DAYS                                      
          めったに更新しない(だろう)近況


今頃言うのもなんだけど、ここでは、釜ヶ崎での活動のハードな面については触れません。また、僕が今主軸にしている野宿者ネットワークの諸活動についても、書ける事は全部ネットワークのページに書き込んでいるので、ここでは書きません。となると、書ける事ってかなり限られるけど、まあ公開の「近況」ってそんなもんでしょう。(2001/12/11より)


2002/5/10■ 手紙


今日、紡木たくへの手紙を「別マ」編集部宛てで投函した(「『ホットロード』のための4章」も同封)。最初に「ホットロード」を読んだ1986年冬からの、この15年間のなんという長さ。


2002/5/3■ 「清貧」の時代から「ホームレス」の時代へ・のお知らせ



2002/2/18■ 「ホームレス本」の謎
 
最近、稲葉振一郎のホームページを見ていたら、風樹茂「ホームレス入門」(2001)について「これはおもしろい」と一言書いてあった。稲葉振一郎と言えば、この人が「SIGHT」冬号で2001年の推薦本として挙げていた「階層化社会と日本の教育危機」「サイバー経済学」「競争社会をこえて」「社会変動の中の福祉国家」などは全部アタリだった。それで、それは読まねばと思って早速買って読んでみた。
 さて、結論を言えば、これはどーでもいい本である(…)。

という感じで2月にこの「近況」に書き始めた文章があった。ここで挙げた「ホームレス入門」をはじめ、「ダンボールハウスガール」「ダンボールハウスで見る夢」といった「ホームレス本」についての感想だ。だが、書き始めてから、「これは文芸誌で使えるのではないか」と気がついた。それで、この「近況」から別にして書き終え、「群像」編集部に送ってみた。それは400字×16枚のボリュームだったのだが、編集者とのやりとりの結果、もっと深めてみるか、それとも6枚のエッセーにしてはどうかという話になり、結局6枚の形で掲載されることになった。そのタイトルは上の通り。
載るのは5月7日発売の「群像」6月号(新人賞発表号)。今日、ぼくのところにも速達で届いた。新人賞が4人出たこともあって、すごく分厚い本ですわ。ぼくのは、2ページ分で388ページにあります。よかったら、買ってみるか、それとも立ち読みしてみてください。
上の2月18日付け「『ホームレス本』の謎」は、時期を見てこの「近況」にアップするつもりです。

2002/4/30■ ピエール・ブーレーズの「遺産」


ブーレーズの「プリ・スロン・プリ」の、クリスティーネ・シェーファーとアンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏、ブーレーズ自身の指揮による新レコーディングを聞く。すでに1960年代始めに原型が作られ、その後に繰り返し改訂されてきたこの曲は、今回のレコーディングに用いられた版をもって完成されたという。事実、ブーレーズの77才という年齢を考えれば、これ以上の修正は多分ありえないだろう。これによって、作曲者が30代で着手し原型を作り上げた曲が、完成した形でついに我々一般の聞き手に届けられたことになる。
一聴してまず気づくのは、演奏能力と録音技術の格段の進歩だ。歴史の経過、さらに過去のレコーディングを参考にできるという利点を差し引いても、アンサンブル・アンテルコンタンポランの今回の演奏の卓抜さはほとんど異常なほどに見事だ。それに伴う録音のすばらしさによって、この曲のほとんどありとあらゆる細部がクリアに目の前で展開されるような思いをすることになる。クリスティーネ・シェーファーについては、しばらく前のドビュッシーをメインにするフランス歌曲集で、他の歌い手たちと比べてのケタ違いに精密な歌唱力に驚嘆したが、ここでもその印象は変わらない。こうして、全体として、余裕を持って磨き上げられた精密きわまる演奏が全曲を通して展開されることになる。
ブーレーズの指揮についてはあまり言うことはない。指揮者としてのブーレーズについては、「春の祭典」以来のドイツ・グラモフォンでのレコーディングには半分以上は失望してきたが(特に1963年のレコーディングと比べればあまりに平板なあの1991年の「春の祭典」!)、この「プリ・スロン・プリ」については、特に不満はない。むしろ、曲と演奏に対するあるパースペクティブの広さと密度の高さとがここでは印象的だ。それによって、この69分に及ぶ長大な曲を聞き手に一気に聴かせてしまうのだ。
こうして作曲家=指揮者、歌手、楽器演奏者の三者によって作り上げられた決定版「プリ・スロン・プリ」そのものについては、何というべきなのか。「主なき槌」「構造第2巻」といった音楽史上(一時期のシェーンベルクだけを例外として)前代未聞の激しい表現力を生み出してきたブーレーズの頂点がここにある、というべきか。その極端なハイテンションが1時間以上にわたってほとんど弛緩なく持続し更新されるこの曲が、ほとんどの聞き手の受容力に手に余ることを非難すべきだろうか。ここには、「即興」とは言いながら、ユーモアもなければ遊びもなく、弛緩もなければ空白もない。ただ、一時期のブーレーズだけが実現できた独自のイディオムによる高密度な世界が展開されるだけである。それをその世界の狭さと息苦しさのゆえに非難することはできるろうか。
それでも、このレコーディングには、ブーレーズという音楽家の頂点が記録されていることは疑えない。「ワーク・イン・プログレス」という(ジョイスにちなむ)言い方でほとんど生涯にわたって修正され続けてきたこの代表作は、どれほど狭い聞き手にしか受け入れられないとしても、20世紀後半を代表する作曲家の一人の生涯の頂点としての意味を持っている。その意味でおそらくわれわれは、21世紀はじめ(2001年1〜2月)に行われたこのレコーディングを、ブーレーズの「遺産」としてこれから繰り返し参照していくことになるにちがいない。

2002/4/29■ 「ホットロード」の舞台現場を歩く


日曜の夜は「大泉学園」駅近くの友だちの家に泊まらせてもらい、朝出て鎌倉の「片瀬江ノ島」駅に行く。
大阪大学の院の「臨床哲学」にいて、釜ヶ崎にも来てた知り合いがここの人で、今地元に返っているので、「ホットロード」の舞台になったこの近辺をガイドしてもらった。
彼女の家は、和希たちが暴走族「ナイツ」でかっ飛ばしていた道路から10bという位置で、しかも彼女自身が和希とほぼ同世代なので、マンガに出てるどの建物がどこにあるかなんか、手に取るように分かっている。「第1巻にたまり場になってるローソンが出てくるでしょう。あれは、何年か前につぶれちゃったのね。それが今いるこの場所。で、前のページで和希が見ている建物が、実はあの食堂。で、画面のこの木があの木」という感じ。あと、和希と絵里が話をする「堤防とテトラポット」の場所に実際に行って波の音を聞き、和希と春山が別れ話をした駅に入る地下道をくぐり抜ける。
ちょっとおもしろいが、現実にはあるのに描かれないものがあった。例えば「族」の集会場でもある「片瀬江ノ島」駅は、見てみると「竜宮城」をイメージしたという原色系のとんでもない作りだった。20年も前からこの通りらしいが、「ホットロード」にはこんなものは全く出てこない。「たとえ何があろうと、こんなものは書けない!」という作者の思いが無言に伝わる建物である。あと、江ノ島周辺の海岸はサーファーとヨットでいっぱいだったが、それも「ホットロード」には皆無だ。世界観には合わなかったのか。
しかし、場所を判断するのに最も役に立つのは、江ノ島だということがよくわかった。「ホットロード」には繰り返し江ノ島が描かれるが、それが道路に対して右にあるか左にあるか、そしてどの程度の遠景かで、その場所がほぼ特定できるのだ。実際に和希たちがかっ飛ばした道路は一本道で、彼ら彼女らは基本的に一本の道路を行ったり来たりしていたということで、それで大体の場所の見当がつく。
しかし、年月を隔てて変わった光景は多かった。ここら辺は観光地ということで、道路沿いの店はどんどん変わっていくらしいが、道路もあちこち工事が施されているし、そもそも「ホットロード」に繰り返し描かれる道路の照明ライトも、あの「楕円」のものから「角形」のものにすべて変わっている。
ガイドしてくれた彼女の話でさらに納得したのだが、和希をはじめとする登場人物たちは、その住所で家庭の階層が大体特定できるという。例えば和希の家は、場所からハイソサエティであることは一目瞭然らしい。それが場所がうつると、環境が変わっていく。「横浜の港のそばのでかい団地」に住んでいる小百合さんなんか代表的だ。小百合さんの家に和希がころがりこんだとき、そこの母ちゃんが茶を飲んで「ふー」とため息しながら「立派な家があんのになんでだろねぇー」と言い、和希がなんともいえない顔をするところも、そこから考えればすごくよくわかる。春山も(親の離婚、再婚の話は別として)「横浜のあたりの山の上」で、ここは「いいとこ」らしい。「いいとこ」の家の子がぐれているわけで、そこら辺は、例えば「小百合さん」の「もっかい中3」やるような地に足の着いた(?)過激なぐれ方とは微妙にちがうわけだ。こういう知識があると、今一度和希たちがなんか身近に感じられる。
最後に江ノ島に行って中を歩き回る。江ノ島は京都のような観光地で、おまけに人口と同じくらいの猫がいる「猫の島」だった。島の上から見る海はとても美しい。「ホットロード」の実際の現場を見るという10年来の期待がかなって、気分はなんだか一段落である。

2002/4/28■ 新宿中央公園の炊き出し、夜回りに行く


大阪のYMCAの高校でやっていた「野宿者問題の授業」に参加してくれていた生徒の一人が、家族の引っ越しと大学への進学のため、東京都内に引っ越した。高校の時からバングラデシュとのフェアトレードにかかわっていたり、女性のパート労働の問題や戦争責任問題についての講演などにも行っていたという生徒。「野宿者問題の授業」は、本当は主に1年2年が対象だったんだけど、3年の彼女は自分から関心を持って授業に参加してくれて、その後は野宿者ネットワークの夜回りや、西成公園の交流会、放火襲撃されたSさんにお見舞いなどにも熱心に通ってくれた。
彼女に北村年子の「大阪道頓堀川『ホームレス』襲撃事件」を貸したら、すぐに読んで「号泣しました」と言っていた。それで、「この人、知り合いだから、なんだったら東京で紹介するよ」と言ったら、「お願いします!」と言っていた。今後、東京で大学生活を送るにあたって、やりたいことのヒントなんかをもらえたらいいなと思って、北村さんと連絡をとって、この日の3時、新宿の喫茶店でその彼女、北村さん、ぼく、そして新宿連絡会の関係者2人と落ち合った。
顔を合わすと、彼女がまず北村さんに「襲撃事件」の感想を一生懸命言い始める。自分は野宿している人たちのことも、襲撃する若者たちのこともほとんど知らなかったが、夜回りなどをして、野宿している人たちとは話をできるようになった。北村さんの本を読んで、襲撃する若者のことも自分は知らないということを考えた、自分はたまたま運良くまわりの環境が良かったけれど、襲撃する若者たちはそれがなかったかもしれない、というようなことを。そして、野宿の問題にかかわっていきたいけれど、それがどうしても中途半端で偽善のように気がしてしまう、ということ。北村さんが言葉を返していくと、彼女はおいおい涙を流して聞いている。それからは、みんなで野宿問題の授業のことや、襲撃する若者たちについてのことなどについていろいろ話をした。その話は、書いていると長くなるし、それにこういうところでは書けない内容が多いので省かざるをえない。
それから、彼女も一緒に新宿中央公園へ行って、5時からの炊き出しと8時からの夜回りに出る。炊き出しはこの日は非常に多いそうで、確か700食出た。狭いところに一杯人が並んでいる。雰囲気としては、釜ヶ崎の炊き出しとほぼ同じ感じではないか。
ここで、まったくはじめて野宿者の支援にきたという若者2人に会った。一人(男性)は、スポーツ関係の(ちょとぼかして言いますが)ユニフォームを着ていた。なんでだろうと思ってあとで夜回りのときに聞いたら、これで公園とかでアフガニスタン難民支援のためのパフォーマンスをやっているんだという。そのパフォーマンスのとき、「海外の難民のために活動するのはいいけど、身近にいる野宿者も大変だぞ」と言われて、そうかと思ってネットで調べて、ここに来たと言っていた。もう一人(女性)は埼玉の社会人で、大学で社会福祉を勉強していたが、関心があったのでやはりネットで調べてここにやってきたという。
夜回りでは、西と東の2班に分かれて新宿駅のあたりを回る。われわれ新人は西がいいでしょうということで、そっちをまわった。新宿の特徴は、野宿者があまりまとまって寝ておらず、ポツンポツンといること。そのため、夜回りもひたすら長い距離を歩き回って野宿者を訪ねていくことになる。
新宿の野宿者と話して印象は、年齢層から全体的な感じまで、釜ヶ崎や大阪と全然変わらないなあ、というところ。というか、あまりに印象が変わらないのでかえって驚いてしまう。周りの街並みやそこでの野宿の感じも、「あ、ここは梅田のあの場所そっくりだ」「ここは日本橋」「これは難波」という感じである。授業に来ていた彼女は、歩きながら埼玉から初めてきた女性と話をしていた。そして、夜回りが終わって集約が終わると、2人で「また会おうね、せっかく仲良くなったし」と言い合っていた。そこでみんな解散したが、ぼく個人としては、9月からやっていたYMCAでの野宿問題の授業がこれでワンサイクル終わった、という感じが強くした。彼女は、東京でもいろんなことを一生懸命やっていくことでしょう。ぼくとしては、その一つのきっかけを持つ手伝いができて、とてもうれしい。
しかし、それでなくてもここんとこ疲れてたので、新宿の夜回り2時間弱は足に来た。

2002/4/27■ 野宿者問題でためになる「恋のから騒ぎ」


夜回りから帰ってきて、この時間やっているテレビの「恋のから騒ぎ」を見ていた。ぼくは、いわゆる素人参加番組をよく見てて、特に「学校へ行こう!」と「探偵!ナイトスクープ」は一時期、毎週必ず見ていた。「恋から」では今週も新人が入っていて、一人はさっそく明石家さんまに「ロバ」と命名されていた(顔がマラソンのロバ選手と酷似しているため)。
彼女(20歳代)は大阪の人間で、話によると今まで男性とつきあったことは一度もない(では、なぜこんな番組に…)。で、話を聞いていると、彼女はかつて夜に泊まるところがなくなって、1曲10円(なんちゅー単価か)で道頓堀橋あたりで歌を歌って小銭を稼いで、節約のために難波周辺で野宿していたという。さんまさんが「女が野宿しとったらあぶないやろが」と言ったら、彼女は「だから茂みの中とかで寝てた」と言っていた。
以前から野宿者ネットワークの難波、心斎橋の夜回りでは、この周辺には女性野宿者が何人かいる。しかし、夜は目に付かないところに寝ているらしい、という情報を顔見知りの野宿者から聞いていた。では、どこにいるのかとずっと不思議に思っていた。そうか、「茂みの中」だったのか。それは夜回りしててもわからないわけだわ。
今まで疑問に思っていたことが解消できて、とてもためになりました。次回ではさんまさんに、どういう経過で野宿に至ったかというあたりを、ロバさんにちょっと突っ込んで聞いてほしいです。(彼女は、答えたくないことはギャグをかまして逃げれそうです)。

2002/4/24■ 「現代」の記事に対する反応


 昨日、とある雑誌の編集部から電話があって、「現代」1月号の記事を見たのだが、釜ヶ崎の野宿者問題を取り上げたいので協力をお願いできないか、という話が来る。それは多分やるだろうが、実にこれが「現代」で書いた記事に対する(知り合い以外)はじめての反応だった。
 あの記事は知り合い(主に運動関係者)には好評だったが、それ以外の反応は今まで一切ゼロだった。野宿者問題の授業では、同様の内容で素晴らしい反応が引き出せただけに、この無反応には考えさせられる。「現代」は10万部出ているということなのだが、一般に読んだ人はどう思ったのだろうか? そこら辺がどうもわからない。実感としては、10万部の雑誌に書くよりは高校生10人を相手に授業をやってる方が、やっててはるかに反応があるし、夜回りや放火襲撃されたSさんのお見舞いに行く生徒も出てくるしで、無限にマシなように見える。まあ、授業のように一対一に近い形でぶつけていく方が反応があるのは当然のことだろうか。
 とはいえ、野宿者問題の授業の方も、「現代」の記事で触れ、ホームページも出しているにもかわらず、問い合わせなどは今のところ全くのゼロ。「総合的学習の時間」がスタートしたこともあり、波に乗っていけるかと思ったが、この点は大きくあてがはずれた。やっていてやりがいがあっただけに、今のぼくは鳥かごの鳥のような気がする。しかし将来的には、野宿者問題の(学校などでの)啓蒙活動は、これから飛躍的に必要視されてくることは確実なので、気長にやっていればいいのかもしれない。そのころにはこっちは歳をとったり死んだりしてしまって(寄せ場の活動家は早死にしがち)、後進がやってるのかもしれないけど。
 それにしても雑誌の記事についてはどう考えればいいのか。一般論としては、「ホームレス」ものの映画(米倉涼子!)・舞台(黒柳徹子!)本(「ダンボールハウスガール」「ホームレス入門」…)がいっぱい出る中で、依然として野宿問題についてのまともな入門書や概説書はほぼ皆無なことを考えれば、一般の人たちが野宿者問題について読みやすいものは、われわれが知らせたい必要なものとは明らかに相当ズレているんだと思う。となると、やはり機会があれば一つ一つ、まともな啓蒙活動を続けていくに尽きるのだろうか。

 最近、伏見憲明の「ゲイという[経験]」を(全部じゃないが)読んだ。1991年のデビュー作「プライゲート・ゲイ・ライフ」等を含む、この10年の総決算という600ページ以上のぶっとい本。その中で、「無関心と興味本位の間」という文章がある。

「少数派の問題において興味本位をまったく排除してしまえば、多数派に無関心のままでいるか、当事者の『正義』に絶対帰依するかの踏み絵を踏ませることになりかねない。そして、そのことによって、差別問題は多数派の関心外に放置されることになっていまいか。/僕は、無関心と興味本位のあいだにいかに共感や理解を生み出していくのかが、これからの反差別運動の課題だと思う。そのためにはお笑いを戦略として用いることだってあるし、お涙ちょーだいだって演じるだろう。あるいは、相手の差別意識に乗った関心の引き方を利用することもあるかもしれない」。

 「無関心でも興味本位でもなく」という突き詰めが運動の行きづまりに行き着いてしまう、という認識はこの人の体験から来るものなのかもしれない。そうした絶望から、笑いやお涙をも利用した「共感」を、という道筋には「なるほどなあ」という気もする。特に、寄せ場の活動家は、野宿「当事者」ではなくて外部から自分で希望してやってきた「支援者」が大半で、それゆえ運動も「きまじめ」になりがちなので、こういう発想は新鮮である。
 けれども、ぼくは「笑い」や「涙」を利用して野宿者問題を語ることには関心がない。というより、そうした一般の「興味本位」にそった「物語化」は、やはりすべて一掃してしまったほうがいいと思う。一般の人たちの野宿者への視線の多くは、「無関心」か「ホームレスは独特の人生観の持ち主」みたいな二極分解で、そこでは、「笑い」や「涙」は「ホームレスの独特の人生」という物語へと消化解消されてしまうことになる。必要なのは、そういう「物語」よりは、やはり普通の啓蒙活動であり、さらには理論的な「展望」なのだと思う。
 つまり、一般の人の、野宿者への「ホームレスは家へ帰れ」「ホームレスは仕事をしようとしない」「ホームレスは自業自得だ」みたいな偏見は、従来型の「国家」「資本」「家族」観に基づいた偏見でしかないからだ。しかし、現在進行中の日本の野宿者激増は、資本、国家、家族の変容と深く関わっている。野宿者問題をはじめ、日本国内での「南北問題」の激化は、今までの国家、資本、家族概念の中では理解できない。それらについての新たな展望がなければ、反差別のための中・長期的な展望も開けてこないと思う。それに対して、伏見憲明の言う「相手の差別意識に乗った関心の引き方を利用すること」は、かなりあざとい戦略で、ぼくにはできないし、やる気も起きない。
 現在の野宿者問題の一般的なトレンドは、「社会復帰」「自立支援」という方向にある(「ホームレス自立支援法」というネーミングなんか、まさにそれ)。この間のNHK特集「ホームレス」も、サブタイトルが「社会復帰」だもんね。いつの間にか、野宿者は「自立」し「復帰」すべき人間ということになってしまった。「健全な社会」と「そこからはずれたホームレス」という構図である。(「自立支援法」そのものには、ぼくはどちらかと言えば賛成。)
 しかし、寄せ場の運動は、日雇労働者、野宿労働者に対する社会の不当な差別と闘い、さらには寄せ場という「日本の縮図」から日本社会そのものの構造を撃つというもののはずだった。もちろん、現実の野宿者、日雇労働者のプラスになることは何であっても利用すべきだが、その一方で一般的なトレンドに抗した「社会への闘争」という原則を手放すことはできない。それこそが「まともな啓蒙活動」のすべきことだと思う。
(それにしても、こういう「近況」で簡単に触れるにはでかすぎるテーマだな、これゃ)。

2002/4/24■ またまた「ハッピー・マニア」について


 最近、「ハッピー・マニア」の本当のカップルは、「重田と高橋」ではなくて、「重田とフクちゃん」ではないかと思うようになった。
 重田も「あたし達って…前世 夫婦だったのかな」と言ってるくらい、「ハッピー・マニア」の登場人物の中でこの2人ぐらいに絶妙のコンビネーションで生活しているカップルはいない。「重田と高橋」もうまくやっていくかもしれないが、やっぱり「奉仕する男」と「気ままな女」というタイプになるのではないか。ある時フクちゃんは「うまくいかない人は 運命の人じゃないのよ。この場合の『うまく』ってのはお互いのキモチが通じるかってコトだけど」と言うが、重田とフクちゃんは他のだれよりも「お互いのキモチが通じる」「運命の人」のように見える。
 最終回のあたりで、フクちゃんがヒデキと大阪に転勤で引っ越すとき、重田は突然「彼氏がいなくてもフクちゃんがいたからやってこれた… だから… なかなか彼氏ができなくて…」「はっ そうか…」「あなたがいると彼氏いらないんです!!」と言うが、実際、こんだけうまくやっていれば、彼氏なんかいらないんじゃないかと、はた目には見える。でも、重田もフクちゃんも、やっぱり「彼氏」が要るんだな…
 「恋愛が発生したあとにそれを安定させるまでを描いたマンガがない」ということで「ハッピー・マニア」を始めたという安野モヨコだが、それは「恋愛の発生」という「ハッピー・エンド」によって物語を終える従来の少女漫画への事実上の批判になっている。つまり、それは「ハッピー・エンド」で「性」と「恋愛」と「結婚」の一体化を前提としていたロマンティック・ラブ・イデオロギーの「あと」を語る「ポスト・ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の物語になっている。
 けれども、「ハッピー・マニア」で語られているものは、「性」と「恋愛」と「結婚」と同時に、同性同士(に限らないが)の「キモチが通じる」「共感」だったのかもしれない。「性」「恋愛」「結婚」「共感」はそれぞれ重なったりそうじゃなかったりする。重ならない場合は、つまりそれぞれを違う人間に振り分けなければいけないような場合、どうやっていけばいいのか? ロマンティック・ラブ・イデオロギーのように、それでもすべての一致を一人の人間に追求していくべきなのか? その道筋は、重田のこれからにあるのだろうが、それは描かれなかった。それは、読者それぞれにゆだねられたわけである。

