DAYS                                                      
          めったに更新しない(だろう)近況


今頃言うのもなんだけど、ここでは、釜ヶ崎での活動のハードな面については触れません。また、僕が今主軸にしている野宿者ネットワークの諸活動についても、書ける事は全部ネットワークのページに書き込んでいるので、ここでは書きません。となると、書ける事ってかなり限られるけど、まあ公開の「近況」ってそんなもんでしょう。(2001/12/11より)

なお、文中で、野宿者問題の授業に関して「いす取りゲーム」と「カフカの階段」の譬えがどうだ、とよく書いていますが、それについては「いす取りゲームとカフカの階段の比喩について」を参照してください。


2002/11/2 夜回り仲間はインドへ行く


野宿者ネットワークの夜回りでぼくは日本橋の東側をまわっているが、このコースをここ1、2年は京都大学の院生と一緒に担当していた。
彼はもともと菌類の研究をしていたが、最近アジアの近現代史に専攻を変えたそうだ。京都で障害者の介護をやっていて、その介護の一つで障害者と一緒にインドへ行き、地方の農村などを見てきて、それから特にインドに関心を持ってきたという。その彼が、今月から半年ほどインドの農村に行くことにしたので、今日は夜回りのあと軽く送別会をした。
インドは貧富の差の激しいところだが、農村の生活はやはりきびしいという。グローバリズムの中で、先進国に都合のよい作物を作り続ける事を強いられ、その結果として農地は荒れ、しかも経済的にまるで改善しないという状態が続いているらしい。
そこには、例えば日本の青年海外協力隊がある程度かかわっている。だが、これは地元の人からは評判がよくないらしい。つまり、先進国に都合のよい作物の栽培技術の指導とか、あるいは協力隊が行っても実際にはまるでやることがなくてぶらぶらしてるとか、かなりそういう杜撰な話があるみたい。それとは別に、日本の消費者と第3世界の民衆をつなぐというフェアトレードもあるが、これも現状では(例外はあるが)「先進国の自己満足」程度にしかなってないという。
彼が半年ほど農村に行くのも、現地のNGOなどと一緒に活動しながら、現場での農業の再生の可能性を、先進国内部からの視線ではなく現場からの視点で考えるためであるらしい。実際、寄せ場の問題でもそうだが、現場である程度以上生活してないと絶対にわからない感覚や視点があるから、必要なことだなあと思う。
インドに行くと、現地の人から「あんた日本からどういうつもりで何しに来たんだ」という反応は常にあるという。そのとき、「先進国で豊かなはずの日本でもこんな野宿者問題があって…」という話をすると、向こうの人もかなり関心を持って聞いてくれて、話がつながっていくらしい。また、日本からインドに行った彼の知り合いたちも、インドの現実を見てきたが日本に帰ってでは何が自分に出来るのか、と多くの人が考え込むという。そこで野宿者の問題について話すと、非常に関心を持って、実際に釜ヶ崎の夜回りや夏祭りに来たり、寿の方に通ったりしてくれるらしい。こうして、日本の野宿者問題と、第3世界の貧困の問題をつなぐルートが人脈の上でできていく。
ぼくも、第3世界の貧困問題を教育現場で扱う開発教育協議会で野宿者問題の授業について発表をしたりしたが、今度、この協議会の機関誌に授業の報告を載せることになった。今、向こうの編集担当の人と原稿のやりとりをしているが、協議会としても日本の野宿者問題を扱うのは初めてのことで、関心を持ってあたっているという。日本での野宿者問題と世界的な南北問題をつなぐ視点をどのように作っていくか、これからますます重要になってくるはずである。

2002/10/16 西淀川高校で野宿者問題の連続授業4回目


山口雅也の推理小説を次々と読みふけり、昨夜は久しぶりに聞いたジャニス・ジョプリンの歌声に(「チープ・スリル」の特に「サマータイム」)に感嘆しているこのごろだが、
大阪府立西淀川高校での50分×4回の授業シリーズは最終回にきた。内容は、「野宿者とわたしたちの未来」という感じ。
まず「カフカの階段」の図を出して、空く場所に何が入るか考えてもらうところから始める。普通の授業スタイルだと生徒は寝てしまうので、こちらは席を回りながら生徒を当てて答えてもらう。
こうして「階段」の中身を完成し、解決策としての「段差づくり」、つまり野宿者に対する社会的支援、そして「ホームレス自立支援法」の性質について説明し、最後に「階段」の頂上に来る「いす取りゲーム」の譬えを導入し一段落。
ここで、「でもそのいすにすわれなかった人は、どりょくがたりないと思う。あまった2人は、つぎのいすとりゲームをしたらいいと思う。それでもすわれない人は、ひっしにしてないと思う。人間死ぬきでしたらなんでもできる。人生勝組になる!!」「自分は、余った人には絶対ならないようにがんばろうと思った」
など、前に椅子取りゲームの話をしたときに出た生徒の感想を(名前は出さずに)紹介した上で、椅子取りゲームで100倍、200倍努力しても、結局座れる人の数は変わらないなら、それは「無駄な努力」ではないか。椅子を取るのに必死になるんじゃなくて、むしろゲームの規則を変えてはどうか、という話に持っていく。
ここで、ゲームには「競争ゲーム」と「協力ゲーム」の2種類がある、という話をし、「協力ゲーム」としての「いすのわかちあい」、つまりワークシェアリングの話題にふる。ここでワークシェアリングについての兵庫県庁での取り組みについてのピデオを見て、オランダモデル、アメリカモデルといった話題を出した。
ここで時間はきて、「野宿者は自業自得」みたいな見方が多いが、実際によく見てみると、個人の努力でどうこうできない、社会の構造にかかわる問題であることが多い。みなさんもできから夜回りなどに来て、野宿者と話をしてボランティアなどに参加してください、というふうに授業をしめた。今回は寝る生徒も少なかったし、生徒から(意外にも)拍手をもらってうれしかったなあ。
あとは担当の先生とまとめをやる。先生の指摘は、ワークシェアリングや「ホームレス自立支援法」による行政の施策については触れていても、運動体やボランティアがどのような活動をしているかについては、あまり情報を伝えていない。そのため、ワークシェアリングやシェルター類の施策について「政府や偉い人がやってくれればいいな」みたいな感覚に終わってしまって、自分たちが野宿している人たちとどういう関わりが実際に持てるか実感としてわからない。それゆえ、最後に「夜回りなどに来てください」と言うとしたら、そこら辺の話が必要だったのではないか、というものだった。
この点は、最近ぼくも、自分たちの活動自体についてはあまり授業で触れてないなあと感じていたまで、ただちに納得した。自分たちがどういう活動をしているかについては、なんとなくこっ恥ずかしいので簡単にしておいて、野宿者問題の全体像や行政の施策の不十分さについてクローズアップする傾向があったわけだ。しかし、やはり「自分たちのやってることの話」についても力を入れて語るべきなのだろう。
反省点はいろいろあるが、生徒の感想を見ると、やはり、やればやっただけの意味はあるなあと実感する。特に一人の女子生徒の書く感想は常に鋭いので感心した。(顔が全然わからないので、今日最後に先生に「この名前は誰ですか」と教えてもらって、やっとどの生徒かわかったんだが)。彼女は、「野宿者がよく言われる次のセリフについてどう思いますか」という設問の「努力が足りなかったのではないの? 自業自得じゃないの?」のところに線を引いて、こう書いていた。
「この言葉はハラタツなー。だって努力してる人もいるやん その中で会社がリストラになったとかあるやん それに今がんばってるからいいやん カンあつめやその人なりに努力してるからその言い方はゆるされへんナー!!!」。
そして今回の授業で何がわかったか、ということについては、「やっぱり野宿している人も いろいろな段階があったけれども今、一生けんめいがんばっている事 あと、いろんなボランティアや設備など これからもっともっと増やしていってほしい。今回の授業 わかりやすかった」とあった。ありがたい話です。
一方では、感想「とくにない」が相当ある。今まで割合にフリースクール系の学校で授業をやってきたが、今回は生徒の反応がそれとは大幅に違うのでとにかくびっくりした。どうも、学校によって生徒の雰囲気はまるで違うらしい(当たり前か)。いろんな学校、いろんな年代(小学校、中学校)に行って、授業を繰り返す必要があるのだと思う。

2002/10/9 大阪府立西淀川高校で「野宿当事者と語る」


大阪府立西淀川高校での50分×4回の授業シリーズは、7日の第2回「野宿者襲撃」に続いて、今日は第3回として「野宿当事者と語る」。連続授業の中でも、実際に野宿者と接し言葉を交わすこの回は非常に重要で、シリーズ全体のうちの半分ぐらいの意味を持つと言っていい。
とはいえ、事前に野宿者に対する最低限の知識もない(つまり差別と偏見しかない)状態で直接に生徒と野宿者を対面させるようなことは絶対にできない。それは「教室が差別の場になる」、つまりお互いが傷つけ合う、というより野宿者が一方的に負担を負うだけの結果になり易いから。今回のように、シリーズで何時間かの授業があってはじめて「野宿当時者と語る」場が教室で設定できる。
去年のYMCA国際専門学校のときは3人の当事者に依頼したが、今回は野宿者ネットワークのメンバーである藤井さん一人にお願いした。現在78才の藤井さんは、西成公園でアルミ缶を集めながらテント生活を続けている。藤井さんについてはこのページに詳しいのでぜひ参照していただきたい。
授業は、ぼくが藤井さんにいろいろ伺い、それをみんなが聞くというスタイルでおこなった。
ポイントは、▼現在の野宿生活の様子▼野宿に至った経緯▼なぜ生活保護を受けずに野宿を続けるのか▼西成公園には行政が作ったシェルターがあり、また他の場所には自立支援センターがあるのに、なぜ入らないのか、以上の4点。
内容について触れていくと詳細な授業内容の報告になってしまうので、この「近況」で触れるのは無理だ。ま、藤井さんはいつもどおりの記憶鮮明な話ぶりで、全体してこの3回の授業の中でも一番内容がよかったのではないかと思う。
それにしても、生徒は時間半分になるとやっぱりばたばたと寝始めていた。ぼくが最初担当した授業のときは「ぼくの話し方が悪いのかなあ」と悩んだが、前回の「野宿者襲撃」の回もそうだったし、どうもそういう問題ではなくて、生徒の一定数は「どんな内容であろうと寝る」ものらしい(バイトが忙しいので寝不足みたい)。それがわかったので、今回は生徒たちがばたばた寝る中、平常心で授業を進めた。寝る生徒はいるが、関心を持って藤井さんの聞いて質問をしてくる何人かの生徒たちや、あと見学の校長先生や他の先生たちもいるので、そちらをメインに考えれば別に気にならない。
生徒の感想から引用。
「藤井さんも、ぼくのおじいちゃんと同じで、戦争に出て、たいへんな人生だったんだなと思った。藤井さんはホームレスじゃなくて、同じ人間だということに、前より実感した」。
「苦労はしている事を実感した。私たちがたべ物をふつうにのこしているのに野宿者はそんなぜいたくしてないから私たちがのこしているたべものをみてハラがたつだろうなっ。でも野宿者にはみえないって思う。もっときたないイメージがあったけどぜんぜんふつう!!」
それにしても、「野宿者問題の授業」3日連続は予想以上にプレッシャーがかかった。

2002/10/8 きのくに国際高等専修学校で3時間枠の野宿者問題の授業


府立西淀川高校での50分×4回の授業シリーズのさなか、きのくに国際高等専修学校(和歌山県橋本市)で授業をやってきた。社会系選択授業で「社会的弱者」について考えるテーマのクラス、高校でいう1年から3年生の11人が対象。この学校については、ホームページがある。
1回まるまる3時間というのは初めてで、授業の構成についていろいろ考えたが、結局このようにした。

■野宿者がよく言われるセリフ(公園や駅の、みんなで使う場所にいるのは迷惑だ。努力が足りなかったのではないか。働けばよい。福祉とか、困った人が行くとこがあるのではないか。家に帰ればいい)について、みんなの意見を聞く。
■こどもの里の夜回りのビデオを見る
■夜回りに見る野宿者の様子
■夜回りで出会う人のケースについて一つ一つ触れ、問題点を示す
■日本の野宿者全体の状況
■海外の野宿者の状況
■自業自得論への反論としての「いす取りゲーム」の譬え
(休憩)
■「いす取りゲーム」と「カフカの階段」の譬え
■競争ゲームとしての「いす取りゲーム」から、協力ゲームとしての「いすの分かち合い」=ワークシェアリングの話など
■襲撃をした若者の証言のビデオを見る
■放火襲撃など、襲撃の状況。襲撃についての意見の交換
■質問など

さすがに、1回の授業でここまでできれば十分だと思った。振り返れば、生徒たちの幾つかの感想や意見がやはり印象に残る。
全体に、生徒の方から積極的に意見を言うことはあまりないが、聞けばいろいろ反応が返ってくるという感じ。例えば襲撃した若者の証言について意見を聞いたところ、「弱者を狙うのは許せない」「報道が、襲撃を若者だけの問題にしてしまうことに疑問を感じる」などと並んで「学校などの周囲の中での生きにくさの中で、たまったものをぶつけようという気持ちはわかるところもある。けれども人への暴力でそれを発散するのは許されない」というような意見もあった。また、「東大に行けないヤツは人間ではない、みたいな空気が、能力の上で劣る人への差別を生む」というような意見も出た。
ぼくも、襲撃する若者の「無能な人間を駆除する」という発想が、そのまま学校でかかる受験競争の圧力そのものだということや、就労に関する「いす取りゲーム」の譬えは、そのまま受験の譬えそのままだということを言った。(少子化のために受験圧力自体は減っているが、高所得層のこどもの超高学歴志向と、低所得層のこどものフリーター化という二極分解は昂進しているようだ)。実際、ここ数十年の「学歴が低いと失業率が高い」という事実から言って、学校と一般社会での能力主義が共通することは明らかだし、そこから生まれるストレスが「弱者」への攻撃を生むのもほぼ間違いないところだろう。
質問の中では、「野宿に毛布などをわたすとき、気持ちの上で抵抗はないか」というものもあった。いろいろ答えたが、なぜそういう疑問を持ったのか尋ねると、ものを渡すことで自分が野宿者の「上」に立つような感覚を持ってしまうのではないかと思った、ということだった。
さて、授業が終わると3年の生徒が来て、読んでみてくださいと言って小論文「日本はワークシェアリングを導入するべきか」を持ってきた。読んでみると、野宿者問題の解決のためにワークシェアリングを日本に導入すべきだ、というものだった。彼女は、2年前に学校の授業の一環で釜ヶ崎に行き、夜回りをし、それから日雇労働問題、野宿者問題に関心を持って調べ続け、解決策として「仕事を作る」こと、特にワークシェアリングの可能性を考えて、それを調べて最近まとめ上げたという。野宿者問題の現場の人間でさえワークシェアリングなどについてはあまり考えてないというのに、高校生がこういう事を考えて論文にまとめているのだから驚く。そして、それ以上に、ただ一度釜ヶ崎に行き、それから2年間、野宿者問題をどうすればいいのか考えつづけて論文を書いた、というそのことに感動した。去年、野宿者問題について素晴らしい英論文を作ったYMCAの3年の女子生徒を思い出す(それにしても、なぜこういうのって女子生徒ばかりなんだ?)。

2002/10/2 大阪府立西淀川高校で野宿者問題の4回連続授業の始まり


大阪府立西淀川高校で50分×4回の授業シリーズが始まった。授業名は、選択「地理A」で高校3年生の28名。責任は、野宿者ネットワーク(団体)、反失業連絡会の松本、大阪大学院生の大北、生田というチーム形式。
西淀川高校は入試のレベルで言うと最底辺ぐらいで、さらに1年生の間に100人は退学していくという学校らしい。卒業生は、成績や家の資産の関係で、ほぼすべてフリーターになっていくんだとか(去年、連続授業をやったYMCA国際専門学校とは、まさに対極)。そういう進路状況なので、3年生であっても堂々と受験とは無関係なこんな授業カリキュラムも組めるという。こうして「野宿者問題の授業」は、学費のかかるフリースクール系か、あるいは公立のいわゆる底辺校でまず実現できるという不思議な(?)現象ができあがる。
今回の授業の対象の3年生が1年の時に、生徒数名(その後退学)が放課後、神崎川河川敷で暮らす野宿者に爆竹を投げるという事件があったため、それをきっかけに先生が野宿者問題について2年次の「人権HR」で授業をやっている。担当の先生は、釜ヶ崎の越冬夜回りに何年か参加されていたそうだ。
日程は、先生による事前授業のあと、■10月2日(水)6限目(14:15〜15:05) 「フリーター・不安定就労と野宿者問題」■10月7日(月)1限目(8:40〜9:30) 「野宿者襲撃」
以下・予定 ■10月9日(水)6限目(14:15〜15:05)「野宿当事者と語る」■10月16日(水)1限目(8:40〜9:30)「野宿者とわたしたちの未来」

