行政や支援団体の取り組みの紹介になると、数字の羅列が多くなって、読むのが正直しんどくなってくる。「固くていい本」という岩波ブックレットの足並みにぴったりな内容である。くそ真面目な大学生や教養を求める社会人は頑張って読むだろうが、一般の人にはややきついだろう。ましてや、ほとんどの中学生、高校生には難しすぎる内容だ。
前々から、10代のための「野宿者問題の入門書」が必要だと思っていたが、このブックレットを読んで、あらためてその感を強くした。


2003/3/20■ イラク攻撃の開始

アメリカ、イギリスによるイラク攻撃が始まった。これほど理不尽な戦争に対しては「反対」しかありえない。この戦争は、テロを引き起こす可能性のある国家に対しては先制攻撃で立ち向かう、という対テロ先制攻撃である。こうした戦争が正当化されるなら、世の中の戦争はほとんど全部肯定されてしまうだろう。めったにない非道な戦争である。
最近、9.11テロ以降のブッシュ政権内部の議論をかなり詳細に追った「ブッシュの戦争」を読んだ。これを読むと、アメリカ政権内部で「こうしたテロを受けるということは、自分たちの世界戦略に何か過ちがあったのではないか」と考えるような反省能力が一切欠けていることがよくわかる。まあ政権というのは元々そういうものかもしれないが、世界で一人勝ちするアメリカがそういう態度で通す場合、世界全体が被る損害は計り知れないものになる。アメリカ国民のテロショック以降の「ブッシュ支持」が、さらにそれに輪を掛けている。
しかし、われわれにとっての問題は、日本の政権だ。理不尽な戦争にのめりこみ続けるアメリカにひたすら追従する日本の存在は、世界的に見て(ブレア首相がそうである以上に)笑い者なのではないだろうか。つまり、日本政府は「この戦争は正当だ」と確信しているのでもないし「間違っている」と確信しているのでもない。ただ単にアメリカについていっているだけである。こんな国は、世界から見れば全く「不必要」だ。
最近、知り合いのチェンバリストと「戦場のピアニスト」つながりでアメリカ―イラク問題などについて話したとき、ドイツの音大で学んでいたこの人は「いつも思うんだけど、同じ敗戦国でもドイツと日本は今なんでこんなにちがうんだろうって思うのよ」と言っていた。確かに、アメリカ主導の立場で敗戦処理を始めながら、外交・世界戦略に関して、ドイツと日本の態度は月とすっぽんくらいに違う。これは、戦争責任問題でそれなりに周辺各国に対して「けりをつけた」国と、日本のように幼児的な態度のまま、責任を曖昧にしてきた国とのちがいだろう。つまり、ドイツが戦争責任を「処理」した上で、ヨーロッパ統合の主役の一人として、アメリカとは異なる世界秩序を構想し実行し得たのに対して、未だ、特にアジア諸国との戦後問題で決着をつけられない日本は、ドイツのように世界的な戦略に立って自分の立場を築くことができず、ずっと強国アメリカについていくしか方法がない。
しかし、こういったことは、考えれば考えるほど解決が途方もなく難しくなって遠のいてしまう。それよりはシンプルに、このようなアメリカの非道な戦争、日本の政権に対してわずかでも対抗する手段を考えた方がいいだろう。例えば、ブレア首相の立場は、イギリス国内の世論によって相当揺さぶられていた。下手をすれば、アメリカを支持し続ければ、己れの政権が持たなくなってしまいかねなかった(ただ、今やイギリスでも戦争支持が増えてしまっているが)。そのように、各国の世論が「この戦争に荷担する政治家は今後支持しない」という圧力をかけていくことは有効かもしれない。デモでもなんでもした方がいいと思う。(とはいえ、ぼくはデモの指揮者もやったことがある一方、ふだんは釜ヶ崎関係のデモでさえまず行かない出不精なのだが…)。
その他にも、例えば「おまえには投票しないぞ」という圧力があるかもしれない。寄せ場にいるとほとんど誰でもそうなると思うが、議会政治に対して完全に失望し、投票には全く行かなくなるものだ(寄せ場のために何かしようとした政治家が今までいただろうか?)。しかし、こういった事態になって、戦争賛成か反対かで投票するかどうかを決める、という圧力の方法もあるのではないか、という気が少しし始めている。


2003/3/19■ ユンディ・リのピアノ・留置場に面会に行く

2000年のショパン・コンクールの優勝者ユンディ・リ(どーいう漢字だっけ?)のリストの作品集を聴いた。
ユンディ・リについては、ショパン・コンクールを扱ったNHK特集か何かを見て「中国から相当いいピアニストが出てきたなあ」と思って、その後もショパン中心のデビュー・アルバムを聴いていた。しかし、今回のリスト・アルバムは更に素晴らしい、深く感嘆してしまうような内容だ。
このピアニストの特徴の一つは、たぐいまれな集中力にある。我々がピアニストを聴くとき、作品に対するある距離感が透けて見えてしまうような外在的な「解釈」や「手管」を感じさせられることは多い。ユンディ・リの場合、そういった「外在性」がほとんどゼロであると言える。「愛の夢」のような超有名曲でも、深い集中力で音楽がとらえられ、従来の演奏の先入観や慣習が無効化されてしまっていることが、その第一音から感じ取れるほどである。
この集中力は、同時に音楽への「感受性の高明細度」を生み出している。つまり、ユンディ・リのピアノのもとでリストの曲は、極度の細部さえ明確にトレースする「高感度紙」にあてられたように、その優しさや衝撃や広大さといったあらゆる内容が繊細にかつ鮮やかに再現されてしまうわけである。ユンディ・リは、この「明細度」の「網の目の細かさ」において群を抜いていると思う。
長身で木村拓哉顔のこのピアニストは、コンクールでもでけー態度で他の若いピアニストたちを圧倒していた。だが、この才能を自覚していれば、ああいう態度もわからなくもないなという気もしてくる。


今日は、覚醒剤を買って捕まってしまった知り合いの面会に某警察署に行ってきた。
彼は数日前に「飯場に行ってきますので金を貸してください」とぼくのところに来たので、7000円ほど貸したが、なんとその足で覚醒剤を買い、即座に逮捕されたらしい。面会に行ったら行ったで「60円ぐらいしか手持ちがないので、差し入れしてください」と言われて、また2000円貸すはめになった。こんなぼくってお人よしなんですかねえ(他にも2万円ほど貸しているんだよお)。
彼は、元々ともだちの知り合いで、10年近く前からのつきあいになる。以前にも金を貸したりしていたが、やっぱり覚醒剤で捕まってしまい、その後、刑務所(だっけ)から「せっかくお金を借りたのに返せなくなってすみません。出たら絶対返しに行きます」と葉書をくれたりした。
出所後は、ぼくから知り合いに頼んで仕事の紹介をし、3年近く彼はその職場で働いていた。その間に、確かに少しずつ前の借金を返してくれた。しかし、職場の人間関係その他の問題で、最近ついに離職したわけである。
出所後もそうだったが、今回も彼は仕事探しには苦労していた。「職安行ったら仕事ぐらいありますよお」と自信あり気だったが、27才でまだ若いといっても、学歴中卒となると、ひじょーに厳しい。面接に何度がこぎつけていたが、すべて競争相手にやられてしまっていた。その間の生活費を貸していたが、最後に「どーしよーもないからしばらく飯場に行って土方しますわ」と行ってぼくのところに現れたというわけだ。

そういえば、1月前にも、以前に覚醒剤でラリって捕まった知り合い(30)がやってきて、「仕事がないかなあ」と相談に来た。「アルバイトニュースかなんか見てみた?」と聞くと、「あれって大体、学歴が高卒以上になってるやん」という。彼は中卒なので、なるほどそうかあ、と思うしかない。
彼の場合も、10年ほど前にうちに泊めて、一緒に資材運びの仕事に行ったりして仕事の紹介をしたが、やがて覚醒剤にハマって捕まってしまった。何年ぶりかで出てきたのはいいが、出てきたらなんとか自分で仕事をして生活しなければならない。だが、彼のような低学歴層にとっては、仕事を見つけること自体がとんでもなく難しいものになってしまっている。捜せば仕事はなんとかあった10年前とは本当に「時代が違う」。彼の姿も最近見ないが、どうしているんだろう。
そして、ご存じの方も多いと思うが、釜ヶ崎は覚醒剤がやたら多い。関西では難波の「アメリカ村」と並んで、覚醒剤のメッカなんだそうだ(何年か前にも、神戸大学の院生が釜ヶ崎で覚醒剤を買って捕まっていた)。
なにしろ、路上で売人があちこちで10何人もぶらぶら歩いていて、われわれが見ている前で平気で「売買」をやっている。掃除の仕事をしていると、毎日2〜3個は注射器を拾うという日常である。ぼくも、深夜に歩いていると、よく売人から「あるよあるよ!」と声をかけられる。結局、暴力団の資金源になるのだが、買い手になるのは、はたしてどういう層なのだろうか。
それにしても、現在の不況で最も割を食っているのは、ぼくの知り合いがそうであるように、中卒とかの低学歴の無職層かもしれない。犯罪歴があるとなると、さらにハードルは厳しくなる。しかし、彼らにしてみれば、せっかくムショを出て一生懸命働こうと思っても、仕事自体が存在しない世の中になっている。どうにもならないんだったら、いっそのこと覚醒剤でも試してみるか(初回はサービス価格だそうだ)という発想になってもおかしくないかもしれない。そして、覚醒剤は常習化してしまえば、「人間やめますか」の世界に近づいていく(あまりよくは知らないが、薬物の中でも覚醒剤は特にやばいんじゃなかったっけ)。
別に、なんでもかんでも「それは社会が悪いからだ」という趣味はないのだが、しかし、現在の不況が、低学歴の若者層にとってとつてもなく過酷なものになっているのは確かだ。そこに覚醒剤のような薬物がからむと、更に事情は悪くなってくる。こんな悪循環がたどりつくのはどんな未来なのだろうか。


2003/3/15■ メールから・女性の野宿者が少ないのはなぜなのか?

11日に「野宿者問題の授業」について釜ヶ崎内で報告した際、「女性野宿者が少ないことについてはどう思うか」「ジェンダーの視点が欠けているのでないか」などの質疑が出た。その場では時間がなくてあまり答えられなかったので、14日にその会のメーリングリストで補足をした。
そこから、女性野宿者に関する箇所を以下に引用する。
(ちなみに、釜ヶ崎ではこの問題については、「男性は自分の性に変なプライドを持っている。感情を出すことが出来ず、親密な仲間を作ることが苦手。コミュニケーション能力が不足している」という「男性問題」から説明することが多い。)


「ジェンダーの視点が欠けている」「女性野宿者の問題」については、
報告では、主に「失業に起因する野宿者問題」について触れたわけですが、それは、現状ではほとんどすべての野宿者が「仕事さえあれば、こんなところで野宿なんてしていない」と言っているという現状に立ってのものです。つまり、現状では「失業」こそが野宿の最大原因となっているためです。
しかし、野宿者問題が生まれるのは、もちろん「失業」だけによるのではありません。ぼくは、少なくとも3つの要因が重なったときにはじめて非自発的な野宿者問題が生まれると思っています。
3つとは、「失業」=市場の失敗、「家族像の変容」=共同体の失敗、「福祉政策の貧困」=行政の失敗です。
この問題については、http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/threeworlds.htmでかなり詳しく検討しているので、よろしければご一読ください。
女性野宿者にかかわるのは、失業と、そしてなんといっても家族像の変容の問題です。

野宿者問題は主要に「失業」に起因しています。しかし、例えば沖縄の失業率はヤマト(本土)の2倍であるにもかかわらず、沖縄の野宿者数はきわめて少数です(多分数十人程度)。その理由は、「失業したらヤマトに仕事を探しに行く」こともあるでしょうが、とりわけ「家族、親族の絆が強いこと」にあるのでしょう。つまり、親族・家族あるいは地域の中で、誰かが困ったら互いに助け合うという精神が強く生き残っているため、誰かが野宿生活に陥るということは少ないらしいということです。これに対して、日本=ヤマトではそうした精神が相対的に希薄化しています。そしてこの相違は、野宿者の数におそらく相当の影響を持っています。
海外を考えれば、例えばイギリス・アメリカの場合、日本以上に家族像が「個人主義」の方向へと変化しているのでしょう。つまり、こどもは働くようになったらあとは「困っても自分で何とかする」わけです。このことは若年野宿者数の(日本と比べての)桁違いの多さと明らかに関係しています(例えば、スコットランドでは、毎年1万6000人が25才前にホームレスになるそうです)。これに対して、イタリア、ポルトガルなどの南欧諸国では、日本と同程度に家族の「相互扶助」が強く残っていることが明らかにされています。韓国などのアジア諸国では更に強力です。これらの「家族像」の相違あるいは変容は、野宿者問題全般と強く相関します。
従来、家族は「無条件の相互扶助」の場でした。「こどもを育て」「老人を介護し」「困ったときはいつでも帰ることのできる」場でした。しかし、そうした家族像は徐々に変容していきます。例えば、「こどもは家や地域で育てるもの」という常識は、「保育所」の普及に見られるように、かなりの程度「たてまえ」となりました。「老いた親はこどもが介護する」という常識は、介護保険の導入に見られるように、やはり「たてまえ」となりました。もちろん、保育所を使わず、介護業者も使わない家庭は今でも多いでしょうが、それが「一般的」とは言えなくなったということです。そして、この「こどもや老人の世話」を従来、主にやっていたのは「専業主婦」でした。そういうスタイルが、女性の総合職などのフルタイム労働への進出と関連しながら変化していっています。
こうした家族像の変化は、もちろん、非難すべきものではないでしょう。例えば、イギリスがそうらしいですが、「こどもは学校を出たらあとは自活するのが当然だ」という考え方は、それはそれで一理あります。むしろ、そこから見れば、大きくなったこどもをいつまでも扶養し続ける日本の家庭は「いびつ」に見えるかもしれません。
また、離婚のような端的な「家族の解体」も、どんどん進行しています。こうした趨勢は、おそらく「倫理」やたてまえで押しとどめられるものではないのでしょう。