「ハッピー・マニア」については、「ホットロード」論の文末の「注」で触れることにした。次がそれ。

(注)
 「ホットロード」の最後に和希が「お母さんになりたい」と言ったのは1987年である。1992年に出た「紡木たく選集」版「ホットロード」には、作者の撮った「ホットロード」の舞台の写真などが幾つか付けられているが、その中には、(おそらく)作者が幼稚園児ぐらいの男の子を抱いている写真がある。作者は多分、和希が「お母さんになりたい」と言ったころ、実際に「お母さん」になっていた。
 ところで、大塚英志は、1950年代末から60年代半ば生まれの少女漫画家たちが、90年代半ば頃、いっせいに「出産本」を書き出した事実を指摘している(「出産本と『イグアナの娘』たち」・「『彼女たち』の連合赤軍」所収)。紡木たくは1964年生まれだから、この「出産本」漫画家たち(例えば内田春菊、さくらももこ)の年代に入る。
 大塚英志の論旨は、「母と和解しえず、自らの母性も受容できないでいる女性像」を描き続けた少女漫画が、萩尾望都の「イグアナの娘」が出た91年あたりから、「産む性」をめぐって態度を変え始めた、ということにある。
「この時点で、少なくとも少女まんがというジャンルの中でも、もはや萩尾望都的『母性をめぐる葛藤』は主題としては成り立ち得なくなっていたのである。しかもそれは、女性作家の<産む性>に対する主体性の確立のゆえに主題化する必要がなくなったのではなく、もっとなしくずしの<母性>の肯定の前に『母性をめぐる葛藤』が無効化していったことによる。
それにしても、90年代初頭における少女まんがの『母性』をめぐる急激な転換は、いったいなぜ起きたのだろう。そもそも、あたかも『1.57ショック』(89年の合計特殊出生率、ひとりの女性が生涯に産む子供の数の低下)を贖うかのように、その直後になぜ、集中的に<出産本>が当の女性たち(しかもその多くは少女まんが家)によって書かれなければならなかったのか。母性の忌避から全肯定へという変節は、むろん少女まんがにとどまらない。今日(1996年)のメディア全体に拡がる出産本、出産ブームは『1.57ショック』の反動などという単純なものではなく、戦後の女性史の中で重要な変節点としての意味を持っているように思う」。
 「ホットロード」はこの「母性の忌避から全肯定」を、決定的に先導したと言えるのかもしれない。大塚英志の言うように「この時点で、少なくとも少女まんがというジャンルの中でも、もはや萩尾望都的『母性をめぐる葛藤』は主題としては成り立ち得なくなっていた」とすれば、それは、一つには「ホットロード」がこの主題をこれ以上ないほどに徹底的に描いてしまったからである。もちろん、「ホットロード」は「母性の忌避から全肯定」を「なしくずしに」行ったとは言えない。ただ、「母性をめぐる葛藤」は、必ずしも「ホットロード」がそうしたように「全肯定へ」と至る必要はなかった。つまり、少女が大人に成長していくことを「お母さんになる」ことに限る必要は当然ながら全くなかった。その意味では、「ホットロード」の結末がその膨大な読者層に対して、あるイデオロギー的な役割を強力に果たしたということは明らかに言える。それは、少女漫画の主流が一貫して描き続けてきた「性」と「恋愛」と「結婚」の一体化という近代的なロマンティックラブ・イデオロギーである。「ホットロード」は、その流れの集大成としての意義を持つと言えるのかもしれない。
 ただし、大塚英志の論旨に反して、合計特殊出生率はその後も減り続け、2001年に入って初めて微増した。「ホットロード」は確かに主人公の和希と同世代の多くの読者層に大きな影響を与え続けたが、読者である彼女たちが少女漫画の中で見てきたのは、「ホットロード」のようなロマンティック・ラブ・イデオロギーだけではなかったはずである。和希と同世代の読者層は、1995年になると、再び自分と同年代の主人公が登場する大ヒットマンガを見ることになる。安野モヨ子の「ハッピー・マニア」である。
 事実、「ホットロード」の設定から、主人公の宮市和希の誕生日は1971年7月19日と割り出せる。一方、「ハッピー・マニア」第1回(1995年夏)で重田加代子は24才だった。そこで、重田は大体1971年生まれの設定ということになる。作者の安野モヨコの誕生日は1971年3月26日なので、作者は重田の歳を自分とダブらせていたとも考えられる。とすれば、和希と重田はたった3〜4ヶ月違いの完全な「同世代」なのである。
 「恋愛が発生したあとにそれを安定させるまでを描いたマンガがない」ということで「ハッピー・マニア」を始めたという安野モヨコだが、それは「恋愛の発生」という「ハッピー・エンド」によって物語を終える従来の少女漫画への事実上の批判になっている。つまり、それは「ハッピー・エンド」で「性」と「恋愛」と「結婚」の一体化を前提としていたロマンティック・ラブ・イデオロギーの「あと」を語る「ポスト・ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の物語になっている。
 「やってから考える女」「恋愛の暴走列車」重田カヨ子は、全国を駆け回り、交通事故に遭い栄養失調になり高橋家の庭園を破壊し警察の厄介になりとメチャクチャなことをやらかすわけだが、読者はそれを見て腹を抱えて爆笑激笑しながら、「これはもしかしたら教養小説になっているのではないか」と突然感じることになるだろう。「女は受け身」「セックスは恋愛の過程でされるべき」「本当に愛せるのは一人だけ」みたいな常識をすべて「リセット」にして勢いのまま突っ走る重田は、誰でもやるかもしれないが普通はしない「やってみなくちゃわからない」ことを身をもって「やってしまう」からだ。普通の教養小説ならここで重田も「(考えて)わかって」成長するだろうが、なにしろ「やってから考える」女だから、やるだけやっても本人はなんの後悔もためらいもなく「次」に突っ走ってしまう。でも読者は、重田が言う「恋をして盛り上がって冷めて傷ついて」「結局 人生もおなじことのくりかえし」という「恋愛」の現実が、マンガの中で本当に現実化していくのを目にしてしまうことになる。
 彼女が求めているのは「ふるえるほどのしあわせ」=「ハッピー」で、それは普通の「カップルのくらし」の「不幸でも幸せでも」ない「中ぐらい」なものではない。もちろん、そんなものを「マニアック」に求めても普通、とても実現不可能なはずである。しかし、重田はその理想をめがけて勢いのまま突っ走る。こんな理想を掲げていけば、現実と激しく衝突することは眼に見えている。結局、彼女は「恋愛」という理想とは相容れない「現実」というものをあぶり出していく。少女漫画の大枠が、少女たちのマジョリティの願望を引き受け、恋愛の「現実」への着地をハッピーエンドで語っているとすれば、「ハッピー・マニア」はそれらすべての不可能性あるいは非現実性をリアリスティックに、かつコメディとして宣告してしまったのだ。「ハッピー・マニア」は、:恋愛の不可能性、そして「本当に愛せるのは一人だけ」「恋愛の結果としての結婚」みたいなロマンティック・ラブ・イデオロギーの非現実性を読者に示したマンガなのである。
 「ホットロード」をリアルタイムで読んだ和希と同世代の読者は、10年後に「ハッピー・マニア」をリアルタイムで重田カヨ子の同世代として読んでいた。この80年代最高の少女漫画の一つ「ホットロード」と、90年代の最大の話題作の一つ「ハッピー・マニア」の両極の間をこの世代の女性たちは生きていた。そして、「ハッピー・マニア」が終了した2001年、彼女たちは30才になった。彼女たちにとっての「大人になること」は、どのような形をとったのだろうか?


2002/4/19■ 「宮市和希」の時代から「重田カヨ子」の時代へ 


依然として「ハッピー・マニア」で頭が一杯なのだが、今日こういうことに気がついた。つまり、宮市和希と重田カヨ子は「同い年」生まれだ!
すなわち、「ホットロード」の設定から、主人公の宮市和希の誕生日は1971年7月19日と割り出せる(作者の紡木たくは1964年生まれ)。一方、「ハッピー・マニア」第1回(1995年夏)で重田カヨ子は24才の設定だった。ところで作者の安野モヨコの誕生日は1971年3月26日なので、多分作者としては重田カヨ子の歳を自分とダブられていたのだろうと推測される。とすれば、和希と重田カヨ子は3〜4ヶ月違い生まれの「完全な同世代」ではないか。先に、80年代最高の教養小説は「ホットロード」だが90年代におけるそれは「ハッピー・マニア」だったのかと書いたが、なんとこの二つは「同世代の話」だったのだ。
つまり、「ホットロード」をリアルタイムで読んだ(和希と同世代の)読者は、1995年になると今度は「ハッピー・マニア」をリアルタイムで重田カヨ子と同世代として読んでいたということになる(なんちゅー贅沢な世代か)。重田カヨ子は、中学で同級生の「まさえ」たちと「2年の高見シメた時」「マン毛に火ーつけてもやして」たりしてたらしいが、それは和希が春山と暴走族「ナイツ」でかっ飛ばしていたのと同時期だったのだ。
それを発見してから少しばかり考え込んでいるのだが、これを発展させたら、もしかして「『宮市和希』の時代から『重田カヨ子』の時代へ」とか「『ホットロード』の時代から『ハッピー・マニア』の時代へ」とかいうエッセーでも書けるだろうか(実はそれとよく似たタイトルで、近々「群像」に短いエッセーを出すんですが)。わかんないけど、とりあえずここでその練習をしてみようか。
まず、和希と重田の共通点は、両方とも「考えない」あるいは「なにも見えない」ことにある。和希は「ホットロード」で作者が「鈴木君」の口を借りて言っているように、「もしかしたら一生のうちで」「なにも見えないで走ってしまう時は」「ほんの一瞬かもしれない」という、その「ほんの一瞬」の物語になっている。一方、重田カヨ子はご存じ「やってから考える女」「恋の暴走機関車」である。この2人は何よりまず「なにも見えないで」「暴走」するというその一点で読者の共感を強く得た。しかし、和希の場合はそれが文字通りの自殺すれすれの「暴走」であるのに対して、重田カヨ子の場合は「ハッピー」=「恋」になっている。「なにも見えない」のは、彼女たちが自分のコントロールを越えた何かに突き動かされているということだが、この2人のちがいは、幾分かは時代のちがいである。
80年代のバブル期の物語である「ホットロード」は、「内面」の問題を追求し抜いた少女漫画の系譜の頂点にきた作品だった。…
(以下、書いているけど長くなるのでここでは省略)。


2002/4/17■ 続・またカゼになる・「ハッピー・マニア」


カゼで寝ていることを利用して、ひたすら「ハッピー・マニア」を読んでいる。文庫ではまだ最後の一巻分が出てないので、単行本も買ってきて、時々付箋をつけながら(!)全巻を読みふけっている。こんなに惹きつけられるマンガは久しぶりだ(「西洋骨董洋菓子店」以来?)。リアルタイムで読んでなかったことが悔やまれるぜ。ま、一気読みできるありがたさもあるんだが。
特に、最も最近読んだ(最終回を含む)単行本12巻の言いようのない重さには驚いてしまう。第1巻のあの軽いノリを思い出せば、思えば遠くへ来たもんだである。この重さは、ぼくには内田春菊の「物陰に足拍子」のラスト(凄かった)をなんか思い出させるのだが、ただ、あのラストが「脱出」だとすれば、「ハッピー・マニア」のラストは「現実」との激突ということではないか。なにしろ、あの重田カヨ子が「結婚」しちまうのだ。でも、そこでも彼女は「はっ」と「彼氏ほしい!」と気づいて、脱出しようとする。でも、この「結婚」と「恋愛」との激突という結末以外、彼女にはどこにも出口はないことは読者の誰の目にも明らかだ。これはハッピーエンドでもなければアンハッピーエンドでもないのだろう。どんだけ恋愛しようが、「恋をして盛り上がって冷めて傷ついて」「結局 人生もおなじことのくりかえし」なことが、やればやるほどはっきりしてしまったのだから。ということは、そんな「現実」を認めてなおかつテキトーにやりすごすのが「大人になる」ことだ、ということか?(教養小説としての「ハッピー・マニア」?)
14日に書いたことに付け足すと、確かにシゲカヨは常識を全部リセットして「やってしまってから考える女」で、本人は後悔もためらいもなしに「次」に突っ走ってしまう。だが、彼女が「考える」場面はもちろん一杯出てくる。例えば「あの頃はすべてのカップルが憎らしく思えたっけ」「今はどうしてか ちっともうらやましくない なぜだろう」「それはあのカップル全てが必ずしも愛しあっているわけじゃないってことを知ってしまったから」「この人達の一体とどれだけが本当に愛し合っているというんだ」「…」「なんだ…このムナしさは…」。あるいは「めちゃくちゃがんばってみたり どうでもよくなってみたり 大切に思えたものが退屈きわまりなくなったりとか あたしって何だろう 何なんすかね?」。そして「ホントははじめからわかってるのに 見ないフリして盛り上がって冷めた時が」「こえーんだよ…」「もう20代後半戦だしね いつまでも同じことくり返してらんない」「かと言って何がゴールなのかわかんないんだけど」。
ただシゲカヨは、新たな目標を発見したとたんに全てを忘れて「やってから考える女」になってしまうのだが、それでもこうした彼女の省察が物語の中でだんだん堆積していって、ある「重み」を与えてしまうことは疑いようがない。ほとんど諸行無常の世界である。「いつまでも同じことくり返してらんない」が、「何がゴールなのかわかんない」なら、やっぱり「同じことくり返して」死ぬまで生きていくしかないではないか?(死なない限り、高齢者になっても恋愛はできるし!)
彼女が求めているのは「ふるえるほどのしあわせ」(=「ハッピー」)で、それはフツウの「カップルのくらし」の「不幸でも幸せでも」ない「中ぐらい」なものなんかではない。もちろん、そんなものを「マニアック」に求めても普通、とても実現不可能なはずである。しかし、シゲカヨは「女は受け身」「セックスは恋愛の過程でされるべき」「本当に愛せるのは一人だけ」みたいな常識をすべて「リセット」にして、理想をめがけて勢いのまま突っ走る。こんな理想を掲げていけば、現実とバキボキ衝突することは眼に見えている。結局、彼女は「恋愛」という理想とは相容れない「現実」というものをあぶり出していくと言えるのか。少女漫画の大枠が、少女たちのマジョリティの願望を引き受け、恋愛の「現実」への着地をハッピーエンドで語っているとすれば、「ハッピー・マニア」はそれらすべての不可能性あるいは非現実性をリアリスティックに(かつコメディとして)宣告してしまった(最後に、高橋と結婚させてしまったとはいえ)。とすれば、「ハッピー・マニア」は、:恋愛の不可能性、そして現在流通している(「本当に愛せるのは一人だけ」「恋愛の結果としての結婚」みたいな」)恋愛の非現実性を読者に示したマンガではないのか。
でも、見方を変えれば、恋愛と現実とがこれほど相容れないとすれば、逆にそれがそれほどは相容れないでもないという、別の可能性があるということなのかもしれない。物語のラストになれば、読者は多分誰でも「じゃあ、なんで結婚するんだ?」という思うだろう。あの貴子までが最後になって言うように「結婚ってなんて意味ないじゃない!」。多分、結婚は意味がないし、「恋愛」だって大した意味はない(と想像する)。意味がないならば、それは今の杓子定規な形ではなく、もっと多様な形に変わっていくかもしれない。少なくとも、「結婚」と「恋愛」という二元化が不毛なことは「ハッピー・マニア」のラストでも明らかになってしまった。「愛」と「性」と「結婚」の三位一体としてのロマンティック・ラブ・イデオロギーはもはや破綻している。でも、現実の世界は「2」や「3」よりはもっとたくさんの選択肢がありえるのではないか。
「ハッピー・マニア」の重田カヨ子を除く登場人物は、フクちゃんといい、高橋といい、あとシゲカヨのあらゆる「すれちがい男」たちといい、みーんなすごく「ありがち」に見える。多分、シゲカヨを除いたキャラだけで作品にしたら、退屈な「風俗ドラマ」に終わってどうにもならなかったにちがいない。この人たちは、シゲカヨの存在で「生き」ている。しかし、この人たちの世界はそのまま「ありがち」なわれわれの世界なのではあるまいか(少なくともぼくは、自分の分身を「すれちがい男」の中に見つけるのですが)。だとすれば、「ハッピー・マニア」というマンガの存在自体が、読者にとっては「シゲカヨ」みたいなものになる。つまり、このとんでもなくハイテンションでバカバカしいマンガによって、自分たちの現状が思っても見なかった(とんでもない)方向から照明を当てられ、一瞬「生き」返るのである。そんな本を、どうして手放しておけようか。

2002/4/14■ またカゼになる・「ハッピー・マニア」


昼頃に、この2週間書いていた紡木たくへの手紙を書き終わった。あとは、清書するだけ。書き上げてみると、自分の人生の大部分の「まとめ」になっていることにあらためて驚いてしまう。こんなものを書いてしまったら、あとはもう後ろは見ずに、行けるところまで突っ走っていくしかないとつくづく思う。「ホットロード」論の修正も、ほぼ終了した。自分のできる限界まではやった。
そのあと、阿倍野に出てパンを公園で食べたりしてたら、だんだん調子がおかしくなってきた。のどがはれて、体がやたらに重い。完全にカゼではないか。この「近況」で調べてみると(こういうことにも役に立つ)、前回カゼになったのは3月9日だ。いくらなんでもサイクルが早過ぎやしないか。まあ、最近、暖かくなったり寒くなったり、気温差がキツかったからなあ。
そこで、寝ながら文庫でまとめ買いした「ハッピー・マニア」を読みまくった。なんつーおもしろいマンガなんだ、これは。大分前、単行本で第1巻を読んだが、特にハマることもなく、そのあとは全然読まないでいた。しかし、まとめ読みしてみると、これだけ話がガンガンもりあがっていくものだったとは知らなかったよ。「やってから考える女」重田カヨ子の勢いはどこまでも変わらぬテンションで凄いの一言だ。彼女が全国を駆け回り、交通事故に遭い栄養失調になり高橋家の庭園を破壊しとメチャクチャなことをやらかすのを見て腹を抱えて爆笑激笑しながら、「これはもしかしたら教養小説になっているのではないか」と突然感じてしまう。「女は受け身」「セックスは恋愛の過程でされるべき」「本当に愛せるのは一人だけ」みたいな常識をすべて「リセット」にして勢いのまま突っ走る重田さんは、誰でもやるかもしれないが普通はしない「やってみなくちゃわからない」ことを身をもって「やってしまう」からだ。普通の教養小説ならここで重田さんも「(考えて)わかって」成長するだろうが、なにしろ「やってから考える」女だから、やるだけやっても本人はなんの後悔もためらいもなく「次」に突っ走ってしまう。でも、読者としてはここで「やってみなくちゃわからない」ようなことがマンガの中で本当に現実化していくのを目にしてしまうことになる。実際、文庫では3巻か4巻あたりからただよう(ギャグと一体化した)妙な重みは何なのか。「重み」「深み」というより「現実のてごたえ」とでも言うべきなのだろうが、ともかくこのマンガのエネルギーはハンパではない。絶対これから何度も読み返すことになるだろうな。80年代最高の教養小説が「ホットロード」だということは疑いようがないが、90年代におけるそれは「ハッピー・マニア」だったのだろうか?(ヘンなまとめ?)。


2002/4/7■ カラヤンのラストレコーディング


指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンの最後のレコーディング(1989)は、ブルックナーの第7交響曲だった。
それは知っていたし、それがまた非常に評価が高いことも知っていたが、ぼくは聴いてみたカラヤンのレコードはごく一部(例えば「ドン・ジョバンニ」)以外はすべて失望してきたので、特に聴くつもりはなかった。だが、店で輸入盤が目に入ったので、どんなものかと思って買ってみた。
「演奏は彼の指揮にしばしばみられる強引な自我の表出がなく、清澄で自然、ひとつひとつの楽想に深く共感した音楽を聴かせる。カラヤンは生涯の最後に至高の境地に達したのだろう」(小石忠男)。確かにそういう演奏だ。すべてのフレーズが澄み切った流れの中で自然に移りゆき、それが高まりながら美しい響きを奏でる。しかし、ぼくにはこうした「至高の境地」が、音楽を聞くじゃまになって仕方がない。従来のカラヤンの指揮は一般に演出過剰で、音楽の構造を浮かび上がらせるというよりは、音楽の表面を美しく磨きあげてしまうきらいがあった。このラストレコーディングでは、そういう「自我の表出」は確かに消えている。それは、事実「巨匠」の最後の境地というにふさわしいだろう。しかし、ぼくにはそれ自体、カラヤンというアーティストの究極の(そして無意識の)過剰演出だったとしか聞こえないのだ。つまり、巨匠が死を前にして最後にたどり着いた「無私の境地」というやつである。けれども、そんな人間ドラマは音楽とは何の関係もない。むしろ邪魔である。
 このカラヤンのレコーディングに限らず、クラシック音楽の評価にはこうした「人間ドラマ」への偏愛が非常に強い。例えばブラームスの晩年のピアノ曲や室内楽は、「大作曲家の晩年の心境」を語るものとして評価されるが、どう考えたって「心境」を知るなら日記でも読んだ方が早いだろう。大体、ぼくはブラームスの「心境」には興味はない。関心があるのは音楽である。そして、ブラームスの作品は、ほぼすべて音楽としては二流品なのだ。唯一、晩年のピアノ曲が新ウィーン楽派を予感させるものとして評価されることもあるが、それだって大したものとは思えない。ベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲も似たような評価をされるが、これも同時期のピアノソナタ群と比べれば音楽としては明らかに落ちている。それはどっちかと言えば大作曲家のややきまぐれなエッセイ程度に聴いておけばいいものだと思う(ただし「大フーガ」などは別)。「人類の至宝」のような評価をされることもあるが、そんなことを言われたら多分ベートーヴェンだって困ってしまうだろう。
 それにしても、20世紀半ばから後半にかけては指揮者に関してはカラヤンの時代だった。そして、歌手についてはフィッシャー・ディースカウ、ヴァイオリニストではハイフェッツの時代だった。なんというしょーもない時代だったのだろう。作曲については、20世紀後半をブーレーズとケージが両極となってひっぱったことを考えれば、これらの演奏家たちは音楽家として明らかに2流である。クラシックの演奏家は、特に20世紀後半、過去の作曲家たちの遺産を再演し続けることで成功し繁栄してきた。「巨匠」とはその中で生まれたアイドルたちである。これらの演奏家の人間ドラマに感動する聞き手は、本当は手近なテレビドラマに感動したり、モーニング娘のあの娘がいいこの娘がいいと語り合うファンと本質的に変わらない(その点で、こうした音楽受容の間隙を突いて成功したナクソス・レーベルの存在は徴候的だ)。おおざっぱに言って、20世紀後半の演奏の世界には桁外れの存在はほとんどいなくて、「この曲についてはこの人がなかなか」とか「この時期のこの人の演奏はなかなか」といった感じで成立していたのだと思う。シューマンについてはフィッシャー・ディースカウがよかったり、ある時期ではシノーポリがよかったりという感じで。それはそれで「百花繚乱」だが、絶対的存在の不在という悲しさはやはり否定できないと思う。
ピアニストについてはやや話が別で、グレン・グールドがいて、またホロヴィッツがいる。これら怪物のレコーディングについては、これから数世紀の間、聴かれ続け衝撃を与え続けるのではないか。

2002/4/6■ 「池袋通り魔との往復書簡」


朝、新聞に上のタイトルの新刊告知(小学館文庫の書き下ろし)があったので、買ってきて読む。去年6月から今年の2月までの、著者と造田博君との往復書簡を中心にしたルポ。最近では、「新潮45」3月号でも他の著者による「池袋通り魔殺人事件・運命の交差点」というルポもあった。
いろいろ初めて知る情報があるが、造田君の精神状態は往復書簡から見る限りよくない。「造田博教」を作って世に広めるとか、どうもやばい発想になっている。事件については「反省している」と言うが、動機については「日本にたくさんいる人にたまたま頭にきて」やったということにとどまる。全体に、「反省」は言葉だけのものとしか言えない。
ぼく自身、高校の後輩である彼となんらかのコンタクトをとろうかと思っただけに、これらのルポにはいろいろ考えさせられる。しかし、きわめて最近の、しかも短期間の書簡をこうして公開していくこの著者の姿勢は疑問ではないか。というのも、この往復書簡によって造田君が何からの形で変わったという兆しはまったく見られない。つまり、著者による批判はあっても、基本的に「造田博教」宣伝に終始しているわけだ。実際、造田君は自分の書簡が世に出ることをいたく喜んでいるらしい。被害者および遺族はこんなもの出されたらたまったものではないだろう。(もちろん「造田博教」は、彼がつかめなかった平和で幸せな世界への希求の表現と考えるべきだろう)。
本の内容からわかるように、著者はこの書簡および事件全体を「時代の空気」を映す意味を持つものと考えている。しかし、そんなこと以前に、当事者の一方である被害者の感情に配慮すべきだろう。もちろん、被害者の生な感情として「造田を死刑に」ということもありえる。事実、未成年犯罪については最近、「犯罪者の人権のことばかり言って被害者の思いを無視している。極刑でのぞめ」という一般の声がしきりである。つまり、被害者の立場に「同一化」(そんなことありえないのに)した感情論と、「時代を読む」(「時代に抗する」のではない)評論家による「加害者の代弁」の不毛な二元化である。こうした事件について、単なる事実の報道ならともかくも、わざわざ加害者とかかわりながら書くことに意味があるとしたら、被害者の立場を配慮しながら、こうした不毛な二元論とは別の道筋をつけることにしかないだろう。そのためには、加害者の反省と変化が前提のはずである、当然ながら。
その点で、1995年、道頓堀川で野宿していた藤本さんが水死させられた事件のルポ、北村年子「大阪道頓堀川『ホームレス』襲撃事件」は意義があった。著者は、事件直後から加害者やその仲間の若者たちとかかわり、手紙のやりとりや面会を通じて加害者の変化を一緒にもたらしていく。そのやりとりと若者たちの変化は感動的であって、その中からある希望が生まれ始めている手応えを感じさせずにはいない。この95年の事件の時は、事件直後から現場に祭壇が設けられ、釜ヶ崎の有志がずっとそこに詰めていた。ぼくもずっとそこにいなければいけないような気がして、時間がある限りそこに通っていた。そして、その事件をきっかけに、そのころかなり離れていた寄せ場の運動に戻り始めたのだった(追悼の時、「死んでから花を投げたって遅い」とつくづく思った)。その後、事件の裁判が大阪地裁で行われ、釜ヶ崎からも何人かが傍聴に行っていた。そのことは知っていたが、ぼくは行ってなかった。やはり、長い間、野宿労働者とかかわりをもっていると、事件の加害者の「声を聞く」ことには幾分か身を引き裂かれるような思いをするからだ。というより、それだけの覚悟がつかなかったということか。それから見れば、被害者およびその家族や知人の、「犯人の更生なんか関係ない」「可能な限り重い刑を」という生な気持ちも当然の部分があるかもしれない。けれども、加害者が変わっていかない限り、犯罪とその刑事罰という事実が残るだけで、何の希望も残らないことも確かである。
「池袋通り魔との往復書簡」の中で印象に残ったのは、アメリカにわたった造田君がポートランドの教会で日本人の親身な世話を受けて、コミュニケーションもとれなかった精神状態の彼が心を開くようになっていたというところ、(その時の知り合いは「今の造田君は初めてポートランドで会った時のようです。8月の中頃には、笑顔を取り戻したのに、また失ってしまいました」と言っている)、それと今年2月の最後の手紙の末尾で、「私の高校1年の時の担任の先生にいろいろあって連絡がつきそうなので手紙をできたらもらおうと思っています。学生の時の私のテストの点の事とか聞けたら聞こうと思っています」というところである。じゃあ、担任の先生って、今まで彼に連絡も何にもしてなかったのかよー。それってわれわれも知ってる先生じゃないのか、もしかして。 