というわけで、第1回の授業「フリーター・不安定就労と野宿者問題」をやってきた。第1回がこのテーマになったのは、事前の会議で「そういう学校なら、フリーター問題を取り上げた方が生徒の関心を引くのではないか」という意見があったから。となると、その内容をすでにYMCA国際専門学校で扱ったぼくが担当するしかない。しかし一発目から「フリーター問題」は考えにくいなと思って悩んだ結果、「夜回りに見る野宿者の現状」→「釜ヶ崎の話」→「不安定就労の一例としてのフリーター問題」→「外国の野宿者の現状」→「いす取りゲームの譬え」という流れでやることにした。
授業は、体育のあと、「あちー」とうなる生徒たち(男24人女4人)を前にして始まった。簡単な自己紹介なんかのあと、「夜回りに見る野宿者の現状」で、「74才でガンの手術を3回やり今は足が痛むが段ボール集めをしているという人」「70才で足の調子が悪い人、62才で腰が痛んで台車なしだと10歩も歩けないという人」、というような出会ったケースの話をし、例えば、なぜ74才でガンの手術をした人が野宿しているのか? これは、主に病院が入院に伴う医療費が落ちてくると、アフターケアのことも考えずに退院させてしまうからだ。また、体の調子が悪い人でも、65才より下の場合であれば、福祉事務所に相談に行っても「働けるでしょう」「住所がありません」という理由で生活保護を拒否されてしまう、というような話をした。そして、なぜ野宿者が大阪市内に集中しているか、ということで釜ヶ崎の話をする。ここらへんまでは、生徒の関心をそれなりに引いていた。
ところが、全国がいまや「釜ヶ崎」化し、低学歴層の就労が「日雇い」化、つまりパート・アルバイトに偏ってきつつある、という話に入ると、生徒はばたばたと机の上で眠り始めた! そして、ここを通り越して、若年層の失業率の高い欧米の野宿者の数はどうか、という話で「アメリカでは80万人、フランスでは40万人…」という話になると、「おおっ」という感じで反応が復帰し始めた。
更に、最後に「野宿は自業自得」論に対する批判としての「いす取りゲーム」の話をすると、「でも、その椅子からあぶれた人は、やっぱり努力がたりないと思う」みたいな反応がきた。「そこであぶれても、他の椅子取りゲームでがんばればなんとかなるはずじゃん」(こう言った彼は、あとの感想文で「おれは椅子取りゲームでもがんばって勝ち組になる!」と書いていた)。ぼく「でも、その他のいす取りゲームでも、やっぱりあぶれる人は絶対出てくるよね」。他の生徒「だったら、椅子2人とかで分け合って座ればいい」。ぼく「そう、実際の仕事を取り合うときも、そういういすの゛分け合い゛ってあるんだけど、それ、知ってる?」。生徒「えーと。ワーク…」。ぼく「ワークシェアリングって言うね」。そこらへんで時間が終わった。
授業のあと、先生と打ち合わせをのときも話したが、いきなり「フリーター」の話はやっぱり無理があったようだ。YMCA国際専門学校では今回と全く同じ資料を使って、このフリーター問題を「就労構造の変容」という点で生徒に関心を持って伝えることはできたが、それは100分×12回の野宿者問題の授業をやった後の「応用編」としてだった。まずは現場の話題をするのが筋のようだ。それを、いきなり「失業率が高まったため、就労が不安定就労に…」という話をしても、イマイチだったかもしれない(もちろん、そういう話題でも生徒の興味を惹きつけるような提示の仕方はあったかもしれないが)。ぼくとしても、フリーター・不安定就労の話よりも、「いす取りゲーム」で生徒とやりとりする方がずっとおもしろかった。やり方によっては、いろいろ生徒と野宿の問題について話せたはずなので、今回は反省しつつ結構へこんだ。
とはいえ、4回連続授業はまだ続く。

2002/9/29 再び大阪府庁前で野営闘争の始まり


6月に続いて、再び反失業連絡会による大阪府庁前の大阪城公園での野営闘争が始まった。400人の野宿労働者がブルーシートや木枠で野営の拠点を作り、大阪府、市への行政交渉、街頭での宣伝、カンパ活動、野営拠点での学習会、映画会、炊き出しなどを行う。
今回の行政への要求は、なによりも野宿者のための「公的就労の拡大」に尽きる。7月22日のところで触れたように、今年ついに成立したホームレス自立支援法は、野宿者に「安定した雇用の場の確保」をもたらして野宿者問題を自然に解消していくか、あるいは野宿問題を解決できないまま劣悪な「収容施設」だけを増やしていくか、という「両刃の剣」の意味を持っていた。しかし、法案成立後の国の動きを見ると、シェルターなどへの野宿者の収容施策のためにはなにがしかの予算が計上されているが、肝心の就労対策については、ほとんど何もされていない。つまり、このままではホームレス自立支援法は主に「野宿者の収容・排除」の法として機能していくことになる。
府・市に対して反失業連絡会が交渉を行っているが、どちらも「国の基本方針待ち」「再来年の予算ができるまで何もできません」という姿勢に終始している。「自立支援センターが不十分にしか機能していないのはわかっていますが、今はそれしかできません」「公的就労の拡大を言うなら、国へ言ってください」という調子である。
しかし、その国はと言うと、最近野宿者支援団体が共同して厚生労働省などを相手に交渉を行ってきたが、話してみると、役人は基本的な現状認識すらできておらず、交渉時間の大半は運動体側が役人相手に野宿者の現状をレクチャーすることにとられたという。国との交渉に行った反失業連絡会のメンバーは、「こんな調子では、府と市を徹底的に攻めて国に泣きつかせるしかない」と言っていたが、確かにそれしかないようだ。
ぼくもきのう、きょう、拠点作りのための資材運びや設営作業をやってきた。



↑府庁前にこういうテントが400人分ずらっと並ぶ

2002/9/28 ワルツ堂の最後


今日、夜回りをしていると、先日、大阪地裁による「仮差し押さえ」告知を張り出されたCD店「ワルツ堂」日本橋店で、在庫一掃セールのお知らせが店頭に張られていた。明日の日曜まで都島店でやるということが、ここんとこ忙しいので行けない。最初に買ったCDをはじめ、ぼくはこのワルツ堂日本橋店で一番多くCDを買ってきたが、これがワルツ堂の最後になるようだ。
ワルツ堂の特徴は、日本盤については常に15%引きで売っていたことにある。例えば他店で3000円のCDが、ここで買うと2550円。それだけでもう、よその店では買う気にならない。輸入盤も、他店よりかなり価格設定が低かった。例えば廉価版シリーズのNAXOSは(新譜も旧譜も)税込み800円だった。これは、タワーレコードあたりだと1000円ぐらいする。このように価格が安い上、商品点数も多く、おまけにうちから自転車で15分ぐらいの場所なので、CDを買うときは当然にここに行っていた。
それが、突然に倒産してしまったのだから驚いた。日本橋でんでんタウンで最大のCDショップだったはずだが、一体何がまずかったのか。
ここで買ったCDは、ハイドンの交響曲全集(107曲)33枚セットが最後になった。フィッシャーの指揮で1987年から2001年までかかったという代物で、33枚なのに税抜き9800円(1枚あたり297円!)という戦慄的な安さで話題になった全集もの。まだ聴いていないハイドンの交響曲CD3枚か4枚分の価格で107曲聴けるのだから、どう考えても買った方がいい。実際、ハイドンが29才の時期に作曲した交響曲1番や2番、3番などを聴くと、新鮮なアイデアと活力に充ちた楽曲で結構感心してしまう。「朝」「昼」「晩」というネーミングで知られる6〜8番はなおさらだ。演奏も悪くない、というか、かなりいい。
ところで、ぼくが聞いたハイドンの交響曲の中では、88番が中学生の時から一番好き。このフィッシャーの全集でも真っ先に聞いた。これは残念ながら、旧来式のテンポの遅いモダン・フルオーケストラ・スタイルでいただけなかった。
では、最初に買ったCDは何だったのか。ジェズアルドの「土曜日のためのレスポンソリウム・聖母マリアのための4つのモテト」・ピーター・フィリップス指揮タリス・スコラーズ(アカペラ)だった。カルロ・ジェズアルドはルネサンス後期のイタリアのアマチュア作曲家(貴族)で、妻の不倫の現場に仲間と押し入り、妻と不倫相手をその場で剣で惨殺し、妻の生んだ子どもも不倫相手の子と疑って殺してしまったエピソードで知られている。その後、再婚したが、鬱病がひどくなり、晩年はほとんど邸宅から一歩も出られない生活を送ったという。ジェズアルドは、音楽史的にはマドリガルの方で知られている。当時としては前衛的な半音階技法などを駆使したマニエリスティックな作風が、ルネサンス末期の生んだ「徒花」として評価されていたわけだ(画家で言えば、人生でも作品の点でも同時代のカラヴァッジオが近いんだろうな。事実、このCDのジャケットはカラヴァッジオの「キリストの埋葬」だ)。しかし、ぼくが聴く限り、マドリガルは確かにおもしろいが、当時のマドリガルのモンテヴェルディ、マレンツィオ、ルツァスキといった巨匠の作品と比べれば内容的にはイマイチだ。それに対して、このCDに収められた「聖母マリアのためのモテト」は本当に素晴らしい。絶望の極みに立った人間が最後に歌う救いを求める祈りであり、その純粋さと深みは、ほとんど妖気の立ちこめるような空気を呼び出している。これはあらゆる音楽の中でぼくが一番好きなものの一つである。

2002/9/16 メールから


(電話でジャニス・ジョプリンなどについて話したのをうけて)
KR様

最近出た「ロバート・クラムBEST」(河出書房新社・2800円也)を買いました。
アメリカ60年代のアンダーグラウンド・コミックのカルト・ヒーローで、アメリカでは15巻の全集も出てるとか。
ところでこの人は、ジャニス・ジョプリンとも関係があって、この間話した「サマータイム」が入っている「チープ・スリル」のジャケットはこの人が描いたものです。実際、この本にはそのジャケットも収録されていて、よく見ると「アート R・クラム」とちゃんと入っています。
ところでこの人のマンガは相当に問題含みです。
フェミニストたちをからかい、新左翼運動をコケにし、ユダヤ民族を「邪悪」と決めつけ、アフリカン・アメリカンについては「すべての黒んぼうの心には白人女を犯し傷つける欲望が潜んでいる」などなどと言い募ります。
アフリカン・アメリカンの話は、ぼくはてっきり、白人のアフリカン・アメリカンへの意識を裏返しに描いたものだと考えて、「すごく戦略的だけどギリギリの表現だなあ」と思ってたんですが、例えばユダヤ人への攻撃はそんな「あや」も何もないあからさまなもので、本を全部見てみると、この人はどーも本物の「差別主義者」のようです。
一言で言って、自分への極端な自信のなさと、他者への憎悪が入り交じり合って、その複雑なコンプレックスがある時期、社会そのものへの痛烈な批評として機能したというところでしょうか。
本の帯では山本直樹や中原中也が「激賞」してますが、ある種のひらきなおった現実主義や排除の思想が蔓延している今の日本で、こんなもの簡単に推薦してていいのかな、と思いました。

生田武志

2002/9/16 中西圭三 With 関西シティフィルハーモニー交響楽団


関西シティフィルハーモニー交響楽団(主に元大学オーケストラ部員から成るノンプロ)の大阪での定期演奏会に中西圭三がゲスト出演し、バーンスタインの「ウェスト・サイド・ストーリー」とガーシュインの「ポーギーとベス」から数曲を歌う。というのは、彼のホームページの情報で見ていたので、今日、行ってきた(2000円也)。
チケットは買わずに直接シンフォニーホールに行ったが、なんとほとんど完売状態になっていた。なんとか1階最後尾の席を取れたが、相当有名なオームストラのコンサートでもこれほど満タンになることはまずない。これは、中西圭三の効果なのだろうか?
まず、オケのみで「パリのアメリカ人」など2曲をやる。ときどき(特にソロの部分で)「?」はあるが、とても活気にある演奏で、聴いていて悪くはない。それから中西圭三が登場する。会場から「圭三さーん!」とか声がかかるかと思ったが、そんなことはなく、普通のクラシックのコンサート状態だった。
ただちょっと意外だったが、彼は持ちマイクを使っていた。そのため、ヴォーカルだけがオーケストラに比べて音量がでかくなり、ちょっと不均衡になっていた。もちろんマイクを通した声の音色も、生の楽器とは全然ちがう。クラシックの歌手の場合は、もちろん持ちマイクは使わないで歌うわけで、少々聞こえにくくてもそっちの方がよかったのではないかと思う。
それにしても、聴いていて改めて感じるが、ヴォーカリストとしての彼の魅力はやっぱり相当なものだ。ぼくはどうしても自分たちのバンドで歌っていた高校生の頃の彼の歌声を思い出すわけだが、当時と比べると、声質の幅でもテクニックの柔軟さでも、まったく比較にならない見事な歌声を獲得している。クラシック畑の人が注目して、演奏会に引っ張り出そうとするのもよくわかるというものだ。彼は作曲家として有名になったが、ヴォーカリストとしてだけでも、今まで以上にいろんな活動ができるのではないか。それにしても、高校の時は「どこで練習するのか」と聞くと「風呂」と言っていたが、今はどこでやってるんだろう。
曲目の中では、「ポーギーとベス」から「必ずしもそうじゃない」があった。最近、サイモン・ラトル指揮のこのオペラ全曲を英語の原文を見ながら聞いたが、原文は方言だらけで、この歌詞の中身も「おゲレツ」きわまりないものだ。しかし、(本人にも言ったが)彼の声で聴くと、ほとんど同じ曲とは思えないような、ある種さわやかな曲になっている。黒人、アフリカン・アメリカンたちの血生臭い生活を延々と描いたこのオペラのナンバーがそういう印象を持って聞こえることは、彼のヴォーカリストとしての勝利というべきか、それとも限界と言うべきか。
ガーシュインが終わると、アンコールとして彼の曲「眠れぬ想い」が、ソロのピアノとヴァイオリン、チェロなどの伴奏で歌われた。クラシックのプログラムの中で突然歌われたこの曲は、とても美しく響いていた。やはりこれはいい曲だと思う。
休憩に入ると、楽屋に行った。しかし、警備の人は「関係者以外立ち入り禁止です」と言うではないか! 中西の携帯に電話をかけたが、(まだコンサート中だから当然)留守電になっている。仕方ないので、楽屋の出口で本を読みながら、座り込んで彼の出を待つことにした(私は「追っかけ」か?!)。そうしてひたすらブコウスキーの「パルプ」を読みながら30分ほどすると、中西が出てきたので、ちょっと立ち話をした。ただ、これからすぐ帰んなくちゃいけないということで、待たせてあった車にその場で乗っていった。「トークの時、緊張してたねー」と言うと、「いやー、まったく、緊張したあ」とか言っていたが、彼にとっても今回のコンサートは異例のものだったらしい。

2002/9/15 大阪市大正区のエイサー祭り


ここんとこ毎年のことだが、大阪市大正区のエイサー祭りに行ってきた。1920年代のソテツ地獄以来、大正区には沖縄出身の人が多く生活している(現在では2世、3世の人が主流)。ヤマトでは、沖縄への強い差別があったため、エイサーをはじめとする沖縄の文化は長い間あまり表だって継承されることはなかったという。1970年代以降になって、自分たちの文化を見直そうという機運が高まり、関西沖縄文庫などの活動拠点を作り、その流れでこのエイサー祭りも行われるようになった。
例年のことながら、公園内にはびっしりと人が詰まって、移動するのも大変だ。周囲はテントが並び、シーカーサーやゴーヤー茶、沖縄関連の本などを売っている。参加団体は16で、沖縄、愛知、東京などからも来ていた(愛知琉球エイサー太鼓連、東京沖縄県人会青年部…)。
12時開始で、暗いなるまで勇壮なエーサーが続く。エーサーの間、指笛が鳴り続け、あっちゃこっちゃでカチャーシーを踊る人が出始める。最後には全員が立ち上がってカチャーシーを踊り、とんでもない熱狂状態で幕を閉じる。
今年は6時間以上ずっといる根性がなかったので、2時間ほどいただけで帰ってきた。それはそうと、ここに来ると、いつも釜ヶ崎の知り合いがいっぱいいるのがおかしい。例えば、画面後方に見える舞台(裏は足場で組んである)は、釜ヶ崎の「勝ち取る会」の春さんたちが作っている。春さんは、会場ではなぜかたこ焼きを焼いていた。そして公園の周囲のあちこちでは、知り合いたちがたむろして酒を飲んだりしている。釜ヶ崎と沖縄には、同じ人間を惹きつけるある種の魅力があることは確かだ。