現在、東京を中心として女性野宿者が増えていますし、大阪でも少しずつ増加しています。われわれはその原因を直接にも間接にいろいろ聞いていますが、主要な原因は2つ、「失業」と「家族のトラブル」です。
「失業」は、女性のフルタイム労働への進出と明らかに関連しています。つまり、専業主婦がパート・アルバイト労働をするのと、例えば単身の30代、40代女性がフルタイム労働をするのとでは、「失業」の意義が全く異なります。後者では、「失業」は今まで男性がそうだったように「野宿」の危険へとつながりうるのです。
「家族のトラブル」は、まさしく「家族像の変容」の問題です。離婚の激増がそうであるように、一口ではいえないほど様々なパターンで「家族の解体」が進行しています。ドメスティック・バイオレンス、児童虐待、薬物依存、宗教の強要、家庭内離婚、等々。こうした中で、女性が居場所を失い、野宿に至るというパターンが拡がりつつあります。
以上は、この問題については日本の欧米化と言うこともできます。

事実、アメリカでは100万人〜200万人、イギリスでは100万人近くがホームレスであるという見解が地元の支援団体では有力ですが、その内訳が問題です。
例えば、ニューヨークでは毎日38000人がシェルターで夜を過ごしていますが、そのうち44%が「こども」です。そして、35%が「大人の家族」です。大人の単身者は少数派です(World Socialist Web Site 2003年2月15日の記事による)。
西ヨーロッパ全域では、ホームレス人口の5分の1から3分の1が「家族」だとされています(Time 2003年2月10日)。特に増えているのが、離婚に起因する「母子家庭」の野宿生活化だということです。
この原因には、言うまでもなく「経済」問題と「家族像の変容」の問題があります。さらに、欧米の場合は薬物依存や社会保障の問題がありますが。
この「家族像」に関して、今日本が、韓国やアジア諸国と欧米先進国との中間を走っていること、つまり徐々にアジア型を離れて欧米型に近づいていることは誰もが認める事でしょう。
したがって、「なぜ野宿者に女性が少ないか」という設問は、「なぜ今まで女性野宿者が少なかったのか」として考えた方がいいと思います。その解答は、女性を取り巻く「就労」と「家族像」の変容という、社会構造的な面に求められるだろうと思います。


2003/3/6■ 放火襲撃されたSさんの退院

2001年夏に日本橋で全身にガソリンをかけられ放火されたSさんが今日、ついに退院した。今日、最後の事務手続きを終えたあと、病院から運送屋に頼んで荷物を新居に運び、そこでガイドヘルパーや福祉事務所の担当者との最終的な打ち合わせをした。それから、NPO釜ヶ崎の知り合いに頼んで車を運転してもらって近所のデパートに行き、いすや机などの生活用品を買ってアパートに運びこんだ。普通の場合だったら、「要るものがあったら自分で少しずつ買っていってね」ですむが、何せ「障害1級」の人だからそういうわけにはいかない。そうして、暗くなった頃にようやく「さよなら」をした。
Sさんについては、野宿者問題の授業に行ったYMCA国際専門学校の関係者の何人かがお見舞いに行ってくださり、なるべく何かある度にこちらからメールで報告を出すようにしていた。次は、その最後(になるはずの)メール。


Sさんのお見舞いに行かれたみなさん

今日、Sさんが退院しました。
午前中、浪速区役所で最後の事務手続きを終えたあと、昼1時半からSさんと末政さんと病院で合流し、運送屋に頼んで荷物を新居に運びました。
その後、区役所から発注された介護用ベッドや電磁調理器などの運び入れ、担当ケースワーカーやガイドヘルパーとの打ち合わせをし、それからNPO釜ヶ崎の人に頼んで車で近所のデパートで生活物資(炊飯器、いす、机、掃除機、ラジカセ、食器、シーツ……)を買い入れ、運び込みました。
ガイドヘルパーは明日から入るそうで、明日の朝食までこちらで用意し、とりあえず明日の朝まで大丈夫なことを確認して、6時過ぎに別れました。
これでとりあえず、2001年7月29日早朝の放火襲撃以来続いた入院生活が終わり、重大な後遺症は残っていますが、ガイドヘルパーの介助を得ながら「普通の生活」をSさんは送ることになります。

部屋から出る時、Sさんにはこう言いました。
「放火して入院してから、ずっとお見舞いに来てたけれど、こうして退院してアパート生活になったんで、ぼくはこれからからはめったに来れなくなりますよ。ヘルパーさんたちと相談しながら、元気でやっていってくださいね」。
Sさんは「これからも来てもらわんとあかんやないか」と言っていましたが、ぼくは「近いから、そこら辺できっと会いますよ」と言っておきました。まあ、昼間にいるNPOの電話番号も渡しているし、いざとなったらSさんから連絡してくるでしょう。
もちろん、アパートに入ってからも、こちらからたびたび訪ねていって相談に乗ったり話をしてもいいのですが、回復して通常の生活に戻っていること、ヘルパーが毎日入って来ることを考えて、ぼくの役割はほぼ終えたと考えています。凄く手厚い人だったら「どっちか死ぬまで」Sさんのところに通うのかもしれませんが、ぼくにはそこまでできません。平たく言えば「何もかんもできん」ということです。実は、ぼく自身も「これでいいのかなー」と思うところはありますが、これは多分、活動に対する人それぞれのスタンスの問題なので、どこかで区切りをつけざるをえないと思っています。
「しかし、最初に見たときは、Sさん、死ぬか生きるかみたいな感じだったのに、よくここまで回復しましたね!」と言うと、「そうやろ、そうやろ」と、入院当時の事をいろいろ言っていました。
事実、入院直後の全身に生々しい火傷を負った惨状は忘れることができません。あれを見たとき、「犯人は完全に殺す気でやっている」と悟りました。
その後も、お見舞いに行かれたみなさんはおわかりの通り、Sさんの回復があまり進まず、「何を喋っているのかほとんどわからない」「こちらが話しても反応が返らない」「どういう人なのかもよくわからない」と言う状態が続きました。
大和中央の医師が言ったように、「痴呆が進んでいるよう」な感じもありました。しかもこのまま入院していても、はたしてどの程度まで回復するかもわからず、先が見えないため、お見舞いに行っても暗然とした気持ちになるばかりの時期もありました。
こうした時期にお見舞いに行っていただいたみなさんには、本当に感謝しています。特に末政さんは、何度もお見舞いに行ってくださり、リハビリや突発的なSさんの呼び出しでの買い物につきあってくださるなど、本当に助かりました。
その後、Sさんの回復が進み、「言語明瞭」「言いたいことを言う」状態になりました。ここ半年で退院が見えてきて、ようやく安心してきたと思います。この時期以降は、むしろSさんに対して腹の立つことも何回かありましたし、今後もヘルパーのみなさんにご苦労をかけるのではないかと思ったりします。しかし、何よりも、あのような想像を絶した襲撃を受けた一人の野宿者が、みなさんのお見舞いをはじめとする支援を受けながら、退院、アパートでの一人暮らしという形で回復を遂げたということを喜びたいと思います。
最後に残った問題は、襲撃した若者(という目撃証言です)が依然として発見されていないということです。また、今も全国で野宿者に対する襲撃が続発しています。今後も、ガソリン類を使った放火という残酷な襲撃が起こりうるのかもしれません。襲撃を受けた野宿者への支援とともに、こうした襲撃を絶滅するために何が可能か、みなさんとともに考えていきたいと思っています。」


2003/2/26■ 「開発教育」47号の「研究実践事例」

世界の南北問題や環境問題に教育現場で取り組むことを目的とした開発教育協会の機関誌「開発教育」47号に、「研究実践事例」として「高校生対象の『野宿者問題の授業』実践について」という報告を、その授業を行った大阪YMCA国際専門学校・国際高等課程(IHS)の浜本裕子先生(関西NGO大学の副校長でもある)と共同で出した。今日、浜本さんから雑誌を受け取ってきた。
もともと、去年の夏に開発教育協会の全国集会で浜本さんと一緒にこの授業についての発表をしたのがきっかけで、執筆依頼を受けていた。
雑誌の他の報告を見ると、「日本の識字問題から多文化共生・海外協力へ」「韓国における開発NGOの現状」、他にも「グローバリゼーションと開発教育」「私たちの暮らしと南北問題」といったものが並んでいる。
報告している授業は、2001年から2002年にかけて行ったもので、「野宿者問題の授業」のページに授業の概要や生徒の感想文を含んだ詳しい報告を出している。授業の全体像についてはそのホームページを見てもらった方がやっぱり早い(「開発教育」の報告はスペースの関係でかなり切りつめている)。
しかし、こういう機関誌での報告によって、教育現場でほとんど取り上げられることのない日本の野宿者問題について、南北問題や環境問題に関心のある先生たちに眼を向けてもらう機会が得られるかもしれない。報告でも触れたが、日本で激増する野宿者の問題は、先進国内部での「南北問題」であり、第1世界内部に生まれつつある第3世界問題と言うべきものだ。そしてこれは、「第3世界の都市部に突出して生まれる第1世界」の問題とかなりの程度連動しているはずである。一言で言えばグローバリゼーションによる世界的な貧富の差の拡大。
以前にもこの「近況」で紹介したが、現在ニューヨークでは毎晩4万人近くの人がホームレスとなってシェルターで寝ており、しかもその8割は子どもや家族のホームレスなのだという。また、最近読んだ「TIME」の記事によれば、モスクワ市内では控えめに見ても10万人がホームレスとなっており、8000人以上が冬季に凍死したという(!)。西ヨーロッパ全体としても、歴史上最大数のホームレス問題を抱えている現状にある。こうした野宿者の状況は、もはや「国内難民」とでも言うべきものだろう。
アフガニスタン問題で活動した当時の国連難民高等弁務官の緒方貞子は、現在の難民問題はもはや「国家」レベルでは解決不可能であると言っていた。先進国の野宿者問題についても同じ事を言うべきではないかと思う。20世紀は「難民の世紀」と言われたが、少なくとも幾つかの先進国では21世紀は「ホームレスの世紀」となる可能性がある。そして、これが単独の「国家」の力によって解決できるかどうかは疑問であると思う。


2003/2/21■ 放火襲撃されたSさんとアパート生活の手続きへ

2001年夏に日本橋で全身にガソリンをかけられ放火されたSさんへのお見舞いは続けているが、繰り返しの手術を経て、重大な後遺症は残りつつも回復は進み、生活保護をとってアパートで暮らす計画がようやく具体化してきた。
ただし、着替えや風呂は自力ではできない状態なので、ガイドヘルパーに来てもらう形になる。
もともとSさんアパートを借りてヘルパーさんにきてもらう生活を希望していたが、この場合、ヘルパーに来てもらうには
▼「介護保険を適用する」▼「障害者手帳で(多分)2級以上を取得する」
のいずれかの必要がある。
介護保険はもともと老人性疾患が対象であるため、Sさんのような「火傷の後遺症」は対象外。しかしSさんは、今回の火傷で障害1級(普通、ちょっとやそっとでは取れない)を取っていたので、このラインでヘルパー派遣が可能となっている。
そうした事情を考え、医師や福祉事務所のケースワーカーと相談した結果、
「退院決定→アパート確保→居宅生活保護決定→退院」という流れでいく話になっていた。
病院によっては(福祉についての無知のせいで)話がまったく進まなくて何度も話の整理に行かなくてはならない場合もあるが、今回はスムーズに流れている。

10日ほど前に、YMCA国際専門学校の縁でよくお見舞いに行っていただいている方とぼくとSさんの3人で、退院後に住むアパートを探しに行った。これは、Sさんの10日前に放火されたKさんの時と同じパターン。
その結果、ワンルームマンションで洋式トイレのえらい良い部屋をゲットし、今日の「福祉事務所で入院から居宅生活保護に変更・ガイドヘルパーの申請・不動産屋で本契約」の日を迎えた。
居宅生活保護決定については、書類をペタペタ処理するだけで、特にどうってことはない。一方、ガイドヘルパー派遣の問題については、デイサービスを使うか、ヘルパーの滞在時間(普通、1日2時間ぐらいまで)、朝ご飯はどうするか、どこの病院にリハビリに行くか、果ては洗濯機を買った方が得かどうか(洗濯機がないと、ヘルパーにコインランドリーに行ってもらわなければならない。そうすると、それだけで1時間近くかかってしまい、他のことができなくなる)ということまでいろいろ担当者から話を聞いて相談する。
そもそも、ヘルパーはお手伝いではなくて、障害の介助に来る。つまり、自分でできることは自分でしなくてはならない。しかし、それはアパートの構造(ガスが使えるか、どういう台所か)によって事態がちがってくる。そのため、とりあえず、アパートへヘルパー派遣者と福祉事務所の担当者とが家庭訪問し、そこでどういう介護をするかを決めていくという。
しかも、生活を始めて3日間は、自分だけで暮らしてみて、その上でどういう介護が必要か確かめる必要があると言う。そして、その3日間については「ボランティアの方に頑張っていただくしかないですねえ」ということだ。(こっちだってヒマに暮らしているわけじゃないから、そう言われてもホントのところ困る)。
いつも思うことだが、「では、ボランティアがいない人の場合、どうするんだろう」と疑問が起こる。多分、なんの援助もなく、ほったらかしなんだろう。とはいえ、この浪速区の福祉事務所は、我々の地元の西成区福祉事務所と比べれば、いろんな意味ではるかにマシなのだが…
そこから更に不動産屋に行って契約をする。ここでも「この火災保険は今回はわたしどもでサービスしますが、3年後には1万5000円が…」などいろんな話を聞き、ぼくでさえ結構疲れる。Sさんを見ると、もう眼がどこかはるか遠くを見ていた。無理もないことである。しかし、これでアパート生活の具体的なプランができあがってきた。