2002/3/27■ 続「ホットロード」論修正


昨晩、寝る前まで「ホットロード」論の修正(4章など)をやっていたが、頭の中が興奮して、朝の3時に目が醒めてしまう。そしてそれから2時間かけて、とても久しぶりに「ホットロード」全巻を続けて読んだ。
あらためて、この物語の広がりと豊かさに感動する。この中には、どんな批判も不可能なほど完全に完成された一つの世界が描かれている。こういった作品を描き切ることのできた作者の存在を考えざるをえない。
そして同時に、自分の「ホットロード」論の貧しさも感じざるをえない。もちろん、作品そのものと、それについての文章とは別のものだろうが(それにしても…)。
かつてぼくは、「ホットロード」の延長でもその否定でもなく、それに対抗し得る世界(補角的世界)を作り出すことを自分の課題だと考えたが、その点はいまだにまったく考えが変わらない。しかし、それはぼくが実現できるのだろうか。「ホットロード」について考えると、自分の人生の意義そのものを考えることになる。
しかし、なぜそうなのだろうか。

2002/3/26■ 浜寺漕艇場(堺市・高石市)の野宿者を訪ねる


野宿者を訪ねるシリーズは(明日の生玉公園はぼくは用事があるため)今日の浜寺漕艇場で終わり。釜ヶ崎から自転車で1時間あまりかかるここは、漕艇場と高速湾岸線の間に2キロほど続く茂みで、約30から40人がテントを作っている。車がひっきりなしに通っていて、やたらうるさいし空気も悪い。
何人かと話をしてみる。62才の人は、アルミ缶集めをしていて、西成のアルミ屋にしょっちゅう持ってきていると言っていた。この人はもともと天王寺駅近くのガードで暮らしていたが、工事で追い立てにあい、流れ流れてここまで来たと言っていた。いまや、野宿しようにもテントを作るような場所はわずかしかないらしい。
そのお隣は、今年10月で65才になるという人だった。やはりアルミ缶集めているが、この人は西成には行ったこともないと言う。この近辺で生活苦に陥り、ここで野宿生活になったということだ。しかも心臓が悪くて、アルミ缶も他の人の半分くらいしか集められないとか。ビラを渡して、仕事の話よりも福祉で生活保護とかの相談に来ませんか、と言っておく。でも、この人も福祉の話には浮かぬ顔だった。「まあ今はともかく、体調が悪くなって、これはいかんと思ったらいつでも来てください」と言っておく。
この1週間、野宿者を訪ねてあちこち行ったが、どこの人も初対面のわりには大抵えらく愛想がよかった。持ってく話が悪い話じゃないからだろうが、しかし野宿者=変人説は、どこに行っても間違いであることは確められる。ふつーの人である。

2002/3/25■ 大泉緑地公園(堺市)の野宿者を訪ねる


野宿者を訪ねるシリーズで大泉緑地公園へ。釜ヶ崎から車で40分から1時間かかるこの公園は長居公園より広く、湖みたいな池もあり、林あり森ありと大変広大。たくさんの桜も満開に近い咲きぶりで、西成とは別世界だ。
ここにも、大体80人くらいの野宿者がいた。とはいえ、公園の面積に比べれば少数で、そんなに目立たない。そこを、何人かでひたすら歩き回り、話をしていく。
全体には、30代から70代まで、年齢層はばらけているようだ。収入源は、ここでもアルミ缶が多い。それと、粗大ゴミ集めがここではかなりあるらしい。一人などは、粗大ゴミで月に10万は稼げると言っていた。さすがに、野宿者の層が薄いところでは廃品回収にもうまみがある。この人は野宿歴は15年で今62才、そしてテントで猫を15匹飼っていた。こういう生活スタイルは西成近辺ではまずありえない。当然この人は、特別清掃の仕事には興味なしだった。
ぼくが話した中では、74才の人もいた。閉まったテントに「西成の反失業連絡会のものですがー」と声をかけると、弱い声で「なにー」とか言っている。話していても本人が出てこないので断って中をのぞくと、布団にくるまって蓑虫状態になっていた。「痛風が出て動けない」と言う。まずいと思って「救急車でも呼びましょうか」と言うと、「いや、4、5日で直るんだよ」と言っている。持病のようで、対策はあるらしい。この人、たまには西成にも来るというので、「キリスト教の施設なり組合なりNPOなりどこでも行ってみて福祉の相談してみては」と言った。すると、「でもまだアルミ缶集めでやっていけるから、いいよ」と言っている。はたから見てると、そんなこと言ってる場合ではなさそうなのだが。
ちなみに、ここにも特別清掃の登録をしている人が何人もいた。自転車で1時間半かけて通っているそうだ。われわれの仕事には、大阪府全域から野宿者がやってきていることになる。

2002/3/24■ 関口宏の「サンデーモーニング」(だっけ)


金曜から沖縄のともだちが来て、日曜の昼までうちに泊まる。彼は小学校のときの楽団仲間で、そのときのティンパニー奏者だ。高校では、中西圭三とやってたバンドに彼も2年の時に加わった。そのときはドラマーだ。ちなみに、今は沖縄で社会保険労務士をやっている。
朝は、テレビを見てゴロゴロしていた。関口宏のこの番組は雰囲気がぬるいので嫌なのだが、まあ他よりマシみたいだったのでしばらく一緒に見ていた。番組の最後になって、日本人は四季の感覚が失われているという話題をやっていて、大学教授による中世以来の日本人の四季感覚についての話なんかの後、隅田川沿いの桜並木が画面に映るなか、パネラーのみなさんが「今のこどもはどーだ」「野菜の旬もどーだ」みたいな話をしていた。
ところが画面をよくよく見ると、隅田川沿いには野宿者のテントがいっぱい並んでいるのだ! ともだちと2人で、「おまえら、こっちのテントを見ろよー」とか「野宿者の問題の方がよっぽど大変だろー」とテレビに向かって口々に言って、あきれ果てた。
やっぱり世の中では、野宿者の問題より、四季の感覚がどーしたとかいう話の方がずっと重要なのだろうか? この人たちの感覚の方が、わたしらにはさっぱりわからないのですが。

2002/3/21■ 「ライラ・シリーズ」「ゲド戦記」


昨夜、今年初めに最終巻の翻訳が出たフィリップ・プルマンの「ライラ・シリーズ」を読み終える。カーネギー賞など多くの賞をとり、「現代児童文学で最も重要な作品であり、必ず古典になるだろう」「20世紀最後の大ファンタジー」とまで言われた作品。日本語版では3冊で、合計1600ページの大作だ。
さて、これはそれなりにおもしろかった。1600ページも読む気をなくさせなかったのだから、当然、悪い本ではない。「ハリー・ポッター」の場合は、第一巻を読んだらあとはもうまるで読む気力がなくなったのだから、ちがいは歴然だと思う(ちなみに海外では、「ハリー・ポッター」がオッフェンバックのオペレッタなら「ライラ・シリーズ」がヴァーグナーの楽劇、みたいな評価があるというが)。
でも、これも読んで本当によかったかと言われれば、「読まなくても惜しくはなかったかな」とも思う。
あらすじを書いても仕方ないが、パラレル・ワールド、真理を教える計器、別の世界への通路を切り裂く短剣、そしていろんな天使、魔女、人間と一体の「ダイモン」などなど、いろんな要素がてんこ盛りで、ストーリーも「息もつかせぬ」急展開で読ませる。背景としては、「失楽園」「創世記」があり、結構神学的だったりする(あまりにアンチカトリックなので、教会は怒ったとか)。でも、読んだ結果としては、「それなりに楽しめました」の一言で終わってしまうのはなぜなのか。
ぼくは児童文学は好きで、話題になった作品は読むようにしているが、ここ何年もこれという作品を読んだ覚えがない。というか、「時間と金を返せ」と言いたくなるようなのばっかりという気がする(ぼくのセレクトが悪いのか?)。でも、マンガとアニメに関しては、興味深い作品が続々と出ているので、やっぱり今はアニメとマンガの時代ということなのかもしれない(ゲームもおもしろいのがいろいろあるらしいが、なにしろ時間と金が…)。「ライラ・シリーズ」の場合も、「新世紀エヴァンゲリオン」や「千と千尋の神隠し」と比べてどうかなあと考えると、やっぱりアニメの方が100倍おもしろいし衝撃的だと思う。
この何年か読んだ児童文学で素晴らしかったものを考えると、やはり、3巻まで出たあと18年をおいて出たル=グウィンの「ゲド戦記」第4巻に尽きる。
3巻までについては、河合隼雄がよく書いているように「自己」と「影」とか、「真の名前」とか、あるいは「魔法を使うためには己を知らなければならない」みたいな人生教訓がちりばめられた、ユング心理学によく合うようなよくできたファンタジーという感じだった。確かによくできてるが、でもなんか空疎な本だな、というところである。これだけだったら、「ライラ・シリーズ」みたいに「児童文学の名作」というところで、まあどうという本ではない。
しかし、数年前に最終巻を読んでぶっとんだ。お話自体は前巻のすぐ続きなのだが、物語の世界観そのものが完全に変化している。まず、大魔法使いで大賢人だったゲドが、力を使い果たして普通の人になって現れる。そして、何もできなくなった自分を恥ずかしがって落ち込むのだ(!)。瀕死のゲドを助けるのが農夫の未亡人のテナーで、彼女は、強姦され火に放り込まれケロイドをもつ少女テルーと暮らしている。最後には、ゲドとテナーはいわゆる内縁の夫婦になる。
物語は基本的にテナーの視点から語られるが、第3巻までの「戦記」が神話的で叙事詩的、つまりは高貴なお人の冒険話だったのに対して、第4巻はひたすら地上的である。そしてその視点から、第3巻までの世界観ほとんどすべてが相対化され冷ややかに批判される。例えば高貴な魔法使いたちのものの言い方に対して、こんな風に言われる。「みんな、礼儀正しいこと、とテナーは思った。だれもがそれぞれに尊き身分を持って、おじぎをして、お世辞を言って。(…)テナーは自分が野蛮人であるような気がしだした。人あたりのいい彼らの前で、こちらはいかにも粗野だった。(…)ただ、どうして男たちはこの世界を仮面舞踏会にかえ、女たちもどうしてこう、いともたやすくその舞踏を踊るようになるのか、そのことに驚かないではいられなかった」。その他にも、ここでは女の話を無視する男たち、母親のテナーに無自覚にひどい態度をとる息子など、読んでいるこちらの耳が痛くなるような話が一つ一つ描写される。また、この物語の中では、ひどい暴力や虐待が描かれるのだが、最後にテルーが重要な役割を持ってテナーとゲドとを救い、物語はほとんどぶっきらぼうに突然終わる。
この第4巻には、それまでの叙事詩の延長でありながら、そこでは決して描かれることのありえなかった現実の生々しい傷と、そこから現れる希望とが描かれている。それは、いったん読んだら、死ぬまで忘れられないような奇妙に強い印象を読者に残す。「ゲド戦記」第3巻までと、そこから18年を隔てたこの第4巻の間には、一体どのようなことが起こっていたのか。いろいろな意味で、児童文学の枠を大きく越えた生々しく素晴らしい物語だ。

2002/3/20■ 久宝寺緑地公園(八尾市)の野宿者を訪ねる


昨日の続きで、久宝寺緑地へ行く。ここはかなりだだっ広い公園。
ビラまきの前に、駐車時間の確認に公園事務所に行った人が、事務所の人間から情報を聞いたところ、109のテントがあって、夫婦もいるので111人が野宿しているという。事務所の人間はこちらの話を聞いて、「それはありがたいです! 仕事があったらここから出ていく人もいるでしょう。お願いします!」と言っていたらしい。と言っても、仕事ったって月に3回くらいしか当たらないのだから、出ていけるわけがない。
ここも大体、みんなアルミ缶集めで生計を立てている。不思議なのは、場所は思いっきしあるのに、すごく小さいテントが多いこと。遠慮しているのか、あるいは公園事務所から何か言われているのだろうか? 
何人かと話していったが、「遠いからなあ」という反応も多い。こちらは「梅田の方から通ってくる人もいますよ。金が入ったら帰りは楽でしょう」などと勧める。中には宴会しているグループもあった。さすがにできあがった酔っぱらいには何言ってもダメである。適当に切り上げてビラを渡しておく。なんせ数もないし、半分のテントは留守なので、20分で終わってしまう。
金曜日も別の場所に行くわけだが、全体としては野宿者の暮らしというのはどこに言っても変わらないみたい。しばらく前に、「釜ヶ崎パトロールの会」の梅田地下街の夜回りに参加させてもらったことがあるが、やはり全体の印象は「どこでも似たようなもんだなあ」という感じだった。ただ、釜ヶ崎から離れるにつれて、「日雇い労働経験者」が減っていくというパターンがある。日本橋、難波、心斎橋という狭い範囲でさえ、その点かなりのちがいがある。

2002/3/19■ 大阪城公園・中之島の野宿者を訪ねる


特別清掃の労働者の登録更新期にあたり、今年も大阪市各地の野宿者を訪ねてお知らせのビラを配る時期になった。18日は大阪城公園、今日は中之島、明日以降はまた別の場所へ繰り出して、55歳以上の人を対象に「こーゆー仕事がありますよ」と知らせて回る。
普段は、どこにしても「ああ、野宿してる人がいるな」とは見て思うが、さすがに用もないのに話しかけたりはしない。だから、これは各地の野宿者の様子を知るいい機会である。
例えば、大阪城公園。ここは700人近い人がブルーシートでテントを作って野宿している。こんもり茂った森の中にいっぱいテントが拡がる光景はなかなかすごい。ここは、反失業連絡会の大阪府庁を攻める野営闘争のとき、時々ビラをまいていた。現在、「釜ヶ崎医療連絡会議」や「勝ち取る会」が継続的にかかわっている。
ここでまず印象に残るのはテントがゆったりとでかいこと。四角公園だの日東公園だのの狭い場所と比べ、空間はいくらでもあるから、ひろびろとした作りができる。何人かと話したが、みなさん収入は「アルミ缶集め」でだいたい一致している。ということは、この近辺はとんでもない過当競争になっているはずだ。
年齢的には、妙に「52歳」の人が多かった。それに、釜ヶ崎と関係なく生活している人も多い。そして、比較的最近ここに来た、という人が多い。実際、釜ヶ崎近辺で公園から追い出しにあったとき、大阪城公園に来る人は多い。なにしろ場所はまだまだ一杯あるから。というわけでここはこれからも野宿者が増え続けることでしょう。最後に炊き出しなどをやっている「友の会」の方々に挨拶して帰る。
今日は中之島へ(ここは「釜ヶ崎パトロールの会」が毎週、朝まわりをやっている)。河川敷にずらっとテントがならんでいる。やはり何人かと話したが、年齢は結構バラバラで、一人28歳の人もいた。55歳以上の女性も2人いる。他に、空堀の商店街で野宿している人が一人いて、「誰もこんなビラとか持ってこないよ」と言っていた。この人、64歳で、ガンになって大阪市総合医療センターで生殖器を全部切ったそうで、更に転移して最近また手術したという。今でも下半身が相当痛むとか。「生活保護受けなよーってみんな言うんだけどさ、空き缶集めでなんとかやってるから、やれるまでこれでいくんだよ」と言っていた。しゃべりはむしろ陽気だったが…。
もちろん、以上の話はぼくがまわって見聞きした、つまり一部区域での情報である。
というわけで、この話題は明日に続く。

2002/3/15■ ミニマリズムからテクノ・ミニマリズムへ
             南Q太の「ゆらゆら」、魚喃キリコの「南瓜とマヨネーズ」とか



カゼの治りかけは音楽を聴くのが調子いいみたいで、alva notoの「transform」(2001)やFENNESZの「Endless Summer」(2001)を聞く。
FENNESZの「Endless Summer」は、デジタル・ノイズの轟音とアコースティックなギターサウンドが合体し、融合していく夢幻境のような世界。タイトルといいそれっぽいジャケットといい大笑いなつくりだが、作戦としてはうまくいっているかもしれない。つまり、「音響派」とか「テクノイズ」などと言われる音楽が、同時にノスタルジックなギターサウンドとある時は融合し、あるときは離反しながらかつてなかった別世界を作り出していく。ジャケットの「thanks to」のところにはジム・オルーク、ピモンなどこの分野の有名人がいっぱい入ってて感心するが、これは玄人受けする内容でありながら同時に万人受けするというラインを狙って成功したものかもしれない。とはいえ、「それがどーした」という感じがするのも確かだ。可能性の一つとしてはいけてるが、これが新たな「音」の段階を作り上げていくものとも思えない。むしろ作戦があまりにあざとくて、その意味で厳密には「退行」ですらあるのではないかとも思う。全体として、非常におもしろいアルバムであることは確かだけれども。
alva notoを初めて聞いた。サイン波などのデジタル音、デジタル・ノイズのみによって構成された音楽は、異常な清潔感と「ポスト・ヒューマン・ファンク」とも言われるリズム構成が合体して、聴かせるに足りるかつてない音楽を作り上げている。その意味では、テクノ・ミニマリズムとして一緒に言われることのある池田亮司とやはり非常に近いのかもしれない。池田亮司は普段はクラシックばかり聴いていて、バッハ的な厳格な構成の音楽をやってみようとして結果としてああいう音を作ったみたいな事を言っている。そして、その音楽が「音楽の零度」と言うべき簡素な構成美をギリギリに滑走しているのに対して、alva notoの方は、実は禁欲的でもなんでもないのかもしれない。むしろ、手持ちの「音」を総動員して直感的に自分の美学をあっさり作り上げている、という感じすらある。しかし、結果としては、異様な美学的完成度と徹底したテクノロジカル・ノイズに集約された音楽になっている。
先に、ライヒの「フォー・オルガンズ」に触れて、ここにはミニマリズムの当初にだけあった音楽上の新たな発見の喜びが2度とないような形で収められているみたいなことを言ったが、現在、こうした「現在進行形」の動きが感じられるのは、このテクノ・ミニマリズムあるいは「音響派」とか言われる方向なのかもしれない。ジャズはもちろんのこと、ロックの方も、今これといったものがないような気がするけれども、これは単にぼくが無知なだけなのだろうか。今年出たナイン・インチ・ネイルズのライブアルバムはさすがによかったけれど、他に聴きたいロックアルバムといっても思い出せない。その他で言うと、中世、ルネサンスの音楽はこの10数年、新発見や新解釈、新アーティストの登場が続々なされていて聴かせるCDが多いので、ぼくは多分このジャンルを一番多く聴いている。
そう言えば、今年になって、一部で話題になっているフランスのGELの「ー1」を聴いた(日本盤あり)。「音響派」の流れに乗りながら、数え切れないほどの仕掛けやアイデアを詰め込んだ、おそろしくポップな仕上がりのアルバムである。これでアーティストは23歳とかいうのだから驚いた。とはいえ、ポップといえば、ぼくにはオヴァルで充分にポップである。オヴァルは、「オヴァルプロセス」という、それに適当な音をインプットすれば、誰でもオヴァルの音楽をアウトプットできるようなソフトウェアを開発している。つまり、「どこでも誰でもオヴァルを作り出せます」ソフト。もちろん、これがウォーホルの発想の音楽版であることは明白だ。唯一性の美学を音楽作成の場ですら徹底的に破壊し、原理的にはすべての「音」と「音楽」がオヴァルになりえる。しかし、結果としてその姿勢が、逆説的に空虚な「真理」と「唯一性」を体現してしまう。事実、オヴァルの全編がほとんどノイズからなるアルバムを聴くと、ひたすら聴き入ってしまうのはなぜなのか。おそらくはインプットされた「音」に対してある種の「プロセス」が作動してアウトプットの「音」が放出されるというむしろ単純な作業の反復なのだろうが、そのアウトプットは、ガラスに走る「ひび」のように不規則的に変化し、予想不可能な形で絶えず揺れ動き続ける。ちょうど、ウォーホルの作る作品の反復が見る者の眼をくらませる思いをさせるように、オヴァルの音は、聞き手の聴覚を「音」の中にひたすら引き込んでしまう。構築的な美学とは対極の(そしてミニマリズムとは違った形の)「反復の強度」がここには働いているのかもしれない。ただ、オヴァルのCD全編にわたってこの強度がみなぎっているかというと(アルバム「オヴァルプロセス」とか)、幾分疑問なところもある。
詳しい人が見たらおわかりだろうが、ぼくはこれらのアーティストによる作品はまだあまり聴いていない。というのは、こうしたCD自体が手に入れにくかった。タワーレコードとかで捜しても、見つかるのはそんなにないのだ。それが、クレジットカードを作ってインターネット通販という手段ができたので、いろいろ聴くことができるようになった。店にない輸入楽譜(クープランのクラヴサン曲集第2巻とか、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」とか)もあっさり手に入るし、ネット通販は少数派向け商品(つまりマニアックもの)のお客にはありがたい発明である。


南Q太の「ゆらゆら」や魚喃キリコの「南瓜とマヨネーズ」を読んだ。どっちも数年前の作品。なぜかどちらも、今彼と元彼(や新彼)との間で揺れる思いを(だから「ゆらゆら」か)描いている。それぞれ、さすがに読ませるし楽しめる。けれども、結局これってただの「風俗ドラマ」じゃん、という気もする。
南Q太はかつて、10代の目線から、肌のにおいのするようなすがすがしいまでに思いっきしなセックスを描いて、読者の女の子たちに「読むとセックスがしたくなる」と言わせたものだ。だが、作者本人が「私の描く主人公にしてはめずらしく、明るくて元気。気に入っている作品です」と言う「ゆらゆら」の主人公は、ぼくには精神的「おばさん」にしか(中年の女性の方、ごめんなさい)見えない。「南瓜とマヨネーズ」の方も、なんというか、四畳半フォークソングの香りである。どちらも自分の体験がある程度反映しているのかもしれないが、「BLUE」のようなはりつめた緊張感と叙情は、やはり一瞬だけのものなのか。この緊張のない「ドラマ」ぶりは、ほとんど紡木たくの「瞬きもせず」第2巻以降を思い出させる。