↑あまりに人が多くて、いいアングルが確保できない



↑ちなみに西成から会場の平尾公園に行くには、この渡し船を使うのが一番早い

2002/9/12 放火襲撃されたKさんがようやく退院する


去年の7月19日に日本橋で野宿していたところを、若者たちにガソリン類をかけられ放火されたKさんへはお見舞いを続けていたが、1年2ヶ月にしてようやく退院が決まった。と言っても、治療は大体終わってたので、アパートを借りて、入院の生活保護から居宅の生活保護(64才で、火傷の後遺症もあるので就労は不可能)への切り替えをする手続きが問題だっただけだ。
こういうことは放って置いても話が全然進まないので、何ヶ月か前から担当の福祉事務所のケースワーカーに電話を入れたり、病院に行って看護師や医師と話をしたりとあれこれ突っついて、今日、実際に不動産屋に行ってアパートを契約し、福祉事務所で生活保護の変更の手続きをやるところまでこぎつけた。
襲撃現場が浪速区だったため、担当は浪速区福祉事務所。浪速区の場合のいいところは、西成福祉事務所と違って、生活保護の変更に当たって敷金礼金が25万円ぐらいまで支給されることだ(大抵のアパートでは敷金礼金が必要なことを考えれば、本当はない方がおかしい)。病院でKさんと待ち合わせをして、タクシーで釜ヶ崎支援機構の福祉部門に教えてもらった不動産屋に行く。ここは生活保護には経験豊富らしく、店に入って「今、入院してて、アパートでの生活保護が決定してるんですが…」と言いかけると、「はいはい、そこらへんはよく周知しております」と言って、実際、すらすらと何でもやってくれる。数年前まで、生活保護でアパートを借りようとすると、やれ「お年の人はどうも」だの「生活保護は経験がない」などと渋られ、ひどいのになると「あんたのために我々の税金を使うということがわかってんのか」と説教を垂れる不動産屋(これはうちの近所だったが)が多かったことを考えると、ウソのように話が早い。ま、向こうも「生活保護は商売になる」からやっているのだろうが(なにしろ敷金、家賃はすべて法定の最高価格だ)。不動産屋の車に乗って環状線の大正駅の近く、大阪ドームの見える地点の部屋に案内してもらう。あら、なんて明るい日差しの差し込むお部屋。風呂もあるし、クーラーもついてるし、床はフローリング。ぼくの部屋よりずっと素敵。Kさんも「ここにします」と即決し、ただちに契約し、その足で福祉事務所に向かう。10枚くらいの文書に署名捺印してできあがり。退院、引っ越しは7日後と決定。
そのあと、ケースーワーカーと、今入院している病院はアフターケアに関して態度が最低だ、という話をしばらくした。そもそもこの病院にはケースワーカーがいない。Kさんの場合も、ぼくが行かなければ、延々と入院を引き延ばされたあげく、ある日突然「退院です」と言って放り出され、働けない状態のままその日から再び野宿ということになっていただろう。というか、それがこの病院をはじめ、釜ヶ崎近辺の病院の常識である。今回の居宅保護への移行の場合も、Kさんと病院の看護師たちとの意思疎通が全然出来ていなくて、何度もぼくが間に入って話をまとめなければならなかった。患者の方は福祉の手続きなんて全然わからないのに、看護師はそこらへんのことを全然教えてくれない。というか、多分、知りもしない。それでいて、話がもめると、看護師は「あんたがこうこうしなかったからこうなるんだ」と患者のせいにしてしまう。福祉事務所の人も、「大体ケースワーカーがいませんし、ちょっと直ってきたら退院させて野宿させてしまうわけだから、どうしようもないですよ」と言っていた。要するに、金にならないことは一切しません、という態度なわけ。野宿者には見舞いもめったに来ないし、金儲け主義の病院にとってはやりたい放題だ。
ともあれ、「退院したい、できればアパートで暮らしたい」と言っていたKさんの希望通りの結果にできたのはよかった。とはいえ、生活保護になった野宿者が、生活パターンが壊れて、健康を害したり酒におぼれたりということが残念ながらかなり多いことを考えれば、万々歳とも言ってはいられない。Kさんには、「何かあったらぼくのところに相談に来てください」と言っておいたが、野宿という極限生活から定期収入のあるアパート生活への移行は、我々が考えるよりもなかなかに難しいものがあるようだ。
ところで、Kさんは入院中の保護費の貯金から1万円をぼくにくれた。断ったが、「どうしても」ということなので、ありがたく頂いておいた。こういう金は、当然ながら、ぼくのポケットマネーにする。わけはなくて、野宿者で眼鏡が壊れている人の修理費とか、今回のようにタクシーを使った時などの代金にとっておく。
なお、Kさんの10日後に全身にガソリンを撒かれ放火されたSさんの方は、当然ながら依然入院中。

2002/9/4 (神戸市立)六甲アイランド高校で野宿者問題の授業


8月23日のところでも触れたように、「神戸の冬を支える会」と共同で授業をした。初めて行ったこの高校は、六甲ライナーの終点地点にある。近くには神戸ファッション美術館などがあり、この10年の間に建てられたような新しい建築物が並ぶ。電車に乗りながら注意して見ていたが、野宿者の姿やテントは見あたらない(あとで「神戸の冬を支える会」の人に聞いたら、この近所では野宿者はとても生活基盤が持てないらしい)。
さて、授業は全体の科目名が「社会福祉制度」。生徒が2年生5名で、全員が生活福祉学系の生徒。前後の授業では、生活保護法を中心に学習し、生活保護費の算出などのケーススタディを行ってきたという。そして、事前に担当の先生にもらったメールによると「生活保護は生存権を具体的に保障するものであるというスタンスで授業をしてきましたが、生活保護の現状はどうなのか? 本当にすべての人に生存権を保障できているのか? という疑問を生徒に投げかけています。その回答の1つとして生田さんの授業を位置づけようと思っています。ホームレスの現状や公的扶助の現状、生活保護に限らず、行政がどこまで手を差し伸べているのか、いないのか。生田さんたちがどの様な活動をされていて、そこからどんなことを感じているか等についてお話いただけるとありがたいです」ということだった。
授業は50分で、先生の紹介のあと、まず「神戸の冬を支える会」の人から神戸の野宿者の現状や、行政による野宿者への施策のあり方についての話があった。神戸市内には約500人の野宿者がおり、この数はこの数年変化していない。ただし、「神戸の冬を支える会」の生活相談を通して毎年160名程度の人が野宿から生活保護受給へと移行しているので、ほぽ毎年この人数が新たに野宿生活化していると考えられるらしい。最後には、神戸で取り組まれている夜回りに参加したり、救護施設を学校で見学に行ったりしてはどうでしょうか、ということだった(簡単なまとめですみませんが)。
ぼくの方は、「夜回りで出会う人の話」というテーマで、▼「74歳でガンの手術を3回やり、今は足が痛むが段ボール集めをしているという人」▼「70才で足の調子が悪い人、62才で腰が痛んで台車なしだと10歩も歩けないという人」▼「本通りに夫婦が野宿している。夫は55才。病気などはない。なんとかならないか考えるが、今のところ策がない」、というような出会ったケースの話をした。
例えば、なぜ74才でガンの手術をした人が野宿しているのか? これは、主に病院が入院に伴う医療費が落ちてくると、アフターケアのことも考えずに退院させてしまうからだ。また、体の調子が悪い人でも、65才より下の場合であれば、福祉事務所に相談に行っても「働けるでしょう」「住所がありません」という理由で生活保護を拒否されてしまう。また、女性野宿者の場合、福祉事務所に相談に行っても「女性用の施設はない」と言われて追い返されてしまう、というように、実際にぼくが経験してきた話をした。
つまり、「健康で文化的な最低限度の生活」を保証する「生活保護法」はあっても、その内容と実際の現場の運用とはかけ離れているという話。「夜回りをやっていると、こうした難しい解決できないケースに出会うことがあまりに多くて、無力感におしつぶされて帰ってくるばかりです。それは、行政、一般市民、そして野宿者に関わっているわれわれの力不足のためです。そして、野宿に至った社会的に弱い立場にある人たちへの、社会全体の意識のなさのためです。こうした点をなんとかして変えていく必要があると思います」というようにまとめた。「カフカの階段」の譬えも使っておいた。
痛感したが、さすがに時間が短すぎた。授業の日程が決まってから「神戸の冬を支える会」への協力を依頼したため、こういう時間割になったが、やはりそれぞれで1コマは必要なところだった。
まあ、ともあれ神戸の団体と共同作業が出来たことはとてもよかった。先生も、授業の後で「神戸の冬を支える会」の人に「これからも、夜回りなど、何か機会があればよろしくお願いします」と言われていた。会としても、公立の学校で話す機会はこれが初めてだったという。これが、神戸の教育現場と「神戸の冬を支える会」とが協力関係を作る一つの機会になればいいなとは思った。

2002/9/2 財布を拾ってもらう・本田良寛についての1964年のテレビ番組


3000円ぐらい入ってた財布がなくなっているので部屋を捜したが見つからない。あれーどこやったかなーと思っていたら、今朝、釜ヶ崎支援機構から電話があって、財布を拾った人が(中にあった紙に住所があったので)来てくれていると言う。なんでも土曜の夜に道で拾って翌日西成署に届けてくれたらしい。あわてて出かけてお礼を言いました。鉄筋工やってる日雇いのとくださん52才で、山王のあたりの道で見つけたということだ。どうも、31日の野宿者ネットワーク主催の西成公園盆踊り大会からの帰り、自転車に乗っててポケットから落ちてたらしい。それから一緒に西成署に出かけて、財布を受け取ってきた。
なにしろ拾った財布を届けてくれるぐらいのえらくいい人で、西成署の係りが「お礼の問題が…」と言いかけると、その人は「いや、それはいいです」と言う。もちろんそんなわけにはいかないので、栄養ドリンク10本入りのケースと交通費として現金500円をお礼に差し上げた。3000円から言ったら50%になっちゃうが、なくなったと思っていたから安いものである。第一、財布を拾ってもらうなんて初めてのことではないか。
ぼくは大学に行って一人暮らしになって、初めて財布というものを持つようになったが、最初の3〜4ヶ月で立て続けに3つほどなくしたのには我ながらあきれた。アパートには電話はなくて、よく電話ボックスに行ったが、その帰りに電話の上に置き忘れてきてしまうのだ。たいてい30分ぐらいして気づいてあわてて見に行くが、もう財布なんかあるわけがない。警察に届けはしたが、一度も戻ってこなかった。友だちに言うと、「そりゃーおまえ、もう今頃、金抜かれて加茂川(学校は同志社)に財布だけ浮いてるわー」などと身も蓋もないことを言う。そんなわけで、それからは決して財布は持たず、金はポケットに突っ込んで使うようにした。よく「金が落ちないか」と言われるが、決してそんなことはない。ま、たまに知らない間に小銭が落ちてるかもしれないが、少なくとも1月に1回財布をなくすよりははるかにマシである。
そうしてずっと財布なしでやってきたが、最近なんかのことで財布をもらって「やっぱり便利なのかな」と思って使っていたが、またまた自分でも気づかない間に落としている。やはり財布など持ってはいけないんだ。財布なんか使っていたら、そのうち金を落とし続けて破産してしまう。それにしても、京都の学生街ではだれも財布を返してくれないのに、釜ヶ崎では手間暇かけてまで届けてくれる。釜ヶ崎は治安が悪いというのは、大嘘である。(ま、うっかり道に荷物を置きっぱなしにしてると、よくそのまま持ってかれるけど)。

昨夜1日は釜ヶ崎関係のともだちの送別会のような感じで、何人かで帝塚山のジャズライブの店「ラグタイム」に行った。ライブチャージをはじめ結構金が飛ぶが、ここは来れば(当たりはずれは無論あるが)それなりの演奏を聞かせてくれる。今回は当たりで、特にピアニストのとゲストのギターは相当やってくれた。7時から11時半までいて、部屋に帰ったら12時だった。そのとき、ちょうど録画予約したビデオが動き始めていた。
録画したのは゛NHKアーカイブス・ある人生・「良寛先生」貧しい労働者を救うため奮闘する赤ひげ医師゛。1964年の番組。今日になって見たが、釜ヶ崎に入って約2年前に診療所を開いた当時39才の医師が、現在よりはるかに医療的にも社会福祉的にも未開拓だっただろう現場で、文字通り「奮戦」する姿が映し出されている。この人の話はよく聞いていたが、これを見て「こういう人だったのか」と初めてわかった。この人が作った今宮診療所の発展形である社会医療センターはよく使わせてもらっているのだが。相当に人間的におもしろい人だったらしいことは、見ていると伝わってくる。この人は、1985年に60才でガンで亡くなるまで活動し続けていたという。1985年と言えば、ぼくが初めて釜ヶ崎に来る前年である。そして1964年はぼくの生まれた年。というわけで、完全に一時代ちがう先輩ということになる。こういう人がいた上で今の釜ヶ崎があるんだなあと、あらためて思った。
それにしても、1964年当時の釜ヶ崎を動く映像で見られるとは思わなかった。

2002/8/29 井上郷子・大西孝恵・向山朋子


ピアニスト・井上郷子(さとこ)が現代日本のピアノ曲を集めたCD(hathutレーベル)を聞いた(1997年のものが1460円のバーゲン価格で出た)。武満徹、甲斐説宗、松平頼則、藤枝守、伊藤祐二、平石博一、戸島美喜夫、近藤譲の作品を一つずつ入れたもの。ぼくも、半数の作曲家は聞いたことがない。しかし、大半の作品は、方法論的な徹底性と音楽的な達成の高さを作り出した相当の作品になっている。例えば伊藤祐二の曲は、「どのような構造のもとにある音楽を聴いても、常に一つ一つの音を聞き出そうとしてしまう耳」を発見したところから、いかにして構造から自由な音を書くかという方法を作り出してきたという。ここでは「Soloist」(1996)という曲だが、ピアノの一つ一つ音それ自体が充分に、そして魅力を持って響くという目的のために、音楽全体が作り出されていることが聞いてみればただちにわかる。表面的には、トータル・セリエルや偶然性の音楽が結果として似通ってきてしまった「パラパラな音」に近いようにも聞こえるが、「音」そのものへの偏愛と、それを保つための充分な間合いと変化は独自の音楽空間を作りだしている。「一つだけの音の響き」にこだわり続けたシェルシの音楽ともやはり異なる。他にも、武満徹は言うまでもなく、松平頼則の「3つの律旋法によるピアノのための即興曲」(1987)や平石博一の「ア レインボウ イン ザ ミラー」(1992)なども相当に聞かせる。現代音楽の日本人作曲家は、武満徹や高橋悠治以外は一般には名前すらほとんど知られていないが、これはそうした日本の作曲家が近年にどれだけの作品を作り出しているかをよく示すアルバムになっている。
井上郷子のCDは、近藤譲のピアノ曲集が最近同じレーベルから出たので聞いていたが、それと同様、クオリティの高い高い、不満の持ちようのない演奏だ。このCD自体、彼女が1991年からやっているリサイタルプロジェクト「SATOKO PLAYS JAPAN」のプログラムからとってきたものということだが、これは音楽家として素晴らしい仕事内容ではないだろうか。
現代音楽を手がけるピアニストとしては、ぼくは他では向山朋子にデビューアルバム以来注目している。デビューアルバム「WOMAN COMPOSERS」(1995?)は、インパクト満点の素晴らしいジャケット(下を見よ)と内容の鮮やかさで圧倒的だったが、その後の3枚のアルバムも、現代音楽関係のジャンルでは傑出した出来映えの作品になっている。日本人作曲家の作品で言えば、アルバム「Amsterdam×Tokyo」に入っている3人の日本人作曲家の作品はどれもおもしろいが、例えばMakoto Nonomura(漢字が今わからない)の「Away from Home With Eggs」は、もともと老人ホームに行ったときの経験がもとになっているということだが、ピアノの古典曲がどこか壊れてしまったようなポップで爽快な展開の上で、「むかしむかし そのむかし わたしは5才でありました 5才のゆめは お菓子屋さん 看護婦さん オランダ1のDJさん (…)卵を持って家出するう!」とピアニストが歌うというか朗唱し始め、そこに88才の女性やピアニストの5才の娘の声や歌い声がオーヴァーラップし始める。なにか素敵なドラマを一編見たような気持ちにもさせられる。現代音楽は特に第2次世界大戦以降、先鋭化と理論化の一途をたどり、ほぼ完全に一般社会から離脱してしまったわけだが(上の井上郷子の取り上げる作曲家はほぽそういう扱いと言っていい)、これらの曲を聴くと、いわゆる現代音楽が形を変えて、新しいポップの可能性をかいまみせていることは疑いようがない。美術ではすでに村上隆のような存在が世界的に知られているわけだが、もう一歩(か2歩)だ、がんばれ日本の作曲家、というところではないだろうか。
また、チェンパリストの大西孝恵のこれがデビューアルバムらしい、武満徹、バッハ、Lei Liang(1972〜)の作品を集めたCDを聞いた。バッハではトッカータとパルティータそれぞれ1曲の他、「音楽の捧げ物」から「3声のリチェルカーレ」が入っている。チェンバリストで現代音楽を入れる人はごく少数だけに、この人の存在は注目である。演奏もかなりのものだ。例えば「3声のリチェルカーレ」は、アーティキュレーションの面でも行き届きすぎてるぐらい行き届いた、精密でしなやかな演奏で感心させられる。
ところで、以上3人の女性演奏家のCDは、いずれも輸入盤である。日本盤はない(曲が日本人作曲家のものでも!)。ま、現代日本の小説や評論が、日本語では出せないで英語やオランダ語で海外で出版されるようなものである。日本の音楽事情はこれほどに情けないのだ。日本のレコード会社は、これら世界に通用する演奏家たちを日本国内でもガンガン紹介すべきではないか。聞き手の方も、ELTをはじめとする性別役割分担バンド(曲の書ける男と顔のきれいな女!)を聞いてるヒマがあったら、絶対おもしろい曲が入っている上の女性演奏家たちのCDを買って聞いた方が人生のためではないだろうか。