2003/2/17■ 緑地公園での少年たち30人による野宿者襲撃事件

土曜日の夜回りでは、14日(金)未明に起こった守口市の緑地公園での少年30人近くによる野宿者襲撃事件で話題がもちきりだった。こちらがふるまでもなく、「緑地公園でこどもらにやられてるねー」と路上の野宿者から言い出してくる。
この事件は、全国的に大きなニュースになっているが、実のところ、なぜこれが大きなニュースになったのか、ぼくにはよくわからない。肋骨を折られた程度の襲撃は「よくあること」だが、それがいつも報道されるわけではなく、たいてい無視されているからだ。
スキャンダラスだったのは、少年たちが「30人」近くで襲ってきたという点だったんだろう。確かに、鉄パイプやバット、ナイフ、バーナーを持ってバイクに乗った13から18才の少年たち(英語報道では「GANG」となっていた)が襲ってくるという情景は、考えてみると恐ろしいものがある。肋骨を折る重傷だったということだが、「殺されなくてよかったなあ」とさえ思ってしまう。
彼らのうち10数人は、ニュースで事件が大きく報道されているのを見て「大変なことをしてしまった」と言って自首してきた。だが、彼らは何を「大変なこと」と考えたのか。野宿者に重傷を負わせたことか、それとも「大きなニュース」になってしまったことなのか。
下にも書いたが、野宿者襲撃は予想を超える勢いで急増し、もはや我々がその事件すべてを追求することは不可能になっている。今まで野宿者がいるとは聞いたこともない地方都市で襲撃が続発している状況に対応するには、従来の寄せ場、野宿者運動の力量はあまりに小さい。
こうした事件の続発は、きわめて近い将来、地域住民の「ホームレスを地域から排除し、遠方に隔離せよ」という動きを間違いなくもたらすだろう。
しかしその一方で、襲撃事件の分散化は、各地域での少数の人たちの「野宿者問題について、自分たちに何ができるのか考えよう」という動きももたらす可能性があるだろう。少なくとも、身近で起こる襲撃事件に対して、心を痛める人は多数いるはずだ。
つまり、これら深刻な事件の発生は、同時に問題の新たな社会化の一歩となる可能性をも持っている。しかし、そうした動きを作っていくべき我々には、まだその最初の「核」さえ見つけることができないでいる。


2003/2/12■ 続発する野宿者殺人事件
            ・NHKスペシャルの「こどもの里」のドキュメント


パソコンの調子はずっと悪く、「システムの復元」を使うとフリーズし、幾つかのアプリケーションは起動もアンインストールもできない。基本的なファイルが壊れてしまった模様(ただし、ウィルスはいない)。いつデータが全滅してしまうかわからないので、バックアップなどの対策を急いでいる今日この頃である。

イラク問題が緊迫し、さらに北朝鮮問題の報道が加熱する中、国内ニュースを見ていて我々が感じるのは、最近の野宿者殺人事件の多発である。

■3日午前4時半ごろ、さいたま市桜木町のJR大宮駅西口の歩道橋上で、30歳ぐらいの 男が、寝ていたホームレスの男性5人に金を要求、顔などを殴って逃走した。殴られた 男性が付近の交番に通報。5人のうち住所不定、無職の自称大久保三郎さん(72)が病院 に運ばれたが、脳挫傷で死亡。ほかの4人も軽傷を負った。大宮署は傷害致死事件とみ て、逃げた男の行方を追っている。
 調べによると、男は5人が歩道橋で寝ていたことに因縁を付け、場所の使用料を要求 した。 (時事通信)

■5日午後7時50分ごろ、東京都世田谷区大蔵の大蔵運動公園で、都内に住む町田市内 の私立中学3年の男子生徒(15)が、ホームレスとみられる男性の左肩をナイフで刺し た。男性は病院に運ばれたが、死亡した。死因は失血死とみられる。成城署は傷害の 疑いで男子生徒を逮捕。 (時事通信)

■ 東京都港区のJR品川駅の山手線ホームで6日夕、雑誌集めのトラブルから無職の小宮 信夫さん(38)を線路に突き落とし、殺人の現行犯で逮捕された男は、警視庁高輪署の 調べで、住所不定、無職竹田英生容疑者(30)とわかった。竹田容疑者はJR新宿駅で寝 起きしているホームレスだという。

■テント生活の女高生ら、ホームレス殺害容疑で逮捕
 11日午前10時15分ごろ、水戸市中央の桜川に男性の死体が浮いているのが見つか り、水戸署は同日夜、水戸市内の私立高校3年女子生徒(18)と、いずれもホームレスで 住所不定、無職の平野直也(32)、弟の英雄(30)、中野芳弘(21)の計4容疑者を殺人の疑 いで緊急逮捕した。
 女子生徒は高校に籍を置いているが、昨年暮れから約2か月登校しておらず、平野直 也、中野容疑者と共に、桜川にかかる橋の下のテントで生活していた。女子生徒は中 野容疑者と交際しており、直也容疑者のテントに住みつくようになったという。
 調べによると、4人は10日午後11時半ごろ、桜川にかかる美都里橋下の河川敷で、 ホームレスの住所不定、無職海老根治さん(34)の頭をけるなどし、殺害した疑い。4人 は犯行後、海老根さんを川に投げ込んだことを認めている。
 10日夜、別の場所に住む平野英雄容疑者が遊びに来てテント近くで一緒に酒を飲ん でいるうち、英雄容疑者と海老根さんが口論となり、4人で海老根さんに暴行を加えた らしい。(読売新聞)


これはここ数日の報道だが、この1年をとっても中・高校生の野宿者襲撃は明らかに以前のペースを越えて激発している。
激化の最大の原因は野宿者数の増加にあるが、事件数の増加はどう見てもその割合を超えている。つまり、要因は他にもある。
おそらくそれは、いままで野宿者の姿を見ていなかった地方都市や郊外で野宿者が生活を始め出したことで、地域住民たちの拒絶反応が強いことによるのだろう。
大阪をはじめとする大都市圏では、野宿者の姿自体は「日常風景」に近いため、襲撃は多いとはいえ、殺人に至ることはさすがにめったにない。それに対して、地方都市では野宿者の存在そのものが異常に目立つ。そのため、「排除」の物理的暴力が一気に向かってしまうということがあるのではないか。大都市が比較的雑多な空間を形作っているのに対し、郊外や地方都市が比較的均質な空間を作っていることも関係するだろう。地方都市、郊外でのこうした野宿者襲撃の激化は、これからも続くのかもしれない。

しかし、最近の野宿者殺人事件の新しい傾向は、なんといっても野宿者どうしでの殺人である。以前にはこうした形の事件はめったになかった。
まず、従来の日雇労働者中心の野宿者の世界では、みんなが元々「仕事仲間」である上、野宿にいたった経緯も、そもそも出身階層も大体が同じものだった。そういう事情もあって、お互いのプライバシーを尊重しながら、できるところは助け合っていくという流れが明らかにあった。
しかし現在の野宿者は、野宿に至った経緯もバラバラ、元の生活もバラバラで、お互いに何をどう考えているのかわからないというところがある。その上に野宿者数の増加のため、狭い空間を隣り合わせに暮らすことを強いられてしまう。事件が多発するのも当然という気もしてくる。
それにしても、11日発見の事件には驚かされる。水戸市で野宿している女子高校生たち若者が、34才の野宿者を殺してしまうというこの事件は、今までの日本では絶対にありえなかった類のものだ。おそらく、こうした事件はこれからたびたび起こっていくだろう。そして、こうした事件の続発は、まちがいなく地域住民たちの「ホームレス排除・収容」の動きを招き寄せるだろう。こうした想定される流れに対して、我々ができることは何なのかは、難しい問題になるにちがいない。


9日の日曜日夜9時からのNHKスペシャルで、釜ヶ崎の「こどもの里」のドキュメント番組が1時間放映された。ぼくはうっかりして見過ごしてたが、知り合いが録画したビデオを貸してくれたので、今日初めて見た。
詳しい内容を書いてたらきりがないが、話には聞いて大変そうだなーと思っていた「里」での共子さんとこどもたちとの共同生活のスナップがテレビで映し出され、興味津々で見た。何人かは、「ああ、あいつか」と見覚えのある子だったし。(ぼくは、釜ヶ崎キリスト教協友会のもう一つのこどもの施設である「山王こどもセンター」の人間で、その縁などで「こどもの里」にも時々行っている)。
登場するこどもたちの様子は、親を亡くし、障害を抱えた親と一緒に暮らしながら家事や妹、弟の世話をしたりと、普通の日本のこどもたちの生活からは想像を絶したものだった。そして、その中で、人生の中でおそらくめったにないような、きらめくような素晴らしい表情や眼をこどもたちがしていて、胸が衝かれる思いがした。見てない人は、再放送のときにぜひとも見るようお勧めする。

その番組を見た神奈川の中学生が、なぜかNPO釜ヶ崎のホームページを通じて感想のメールを送ってきていた。「こどもの里」にはホームページがないので、とりあえず見つけたNPOのページに送ったのだろう。NPOの事務の人がぼくが「こどもの里」の知り合いなのを知っていて、そのメールを持っていくようにと渡された。
それで、夕方に「里」の共子さんに持っていった。共子さんに「こういうメールは他にも来てるんですか」と聞くと、いや、メールはまだ開けてないと言う。ただ、NHKを通じて、電話はいろいろ来たそうだ。非常にいい内容だったので、反響は相当にくることだろう。


2003/2/10■ このパソコンは危機的な状態に

この3日間、時間のある限りパソコンの前に座って復旧作業に追われている。
詳しい話は書いてもしょうがないが、ともかくいろいろあった末、現在はOSの起動がものすごく難しい状態。今日も電源を入れてから2時間経ってようやくアプリケーションが開ける状態になったので、これを書いている。
終了にやけに時間がかかったりと、しばらく前からどうもおかしいと思っていたが、ついにこのパソコン(というかOS)は危機的なところに来たらしい。
というわけで、このサイトを始め、メールなども、もしかしたらしばらく使用不可能になるかもしれませんので、その点をよろしく!


2003/2/4■ 月刊「ガバナンス」の巻頭グラビア

巻頭グラビアに文章を書いた月刊「ガバナンス」(ぎょうせい)2月号が届いた。
以下は、「寄せ場メール」で出したお知らせ。

「釜ヶ崎の生田武志です。

1月27日発行の「月刊ガバナンス」(ぎょうせい)2月号の巻頭グラビア「野宿者の肖像」に文章を書きました。
「月刊ガバナンス」は、町役場、区役所、市役所、県庁などの官庁をほぼ網羅した雑誌で、実売4万部程度ということです。
グラビアの内容は、西成公園に住む79才の藤井さんをメインに取り上げたもので、藤井さんの生い立ち、現在の野宿生活のあらまし、全国の野宿者問題の現状を書いています。
(藤井さんへの長いインタビューは、野宿者ネットワークのホームページにあります)。
ぼく自身のねらいは、西成公園シェルターへの入所を拒否している藤井さんの言葉を通して、現在の行政の野宿者対策の不十分さを浮き彫りにしたい、というものでした。
雑誌の性質上、直接の行政批判は控えざるをえませんでしたが、事実をして語らしめることはできただろうと思っています。

写真はカメラマンの高坂敏夫さん。「寄せ場」6号にも「笹島・春夏秋冬」を出されています。
今回のグラビアは、1年前の月刊「現代」に書いた記事を読んだ編集者からの依頼によるものでした。この編集者はこの回のグラビアに大変力を入れていました。「野宿者の肖像」というタイトルも、この人のつけたものです。
機会があればご一読ください。」


2003/2/1■ たまに釜ヶ崎内の夜回りへ行くといろいろ驚く

11月11〜12日にも来た「きのくに高等専修学校」(ホームページ参照)の生徒たちがもう一度やってきて、夜回りなどに参加した。
そのため、釜ヶ崎キリスト教協友会の越冬夜回りの金曜日の担当、「喜望の家」から夜回りに出た。
喜望の家からの夜回りは、9時半集合・10時出発で、終了は1時半! 家に帰ったら2時ぐらいで、いつもは11時には寝ているぼくは頭がもうふらふら。しかし、釜ヶ崎にきた最初の年の越冬では、ぼくはこの金曜夜回りを始め、ほとんど毎日の夜回りに参加していた。今から考えれば信じられないエネルギーだ。あの勢いっていうのは何だったんですかねえ。
さて、いつもは日本橋を夜回りしているぼくにとっては、たまに釜ヶ崎内を夜に回るといろいろ驚くことがある。
一つは、飛田商店街の中で、段ボールも敷かず、毛布もなしの着の身着のままで野宿している人がいることだ。年は多分60才ぐらいだが、我々が「毛布があるから使ってください」と声をかけても、「いらん!」と首をふるばかり。いつもこうして寝ているので毛布を勧めるが、受け取ったことはないらしい。ちなみに、最近の最高気温は日中でも1度とか6度とかで、夜は零下なんだが。
日本橋などでも毛布なしで寝ている人はごくたまにいるが、話を聞くと「寒くて寝られるわけがない」ので、しばらく横になってるだけで、すくぐあちこち歩いて空き缶を集めに行くという。
しかし、この人の場合、この着の身着のままの状態で朝までいるらしい。「まねできないなー」とあとでみんなで言い合った。