2002/3/12(夕)マイケル・ティルソン・トーマスらの「春の祭典」他





カゼがややよくなってきたので、夕方からマイケル・ティルソン・トーマスらによる「春の祭典」2台ピアノバージョン、ケージの「3つのダンス」、作曲者自身が参加したスティーブ・ライヒ「フォー・オルガンズ」のCDを聞く。これは1972、1973年に出た2枚のLPが今年になって(1枚にして)初CD化されたもの。
ともあれ、マイケル・ティルソン・トーマスがこの頃こんな事をやっていたということもちょっと驚きだが、内容はほとんど凄まじい。
「春の祭典」は、これが世界初録音だという。「春の祭典」2台ピアノ・バージョンと言えば、2000年に出たトルコのピアニスト、ファジル・サイによる話題盤があった。多重録音による一人二役、おまけに内部奏法で打楽器や弦楽器のアルペジオを「再現」した鮮烈かつ激烈な演奏だった。それに対してトーマスらによる演奏は、2人のピアニストによる楽譜通りの真っ向勝負の演奏になっている。確かに、サイのような音響上の冴えはない。しかし、むしろ聞き手のすぐ横でピアノが動ききしむのが感じられるような迫真性を持ったものとなっている。
サイの多重録音が、オーケストラの音響をかなりの部分追いかけることを主眼にしたスタイルになっているのに対して、こちらは確かにその点「落としたアレンジ」に聞こえるのは致し方がないだろうか。しかし、この演奏の長所は、その「音の薄さ」と裏腹の「抽象性」にある。事実、特にオーケストラの演奏では時に冗長にも聞こえることのある「第2部」が、このピアノ版ではその骨格がくっきりと描き出されてしまう。その結果として、聞き手は事実として「春の祭典」を聞きながら、ほとんど別の曲を聞いているかのようなショックを受ける。そして、聞き終わった後に残るのは、「春の祭典」のダイナミズムと旋律構造(リズム構造ではなく!)の簡潔な映像である。そして全体として、2人のピアニストの苛烈なまでの正確な演奏は「凄い」としか言いようがない。
ケージの「3つのダンス」は、2台のプリペアド・ピアノの曲。演奏の苛烈さは変わらないが、やはりここでは曲のおもしろさが際だっている。実際、タワーレコードに行ったとき、ちょうどこの曲を店内で流していて、「これは」と思ってすぐこのCDを買ったのだ。ガムラン音楽を強く思い出させる内容だが、演奏の剛直さが曲のファンキーな部分を強化していて、聞き手はほとんど躁状態になるだろう。それにしてもこの曲はケージの30代のもので、シェーンベルクのところで「和声法」とかの勉強をしていた時期から遠くはないわけだ。にもかかわらず、「3つのダンス」は完全にヨーロッパ音楽の伝統から切断した「アメリカ現代音楽」になっている。師弟関係にあって、これほどの切断は音楽史上(ジャズ、ロックも含めて)どう考えても他に例がないだろう(これはヨーロッパとアメリカのちがいか)。
さて、作曲者自身が参加したスティーブ・ライヒの「フォー・オルガンズ」(24分強)はどうか。この曲は、ずっと鳴るマラカスを背景にして、4台のエレクトリック・オルガンが、同一の和音のパターンを弾きながら、その一部の音を少しずつ少しずつずらしていく、という構造になっている。ともあれ、マラカスのあとにオルガンが最初のパターンを始めたその瞬間から、聞き手は演奏から発散する確信の強さと喜悦とに圧倒されるだろう。つまり、ここにはミニマリズムの当初にだけあった音楽上の新たな発見の喜びが、2度とないような形で録音に収められているのである。その意味で、これは時代の空気を封じ込めたかけがえのない「記録」となっている。
曲を聴いていくと、和音のパターンのわずかなズレが延々と進行していく中で、聞き手は「音」の変化、「時間」の経過、「リズム」の変形に次第に注意を引き寄せられることになる。そして仕組まれた形の中で、聞き手は「音」が、そしてその「変化」が、自分の目の前で初めて生まれ出ているかのような思いをすることになるだろう。つまり、聞き手はそこで「音」と「変化」をまったく新しく「発見」したかのような感動を味わうことになる。
これが、ミニマリズムが音楽にもたらした最大の効果の一つであることは言うまでもない。音楽史の中で、さんざん使い尽くされた「音」そのものを、新たな形で、今生まれ出たかのように「再発見」すること。ミニマリズムの発明したパターンの「差異と反復」は、そうした「再発見」のためのほとんど天才的な発明だった。
しかし、このCDを聞いていると、やっぱりミニマリズムはフィリップ・グラスの大作「12パートの音楽」あたりで終わったんだなあ、と思わずにはいられない。これ以降、ミニマルの作曲家たちは、ミニマリズムの発見を元にして、むしろ「個性」的な作品を作る方向へ向かい始めるからだ。もちろん、その中にはライヒの「ケイブ」をはじめとする傑作も数多くあるのだが、それらは「巨匠の芸」「総合芸術」みたいにも聞こえないでもない。グラスになるともう、「ミニマリズムの要素を持った華麗な音楽」みたいな感じである。ミニマリズムの可能性は、やはり70年代初頭に尽きたのだ。そして、このCDは、この可能性が現在進行形で実現されていた時代の空気をあふれんばかりにたたえている。たとえ現在、この曲をライヒ自身が指揮して再度録音したとしても、この「空気」は再現不可能だろう。他の「現代音楽」の演奏家にとってはなおさらである。
ぼくはたまに、CD(など)の価値は、そこに封印された「空気」で決まるのではないかと思うこともある。そして、このCDにはそのかけがえのない「空気」が一杯に詰まっている。特にクラシックの場合、こういう録音は滅多にお目にかかれない(なお、価格は税込み1335円)。

2002/3/12■ カゼになる


金曜の日中、暖かくなったり寒くなったりでなんか調子が悪いなーと思っていたら、土曜(9日)の朝にはかなりキツい風邪になっていた。
この前いつなったか憶えないくらい、最近は風邪には縁がなかったのに! 体中が痛くて頭が痛くて鼻水が止まんなくて気分が悪い。予定は全部キャンセルしてひたすら寝ている。
土曜の夜は夜回りがあって、野宿者問題の授業を聞いた生徒が一人継続して来ていたが、彼女は翌週には家族ともども東京に引っ越して4月から東京の大学に行くということだ。それで、9日には日本橋周りのメンバー4〜5人で夜回りのあと送別会をやろう、ということになっていたのだが、それも出られなくなった。仕方ないので、夕方に本屋で本を2冊買い(マンガ一つと文庫一つ。題は極秘)、夜回りの集合地点に行って彼女に渡して、すぐ帰ってきた。
夜回りと言えば、この冬はカゼがはやっていたが、野宿している人のうち3分の1がカゼをひいてゴホゴホいっている、ということがよくあった。カゼは部屋で布団に寝ているだけでもキツいのに、真冬に毛布1枚2枚で辛抱しているのだ(カゼぐらいでは市更相=福祉事務所の釜ヶ崎出張所は施設を紹介しない)。そんなでは直るものも直らないわけで、おそろしいことだといつも思う。
今日も調子が悪いのでここまで!

2002/3/4■ 「ホットロード」論修正・魚喃キリコ


ここ数日、「ホットロード」論第1章の修正をやっている。完成させたつもりだったが、最近読み返してみると文章がよくないので、苦しみながら直し続けている。
1990年冬に始めたこの文章は、これで12年目ということになった。「ホットロード」連載中(1987年頃)にも短いものを書いたりしていたから、結局この物語のために自分の人生のかなりの期間を費やしている。
なぜ完成しないのだろうか。再び取りかかって痛いように感じるが、この文章はぼくにとって他の文章と意味が全くちがう。一言で言えば、他の文章の場合は考え方を新しく作り出そうという志向において「前向き」だ。「ホットロード」論の場合は、完璧に完成された他人の作品に対して自分の関係を作り出すものである以上、もちろん意味がちがう。だが、それ以上に「ホットロード」論は、ぼくにとって自分の半身を埋葬する作業だったのだ。生きていこうとするなら焼き尽くし、葬らなければならない自分の「半分」を、文章によって固定し対象化してしまおうとしていた。そしてその間、ぼくの中の時間は10年以上、完全に停止してしまっていた。
だが、今あらためて文章を修正していると、いまだに「ホットロード」という作品を自分が完全には対象化していないということを感じる。「どうしても書けない」という無力をこれほど感じるのは、この文章の他にはない。とにかく、この程度の文章がなぜ完成できないのか、自分でもわけがわからない。
そう言えば、「ホットロード」論を完成させたら、その前文として紡木たくへの「手紙」を書くつもりでいたのだった。いつ死ぬかわからないのだから、そろそろ書いておくべきだろう。


ところで、マンガ家で、「ホットロード」の影響を被った上で、自分のカラーを作り出したという人がいるんだろーかとたまに考えていたが、いた。魚喃(なななん)キリコだ。
インタビューを見ると、彼女は「ホットロード」にハマり(雰囲気と言うより画面の構成だと言っている)、その後、岡崎京子の特に「ピンク」にハマった、と言っている(となると、ぼくと同じパターン)。そして彼女は「blue」のようなマンガを描いて人気を得るわけだが、「blue」の場合、それは「濃い海の上に拡がる空や 制服や 幼い私達の一生懸命な無器用さや」「あの頃のそれ等が もし色を持っていたとしたら それはとても深い青色だったと思う。」という言葉で始まる。これが、「夜明けの蒼い道 赤いテイルランプ 去ってゆく細いうしろ姿 もう一度 あの頃のあの子たちに逢いたい」という言葉で始まる「ホットロード」の直系であることは、実際に作品を読めばよくわかる。
「blue」は、高校3年の女子生徒同士の恋愛を描いている。そこでは、人間が他の人間を好きになるという出来事が鮮烈かつ痛切に描かれていて、読者はそれを読むと、ある種のせつなさが迫って胸が一杯になるだろう。作者自身は、女性同士という関係について「女子高にいると、友情と愛情の違いがわからなくなるって感覚」という言い方をしている。事実、セックスなしでキスだけなので、松浦理恵子の「ナチュラルウーマン」みたく、「レズビアンの話」というくくり方はしにくいかもしれない。しかし、教育関係者がかつて(今でも?)よく言った、「それは閉ざされた場所での疑似恋愛で、社会に出れば(男女の)本当の愛があなたを待っています」みたいなごまかしは必要ないだろう。「blue」に描かれた2人の関係は素晴らしいもので、それを「疑似」という言葉で語ることに意味はないからだ。要するに、恋愛に型をはめて語ることは必要でもないし可能でもない。そこから振り返って「ホットロード」での「族」での和希と春山の関係を見ると、こっ恥ずかしいほど古典的なロマンスのようにも見える(実際にはそんな単純ではないが)。少女漫画の描く恋愛は、少年漫画(あるいは「男流文学」)の描くステレオタイプな恋愛観をはるかに越えて様々な可能性を現実化してきたが、多分「blue」は「ホットロード」の影響を受けた上で、その一つの可能性を実現したわけである。
しかし、この「blue」も1997年発行だから、もう5年前の作品だ。時の移り変わりは早いです。最近、魚喃キリコが何描いているか知らないので、読んでみなければ。ここ1〜2年の少女漫画で圧倒的によかったのは、よしながふみの「西洋骨董洋菓子店」だったが(タッキー主演の冴えないドラマになりました)、その他に何かいい作品は出ているのだろうか(そう言えば、「西洋骨董洋菓子店」の神田エイジは「爆統」という暴走族にいたことになっているが、これって「ホットロード」に出てくる族「漠統」と関係あるんだろーか)。評価の高い矢沢あいの「Paradise Kiss」は、確かにいいけど「もう一つ」と思ったが。


魚喃キリコのインタビューを引用。(【Internet Magazine PiC】


──

じゃあ、ちょっと戻って、新潟にいた高校生の頃とかはどんな影響を? 世代的には、紡木たくさんの時代ですよね。

魚喃

私、今も好きですよ。文庫で『ホットロード』を買い直して読んだりしてるくらい(笑)。

──
あの繊細な感じ?
魚喃
いや、そうでもないんです。確かに感動もするんですけど、それよりもコマ割りとかモノローグの使い方とか、マンガの描き方として。あれは、とても少女マンガらしい少女マンガだと思うんです。紡木さんには絵から入って読んでるんで

──

たしかに魚喃さんの作品には、モノローグ多いですよね。

魚喃

岡崎京子さんの影響もありますよ。一時期、岡崎さんに狂ったぐらいにのめり込んだことがあって。

──

その頃岡崎さんの作品で好きだったのは?

魚喃
『pink』! あれでビックリして。それまでは、紡木たくさんが好きで、少女マンガをやろうと思ってたんです。だけど、岡崎さんの四角と四角を組み合わせたようなコマ割りにビックリしたんですよ。それがカッコイーって思って。

──

で、本格的に“魚喃節”が全開というか、作品の完成度が増したのは、2作目『blue』。

魚喃

あれは、高校時代から、いつかマンガ家になったら絶対に描きたいと思っていた作品だったんです。

──

魚喃さんの実体験が元ネタ?

魚喃
かなり誇張してるんですけどね。女子高にいると、価値観が変になっちゃって、ああいうのが全然不思議じゃなくなるんですよ。友情と愛情の違いがわからなくなるって感覚。女友達を束縛したいけど、女社会で女しかいないから、みんながライバルみたいに思えて、それで恋愛感情と勘違いするとか。
──

けっこう具体的?

魚喃
ええ。好きな人がいたんですよ。最初顔で一目惚れして「こんな男いたらいいなー」って思ってたんだけど(笑)。
女子高は女の子ばっかりで、3年間同じだと飽き飽きするんで、最初冗談で「好きな子ができたー。レズデビュー!」とかって笑ってたんだけど、だんだん自分で言ってるうちに自己暗示にかかって、冗談じゃすまなくなってきて(笑)。

束縛心が出てきたり、「他の子と喋るな!」みたいになったりして。で、結局自分が気持ちを打ち明けたら、向こうも「実は私も」ってことで、つき合うことになったんですよ。でも、いま考えると、あれってホントに好きだったって思いますけどね。

──
人前で手を繋いでみたり?
魚喃

いや、逆に友達同士だとすごいベタベタするんだけど、つき合ったりすると社内恋愛みたいに人前で隠すことがまた快感になっていくんですよ(笑)。


2002/2/26■ 下痢と私


土曜日の午後から腹の調子が悪い。夜回りのとき、出発の時からなんか痛いなーと思ってたが、まあ夜回りの最中はまだよかった。しかし、コースの終点に来たとたん緊張がとけたらしく、とんでもない激痛でほとんど動けなくなった! とても家まで帰り着けないので、必死の形相でなんでもいいから店を探して、こじゃれた喫茶店を発見して入り、「注文は後でします!」と言ってトイレに入って20分ぐらいうんうん言って、やっと楽になった。おかげでそれから飲みたくもないカプチーノなんか飲んで、やっと家へ自転車で帰った。
ところが、次の日もその次の日もなんか調子が悪いんだなー。日曜日は約束もあってSさんのところにまたお見舞いに行ったけど、自信がないので久々に必殺技の「正露丸」を使ってその場をしのいだ。でも、やっぱり深夜に腹が痛くなってトイレにこもった。いま火曜日の夜だけど、まだちょっとおかしい。
しかし、下痢はぼくの持病だ。小学生のときからちょくちょく腹痛を起こし、学校帰りに道で痛くて動けなくなってともだちハラハラさせるなど(笑ってるやつもいたが)、情けない思いをかなりした。そのころ読んだなんかの本で「犬、猫は腹痛のとき、草を食べて自力で直します」とあったので、それはいいかもと思って、腹痛の時に道ばたの草を食ったりしたけど、あれは逆効果だっただろうか。
中学生になると、「正露丸」にハマった。あれは、確かに劇的に効く。かの「買ってはいけない」によると、正露丸は「恐るべき漢方薬」とあってろくなもんじゃないという話だが、しかし困ったときにはホントに助かる。おかげで正露丸は肌身からはなせない必須グッズになってしまった。実際、正露丸は独特の魅力があるらしく、ぼくのまわりにもコアなファンも多かった。ともだちのともだちには、正露丸をキャンディのようになめて楽しむやつまでいたらしい。ぼくも、ともだちと「あったらいいもの」を考えて、「液体正露丸!」(正露丸ドリンク)とか「気体正露丸!」(正露丸スプレー)とか言っていた。しかしその後、これらは商品化されていないようだ(当たり前か)。
しかし、ぼくの下痢生活の今までのところ最大の山場は99年に突然やってきた。当時、釜ヶ崎では「赤痢」がはやっていた。問題は、もちろん「貧困」だ。100人近くが感染して強制入院させらせれ、センター解放やテント運営で多くの野宿者と泊まり込むぼくたちは、日々トイレを消毒したり行政に対策を訴えたりという日々だった。そんなとき、夜中に、ぼくはとんでもない激痛におそわれた。とにかくハンバじゃなく、寝ることもできない激痛だ。救急車を呼んでもよかったが、うちから救急車を使うと、大和中央病院という日雇労働者を食い物にしている悪徳病院に担ぎ込まれる恐れが強いので、無理矢理我慢して朝を待った。それで病院に行ったところ、医者は「あなたの便には白血球がきわめて多く、赤痢の疑いが強い」と言うのだった。それで、ぼくはいきなり救急車で運ばれ、大阪市医療センターの隔離病棟に担ぎ込まれた。ぼくの部屋には保健所から消毒隊がやってきて、部屋と共同のトイレを消毒して回ったという。大家になんと言えばいいのだろう(いまどき「赤痢になりました」と言って納得してもらえるだろうか?)とぼくは頭を抱えてしまった。
そうして入った隔離病棟の病室は、ガッチャーンゴッチャーンと幾つも頑丈なドアをくぐり抜けたところにあって、中はすごくいい設備のワンルーマンションみたいな感じになっていた。知らなかったら病室とは思えないくらいだ。しかし、ここの空気はすべて殺菌されて排気され、ぼくが使った食器は紫外線かなんかで完全殺菌されて外に運ばれるのだ。医者も看護婦も完全防護でやってくる。もちろん、入ったら患者は直るまで一歩も病室を出られない。ここでぼくは10日間過ごした。
生活自体は、2日目からはもう痛みはなかったし、あとは持っていった本をじっくり読んだり(アリストテレスの「形而上学」などを読み終えた)、CDウォークマンで音楽を聴いたり、あるいは震災のボランティアにも行っていたという中国籍の看護婦さんと話し込んだり、医者と釜ヶ崎の衛生問題について話したりと、退屈はしなかった、というかなかなかおもしろい経験になった。不便という不便は何もない。なにしろ、部屋から一歩も出ずに食事その他のすべてができる。たまに検査なんかもするが、そのときでも技師が機材を持ってわざわざ病室までやってくるのだ。気分はもう王様である。電話で沖縄など、あちこちのともだちとも話はできたし、シャワーもある(もちろん電話代は自分持ち。なお入院費用については、法定伝染病の疑いのため国家持ち)。でも、やっばり最後の頃はなんだか疲れて調子が悪くなってきた。ともだちと結婚してこどもを2人かかえている女性は「そういう生活、いいなあ」と言っていたが、誰であってもいいのはやっぱり最初の2〜3日ではないだろうか。なんだかんだいっても監禁生活なんだから。
この隔離生活は、医者の「赤痢は否決されました」という判断でやっと終わった(結局、急性胃腸炎だった模様)。ちなみにこの直後、赤痢は法定伝染病指定からはずされ、今では隔離病棟に入れられることはないらしい。もともと、赤痢は大して伝染力も強くなく、かかっても薬を飲んでいれば直るという。というわけで、今のところ、これがぼくの唯一の入院経験になっている。

2002/2/17■ 再びお見舞い


放火襲撃されたSさんへのお見舞い。今回は、野宿者問題の授業を聞き、最近は野宿者ネットワークの夜回りにも毎週来てくれている高校生が一緒。彼女が1000円くらいで花を詰め合わせた小箱を買い、おみやげにする。
病室に行くと、Sさんは水枕をして熟睡している。「こんにちは!」と声をかけると、「あー」で声が止まり、しばらくして「今日ぐらい来てくれるような気がしたよ」と言い、また寝入ってしまう。病気か?と思って隣の病室にいた看護婦さんに聞くと、昨夜は深夜まで眠れなくて、昼夜逆転してるんだそうだ。そこで、ほとんど無理矢理起こしてあいさつして、一緒に前回同様、車いすで談話室へ。
ところが、今回は寝不足のせいか、Sさんが何言ってんだか又もやよくわからない。2人で「え?」「何です?」とか繰り返して、なんとか会話になる状態だ。前回のお見舞いのことはよく覚えてくれているので、「この人は、この間来た人の生徒なんですよ」「(もごもごと)名刺をわたしてくれた人?」「そう、あの人が私の先生なんですー」という感じで話していく。今回は、両手とも包帯がとれていたが、片方は手の形が大きく崩れてしまっていて、痛ましい。片方の手も変形して、自由が利かない。高校生の彼女が沖縄に行ったときエーサー大会を見て、指笛がすごかった話をすると、「あー、指笛」と言うので、彼女が「Sさん、できるんですか」と言うと、手を上げて「こんなになって、もうできへん」と言う。でも、「今度、みんなで一緒に沖縄に行こうか」と言って、彼女も「ええ、行きましょー」と言っていた。依然、車いすでしか移動できない状態で、ほとんどテレビを見て一日過ごしているらしい。とはいえ、テレビ代がかかるので、そんなに見られないらしいが。検査その他も最近はないみたい。となると、すごく退屈かもしれない。しばらく話して、病室に帰り、あいさつをすると、「きてくれてよかった」とSさんは言っていた。彼女は、「そう言ってくれて、来てよかったと思いました」と言っていた。
ぼくは、来て様子を見るたびに、日常生活への復帰の相当の難しさを感じざるをえないので、気が重くなる。長期入院、長期療養は間違いないだろう。入院生活のつらさも感じざるをえない。それに、何度も来ておいて、突然来なくなるなんてことはいまさら絶対できないので、この人にかかわる責任のようなものを感じて、病院を出たとたん「くたー」という感じで異常に疲れに襲われてしまう。こーゆーのって、夜回りしていると感じざるをえない「無力感」と似ていないでもない。昨日、今日と疲れ気味で、心理的にも幾分下降状態なので、悲観的になっているのだろうか?
Sさんのお見舞いについては、今後も継続するので、もうこの「近況」では触れないかもしれない。


同日夜、ジェームズ・テニーのCDを初めて聞いた。1934年生まれ、「アメリカ実験音楽には、いくつかの流れがあるが、それらを一身に集め、統合する作業を通じて、独自の音楽的思考をつきつめた」(柿沼敏江)とされ、ケージが「もしいま自分が作曲学生であるなら、テニーに学びたい」と言った作曲家。すべて初録音の「ヴァイオリンとピアノのための音楽」のCDを見つけて、聞いてみた(Va・マルク・サバト、Pf・ステファン・クラーク、1999)。曲は1964年から1997年のものまで6曲入っている。1964年のものは、ここでは唯一サウンド・エフェクトを駆使した作品で、当時のブーレーズをはじめとするセリー音楽の達成した音楽的緊張と、アメリカ実験音楽の思考と方法との「間」というべき空間を作り上げながら、両者に匹敵する強度を作り上げていく。2曲目以降は内部奏法などもない比較的通常の現代室内楽とも言えるが、いずれの曲も、そのテンションの高さと方法的な緻密さと徹底性において、群を抜いた強烈な作品として成立している。一枚のCDで一人の作曲家を判断することは無謀だが、どうもこの人は現存する最高の作曲家の一人であるようだ。とにかく、素晴らしい内容。

2002/2/12■ 死語にしたい幾つかの「きまり文句」


最近、繰り返して耳や目にする「きまり文句」がある。
これは、はっきり言ってどーでもいい人(例、産経新聞の社説)のときも、味方の方の人のときもあるが、どっちにしてもかなり気になる。

命の大切さ
東村山の野宿者殺害事件のとき、犯行を行った少年たちのいた中学校の校長は、全校集会を開いて「いのちの大切さ」を訴えたという。いじめによる自殺があったときもほとんど必ず語られるこの「いのちの大切さ」という言葉の空虚さは、一体何なのか。
今回の事件の場合、少年たちは野宿していた鈴木さんにしかられて、その腹いせに仕返しを図ったという。おそらくその時、「ホームレスのくせに」という考えがはたらいていたのだろう。実際、一緒に少年たちを注意した図書館の職員には仕返しをしていない。しかも、1時間半にわたって暴行を繰り返したというが、一般の人にそこまでするかどうか。その意味でも、この事件は繰り返される野宿者襲撃の一つである。
したがって、問題は少年たちの簡単に人を暴行するに至る感性と同時に、野宿者への偏見にある。社会全体に浸透している野宿者差別を抜きにしてこの事件を語ることは、当然ながら出来ない。
ところで、「いのちの大切さ」という発想は、社会的差別の問題をすべて「流して」、「人間(生き物?)はすべて大切だ」という抽象論・博愛論にしてしまう。別の例で言えば、女性差別や外国人差別が問題になっているところで、「人間はすべて平等ではないか」(=同じ人間じゃないか)と言い出すようなものである。そんなことは、言われるまでもない前提(あるいは遠大な「結論」)なので、問題はその「人間」がなぜ他の人間への差別や偏見を捨てないのか、という具体的な「関係」の点にある。在日朝鮮・韓国人への差別がこども同士の間であったとき、日本人のこどもの一人が「朝鮮人だって人間じゃないか」と言ったという話を何かで読んだ。だが、誰も朝鮮・韓国の人が「人間じゃない」と思ってるわけないのだから、この言葉の意味は「朝鮮人といえども人間だ」というものでしかない。
例えば、かの中学の校長は、野宿者についてどう思っているのか。もしかしたら、あの言葉の真意は「(ホームレスといえども)いのちは大切だ」というものではなかったか(ありうる!)。だとすれば、この「いのちの大切さ」という言葉は、確信犯的な差別発言なのだ。要するに、社会関係について語るべき言葉がないために、あのような無意味な発言をするのである。「いじめ」の場合も(それにしても「いじめ」というヘンな言葉がなぜ流通しているのだろう。あれって虐待・恐喝・暴行って言うのでは)、同じ事ではないか。こんなに10年も20年も学校から陰湿、凶悪な虐待が消えない以上、学校の責任者はこどもへ「いのちの大切さ」みたいなあほな説教することを止めて、学校の改革か廃絶を真剣に考えた方がいいと思う。
(そう言えば、「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」という中学生の発言が話題になったが、これって「命の大切さ」という言葉のインフレ状態に対する過剰反応だったのではないか)。