 
↑クラシックでこんな見事なジャケットは他に見たことない

2002/8/23 神戸へ行く


5月に神戸開発教育研究会で発表をした縁で、9月4日に神戸の公立高校で野宿者問題の授業の依頼が入った。大阪以外でやるのは初めて。当然、地元神戸の野宿者の現状について触れるべきだが、ぼくは残念ながら神戸の状況についてほぼ何も知らない。どーしようかなと考えていたが、たまたま野宿問題の関係者のメーリングリスト「寄せ場メール」で「神戸の冬を支える会」から行政への申し入れ文がアップされ、その中で、襲撃問題について教育委員会と交渉をしたという内容があった。「神戸の冬を支える会」の人とは面識はないが、これなら野宿者問題の授業について話がつながるのではないかと思い(野宿者問題に関わる団体間の関係は、時に難しい場合がある)、会へ直接電話を入れ、「神戸の状況について直接教えていただくか、あるいは実際に授業に参加していただけませんか」とお願いした。その後、数回のメールなどでのやりとりの末、授業参加の前向きな返答をいただいたので、今日、直接、三宮駅近くの神戸中央教会に行って打ち合わせをやってきた。
まずはぼく自身が神戸の野宿者の状況についていろいろと伺う。初めて聞く事ばかりだったが、生活保護、一時宿泊施設など、行政関係での神戸の特殊性は、やはり震災に由来するものが多いという。例えば震災の後、生活苦に陥った人を対象に生活保護の適用が大規模になされたため、現在でも、生活に困窮した野宿者に対する生活保護が、他地域に比べて適正に実施されているという(天災と人災とによる区別はないわけだ、当然ながら)。その他、震災による生活苦に対応するため、法的にはグレーゾーンというべき裁量の余地が今も大きく残されていて、それが野宿者には有利に働いているらしい。神戸の場合も、市内で500人近い野宿者の大半は日雇労働者だということだ。ただし、新開地などの寄せ場は、もはや寄せ場として機能はしていないという。「やはり、仕事があるかどうかが問題です。もともと、失業によって野宿に至ったわけですから」と最後に言われていたが、まったく同感である。

2002/8/22 安野モヨコと紡木たくの新作


今日は休み。朝コンビニに行ったら安野モヨコの「ジェリービーンズ」の4、5巻が出ていた。雑誌「CUTIE」に今年の春まで連載されてたのが完結して、単行本になったわけ。3巻までは読んでたので、どう終わるのかと買ってきて興味津々で読んでみる。
遠藤マメ子は高校→東京のアカデミアデザイナー学院→フランス留学と進み、恋愛も遠恋ながらなんとか続き、恋も仕事も順調で「めでたしめでたし」で終わっている。全体として絵もキレイだし話もおもしろいんだけど、「ハッピーマニア」のような過激で体当たり的なリアリティから見れば、絵空事という印象もちらつく。書き手から10以上も年下の女の子を「等身大」に描くことの無理さなのか。
さらに今日発売の別マ増刊「P.マーガレット」に、なんと紡木たくがポスターを書き下ろしている。おそらくは95年の「隆司永遠」以来、7年ぶりの復帰。阿倍野ルシアスのマンガ館で買って見てみる。海浜にルーズソックス(!)の制服の女子高校(中学?)生が横に描かれて、「これからも ずっと あの瞳だけが あたしを傷つけると 思った」というテロップが入る。ある種の児童文学の挿絵のような淡い色調。テロップには「これからも ずっと」「傷」「瞳」と、かつての紡木たくの作品を際だたせたキーワードが並ぶ。「ホットロード」や「瞬きもせず」から15年が経ったことをいろいろな意味で実感させずにはおかない。

2002/8/18 メールから


(このページの7月22日「ホームレス自立支援法」に関する文章に対する感想のメールへの返信)
KR様

「ホームレス自立支援法」の成立が野宿者問題の転機を作ることは確かです。
事実、ぼくが釜ヶ崎に関わり始めた1986年から考えれば、寄せ場と野宿者をめぐる状況は一変しました。
当時の運動は、「最下層の日雇労働者」の場であって、要するに新左翼系の「労働運動」でした。一方、医療、福祉などの問題をキリスト者がやっていました。一般の人は相当の覚悟がなければ入ることさえできないような特殊な空間でした。
そして、90年代の野宿者激増によって、野宿者問題は、「労働運動」からある種の「マイノリティ問題」へと変わっていきました。早い話が、日雇労働者として(当事者として)運動していた活動家も、野宿者問題については「支援者」になりました。むしろ、それまで寄せ場とは全然関係なかった一般社会の人たちの方が「野宿当事者」になるという、なかなか妙なことになってきました。
実際、「ホームレス自立支援法」を見ても、寄せ場の「よ」の字も出てきません。こうした法律が、野宿者問題の変容を決定的なものにすることは確かです。更に、「ホームレス自立支援法」の「健全な社会からこぼれおちたホームレスを社会復帰させる」という基本的な形質が、寄せ場の労働運動が先鋭的に持っていた「社会への闘争」という姿勢と相反することは間違いありません。
とはいえ、従来の新左翼的な「社会への闘争」は、今から見ればどの程度の意義を持っていたのでしょう。今でも活動の中心にいる活動家の人たちは、もともと(今でも?)「革命家」でした。今時、共産主義革命を言ってもみんな「ひく」だけなので、活動家は今では基本的に「社会改良主義」として活動しています。「革命」に代わる変革のビジョンが存在しない以上、それしか仕方ありません。そして、「改良」を目指す場合、「ホームレス自立支援法」はとても素晴らしい法律です。
ある意味では、「ホームレス自立支援法」が成立するような社会は、新たな変革のビジョンの必要を促しているのでしょう。フェミニズムにとってもそうだと思いますが、現実的には「よりマシな男社会」を追求する必要があるのでしょう。しかし、本質的にはそんな「よりマシな社会」は不毛ではないでしょうか。
というわけで、野宿者と社会をめぐる状況の中から、どのように社会そのものの変革をイメージするかを考えたいとぼくは思っています。

生田武志

2002/8/18 この一週間の暑さはすごかった


高校野球で甲子園に来た沖縄の高校生たちは、暑さで夏バテしてしまったという。沖縄の暑さは強烈な日差しながらも結構カラっとしているのに、近畿は気温も湿度も異常に高いので、みんな一気に暑さにやられてしまうらしい。実際、夏に天気予報を見ていても、沖縄よりも九州よりも大阪・京都がたいてい気温が一番高いのはなぜなのだろう。
実際、この一週間の暑さはすごかった。連日最高温度が36度、37度あたり(日陰でだよ)をいっていて、数分外を歩いているだけで頭がくらくらした。といっても特別清掃の仕事はお盆と関係なく毎日あるので、ここんとこ毎日クソ暑い中をゴミを満載したリヤカーをウンウン押していた。
しかし、もっと大変なのが仕事に来る労働者で、みんな55歳以上で、おまけに多くは野宿生活をしていて、ろくに食事もとれてない人がかなりいる。道路清掃の仕事はヒートアイランド状態の街中、直射日光の中をひたすら歩き回るのだから、夏の間、必ず何人かが熱中症や熱射病で倒れてしまう(だから仕事中は必ず、お茶と塩とブドウ糖を持っていく)。動けなくなってしまった人をリヤカーで迎えに行ったり救急車を呼んだり何度したことだろう。今日もムチャクチャ暑くて、午後の暑さのピークには、逆に自分が暑いのか寒いのかよくわからない変な感じになっていた。こういうのが更に進むと倒れるんだろうなあ。
ついでながら、ぼくの住んでるアパートは築50年以上の木造二階で、立地の関係で風通しもほとんどなく、夜明け前の一番気温が下がるときでも33度くらいある。最低気温が25度以上の時を「熱帯夜」というが、それどころじゃない。クーラーがなかったら絶対生活できませんよ。沖縄は「亜熱帯」に分類されてるらしいが、夏の近畿地方はまさしく「熱帯」である。

2002/8/11 野宿者襲撃は絶えることなく続く


読書傾向の小説モードは続いていて、最近はクロード・シモン、アラン・ロブ=グリエ、ペーター・ハントケ、トニ・モリスンなど、現役の作家(といってもシモンなんかはもう89歳)を読んでいた。上のような作家だから当たり前かもしれないが、読んでいると日本の現役作家を読むよりずっとおもしろいなあと思ってしまう。
実際、そのあいまに石原慎太郎の小説を、それも「太陽の季節」を初めて読んだが、そのあまりのくだらなさには驚いてしまう。通俗的な男女関係の中で、主人公たちがわけのわからない感情のかけひきを延々と続けるのだが、これは発表当時何か意味があったのだろうか。作品の中でも読んでて思わず吹き出してしまうような大笑いな場面が幾つもあるが、これは高度なユーモアというより、作者のお坊っちゃまな人間性がそのまんま出ただけのもののように見える。小説の最後に彼女の葬式で大暴れを演じるシーンといい、破天荒かもしれないが、正直なところ「お子さまだなあ」としか思えないのだ。こういう作品が芥川賞をとって大ブーム、しまいには社会現象になったというが、当時の日本はそんなに民度が低かったのか。まあ、今の「慎太郎ブーム」を考えれば、今も昔も世の中は変わってないのかもしれない。ついでに言えば、常に比較される田中康夫(前)知事の第1作「なくとなく、クリスタル」の高度な批評性とは比較のしようがないと思う。
それにしても、シモンをはじめヌーヴォー・ロマンの翻訳はかつて大変な質と量で刊行されたらしいが今やほとんど手に入らないし、ハントケになると多作だというのに翻訳自体が2つくらいしか存在しない。翻訳に頼っていては、ろくなものが読めないというのはやはり事実のようだ。しかしハントケは現代ドイツを代表する作家の一人という定評はあるし、ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」の原作者として日本でも名前は知られているからいろいろ翻訳もされそうなものだが、そうはならないのはなぜなのか。
今日は釜ヶ崎の夏祭りの準備で、三角公園で設営作業に参加して、クソ暑い中をインパクトなんかを打ちまくって、頭がくらくらになった(なぜだか知らないが、夏の間、大阪・京都は日本で一番気温が高いぞ)。夕方になると、かつて釜ヶ崎で「1年間ボランティア」で来ていた東京都立大学の学生、同大学院で社会福祉を専攻中でかつて寄せ場の寿で活動していた人、新宿の野宿者のグループホームの施設長をやってる人(3人はほぽ同世代)と、釜ヶ崎の知り合い3人とで軽く飲み屋でしゃべった。昼間に行ってきたという長居公園での炊き出しの様子などを聞いたりした。

と、日記風に書いているが、今日夕方のテレビのトップニュースは、千葉で野宿者2人が襲撃で殺されたらしいというものだった。
「11日午前7時45分ごろ、千葉市中央区、千葉公園体育館の入り口付近で、男性2人が死亡しているのを、出勤した同公園の男性職員が見つけ、110番通報した。男性のうち1人は顔にけがをしており、千葉中央署では傷害致死事件の疑いもあるとみて捜査を始めた。/死亡したのは、いずれも住所不定で職業不詳、長谷川勝さん(54)と同加賀谷良吉さん(60)。調べによると、2人は段ボールなどの上で、2メートルほど離れてあおむけとうつぶせの状態で倒れていた。長谷川さんは右目の上から出血しているほか、顔に殴られたような跡もあった。加賀谷さんには目立った外傷がなかった。同署は近く司法解剖を行い、死因を特定する。」(読売新聞・オンライン版)
テレビの報道では、近くの公園でも野宿者が襲われ怪我を負い、加害者は自転車、バイクに乗って逃走したとある。例によって、若者による襲撃の可能性が高いのだろう。
野宿者問題に関わる者には、特に夏休みに入ったとたんに各地で凶悪な襲撃が多発することが知られている。去年起こった日本橋での連続放火襲撃も、最初は7月19日(終業式の日)だった。今年も、日本橋では6月あたりから夜回りで花火を打ち込む襲撃が多発しているのが確認されていたので、警戒をしていたところだったのだ。昨夜の夜回りでも大きな襲撃の話は聞かず、やれやれと思っていたら千葉で2人が殺されている。もはや日本全国、どこで何があってもおかしくない。
詳しいことがわからないので何とも言えないところはあるが、今回のニュースでは、あらためて「野宿者は年に数人は若者に殺される」ということを「前提」として考えなければならない、と思った。つまり、若者による野宿者殺しは、突発的に起こる異様な出来事ではなくて、もはや平均的に年に数回は起こる出来事になったのだ。事実、去年も大阪・天王寺区で中学生一人が野宿者を暴行のあげく殺したが、大阪版でさえちっちゃな記事にしかなっていなかった。つまり、こうした殺人はしょっちゅうあるので、トピックになる内容がなければろくに報道もされない。最初にこうした事件が社会問題になった1983年の横浜「浮浪者」(当時はそう呼んでいた。もっとも今では「ホームレス」と言っている)殺人事件以来、事態はひたすら悪くなっている。にもかかわらず、対策は当時も今もほとんど皆無のままである。
現代日本において、一つの階層へ向けた路上での差別・暴力行為として、これほど多発しかつ悪質なものは(女性への性的な襲撃を別にすれば)他にはないだろう。事件の報道を聞いていろいろ考えたが、具体的には今やっている学校などでの「野宿者問題の授業」をもっと展開していくことがやはり第一なのだろうか。襲撃の原因として、個々人の心理的な要因や社会全体の状況についても幾つか考えていることはあるが、新しく言えるような内容は、まだ明確な形になっていない。
それにしても、去年連続放火された2人も、まだ入院中のままだ。より重傷の一人は、体全体がケロイドになり、手の形も変わってしまって、多分ずっと病院か施設で暮らしていくしかないだろう。襲撃にあった野宿者を間近に見ている者として、こうしたニュースはいつもながらに重い。

2002/8/4 開発教育協議会・全国研究集会で「野宿者問題の授業」の発表


5月18日にやった神戸開発教育研究会での「野宿者問題の授業実践」報告のあと、主催者の先生から8月4日の京都・蹴上での開発教育協議会「全国集会」で発表をするよう勧められていた。それで、申し込みをしてYMCAの浜本先生(関西NGO大学の副校長)と一緒に発表をやってきた。
今回は時間が全体で50分と限られていたので、話を切りつめに切りつめて要点だけを伝えるスタイルになった。前半に野宿の現状、襲撃の状況などを話し、後半に授業の様子を話すというプログラム。ぼくがしゃべったのは実質30分強ぐらい。出席した先生たちの反応は、質疑応答の時間も10分と短かったためよくわからないところがあるが、襲撃など深刻な話が多いし、驚きを持って受け取られたようではある。
発表を終えると、参加者の一人がやってきて「ボランティアで出来ることは、やっぱり炊き出しですか」と言ってきた。すぐ次の人の発表が始まるし、急いでしゃべりまくって頭がパンクしていたので「夜回りや、福祉関係の訪問とかいろいろありますよ。…ま、よかったらメールをください」とだけ言っておいた。が、あとで「せっかく言ってきてくれたんだから、もっと丁寧に時間のある限りいろいろ話せばよかった」と思った。連絡してきてくれるかな?