2003/1/31■ 暗号ソフトの導入

最近、自分のサイトと野宿者ネットワークのサイトに、暗号ソフトPGPの公開鍵をアップした。これで、ほぽ確実に第三者から傍受されずにメールをやりとりすることができる(まだ実際に使ってないので、何か設定でまちがいがあるかも)。
以前からPGPを使おうと思っていたが、なぜか鍵の生成がうまくいかなかった。最近、PGPバージョン8.0が出たのを機会にもう一度やってみたら、今度はあっさり生成できた。
常識的なことだが、メールのやりとりは葉書のやりとり以上に「裸」で、とりわけ通信傍受法が成立した現在、公安関係者がその気になれば誰のメールの中身でもすべてホイホイと見放題の状態にある(一応、医師や法律家、宗教家は別だとされているが)。これに対処するには、メールを使おうとする限り今のところ暗号ソフトの導入しかない。そして、導入すればほぼ完全に傍受は回避できる。しかもPGPはフリーソフト。特に運動関係者にとっては、生活必需品に近いソフトである。(よく知られているように、PGPの開発者ジマーマンは活動家で、もともと国家のスパイ活動に対抗するためにこのソフトを書いた)。

ぼくも活動家のはしくれなので、盗聴問題には日常的に気を配らざるを得ない。つまり、釜ヶ崎の活動家に対する警察・公安関係からのチェックは(昔ほどではないにしても)非常に厳しく、例えば電話は「盗聴されている」ことを前提に使っている。例えば、活動の日程や運動内部の問題については、電話では決してしゃべらないのが我々の間では常識である。
別にこれは自意識過剰でもなんでもない。例えば90年暴動のしばらくあと、ぼくのアパートの大家の所に、大阪府警の刑事たち数人がお菓子と一緒にぼくのでっかい顔写真(!)を持って訪問し、「この生田というのは過激なことをやっているようなので、気を付けた方がよい」みたいな事を言ったらしい。
それに対して大家は奇特な方で、「いえ、あの子はいい子です」みたいに返答したという(あとで不動産屋が教えてくれた)。普通の大家だったら追い出されているよね。
その後も、大阪府警の刑事が「最近この近辺で空き巣が多発していますから」といって、アパートを頻繁に訪問し始めた。最初は「そうなのか」と思って普通に対応していたが、(実際、その刑事はうちのアパートのお年寄りの部屋に、新型の鍵を付けてあげたりしていた)、段々ぼく個人の部屋を訪問して話をしかけてきたり、「アパートの何々さんの件で一度じっくり外でお話ししませんか」などとモーションを繰り返しかけてくるのには閉口した。適当な事を言って常に断っていたが、その後、その刑事がたびたび西成署に出入りしているのを発見して「やっぱり」と思った。要するに、ぼくがどういう人間なのかをアパート戸別訪問で確かめようとしていたのだろう。
もちろん、ぼくなどはまだいい方で、釜ヶ崎で活動する知り合いのキリスト者は、まったく覚えのない暴行事件で起訴されたりしているし(ほとんどカフカの世界)、他にも越冬中のパトロールで「道路交通法違反」で逮捕されたり、あるいは遠方の実家にまで警察がやってきたり、本当に大変だ。釜ヶ崎内には、監視カメラが10何台もまわっていて、路上でも常に監視されているし。
(それにしても、警察はこんな公共の役に立たない、むしろ有害なことに時間と労力をかけてどういうつもりなのだろうか)。
そういう状態だから、当然電話なんかは盗聴されているものと考えざるをえない。もちろん、本当に盗聴されてるかどうかは確認のしようがない(警察が「うちの電話を盗聴してますか」と尋ねられて、「はい、やってます」と答えるはずがない)。とすれば、盗聴を前提に生活するほかないのである。もちろん、メールも同様だ。


そういう活動上の問題とは別に、暗号はそれ自体が興味深いテーマである。
ご存じのように、PGPは「公開鍵暗号」だ。つまり、誰かが例えばぼくに暗号メールを送る場合は、ぼくのサイトにある「公開鍵」を使ってメール本文を暗号化して送信する(PGPは実際にはちょっとちがう)。
「鍵が公開されているなら、暗号化されたメールもその鍵を使って誰にでも復号化できるのではないか?」。
しかし、それが不可能なのは、公開鍵暗号が「一方向関数」を使って、暗号化は簡単だが復号化が極端に難しくなる仕組みになっているからだ。その核心は、素因数分解の困難にある。つまり、100ケタくらいの2つの素数のかけ算はあっちゅー間にできるが、その逆はスーパー・コンピュータでも非常に難しい。というか現実的に不可能である。この性質を使えば、公開鍵による暗号が実用可能となる。この公開鍵暗号の発明は、「現代暗号の上で最も重大な発見」「暗号そのものの発明と同等に重要な発見」などと言われている。現在、我々が行うネット上の取引がこれなしにはありえないことを考えれば、その重大さは明瞭である。
暗号については、最近よい本の翻訳が進み、情報が入りやすくなった。シンの「暗号解読」、レヴィの「暗号化」が一例だが、ディフィー、ヘルマンの公開鍵暗号概念の発明や、それを現実化するRSA方式の発見、そして、それらを数年先んじて発明していながら死ぬまでオープンに出来なかったイギリスの政府機関の暗号学者たちの人間ドラマ、そして武器輸出法と闘ったジマーマンの話などについて、これらの本は非常に丁寧に紹介している。
一方で、剰余算に関するフェルマーの定理を使ったRSA方式の数学的説明など、暗号のテクニカルな部分について、これらの本は非常に弱い。RSAは、ちょっと頑張れば理解できる程度の数学なので、わかるように厳密に説明することは可能なはずだが、これらの本はそういった点の関心は薄いようだ。
更に、シャミアたちが(再)発見した重大な暗号攻撃である「差分攻撃」(NTTの開発した暗号方式FEALはこの差分攻撃で破られた)、あるいは「ゼロ知識対話証明」(AとBが対話しながら、Aが秘密情報を全くもらすことなく、その情報を知っていることをBに納得させる方法)といった、暗号学上きわめて重要な方法についてもほとんど触れていない。
これらについて、数学的にきちんと解説した一般向けの本としては、今井秀樹「暗号のおはなし」(日本規格協会)がある。1993年に出た本なので、特にネット上の問題についてはすでに古いが、現代暗号の解説としては、ぼくが読んだ10冊程度の本の中では今でもピカイチである。(なお、暗号の数学的な専門書は、ぼくにはそれこそとても解読できません)。暗号に関心のある人にはお勧めである。



2003/1/27■ カスパロフ対ディープ・ジュニアの闘いが始まった

現在国際チェス連盟(FIDE)のレーティングによる世界ランキング1位のチェス・プレイヤー、カスパロフと、3年連続コンピュータ・チェス・チャンピオンのプログラム「ディープ・ジュニア」との対戦が始まり、26日、カスパロフが1勝した。
この試合は、FIDEの公認のもとで行なわれる。人間対コンピューターの対決で、FIDEが人間以外の競技者を認めたのはこれが初めてだ。これによって、コンピュータが対戦相手として公式に認められるようになり、多くのトーナメントに人間とともに出場する可能性もあるという。
ずば抜けた読みの深さと、アリョーヒンにも似た耽美的で特異な発想によって長らくチェスの世界の頂点に立ち続けてきたカスパロフは、史上最強のチェス・プレイヤーとして広く(おそらくロバート・フィッシャーを除いて!)認められている。
一方の「ディープ・ジュニア」は、1996年と1997年にカスパロフが闘った「ディープ・ブルー」の後継プログラムとされている(「ディープ・ブルー」がチェス専用のスーパー・コンピュータであるのに対し、「ディープ・ジュニア」はパソコン上で動くプログラム)。1997年の対戦でカスパロフは1勝2敗3引き分けで敗れ、「ついにチェスにおいて人間がコンピュータに敗れた」と言われた。だがその後のレポートを読む限り、この時の対戦は人間にとって不利な条件が重なっていた上、「ディープ・ブルー」チームの態度がカスパロフの不信を買い、カスパロフが集中力を段々なくしていったことがよくわかる。特に第2局の内容的な素晴らしさは別として、人間対コンピュータの対決としては公平なものではなかったようだ。したがって、最近行われた世界チャンピオンタイトルホルダーのクラムニク対ディープ・フリッツ(引き分け)とともに、この対局が正確な意味で人間とコンピュータとの頂上対決となるだろう(プログラム選考での不明瞭ないざこざは伝えられているが…)。

と、わかったようなことを言っているが、ぼくは動かし方がわかる程度のチェスの初心者で、ある程度知っているのは将棋の方である。将棋のコンピュータソフトも時々買っているが、その実力が年々高まってきていることは実感していた。
事実、今持っている「東大将棋4」は、明らかにぼくよりも強い。必敗状態になってから何度も「待った」してもやっぱり負けてしまうのだから、どう見ても相当に実力が違う(「東大将棋2」ではいい勝負だったのに)。事実、将棋ソフトはプログラムの研究の進化によって毎年0.7段ずつ強くなっているという。この調子で行けば2013年には名人クラスに到達するらしいが、それが現在のチェスソフトの状態であるわけだ。
かつては、「チェスのような高度なゲームにおいては、人間の創造的な直感や総合的な陣形判断にコンピュータが対応できるわけがない」と言われていたが、こうした考え方は、コンピュータのハード・ソフト両面での進歩によって無効となってしまった。間違いなく、チェスでも将棋でも囲碁でもコンピュータは人間よりはるかに強くなっていくだろう。
ぼくが関心を持つのは、コンピュータが人間を更に越えて強くなっていったとき、コンピュータがチェスというゲームをどのように変化させてしまうかという点にある。それは、例えば「先手必勝」のパターンを発見してしまうのだろうか。あるいは、○×ゲームがそうであるように(最善手を続けた場合)有限のパターンをすべて発見し、チェスというゲームを事実上終わらせてしまうのだろうか。それとも、人間には予想もできなかった新たな「定跡」を発見していくだろうか。実際、ある種のチェックメイト問題については、コンピュータは従来の定跡からは説明できない最短の解を出して見せている。
かつて将棋タイトルを完全制覇した羽生善治は、その史上最強といわれる実力に加え、将棋というゲーム自体への反省的思考によって例外的な存在だが、彼は「将棋の神様と指したとしたら、角落ちでなんとかなるかもしれない」とよく言っている。だとすれば、将棋というゲームは、いわば実力12段あるいは13段程度で完全ゲームが可能と言うことなのか。とすれば、計算通りにいけば2020年までにはコンピュータは将棋というゲームを極めてしまうのだろうか。
将棋に先行するチェスのコンピュータ・ソフトは、今、人間のトップとほぼ互角に闘いながら、やがて人間の能力を越えたゲームの未来を見せていくはずである。


2003/1/18■ 越冬の終わり・そして路上死

相変わらず釜ヶ崎では年末年始が最も忙しい季節で、「お正月」は存在しない。元日に郵便受けを見て「あ、年賀状というものがあったんだ」と思い出す状態が10何年も続いている(年賀状をくださる方々、ごめんなさい)。
今年も、1月1日は西成公園の餅つき大会、2日、3日は野営闘争(依然として続行中)の大阪府庁前から大阪市役所前への引っ越しと建て込み作業、そして4日からは仕事、加えて夜回りを始め物資運搬などが続いた。疲れてきて、カゼをひいて寝込んだりした。

最近、時間ができて久しぶりにタワーレコード心斎橋店に行ってみると、alva notoと坂本龍一の共作「vrioon」と池田亮司の「op.」が出ている。
「vrioon」は、坂本龍一の弾くピアノにalva notoが電子音を付け加えていくという内容だが、音数の極度に少ないピアノと律動的な電子音、それぞれが「いかにも坂本龍一、alva noto」という感じ。それが並列して進行するわけで、それはそれでおもしろい内容だ。だが、あまりに予想通りの進行なので、CD一枚聞いてみれば、正直言って期待はずれという感じがする。
池田亮司の「op.」は、なんと弦楽曲である。どのような作りなのかは、CDに一切情報がないので不明(坂本龍一+alva notoのCDもそうだが、解説ゼロというのはやはり不親切だ。いずれなんかの雑誌やサイトでインタビューを出すぐらいなら、金出して買った人のために、CDに楽譜か作曲過程の一部を公開して欲しい)。
いずれにせよ、作り出された音楽は、厳格なテクノミニマリズムの世界が弦楽器によってあらためて再生されたかのようなものになっている。弦楽の持つ特有の匂いや温度はそぎ落とされ、楽器は純粋な音響を奏で始める。そこには、類のない凄絶な美しさが放たれている。特に「OP.1」を繰り返し聴いた。しかし、ここから更に抽象化が進められた「op.2」「OP.3」は、残念ながらぼくにはやや単調に聞こえた。