こどもをしかることが大切
東村山の事件の1日か2日あと、銭湯で産経新聞を見たら社説でこの事件を扱っていた。まず、少年犯罪は増加し凶悪化している、というデマ(未成年の犯罪について書かれたまともな本を読めばわかるが、これは真っ赤なウソ)を冒頭に書いたあと、その原因は、大人たちがこどもをしっかり叱れなくなっていることだ、と言っていた。さらには、この事件は「人権問題」などではないんだとか。
さらに昨日、テレビを見ていると、この事件についての続報があり、犯人の少年の母親の証言があって、「わたしはあの子を叱ったことが一度もありませんでした」と言っていた。捜査員(だっけ)が「この事件については叱るんですか」と聞くと、母親は「どうしたらいいんでしょう。わからないんです」と言っていたという。さて、この話は、産経の社説の正しさを語っているのか?
おおざっぱな話としては、自分のこどもも他人のこどももまともに叱ることのできない大人が激増していることは確かだろう。こどもを叱るのって、自分の人格をかけてあらためてこどもに対するような面が強いし、そのあとのフォローもしっかりできないとダメなので、本当のところかなり大変である。つまり、人間関係に、かなり「免役」というか、傷つけたりそれを回復させたりといった経験量、それと覚悟がないとできない。ぼくは、地元の学童保育施設にボランティアやアルバイトでちょっとかかわっているので、幾ばくかのこどもや親を見てきたが、明らかにこどもをまともに叱ってないなと思われる親子はかなりいた。そういう場合、こどもは、なんというか、他人との関係がまるでとれなくて、普通の感覚から見ると(いわば)「宇宙人」のようになる。とはいえ、たいていの場合、不思議なもので、大きくなるにしたがってちゃーんと着地して「地球人」になっていく。多分、家以外の場所で人間関係を学んでいくため。
ところで、そういう常識をはずれたこどもの親は、「叱ってない」親だけではない。むしろ、虐待すれすれか、もしくは本当に虐待しているらしき親のこどもも、人間関係能力がどこかずれてしまっている。もちろん、「叱られていない」こどもとはかなりそのタイプはちがう。そして、児童虐待が最近急増していることは、周知のことである。
「最高裁の調査によると、集団で凶悪事件を起こした少年の多くには共通した傾向が見られたという。親からのしっ責や圧力、過剰な期待のため常に緊張していたり、自分に自信が持てず過度に仲間に同調する、いじめられ体験といじめ体験の両方がある、学業不振など で学校生活に敗北感や疎外感を抱いている、などだ」(読売新聞のこの事件に関する社説)。
要するに、親のこどもに対する態度は、いまや「虐待」と「叱れない」との方向に二極分解しているもののようなのだ。こういった状況で、産経の社説の言うように「こどもを叱ることが最も大切」などという説教をまともに適用すると、今度は「虐待」の方向に大勢が一挙になだれ込む、といった事態になりかねない。「叱れない」と「虐待」とは二極分解であるようで、こどもとのコミュニケーションの致命的欠落という意味で、意外に近いのかもしれない。要するに、産経の社説は、現実の複雑さを見ないで自分の「思いこみ」をしゃべっているだけである。
では、こうした二極分解がまずいとすれば、それを「昔のように」、うまいこと正規分布的に「中庸」が一番多いようにならしていけばいいのか。しかし、家族関係の変容は不可逆だろうから、もはや後戻り的な方法は期待できないと思う。「サザエさん」ちみたいにやっていくことを全員に期待するわけにはいかないのだ。いまさら過去の家族像に救済を求めても無理だし、そもそも(それこそ戦前の日本的な)封建的な家族が本当によかったのかどうか非常に疑問である。現在の二極分解は、こどもとのコミュニケーションの回復を前提として、全体としては、もはや新たな家族像を構築するところにしか出口はないのではないか。
(それから考えても、「サザエさん」の未だに続く超高視聴率は不気味だ。あれって、いつまで続くんだ?)。

野宿者は家に帰ればいい
「仙台市建設局道路管理課は、昨年11月15日に仙台駅西口中央地下歩道を夜間閉鎖し、そこで寝泊まりしていた10人以上もの人たちを、事実上、排除しました。そのうち三人は行く場所もなく、現在も、閉じられたシャッターの外側で、風が吹きすさぶ中、寝泊まりしています。 私たちはこうした状況を見かねて、12月25日に抗議をし、このメールの最後に転載する要望書を渡すために仙台市建設局道路管理課に行きました。このやりとりの中で、道路管理課の係長Tは、「私は封建的かもしれないが、ホームレスは駄目だと思う。ホームレスは家に帰るべきだ」という先入観に満ちた問題発言をし、残る他の駅前地下道の出入り口も、夜間閉鎖するのは時間の問題であるという排除予告をしました」。(仙台夜回りの会)

野宿者に「家に帰れ」と言うのは、今後もますます無茶なものになっていくだろう。
韓国、沖縄の経済事情は、日本本土よりも悪かったりする(沖縄の失業率は本土の2倍)。にもかかわらず、韓国、沖縄は野宿者はそう多くはない。特に沖縄は、多分十数人しかいない。この原因は、おそらく家族のきずなが大変強固なためである。困ったときには、親族が応援するという伝統が生き残っているので、野宿に至るようなことは少ないらしい。
経済・社会現象は欧米←日本←韓国という感じになっているが、では欧米ではどうか。ホームレスは、アメリカでは40〜80万人、フランスでは40万人程度である。特に、ヨーロッパでは10代、20代の若年層が野宿の最大の層になっている。
仮に日本でこういう若いもんが野宿していたら、たいていの人は「親は何やってんだ」と思うだろう。「家に帰れ」である。でも、基本的に欧米では、若者は働きだしたら親の家からは出ていくという常識が確立しているので、野宿になったからといって親に依存するということはないらしい。家族に個人の「福祉事業」を託すようなことはしないし、もはや「できない」のである。
その意味で日本は、欧米と韓国の中間を行っているし、今後もますます欧米の方向に行くかもしれない(いわゆる「パラサイト・シングル」や「親元同棲」といった日本独特のノリがあるので、ちがう方向もあるかもしれない)。もちろん、個々の野宿者のケースでは、家族と連絡を取って、家族のもとでの再出発みたいなことは可能なこともあるだろうが、全体の層としては、ますます家族に頼ることは不可能になっていくのではないか。その意味でも、「市場の失敗」「国家の失敗」「家族の失敗」(富永健一「社会変動の中の福祉国家」中公新書)あるいは「失敗」というより「変容」の結果としての野宿者問題の解決は、係長T氏の言うような「封建的」な方向ではなく、新たな「市場」「国家」「家族」の創造の中で行われるべきだろう。

2002/2/10■ 倉敷市における野宿者の状況


倉敷のともだちと電話で話す。小学校のときの楽団仲間で、そのときのトランペッター。90年暴動のときには東京から駆けつけ、一緒に日雇労働にも行った彼は、いまはガーデンデザイナーだ。大学は駒沢の法学部で、学校を出てから測量の仕事などをしていたが、数年前に会社をやめて「ただちに」(何の勉強もしてなかったのに!)ガーデンデザインの仕事を始めた。初めてのお客との話し合いのとき、「これこれこういう風にしたい」と言う客に、彼はうんうん頷きながら「そういう風に言われるお客様、多いんですよ(一般には)」とか言っていたという(もちろん、カッコの中は心の中で言う)。で、いまではそれで充分食っている。人間はなんとでも生きていけるんだなあと、彼を見てると思わずにはいられない。
ところで、今日の彼の話の一つはこう。最近、倉敷でも野宿者が増えてきた(数年前までどう見てもゼロだったのに)。福田公園っていう大きな公園でも十数人だかが生活していたらしい。そこで、倉敷市は去年、排除に乗り出した。「で、どうやったと思う?」「(ぼく)うーん、大体見当はつくけどなあ、周辺工事とかなんとか理由をつけて……」「いや、それが倉敷市がやったことっていうのが、なんと、公園の水道を全部止めちゃったんだよ!」「え?」「で、いた人はみーんないなくなっちゃったんだよ」。彼は、「ムチャクチャやるよ、まったく」と言っていた。
地方都市では野宿者問題など未経験ということもあってか(何の解決にもならない)手荒な技を使うことが多々あるらしいが、この倉敷市のやり方は、まさしく「殺す気」である。「殺人行政」という言葉はあるが、ホントに「水を止める」とはやることがちがう。だいたいあの公園は、まわりに人家などあまりないはずだ。一応、未確認情報だが、日本中がすごいことになっているのだろうか。海外で、難民の排除のために「水を止める」なんてことしたら、世界中で非難ごうごうなのではないだろうか。でも、倉敷市はやってしまうのである。おまけに、問題にもならないのか。

2002/2/1■ 夜間中学で授業を受ける


11月26日のところで触れたが、特別清掃に来ている人で夜間中学に行っている人がいた。あれからもたまに仕事で一緒になって話をしていたが、今日、一緒に天王寺夜間中学に行って来た。
中学への30分ほどの道々、話していたが、この人61歳で、もともとはパンの職人をはじめいろんな仕事をしていたが、「自分の名前もろくに書けない」ために屈辱的な思いを大分したということだ。なんとかしようと思って、去年の4月から学校に行き始めたという。少年時代、両親がいなくて、施設で暮らしていたので、学校へはろくに行けなかったとか。年代的にもそういう時代だったのか。
釜ヶ崎から中学校までは歩いて30分ぐらい。途中でアベチカ(阿倍野の地下街)でラーメン定食なんか食った(おごり!)。天王寺中学校という公立中学の中に、夜間中学がある。ぼくたちが着いたときは5時半で、まだ生徒がいっぱい残ってサッカーや吹奏楽なんかの部活をやっていた。中学校の放課後、夕暮れのあの雰囲気だ。
前に聞いた話では、夜間中学の生徒は、天王寺中学で500人(!)。国籍は22、3カ国にわたる。一番多いのは当然韓国、朝鮮の人で、珍しいところではタンザニアとかのアフリカの人もいる。クラスは12組ある。1組は「あいうえお」からで、12組で普通の中学レベル。歩いていると、実際、タンザニア人らしき人がいた(ホントにタンザニア人かどうか、確かめなかったので定かではないが…)
まず職員室で担任の先生にあいさつなんかして、見学の許可をいただく。5組に行くと、ごく普通の教室だ。入ると、みなさんが「こんにちはー」と挨拶してくださる。なんか、和気藹々(わきあいあい)の雰囲気かなあ。生徒は全員で15人らしいが、ぼくのいた間は8人ぐらいだった。
前に話したときに、この人は「学校ではおれが一番年下だよ!」と言っていたが、確かにそんな感じかも(もっとも、20代、30代の人もいるそうだ)。そして男は2人だけ。在日朝鮮・韓国の人が半分ぐらいだったみたい。かなり障害のある人も、電動車いすで来ていた。学校から、勉強の補助をする人が、すぐつきそっていた。
最初は学活(ホームルーム)で、60ぐらいの男性の担任の先生により、今度の日曜の各地の夜間中学との連合作品展の打ち合わせ。「会場が大変狭いので、弁当は簡単なものにしましょう」と先生が言うと、「大変やなー」「おなかすくやんー」と、反応がポンポン返ってくる。
で、次の時間は「国語」(「日本語」とはなぜか言わない)。20代ぐらいの女性の先生による「文を読む」という内容。要するに、このクラスではみなさん、しゃべりは全然問題ないのだが、漢字と、ひらがなもちょっと苦しい。それで、比較的簡単な長文を何度も先生のあとについて読んで、内容を確認することになる。それで、例えば「南の国」は「みなみのくに」と読みます、これが「南国」と書くと、「みなみくに」と読まずに「なんごく」と読みます、というように。同じクラスでも学力差があって、ぼくと一緒に行った人はかなり文章の読解はできていた。でも、返してもらったプリントを見せてもらうと、「ぶんしょう」の「ょ」がでっかい「よ」になっててバツになってたりして、苦戦のあとがうかがえる。理科のプリント(教科書は存在しない)もあったが、こちらは人体の名称がメインのもので、これはぼくがテストされたら半分もわからない(だって、心臓の「左心室」とか「右心房」とか、日常生活では普通、言わないじゃない?)。
授業の雰囲気は、先生がやる気があって、生徒のみなさんとの授業の間のコミュニケーションもとれていて、こういう学校の存在に意義を感じてやっていることが強く感じられる。当然ながら、みなさん勉強熱心だし、受験みたいな競争のプレッシャーもないし、学校というもののある方向での基本形という感じはある(対して、いまや大半の「学校」はこどもにとって、抑圧施設か、所得格差の世代間拡大装置となってしまっている!)。とはいえ、たかだか1時間では、うわっつらしか見ていないことだろうが。
授業時間は9時まで。給食としては、小さなパンが2個と牛乳だけ。ぼくと一緒だった人は、自彊館の6時からの晩飯は時間的に食えないので、かなりキツいと言っていた。この日は、「国語」のあと、「家庭科」(縫い物とか)「美術」(墨絵とか)があったが、ぼくは1時間でおいとましてきた。帰り際、給食のパンと牛乳まで、なぜか頂いてしまった。
「学校に行ってると気分が変わるでしょ」と言うと、「そりゃそうだ。自彊館の狭い部屋でじっとしてるよりずっといいよ」と言っていたが、確かにそうだろう。雰囲気いいもの。それにしても、こういう学校が自分のとこの近所(自転車で15分以内)に今までずっとあったというのも、なんだか不思議な感じがする。

2002/1/26■ お見舞い・襲撃・夜回り


11月25日いらい久しぶりに、放火襲撃にあったSさんのお見舞い。12月24日に触れた釜ヶ崎学習会メーリングリストでお見舞いの希望者を募ったところ、5人が申し出たので、この日に都合のいい人2人(YMCAの野宿者問題授業の担当の先生など)と同行する。
Sさんは、2ヶ月ぶりということで回復はしてきていた。車いすに乗って談話室に行く。今回ははじめて話もはっきりできた。初めて知ったが、石垣島の出身で、馬の調教師をやっていたんだそうだ。それで、本土(ヤマト)に来てから、あっちこっちに行ったという。北海道はだいたいどこでも知っているとか。
事件からあと3日で半年になるわけだが、やけどの後遺症は相変わらずひどい。片方の手はいまだ包帯でぐるぐる巻きで、かたまってしまって動く期待はないという。反対の手も、指がいうことをきかない。胸全体のやけどもかたまってしまったまま。いずれ転院するだろうが、退院するのはいつのことか。そしてどこへ行くのか。Sさんは初対面の2人にも終始気持ちよく対してくれ、別れ際には「今度はいつ来てくれるの?」と言ったりしていた。今回は帰りに、以前に野宿者ネットワークの夜回りなどに参加してくれていた、この病院で働いている看護婦さんとも久しぶりに会った。
そうして家に帰って夕刊を見てみると、でっかい記事で少年たちによる集団暴行で野宿者死亡の事件が載っている。なんだかもう、うんざりしてしまう。
「25日午後11時40分ごろ、東京都東村山市美住町1丁目のゲートボール場に寝泊りする路上生活者から『仲間の一人が少年たちから暴行を受けた』と近くの交番にとどけでがあった。警察官が駆け付けると、男性が頭から血を流して倒れていた。男性は病院に運ばれたが、まもなく死亡した。警視庁少年課は傷害致死事件とみて東村山署に捜査本部を設置、少年たちの行方を追っている。調べでは、男性は住所不定、無職鈴木邦彦さん(55)。全身に打撲のあとがあり、胸の骨が折れるなどしていた。同署によると、鈴木さんはゲートボール場の隅にある屋根付きのベンチに寝泊りしていた。同日午後9時20分ごろ、自転車に乗った少年数人が現れ、休憩所のベンチで寝ていた鈴木さんを起こして裏の空き地に連れ出したのを、近くの路上生活者が見ていた。少年たちは、そこで約1時間半にわたって鈴木さんに暴行を加えたらしい。一緒にいた路上生活者は『少年たちは3〜5人で、中高生ぐらいのようだった』と話しているという。」(朝日新聞)
(27日夜の報道によると、26日に中学2年生4人が親に付き添われなどして警察署に出頭した。近所の図書館で騒いで、鈴木さんや図書館の職員に注意を受け、それの逆恨みだという。一人が尾行して鈴木さんの居所をつきとめたらしい)

そのあとの夜回りでは、YMCAでの授業に出ていた高校3年の女子生徒も前週に続いて参加して、日本橋をまわってくれた。バングラデシュなどとのフェアトレードにかかわったりする彼女は、日本橋にはジャズの中古CDを探しによく来るんだって。夜回りが終わったあと、日本橋を回った5人でモスバーガーでお茶して、ネットワークの夜回りの「おにぎりなし、夜8時から」のスタンスなどについていろいろ話をする。
昼のお見舞いといい、野宿者問題の授業は、終わったあとでも持続的に活動にかかわってくれる人を作ったという点でも、意味があった。しかし、こんなささやかな活動も、ひき続く若者たちによる野宿者襲撃、殺害という激烈な暴力の前では限りなく無力に近いような気もする。お見舞いしてもやけどのあとは元にもどらないし、夜回りしても死んだ人は生き返らない。

2002/1/21■ 新宿の爆発物事件


今朝、19日にあった新宿の爆発物事件の報道をあらためてテレビで見た。新宿中央公園でふたを開けると爆発する「消火器型」爆弾が植え込みに置いてあり、それをゴミ箱の横で開けた野宿者の佐々木さん(53)が左手、左足をふきとばされたという事件。最近他にも2件の爆発物事件があり、関連が疑われている。被害者は現在も意識不明の重体で、ICUに入っているという。
事件当日は、公園で「炊き出し」とフリーマーケットがあった。無差別テロと言うべきだろうが、場所柄から言っても、犯人は野宿者が箱を開ける可能性が相当に高いと考えたはずだ。
テレビでは、コメンテーターが「こどもや女性がさわっていたら大変なことになっていましたねー」と言っていた。そりゃーそーだけど、「被害にあったのが野宿者だったら大変じゃないのかよー」と、つい言いたくもなる。そう言えば、こういう場合に必ず言う「被害にあわれた方の様態が心配です」という言葉は、ぼくが見ていた限りでは全然誰も言ってなかった。多分、心配していないんだろう。その代わり、犯人のプロファイリングはどの局でも異様に熱心にやっている。
被害にあった人は、公園の野宿者の中でもリーダー的存在だということだ。大変な重傷で、心を痛める他ない。

                              ●

22日朝に届いた「東京路上生活情報メールマガジン」(tokyo homeless news 第1・第3・第5火曜日発行)に、新宿で爆弾事件の被害にあった佐々木さんの情報があったので以下に引用。
ない ない なんにもない
なしの実 なしのつぶ
なしが なければ
なすが ある
なすか なさねば
なにかある ような----
なすいため なすやき
なきをみる なすのわさびづけ
なすのおしんこ
なしのかんづめ
なしの花 なしのたね
なんにもない もんだいだ
なしにつめがない もんだいだ
 
 この詩は先日の中央公園爆弾事件の被害(手足切断し現在意識不明の重体)にあった佐々木義美さんが1997年1月に綴ったものです。現在の路上文芸誌「露宿」の前身にあたる「ダンボール村通信」第2号の特集『ダンボール村強制撤去そして、一年…』に他の仲間の作品と共に掲載されたました。
 彼は96年1月の強制撤去事件の被害者の一人でもあります。「動く歩道」設置予定地とは直接関係のない地下通路に彼のダンボールハウスはありました。そこで知りあい、時には反発しあい、時には助けあいながら私たち、そして多くの仲間と共に彼は新宿で必死に生きてきました。青島都政による強制撤去事件でハウスをまったく不当に撤去された後、彼は追い出された皆と共に西口地下広場に移り100円本屋を営みながらかつかつの生計をたてていましたが、そこも98年2月の火災事故(4名の仲間が焼死)で皆と共に自主退去せざるを得なくなり、彼は緊急避難施設に入らない事を選択した仲間と共に中央公園に移り住んだのです。
 そして、再起への安住の地と思われた中央公園で不幸にも卑劣な犯行の被害者となってしまったのです。
 その風貌に似合わない繊細なそしてユーモラスな彼の詩には、彼の内面(おそらくそれはごくごく親しい人しか知りようがない)が見え隠れしています。そこに「村」があったが今は「なんにもない」空虚な構造物だらけの新宿四号街路を懐かしみ、諦め、そして怒る、そんな思いが伝わって来ます。
 
 新宿をこよなく愛し、新宿の受難な歴史を共に歩んで来た仲間がまた被害にあった。私たちの、この込み上げてくる怒りは一体どこへぶつけたら良いのでしょうか。」

2002/1/18■ 1審判決 


12月31日〜1月1日のところで触れた、造田博被告(26)への東京地裁での判決があり、死刑の判決が出た。
「両親が多額の借金の取り立てに負われて自宅を出てしまったため、高校を退学した以降、各地を転々として転職を繰り返した被告人は不本意な仕事に従事せざるをえなくなり、他方で街中で見かける若者らの享楽的な姿を見て、生きるために努力しないと反発を感じ、このような人がいるから自分が正当な評価を受けないと感じるようになった」「努力しない人間に対する無差別殺人を行って世間を驚かせ、自分を認めさせようと考えるに至った」(判決要旨)という内容が悲しい。
両親は今も行方不明。地元の民生委員らは、減刑を求める1800人分の嘆願書を提出していたという。

2002/1/17■ 「いす取りゲームをどのように変化させていくべきか」


YMCAでの授業「野宿者襲撃について」と「野宿者の将来と若者」では、就労と失業の状態を「いす取りゲーム」で喩えた。そして、この競争社会の比喩としてのゲームをどのように変化させていくべきかという問いをたて、その解のモデルとして、いすを分け合う「ワークシェアリング」を出した。この話は、生徒たちや先生には好評だった模様。
しかし、この「解」は、言うまでもなく不十分だ。7日のところにも書いたが、それが「資本主義の補完と延命」ではないという保証はどこにもない。実際、ワークシェアリングで具体的になされる労働時間差差別の解消、社会保証などの法的立場の平等化は、寄せ場で言えば、春闘などによる賃上げ(労働時間差差別の解消)、日雇健康保険や日雇雇用保険などの諸セーフティネットの獲得(法的立場の平等化)などで現実になされてきた。にもかかわらず、日雇労働者にとって最も好条件だったバブル期でさえ、寄せ場から野宿者、路上死は絶えることはなかったのだ。しかも不況期には、日雇労働者の総野宿生活化という現実が待っていた。これは主に、日雇労働者が「景気の安全弁」として、不況期にまっさきにクビを切られるという事情によっている。つまり、現在期待されるワークシェアリングは、解雇を廃止し、それを労働者全体の労働時間短縮によって代えるという徹底的な段階まで進まなければ、フリーターをはじめとする不安定就労層にとっては解決策にはなりえない。しかし、それが大なり小なり、資本の市場原理と衝突するだろう事は確実である。つまり、ワークシェアリングが市場と共存できうる限りで成功したとしても、寄せ場の運動経験から推測すれば、不安定就労者の「層」としての危機は、資本主義経済の浮き沈みに連動しながら依然として続く。
しかもワークシェアリングは、なんだかんだいっても豊かな先進国である日本経済の国内問題の緩和策にすぎない。つまり、世界資本主義がもたらす「南北問題」に抵抗するものではまったくない。つまり、ワークシェアリングは当座の、そして局地的な解決策にすぎないのだ。世界経済と連動し、日本の社会と労働が大きくそのかたちを変えていく中で、すべての「不安定就労労働者」が強いられる差別と格差に対する闘いとして、ワークシェアリングはそれだけではあまりに不十分だ。
要するに、ワークシェアリングという「いす取りゲーム」の「いす」自体、市場経済内部のものでしかないからだ。その中で「わかちあい」をいくらしたって原理的には何も変わらない。
その点が授業の時以来ひっかかっていたのだが(授業では「ぼくはこれがベストとは思いません。ただ、現状よりはるかにマシなのは確かです」と言った)、しかしそれに代わる案もなかったのでどうしようもなかった。実際、まず最初に「いす取りゲーム」を前提してしまえば、解決策は「人を減らす」「いすを増やす」「いすを分け合う」のどれかしか絶対にない。そこで、行政による公的就労の獲得か、ワークシェアリングしかないということになる(「人を減らす」のは無理。将来的な人口計画としては重要だけど)。ところが、今日、仕事の休憩時間とかに考えてたんだけど、突然気がついた。つまり、ワークシェアリングがそういうものだとすれば、この競争原理から成る「いす取りゲーム」と平行して、別のルールのゲームによる別の「いす」を同時に作り出してしまえばいいのではないか。「いす取りゲーム」と同時に、場合によっては同じ「いす」を使ってでも、別のゲームを展開させてしまえばいい。
これは、最近読んでいるアルフィ・コーンの「競争社会を越えて」が参考になったが、ゲームには「競争原理」のものと「協力原理」のものと、2つに分類され得る。「競争ゲーム」は、相手が勝つか自分が勝つかという(ゼロサム)ゲームであって、要するに相手が失敗することを目的にゲームを行う。テニスや将棋・チェスが典型である。それに対して「協力ゲーム」は、競技者全員が協力し合って結果を高めることを目的とする。「蹴鞠」が良い例である。(しかし、例えば将棋にも実は後者の「協力ゲーム」の面が本質的に存在する。例えば羽生善治は「勝ち負けだけが目的だったら、ジャンケンでいいわけです」と言っている)。
「いす取りゲーム」が前者であることは言うまでもない。ところで、この市場原理にもとづく競争ゲームは、本質的に欠陥をはらむものでありながら、それを廃棄することは不可能であるように見える。だとすれば、それと平行して別の「協力ゲーム」を展開させ、走らせるわけだ。人は一つのいすだけでなく、別のいすにも座り得る。これに相当するものとして、有償無償のボランティア活動やその法人としてのNPO活動などがあり得ることは確かだろう。そして、その活動は、世界的な南北問題や、様々な社会問題に連続していくだろう。フリーターによるワークシェアリング待望論は、「自分の今の生活スタイルを守る」ものとして言われることがある。だが、むしろワークシェアリングは、「自分の生活スタイルをうち破り、様々な他者とつながり、新しい社会スタイルを作っていく」きっかけであるべきだ。つまり、片方のいすの比重を低めることによって、別のいすの比重を高めるということだ。これは、釜ヶ崎の日雇労働者(の年代)に特有な、「働いていないとダメ」なタイプの人にもあてはまる。(そう言えば、釜ヶ崎にフィールドワークしたあと、「みんなごろごろ寝ている」のを生徒が奇異に感じていたので、釜ヶ崎労働者がいかによく仕事をするかを話した上で、「あれは、会社では働き者のお父さんが、家ではごろごろしているのとちょっと似てるんですよ」といったら、みんな「ああ」と納得していたが、しかしそういう生活スタイル自体、問題といえば問題だろう)。
とても単純なアイデアだが、多分これはものになる。しかし、なんといっても細部の具体化が必要になる。

ついでながら、今日、B・A・ツィンマーマン(1918〜1970)のオペラ「兵士たち」のCD(コンタルスキー・1991)を聞き始めた。かつて「若き詩人のためのレクィエム」で驚嘆したが、この代表作とされる大作は予想を超えて異常な空間性とテンションとをはらんでいる。セリー音楽の語法を基本線にもちながら、それが一気に展開される中で、激しい感性の爆発と、多元的な空間の発生とが同時進行する。
自殺数年前の「若き詩人のためのレクィエム」は「リンガル(言語作品)」という副題を持ち、12音列による重低音の前奏が響く中、まずウィトゲンシュタインの「哲学探究」第1節の朗読に始まり、その後、1968年のドプチェクの演説、ヒトラー、スターリン、チャーチルの演説、「ユリシーズ」最後のモリーの独白、「フィネガンズ・ウェイク」、ビートルズの「ヘイ・ジュード」、ベートーヴェンの「第9」、ヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」などの引用が散乱する。結果は、1時間以上にわたり繰り広げられる動的かつ多元的な空間であり、それを貫く過激なエネルギーと異様な静寂との共存である。この「レクィエム」を聞いて以来、この作曲家に他にはない関心を持って他の作品も聞いていたが、「兵士たち」はこの作曲家の可能性をほぼ全面的に展開したもののように聞こえる。第1幕を聞いたが、これ、残りの幕ではどうなるんだ?