2002/7/30 沖縄・普天間飛行場の移設代替地は名護市辺野古沖に


インターネットのブラウザで起動時に表示されるウェブページを(ぼくの使っているIEの場合)「ホームページ」と呼ぶ。これはユーザーがどのウェブページにも自由に設定できるが、ぼくはこれを「沖縄タイムス」にしている。
1995年の事件以来の沖縄米軍基地をめぐる動きをずっと新聞などで追ってきて、1996年には自分でも初めて沖縄に行って各地を回ってきたが、1996年12月のSACO最終報告で、多くの人がそう感じただろうように、日米の国家間レベルの政治的判断によって大きな区切りがつけられてしまったと感じた。その時、多分これからは沖縄の基地問題の記事はぐっと減ってしまうなと見当を付けて(事実そうなった)、自分の取ってる新聞の沖縄関係の切り抜きを始めたりした。
その切り抜きのスクラップブックはずっと続けていたのだが、しょせん全国紙には沖縄の問題などよほどの事でなければ出はしない。それが、2000年にパソコンを買ってインターネットを導入し、しばらくして「沖縄タイムス」「琉球新報」のページを発見してびっくらこいた。これさえあれば、毎日の現地の情報、さらに「基地と沖縄」みたいな膨大なデータベースがホイホイ簡単に手に入るではないか。関西の知り合いで「琉球新報」を直接購読している人もいるが、ほとんどそれと同等の情報が(しかもタイムラグなしに)入る。それで、それを機会に不効率な切り抜きはやめて、「沖縄タイムス」のページを毎日見るようになった。
沖縄の問題になぜ自分が関心を持つのかよくわからないところがある。中学の同級生が2人那覇にいて、行ったときには泊まらせてもらったりということも関係あるだろうか(そのうちの一人は、村山富市首相が太田昌秀知事を訴えた1996年の代理署名訴訟の知事側弁護団の一人。もう一人は中西圭三とやってたバンドのドラマーで現在は社会保険労務士)。それとも、初めて沖縄に行った時、人の感じが「ちょっと釜ヶ崎に似てるな」と思えたことも関係あるだろうか。事実、寄せ場に関心を持つ人は、沖縄にも関心を持つ場合が多いようだ。ただ、ぼくの場合は、1996年に南部の戦跡や基地を中心に沖縄の各地を回って、強烈に青い空と海ともどもに強いショックを受けたことがきっかけとしては最も大きかった。それから大阪に戻って数ヶ月の間に沖縄関連の本を40冊近く一気読みした。「乾いた砂が水を吸い込むように」という比喩の通りで、あの場所(例えば摩文仁)で何があったのか、どういう経過でそうなったのか、その後の沖縄はどうなったのか、という疑問を埋めようと、ひたすら読み続けていた。そうした関心は今も続いている。「おもいやり予算」訴訟の原告の一人になったのはその思いからだった。また、大阪では大正区を中心にウチナンチュ(沖縄の人)が多く、年1回は盛大なエーサー大会があったりするので、時々行ったりする。


そして、29日の「沖縄タイムス」夕刊に普天間飛行場の名護市辺野古沖への(政府・県・名護市等で構成する代替施設協議会による)移設決定が記事で出たわけである。
普天間飛行場の移転問題のこの決着はどう考えても間違っている、というか、おかしい。もちろん、宜野湾市中央に位置する普天間飛行場の移転は、沖縄の人々の悲願の一つだった。ただそれは、あくまで普天間をはじめとする米軍基地の縮小・撤去のステップの一つとしてであって、沖縄県内での「基地のたらい回し」のためではなかった。
こうした結末をもたらす最大の要因は、もちろんアメリカの世界戦略にある。アメリカは、基本的に「太平洋の要石」としての沖縄基地を手放す気は毛頭ないし、さらには沖縄の「整理・縮小」を求める動きさえ、老朽化した基地の「整理・刷新・強化」へと持ち込む戦略を持っている。そして日本(ヤマト)は、アメリカの世界戦略に従い、しかもそれに伴う「基地の負担」のほとんどを沖縄に押しつけ続けることしか基本的に考えていない。こうしてアメリカー日本の関係の「負」の部分のほとんどが、沖縄に押しつけられている現状がある。
米軍基地に取り囲まれるように存在している沖縄は、「基地はいらない」「仮に日米安保条約が必要だというなら、少なくともそれに伴う基地の負担を日本全国で負担せよ」と主張してきた。しかし、こうした当然の主張に日本=ヤマトは聞く耳を持たず、その力関係の結果として、沖縄では基地を容認する代わりに振興策を取れるだけと取ろうという「現実的」な立場が強まってきた。事実、現名護市長は今回の決定について「やむをえない決断」としながら「県内移設が正解だとは思っていない」と言い、また現沖縄知事も「15年の使用期限問題について「着工までに政府は結論を示せ」と言っている。そもそも岸本名護市長は一坪反戦地主であるし、稲嶺沖縄知事も95年の県民総決起大会で当時の太田知事と同じ壇上に立っていた。こうした首長を「基地たらい回し容認派」にさせてしまうアメリカおよび日本(われわれ)の恥の知らなさをどう言えばいいものか。
こうした状況に対して、桝添要一は「理想だけを言ってもはじまらないので、現実を見据えなければ」などと言い、産経新聞は「犠牲となる一匹へのまなざし」と「国家・国民全体の安全のため沖縄の戦略的=地政学的価値とをてんびんにかけることはできない」と開き直る。しかし、全国の米軍基地(専用施設)の70%近くが沖縄に集中させられている現状は、「本土防衛」のための捨て石となった沖縄戦、戦後米軍の占領・統治、あるいはそれ以前の明治国家による琉球・沖縄政策といった日本(ヤマト)と沖縄との近代以来のいびつな歴史の上にたってあるのではないか。そこまで踏みにじってきた沖縄のことを考えれば、米軍基地はすべて撤去し、日米安保条約も見直す、そして仮に基地が必要な場合は「本土」ですべて引き受けます、というのが(まだしも)まともな考え方ではないか。
95年に沖縄で基地問題が大きく動いていた時、岡山県(ぼくの地元)議会の自民党議員団は、沖縄が長年、米軍基地を抱えていることに対して「感謝決議」を出した。そのココロは、要するに「基地をありがとう。(そして、これからもよろしく)」というわけである。当然、沖縄の人々は「基地の固定化を認めるものだ」として、それを拒否した。すると、岡山県議会・自民党議員団は、「誤解されてはいけない」と言ってこの「感謝決議」を撤回した。「こちらが誠意を持って感謝しているのに、沖縄の方が誤解している」ということだ。「誤解しているのはおまえらだろー」と言いたいが、日本=ヤマトと沖縄の関係は、全体としてこうした傲慢な「誤解」の上に成り立っているのではないか。元岡山県人としては恥ずかしくて死にそうだ。まだ、「基地をありがとう。そして、これからは私たちの県で基地を引き受けます!」ぐらいのことを言ってくれたら、少しは元岡山県人としては誇りが持てたかもしれないが。

(普天間飛行場移設地の問題は、その後も「沖縄タイムス」などで当該の区議会、名護市議会での激しい動きが伝えられているが、本土=ヤマトではほぼまったく報道されていない)。

2002/7/22 「ホームレス自立支援法」が成立する(ようだ)


ここ数日、読書傾向が小説モードに入ってきて、アレナスの「めくるめく世界」、星野智幸の「なぶりあい」、ウエルベックの「素粒子」、セリーヌの「なしくずしの死」、クリストフの「悪童日記」その他を読み続けた。小説を読み出すと、用事があるか頭が痛くなるまでひたすら読み続けて、他のことが何もできなくなるので困ってしまう。おもしろさで圧倒的だったのは「なしくずしの死」で、異常なリアリティとユーモアが鮮烈で、ほとんどページに目が吸い付いて読むのをいつまでもやめられなくなる。小説でかつてこういう思いをしたのは、「感情教育」や「大いなる遺産」、「ユリシーズ」、「イリアス」(これは詩)、「カラマーゾフの兄弟」、「危険な関係」「ドン・キホーテ」などなどだが、「なしくずしの死」のおもしろさはそれらに近い(かもしれない)。一方、くだらないと思ったのは「素粒子」。これが、なんで世界各国で大評判なんだろう(日本でも書評がいろいろ出てたよう)。おもしろいことはおもしろいが、まともにつきあうと下品さとたちの悪さがこちらに移ってしまうような感じの本である。
そんなことより、「ホームレス自立支援法」がついに厚生労働委員会で可決され、翌18日衆議院で可決された。その報道の効果で、その間の1〜2日、野宿者問題の記事が新聞各紙にわっと出た。この法案が参議院で可決され、正式に成立することはほぼ確実視されている。その場合、野宿者を限定的に対象とした法律が近代日本において初めて誕生する。野宿者問題に関して、一つの転換点となることは疑いようのない法律である。
で、それだけにこの法案は野宿者問題にかかわる諸団体、諸個人の間で賛否が激しく分かれていた。新聞でも賛否の両論が紹介されていたが、実際には賛否の論点はきわめて多岐にわたっているし、その議論の経過も1年や2年程度ではない。実際、「野宿者支援法」に関する現在の議論を集めただけで、数冊の本になってしまうだろう。ぼく個人は、この法律についてはどちらかと言えば賛成だが、その理由をこの機会に書いておくことにする。
ただ、そもそも法案の名称からして、「ホームレス自立支援法」の「ホームレス」ってなんなんだ、それって「浮浪者」を言いやすく言い換えただけではないか、とか、「自立支援」の「自立」ってなんなんだ、野宿者の多くは空き缶集めや段ボール集めで必死の思いで「自立」して生活してるではないか、という意見がある。実際、「その通り!」としか言いようがない。要するに、「ホームレス自立支援法」というのは、名前からしてふざけた法律なのだ。とはいえ、(行政から見て)細かいことを言っても仕方がないから、法案賛成派の側も、わかっちゃいるけど「名称を変えろ(例えば「野宿者支援法」へ)」などと突っ込んだりはしない。運動にかかわる者は、法律が完全なものだとかは全然思っていない。しょせんは、ろくにわかっていない国が作るのだ。疑問は、名称から個々の条文にいたるまで、それこそきりがない。特に「自立の意志のあるホームレスに対し」云々というくだりなどは、突っ込むまでもなく「?」マークがいっぱいつくところだろう。問題は、それでもこの法律があった方が野宿者にとってプラスか、それともマイナスかという判断にある。そして、その判断の基準となる大きな論点は、幾つかに絞られる。
第一に、野宿者の多くは何よりも「仕事」を望んでいる。アンケートをとっても、9割以上の人が行政などが「仕事を出す」ことを求めている。したがって、野宿者問題にかかわる幾つかの運動体も、行政を相手に「公的就労」を出させることを最優先の課題として闘争を繰り返し組んできた。そして、実現不可能とも思われたこの「公的就労」は、大阪では最初の1日20人程度から始まって、現在の200人以上の規模にまでようやく拡大してきた。にもかかわらず、これは、大阪市で1万5000人の野宿者が野宿から脱出できる規模にはほど遠い。全国3万人程度の野宿者に対しても同様である。
つまり、公的就労をはじめとする「安定した雇用の場の確保」を全国で劇的に拡大させる必要がある。しかし、行政が大幅に動くためには何らかの法的根拠が必要となる。法案推進派が最も求めているのはこの点で、野宿者の就労を支援することを「行政の責任」と明記する「野宿者支援法」の存在によって、行政が「公的就労」を大幅に出すこと、そして野宿者が一般企業などに就労するための「自立支援センター」のような施設が改善され、まともに機能すること(現在の「自立支援センター」はほとんど機能していない)を期待している。さらに、野宿者の就労機会や住居の確保、生活必需品の支給、人権擁護が行政の「責務」だとされ、それについて「国民の協力」を求めると明記されれば、対行政闘争、交渉は現在よりも野宿者側、運動側に格段に有利になるだろう。法案に賛成する理由は、こうした実利的な問題が大きい。
一方、懸念される問題の一つは、つねに言われることだが、野宿者の存在によって公園などの「適正な利用が妨げられている」時は「管理者が必要な措置をとる」と規定している点である。これが、公園などからの野宿者の強制排除を正当化するものになる危険があるからだ。
しかし、公園などからの強制排除は、野宿者が存在する限り常に行われてきた。先月もやられているし、今月も、来月もやられているだろう。つまり、現在でも行政が「合法的」とする強制排除は日常的に行われているわけで、「ホームレス自立支援法」のこの条項によって強制排除がはじめて正当化されるわけではない。むしろ、「ホームレス自立支援法」のこの条項には「ホームレスの自立の支援等に関する施策との連携を図りつつ」という文言がある。それを楯にとって、「対策なき単なる追い出しはあってはならない」と運動側が追求する方法も可能となるかもしれない。
もちろん、行政が「ホームレス自立支援法」をどう使うかはまた別の問題として残る。特に、大阪市が公有施設からの野宿者排除を正当化する文章を法案の中に盛り込むよう働きかけていたことは、よく知られている。行政の方針として、ものすごくいい加減な「自立支援の施策」を用意して、それを根拠に「必要な措置をとる」つまり強烈な強制排除に乗り出すことは十分予想されることである。実際、ぼく個人は、行政のそうした形の野宿者排除に対して、「ホームレス自立支援法」の中では対抗策が作り出せないのではないかという懸念を持っている。ただそれは、法案の中身の問題と言うより、今もそうであるように行政と運動との力関係の問題になるのかもしれない。
さらに法案のはらむ問題は、生活保護法との関係である。生活保護法の理念から言えば、仕事がなくなったために困窮し、住居すら失った野宿者に対しては、それこそ真っ先に国家による生活保護が適用されるのが当然の話だ。しかし、過去も現在も、ほとんどすべての野宿者は、「固定した住居がない」という理由(!)で生活保護の受給を行政から拒否されてきた。どう考えたっておかしいのだが、国および地方自治体には、野宿者一般の生活を生活保護法で保証しようという考えは今も昔も毛頭ない。それに対して、野宿者と幾つかの運動体は、野宿者に対しても憲法で言う「健康で文化的な最低限度の生活」を保証せよという闘いを続けてきた。そこにきて、この「ホームレス自立支援法」がどのような関係を持つのかという事が問題である。つまり、生活保護法をはじめとする幾つかの現行法を理念通りに行使すれば、野宿者を狙い打ちにした法律など作らずとも野宿者問題は充分に解決できるできるはずだ、ということである。さらに言えば、(野宿者に限定した)「第2生活保護法」とも言われる「ホームレス自立支援法」の存在によって、生活保護を野宿者に適用するという闘いが押しとどめられる危険が懸念される。要するに、「ホームレスには生活保護法ではなく自立支援法を」という使い分けがなされ、野宿者に対する生活保護法の理念と実効力が骨抜きにされるのではないか、ということである。
この懸念は当然のものである。現実の野宿者の状況からも、そして憲法をはじめとする法の理念から言っても、生活保護等の社会保障制度によって野宿者の生活を保証することが必要であることは疑いようがない。生活保護法との関係で問題になるのは、「ホームレス自立支援法」が野宿者の生活保護を求める闘いにとってマイナスになるかという点に尽きるだろう。もちろん、そんなことになってはならないのだ。野宿者問題に関わる者の共通認識は、野宿者の生活保証のためには生活保護制度と雇用・就労対策の両方が必要だ、というものではないだろうか? 生活保護だけでいい、と言う人はまずいない。現実に、野宿者層は「仕事」に行った収入によって衣・食・住を自分でまかなうことを何よりも求めているからだ。そうした希望に沿っていくこと、「仕事を出せ」という闘争のための法的根拠としては、生活保護法ではなく「ホームレス自立支援法」が有効となる。そして、就労対策だけでいい、という人もまずいない。行政と資本の状況から言って、すべての野宿者が生活を成り立たせ得るだけの「仕事」を実現させることはきわめて難しいし、さらには健康上の理由などで労働困難な野宿者は数多いからだ。
しかし、現実的には、行政は「生活保護」も「就労対策」も、どちらも「中途半端」にしか取り組まないのではないかという懸念が強いのである。行政は、生活保護基準に満たない収入のすべての野宿者に対して、生活保護を支給するだろうか?(65歳以上の野宿者で、アパートなどを確保できた人に対しては、今でもほとんど無条件に生活保護が決定されているが)。仕事を望むすべての野宿者に対して、生活を成り立たせ得るだけの就労対策を実現するだろうか? 生活保護にしても、就労対策にしても、全国3万の野宿者をカバーするだけの財源が国にあることは確かだが、行政が野宿者のためにそれだけの財源を投入する気があるかどうか疑問なのである。
となると、運動側の戦略としては、「就労対策」を「自立支援法」を根拠に行政に迫り、にもかかわらず野宿者の収入が12万円程度に満たない場合は「生活保護法」を根拠に行政に生活保障させる、あるいは「ただちに」生活保護を実施させ、その上で「就労対策」を迫る、ということになるだろう。この「生活保護」と「就労対策」の両面作戦は必須である。そしてそれは、「自立支援法」の成立によって必ずしも不可能になるとは思わない。「ホームレス自立支援法」には「ホームレスに関する問題の解決を図る」ために、「就業の機会の確保」「宿泊場所の一時的な提供」「国民への啓発活動等によるホームレスの人権の擁護」などと並んで「生活保護法による保護の実施」が明記されているからだ。そしてそれと同時に、憲法および生活保護法が変更されない限り、「健康で文化的な最低限度の生活」を保証せよ、という主張は当然に成立し続けるはずである。
ただし、実際には「ホームレス自立支援法」の成立によって、行政側は野宿者対策の法的根拠の重点を「生活保護法」から「自立支援法」にシフトさせる可能性は確かに高いかもしれない。それによって、この両面作戦の様相が相当に現状から変化する可能性はありえる。それは、より正確に言えば、「居宅保護」=アパートなどでの生活保護から、「自立支援の施策」である施設=「シェルター」等への収容へと対策の方向をシフトする可能性である。先に言ったように、行政の方針として、いい加減な「自立支援の施策」を用意して、それを根拠に野宿者の強制排除に乗り出すことは十分予想されることである。いい加減な「自立支援の施策」と言えば、現在あるような貧弱きわまりない「シェルター」、あるいはほとんど機能していない「自立支援センター」みたいなものだ。ここからは個人的な予想だが、行政の取る方向は、「よりマシ」な「シェルター」類(「自立支援の施策」!)を各地に量産して、それを根拠に野宿者の大半を眼に見える場所から「排除」し「収容」するというものではないだろうか? そこから大規模な職業訓練や就労支援でも始まればまだいいが、中途半端な「雇用支援」でお茶を濁し、野宿者の空き缶集めや段ボール集めを続けさせた上で一食分かそこらの「お弁当」をシェルターで配るみたいな程度のことで済ませてしまう(これは西成公園シェルターの現状だが)のではないだろうか? 数年来、野宿者の多い公園にシェルター建設を図り、野宿者に入所をあの手この手で説得する(「説得排除」)というのが全国的な動きとなっていた。「ホームレス自立支援法」がその動きに連動するだろう事はすぐに予想されることである。その場合、強制排除への行政にとっての足かせであるはずの「ホームレスの自立の支援等に関する施策との連携を図りつつ」という文言が、「排除と収容」のための最大の法的根拠と化す危険があるのである。
もちろん、現状のシェルターも自立支援センターも、「収容」と「支援」の両面を持っている。現在のそれら施設があらゆる側面で改善され、なおかつ「入るのも入らないのも、出るのも出ないのも自由です」ということになれば、それは「支援」の一環である。大した改善もされないまま、強制排除の受け皿として機能するなら、単なる「収容施設」であり保安処分の一環である。「自立支援法」も、その問題は「支援」と「収容」の両側面を持ちえるという点にある。つまり、それは両刃の剣なのだ。にもかかわらずこの「ホームレス自立支援法」制定に賛成するとすれば、それは、たとえ「両刃の剣」だとしても今は「剣」が必要だ、という判断にたってのものだろう。ぼく自身は、そういう判断である。とはいえ、以上に言ったような理由から、なかなか明快な「賛成」にはなりにくい。
この「ホームレス自立支援法」について別の視点でもう一つ思うのは、基本的にこの法案が「自立支援」あるいは「社会復帰」という姿勢、つまり「健全な一般社会からこぼれおちたホームレスを自立させ、社会復帰させる」という発想で一貫している点である。議会与党が作る法案だから当たり前のことだが、ここでは社会そのものへの批判も、野宿者を生み出し続けるシステムへの批判も皆無だ。寄せ場・野宿者の運動は、日雇労働者、野宿者に対する社会の不当な差別と闘い、さらには寄せ場という「日本の縮図」から日本社会そのものの構造を撃つというもののはずだった。もちろん、現実の野宿者、日雇労働者のプラスになることは何であっても利用すべきだが、その一方で「社会への闘争」という原則を手放すことはできない。その意味でも、「ホームレス自立支援法」の持つ意味には二面性がある。「ホームレス自立支援法」は、増加しつづける野宿者問題の存在を国家がついに認めざるをえなくなったという点で、歴史的な意味を持っている。しかし、国家を初めとする行政は、やや悲観的に言えば、その社会構造の破綻と変容から生まれる「野宿者問題」を、生活保護法に基づく「行政による生活保証」ではなく、破綻しつつある社会・経済システムへと野宿者をお手軽な形で再び押し込め「復帰」させるという形で対処しようとしているのかもしれない。本当に「復帰」できれば個々の野宿者にとってはまだマシかもしれないが、それが大量の「ケタ落ち収容施設」を生むことになれば最悪である。ここでも、最大のポイントはこの法律が野宿者にどれだけの「仕事」をもたらすことができるか、という点に尽きることになる。野宿問題が基本的に失業問題であることからすれば当たり前の話である。
ただし、憲法第9条や生活保護法がそうであるように、法律内容そのものと実際の運用とはまったく別の次元の問題ではある。現実面では、行政と運動体との力関係がものを言うだろう。法案についていろいろあった意見の中で、「これを機会に日本全体で野宿者問題についての議論が行われ、理解が深まることを期待したい」と言う人がいたが、力関係の問題からも、野宿者問題の理解が市民全体に深まることは絶対に必要なのだ。行政が野宿者排除をする場合の最大の論拠の一つは、常に「地域住民の要望」なのだから。
繰り返すが、「ホームレス自立支援法」の成立は、国家をはじめとする行政が、野宿者問題へ何らかの対処を正式にせざるを得なくなったことを認めたという歴史的な意義を持つ。そして同時に、国家が(少なくともたてまえとしては保証していた)貧困者に対する「行政による生活保証」=「生活保護」から、「行政による就労保証」=「公的就労」か、あるいは野宿者を生み出し続ける経済システムへの野宿者の「復帰」策へと、国家がその福祉政策の思想の重点を移動させることを意味している(もっとも、野宿者に対する生活保護を一貫して行政が拒絶していたことを考えれば、「福祉政策の移動」とさえも言えない)。こうした意義を併せ持つ「ホームレス自立支援法」の成立は、われわれにどのような結果をもたらすだろうか? それは、野宿者に「安定した雇用の場の確保」をもたらし、野宿者問題を自然に解消していくのだろうか、あるいは野宿問題を解決できないまま、劣悪な「収容施設」だけを増やしていくのか? その答えは当然ながら、一つには、全国の各地で、そして様々な立場で闘うわれわれ自身の思想と闘争とにかかっている。
(7月31日、この法案は参議院で可決し、正式に成立した)。