これは「野宿者ネットワーク」のページで書くべき事だが、今日の夜回りで野宿者の路上死に出会った。日本橋の西まわりでテントに住んでいた野宿者が死んでいたという話を聞き、日本橋東のコースから急いで現場に行くと、警察が来て死体を運び出そうとしているところだった。第一発見者になった西回りの担当の人が、手を合わせていた。 
唇に腐敗が始まっており、死後約2週間だろうと言う。寡黙な人だが、夜回りに来た野宿者ネットワークのメンバーに「ご苦労さん」とみかんをくれたこともあったという。健康状態は悪かったわけではなく、おそらくは急病死。
日本橋は、生活基盤を作ってアルミ缶集めや段ボール集めで生計を立てている人が多く、路上死はめったにない。しかし、野宿者が存在する限り、路上死は終わることはない。



2002/12/31■ 今年の本・CD

よく人がやるように、今年読んだ本、聴いたCDで特に印象に残ったものをピックアックしてみよう。(新刊や新譜に限らない)。
■本
○エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」
 前著「福祉資本主義の3つの世界」と併せ、これを読んでおかなければ話にならない社会科学上のマイルストーン。
○グリーン「エレガントな宇宙」
 物理学の解説書はいろいろ読んだが、これほど見事なものは他に知らない。(同時期に出たホーキングの本もよかったけど)。超ひも理論に貢献した第一線の研究者が、素晴らしい説明と比喩を連発して最新の成果を「わかったような」気にさせてくれる。それにしても、M理論において、ぼくがかつて考えた「時計と同時性」のパラドックスはどうなるのだろうか。
○「新古今和歌集」
 我々が日常使う日本語が、かつてどれだけの洗練と可能性を見せていたことか。
○安野モヨコ「ハッピー・マニア」
■CD
○Jazzanova「in between」
 クラブ・ジャズ・シーンで有名だったドイツの6人組、Jazzanovaが「構想2年、制作1年」の末に2002年、発表したファースト・アルバム。3人ずつのDJ組とプログラマー組がふたりワンペアで楽曲を作り、それを全体で仕上げるという方法をとっている。その結果は、様々な要素が異種配合された、アイデアの炸裂である。
○ブーレーズ「プリ・スロン・プリ」(この「近況」の4・30で触れた)
○alva noto「transform」(3・15)
○「Clicks and Cuts 2」
 フランクフルトのレーベル「ミル・プラトー」(もちろんドゥルーズ・ガタリ。このレーベルはドゥルーズの死後、オーヴァル、ジム・オルーク、スキャナー、DJ Spooky、Mouse on Marsなどが参加した「In Memoriam Gilles Deleuze」1996という追悼アルバムを出している)のクリック・ハウス、クリック・テクノ(とりあえず、デジタルでテクノでハウスでノイズだ、と考えておこう)の主要アーティストが総力を結集したかのような3枚組。もの凄いラインナップの物量・密度ともに豪勢な2001年の作品集。
○井上明子「Japan Piano」(8・29)
○ニルス・ペッター・モルヴェル「ソリッド・エーテル」(12・13)
○ジェームズ・テニー「ヴァイオリンとピアノのための音楽」(2.17)
○F.クープラン「クラヴサン曲全集」ルセ(6・1)



2002/12/30■ ゛substance abuser゛

飛田茂雄「私が愛する英語辞典たち」(南雲堂フェニックス)を買った。1995年の本で情報は古いが、しかし非常におもしろいので、夜、寝ながら一気に読んでしまう。
この中で、幾つかの単語について辞書でどう扱われているかチェックする、という章がある。我々が辞書でよく知っているはずの単語が、ネイティヴには実は全然ちがう意味で使われていたりする。
例えば゛apparently゛は、
「『明白に』と訳せる場合がないでもないが、基本的には、『どうやら…らしい』の意」
なんだって(知らなかった!)。
゛apparently゛のチェックの結果、8つの辞書のうち2つがこの意味を挙げておらず、1つが「誤りとは言い切れないが物足りない」、2つが「合格」で3つが「非常によい」だったという。しかし、これはむしろよくできた方で、すべての辞書が失格している単語の場合さえあるほどだ。(例えば゛grid゛。これは「評価表」「システム」という意味でよく使われるらしい)。
しかし、ぼくが手持ちの4つの英和辞書をチェックしてみると、ほぼすべて飛田案通りになっている。持っている3つがここ数年の発行のものなので、飛田提案を容れて修正したということだろう。辞書ですら数年でいろいろ変わってしまうものらしい。

ぼくは英語が苦手(というか、嫌い)なので、海外の野宿者問題の英文記事を本当にうんざりしながら読んでいる。その中で、゛substance abuser゛が何度か出てくるのに気がついた。
しかし、これは、例えば26万語の「リーダーズ英和辞典」(ぼくが持っているのは第1版)に出ていない。そして、最近出た小型辞書にも出ていない。
おかしな話で、新聞記事に断りなしで何度も出てくる以上、これは英米では10代のこどもでもわかる言葉のはずだ。だが、とにかく手近な英和辞書では見つからない。
ともあれ゛substance゛が「物質」「実質」で、゛abuser゛の゛abuse゛が「乱用する」「虐待する」だから、これは「肉体的虐待者」かなあ、と考えた。しかし、ホームレスのシェルターには゛substance abuser゛がいっぱいいる、というのだから、イマイチちがうような気もする。
それで最後に、「我が国最大の36万項目収録」と豪語する「グランドコンサイス英和辞典」を調べてみた。そして、ついに「医学用語」として、「物質(特にアルコール・麻薬)濫用者」とあるのを発見した。これでやっとわかった。日本とは事情が違って欧米では、ドラッグ依存症者が野宿者全体の何割かにのぼることが問題とされているが、これはそのことを示していたわけだ。
なにしろ新聞記事で断りなしに医学用語の゛substance abuser゛があっても、誰でも理解してしまう(らしい)のだ。お国のちがい、野宿者問題の性質のちがいの一端を認識させられてしまう。


そのあと本屋で立ち読みしたら、「リーダーズ英和辞典」第2版には、゛substance abuser゛はないが、「リーダーズ・プラス」には入っているようだ。また、「グローバル」「ジーニアス」のような中辞典には載っていた。やはり英和辞書は数冊いるみたい。
しかし、飛田茂雄の1995年の本以降、英和辞典の世界での大変革は、なんといってもオンライン辞書「英辞郎」の出現だろう。
草津の翻訳家を中心に、数十人のプロジェクトチームと無数のボランティアの情報提供によって一月に1万語のペースで成長し続けるこの辞書は、現在なんと110万語を収録している。(世界最大と言われるオックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリーでさえ62万語)。100万語と検索ソフトを容れたCD−ROMも市販されている(1890円!)。
収録語数の多さはもちろん、クリック一つでウェブ上の単語の意味がポップアップされるとか、紙の辞書からは隔絶した便利さである。
こうしたポップアップ形の辞書としては、babylon(イスラエルの会社のよう)が有名で、ぼくもフリーウェアの時から使っていた。何しろ、クリックとワンタッチで瞬時に単語の意味が出てくる。おまけに「発音」をクリックすると、ネイティブの発音まで再生してくれた。ページをめくって辞書で単語を捜す時間というのは考えてみれば全く無意味な時間だが、こうしたソフトを使えば、それをゼロに出来るわけだ。(もっとも、ディスプレイ上であれこれ操作しながら英文を読むのは凄く疲れるので、長時間はぼくには無理)。
リアルタイムな情報収集と、物理的な「重さ」「かさばり」からの無縁さ、検索能力の威力、そして使用者との双方向的なやりとりを兼ね備えているという点で、ウェブ辞典は、紙の辞典に対して圧倒的な優位を持っている。そうした辞書が出版社ではなくて個人的なグループとボランティアによって実現できたという点で、「英辞郎」は特別な意味を持っているのだろう。゛substance abuser゛だってもちろん載っていた。ぜひとも使うべきである。



2002/12/27■ 越冬の開始・釜ヶ崎内での話(授業)はなんて楽チンなのか

例年通り、25日をもって釜ヶ崎越冬闘争が始まり、夜回りを始め、物資の運搬など様々な活動が目白押しの日々がやってきた。
今日は、前々から頼まれていたので、釜ヶ崎キリスト教協友会の施設で神戸と広島の男子高校生、そして岡山のカトリック教会の人たちを対象に夜回りの前のお話をした。
夜回りに見る野宿者の状況、全国の野宿者の状態、「野宿者がよく言われるセリフ」、「いす取りゲーム」と「カフカの階段」という流れは、最近の野宿者問題の授業でやっている通りのやり方。
釜ヶ崎でボランティア対象に話をするのは久しぶりだが、やってみて感じるのは、釜ヶ崎内で話をするのはなんと楽なのかということだ。なにしろ、聴いてる人たちはわざわざ釜ヶ崎にやってきてボランティアをするのだから、最初っから聴く気と熱意を持っている。極端な話、どんな話をしようと敬意を持って聴いてくれるのだから、なんの苦労も要らない。最初から最後まで真剣に聴くし、質問はちゃんとしてくるし、ほとんどあっけないほどだ。
ここからあらためて、学校へ行っての「野宿者問題に関心あるのかないのか、わからない生徒」相手の授業を考えると、いかに戦略と技術が必要とされているのかに思い当たる。何しろ、こうした授業での生徒たちは、野宿者問題はもちろん社会的な問題に関心すらない場合がある。つまんないと思ったらただちに寝たりおしゃべりをし始めるし、場合によっては内容など関係なく最初っから寝始めている。大体、世の中で野宿者の問題に興味を持ってる人間なんて、そんなにいない。
まあ、自分の身に当てはめて考えても、関心のない話題を専門家に一生懸命話されても、退屈で仕方ないのは当たり前の話ではある。つまり、自分に関心のあることや、やっていること(つまり野宿者問題)を一生懸命話せばそれでいい、ということには全然ならない。野宿者問題と一般の世界との接点を、こちらが何らかの形で作り出さなければならないわけだ。
問題は、こうしてわざわざ釜ヶ崎にボランティアに来るような人たちより、むしろ野宿者の問題に何の関心もない人たちにこそ、その問題の在処を伝えなければならない、という点にある。アフリカの飢餓問題や沖縄の問題、難民問題にしても、わざわざ現地に活動に入る人たちよりも、むしろ外部で無関心にしている人たちにこそ問題を伝える必要があるのと同じ事だろう。
というわけで、釜ヶ崎でボランティア対象に話をするのと、一般の学校で野宿者問題の授業をするのとは、全く別の次元の作業だとあらためて感じた一夜であった。


2002/12/24■ フリーソフト「Ad―aware」「紙」


洛西一周の「」。これは、ブラウザからテキストを取り込むとき、従来はあちこちソフトを呼び出したり何かと面倒だった作業を、ほとんど一発で「スクラップ」してしまうという便利なソフト。新聞記事などはそのままプリントすると余計なものも一緒になっちゃうが、これで要る文章だけ指定して取り込めば、コンパクトにプリントできる。取り込んだあとも、テキスト分類に便利な機能がいろいろ工夫されていて、何かと使える。使い始めてしばらくすると、あなたも、もう手放せません。

アンチ・スパイウェアソフト「Ad―aware」については、www.lavasoftUSA.com からダウンロードされよ。
スパイウェアとは、使っているパソコンのIPアドレス、閲覧しているホームページの内容、パソコンを利用している時間帯など種種の情報を、オンラインの時に特定企業に送信するという「スパイ」行為を行うソフト(もちろん、やろうと思えば更に高度にプライバシーに関わる情報を流せるはず)。
実は、様々なソフトをダウンロードするときによくある長ーい許諾書の中に「こんなソフトが一緒に入りますがいいですか?」とちゃんと書いてある。だが、たいていの人は大して読みもせずそれらをダウンロードしてしまうため、知らず知らずのうちにスパイウェアが幾つもパソコンに入り込み、個人情報を常時流してしまうことになる。
なぜソフトとスパイウェアが抱き合わせになっているかというと、このスパイの混入によってソフト制作者は広告料を受けとる事が出来るので、制作者は利用者から金をとらなくてもやっていけるから。
ぼくも、試しにこの「Ad―aware」でスキャンしてみたところ、10以上のファイルがスパイと化していることが判明し、ただちに始末した。多分、かなりの人が知らない間にこのスパイウェアをため込んでいるはずだ。
この2つとも、沖縄にいる友達が教えてくれた。いいものを教えてもらいました。

それにしても、スパイウェアの存在には正直、驚いた。大したものではないとはいえ個人情報が本人が気づかない間に筒抜けになっているという状態は異様ではないだろうか。
現実問題として、ダウンロードするソフトの承諾書をいちいち全部読む人間なんてまずいない。かりに読んだとしても、欲しいソフトとスパイウェアの抱き合わせを拒否しようと、ソフト制作者とわざわざ交渉するというのも(不可能ではないだろうが)非現実的だ。要するに、ネット上でソフトのダウンロードをやっていくつもりなら、スパイウェアは事実上拒否できないことになる。
こうした個人情報の漏洩に対処するにはどうすればいいのか。
この場合、「法的規制」は難しいかもしれない(一応合法的なのだから)。「社会の規範」、つまり道徳に訴えかけるのは無理だろう。また、市場による淘汰や選別はあまり考えられない。結局のところ、ネット上の「反・スパイウェア」の立場の人がアンチ・スパイウェアソフトを作成し、それを個々人がインストールする、というやり方しかないようである。
この点は、ほとんど裸の状態でやりとりしている(通信傍受法が成立している現在ではなおさら)メールの機密保持のためには、なにより暗号ソフトPGPをインストールするのが最も効果的なのと似ている。(そういえば、運動関係者のメーリングリストで運動路線の論争などをやっている人が時々いるが、公安関係者が100%見ているようなところで突っ込んだ政治論争する人の気が知れない)。ネットを利用するなら、常にいろんな最新情報に注意していないといけないようだ。まあ、リアルワールドでも同じ事ですが。



2002/12/15 「生田武志」でGoogle検索すると何が出る?