2002/1/12■ 越冬の終わり


きのうの夜回りと今朝までの布団敷きで、越冬闘争が終了した。ぼくは、野宿者ネットワークの夜回りの他、毎日やっている医療パトロールにもたまに出ていたが、今越冬では結局、夜回りの中で3人の死者が確認された。建物の間ですでに冷たくなっていた、具合が悪そうなので医療センター前の布団敷きの場所に同行し、救急車をよんだがその晩のうちに亡くなった、などである。すぐそばで人がみすみす死んでいくという寄せ場の現実は依然として変わらない。
越冬の医療パトロールは、釜ヶ崎地区内とその北側を回る。この場所でとくに死者が多いのはなぜなのだろう。ぼくたちが野宿者ネットワークとしてまわっている日本橋、阿倍野、難波・心斎橋では襲撃は頻発するが、すでに亡くなった人と出会うことはまずない。夜回りがおわったあと、医療パトロールの責任者の人とその点を話したが、「釜ヶ崎には死にに来ているんじゃないか、知り合いのいるところに」と言っていた。確かに、日本橋で寝ている人は、しっかりテントを作っていたり、ダンボールハウスを組んだりしていて、話を聞いても「毎日ダンボール集め、空き缶集めをしている」という人が大半だ。それに対して、釜ヶ崎地区内では、なんというか、泥酔状態だったり、どうしたらいいのか途方に暮れてしまったという感じの人が結構いる。いよいよ最後に釜ヶ崎に帰ってくるということは確かにあるのかもしれない。
ただ、ゆうべの夜回りでも、日本橋では毛布も何もなしで寝ている人がいた。布団敷きの場所に引き返して、毛布を取ってきて体にかけておいた。かけたら、目を覚まして「ありがとう」と言ってくれたが、どう考えても真冬に毛布なしでは大変やばい。しかし、他の場所でもそういう人はいっぱいいるはずだ。
実行委による越冬はこれで終了だが、翌日から釜ヶ崎キリスト教協友会による越冬が始まり、3月半ばまで続く。

2002/1/7■ 「NGO/NPOと連携した授業づくり」


野宿者問題の授業をやっているIHSの先生の紹介で、「関西国際交流団体協議会」の国際理解教育部会に出た。
「総合的な学習」の導入にあたり、貧困や環境破壊など、様々な課題に取り組んでいるNGOやNPOが教育現場から相談を受けることが多くなってきたことをふまえて、教員やNGO、NPO実施機関が国際理解の授業における実施の現状と課題について意見交換する、というもの。
参加団体は、例えばアムネスティ・インターナショナル日本支部関西連絡会や、日本国際飢餓対策機構、多文化共生センター、国際エンゼル協会、国際協力事業団大阪国際センターなど、そして中学校、高校の教師、それから市の教育センターからなど。
会議の内容は、自己紹介、取り組み事例、教育現場のニーズ、NPO、NGO、ODA実施機関のニーズなど。
はじめて参加したぼくとしては、いろんなことをやってる団体が来てるんだなー、とまず思った。資料もいろいろ出ていたし。ぼくは、野宿者問題の授業のホームページを印刷したものをみなさんに配っておいた。これについては、先生の一人から「こういう形で出ていると、こちらとしても内容がわかって依頼しやすい」と言われ、好評の模様。
会議の中ではいろんな話題が出たが、ちょっとおもしろかったのが「金」の話かな。「うちではいくらで授業のお話を受けてます」「うちの学校ではこうした授業のための予算枠がないのでこれこれしか出せない」みたいな話。例外的には1時間あたり1万円みたいな話もあったが、全体に1時間あたり最低で3000円程度が実勢価格で、「人件費、教材費などを考えると、これではとても長続きしない」という声がNGO、NPOの側からは多かった。確かに、文部科学省は「総合的な学習」の必要性を言っているわりには予算枠がはっきりしていないわけで、それはそれで確かに問題だと思った。そして、ある程度の金銭的な保証体制がないと、組織的な運営をしている多くの機関では、実際問題としてやっていけないという。
ところで、ぼくたちの授業の方は、交通費を別にすると1時間あたり1000円でやっている。こんな安いところは当然ながら他にはない。YMCAからもらった金額からすれば、実はもう少し金額は上げられる。しかし、釜ヶ崎の運動の常識から言って、これ以上の金額は考えられないのだ。それで、残金は何かのためにストックしている(個々に依頼の来る講演などは別会計)。
実際、ぼくは15年間釜ヶ崎にいて、その間かなりハードな活動もしてきたが、当然ながらそれはほぼすべて「ただ」(というよりマイナス)だった。ほとんど唯一、金になるのは山王こどもセンターのアルバイトだが、これも時給700円台の世界。したがって、時間あたり1000円だったら「え!そんなに!」ぐらいの感覚だ。それどころか、授業をやった人の何人かは「お金はいいわ」「運動体の方にまわしてくれ」と言ってきた。交通費さえ「請求してよ」と言っているのに、いまだに誰も請求しない。それがいいとも思わないが、ようするにこれが釜ヶ崎では「あたりまえ」だ。
というわけで、世の中の運動体と自分たちのいる釜ヶ崎の運動体とは、ここら辺については相当にちがう世界なんだなーとあらためて感じざるをえない。普通は金がなければどうにもならないが、ここでは金がなくてもなんとかしてしまうということで何十年もやっている。特に、よそでは一番高くつく「人件費」が、釜ヶ崎では事実上「ゼロ」なのが大きい。事実、炊き出しの食事と「ごろ寝」のテントだけを代償に、多くの労働者や活動家が(センター開放のときの布団敷きや市役所前の座り込みなどでの)徹夜の警備を何ヶ月も何年もやっていた。徹夜の警備なんか、人を雇えば普通一人あたり1万円以上かかるというのに。もちろん、こういった極端な事情も、NPOの発展などを契機に釜ヶ崎でも徐々に変わっていくことだろうが。
しかし、この会議で他のNGO、NPOとのちがいを最も感じたのは、それとは別のことである。金の話がしばらく続いた後、IHSの先生が「ぶっちゃけた話、NGO、NPOの側では授業に参加することにどの程度の意義を感じておられるのでしょうか」という質問が出た。で、「どうですか」とぼくのところに来たので、「野宿者に対する一般の差別と偏見、そして主に若者による襲撃が続いて、一般に向けてこうした授業などの働きかけをしない限り、もはやどうにもならないという現状認識があってやっています」。だから、たとえ「ただ」でも、オファーがあればやります、と言っておいた。他の団体も一通り答えたが、一般に「こどもたちの笑顔」「感想文のすばらしさ」といったやりがいがあるので、決して負担とは思わないという話だった。しかし、どこの団体も「こういった授業や啓蒙活動をしなければ、もはやどうにもならないのだ」という切迫感というか、緊急性、積極性はとりたててないのだった。しかし、考えてみれば、飢餓問題にしても、多文化共生の問題にしても、釜ヶ崎・野宿者の問題に劣らず、一般への啓蒙活動は緊急で死活に関わる課題だとしかぼくには思えないのだが。もちろん、ぼくたちも実際の授業ではそんな緊迫してイライラした話をするわけではなく、普通になるべくわかりやすい形でやっている。だが、少なくともぼくは、野宿者問題の授業は現状で絶対必要な運動上の課題だと思ってやっている。だから自分から授業の売り込みに行ったりしているのだが、他ではそういうことはしないようだ。しかし、(現代日本への)現状認識として、そういうものでいいのだろうか。
たまに言うことがあるのだが、寄せ場、野宿者の問題には、「1」資本主義の矛盾と限界、「2」国家=行政の責任、「3」国民=一般市民による差別・偏見、という3つのフェイズが重なっている。資本主義経済で強いられる「不安定就労から野宿へ」という構造的問題と、行政による野宿者問題の放置という政治的問題と、一般市民による無視・排除という倫理的問題である。釜ヶ崎にある諸運動体は、それぞれのスタンスでこれらのフェイズにかかわっている。例えば反失業連絡会は、主に行政闘争、現在では「特別清掃の拡大」「野宿者支援法の制定要求」という形で「2」を、釜ヶ崎日雇労働組合は主に労働運動として「1」を、という具合だ。そして、野宿者ネットワークは夜回り、交流会といった形で個々の労働者・野宿者の問題にかかわりながら行政闘争を行い、医療連絡会議は「医療と福祉」に的を絞りながら、個々の労働者・野宿者とかかわりつつ、裁判などを通して行政闘争を行う、というように。また、反失業連絡会が市民ビラをまき、越冬実行委員会が人民パトロールを行うのは「3」のフェイズにあたる。
しかし、現状の釜ヶ崎の運動は、基本的に「行政の責任」に重点をおいていると言ってよいだろう。「行政にきっちり責任をとらせる」というのがここ10年の運動のきまり文句だ。それはまあそうなんだけど、問題すべて「行政の責任」というのは、本当は無理な話だと思う。そして「資本主義の矛盾と限界」についての闘争は「もはや無理」という空気が濃厚で、(共産主義者だと聞く)活動家のみなさんも最近はこのフェイズについては何も言わない。個々の労働争議や、「市場主義の弊害」みたいな「分析」などはやっているとしても。そして、3つのフェイズの中で最も手薄だったのが、「3」の国民=一般市民による偏見・差別の問題なのは確かなことだ。これについては、小柳牧師、本田神父、入佐明美さんのような有名人が講演をたまにやる他は、上に触れたごくたまのビラまきや、釜ヶ崎キリスト教協友会のゼミぐらいしか活動はない。つまり、運動体としてのかかわりはほぼゼロなのだ。したがって、この点を運動として追求していく責任と必要が、釜ヶ崎にかかわるものにはあるはずである。
では、「1」の資本主義の矛盾と限界についてはどうなのか。どう考えたって、このフェイズを無視して寄せ場と野宿者の問題を考えるなんてことはできない。フリーターをはじめとする不安定就労層の劇的拡大を見せる現代日本の現実を考えれば、ますますそうである。おそらく、この矛盾と限界を最も集約的に示している(「釜ヶ崎は日本の縮図である」!)寄せ場と野宿者の問題にかかわる我々には、この点についてなんらかのビジョンを示す必要と可能性とがあるだろう。だが、この点はぼくにも今は明快なビジョンはわかないのである。授業では、失業の譬えとしての「いす取りゲーム」の話をして、いすをわけあうワークシェアリングの話などしているが、それが「資本主義の補完と延命」ではないという保証はどこにもない。

2001/12/31〜2002/1/1■ 中西圭三・カウントダウンライブ


高校の同級生でかつてのバンド仲間の中西圭三(レコード大賞作曲賞・紅白歌合戦出場)のカウントダウンライブが、うちのアパートから歩いて5分のフェスティバルゲートであった。夜11時から翌0時10分まで。なにしろ「無料」だから行くしかない。
8時頃ともだち3人でフェスティバルゲートに晩ご飯を食べに行ったときには、すでに熱心なファンが座って場所取りをしていた。とはいえ、20人ぐらい。それで、10時半にあらためて行ってみると、今度はもはや平地ではライブを見られる状況ではない混みようになってた。それで、3階のバルコニーに行ってなんとか「ちらっ」とステージが見られる場所を確保。それが下の写真を撮ったポイントである。中央やや右上の柱の向こうの白服の人物が中西圭三だ。



ライブが「ウーマン」から始まると「キャーッ」と歓声が上がり、あとは「You and I」「非情階段」などを歌い、だんだんテンションが高くなっていった。途中のしゃべりでは、9月の同時多発テロやアフガン空爆に触れて、「自分に何ができるかと考えるんですが、やっぱり根っからの歌好きですから、歌うことしかできないと思うんですね」とか言っていた。11時59分50秒にカウントダウンが始まって、0秒になると「ア・ハッピー・ニューイヤー!」と声を挙げ、「チケット・トゥ・ザ・パラダイス」「チュー・チュー・トレイン」で盛り上がり、そして最後に「タイミング」を歌ってしめた。中西が消えてからも、「アンコール」の声がしばらく続いていた。で、お客の大半が帰った最後の最後に再び中西圭三は現れて、マイクなしのアカペラで「星に願いを」を英語で歌った。お客さんたちは喜ぶ喜ぶ。
ぼくとしては、何よりあの常時ゴーストタウン化しているフェスティバルゲートがかくも満員御礼状態になったのを見て驚いた。さすがの人気だ。考えてみれば彼の歌をたっぷり聴くのも久しぶりだ。「ウーマン」や「チケット・トゥ・ザ・パラダイス」を聞いていると、「なんか、なつかしいな」という気分にもなる。高校の時にはずっと、彼のバンドでキーボードを弾いていたのだったが。
彼とは何年かに一回くらい会うし、ごくたまに電話したりする。1ヶ月ほど前にも、「現代」に文章が載るのでよかったら読んでね、という電話をした。「そーかー。活躍してるねー」とか言ってたが、そのときはフェスティバルゲートのライブのことなんか一言も言ってなかったなあ(フェスティバルゲートがどこにあるのかも知らなかったのでは…)。
一番最近会ったのは、2000年5月の「群像」新人賞の授賞式の後だった。同級生たち数人と、あと同期受賞の小説の中井祐治君(当時20才)が中西ファンだというので一緒になり、レコーディングが終わってやってきた彼と合流して、深夜から朝までハンバーガー屋やホテルでごろごろしながらいろいろしゃべった。そこで一番熱心に話した話題は、1999年9月に起きた池袋通り魔事件についてだった。

1999年9月8日昼、池袋の繁華街の路上で、若者が歩行者を包丁やハンマーで襲い、当時29歳の主婦と同66歳の主婦2人を殺害し、6人に重軽傷を負わせた事件があった。その容疑者が、当時23才の造田博。我々と同じ高校の出身だ。
以下は当時の産経新聞より。
゛造田博容疑者は警視庁池袋署捜査本部の取り調べに対し、「社会に認められず、イライラした」と短絡的な犯行動機を口にする。高校時代まで「優秀でおとなしい生徒だった」(関係者)という造田容疑者が、「殺意のハードル」を越え、凶行に走った心の底流はまだ不明のままだ。/白昼の繁華街で無差別殺人を起こした造田容疑者。その生い立ちは、恵まれたものではなかった。/岡山県灘崎町で、腕のいい大工の父親と母親の間に生まれ、兄を含めた四人家族に育った。造田容疑者が中学校に通うころ、家族に不幸な転機が訪れる。「父親が体調を崩したことで、両親がパチンコ店に入り浸りになり、借金が膨らんでいった」(近所の住民)/両親は借金の取り立てから逃れるため、早朝から深夜まで家を空け、兄と造田容疑者が取り立てに対応していた。近所の住民は「そのうち、夜になっても電気もつけず、電話も取らなくなった」と話す。/平成三年、倉敷市の進学校、県立天城高校に進学。高校二年のころ、両親は「これで何とかお願いします」との書き置きを残し、二人の子供に現金一万円だけを残して失跡。造田容疑者は「毎晩、債権者が借金の取り立てに押しかけてきて、惨めな思いをした」。/造田容疑者は高校を中退。広島県にいた兄のもとに身を寄せ、塗装工や自動車部品製造業など七年間で六回も職を変えるが、「どの職場でも存在が認められず、不満だった」という。/今年四月に上京。東京都足立区の新聞販売店に就職し、同店の借り上げアパートで一人暮らしを始めた。数カ月トラブルもなく過ごしたが今月四日、「私以外のまともな人間がアホを殺している。私もアホを全部殺す」と無差別殺人を予告するメモをアパートに残して突然行方をくらます。/そして、八日正午前、凶行に及んだ。「仕事がいやになり、一週間前から人を殺そうと思うようになった」。大事件の動機としては、あまりに幼稚で、自分勝手なものだった。/造田容疑者は反省の色もなく取り調べに応じていたが、逮捕の数日後、被害者や遺族に「被害者に申し訳ないことをした」と初めて謝罪の言葉を口にした。/極端な思い上がりと自己中心的な性格のもとに起こされた事件だが、根底に少年時代が暗い影を落としているかもしれない。だが、息子が世間を震撼(しんかん)させる事件を起こしてからも、両親の行方はいまだに分かっていない。゛

事件直後は、我々の高校にもテレビ局から取材があって、それが相当のものだったらしい。ぼくも、テレビで自分のいた高校が写るのを何度も見て、「とうとうこういうことが起こったのか」と思っていた。これは直接ぼくが見たのではないが、テレビでは高校の当時の担任へインタビューをしていて、その先生は「だんだん学校に来なくなったと思っていたら、知らない間に退学していた」みたいな事を言っていたという(それを見た人は、なんて無責任だとあきれた、と言っていた)。
まあ、どこの地方の進学校もそうなのかもしれないが、うちの高校も完全に予備校化したところで、入学早々にテストをするわ、絶対にこなしきれないような宿題を毎日出すわ、日曜日に生徒全員をテストで呼ぶわ、本来ある「倫理・社会」は受験に関係ないと言って勝手につぶしてしまうわ、果ては日常生活の時間割を一週間分書かせて、ここはもっと詰めてここで勉強せよと指導するわと、なかなかやりたい放題の学校だった。中学校の雰囲気がよかっただけに、ぼくは入学してから驚くばかりだった。先生たち個人個人は別に悪人ではない(と思いたい)のだが、ともかく学校全体としては完全に非人間的な抑圧施設になっていた。実際、ぼくの担任の先生も、「みなさんが大学に受かることが第一の幸せだという考えで学校は動いている」と言ったことがある。この先生は、前年まで定時制高校で教えていた人だったから、多分、本当は納得できない自分にそうやって言い聞かせていたのかもしれない。
そういう学校だから、生徒もストレスが常にたまる。それで、たまの学園祭などで爆発して、羽目を異常にはずした大騒ぎをやることになる。ぼくが1年生のときには、学園祭のあと、数十人が近所の中学校の屋上で飲めや歌えの打ち上げをやって、一人が足をすべらせて転落死するという大事件が起きた。これは最もひどい例だが、それに限らずこの学校は、毎年誰か死ぬか死にそうな大事故が起きるということで有名だった。多分、この学校の受験第一の抑圧的な体質が生徒をそういうところに追い込んでいたのだと思う。(死んでしまった生徒はもちろんだが、友だちが目の前で死ぬ体験をした生徒たちのその後も気になる。クラスがちがえばそれはぼくだったかもしれないのだ)。ぼくも、宿題をしなかったからといって、職員室で何発も殴打され「学校をやめろ、親を呼んでこい」とか言われたりした。今だったらさっさとやめて大検でも受けるか、1年くらい読書三昧の日々をおくるかするが、当時はそういうことはできない雰囲気だったので、仕方なく毎日学校に行っていた。というわけで、今も、そこでの友だち関係は当然別として、この学校に関して「懐かしさ」とかのプラスの感情はまったく持ってない。というか、早いとこ壊して、永遠に消えていただきたい。
そのとき中西圭三が言っていたのは、「あの学校の非人間的な雰囲気が彼をああいうところに追い込んだという面があるんじゃないか」ということだった。ぼくも全く同感だった。家庭訪問ぐらい例えばしろよって話なのだ。大体、いまどき経済的理由で退学なんて話はまずない。そうして相談に乗っていたら、奨学金その他で何とかする方法もあったかもしれない。それに、あの高校では「退学」はほぼゼロなのだ。そういう結果になった彼の悔しさと屈辱は想像できる。
もちろん、人を殺してしまったら何を言ったって言い訳にはならないだろう。被害者、あるいは遺族の感情があるからだ。しかし、あのように結果になってしまった過程で、高校時代が彼にとってのターニングポイントになったことは疑いがない。その時点で学校の果たした役割については、相当の責任があるはずである。それは、この学校で3年間過ごしてきた我々には確実に想像できる。ぼくとしては、造田君のために何かしたいという気持ちもあるのだが、今のところ何もしていない。被害者の遺族の作った事件についてのホームページなども時々見るのだが、そうすると、やはりいろいろ考えてしまうのだ。中西圭三は、造田君のことを歌った曲を作ったと言っていた。事実、それはCDになっているが、どの曲かはここでは言わない。それにしてもこの県立倉敷天城高校については、どの人とも先輩後輩の関係なんてぼくはいっさい持ちたくないのに、造田君についてだけは後輩として気になるというのは、なぜなのか。多分、同じ被害者という気持ちがどこかで持てるからなのだろう。
現在、造田君は死刑を求刑されており、この1月18日に一審判決が出る。

ところで、この日は中西圭三に会わなかった。なにしろ、ライブのあとでもかなり客が残っていて、警備員がいっぱい出て退場口をガードしている。警備員に「おれは中西圭三の友だちだー!会わせろーっ!」とか言ってもあまり信用されないような気がしたし、もう眠かったので、やめといた。

2001/12/25■ 女性野宿者の情報・越冬の開始


12月18日の「寄せ場メール」で、新宿野宿者女性の会の池田幸代さんから、男女共同参画局が26日に開くNGOとの意見交換会のため、全国の女性野宿者を取り巻く状況をそれぞれの地域から教えていただきたい、というお願いがあった。それで、一緒に投稿しようと思って、たまに女性野宿者のケースのことで相談するNPO釜ヶ崎の松繁弓子さんに文章をフロッピーに入れてこちらにもらえるようお願いした。そして、今朝、それが届いたので次の文章を夕方に「寄せ場メール」に送った。