2002/7/10 YMCA学院高校(通信制)で野宿者問題の授業


まる一ヶ月更新しなかった。もちろん何もなかったわけではないが、書かないのはこのページ冒頭で触れた理由による。
今日は、ぼく個人への依頼という形で、4月に開校したばかりの通信制高校での授業があった。授業のあとで先生から聞いたところ、生徒には不登校、退学経験者がかなりいるという。週3回スクーリングがあって、今日もその一つ。
ところで、今日は台風だった。あらかじめ、朝10時の時点で大阪、兵庫のいずれかで警報(大雨、強風)が出ていた場合には休校になると聞いていたので、どうなることかと10時にテレビをじっと見ていたが、京都、奈良、和歌山などでは警報が幾つも出ていたのに、大阪と兵庫は何も出なかった。実際、午後にちょっと雨が降って風が吹いたくらいで、台風は北へ行ってしまった。
授業の事前に配った「ひとこと」がこれ。
「1988年から釜ヶ崎で日雇労働者として働き、日雇労働運動や野宿者のための福祉活動などをおこなってきました。
みなさんもご存じのように、特にここ数年、野宿している人を見かけることが多くなってきました。なぜ野宿者、いわゆるホームレスは増えているのでしょうか。そして、この人たちはどうやって生活しているのでしょうか。真冬にも毛布もなしに寝ている人がいますが、放って置いていいのでしょうか。
毎週やっている夜回りの経験から野宿者の現状について触れ、その背景について説明し、社会のどのような仕組みから最近野宿者が増えてきたか、そしてどうすればいいのか、ということなんかを説明しようと思っています。」
今回の出席者は、生徒35人ぐらいに、教職員の希望者が5〜6人くらい。夜回りのビデオを見て、夜回りで出会う野宿者の現状、寄せ場と野宿の関係、野宿者激増の原因、最後に「いすとりゲームとカフカの階段」の比喩という内容。
生徒の反応は、授業の間はどーもよくわからなかった。質問もないし、「夜回りとかボランティアに参加したい人はあとで言ってください」という誘いにも乗ってこない。とはいえ、先生によると「普段の授業よりはずっと真剣だった」そうだが? ただ、授業終了後には、一人の生徒が「衣類を送りたいけどどうしたらいいでしょう」と言ってきたので、連絡先を教えておいた。さらに、早々と何人かが授業の感想を書いてきたのをもらった。次に、そのうちの一部を引用しておく。
「今まで、野宿者をどこか差別しているところがありました。「気持ち悪い」とか「汚い」とかと思ってました。でも野宿者の人たちは生きていくために私達よりずっと努力し、つらい思いをしているんだと思いました。講義を聴くまで、「あの人たちはなまけている」と思ってたけど、なまけてないんだということがわかりました。一日中ずっとダンボールや空き缶をあつめ、一生懸命あつめてもそんなお金にならない。私はそういう事を今まで知らずに勝手なへんけんで、その人たちの事をきめつけていたんだと反省しました。」
「今日の話をきいて私はすごい衝撃を受けた。(…)今まで私は野宿者のことを寝てばかりですごいだらしのない汚い生活をしていると思っていた。でも実際は努力しても給料は安いし差別を受け、家にも帰れず生活保護もなく、これから考えていかなくてはいけないことがたくさんあると思った。」
他の生徒たちは、どんな感想を出してくるだろうか?

2002/6/13 「世界の村の100人」に日本の野宿者は存在するか?


「世界がもし100人の村だったら」のパート2が出た。(マガジンハウス社、税込み1200円、6月13日発行)。パート1の「世界がもし100人の村だったら」は12月11日に出たが、それ自体インターネット上で流されているEメールをもとにした本だった。現在の世界の状況を100人の村に縮め、世界の構成、不公正についてわかりやすく示したもの。「100人のうち/52人が女性です/48人が男性です」ではじまる記述は、非常に明確にかつ簡潔に現在の世界のプロポーションを描いていた。あまりにも有名だし、事実この本はミリオンセラーになったので説明は不用だろう。ぼくも、たまたまこのメールを受け取って、一読してそのインパクトに感心し、一部を修正、削除した上で野宿者問題の授業(11/13)で使ったりした。
 今回出た「世界がもし100人の村だったら」パート2は、■「100人の村」の話の元の話、ドネラ・メドウズの「1000人の村」、■「100人の村」の数字(「20人は栄養が充分ではなく、1人は死にそうです」など)を現実世界の統計から17項目にわたって検証した「白書」、■国境なき医師団のメンバー、政治学者らによるエッセーといった内容。全体として、「100人の村」の話では不十分なところをかなり深く掘り下げたもので、「こういう本が欲しかった」というべきものになっている。例えば世界の人口問題については、その解決の鍵は、女性に対する初等・中等教育の普及にある、という指摘があったりして、「なるほど」と思わせられた。
 「100人の村」にしても「1000人の村」にしても、その中心問題は、世界的な富の不公平としての「南北問題」と、それにからむ「環境問題」だったが、最後の何人かによるエッセーは、それらの問題に対して「北側」にある我々に何が出来るか、という問いに対する幾つかのヒントを提供するものになっている。これだけの内容で1200円だから、充分に推薦に値する本である。
 それにしても、これだけいろいろな示唆に富む内容の本であり、また日本語で出版され、日本人がエッセーを寄せているにもかかわらず、その中で日本国内における「南北問題」(と言えば真っ先に「野宿者問題」となるだろうが)については全く一言もなかった。これはどういうことなのだろう。例えば、「世界の村の100人」パート1には、ただちに便乗本「日本村100人の仲間たち」(日本文芸社)が出たが、その中にはこんな箇所があった。゛今、一番増えている「職業」は、「ホームレス」です。仕事は、「なんにもしない」こと。家のローンも払わなくていいし、税金もかかりません゛。この「日本村100人の仲間たち」は、全体として復古的な説教に満ちた、まことにしょーもないものだったが、それにしてもひどすぎた。ただちに野宿者問題の関係者が出版社に抗議して、この箇所は変更になったはずである(どう変更されたかは未確認)。
 そういえば、村上龍の「あの金で何が出来たか」という本があった。銀行などに投入された公的資金の額を挙げて、それだけの金があったら世界中のどんな問題にどれだけのことができたかということを一つ一つ検証していった絵本。これもインパクトのある本だったが、あれだけ世界中の様々な問題を挙げながら、ここでも日本の野宿者問題についてはついに何も触れていなかった。こうなるとぼくなどは、この人たちは日本で野宿者を見かけたことないのかなー、とつい考えてしまうことになる。
 もちろん、「触れていないからダメだ」などということはない。だが、こう繰り返し無視されていると、ここには何か理由があるのではないか、という気もしてくる。「遠くで苦しんでいる人には同情するが、間近で苦しんでいる人は軽蔑する」というあのパターンがここでは繰り返されているのではないか、と。
 「世界がもし100人の村だったら」は、問題は幾つかありながらも(特にメール版は問題が多かった)全体としてインパクトのある内容になっていたのは、世界的な南北問題と環境問題の「勝者」の立場に立つ日本人でいる限り、見えないままでいることの多い現実を「100人の村」という形で「眼に見えるように」したからだった。「6%の人間が59%の富を支配している村」や「15%の人間が肥満で20%の人間が栄養不足だという村」とは驚くべき不公正なものではないだろうか。しかし、世界はまさにそのようにあるという「事実」が読者をあらためて驚かせたのだ。ぼくが野宿者問題の授業の最後で、直接は野宿者問題とはかかわらないこの「世界の村の100人」を取り上げたのは、大阪で生徒たちが身近に見ることの多い野宿者の問題を、グローバルな「南北問題」の視点から見直す必要があるだろう、と思ったからだった。実際、この対比は生徒たちには印象的だったらしい。
 だが、それを逆にして言えば、主にアメリカで流通した「世界の村の100人」を日本で読む場合、それを日本国内の「南北問題」、現状では特に野宿者問題との対比から読むことが必要なのである。なぜなら、その対比をもって「世界の村の100人」を読む場合、そこて描かれた問題は「人ごと」ではなくなるからだ。「海外の話」として読むなら、具体的には「募金」をするとか「電気はこまめに切る」「これからはニュースに注意を払う」とかいう話(もちろん、それはそれでいいことだ)で終わってしまうかもしれない。しかし、たとえば自分の家の真ん前で野宿している人がいるとすれば、具体的にどう考え、そしてどうすればいいのだろうか。
パート2でダグラス・ラミスはこう言っている。
「貧困は再編され、合理化され、体系的に利益を引き出すものにつくり変えられてきた。これは『貧困の近代化』と呼ばれている/これを視覚化するために、貧乏国の典型的な都市の建築を考えるといい。中心部にはガラスと鋼鉄でできた高層ビルがあり、その郊外にはハンドメイドのスラム街があるだろう。私たちは前者を『発展している』また『近代的』、後者を『発展が遅れている』と考えがちだ。しかし、それは間違っている。両者とも等しく新しく、開発のプロセスの産物なのだ。スラムの住民はグローバル経済にいろんな形で結びつけられている」。
だが、これはむしろ、現在の日本の姿そのものではないか。物と人があふれる繁華街には、真冬にも毛布一枚の野宿者が多く存在している。そして「両者とも等しく新しく、開発のプロセスの産物」、つまり構造的に作り出される「不平等」なのだ。
 われわれは「世界の村の100人」を読んで、世界的な南北問題と環境問題の「勝者」のいる者として、自分に何ができるかと自問するだろう。しかし、それは本当に「自分の問題として」問われているのか。むしろ、それは「間近で苦しんでいる人への軽蔑」と表裏一体である「遠くで苦しむ人への同情」なのではないか。
 事実、「もし世界が100人の村だったら」の編者に送られてきた膨大な数の感想の中で最も多かったのは「(これを読んで、自分の悩みなど世界の中のいろんな問題な比べたら小さなものだとわかって)癒された」というものだったという。世界各地での「苦しみ」を「自分の癒し」にしてしまうのである。こういう人たちは、自分の家の近所で野宿者が病気や飢えに苦しむのを見ても「癒される」のだろうか。そもそも、先進国に生きるわれわれが抱える様々な問題は、貧困に苦しむ地域の抱える問題と比べて「小さい」からどう「大きい」からどうというものではない。それぞれに、解決を求めて努力しなければならないという点では(様々な差異と関連はありつつも)完全に同等である。実際には、「もし世界が100人の村だったら」を読んで「癒された」と言う人は、「世界の深刻な問題にこうして深く同情できる自分」に感動しているだけなのだろう。その意味で、「同情」はエゴイスティックであり、問題の消去である。
 おそらく、世界の村の100人の「食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐところがない25人」や「栄養が充分でない20人」は、われわれの「同情」も「癒し」も拒否するだろう。むしろ、我々が自分の立つ立場そのものを問い、そこから何らかの行動を起こすことを期待するだろう。われわれは、自分の身近な(例えば)野宿者問題だけに閉じこもって世界的な視野を失うことはできない。また、世界的な南北問題・環境問題だけを考えて、日本国内の「南北問題」を忘れることも出来ない。両方の視点が常に必要なのである。しかし、そのバランスと現実性は現在著しく失われている。今回出た「世界がもし100人の村だったら」パート2について惜しまれ、また懸念されるのは、まさにその点である。

2002/6/10 大阪府庁前で野営闘争の始まり


もはや年中行事と化しつつあるが、今年も釜ヶ崎・反失業連絡会による大阪府庁前、大阪城公園での野営「6月闘争」が始まった。
▼日雇労働者を対象とした特別就労制度の拡大。▼生活保障つきの職業訓練制度を作り、受け入れ窓口をあいりん職安に設置。▼野宿労働者のための就労・生活支援センターを開設。▼国への、失業、野宿対策に特化した助成金制度の要望。
などが要求項目である。300人以上の野宿労働者がブルーシートや木枠で野営の拠点を作り、2〜3週間の間、大阪府、市への行政交渉、街頭での宣伝、カンパ活動、野営拠点での学習会、映画会、炊き出しなどを行う。ぼく個人は一応、反失業連絡会のメンバーなので、適時出かけて闘争に参加することになる。きのう、きょうは拠点作りのための資材運びや設営作業をやってきた。
この野営闘争については、反失業連絡会のホームページを見ていただきたい。