ぼくはときどき自分の名前を超強力検索エンジンGoogleで検索する。例えば誰かが悪意のデマを書いたりしていないか(ありうる!)確かめるため。
とはいっても、今までは新人賞関係か、自分の作っているページぐらいしか出なかった。
しかし、今日思いついて久しぶりに検索してみると、一つ見慣れないのがある。それで、そのページを見てみると、「生田」姓の男性名ばっかりがずらっと並んだ奇妙な画面が! しかも、そのページのトップページを見てみると、下のようなタイトルが!


1から教えます男女交際の仕方

出会い、恋愛マニュアル

 貴方は良い相手と結婚して幸せになるという最高に重要な目的の為に必要不可欠な努力を真剣にする必要があります。 恥ずかしいとか、生まれつき苦手だとか、もう何回も失敗しているのでこれ以上する気力がないとか、結婚は人生の墓場だとか、他に真剣に行っている事があるのでそんな浅ましい事は出来ないとか言っていると、将来 絶対後悔しますよ。 さあ頑張って始めて下さい。


なんだこりゃーっ! なんでこんなところにあっしの名前があるのさーっ!
もしかして同姓同名がこんなとこに名前を書いているの?(そういえば、山王こどもセンターの通信を読んだ未知の人から、「この生田武志という人は、私の知ってる人と同姓同名なんですがどんな人ですか」と問い合わせが昔あったというが、もしかして、その生田か?)
ま、どうでもいいけど、「将来 絶対後悔しますよ」ってすごいね。(態度でけー!)。
こういうことがあるので、やったことない人は自分の名前で一度ウェブ検索した方がいいと思います。
自分の名前で検索なんて恥ずかしいとか、生まれつき苦手だとか、もう何回も失敗しているのでこれ以上する気力がないとか、検索は人生の墓場だとか、他に真剣に行っている事があるのでそんな浅ましい事は出来ないとか言っていると、将来 絶対後悔しますよ! 
さあ頑張って始めて下さい!



2002/12/14 「ニューヨークは歴史的レベルのホームレス問題に直面している」

12月9日の続きだが、オンラインCNNニュースで「ニューヨークは歴史的レベルのホームレス問題に直面している」という記事(2002年11月29日付)を見つけた。
野宿者数の驚くべき激増はもちろん、アメリカの言う「アンチ・テロリズム」が野宿者問題のさらなる深刻化を生んでいるという点で、この記事は興味深い。
日本でも、特に大阪の池田小学校児童殺傷事件以降、社会のセキュリティ問題がクローズアップされているが、「市民の安全を脅かす(かもしれない)ものを生活空間から選別、排除する」という流れが、野宿者の公園などからのさらなる排除を呼び起こす可能性はあるかもしれない。ニューヨークでのこうした現実は、その先例となるのではないか。
以下は、その全訳。

ニューヨークは歴史的レベルのホームレス問題に直面している

ニューヨーク(AP)―この国最大の都市ニューヨークでは、記録的な数の人々がホームレスとなってシェルター、路上、地下鉄のプラットフォーム、カテドラルの階段で夜を過ごしている―そして、これという解決策は見あたらない。

経済の停滞は、ロード・アイスランド、サウス・ダコタのようにそれぞれ異なる形で、野宿者問題の激化を全国レベルでもたらした。ただ、ニューヨークにおいては、テロリズムの余波の中で、その影響が特に鋭く現れている。
最近、平均して37000人以上の人々がニューヨークのシェルターで過ごしており、これは史上最高の数字である。1998年、市の統計ではこの数は21000人だった。さらに、シェルターで夜を過ごすホームレス・ファミリーは、同期間に4429から8925(先月)へと、2倍以上になった。そして、さらに無数の人々がシェルターの外で寝ている。

「ここではどんどん事態が悪くなっていく」。ジェームズ・インマン(54)は、マンハッタン区で感謝祭の夕食を食べたあと言った。「シェルターは全部一杯だ。前よりずっと難しくなってきた」。
「不景気と高騰する家賃は、全国のホームレスの増加をもたらしている」。ナン・ローマン(National Alliance to End Homelessness代表)は言う。このグループは、全国のホームレス数は100万人だと見ている。

ロサンゼルスでは今月、ビジネスマンたちが野宿者問題への取り組みを求めた結果、警察がドヤ(Skid Row)でおよそ200人を逮捕した。ロード・アイスランドでは家賃の高騰が、過去3年の間、ホームレス・チルドレンの45%の増加をもたらした。サウス・ダコタのスーフォールズでは、州にある3〜4番目の町の人口以上の野宿者がいると見積もられている。

ニューヨークでは、セプテンバー・イレブンへの取り組みが、予期せざる形でホームレス問題の状況悪化をもたらした。アンチ・テロ・パトロールが、ダウンタウンの路地、トンネルの隅、橋などの場所―野宿者たちはかつてそこからシェルターを見つけようとしたのだが―を立ち入り禁止にしてしまったのだ。
「ホームレスの人々が身を寄せようとした場所は、封鎖された」。市のホームレス対策課の責任者、リンダ・ギブスは言っている。「このことは、ホームレスたちの選択を狭めた。ホームレスたちは表へと追い出されている」。
状況は緊張をもたらしている。支援団体は、警察がホームレスたちを逮捕することによってストリートから排除している、と主張し市を今週訴えた。警察は逮捕の激発を認めた。しかし、これは単に最近ホームレスとの接触が増えたためだ、と説明している。
解決のめどは見えない。
市としては、シェルターの増加と永久的住宅に人々を入れていくという、6月に採択された戦略に望みを託している。
この冬、市のソーシャル・ワーカーは、どれだけの人々が路上などで寝ているか把握するため、ホームレス人口調査を実施する予定だ。
1月1日に職に就いて以来、市長マイケル・ブルームバーグは、恒久的住宅の助成金数を9250まで増加させた。これは110%増である。
市はまた、ホームレス支援者の嘲笑を買うような、普通では考えられない代替シェルターを考え出した。この夏、裁判官は以前の刑務所をシェルターとして使うという市長の計画を却下した。法によってシェルターの供給を強いられた市は、空いた修道院、コミュニティセンターなどを代替シェルターとして考えている。
おそらく最も突飛なアイデアは、市の職員が、ホームレスの家として使えるかどうか、3つの巡航船を、手始めにドック入りした船を調査しにバハマまで出かけたことである。
ギブスは言う、「我々はそんなことをしたくはない。けれど、どんなアイデアも退けられない」。
ホームレス支援者は、市に対して10万物件の新築と8万5000物件の改築を、今後10年以上の間に要求している。コストは、100億ドルとなる。
大規模な市の予算の削減に迫られるブルームバーグ市長は、問題は小切手を切るよりずっと複雑になっている、と言っている。市は、長期的対策を探求する一方で、短期対策つまり食べ物とシェルターの保証を用意していると言っている。
だが、ホームレス数がすぐに減るとは誰も期待していない。

「われわれは食料を得るためにかけずり回っている」。ブルックリン最大のスープ・キッチン(炊き出し)「聖ヨハネのパンと人生」を経営するラリー・ガイルは言う。ここは先月、19500食という記録を作り出した。「我々は、求められるものが無限だ、という気がしてきている」。




2002/12/13 ニルス・ペッター・モルヴェルのジャズ

1990年10月の釜ヶ崎暴動はぼくに幾つかの面で変化を与えたが、その一つは、全然聴いてなかったジャズをそれから聴き出したことである。
ま、ロックはいろいろ聴いていて、その中でもジャズの影響が匂うバンド(とりわけ、ある時期のソニック・ユース)に関心があったので、ジャズとはどんな音楽かという興味は漠然と持っていた。が、まともに聞き出したのは暴動以降になる。
それからいろんなアーティスト、アルバムを聴いてきたが、最終的に関心を持つのは、アーティストとしてはアート・テイタムとセシル・テイラーに限られた。もともと自分がピアノをやっていたこともあって、ピアノという楽器の可能性をそれぞれの形で限界ギリギリまで突き詰めたこの2人への関心を特に持っている。
(アート・テイタムについては、酒場でテイタムを聴いたホロヴィッツが驚嘆し、義父のトスカニーニを連れていったらトスカニーニもびっくり仰天した、という話が有名だ。ホロヴィッツは、違うジャンルにおいてだが自分と同レベルの天才がここにいる、ということを直ちに察知したのだろう。アドルノが、音楽理論的に言ってジャズはクラシックのずっと初歩的なところを行っていて…、なんてことを書くずっと前のことである)。
他のアーティストでは、例えば「ラスト・デイト」(1964年6月2日)「アウト・トゥ・ランチ」のエリック・ドルフィー、「ビッチェズ・ブリュー」「オン・ザ・コーナー」のマイルズ・デイヴィス、「スピリチュアル・ユニティ」のアルバート・アイラーというように、アルバム単位の関心を持っている。
年代で言うと70年初頭までに関心が限られ、それ以降のジャズについては、なんというか、多くのジャズファンがそう感じるように聴く気があまりない。マルサリスがいいとかジョシュア・レッドマンが素晴らしいとか言っても、こうしたアーティストによってジャズというジャンルが未開拓地を開いていくわけではないということは、みんなが承知しているわけだ。
この間は、ダイアナ・クラールの「ライブ・イン・パリ」(2002)を聴いた。大変なセンスと実力を感じさせた素晴らしい演奏で、何万円か払って実際にライブに行っても絶対後悔しないなあと思った。でも、それも誰もが把握している枠内での「表現」活動という感じで、その意味ではこれも伝統芸能に近かった。ジャンルとしてのジャズが沈滞期(=倦怠期)にこの30年ほど入ってそこから突破できないということは、例外的なアーティストはあれこれいても、全体的には疑えないのだろう。

その中で、ニルス・ペッター・モルヴェルのアルバムは、その例外的な存在の一つとなるのではないか。
最近続けてこのノルウェーの人のアルバムを3つ聴いたが、最近聴いたジャズ・アルバムの中で、これほど聞く価値を感じさせられたものは他にはなかった。多様な音楽技法を駆使して一歩先の未来を見ようとする表現の先鋭さと、ジャズというジャンルそのものを突破しかねないような衝動力とによって、これらは群を抜いた作品になっていると感じる。
1997年のアルバム『クメール』は、サンプリングを多用したテクノやアンビエント色の濃厚な音が注目を集め、ノルウェー・グラミー賞やドイツ・レコード評論家賞を獲得した。また、2000年発表の『ソリッド・エーテル』は、さらにドラムンベースからレゲエ、ダブなどを取り込み、それらと切り裂くような鋭さのジャズ・トランペットとの相互作用と融合を成し遂げた素晴らしいアルバムになっている(2000年度のミュージック・マガジン誌「ベスト・ディスク2000」のジャズ部門第1位)。
そして、今年の夏にアルバム「NP3」が発表されている。ここでもブレイク・ピーツ、トリック・ホップなどを貪欲に取り込み、ちょっと例のない多彩な音楽表現をみせつけている。
ぼくは、中でも『ソリッド・エーテル』に惹きつけられた。冷徹にして鋭いトランペットと激しいノイズが交差し合い、高まり合い、ついにはある種の醒めた錯乱状態へと聞き手を導いていく。北ヨーロッパのジャズだからではないが、冷厳さと孤独、さらにある静謐さを強くイメージさせる音楽となっている。ほとんど孤高の境地というべき作品ではないか。
もともとマイルズ・デイヴィスの70年代のエレクトリック・サウンドを通じてジャズと出会ったということで、現在におけるその継承、発展を担う存在、と自他共に認められているというが、確かにそのことは聴く度に実感させられる。「もしマイルズ・デイヴィスが今生きて活動していたら」という問いへの解答の一つとして存在しているわけである。
しかし、例えば「ビッチェズ・ブリュー」から30年以上が経って、なお我々がその「延長」をジャズの最新型として迎えなければならないと言うこの状態は何なのか。70年代ジャズを切り開いたとされるこのアルバムを越える地平を、ジャズというジャンルはいまだに持ちえない、ということなのだろうか。
ぼくとしては、1960年生まれのニルス・ペッター・モルヴェルを聴きながら、その地平から更に切断された新たなジャズが、1970年、あるいは80年生まれ以降のミュージシャンによってなされるのではないかと空想している。



2002/12/9 オンラインBBCニュースで読むイギリス・アメリカのホームレス問題

ぼくは野宿者問題の関係者のメーリングリスト「寄せ場メール」に入っているので、日本国内の野宿者情報は非常に細かいところまで毎日入る。
しかし、今朝、最近のイギリスの野宿者問題はどうなっているのか思って、BBCニュースのページを開けて「homeless」で検索してみた。すると、何百という記事が出て来るのはまあ当然として、最近、つまり10月あたりからのニューヨーク、およびイングランド、スコットランドなどでの野宿者問題の深刻化には驚かされる。
例えば、

2002年11月20日付

「ニューヨークは現在、野宿者数の上昇に見舞われている。先月では37000人がシェルターで夜を過ごした。ニューヨーク市は、この事態に対応するため、巡航船(Cruise shipsはこう訳すのか?)、今使われていない刑務所、修道院をシェルターとして使うことを検討している。こうした計画に対して、支援団体は『奇怪な計画』と一蹴している。『調査研究が示す対策は明白だ、手頃な支援住宅の提供、これである』と」。