池田幸代様

釜ヶ崎の生田武志です。遅くなって、もはや間に合わないかもしれませんが、女性野宿者についての情報を送ります。
野宿者ネットワークの夜回りは大阪の日本橋、阿倍野、心斎橋、難波方面をまわり、そして交流会を西成公園、関谷町公園で行っています。
西成公園には3〜4組の夫婦がテントを作って生活しています。(一組は、今日始まった西成公園シェルターに入ったはずです)。
夜回りでは、ネットワークのメンバー全体で、過去1年間に10人程度の女性野宿者と話をしたと思います。年齢は30才程度から60才程度までにわたります。話をした結果、福祉経由で自活できるようになった方が一人いました。
その他は、話しかけても反応がない、夫婦で日本橋に野宿しているがどちらも50代で健康で、どうにかする策が思いつかない、相談に来てくれるよう連絡先を渡したがその後どうなったかわからない、などです。
また、心斎橋、難波には女性の野宿者が何人かいる、という話は顔見知りの野宿者から聞きますが、夜回りではみかけないようです。どこか、人目につかない場所で寝ているのかもしれません。
いずれにせよ、大阪の膨大な野宿者数からすれば女性野宿者は圧倒的少数ですが、年々徐々に増えていく傾向は見られます。そして、野宿に至った原因としては、失業と並んで夫の暴力、家庭内の不和などが大きいようです。
また、反失業連絡会とNPO釜ヶ崎が運営するテント、シェルターを、かなり通年的に夫婦の野宿者が利用していました(最近はどうなんだろう?)。
また、特別清掃の登録者には女性が数名いて、一人は60才で野宿生活です。この人とはかなりじっくり話をして、福祉の相談などしましたが、「自分でなんとかする」ということでした。この人の場合、出屋敷で5年ほどスナックで働いていたけれど、不景気でクビになり、今年の6月から道で寝ているということです。
身近なところでは、釜ヶ崎地区内で出会う女性野宿者も年に何人かいます。最近では、ぼくとか愛徳姉妹会のシスターとかが声をかけて、最終的にNPO釜ヶ崎を通じて福祉の適用や就職へと至るというケースが何度かありました。
釜ヶ崎で、女性野宿者にかかわっておられるケースが他にもあるかもしれませんが、情報が入っていません。
以下、NPOの会報に掲載された松繁弓子さんの文章を引用します。


はじめて野宿をした夜  2人の女性の場合  松繁弓子

■はじめてKさんをみたのは、事務所の前だった。歩いて2、3分ほど離れた生活道路清掃事務所へ特掃(高齢者特別清掃事業)の賃金の支払いに出かけようと、事務所のドアの鍵を閉めていたときだった。ひとりのやせた女性が、10mほど離れたところに立っているのはわかっていたが、支払いの時間が迫っていることもあって、ことばもかけずそのまま事務所を離れた。でも、やはり気にはなって、ふと、振り返ると誰もいなくなった事務所の前へゆっくりと近づいてゆく、女性の姿をみて、思わず走り出して事務所の前まで戻り、「30分ほどで帰ってくるので、またきてもらえますか?」と、声をかけた。「相談したいことがあるのです。」とそのときKさんはいった。
 広島市にあるヘルスセンターで住み込みの仕事をしていたKさんは、その月の初め職場を解雇され、わずかな所持金をもって広島を離れた。苦境を助けてもらおうと岡山の友人、和歌山の兄姉を訪ねたが、いずれも思いは叶わず、大阪に行けばなんとかなるだろう、と天王寺までやってきたとき、所持金が底をついた。広島をでて20日ほどたった頃だった。
天王寺駅周辺で10日ほど野宿をしていたが、そのとき、顔見知りになった男性から釜ヶ崎支援機構のことを知らされた、という。その夜、Kさんは夜間宿所(あいりん夜間臨時緊急避難所)に泊まった。 

はじめての夜間宿所
夜間宿所は事務所棟をいれて4棟あるが、その頃事務所棟のすぐ隣の2号棟に女性用のベッドが用意されていた。カーテンも間仕切りもないが、交代で警備にあたる職員の目の届くところなので、とりあえず安心して眠ることはできる。
 宿所にはじめて泊まった次の日の午後、浪速区恵美須町にあるクーラーのよくきいた喫茶店でKさんと1時間半ほど話をした。Kさんは、久しぶりにゆっくり眠れたこと、と洗濯ができたことを喜んでいた。宿所には洗濯機の設備はないが、洗剤は常備されているから、自由に手洗いで衣類の洗濯をすることができる。朝、5時。宿所をでるとき、ベッドの柵に干していた衣類は半乾きだったが、「前にある公園(三角公園)の柵に干したら、昼までには乾いていました。」とKさんは嬉しそうに言った。
野宿の状態から、寝床、シャワー、洗濯、食(乾パン)をなんとか確保できる、と考えたKさんは、「宿所にこれからも泊めてもらえるなら、宿所から仕事にいきたい。何か仕事はないだろうか。」といった。
 40代後半、長年つれそったご主人を亡くし、ひとりになったKさんは病院の付添婦など色々な仕事をしながら生活の糧を得てきた。健康で自分にあった仕事があるときは、ひとりで暮らしをたててゆくことに男性、女性を問わずさほどの問題は生じないようだが、いずれかが欠けはじめたとき、単身であることには困難さが生じてくるように思う。Kさんも病院の付添婦をしていたとき、腰を悪くして一度入院をしている。以後、体調が思わしくないまま、色々な仕事を転々としながら、なんとか暮らしをたててきたが、失職という大きな痛手をうけて、あっというまに野宿にいたってしまう。
仕事がしたい、という希望はあったが就労の機会も少なく、腰痛と膝の痛みを訴えるKさんには生活保護の申請を出すことをすすめた。生活保護の申請をするためには、まず住所設定をしなければならない。Kさんの承諾を得て、アパートの敷金、家賃は釜ヶ崎支援機構が立て替え、生活保護費が支給されてから、返済してもらうことにして西成区内のアパートに入居した。市立更生相談所、大阪社会医療センター、福祉事務所、と公的な機関へ出向きKさんは自分自身のことを話した。生活保護の申請は、男性は65才、女性は60才になれば稼動能力が問われないので、申請は受理されやすいが、まだ60才になっていないKさんの場合は、大阪社会医療センターで診察をうけ、働くことができない、という医師の診断を受ける必要があった。
不安がなかった、といえば嘘になる。大丈夫だろうか?とふたりで顔を見合わせたこともあった。でも、幸いに働くことができない、という診断を得て、Kさんの生活保護の申請は受理された。
 働くことに追われて、療養することも思うようにできなかったKさんだったが、今は毎日、大阪社会医療センターへリハビリに通っている。

広島駅で
ようやく暮らしも安定してきて、明るい笑顔をみせるようになった頃、ふと、聞いてみた。「はじめて野宿をしたのは、どこですか?」Kさんは「広島駅。」と答えた。広島の職場を解雇され、広島駅まででてきたとき、これからの生活のめどは全くついていなかった。いくらかの所持金はあったが、その日は1日駅の構内にいた。それでも、時間がくれば駅の構内から出て行かなければならない。おろされたシャッターに身を寄せるように、路上に横になった。
すぐ近くを車が、通りすぎて行く。車のライトの光が、閉じた瞼の裏までとどいてまぶしい。目をつぶっているだけで、眠ることはできなかった、とKさんはいった。


■思いがけず開いた扉
Fさんは70才をすぎてから家を出た。家族からある宗教を強制された為だという。ひとりになって、わずかな貯えとはじめてみつけた数時間のパートの仕事で生活をささえたが、アパートを借りるほどの余裕はなかった。駅から少し離れた商店街を歩いていたとき、ある小さなビルの地下に下りていく階段が目にとまった。階上には飲食店が何軒か入っているようだったが、閉店しているようにみえる店もあった。階段を下りていくと、ひっそりとしたスナックのドアが目に入ってきた。そっと、ドアのノブに手をかけると、思いがけずドアが開いた。そして、その夜は閉店していたスナックのソファに身を横たえて眠った。夜は人通りが絶えた頃に店に入り、朝は夜が明けた頃に店を出た。毛布を1枚ずつ運び込み、冬を越した。トイレと水道を使うことはできたが、電気はない。真っ暗な夜だった。春になって、いつまでもこんなことをしていてはいけない、と思ったという。新聞の求人欄に載っていた、住み込みの賄いの仕事をみつけて、ようやく、生活は安定した。
山形県、佐賀県の工事現場を回ったという。佐賀県のダム工事の現場が終了し、次の仕事を待つ間、西成の簡易宿泊所に泊まっていたが、運悪く、所持金を全部とられてしまう。三徳テントにとまっていたとき、釜ヶ崎支援機構の指導員が声をかけ、生活保護をうけることになる。相談を受けたときは、体調を崩していたFさんだったが、ゆっくり元気になっていった。どうしようもなくやってきた困難な状況を忍耐強く越えてきた2人の女性の長い話を聞きながら、お世話になりました、といわれるのだが、一生懸命、生きてきた2人の姿は私にとっても心に残る大切なものだ。  2001年1月



「はじめて野宿をした夜──二人の女性の場合」の中のFさん。「三徳テントにとまっていたとき、釜ヶ崎支援機構の指導員が声をかけ、生活保護をうけることになる」とありますが、この指導員とはぼくです(実際は釜ヶ崎支援機構としてではなくて、反失業連絡会のこの日のテントの責任者としてでした)。
かなりのお歳の女性が野宿者用のテントにいるのを見てびっくりして、話をして、翌日「市立更正相談所」で待ち合わせをしました。で、Fさんは市の福祉の職員と面談したんですが、「女性用の施設はない」ということで、何の援助もないまま追い返されてしまいました。
さすがに怒りで頭の中が白くなりましたが、市更相には何を言ってもしょうがないことはよくわかっています。(それに、抗議した結果が「自彊館に一泊」とかになっても、かえって困る)。それで、一緒にNPOの事務所に行って相談し、府の「女性相談室」などいろいろあたってもらいました。
その結果わかったことは、「女性相談室」は50才程度までの女性しか受け入れない、それ以上の女性は生活保護でいくしかない、ということでした。敷金、礼金の問題はありますが、NPOでアパートをみつけて生活保護の手続きをして、何とか生活できるようになりました。

おおざっぱな報告ですが、以上です。」


ところで、「寄せ場メール」で池田さんの依頼に応答したのは、ぼくの他では仙台よまわりグループの今井さんからだけだった。
全国に100人以上が登録している「寄せ場メール」にあって、この反応の温度の低さは何を意味しているのか。

それから、毎年のことではあるが、今日から越冬闘争が始まった。
さっそく、野宿者ネットワークも夜回りに出る。普段とはちがう曜日で、ちがう時間帯(夜10時〜)ということを別にすれば、いつもの通りの夜回りだ。路上では、まだ起きている人がかなりいたのが意外だったかな。

2001/12/23■ ミサ・洗礼


秋頃、釜ヶ崎で活動している修道会のシスターの一人がアメリカに行った。そのシスターはミサの時のオルガン担当だったのだが、代わりの奏者がミサの出席者にはいなかった。それで、「あいつはオルガンが弾ける」という情報があったらしく、キリスト者でもなんでもないぼくのところにシスターからオルガンを弾いてくれという依頼が突然きた(釜ヶ崎は何にしても人材が払底している!)。別にミサに出たいわけでもないぼくは、「誰かミサに行ってる人で弾ける人いないんですかー」となるべく断りたかったが、さすがにシスターじきじきの聖なる依頼をむげに断れるほど神経は太くない。それで、それからずっと、2週間に1回、釜ヶ崎キリスト教協友会・「ふるさとの家」の日曜の朝のミサで神妙にオルガンを弾いている。
ミサの司祭は本田哲郎神父。有名な人なので知ってる人も多いと思うが、ここ10年ぐらい、主に釜ヶ崎反失業連絡会の共同代表で運動をひっぱっている一人だ。「イザヤ書を読む」(筑摩書房)などの著書もあり、新約聖書の個人訳も出している。
ぼくは、ミサは当然、この「ふるさとの家」のしか知らないわけだが、多分かなり変わっているんだと思う。本田さんも労働者スタイルの普段着の上に、なんというのか神父用のマフラーみたいなやつをかけているだけだし、「主のいのり」のところも、「司祭」と書いてある箇所もバツにして「みんな」と書いて、結局、出席者が右左分かれて交互に読むというスタイルになっている。それでまたこの「主のいのり」の中には「必要なかてを得るためのきょうの仕事をお与えください。仕事が公平に分けられますように。アブレたときにはみなで分け合ってささえあい、働けなくなったときには、正当に福祉が適用されますように」とか、「また、『なにごとも争わず、対立せずに……』という思いも、大きな誘惑です。立場の弱い者を抑圧し差別する社会の欺瞞と不正とは、勇気を持って対決し、闘いをとおして、みなが解放されますように」とあったりする。多分、こんなことは普通の教会は言わない。
実際、本田訳の新約聖書もなかなかすごいものだ。ちょうど今新刊で並んでいる文春文庫の斉藤美奈子「読者は踊る」にもこの本田訳聖書がとりあげられているが、本田さんが所属するフランシスコ会訳では「すずめは二羽一アサリオンで売られているではないか」とあるところが「二羽の雀が三百円で売られているではないか?」となっていたりする。他にもいろいろおもしろいので、聖書に関心ある人はこの新世社から出ている聖書を読むべきである。
ところで、今日はミサの中で洗礼があった。洗礼を受けたのは、24か5くらいの女性。もともと学校で本田さんが釜ヶ崎についての話をしたのを聞いて、釜ヶ崎にやってきた人だ。最初は釜ヶ崎キリスト教協友会の施設の一つでボランティアをしていて、その後、釜ヶ崎日雇労働組合や反失業連絡会の運動に加わった。そして、24くらい年上の日雇労働をやっている活動家と結婚した。今は看護婦をしている。(寄せ場の労働運動に関わっている人だったら、おわかりだろうが)。その活動家、つまり深やんだが、全共闘世代で、広島大学時代から運動に加わって、結局中退してそのまま釜ヶ崎に来た。そして釜日労の運動の主軸の一人として30年ちかく活動してきた。逮捕歴も数回ある、強靱な意志を持った筋金入りのマルクス主義者だ。
そういう人と結婚したのだから、当然女性の方の家族は反対したという。なんでも二人して実家にあいさつに行ったが、お母さんは泣いてしまうし、お父さん(って深やんと同年代なのでは)は「帰れ!」と剣もほろろ状態だったとか。それで帰ろうとしたら、弟がやってきて深やんのむらぐらをつかんで殴ったとかなんとか聞いた(本人から聞いたのではないので正確ではないかも)。
ぼくも深やんとは活動の場でよく一緒になった。今のところ最後に話をしたのは1999年12月の冬季一時金(もち代)カンパ活動の時だ。となり同士になったのでちょっと話をしていたが、「生田くんは今どういうものを読んでいるんだ」と言うので「資本論の第2巻を読んでます」と言うと、めちゃくちゃうれしそうな顔をして「え、どうしてそんなものを読むんだ、いまどき資本論を読む人なんかあまりいないんじゃないか」となんだか質問攻めにあった。それで、深やんが今はまっているというヘーゲルの「大論理学」の話をしたりした。最後に、「じゃあ『経済学批判』は読んだか。なに、読んでない。それはいかんぞ。では、うちにあまっているのが一冊あるから、今行ってとってくる」といって、実際すぐに取ってきて「経済学批判」をくれた。で、それは今でも持っているわけだが、なんで「最後に話した」と言うかというと、2000年の3月に深やんは四国の飯場に行って、有り金荷物すべてを残して行方不明になってしまったからだ。不審な行方不明で、知らせを聞いて昔からの仲間がいっぱい現地に行って捜索したが、まったく手がかりはつかめなかった。活動の上で、暴力手配師や右翼など敵も多かったので、そうした何者かに狙われたのではないかという推測も多い。そうして今にいたるまで何の手がかりもないままになっている。結婚した女性は、今年の5月になって、行方不明になる直前まで来ていた深やんからの手紙をまとめて冊子にし、関係者に配った。ぼくも一冊もらい、それを読んであらためて「こういう人だったんだなあ」と思ったりした。
その人の洗礼があったわけである。本田さんが水を頭にかけ、オリーブ油を額に塗り、キリスト者としての名を授けた。ミサの最初と最後には「この水を受けた」などの洗礼を歌ったものを弾き、みんなで歌った。今日は、いつもの労働者など常連の人の他にも四国からきている女子高校の生徒たちなどがたくさんきていて、洗礼が終わるとみんなで拍手を送った。

2001/12/14■ 「釜ヶ崎学習会」メーリングリストに初投稿


12月4日のYMCAの学習会の最後に、連絡体制を作るためにメールが使えるかどうか確かめたところ、そこにいた全員が使えるとわかった(すごいな)。それで、この「釜ヶ崎学習会」のメーリングリストができて、その後何人か加え、IHSの生徒、先生、卒業生、大学生、そしてぼくの合計15人で現在動いている。釜ヶ崎の情報に限らず、「世界がもし100人の村だったら」の出版の案内や、「平和だった頃のアフガニスタン展」の案内などの情報が伝えられている。ぼくは、このメーリングリストはどう発展させられるかなあと考えたりしていたが、今日最初にこんなのを出してみた。


どーもこんにちは。生田武志です。
このメーリングリストができて、越冬闘争を始め釜ヶ崎情報を流さなきゃとか、それとは別に、メーリングリストをどう活かしていけるかなあとか考えたりしていますが、とりあえず今日は、12月10日に出た「連鎖・児童虐待」という本の紹介をします。

著者=東京新聞特別報道部。角川書店。税込み600円。214ページ。

児童虐待は、この数年急激に表面化し、かつ増加している問題ですが、少なくとも対策や調査のまだ進んでいない日本では類書がほとんどありません。
 この本は、今年は4月から9月まで連載された記事を中心にまとめられたもので、虐待の実態、被害を受けたこどもたちのその後、虐待を行った親たちの心理、救援にあたる民間団体のドキュメントなどから成っています。
 また、虐待が引き起こされる背景としての、性別役割分担のひずみ、日本の家庭の変化などの考察を含んでいて、かなりいい内容です。
ぼくは、なぜ児童虐待がここ数年急増しているのか、関心を持っているPTSDとの関連もあってずっと気になっていたのですが、この本でようやく事実のアウトラインを知ることができました。
 虐待事件のドキュメントはなかなか生々しいもので、読んでいて気が重くなることもありました。ぼくは地元の「山王こどもセンター」にかかわっていますが、そのこどもたちとの関係を思い出して、身につまされる思いも少なからずしました。
読みやすいつくりなので、高校生でも3〜4時間で読めると思います。

児童虐待は、全世界的に深刻な問題です。事実、多重人格(解離性同一性障害)をはじめ、思いもよらなかった領域で虐待が中心的な意味を持っていたことが次々と明らかになってきています。
 これは立花隆の「臨死体験」にあった話なので、ご存じの方もいると思いますが、死の間際に神秘的な体験をするという「臨死体験」の経験者には、虐待の経験者が非常に多いという調査結果が出ています。つまり、過去の虐待の中で発展させてきた「解離」能力を、「死」という人生最大の危機にあたって最大限に使っているのではないかということです。
 そういえば、かつて援助交際が社会問題になったとき、援助交際する女子高生たちは傷ついている、いや傷ついていないというような議論がありましたが、ぼくはむしろ、彼女たちの中には虐待経験者の割合が相当に高かったのではないかと疑っています。もっとも、そういう調査はないようですが。
 それにしても、家庭や青少年をめぐる問題については、少年犯罪といい、こういう暗い、というか陰惨な話題ばっかりになってしまうのはなぜなんでしょうか。ま、明るい話題もここでしていきたいもんです。

ではまた!

2001/12/11■ 「現代」の記事を再読


今頃言うのもなんだけど、ここでは、釜ヶ崎での活動のハードな面については触れません。また、僕が今主軸にしている野宿者ネットワークの諸活動についても、書ける事は全部ネットワークのページに書き込んでいるので、ここでは書きません。となると、書ける事ってかなり限られるけど、まあ公開の「近況」ってそんなもんでしょう。

ところで、今日、寝っ転がって「現代」の自分の文章を雑誌上ではじめて読んでみた。それで一つ気づいたのは、文章の流れとして、放火襲撃の報告と、野宿者の置かれている現実とそれをめぐる諸問題に触れて、最後に高校などでの野宿者問題の授業のことを書いているのだけど、学校での授業の報告は、内容の重量感に関して明らかにそれまでの記事に比べて軽すぎる。問題の深刻さと複雑さを考えればそれも当然だが、野宿者の現実と比べてそれはまったく「焼け石に水」でしかない。また、各地で取り組まれている様々な運動の中でも、ごくささやかな試みの一つにすぎない。それが文章上ではかなりの分量を占めているので、その軽さが目立ってしまうわけである(と自分では感じたんだけど、どんなもんでしょう?)。行政の施策について「重傷にバンドエイド」と批判したのだから、その点では自分たちについても同じく批判的でなければ話が合わない。
もちろん、こうした授業の試み自体、先駆的なものだと思うし、またこれだけの規模の授業は前例のないものなのだから当然触れていい話題だとは思うが、自分がいま熱を入れていることもあって、やや見方というか書き方が楽天的だったようだ。「現代」の編集長チェックでも「授業の箇所はもっと縮めていただきたい」と言われて、実際ある程度削ったのだが、今だったらもっと書き換えるのかもしれない。もっとも、もともとの34枚のときは、野宿者の現状報告から授業の話へはある程度ていねいに流れを作っていたが、短縮するにあたってそれが抜け落ちたという点もある。ま、今ごろ言ってももう遅い。ただ、こういうバランスの感覚は、しばらく経たないと自分では絶対にわからない面があるのは確かだ。そう言えば、この記事については知り合い何人かからは感想をもらって、それはどれもとても好評なんだけど、そこら辺はどうだったのだろうか。

2001/12/9■ 発表会


ぼくは4年前からチェンバロを習っている。のだが、今日はその「発表会」があった。四天王寺夕陽丘あたりのクレオ大阪中央のセミナーホール。プログラムは、前半に音大在学中のみなさんのピアノ、それからわれわれアマチュアのチェンバロとガンバ、後半に、それこそ普段は金取って演奏しているプロのみなさんのチェンバロという構成。
ぼくはF・クープランの「組曲」から幾つかと、スコット・ジョプリンの「イージー・ウィナーズ」を弾いた。
かつて柳美里のエッセーを読んでいると、彼女は1対1の時はリラックスできて、3人になるととたんに緊張するという話があってへえーと思った。ぼくはまったくの逆で、1対1では緊張し、3人以上だと気楽になるのだ。それゆえ、レッスンの時は非常に緊張し、こういう発表会形式の時にはむしろ新鮮な気持ちでアドリブができたりしてしまう。今日も、比較的楽しみながら弾いた。とはいえ、環境がいつもと異なるので、楽器演奏は微妙なものだから、いつもはしないようなところでミスって「アレ?」となったりした。
演奏者の中で一人だけあげると、2年前に武満徹のチェンバロ曲を弾いて鮮やかだった中野聡子さん(最近、ピアニストとしてロシアに行って地元のオーケストラとプロコフィエフのコンチェルトを弾いたそうな)はスカルラッティのソナタを幾つか弾いた。性格描写において鮮やかで、かつ暖かみのある演奏を聞かせて、さすがだ。先生である河野まり子さんは、平均律の第2巻から数曲と、スヴェーリンクの半音階的幻想曲を弾いた。特に平均律では、磨き込まれたアーティキュレーションによって、いろんな人が取り上げて手あかがついてしまったような曲をまるで初めて聴くもののように生き返らせる。そして、しっかりとした建築的な造形力はやはりダントツ。こういう機会に聞くたびに、ぼくは普段、こーゆー人に教わっているのかあと、ちょっとビビる。
このお二人に限らず、後半のみなさんはどれも聴き応えのあるものばかりだが、さすがに主にバロック中期から後期の曲ばかり聴いていると、ちょっと疲れるんだなあ。それに、チェンバロという非常に完成された感覚の楽器が、この時代の音楽ばかりに使われているのはやはり惜しいことだ。ホイナツカが演奏している現代曲もいろいろあるし、また、トーマス・アデスみたいな70年代生まれの作曲家がチェンバロを使ったわかりやすい曲を幾つか作っていることでもあるし、なるべくいろいろやってくださいよと思う。
ぼくがスコット・ジョプリンのラグタイムを弾き始めたのは、ホイナツカが録音したジョプリンオンリーのCDを聞いてからである。あまりに楽器にぴたりとはまっているのと、何より曲のあまりのおもしろさに、完全にはまってしまった。おそらくはモダン・チェンバロのホイナツカの場合は、一貫して尋常ではない快速テンポがいつしか躁状態の過激なファンキー感覚を生み出すという怪演(ぼくは大好き)。後に、中野振一郎のデビューアルバム(ジョプリンのラグタイム集)も聞いた。こちらはヒストリカル・チェンバロに合わせてアレンジをほどこした丁寧な演奏だ。
もともとピアノ曲であるジョプリンの曲がチェンバロに適合するのは、まずその作りのシンプルさにある。単純な伴奏に、シンコペーションのきいたシンプルなメロディー。最初に河野先生の前で「エリート・シンコペーション」を弾いたとき、先生も「チェンバロに向いているねえ」と言っていたが、実際、スタインウェイに代表されるような、妙に響きが太くて音色が極彩色の現代ピアノで弾くより、ずっと相性がいいかもしれない。それに、ラグタイムの作曲家のユーピー・ドレイクが「ラグタイムを楽譜通り弾くことは誰でもできる。問題は、アドリブ、アーティキュレーション、アクセントによって曲にどのように命を吹き込むかということだ」みたいなことを言っているが、これはそのままバロック音楽でも言っていることではないか。というわけで、チェンバロやってる人間は、とりあえず一度はジョプリンを弾くべきなのである。ちなみに、ラグタイムの曲はいろいろあるが、やはりジョプリンのものは飛び抜けている。古典時代でいうとモーツァルトの位置を考えればいいかもしれない。
ついでながら、ピアノでのジョプリンのCDは、ウィリアム・オルブライトのラグタイム全集が良かった。ジャズ的なイディオムを豊富に含んだ、楽しめる演奏だ。
発表会のあとは、打ち上げでみんなで飲んだり食ったりする。今日は、越冬闘争のため、釜ヶ崎のみんなは、冬季一時金カンパ活動のため寒い中を一日立ちづめだったはずだ。申し訳ないことです。