2002/6/7 「『清貧』の時代から『ホームレス』の時代へ」の初稿

「群像」6月号に載った上のタイトルのエッセーの元の形、2月18日付の文章を以下に復元。

2002/2/18■ 「ホームレス本」の謎


 最近、稲葉振一郎のホームページを見ていたら、風樹茂「ホームレス入門」(2001)について「これはおもしろい」と一言書いてあった。稲葉振一郎と言えば、この人が「SIGHT」冬号で2001年の推薦本として挙げていた「階層化社会と日本の教育危機」「サイバー経済学」「競争社会をこえて」「社会変動の中の福祉国家」などは全部アタリだった。それで、それは読まねばと思って早速買って読んでみた。
 さて、結論を言えば、これはどーでもいい本である。上野の森で出会った野宿者を時々訪ねて歩いた訪問記と、「争議団」と行政との交渉の立ち見、さらに行政担当者に電話して聞いた情報などを書いたという内容で、要するに上っ面だけのルポルタージュだ。現場にいる人間にとって役にたつものは特にないし、また一般の人への「入門」として成立しているかどうかも疑問(例えば沖縄に何ヶ月か行った人が、体験記を書いて「沖縄入門」と題するようなものか)。この著者はODA援助、NGOプロジェクトにかかわり30カ国へ行ったとあるから、そういう視点で何か勉強になるかなと思ったが、その点も期待を大きく下回った。ただ、この著者の野宿者への視点は大変まっとうで、「ホームレスは経済難民」という見方も鋭いと思うし、巻末の「提言」も海外経験が活かされている。とはいえ、全体としてはやはりたいしたことない(そもそも、なんでこれ「山と渓谷社」から出てるんだ? 「アウトドアライフ」ってことか)。
 稲葉振一郎はこの本の何を「おもしろい」と思ったのか、結局よくわからない。しかし、更にわからないのは、この数年目につくこの手の「ホームレス本」の多さと、その評価の高さである。具体的には、講談社ノンフィクション賞をとった「段ボールハウスで見る夢」(1998)(改題して「路上の夢」として2002年に文庫化)、新潮新人文学賞作者の「段ボールハウスガール」(1999)(加筆、訂正、改題して「ダンボールハウスガール」として2001年に文庫化)、開高健賞をとった、「いずれはホームレスになる他ないだろう」という山谷労働者の手記「山谷崖っぷち日記」(2000)などがある。他にも「ホームレス本」はいろいろあるが(「ホームレス作家」とか)、もう面倒なのでぼくはめったに読まない。また、本に限らず、黒柳徹子は「ホームレス」になって舞台をやるし、米倉涼子は上の「ダンボールハウスガール」をやって映画に出るし、さらには若者のここ数年の流行を扱った本のタイトルが「マイホームレス・チャイルド」(2001)だったりと、どうかすると「今、時代はホームレス」とかいうような感じである(テレビドラマでも「ホームレスもの」があるみたい…)。
 この現象は、もちろんバブル崩壊後の90年代以降の景気低迷とそれに伴う野宿者激増と関連している。景気の後退によって、消費を満喫しても生活は維持可能だという幻想は消滅してしまった(「清貧の思想」!)。むしろ、給料は上がらず、リストラによる解雇者は激増し、その結果、地方都市にまで野宿者があふれ出す有様になった。「一つ間違えば」ホームレス、ということが冗談ではなくなったのである。
 とはいえ、今のところ多くの人は、自分が本当に野宿に至るかもなんてあまり真剣には考えていない。その意味で、「ホームレス」問題はしょせん人ごとなのだ。そうした状況で「ホームレス本」が果たす役割は、「これにくらべりゃ、今の自分の生活はずっとマシだ」という、ストレスのとりあえずの解消である。そして、もしこの「ホームレス」生活が本当に悲惨で、なおかつ行政や資本、さらに一般市民の差別・偏見と深く関係しているとすれば、読者は人ごとではなく、自分の立場を問うことにもならざるをえない。しかし、そのホームレスの生活がそうギリギリではなくて、苦しいなりにも「自由」で「個性的」で、時には「おいしい」ものであったりすれば、「なんとかなるもんなんだ」「それに、こういう生活を楽しむ人もいるんだ」あるいは「特殊な人の生き方なんだ」という具合に、結果としてほどよい刺激で(自分の生活を問うことなしに)「感動」したり、振り返って自分の生活について「考えたり」することが出来る。つまり、これはほどよい「落としどころ」となっているわけである。そして、上に挙げた本の読者による受容は、おおざっぱに言えばそういうもののように見える。実際、上に挙げた本そのものよりも、それについての「選評」や「解説」の方がぼくには本当のところずっと興味深かったものだ。
 例えば、ルポである「路上の夢」の場合にしても、そこで描かれる野宿者像は平均的なものから大きくはずれている場合が多いのはなぜなのか。例えばこの中の登場人物の一人は、家があるのに1年の期限付きでホームレス生活を「体験」している。収入は、ゴミから物品を集める「拾い出し」。これを質屋に持っていったりフリーマーケットに出したりして現金収入を得ている。なにしろ、家があるので、質屋に持っていってもちゃんと住所と電話番号が書ける。そのため、「拾い出し」にはライパルが存在せず、一人天下なのだという。
 「ダンボールハウスガール」の場合はフィクションだけあってもっと徹底している。主人公は、ダンボールハウスに住みながら、衣類はちゃんと保存しておいて、ときにそれを着てホテルのパーティ類に勝手に出席して料理を食ってきたり、さらにはダンボールハウスから家庭教師に通って収入を得たりしている。この小説は、普通の人間生活の「前提」を取り払い、その視点からあらためて普通の生活とのズレやブレを提示しようという一種の思考実験であって、全体に小説としての感覚は悪くない。それは、「路上の夢」がノンフィクションとして悪くはないのと同様である。
 とはいえ、こういった生活スタイルは、現実の野宿生活の全体の中ではほとんど無視していいような統計的な「はずれ値」に近いのだ。例えば、「拾い出し」の仕事にしても、その時は独占だとしても、やがて誰かが参入してくれば収入は半分になる。10人参入すれば10分の1になり、100人なら100分の1になり、そうなるともう、まる一日かけて1000円以下というダンボール集めや空きカン集めと変わらない程度になってしまう。「ダンボールハウスガール」の場合は、女性野宿者の増加と共に、同じ手は使えなくなる(例えばアメリカでこんな手が使えるかどうか)。あとは、家庭教師ができるような個人の才覚と年齢の問題である。要するに、こうした生活スタイルは、新産業で創業者が利益を独占謳歌している状態を描いているようなものだ。それは大変例外的な状態なので、みんながみんなそうなると考えると、えらいことになる。それに大体、ほとんどの野宿者はこんな「いい」生活はしていない。その点は、80年代半ばから16年間、野宿者問題にかかわってきた者としてはっきり言っておこう。
 もちろん、ノンフィクションとして悪くなく、小説として悪くないこうした本が書かれ、読まれること自体は別にいいのだ。しかし、野宿者問題に触れた本の中で、賞を取って高く評価され、したがって広く一般に読まれるのがこうしたものばかりとすると、話はちがってくる(事実、野宿者問題についてのまともな本は、一般に賞もとらないし売れもしない)。一つには、事実の全体像ではなく、無視していいような例外的な状態が「ホームレス」生活として広く知られるということである。これは、「野宿者は気楽でいい生活を好きでしている」というデマが一般に浸透し、その誤解の上で凶悪な野宿者襲撃や野宿者排除が頻発している現状ではそれだけで大問題である(青島前都知事は、新宿駅の野宿者強制排除の際、「ホームレスは独特の人生観の持ち主」と言ったものだ)。そして、もう一つは、こうした例外的な「はずれ値」を評価する文学的状態が、同時に野宿者問題に対する思考の消去となっていることである。
 例えば、「路上の夢」文庫版(2002)の解説で、詩人の清水哲はこう言っている。
「(野宿者の)ケンさんはこんなふうに言う。『働いている人や家庭を持っている人は、十あっても十出さないですよね。でもホームレスは何もないから、隠しようがない。一あったら全部出してしまう。そっからつながりたいって思いが、あると思うんです。裸の王様ですよ。この地下道を通る一般の人たちは鎧を着た王様です』。(…)私なりの結論を述べておけば、私を含めた一般の人たちには、『十』にせよ『一』にせよ、それを全部出して人とつながる以前に、まずはさらし出すべき『自分』がわからないのである。あるいは『自分』がないのだ。(…)/この本を読んで分かることの一つは、ホームレスの人たちは、その『自分』を『まともな社会』で否応なく炙り出されてしまったということだろう。ああ、オレの『自分』とはこんな存在だったのか。と、ホームレスになってはじめて裸になったのではなく、程度の差や例外はあるにしても、多くの人は、なる前に裸の『自分』を見せられてしまったのである。そういうことではあるまいか。/読み終えた読者にはおわかりのように、本書は『自分とは何か』を考えるヒントに充ちている。それは、他ならぬ著者の中村智志氏自身が、その問いを絶えず『自分』に向けつつ書いているからである。」
 この「ケンさん」の言葉を、野宿当事者自身によるものという理由で鵜呑みにはできない。なぜなら、これは「釜ヶ崎の人は人間が裸だ」「一般世界にはない素朴さを持っている」といった、外部の見学者や知識人、アーティスト、それに一部の活動家による「釜ヶ崎賛美」とほぼ同型であるからだ。これが、サイードがヨーロッパ知識人のアラブ世界への視点について明確にした「オリエンタリズム」の野宿者版であることは疑いない。一般の人が大人であり衣装をまとっているのに対し、野宿者は「裸」で「素朴(子ども?)」であるので、その点をこそ評価し学ぶべきだ、と(一般の人が)考えるのである。要するに、野宿者差別の単なる裏返しである。それを、大学を出て、かつて勤め人生活を経験した野宿当事者が語っても全然おかしくない。
 サイードの批判が未だに有効であるのは、こうして新たな社会階層が発生するたび、同じ事態が繰り返されることでも明らかと言える。こうした一般世界と野宿者との関係づけは、社会的問題と社会的関係の本質的消去である。そして残るのは「自分とは何だろう」という抽象的問題であり、一般世界からは「裸」すぎる野宿者という「文学的」理解である。しかし、本当はここでは文学的思考も社会的思考も消えてしまっている。現実には、野宿者は別に「裸」でも「素朴」でもない。例えばアメリカ、フランスなどでは数十万単位の野宿者がいるが、その多くは失業に結果するものであって、この人たちが特に「裸」だったり「素朴」だったりするわけもない。それは、現在の日本における3万人の野宿者についても全く同様である。こうした思考の消去は、清水哲が言うように、著者と読者が共同して作り出すものである。しかもそれは「賞」という形で、広く社会的に肯定され伝播されている。
 賞の配分が野宿者問題を扱ったものの中でこうした作品に集中し、かつそれを評価する基準が文学の消去、社会の消去でしかないことは、文学の状況が、「野宿者」という日本における新しい事態との遭遇によって、その思考の不在を露呈していることを示している。それは、「山谷崖っぷち日記」での選考委員の大絶賛からも見ることができそうだ。山谷の日雇労働者による日々の生活をつづったこの作品は、ドヤ(簡易宿泊所)での暮らしぶり、野宿に至った知り合いの話、仕事仲間たち、労働争議の光景などを冷めた感情で描いて、「世捨て人」「現代の方丈記」といったノリで絶賛されたが、その質のよさは疑えないとしても、ぼくにはこれがやはりわからなかった。ここに描かれている寄せ場の有様は、山谷と釜ヶ崎というちがいはあれ、ぼくにとっては完全に日常の風景である。読みながら考えたが、もしこれが日雇労働ではなくて一般のサラリーマンの生活として描かれていたらどうだったのだろう。つまり、同じタッチで、仕事仲間の気になる癖や、会社の建物のありさま、労働組合の争議の(立ち見した)様子が一般の会社などで描かれた作品だったとしたらどうだったのか。多分、それほど評価されなかったような気がする。著者は、人間関係から意図的に自己を切り離した上で周囲の世界を淡々と描いていくのだが、それは自己と社会の関係の過激な変容や絶対的な断層には決してたどり着かない。その意味で、これは普通の「随筆」なのだ。香山リカは、これを読んでベケットを思い出した(!)と言っているが、何でそうなるのかさっぱりわからない。むしろ、著者の寄せ場労働者やキリスト者などに対する最終的な意見はあまりに通俗的かつ表面的なもので、ほぽ同様の経験を共有するぼくは悲しくなるだけである。著者は最後に「山谷住人の陋劣さのレベルに見合った、同レベルの高潔さも山谷のどこかに存在しているはずなのだが、行動力と性格の力を持たぬ私には、それが見いだせなかったということなのだろう」と言うのだが、実際「その通り」ということではないか。
 選考委員は、この作品への受賞を決めてから、そのことが著者へ与える事態を「真剣に」「全員で心配した」と言う。ぼくは最初てっきり、選考委員は寄せ場を無法地帯かなんかと考えていて、賞金を強奪されるのを心配しているのかと思った。しかし、これはどうも、「世捨て人」に名誉や賞金が与えられることの影響を心配しているようなのだ。自主応募した著者にそんな心配をするのも変な話だが、結局、選考委員たちはこの作品および著者を、一般世界にはない「異文化価値」を持つものとして評価していることがわかる。「珍味」に賞金を与えて損なってはいけない! それは、「異文化」は大事に隔離して保存し、なおかつ「消費」しようという姿勢である。結局、寄せ場労働者の作品は、「希少価値」として評価され消費される。作者が日雇労働者ではなくサラリーマンだったら、誰もこんなよけいな心配はしなかっただろう。
 かつて「清貧の思想」かベストセラーになったとき、それこそ「貧」の極みで路上死していく野宿者問題にかかわるものとして強い違和感を感じたが、この数年の「ホームレス本」の乱発は、「清貧の思想」現象のさらなる延長なのである。しかし、いずれ日本は、欧米並みの数十万単位の野宿者問題をかかえるようになっていくだろう。それにつれて、現在の「ホームレス本」の多くは、「清貧の思想」現象がそうだったように、その意義を完全に失っていくだろう。そのとき、われわれは現在の「ホームレス本」の隆盛を振り返って、どう思うだろうか。おそらく、古き良き時代の社会と文学とが作り出した錯誤の一つとしてこれを回顧することになるだろう。
(2002/2/18〜21)

2002/6/3■ 日本文学と私 


この間、「必読書150」(柄谷行人、浅田彰、岡崎乾二郎、奥泉光、島田雅彦、糸圭秀実、渡部直己)というブックガイドを買った。人文科学、海外・日本文学(詩・評論、小説)150冊の紹介。
リストを見ると、高校の「文学史」や「倫理」の副読本で名前の挙がるようなスタンダードものばかりなのがおかしい。リストの大体は読んでたが、いろいろあるジャンルの中で、ぼくが最も読んでないのが実は(過去の)「日本の小説」だということに気がついた。
実際、深沢七郎も、内田百けん(漢字が出ないな)も、徳田秋声も、横光利一も、田山花袋も、島崎藤村もまったく読んだことないではないか! それも、「新潮文庫」とかに入ってて簡単に手に入る本ばかり。「いつでも読める」と思って、読んでなかったわけだ。
その一方、「聖書」とか以外では世界最大のベストセラー、公開中の映画「ロード・オブ・リング」の原作「指輪物語」(文庫で全9巻。端緒編「ホビットの冒険」を入れて更に2巻)を最近一気読みした。世界を破局から救うために己を捨ててひたすら闘う人物たちの群像であり、20世紀に突然現れた「イリアス」+「オデュッセイア」型の大叙事文学。前置きを始め、風景描写や人物描写がメチャクチャ冗長だが、それを別とすれば大変おもしろかったし、読んで損はなかった。だが、これを読む時間があったら上に挙げた日本の作家の代表作は充分読めたなあ。これを機会に、心を入れ替えて物故者による「日本の小説」をもっと読んだ方がいいだろうか。
きのうは矢作俊彦の「あ・じゃ・ぱん」を読み終えた。「大戦後日本が東西に分裂したという仮定のもとで、中曽根康弘、田中角栄、三島由紀夫などがまったく別の状況で、仮想の歴史を生きる。その偽の日本から、戦後日本が相対化されて問い直される。大仕掛けであると同時に、きわめて小説的に見事な文明批評である」(福田和也)。事実、数え切れないような仕掛けやパロディを織り込んだ上で、非常に知的で雄大な構想を作り上げていくという点で、これはほとんど圧倒的な小説だった。これほど頭のいい「切れる」作家はそうはいないだろう。にもかかわらず、その小説の問題意識の核心が、ある世代(全共闘世代)が持つことになった刻印から終始離れることがないのも確かである。その意味で、これはおそらく、良くも悪くも「全共闘世代による小説の最高の達成」というべきものだろう。ここでは、日本という国家への異常なこだわりが巨大な小説世界を作り上げているが、例えばぼくはそういうこだわりには無縁である。
ぼくは、今は「国家・資本・家族の変容」の結果としての野宿者問題やフリーター問題ばかりを考えていることもあるのか、大抵の小説は同時代的にリアルなものとは見えなくなってきた。いわば、「前世紀の小説」という感覚だ(書かれているのが現在であっても)。「あ・じゃ・ぱん」についてもそういう感じで、福田和也はこれは「現代日本を代表する小説である」と言うが、その「現代」とは20世紀のことではないかと思う。では、21世紀における現在進行形の作家は誰なのか。何人かの名前は浮かぶが、この間「早稲田文学」で大西巨人のホームページで連載中の「深淵」冒頭を読んで、あまりにおもしろいので驚いた。作者の年齢や小説の設定時期にかかわらず、すっと引き込まれてしまう。7月にはずっと本が出ていなかった代表作「神聖喜劇」が復刊されるので、しばらくは大西巨人にはまるのかもしれない。