11月8日付
「イギリスにおいて、兵役経験者はホームレスとなる危険が極めて高いことが調査によって明らかにされた。軍隊を離れた少なくとも4分の1の人たちは、市民生活に戻ったあとの時点で、路上で寝るに至っている。毎年2万人が軍隊から離れているが、イングランドおよびウェールズは、ようやく最近になって法律でこれらの人たちに新しい住宅を優先的に与えることを認め始めた。この背景には、戦闘ストレス、精神健康上の問題、ドラッグ依存のような問題が悪化しつつあるという事態がある。しかし、最大の問題の一つは、多くの人々が、家族の問題から逃れるために軍隊に入っているということである。しかし、彼ら、彼女らはいつかまたその問題に帰っていかなければならない。」

10月7日付
「スコットランドでは、毎年1万6000人が25才前にホームレスになる。今、ティーンエイジャーたちは、その一人にならないためScottish Council for Single Homelessによるアドバイスを受けている。毎年約6万人のティーンエイジャーが学校を離れ、同時にその多くが家を出るのだ。」

10月18日付

「ケンブリッジでは野宿者のためのクリニック建設計画にたいして住民たちが反対している。住民は、ここには野宿者の施設がもういっぱいあるし、こういう施設を使う人間は「脅迫的なふるまい」をするんだ、それにこの町に来る浮浪者(vagrantsはこう訳すんですか?)や移動労働者(itinerants)があちこちに拡がっているなら、移動クリニックがいいじゃないか、と言っている。一方で専門家は、このクリニック計画は、野宿者が生活を再建するためのポジティブな計画なのだ、と言っている」

10月16日付
「イギリス・サウス・ウェストでは、高騰する家賃が家族のホームレスの急激な増加を生んでいる。政府はこの問題のための新法を導入しようとしている。議会は、今やこの問題の解決が最優先の課題だ、と言っている」。

ざっと見てもこんな感じである。(大意。誤訳はあるはず)。
イギリス、アメリカの野宿者問題は、日本の約15年先の姿だと考えられる。それにしても、こうした最近の変化は一体何なのか。90年代のアメリカ、イギリスの経済政策による好景気は、一方で所得の二極分解化を生みつつあると言われていたが、一つにはそのツケがついにここで噴出しつつある、ということだろうか。もちろん、それだけではないはずだが。
(それにしてもネットによるニュース収集はきわめて便利。)

■追記(12月12日)
アイルランドではどうなのかと思っていたら、次の記事を見つけた。

8月28日付
最近の調査によれば、北アイルランドの野宿者の数は劇的に増加している。26000世帯が支援住宅待ちであり、14000世帯が現在ホームレスになっている。これは、近年の家賃の上昇が大きな原因となっている。
Housing Executiveのメンバーは言う。「もはや従来の野宿者対策では不十分である」「私の推測では、人種差別と脅迫とが、ホームレス人口の10〜15%をもたらしている」。

また4月の記事によると、ホームレス・チルドレンの数は、ロンドンで26000人、サウス・イーストで12500人等々(!)。
さらに支援団体によれば、イギリスのホームレス数は、政府の発表とは大幅にちがって大体40万人と考えられるという。日本の例で考えればわかるように、こういう数字は政府発表よりも運動体の言う数字の方がずっと現実に近いはず。



2002/12/7 今年も発表会がやってきた

去年の12月9日に
「ぼくは4年前からチェンバロを習っている。のだが、今日はその「発表会」があった。プログラムは、前半に音大在学中のみなさんのピアノ、それからわれわれアマチュアのチェンバロとガンバ、後半に、それこそ普段は金取って演奏しているプロのみなさんのチェンバロという構成。ぼくはF・クープランの「組曲」から幾つかと、スコット・ジョプリンの「イージー・ウィナーズ」を弾いた。」
てなことを書いたが、今年もその季節がやってきた。
ただし、今回は会場が阿倍野区民センターのホールで、ぼくのアパートから自転車で5分という至近距離。
ぼくは今回はクープランの第8オルドゥルからパッサカリアを含む4曲(クープランのこの曲についてはこの「近況」6月1日のところで触れている)と、スコット・ジョプリンの「パイナップル・ラグ」を弾いた。
スコット・ジョプリンの「パイナップル・ラグ」と言っても、わかる人はあまりいないだろうか。
しかし、現在の日本人のほとんどは、実際に聞けば「あ、この曲知ってる!」と言うはずだ。しばらくの間、車のテレビコマーシャルでしつこく流されていたからだ。女の人たちがいす取りゲームをしてて、この曲が流れている間みんなニコニコ歩いてて、音楽が止まった瞬間、一人が(いすじゃなくて)車に当たって、そのまんま喜色満面で乗ってっちゃう、というヤツ、あれがこの曲である。
あのコマーシャルはずいぶん前からやってたが、あれを見たときから「今度の発表会ではこれ弾こう」と思ってた。曲のよさはもちろんだが、Jポップがそうであるようにコマーシャルとのタイアップ(とは違うか)はすごく効果的で、あれだけ繰り返し聞かされているとすっかり耳に覚えができていて、チェンバロで聴かされても違和感なく「ああ、この曲!」てノリで聞けちゃうからだ。
「パイナップル・ラグ」だけでなく、ぼくが去年弾いた「イージー・ウィナーズ」は、今ポン酢かなんかのコマーシャルで流されている。
というか、スコット・ジョプリンのラグタイムは、コマーシャル、天気予報、バラエティ、地域情報などなど、あらゆるジャンルのテレビ番組で常に使われている。どう考えても、クラシックの中で(スコット・ジョプリンはクラシックに分類されている、どっちかというとジャズじゃないかと思うが)、最もテレビで使われている作曲家であるはずだ。
その割には「スコット・ジョプリン」と言われてもわからない人がほとんどだというのは、作曲家としてのしあわせなのか、不しあわせなのか。
今回の発表会の目玉の一つは、小学生の登場だった。今5年生か6年生の女の子が出てきて、チェンバロでバッハのフランス組曲から何曲かを快速なテンポで弾ききって、われわれをびっくりさせたのだ。
さすがに緊張してたらしく、テンポが前のめり気味で、フレージングも細かい処理は吹っ飛んでた。だが、フランス組曲をピアノで弾く小学生はそこそこいるだろうが、これをチェンバロで弾く小学生なんてのは生まれて初めて見た。
この子とは、レッスンの順番が重なって会ったことがある。お母さんが一緒なので、てっきり「英才教育」をされているのかと思った。しかしそうではなく、親はチェンバロには特に関心はなくて、本人がチェンバロが好きで絶対やりたいと言ってここに来ているのだという。将来が楽しみなので、今のうちサインをもらっておこうかと何人かで話した。(あと3、4年したら、ロックにはまっていたりして…)。
その他では(適当に会場から抜けてたので全員のは聴いてない)中野聡子さんのヘンデルの演奏は、去年も感じたことだが、表現の暖かみと明晰さが同時に伝わって、ぼくにはとても気持ちがいい。さらに、最後の演奏者の秋山裕子さんが弾いたイギリス組曲の第4番は、音楽が最初の第1音から立体的かつ雄弁に鳴り響き出して、「これは本物だなあ」と思うしかなかった。とにかく、例えばぼくが弾いたのと同じ楽器が使われているとは思えないのだ。バッハの音楽が充実しきった形で次々と流れていくのを感心して聞き入るばかり。それにしても、それだけに、なぜバッハやクープランたちの同じ曲ばかり延々とみんなが弾くのだろうか、もっといろんな曲があるはずなのに、という疑問も依然として消えない。例えばこの人がスコット・ジョプリンを弾いたら、どう弾くのだろうか? ぜひとも聴いてみたいのだが。
演奏が終わり会場を出ると、出口には約40人の(休憩時間に数を数えた)野宿者がすでに段ボールや寝袋で寝入っていた。この阿倍野区民センターの出入り口は、最近野宿者が多いと聞いていたが、これは事実だ。その中には、なんとこの間日本橋で配った寝袋で寝ている人が2人いた。日本橋からこっちに移動してきたのだろう。最近、日本橋から野宿者が減っているが、この寝袋のおかげである程度その移動をフォローできているのは、意外な効果だ。
この(寒さ厳しい)出入り口から、われわれのいた(暖房の効いた)ホールには出入り自由のはずだが、演奏中、誰も入ってこなかった。おそらく、玄関口のガードマンが常日頃から遮断しているのだろう。



2002/12/6 西成高校の話が新聞に出てた

4日のところで
「今日は西淀川高校の先生に紹介のあった、野宿者問題の授業をやっておられる西成高校の先生のところに伺い、互いの授業の情報を交換した。授業では、4年前に梅田の有名な野宿者、ツネ子さんに教室に来てもらって話を伺い、最後は生徒ともども一緒に歌を歌って盛り上がったという」
と書いたが、今日の新聞(朝日の朝刊)にそのツネコさんと西成高校の先生の話が出ている。
ツネコさん(75才)がメインの写真付きの記事だが、そこから西成高校の授業のところを引用。

「大阪府立西成公園で講演したこともある。99年のことだ。『ホームレスになって一日目の夜、何を考えていたのか』『死にたいと思ったことはないか』。生徒のどんな質問にも答えた。講演の後、即席のバンドで歌った歌は、ブルーハーツの『青空』。梅田の繁華街で歌う若者に教えてもらった、ツネコさんのおはこだ。
講演を依頼した小川隆史教諭(44)は『ホームレスの詩』を呼んでファンになり、高架下を訪ねた。『自分がしんどいことや弱いことも、包み隠さず語ってくれた。その部分に生徒たちはほっとしたんだと思う』。今年9、10月にも、ツネコさんは同校の総合学習の授業で話し、フィールドワークに付き添った。」

ツネコさんは、今年5月に大腸ガンの手術をし、先月には転んで骨折、現在入院中ということだ。
このページでは先生の名前などは基本的に出さないようにしているが、新聞に出てるなら問題ないですね。



2002/12/4 西成高校へ行く

野宿者問題の授業のページのかさばってきた「更新履歴」をプルダウンメニューに変える試みは、なんとか成就した。
今日は西淀川高校の先生に紹介のあった、野宿者問題の授業をやっておられる西成高校の先生のところに伺い、互いの授業の情報を交換した。
授業では、4年前に梅田の有名な野宿者、ツネ子さんに教室に来てもらって話を伺い、最後は生徒ともども一緒に歌を歌って盛り上がったという。生徒の書いた感想文も見たが、非常にいい反応だった。
先生によると、4年前に最初に野宿者問題の授業を行ったときは、生徒たちに「野宿者の問題とは一体どういうものか」という強い関心があった。けれども、今年では自分や親が「いつホームレスになるかわからないし」というように、自分の生活の延長で捉えるようになっているようだ。ただしその分、「知りたい、わかりたい」という関心は減っている、ということだった。
1時間ほど話し合ったが、機会があれば共同で授業をやりましょう、ということで終わった。西成高校は、山王こどもセンターのこどもたちが何人も行っているし、おまけに野宿者ネットワークがずっとかかわっている西成公園の隣だけに、ぜひともここで授業をやってみたいものだ。
帰りがけに、その西成公園の藤井さんに会った。藤井さんは、「今日のニュースで、名古屋の笹島で野宿者が若者に殺された言うとったで」と言う。帰って新聞を見てみると、確かに「4日午前、野宿者の吉本さん(57)が、若い男3人組にいきなりスプレーをかけられ、鉄パイプで殴られ、病院で死亡した」とあった。
野宿者襲撃は、だんだんひどくなっていくという気がする。野宿者の数が急増しているのだから、他の条件が変わらない限り襲撃もまた急増していくのは当然のことだろう。われわれとしては、野宿者の生活を賭けた闘争と授業などの啓蒙活動との両面作戦を続けていく他にない。

今日の夜6時過ぎからのテレビニュースの関西版で、三重県の小学校の総合学習で、小学生たちが大阪城公園の野宿者の炊き出しや「おおよど自立支援センター」に行き、授業でまとめをやるという内容の放送があった。わさわざ「ホームレスがテーマで総合学習」と新聞のテレビ欄に出てるくらいだから、やはりこうした試みはすごく珍しいのだ。
ぼくとしては、小中学校の総合学習の時間は、野宿者問題の授業の最大のねらい目だと思っていたので、興味津々で見た。ここの先生は、「平和学習で毎年大阪に来ているが、テントがいっぱいなのを横目に歩いていくのが、自分でも腑に落ちなかった」と言っていた。こうしたまっとうな感性を持った先生がもっと現れてくれることを期待する。