2001/12/4(の午後)■ シリーズ最後の授業


大阪YMCA国際専門学校・国際高等課程(IHS)の授業シリーズの最終回、「野宿当事者と語る」。
9月18日の授業に来てくれた4人の野宿当事者に再びきてもらっていろいろ語ろう、という企画。だったのだが、一人はしばらく前に自立支援センターに入り、そして今朝には一人はいろいろあって飲み過ぎて動けなくなり、一人はシェルターの警備要員に入ってしまい、結局今日来れるのは一人だけになってしまった。
前回の雰囲気からいって、4人いればこちらは「はい、その話はとりあえずここまでで」とか「ところで生徒のみなさん、他に聞きたいことは」とか話を切っていく役目と心得ていたのだが、事態が変わってしまい、頭を抱えた。いまさら新しく企画を考えてはいられないので、用意していた釜ヶ崎キリスト教協友会主催のセミナーの参加者の感動的な感想文と、若者と日雇労働者との関係の一例としての90年暴動のビデオを更にふくらませて対処することにした。
結果としては、のんびり、しんみりムードと言えるのか。「みなさんが実際にボランティアとして釜ヶ崎にかかわると」の一例として読んだ感想文3つについて生徒全員に一言ずつ感想を聞くと、「感動しました」「実際にわたしもこういうかかわりをしてみたい」という意見が大勢。それから野宿の現実をいろいろ当事者から聞き、後半では「学校でアルミ缶を集めてお金にして野宿している人のために使ってもらおう」といった計画が生徒たちから起こったりした。そんな話がいろいろ続いて、結局、暴動のビデオは使わずに済んだ(見せたら、みんなびっくりしただろうな……)。ま、今日の流れからいって使わない方が良かった。
最後に、「予備知識はみなさんに伝えました。できれば、実際に釜ヶ崎や野宿者へのボランティアに来てください」といったことをぼくは言って授業をしめた。ただ、IHSでは正月明けからも授業の話があるので、「終わったあ」という感じはしない。しかし、この一連の授業がこのクラスのみんなにどのような力を持ち得ただろうか。
5時からは再び有志による釜ヶ崎の学習会。今日は、入佐明美さんが来て話をするはずだったが、かかわっている人の都合で来れなくなったとか。入佐さんの話は長いこと聞いてないので残念だったなあ。道ではたまに会って挨拶はするんだけど。それで、参加者たちがきゅうきょ自分たちで話を組み立てて議論していった。相変わらずの熱意とエネルギー。話の後半は、自分の家族をはじめ、身近な人に釜ヶ崎などへ自分がかかわることを認めてもらえないことについて、どう考えればいいのかということに集中した。実際、学習会でも話題になったが、「身近な人間を説得できずに他の人を説得できるか」という論法がある。しかし、自分の家族を説得するだけで自分の一生を費やしても足りないという場合だってあるので、それはかなり無理な論法なのだ。例えば結婚を徹底的に反対された場合、親が死ぬまで説得し続けるべきであって、それまではいつまでも結婚できないのだろうか(伊藤潤二のホラーマンガにそんなのがあったが)。普通、説得がどうしてもきかなかったら、強行突破するものではないだろうか。例えば、在日の人との結婚では日本人の親族側が反対することが多々あるが、だからといっていつまでも結婚しないでいるのは、結果的には差別に屈服したことにしかならないだろう。こんな例を出すのも、日雇労働者との結婚問題というのはわれわれにとって身近に見る問題だからだ。日雇やってる活動家と結婚するのは、支援に来ている女性というのがよくあるパターンなのだが、予想がつくように女性の側の親族はほぼ100%反対する。それに対して説得で納得させてしまうすごい人もいるかもしれないが、現実には説得はまず無理である。となると、親族の反対は承知で結婚してしまうしかやりようはない。家族と言っても他人は他人なので、あくまで差別的な態度を崩さない人には愛想を尽かして、こちらはこちらで勝手にやらしてもらうしかないわけである。

2001/12/4(の昼)■ 本屋で「現代」1月号を発見


野宿者問題についてぼくが書いた文章が載った講談社の総合誌、月刊「現代」1月号を本屋で見つけて買ってきた。しかし、こういうものって執筆者には速達で届いて、本屋より早く手元にくるものでは?(「群像」はそう)。ま、どーでもいいか。
そこで、寄せ場関係者のメーリンクグリスト「寄せ場メール」にお知らせを流した。次がそれ。

「釜ヶ崎の生田武志です。
5日発売の総合誌、月刊「現代」1月号(講談社)に、野宿者問題についての文章を出しています。400字×25枚で、雑誌上で10ページです。
最初に、7月に連続して起こった日本橋での野宿者への放火襲撃について、そして野宿者の現状について、最後に現在進行中の高校などでの野宿者問題の授業について、という流れです。
基本的に、野宿者の存在は知っていても、その実像についてはほぼ何も知らないという一般の市民を想定した文章です。
なお、本文以外、つまりタイトル、章の区分、見出し、筆者紹介などは、編集者の判断で作られています。(タイトルも、内容とは少し違うのですが…)。
最初に書いたのが34枚で(「この長さで載せてくれ」と言ったけどダメでした)、それを25枚に縮め、さらに「高校での授業の箇所はもっと削ってくれ」「なぜ釜ヶ崎にかかわろうと思ったのかを書いてくれ」といった注文を受け入れた結果のものです。また、何よりも枚数制限のために、語るべき多くのことを取りこぼしています。
しかし、野宿者問題についてのまともな記事が一般誌ではきわめて少ない状況を考えれば、文章を出す意味はあると思いました。
よろしければご一読ください。
(最初の形の文章は、時期を見て自分自身のホームページにアップするつもりです)。

話は変わりますが、
野宿者問題の授業についてのページで、「野宿者襲撃について」と「野宿者の将来と若者」の授業の概要をアップしました。
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/future.htm

また、野宿者ネットワークのページでは、特に「夜回り報告」と「西成公園シェルター問題」については、なるべく事あるたびに内容を更新しています。
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/network.htm 」


ところで、「現代」には巻末に「編集室だより」があって、その中に(浜)という署名で次の文章がある。
「『敗者復活戦なき』社会が進行しています。史上最悪の失業者に再就職先はなく、中小企業は貸し渋り、貸しはがしで倒産させられる。会社のリストラを提訴しても、司法の場ですら企業の論理が認められる。そして教育改革では親の経済力が子どもの将来を左右してしまう。一握りの強者はよくても、膨大な弱者は再び立ち上がることもできない。こんな日本に処方箋はないのか。」
そして、これを書いたのが、今回のぼくの担当編集者だった人だ。こういう人だったからこそ、多分ぼくの文章も掲載できたのだろう。実際、競争社会と切り捨ての構造の極限こそ、野宿者問題なのだから。

2001/12/1■ ウイルスがやってきた


あ゛あ゛あ゛あ゛ーーっ! ウイルスに感染しちまったよーっ! 
今話題のバッドトランスとかいう奴だ。うちのパソコンにはウイルスバスター2002が入っているんだけど、メールを受け取ったとたん「ウイルスを発見しました!」とお知らせが出た。「ふーむ、うちのパソコンにもとうとうウイルスが来たか!」と感心して、削除しようと思って、そのメールを指定するためにクリックした。ところが指定するだけのはずが、そのクリックでしっかりプレビューしてしまいました(まぬけすぎ?)。すぐ削除はしたけど、あとで検索してみたらRESTORE フォルダにウイルスがちゃっかり入り込んでいた。メールは(確か)メーリングリストの「寄せ場メール」からだった。誰かが感染してばらまいているんだな。実際、あちこちのサイトを見てみると、こここ数日この種のウイルスが大発生している模様。
しかたないので、あれこれ対策を調べてウイルスの封じ込めをして、今のところ実害は出ないようになっている。(つまり、RESTORE フォルダそのものをいったんウィルスごと削除した)。
しかし、次の日にも、2通のウイルスメールがまたまたやってきた(発信元は「塩田」さん。それ誰?) 今度は「野宿者ネットワーク」のアドレス宛てのもあった。それにしても「ネットワーク」のメールアドレスを使った人間など、今のところ世界中で1人か2人しかいないはずだが? 今回はプレビュー機能をはずして、完璧に削除することができた。しかし、まる一日は、自分のあほさ加減とこのウイルスの対策のややこしさの両方でかなり憂鬱になった。パソコンって他に代え難いものなんだけど、使っていると異常にエネルギーをとられてうんざりしてしまうことがある。ウイルスもそうだが、ふつうに動いている分にはいいんだけれど、なんやかんやでトラブルを起こすことがあまりに多すぎる。おまけに、いったんトラブルと、その対策だけで通常の倍以上のエネルギーと心労がかかってしまうのだ。まあ、10分ぐらい乗ってるとチェーンがはずれたりパンクしたりする自転車のような感じか。何年か我慢してたら、パソコンももう少しは使いやすいマシンになるんだろうか。 

2001/11/29■ "Affluent society"


IHSの生徒が書いた英語の論文を読む。授業をきっかけに炊き出しや夜回りに通うようになった3年の女子生徒だが、題名が上のとおりで、サブタイトルが" from homeless people's point of view"。12ページにわたるかなりの長文。今日は反失業連絡会の運営する野宿者用テントの当番だったので、その時間の間に読んだ。自分がかつて野宿者に対してどう思っていたかという導入に始まって、日本と西欧との野宿者の定義の違い、戦後の産業構造の変化による建設土木労働者の増加、それにともなう釜ヶ崎の変化、バブル崩壊後の現状、日雇労働の実態、NPO釜ヶ崎の活動、フランスの反排除法やDALの活動などのかなり詳しい紹介がある。最後に大阪市大の森田さんの「日本の一般市民は野宿者についてまともに考えようとしなかった。我々はこれからは野宿者、市民、NPOとの緊密な関係を作り上げていく必要がある。われわれは、役人だけが解決策を用いることができるような垂直的な社会から、市民が積極的に問題の解決に関わることのできる水平的な社会へと変化させていくべきだ」といったコメントを(英訳で)引用して、「It is only through this kind of action that the situation of the homeless is improved. 」という一文で終わる。
ともかく、よくここまで調べてなおかつ理解したなーと驚いた。英語の実力といい、これはどこから見ても高校3年のレベルではないよ。もちろん、内容的にはぼくには全部既知のものだが、そのエネルギーと熱意には感動する他ない。あらためて、生徒たちの予想以上の反応に驚いてしまう。なんという生徒たちにめぐりあってしまったのだろう。

2001/11/27■ YMCAの授業・そして学習会


大阪YMCA国際専門学校・国際高等課程(IHS)の野宿者問題の授業で、担当の先生たちによるフィードバック。われわれが伝えた情報を前提にして、生徒たちの本音を引き出そうというねらいということだ。
途中では、新宿で卵を配りながら野宿者と話し合いをするボランティアたちを映したビデオを見る。ビデオでは、野宿者からボランティアが「仕事がないのを何とかしてくれ、困っているのをなんとかするのがボランティアだろう」と詰め寄られている様子があったりした。それで、卵を配るだけでは問題の解決にはならないので、ボランティアの自己満足にしかならないのではないかという点などが話になった。
その関連で、男子生徒の一人が、先週釜ヶ崎に行ったことについて、「その時は行ってよかったと思ったが、このビデオを見てあらためて考えると、何もしないでただ見学だけに行くというのは最悪だった」と言った。ぼくは、それは確かにそうだなと思ったが、かといって、釜ヶ崎に行って例えば炊き出しの手伝いや夜回りを強制的にやってもらうというのも変だ。また、そもそも現地に行くことの価値は疑えなくある、と思ってそのようなことを言った。それで、他の生徒に釜ヶ崎に行ったことについてどうだったか聞いてみると、「実際に行ってすごいショックだった。それで、あらためて関心を持った」という意見も出た。
しかし、あらためて思ったのだが、現地に行くこと、さらに授業に野宿当事者を呼ぶことにはもっと慎重であるべきだった。実際、以前に野宿者に授業に来て話をしてもらったとき、本人の言いたくない過去まで流れで言わせてしまう、ということがあった。本人はいろいろたくさんしゃべって、「すっきりしたよー!」とすごくすがすがしい顔で上機嫌で帰っていったが、ぼくはその晩は、こんなことでいいんだろうかと思ってなかなか眠れなかった。現地に行くことについても、最初に「見学に行って、釜ヶ崎の人は『見せものじゃねーぞ』と思うかもしれない。でも実際に行かないとわからないこともいっぱいある。その点をふまえて、相手の気持ちを常に考えながら見ていこう」みたいな事を言っておくべきだったようだ。

ところで、この日は、11月13日のところでも書いたが、釜ヶ崎に関心ある生徒たちによる学習会がこの授業のすぐあとにあった。姫路から来ている卒業生と、フェアトレードにかかわっている3年の生徒(2人とも「いこいの家」の水曜日の夜回りに出たりしている)とが中心で、そのともだち、あとYMCAのカレッジの生徒何人かや先生が3人など。上に触れた、「現地に行ってショックだった」という女子生徒も、我々が担当している1、2年のボランティアクラスから唯一出てきた。いろいろみんなでしゃべったが、活気があって積極的なことに感心する。それが、主に「釜ヶ崎にどうかかわり、どう社会にその環を広げるか」というテーマなのだから、社会的支援の薄さに悩み続ける現場の人間にとってはウソのような話だ。それはそうと、1月号の「現代」の原稿には「授業の前にとったアンケートでは、次のような意見の生徒が大方だった。『(野宿している人をどう思いますか?)なまけものと思う。だってがんばれば仕事だってできるハズやのにしようとせーへんねんもん。そんなんあかんわ』。」というところがあるのだが、その感想が、この1、2年のボランティアクラスから唯一出てくれた生徒なのだ。(授業のときに、「『なまけもの』みたいな感想を引用したけど、それは典型的な例としてなので、勘弁してください」とみんなに言っておいたが)。それにしても生徒の反応や変化は想像以上のもので、あらためて、ここで授業をやれてよかったと思う。

2001/11/26■ 夜間中学


めったに更新しないつもりだったのが、なぜか結構こまめに書いている。こんなペースは続かないと思うけど。
今日、特別清掃の仕事をしていたら、夜間中学に通っている人に会った。もちろん日雇労働で、60前ぐらいで、今は自彊館(じきょうかん・福祉施設)に長期で泊まっている人。
前に一緒の仕事になったとき、前夜の雨で水がたっぷりたまったゴミ袋を2人で引き上げてて、「すごい水ですねー」と言うと、「そうや、夕べ学校からの帰り、すごい雨だったもんな」と言う。最初は夜勤の仕事があって現場が学校だったのかと思った。が、なんか感じがちがうので、「学校に行ってるんですか?」と聞くと、「天王寺の夜間中学に通ってる」と言う。夜間中学に通っている人に会うのは初めてで、しかも日雇労働者ということもあって驚いた、というか印象に残った。その時その人は「学校ではおれが一番年下だよ!」と言っていた。
で、今日また同じ仕事になったので、休憩時間とかちょっと夜間中学の話をした。この人は、40分かけて歩いて通っているそうで、授業時間は6時から9時までぐらい。給食としては、パンが2個と牛乳。自彊館の晩飯は時間的に食えなくなるので、これだけではとてもキツいとか。
生徒は、天王寺中学で500人(!)。国籍は22、3カ国にわたるという。一番多いのは当然韓国、朝鮮の人で、珍しいところではタンザニアとかのアフリカの人もいるのだとか。クラスは12組ある。1組は「あいうえお」からで、12組で普通の中学レベル。
「おれは、国語と数学と英語だけでいいんだよ。でも、美術とか家庭科とか全部あるんだよ」と言っていた。基本的には、家庭の事情や引き揚げの混乱とかで学校に行けなかった人が多いんだという。でも、500人っていうのはすごい。22カ国というのも。一回この人に連れて行ってもらって見学してみたい。ためしに「今、高校とかで野宿者問題の授業をやっているんですよ。一回行ってみませんか」と誘ってみたが、乗ってこなかった。
「学校に行ってると気分が変わるでしょ」と言うと、「そりゃそうだ。自彊館の狭い部屋でじっとしてるよりずっといいよ」と言っていた。自彊館は二段ベッド式の10人、20人の大部屋。
ちなみに、特別清掃の詰め所には夜間中学生募集のビラが貼ってある。

夜間中学生募集
◇いろいろな事情で義務教育を終えていない人
◇「あいうえお」から中学校の「勉強」まで
◇10代から80代の人が勉強しています。
◇月曜日から土曜日まで毎日。
◇午後5時40分から午後8時30分まで勉強してします。
◇おかねはいりません。
◇給食もあります。
◇高校進学もできます。
◇国籍は関係ありません。(すべてふりがなつき)

そう言えば、夜間中学校で野宿者問題の授業というのも「あり」かな?

2001/11/25■ お見舞い


久しぶりに、7月29日に日本橋で野宿していたところを放火襲撃された人のお見舞いに行った。事前に病院に問い合わせたら、現在も救急病棟にいるということだ。それで、個人的なカンパなど持って行ってみた。
状態は、まあ確かによくはなっている。最初に行ったときには薬で意識を抑えられていたし、この間は意識はあったがほとんど話もできない状態だった。今日の場合は、会うといろいろ話してくれた。ただし、半分くらいは聞き取れない。やけどの問題と、あと首に何か管がついているためか。それにしても、いまだに体の大半は包帯でぐるぐる巻き。わずかにのぞく皮膚は、焼けただれて固まっている。ベッドに寝たきりの状態で、車いすも使えない。いつ一般病棟に移るかも見当がつかない。あらためて、火をつけて襲撃した奴に、責任取れ、と腹が立つ。
ところで、6月頃、「ふるさとの家」に住み込んでボランティアしていた長野の女の人がいて、彼女は野宿者ネットワークの夜回りや会議にも参加してくれた奇特な人なのだが、「ふるさと」の人によると近頃大阪に移り住んで看護婦として働いているという。それがまた、今日見舞いに行った病院なのだ。それで、この放火された人のことを伝えておこうと思って受付で問い合わせると、今日は休みだがこの人、勤務は救急病棟だという。なんつー偶然か。

2001/11/23■ 「アリス」のテープ


「amazon.co.jp」から「コンプリート・アリス」が届いた。「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」原文の完全朗読テープだ。何年も前から欲しいな欲しいなと思っていた品物なので、しばらく有頂天になる。6時間分が4本のテープに入ってる。それで値段は2700円(25ドル)だからウソみたいに安い。今まで聞いていた講談社のテープは、6章くらいしか入ってなくて2000円くらいしたよ。
 朗読はChristopher Plummer、トニー賞受賞アクターで、サウンド・オブ・ミュージックにも出てたと書いてある(何の役?)(あとで調べてみたら、トラップ大佐だった!)。講談社のよりは、朗読はうまい。ただ、アリスのセリフもおやじ声というのはさすがにちょっときついぞ。講談社では、アリスのセリフだけは女性がやっていた。それに、全体に女声の方がずっと聞き取りやすい。
一緒にパラドックス・トリオのCDも来た。どちらも国内ではなかなか手に入らない代物だ。しかも配達料は無料。
「アマゾン」はかくも便利なのだが、日雇労働者のぼくが使うには問題があった。クレジットカードがないと、どうしようもないからだ。日雇労働だと、オーディオ商品などの分割払いもお断りされるありさまで、クレジットカードなど問題外なのだ。どうしようか考えて、結果として高校の同級生のトマト銀行の社員に相談した。すると、書類を送ってくれて、記入して送り返すとあっさりカードができた。職業差別に対する、人脈の勝利である。
 あとは、20世紀後半フランスの作曲家ジャン・バラケの全集CD3枚組をぜひとも聞いてみたいのだが、これはどこでも品切れの模様。誰か貸して!

2001/11/13■ 授業の話


 大阪YMCA国際専門学校・国際高等課程の野宿者問題の授業サイクルの一つとして、「野宿者の将来と若者」の授業を担当。
50分×2の100分授業。授業など生まれて初めてなので、えらく緊張して朝は5時から目が覚めてしまった。
 授業の内容については、別に公開するのでここでは触れない。それにしても、なんせ時間配分も見当がつかないので、前半はやや突っ走りすぎになった。それで休憩時間にちょっと考えて、後半まず黒板にモデル図を書いて前半の話を整理して、それから後半に入ってみたりした。ま、全体としてはなかなかおもしろい内容になったんじゃないかと思う。終わった後、先生の一人から「わかりやすかったです」と言ってもらえたし。生徒の感想もまた聞いてみたいもんだ。それにしても大変疲れた。準備にも手間暇かかった。
 それはともかく、この授業のシリーズを通して感じることの一つは、男子生徒より女子生徒の方が元気がいいということだ。この授業をきっかけに夜回りや炊き出しに通うようになったのは3年の女子だったし、以前から釜ヶ崎にかかわっていて、今は卒業生なのに姫路からこの授業に通ってきてくれているのも女の子だ(今度自分たちで釜ヶ崎についての学習会をやるんだって!)。ぼくの担当のこの授業にも、タイ、ミャンマーに行って来て、今はフェアトレードにかかわっている女子生徒が来ていた。相対的に女子生徒の方がいきがいいのは確かのようだ。授業の事前折衝の時に話した先生も、「女子の方が元気がいいです。男子生徒は……死んでます」と言っていた。
 それは、いい成績でいい大学へ行っていい就職をして……という従来の進路の固定的パターンが崩れて、選択肢が多様化している中で、従来は相対的に選択肢のなかった女の子の方が元気が出てきたということか。男の方は、どうしていいのか将来の展望がよく見えなくて屈折しているのかもしれない。
 この間、釜ヶ崎にボランティアに来ている、あるいは住み込んで働いている若者を集めて飲み会をやった。たまに個別には立ち話したり(ライブつきの)ジャスバーに行ったりするのだが、話してみると、ボランティア同士は意外に面識がなかったりするという。それで、誰かが声をかけて一同に会させたらいいんじゃないかなと思った。それで、声をあちこちかけたら主に大体22才から26才ぐらいの男女など15〜16人集まった。飲み始めてから2時間以上たって全員集まったので、話をまわすことにした。「みなさん、こんばんは。よく集まってくれました。この中には初対面の人も多いと思います。さて、そんな我々に共通する話題はただ一つ、釜ヶ崎です。だから、『釜ヶ崎とわたし』というお題で順に話していくことにしましょう。では、まずぼくから…」という感じ。
 ところで、当たり前だがこれが大変おもしろい。おもしろいし感動的だったりなので、その内容はこんなところで公開なんかしないが、ホントにみんないろいろだ。ところで気がついたのだが、女性の方は人が話しているときにも興味津々で目を輝かせて聞いている。ところが男性の方はなんだか人の話を聞くときはめちゃくちゃ暗いのだ。ホントに死にそうなぐらい何人かは暗い顔をしていた。それで後で、一緒にいた10年来のつき合いのやつに「あれはなんなんだろう」と言うと、「男の方はいろいろ悩んで屈折してるんだろう」と言う。「やっぱり?」と言ったが、でも、ぼくもあの年代の間はやっぱりあんな感じだったなあ(って失礼か?)。悩んでも自問自答のスパイラルに終始してしまうというパターン。「男子高校生は死んでいる」とすれば、「男子青年層も死んでいる」のかもしれない。それにしても釜ヶ崎にわざわざ来るような人間は、普通よりはるかにエネルギーを持っている。だとすれば、一般の男の青年層はもっとやばいのだろうか。
 ま、ぼくの場合はそうだったが、男子青年層も10年ぐらい悩んだら、自然にこの手の悩みからは解放されるかもしれない。けど、この「自然に」というのがくせもので、もはや通用しない話だろうか。以前、テレビでともだちができないので「じゃまーる」(カタカナ?)やネットを使って友達さがしをしている若者の特集があったが、番組の最後でコメンテーターが「しかし、まあ友達というのはいろいろやってれば自然にできるもんですよ」とか、番組をご破算にするようなことを言ってた。その「自然に」ができなくなってるからみんな苦労してるんだろう。ま、それとは話は違うが、ぼくだって釜ヶ崎に来て暮らすような荒技を使わなかったら「自問自答のスパイラル」から逃れられたかどうか分からない。

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