2002/6/1■ クープランの「クラヴサン曲集」とJ・S・バッハの「フランス組曲」


相変わらずチェンバロを習っているが、今クープランのクラヴサン曲集とバッハの「フランス組曲」を弾いている。クープランは、最近、第8オルドル(組曲)に入り、弾き始めた「フランス組曲」は「第6」組曲からやっている。
チェンバリストがどう弾いているか知ってる方が当然いいので、CDも買ってきた。とはいえ、クープランのクラヴサン曲集は実は膨大なもので、評価の高いクリストフ・ルセの全集はCDなんと12枚組だ。しかし、この全集が最近になって1枚当たり700円ぐらいのスーパーバーゲン価格で登場した(輸入盤)。「ぼくのために出してくれてありがとう!」というような絶妙のタイミングなので、喜んで買ってきた。「フランス組曲」は、(ピアノではグールドとかで聞いているが)曽根麻矢子の2枚組CDを買った。
クープランのクラヴサン曲集は、フランス古典音楽(=フランス・バロック)の一つの精華として有名だが、クラシック音楽に相当詳しい人でも、これを全部聞いたなんて人はほとんどいないだろう。そこら辺が、例えばベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集とかとちがうところで、実際、退屈な曲も多いし、大体こんだけ膨大な割には内容は単調だったりする。弾いていても、練習曲をやっているような気分に陥ることがよくある。それでいて、ややこしい装飾音やリズムの交錯でいっぱいなのだ。ぼくのようなチェンバロの素人さんには、それはそれで勉強にはなるが。
けれども、今やっている第8オルドルは別だった。第1曲の「ラファエロ」を弾きはじめて、ただちに他の曲とは格が違うことを実感した。そしてクリストフ・ルセの演奏でこの「第8オルドル」を聞き通したが、あらためてその内容の素晴らしさには圧倒される。優雅で悲劇的な進行の中で、きらめくようなパッセージや突然の休止が絶妙のタイミングで現れ交替していく。「組曲」形式として、アルマンド、クーラント、サラバンド、ガヴォット、ロンド、ジーグなどから成るのだが、それら小曲が組合わさって完全な完成された美学的世界を作り上げていく。特に、主に分厚い和音から成る最後のパッサカリアは圧倒的。それは、あくまで優雅と高貴さを失わないアンチ・センチメンタルな王宮の音楽であって、17世紀のフランス文学と「同じ空気」を呼吸していると思わせる性質のものになっている。
クリストフ・ルセのチェンバロは、フランス・クラヴサン音楽というにはやや剛直で、アーティキュレーションの上でもテンポ的にも一本調子ではないかという疑問を実は持っているが、この第8オルドルではさすがに冴えていた。特に、短いパッセージでの絶妙の間の取り方やリズムの変化は鮮やかだった。曲がいいので、「のって」るのかもしれない。
ついでながら、これらの曲は、ピアノで弾いても絶対にサマにならない。ちょうど弦楽四重奏をピアノで弾くようなものだ。クープランの音楽はチェンバロの特性にあまりにうまく適合しすぎている。チェンバロを説明するのに、面倒なので「ピアノの前身」と言ったりするが、実際には完全に別の次元で完成された楽器である。

2002/5/28■ 久々の野宿者問題の授業


大阪YMCA国際専門学校国際高等課程(HIS)で久々の授業。6月1日に三角公園の炊き出しに参加するので、その事前の学習。大半の生徒は以前の授業をとっていたが、はじめての人もいるので、野宿者問題の基礎の復習もやる。
前半は、炊き出しをやっている「勝ち取る会」創設者の中尾春男さん(ふだん「春さん」としか呼ばないが)と、同じく勝ち取る会所属の小林さんから、炊き出しを始めた経緯や、具体的にどんな感じでやっているかの話を聞く。後半に、僕が担当して野宿者問題の基礎の復習。

後半の方の内容は、
■ビデオ(「こどもの里」の夜回り) 
■野宿の現状→初めての人から質問。答えは前に授業を聞いた人から 
■これから行く釜ヶ崎の話、日雇労働の話(安全弁・不安定就労。90年代以降の切り捨て) 
■野宿者がよく言われるセリフ(あなたはどう考える?)(書き込んでもらう)▼努力が足りなかったのではないか。がんばって仕事して貯金していればこんなことにはならなかったのではないか。▼仕事をしようともしない。働けばよい。▼福祉とか、困った人が行くとこがあるのではないか。▼家に帰ればいいんじゃないか。

しかし、時間が足りなくなって、■野宿者がよく言われるセリフ(あなたはどう考える?)を書き込んでもらったところで終わってしまった。
予定では、それからみんなが書いた内容を読み合わせて、どう思うかをディスカッション。そして最後に、これらのセリフが従来の「行政、経済、家族」の前提に立っているが、今それらが変容してきて野宿者激増の原因になっている、というあたりに話を進めるつもりだった。が、それには20分は足りなかったか? もともとこの「復習」の方が授業の前半だったのが、春さんたちの都合で逆にしたので、諸般の事情で時間がたりなくなってしまった。
それにしても、ぼくの真ん前にいた女の子たちは、授業の間、堂々と化粧をしていた。その割には、「わたしの親戚で野宿を好きでやっている人がいるんですけど(…)」など、はきはき質問はしてくるし、なんだか訳が分からない。ま、聞いてるような顔して聞いてない生徒よりは、はるかに「いいヤツ」ではあるな。

2002/5/26■ 紡木たくファンの掲示板に書き込み


26日、前からよく見ていた紡木たくファンの掲示板に、書き込みをした。
「ホットロード」連載中からの読者で、前からよく見てます、この間、「ホットロード」の舞台を歩いてきました(詳しい内容も含む)という前置きをして、
「それにしても、紡木たくさんの作品、特に「ホットロード」についての思いは言葉で言い尽くせません。ただ、ずっと「ホットロード」についてはなんとか言葉にしようと、苦心惨憺して文章を作ってきて、やっと完成させて自分のホームページにアップしました。拙(つたな)いものですが、紡木たくファン、「ホットロード」の読者の人たちに見てもらいたいな、という気持ちもあります。それで、ここでリンクを張っておきます。よろしかったら見てみてください」と書いておいた。
紡木たくに手紙を送ったときもそうだったが、「ものすごく」緊張した。しかし、「ホットロード」の不特定多数の読者に向けてあの文章を見せることは、ぼくとっては必要なことだった(掲示板、そしてインターネットのありがたさ)。とはいえ、少数しかアクセスしていないし、実際にどれだけ読まれるかもわからない。けれども、紡木たくに手紙を送ったときと同様、そのとき自分という存在がこの世界に「じかに対面」している、ということを痛いように感じた。そんな感覚は、「ホットロード」がらみ以外ではどこにもありえなかった。ともあれ、このことで、ぼくが「ホットロード」に関してやるべきことはほぼ終了したと思う。
では、今ぼくが生きているうちにやることとしては、何があるのだろう。一つは、釜ヶ崎、野宿者問題について、「野宿者ネットワーク」と「野宿者問題の授業」がある。これについては、どれだけエネルギーを費やしてもいいだけの意味はあると思う(他の所属運動体については、それほどの関心はない)。
そしてもう一つは、「ホットロード」の「補角的世界」を目指した「c.s.l.g」の流れの文章がある。「c.s.l.g」を社会的問題に適用した「シモーヌ・ヴェイユのために」の終結部で、「資本はその(景気の安全弁としての)軸足を日雇労働者からフリーターに移しつつある」ということに気づいて以来、この問題を追いかけ続けてきた。それは「文書」で提出した「暴動」での少年たちの登場の意味と、「反差別共同闘争」の問題と重なって、完成(多分)目前の「フリーターに未来はない?」と作成中の「再び野宿者襲撃について」にまとまりつつある。そして、このテーマ系については、他の全てを放棄してでもこれだけに専念したい、という気持ちもある。
以上の二つは、いろんな意味で両立困難なものかもしれない。けれども、それをなんとかやっていくことになるだろう。


2002/5/22■ 放火襲撃されたKさんに会う


去年の7月29日に放火襲撃され、瀕死の重傷を負ったSさんについてはお見舞いを続けているが、その10日前の19日に日本橋で放火され、全身の10%に及ぶ火傷を負ったKさんに久々に会った。
Kさんのところには、事件の直後に何度かお見舞いに行ったが、病院を退院してからは行方が分からなくなってしまっていた(病院に問い合わせても、プライバシーの問題とかで転院先を教えてくれなかったりする)。そこで、NPO釜ヶ崎の福祉部門専従に頼んで浪速区役所の福祉事務所に問い合わせてもらったところ、西成区内の病院に入院していることがわかった。それで、今日お見舞いに行ってきた。
事件の概要を「現代」に書いた記事から引用。

7月19日(学校の終業式の日)の早朝、日本橋で寝ていた野宿者がアルコール類で衣服に火を放たれ、下半身大やけどの状態で救急車で運ばれていったというのだ。救急車やパトカーが何台もきてかなり大騒ぎだったという。その情報は、近くで見ていた複数の顔なじみの野宿者から聞いたのだが、みんなは「なんであんなことをするんだ」「自分もいつやられるかわからん」と口々に言っていた。驚いたぼくたちは、救急搬送などの記録などを問いあわせて、運ばれた病院を突き止め、火を放たれた野宿者に会うことができた。
 23日に野宿者ネットワークのメンバーが面会に行ってきた。
「Kさんの話。アルミ缶を集めて生計を立てている。いつも(事件の)現場に寝るわけではないが、その日は疲れて、ダンボールを敷いて寝た。午前3時ぐらいまで寝付かれなかった。仰向けに寝ていて、気づいたら股が火に包まれて燃えていた。(事件の発生は、おそらく4時ごろ)。慌てて消そうとしたので他のことはわからない(なぜ燃え上がったのかわからない)。が、「ヒャハハハ」という高い笑い声が聞こえた。とにかく燃えているズボンとパンツを脱ぎ捨てた。(状況を聞く限り、このとっさの行為が上半身への引火を防いだと思われる)。現場でも、警察と話をしたように思うが、よく覚えていない。その後病院には警察は来ていない。」。
 担当医師によると(Kさんの同意を得て病状照会)、陰部、両下肢の火傷、全身の10%。大体2度の火傷だが、10%のうち2%(手のひら2枚分ほどの範囲)は3度、つまり重傷。部分的には、やけどが深いところがあるので、手術することになるだろう。現時点では2ヶ月ぐらいの入院か。Kさんは思ったよりも元気そうだった」。
 ぼくも、何日かあとにカンパのお金などを持ってKさんのお見舞いに行った。「寝ているところを墨汁をかけられたりはあるけど、火をつけられるとはねー」とおだやかな顔で話してくれた。まだまったくベッドから動けない状態なので、痛々しかった。


病室に行くと、Kさんは寝っ転がってテレビを見ていた。「お久しぶりです」とあいさつして話したが、相変わらず愛想のいいおだやかな人という感じだ。
自分が事件にあった日のことはしっかり憶えていて、「去年の7月19日に入院したからもう10ヶ月だね」と言っていた。ともかく、火傷の後遺症で下半身がつっぱって、歩くのは歩けるけど細かいことは難しいという。皮膚の移植手術を重ねたが、今はそこがかゆくてたまらなくて、それが一番嫌だと言っていた。もう、手術などの治療の必要はないらしい。とはいえ、見せてもらった火傷の痕は大変痛々しい。
「自転車預かってますけど、どうします?」と聞くと、「退院したら又空き缶集めしないといけないから、要るなー」と言う。「いや、でもその状態だったら野宿は無理なんじゃないですか?」とこちらが言うと、「うーん。もう、青カン(野宿)は怖いよ。何されるかわからない」と言う。「そりゃーそうですよね」と言う他はない。
そこで、「アパート借りて生活保護」という話をふってみる。「しかし、わし65になってないから無理じゃないか」「いや、そんな大変な怪我をしてるんだから、いけますよ」「それならそっちの方がいいけど」という具合。この件は、NPO釜ヶ崎の福祉部門と相談して、何とかなるだろう。
最近の夜回りでわかった、7月19日あたりにもう一件、放火襲撃があったという情報を話した。「だから、結局3人が火をつけられたことになるんです。その人は、気がついたら下半身が燃えてて、でも手で払ったら消えたんですって。それで、逃げていく中学生ぐらいの若い奴2人を見たって言ってました」「そうか、わしは笑い声は聞いたんだけど」。
病院については、いくつか転々と移ったそうだ。今は西成にある病院に来て、ほっとしているらしい。「西成が好きだからね」と言っていた。その他の病院では、周りの入院患者には見舞いが来るのにこちらは全然来ないので、それもきつかったとか。
そんな話をして、「また来ます」と言って引き上げだが、帰りのエレベーターを待ってると、この「近況」の2001年12月23日のところで触れた、24ぐらい年上の活動家と結婚した、今は看護師をしている女性と出くわした。この病院で働いていて、なんとこの階で仕事しているんだそうだ。Kさんとのいきさつを話して、「何かあったら連絡お願いします」と言っておいた。Sさんのいる病院には、野宿者ネットワークで夜回りをしていた女性が看護師をやっているし、なんだか妙にうまく人脈が働いている。


2002/5/18■ 神戸開発教育研究会で「野宿者問題の授業実践」報告


学校の先生たちが作る研究会「神戸開発教育研究会」で、大阪YMCA国際専門学校・国際高等課程(IHS)での一連の授業についての報告を、IHSの大見先生、大場先生と一緒にやってきた(神戸YMCAにて)。
こういう問題に関心のある現場の先生の反応はためになります。
ところでIHSの先生たちの話で初めて知ったのだが、あの授業に出ていた生徒たちのうち1年生の2人は、特に釜ヶ崎に行ってショックを受けた(日本にこんなところがあるなんて信じられない!)ことをきっかけに人となりが変わって、それまであまりやってなかった勉強なんかもなぜか関心を持ってやりはじめたという。これは、野宿者問題を学校でやると特に進学校では「勉強の邪魔」という声が保護者からありえる、という話題の関連で出た。
ぼくも「へーっ」と思ってうれしかったが、もちろん「野宿者問題は勉強のためにもなる」からではない。この授業が、思いがけない形で生徒たちの生活に変化を与えうる、ということをあらためて確認したからだ。
ま、視野が広がれば誰でも「何かしようかな」という気にもなります。その点、進学校にいると極端に狭い世界しか見えないし、何事にせよ「やる気」も起きないだろうな。

2002/5/16■ 金井愛明さんと並んで晩ご飯


晩ご飯を四角公園のそばの定食屋で食べてたら、のっそりおやじが入ってきた。よく見ると、金井愛明さんだった。近頃はスクーターみたいなのに乗って移動する姿しか見てなかったので、元気に歩いて店に入ってきたのにはびっくりした。
金井愛明さん(1931年生まれ)については、2001年11月26日号の「AERA」から記事を引用。

 「ここが釜ヶ崎か。とても人の住むところじゃないな」。粗末な掘っ建て小屋が並ぶ中、ぬかるみのような道を踏みしめていく。初めて訪れた(1967年)釜ヶ崎は、想像以上の惨状だった。しかし、今日からここで生きていくという決意は揺るがない。時に金井さんは36歳、まさに「生涯の場所」との出会いであった。
 学生時代(同志社大学神学部)の金井さんは、信仰と学生運動の双方をラディカルに追求。大学院を終えると、関西労働者伝道委員会の専任者として、大阪府堺市のコンビナートの労働現場に身を投じ、労働問題と深く関わっていった。そんなある日、造船所での労災事故をきっかけに、金井さんは日雇労働者の存在を認識し、大きな衝撃を受ける。作業着から区別され、危険な作業を担わされる彼らは、使い捨ての労働力でしかない。労働組合や組織をいかに強化しても、その埒外にいる彼らは救えない。ならば、自ら彼らの懐へ飛び込んで、可能な限り力を尽くしてみたい。そのような思いが募って、釜ヶ崎への移住に踏み切ったのである。爾来34年、金井さんはこの地に根を下ろし、一貫して日雇労働者の問題に取り組んできた。
 釜ヶ崎での第一歩として、金井さんが選んだのは、自ら日雇労働者として働くことだった。それはこれまでの自分をいったんご破算にして、ひたすら釜ヶ崎での現実を吸収しようという狙いからである。そのため、本を読むことも一切禁じて、一年の間、慣れない肉体労働で体をいじめ抜いた。
 その後、「いこいの家」という拠点を得て、金井さんは本格的な活動を開始する。夜間診療所の開設、子供会の活動などである。また、キリスト教団体が集まって「釜ヶ崎キリスト教協友会」を結成、教派を越えて奉仕活動に取り組んだ。(以下略)


ぼくが初めて釜ヶ崎に来た1986年には金井さんは55歳だったわけだ。それからぼくも、金井さんみたいに日雇労働しながら釜ヶ崎でいろんな活動をやってきたわけだが、活動の拠点が違っていたので、金井さんとはそんなに話はしていない。用事がてら車で一緒に奈良のお寺を見てきたり、金井さんの拠点の「いこい食堂」でご飯を食べてちょっと話したり、というぐらい。その後、金井さんは脳内出血に遭い、健康状態がよくなかった。それで、最近はたまに道で会って「こんにちは」を言うぐらいだった。
 それが、今日は隣り合わせに座って一緒にご飯を食べることになった。共通の知り合いの話、特別清掃に来る労働者の話、地方都市での野宿者の話など。金井さんが、突然「ピアノは弾いてるの?」と聞いてくる。完全に忘れてたが、前に金井さんのいる西成教会のピアノはどんなもんかと試しに弾かせてもらったことがあった。西成教会では、そのピアノを使って、教会の信者の人がピアノ教室をやっているという。その教室の本体が日本橋にあって、それからぼくはその教室のピアノを練習に使わせてもらった時期があった。そして、そこで教えている先生に「チェンバロを教えてくれる人っていませんかねえ」と相談したら、その教室の卒業生が大学でチェンバロをやっていて、その先生であるチェンパリストが今度一般の人にチェンバロを教えることになったんですよ、と言われた。そこで、ぼくは今も行っている河野まり子先生のところに初めて行ったわけだ。こうして考えると、金井さんには変なところでお世話になってるね。
 先に食べ終わったので失礼したが、ビッグな先輩と久しぶりに隣り合わせになって緊張したぜ。



■「近況」(2001年11月13日〜2002年5月11日)

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