2002/12/1 私の近況

野宿者問題の授業のページの「更新履歴」がかさばってきたのでプルダウンメニューに変えようと思った。それで、2日ほど前からCD−ROM付きJavaScriptの参考書を買ってあれこれ試している。しかし、これがうまくいかないんだな! 最初はCD−ROMからソースをコピーアンドペーストして該当部分を書き換えた。だが、なぜかプルダウンメニューが前後左右にいっぱいの凄く気持ち悪い画面になって、自分でもびっくりした。修正不可能だったので、あきらめる。
今度は新しいページを作って、そこにプルダウンメニューのソースだけをコピーして、書き換えをやってみた。試行錯誤の末、今度はうまくいきました。そこで、そのソースを野宿者問題の授業のページに(重複部分などを削って)コピーしてみると、プルダウンメニューは確かに出来てるが、今度はクリックしてもなぜかリンクがうまくいかない! 何か間違えたらしいのでまた試行錯誤を繰り返したが、結局どうしてもダメ! 多分、すごーく初歩的な間違いをやっている。ま、いずれ完成したら野宿者問題の授業のページに使うでしょう。
きのうの夜回りには、野宿者ネットワークのホームページを見て連絡してくれた学生と、NPO釜ヶ崎の事務の人(神戸の震災の後、仮設住宅の安否確認訪問のボランティアもされていたという)が初めて参加してくれた。また、先週に続いて、このページの11月11日のところで触れた、寝袋100個と現金100万円をカンパしてくれた人が夜回りに来てくれている。この人は熱心なクリスチャンで、キリスト教の立場から野宿者問題に関わっていきたいということだ。それで、釜ヶ崎の英神父に紹介し、その縁でキリスト者の多い木曜夜回りや日曜のミサにも参加されている。
というわけで、新規の人が参加してくれてありがたいのだが、その夜回りで撒いたビラは、大阪城公園のシェルター開設の情報と、この日の新聞に出た、埼玉での中学生3人による野宿殺人の記事の紹介だった。
報道によると、3人は25日の夜、レンタルビデオ店でたまたま居合わせ、「ホームレスをからかいに行こう」という話になり、野宿していた井上さん(45才)に「何でこんなところにいるんだ」などからんだという。井上さんが怒って傘を振ると、それが1人に当たり、「頭にきて殴った」。井上さんは肋骨が5、6本折れ、あちこちに皮下出血があった。そして、近所の人が救急車を呼んだが、急性硬膜下血腫で亡くなった。3人は成績も悪くなく、一人は人権標語で表彰されたこともあるという。どういうこどもが、いつ野宿者をなぶり殺すかもわからない、ということが恐ろしいのだ。
夜回りでビラの内容を話しながら配ったが、多くの人は新聞記事を見てショックを受けていた。日本橋は最近また、中学生たちが深夜に襲撃を繰り返しているだけになおさらである。
なお、去年の7月29日に日本橋で放火襲撃され瀕死になったSさんについては、その後も何人かでお見舞いを続けているが、繰り返しの手術とリハビリを経て回復が進み、退院後にヘルパー介護のもとでアパートで暮らす可能性が出てきた。


2002/11/19 大阪YMCA国際専門学校国際高等課程(IHS)で野宿者問題の授業

2001年に最初に「野宿者問題の授業」をやったIHSで半年ぶりの授業。今回も「ボランティアクラス」の生徒だが、メンツはほとんど様変わりしている。
先月の西淀川高校で先生に指摘された通り、授業では野宿者問題の全体像や行政の施策の不十分さについてクローズアップしていても、自分たちがどういう活動をしているかについては、なんとなくこっ恥ずかしいこともあって簡単にしていた。だが、「自分たちのやってることの話」についてもやはり語るべきなので、今回は釜ヶ崎での諸活動の紹介や、自分が釜ヶ崎にきた経緯、そして夜回りで出会う人とどのようにかかわったかなど、現場の人間にしかできない話で時間の半分近くを使う。そして、後半に「いす取りゲーム」と「カフカの階段」の譬えを使う。
ところで今回は、しょっぱなから一部で私語が多かった。最初のビデオ(こども夜回り)の時からおしゃべりが始まって、ぼくが話し始めてもどうも止まらない。途中で「話しをされると気になるので、止めるか寝るかしてください」と注意したほど(こんなこと言ったのは、野宿者問題の授業を開始して以来初めてだ)。前半で自分が釜ヶ崎に来た経緯やその後の個人的な話をしていたが、こういうことは本当は信頼関係がないとできない内容なので、熱心に聞いてくれる生徒を頭においてはいても、かなり心理的にキツかった。
後半に入ると、「いす取りゲーム」と「カフカの階段」の譬えで、いつものように生徒とのやりとりをメインにして授業を進める。おもしろいことに、ここで一番いろいろ発言してくるのが件(くだん)のおしゃべりグループなのだ。しかも、時々、他の学校では出てこないようなアイデアを出してくる。一方で、静かにしてる生徒の方は、こちらで聞いてもこれという意見が出てこなかったりする。あとで先生が言うには、真面目に考えてるけど、とっさには反応できないタイプだからということだ。
授業のあと、担当の先生たち3人と1時間近くいろいろ話す。授業について、最初に「野宿者がよく言われるセリフ」について書き込みさせるとか、席は後ろに座らせないで輪になって座るとか、技術的な改良の意見は幾つか頂いたが、内容では問題ないという。むしろ、ボランティアクラスについても去年は爆発的に元気な生徒がグループでいたが、今年はそれほどでもなく、授業はいつもこんな調子だとか。
そして、話題は最近の10代の生徒たちの元気の薄さになっていく。かつては阪神淡路大震災で若いボランティアが多数結集したが、そうした流れは今や存在しない(では、あの大量のボランティアは何だったのか)。むしろ、「会社にさえ入れない」が若者がいっぱいで、展望がさっぱりなくて、みんな元気がなくなっている。
確かにNGO、NPOやソーシャルベンチャーみたいな新しい流れは生まれているが、そういうところに行く若者は「高学歴で家の資産の豊かな層」と相場が大体決まっていて、こんなところでも格差の拡大が生まれてしまっている。となると、展望のない若年層はどこに出口を見つけることができるのだろうか。先生たちとの話は、ここで終わってしまう。出口はないからだ。
それにしても、相変わらず授業の日にはひどいプレッシャーからか、下痢と頭痛にやられてしまう。授業のたびにこうなのだが、これってなかなか慣れないものらしい。

(なぜプレッシャーがひどいかちょっと考えた。個人的にかかるプレッシャーももちろんある。しかしそれと同時に、教育現場での野宿者問題の導入が釜ヶ崎はもちろん全国でもまだ先駆的なものであるため、「こうした動きを、自分の力不足のためにつぶしてしまってははいけない!」という責任感というか、重圧が働いているらしい。
大げさに考えてるのかもしれないが、しかしそれも一定の事実のように思う。変な授業をやっていれば、当然、授業の話は立ち消えになって今後の発展はなくなってしまう。ぼくは「野宿者問題の授業」を運動の一環としてやっているつもりだが(趣味でやってると思われていることが多いらしい!)、野宿者ネットワークや反失業連絡会が団体なのに対し、授業の方は事実上ぼく一人でやってることが多いので、そういうプレッシャーが特にかかってくるようだ)。




2002/11/17 中西圭三のニューアルバム「結晶」

13日に出た中西圭三の3年ぶりのアルバム「結晶」を聴いた。
全11曲中9曲がカバーで、2曲が自身による作詞作曲という内容。カバーの方は、「人間の証明のテーマ」「時代(中島みゆき)」「片想い(浜田省吾)」「オレたちの旅(小椋佳)」など、70年代の(?)曲が並ぶ。
彼のアルバムというと、ぼくには「STEPS」が最もインパクトがあった。つまり、たいていのアーティストのアルバムが、よくて全曲中に2曲ぐらいしか印象に残る曲がない中で、「STEPS」は全曲「これは」というような冴えた曲ばっかりだったのだ。覇気がみなぎっているというか、のりにのってるという感じのアルバムだった。そしてこの時期、彼は作詞はやってなかった。作曲した後、作詞家に「こういうイメージです」と説明して作ってもらってたそうだが、でも彼の曲は歌詞を見てもさっぱり意味不明なものが多かった(例えば「woman」)。要するに、歌詞の文学性には関係なく、楽曲そのもののクオリティで勝負というアーティストだったわけだ。そこら辺も、彼のアーティストとしての爽快さを聞き手に感じさせた一因だったと思う。
そこから言っても、今回の「結晶」は自分で作詞し、さらにカバーをメインにしているという点で、今までとは大きく変化したアルバムである。そして、カバーの方はほとんど「別れ」がテーマの曲ばかりだ。誰でもそうだろうが、否応なく、周知になった彼のプライベートな話を思い出すことになる。ここでは彼の歌声は、歌詞内容に沿ったややウェットなものになっている。自身で作詞作曲した2曲も、心の痛みをたたえた痛切な曲となっている。音楽そのものの爽快なクオリティから、こうした歌詞の重みにつりあったウェットな歌声への移行は、歌唱力の格段の進歩ともどもに、ぼくにはある「年齢」を感じさせた。
実は、今月始めにある同級生主催のパーティで、ぼくがピアノで伴奏して彼が一曲歌う予定があって、彼と電話で打ち合わせをしていたのだが、事情でパーティ自体が中止になってその機会もなくなった。そこで一緒に演奏していたら、このアルバムもちがった目で見えたことだろう。いずれにしても、今後、アーティストとして彼はどういう方向へと歩んでいくのか、注目していきたい。




2002/11/11〜12 きのくに国際高等専修学校のクラスの釜ヶ崎研修・カンパで頂いた寝袋を配る

10月8日に授業をやった、きのくに国際高等専修学校の社会系選択授業「社会的弱者」を考えるテーマのクラス(高校1〜3年生)の11人が、先生ともども2日間の釜ヶ崎研修にやってきた。ぼくが現場の案内や日程組みをやったが、その内容はこの通り。
▼11日・午前・釜ヶ崎を歩く。午後・大阪府庁前野営闘争カンパ活動に参加。野営地を見る。大阪城公園を歩く。夜・日本橋を夜回りし、寝袋を配る。
▼12日・特別清掃に参加。山王こどもセンターのプログラムに参加。

11日夜の「寝袋を配る」だが、この寝袋とは何か。
1週間ほど前、NPO釜ヶ崎に未知の人から電話が入った。内容は、「夜回りをやっている人に寝袋と現金のカンパをしたい」というものだった。そこでぼくが呼ばれて電話で話をすると、その人は、寝袋はともかく現金の方は実際に会ってどういう団体か確かめたいので、夕方に釜ヶ崎まで来るという。そこで、夕方にご本人が車で二回に分けて運んできた寝袋100個を受け取り、それから野宿者ネットワークがどういう活動をやっていて野宿者の現状がどういうものかなどという話をいろいろした。すると、その人は「これを」といって、現金100万円を差し出した。ありがたく頂いた。
この人は大阪市内に住む30才くらいの男性で、会社勤めをしているが現在は休業中だという。前々から野宿者のことが気になっていたが、会社の仕事で一杯一杯でボランティアなどに参加することもままならない。ある時、近所の公園に行ってそこの野宿者に「今、何が必要ですか」と聞いてみたら、「寝袋があったらありがたいな」と言うので、寝袋100個を100万円近く出して発注したということだ。そして、野宿者が多いのは釜ヶ崎だとその野宿者に聞いたので、電話帳で「釜ヶ崎」を捜したらNPO釜ヶ崎を発見した。それでただちに電話したと言っていた。
「今困っている人のために何かをしたい」という思いで、そんなにない貯金の中からこれだけのものを出してきたという。話した内容はここではあまり書けないが、自分の今の生き方とかにもいろいろ思うところがあるということだった。ぼくは、大変ありがたいです、「よろしかったら実際に夜回りにも参加してみてください」とか言った。一般の人でこんなことをしてくれる人がいるということにはなにしろ驚いたし、もちろん感激した。金持ちでもないというのにこんなに金をはたいて大丈夫かな、と心配にもなったが、それはよけいなお世話というものだろう。むしろ、お金のカンパのことより、こういう人には実際に夜回りなんかで野宿者問題にかかわっていってほしいなあという気持ちがぼくとしては強かった。この人は、名前も住所もぼくにも言わない、完全に匿名の寄付だった。
寝袋はもちろん夜回りで使うとして、100万円の方は、今も進行中の大阪府庁前野営闘争が予算を使い切りつつあり、今や借金しながらでもやる状態だったので、そこら辺をその人に話して、野営闘争の炊き出しの方で使ってもらうことにした。ま、これはぼく個人の判断だが、妥当なところだろう。
しかし、寝袋を配るとなると、日本橋だけでも50個以上は要るし、いつものメンバー2〜3人ではとても運べはしない。車を用意するとかしないといけないが、ちょうどきのくに国際高等専修学校の生徒たちが来る日程が近かったので、これでいけると考えた。

そこで、11日の夜にリヤカー2台に寝袋をめい一杯載せて、日本橋のでんでんタウンを回って野宿者に配ってきたわけである。生徒にも寝袋を持たせて、なるべく野宿者一人一人と話をしながら渡していくようにしていった。雨が降ったおかげで屋根のあるでんでんタウンはいつもの倍近い野宿者がいて、寝袋が足りなくなって途中でもう一回取りに行ったりした。結局、7時半から11時頃までかかってかなりバテた。
(そりゃーそうと、この日は別の謎の団体が同じ場所を夜回りしてて、野宿者にシュークリームを渡していたが、あとで見てみると保存期限(賞味期限ではない)が「8月11日」だった! おまけに生クリームが入ってて「保存料無添加」。さらに、野宿者に渡すときに、自分たちの団体名も名乗らない。配るんなら自分たちが食べるものを配れ!)。
12日には特別清掃、55歳以上の野宿者のための仕事に、生徒たちにも参加してもらった。ボランティアで夜回りや炊き出しばっかりしていると、野宿者層からは感謝される役回りになって、自分の立場を勘違いしてしまうことがあるので、こうやって野宿者と一緒に仕事をするのはやはり必要である。かつて釜ヶ崎キリスト教協友会のセミナーでは、参加者に実際に日雇労働に出かけてもらったりしていたが、これは仕事数が激減してしまった現在では「ただでさえ少ない仕事をボランティアの研修のために奪うのか」と言われてしまうので今はやっていない。その点、特別清掃の場合は無償で参加するのは自由だし、それに女性も参加できるので最近は時々ボランティアが研修で参加するようになっている。あとで聞いたら、生徒たちは仕事のやり方を教えてもらったり、休憩時間には世間話をしたり、結構交流できたようだった。
それにしても、授業だけの時とは違って、2日間あちこち一緒に行動していると、生徒たちのキャラクターや人間関係がいろいろわかっておもしろいです。



■「近況」(2001年5月16日〜2002年11月2日)

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