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2011/10/16 仙台・石巻へ
0810
10月5日夜8時に夜行バスで大阪を出て、12時間後に仙台駅に着いた。被災地に来るのは4回目。
4月は各所の避難所をまわり、6月は石巻市の漁村の避難所で暮らし、7月は、その漁村で再開されたカキの養殖を手伝い、お寺の墓地を整理する作業などに行った。今回は、漁港の工場、農地の復興作業、石巻市での祭りでの出店などに参加してきた。
石巻市などは、10月11日で避難所がすべて閉鎖され、被災者は仮設住宅などに移る。これから寒くなる時期ということもあり、仮設住宅をまわって、冬物の布団などの要望を聞くと同時に生活用品を届ける活動が行なわれている(ホームレス支援全国ネットワーク、グリーンコープ、生活クラブで作られる「共生地域創造財団(設立準備中)」による)。仙台に着いた最初の日は、その倉庫で、仮設所の各世帯に届ける「生活応援セット」(お米、スパゲティ、調味料、醤油、スープ、お菓子、紅茶パック、珈琲、タオル、マスク、スリッパ、保存用ケース、接見、化粧水、絆創膏などが入っている)をつくる作業をした。
2日目は、石巻市の魚介類の練製品を作っている工場の復旧作業へ。
工場は、津波によって破壊され、下の写真の有様で放置されている。ヘドロをスコップでかき出すんだけど、魚とかの有機物が腐って凄まじい匂いを放つ。かき出したヘドロを袋に詰めて、機械類をブラシや高圧洗浄機で洗っていくという仕事だ。見ての通り、天井やパイプが垂れ下がっている箇所があちこちあり、安全のため場所を限っての作業になる。
この会社も、津波で工場が全壊し、従業員をほぼ全員解雇していた。操業は現実的にできないし、解雇しないと(元)従業員が雇用保険を受給することができない。そのとき、「再建したら、真っ先に声をかける」と社長は言ったそうだ。10月に入って本工場が仮操業を開始し、再建がようやく始まったところだった。




かき出したヘドロの袋

3日目は、石巻市のいちご農家の農地の復旧作業へ。
ここは、10棟のビニールハウス(長さ50メートル)があったが、津波によって完全に壊された。下はその当時の写真を写したもの。ハウスの残骸は撤去したが、土中にビニールの残りやガレキが大量に残されている。それを手作業で一つ一つ除去していくという作業だった。




この農地は、60代はじめのご夫婦がイチゴ作りをメインに使っていた。海からある程度離れていたので、地震のあとも、地域の人の多くが「ここまで津波は来ないだろう」と思っていたという。「油断してた。なにしろ『1000年に一回』の地震だもの」ということだ。ところが、見る見るうちに津波が押し寄せ、急いで家の2階に上って助かったという。
それから電気、水道が途絶え、ロウソクで灯りをとって、山の水を汲んで生活する日が続いた。イチゴを作ることもできなくなったので収入が途絶えた。そのため、年金を5年繰り上げ(受給総額は減らして)、60歳からもらえるようにして生活しているという。
ビニールハウスは、再建すると1棟で100万円くらいかかる。10棟なので、全部で1000万円。さらに、電気関係などの設備費がかなりかかる。それだけのお金を工面して、なおかつイチゴは作り始めてから出荷まで3年くらいかかる。「これからハウスを作るとして、今度イチゴができるのが4年後かなあ」と言われていた。
先の工場もそうだが、こういう「収入の糧」となる土地の復旧作業については、一般のボランティアセンターは原則として関わっていない。家のヘドロのかき出しなど、日常生活に関わる支援は行なうが、「仕事」に関わる作業については一線を引くという態勢だ。
それはそれで一理あるけど、一方で、農地や工場の復旧がないと今後の生活が成り立たないことも明らかだ。そこで、物品配給の支援活動などで知り合った被災者の人たちと話をして、「必要かつ可能」と判断した場合、こうした復旧の支援活動をしているという。

4日目は、仙台市若林地区の、やはり津波で被災した農地の復旧作業へ。7ヶ月近く放置された土地は、雑草が生い茂って、もはや畑ではなくなっている。ここの復旧作業を、東北の大学生たちが中心になって活動しているボランティア団体と協力して、人海戦術で雑草取りするという活動だった。


↑畑は雑草でこの状態


↑20人ほどで列を作って進んでいく。

肉体労働が連日続き、この日の夕方は筋肉痛でほとんど寝たきり状態に。そもそも、しょっぱなに夜行バスで足も伸ばせず、ほとんど寝られないのも地味に効いている。
5日目は、「みんなの祭り 無礼講 石巻篇」に参加。こちらの会場に8時に入り、下のように冬物(ダンボール50箱以上)、文具、布団などを配置する。そして、11時開場と同時に、すべて無償で配布する。特に冬物があっという間に消えていく。全然足りないので、車でもう一度仙台まで物資を取りに行ったほど。「東北の人たちは冬の厳しさにはかなり気をつかっています」と聞いたが、確かにそうなのかもしれない。


↑われれわれのブース。この他にも、似顔絵描き、焼き肉など様々な出店が出ていた。

震災から7ヶ月が経ち、支援活動も、生存を支える緊急支援から、仕事を再開し、生活を再建する復旧・復興に方向が向かっていることは実感する。
一方で、失業した人たちの雇用保険が切れ、(阪神淡路大震災のときそうだったように)多くの人たちが生活保護に向かっていくことも確かだろう。カキの養殖にしても、イチゴの生産にしても、出荷できるのは4年先、5年先だ。いまも、仕事を失って、仙台駅周辺で野宿する人たちがじわじわ増えている。その意味で、寒さが厳しくなる中、生存を支える活動も、依然として重要なのだろう。
ぼく個人としては、現地にいて、「時間」の問題を考える事が多かった。震災のあと、あまりに激しい被害に、他の人も感じたことだろうが、時間がとまってしまったような感覚に陥った。しかし、「時間が止まる」とはどういうことなのだろうか。激しい現実的なショック(外傷)に、心がパンクして対応不可能な状態を言うのだろうか。その「止まる」時間は、日常的な時間とは別の時間の方向を感じさせている。しかし、その方向はどこへ向かっているのだろうか。
そして、現地でもどこでも繰り返し「1000年に一度」という言葉を聞いた。人間にとっては1000年は超絶的な時間だが、地震のメカニズムにとっては「一瞬」のようなものなのだろう。しかし、その文字通りの「地盤」の変化の上にわれわれの生存は成り立っている。また、福島第一原発の事故で放出された放射性物質のうち、たとえばプルトニウム239の半減期が2万4100年とされるが、そのほとんど超絶的な時間と日常が直結する事態にわれわれは生きている。
関係ないような話だが、ここ数ヶ月、ずっと円地文子訳で『源氏物語』を読み続けていた。それからずっと『源氏』の関連書を読み続けているが、今回の震災と『源氏物語』との共通点は、挙げるとしたら「1000年」になる。ちょうど1000年ほど前、つまり『源氏物語』が書かれた頃に起こったのと同規模とされる震災にわれわれは出会ってしまった。『源氏物語』が読み継がれる一方、1000年前の大震災は忘れられ「想定」されなくなっていた。『源氏物語』を読むのと同時に震災に関わっていると、「1000年」という時間の意味を考えてしまうことがある(今回の滞在中は、仙台や石巻が登場する『奥の細道』を読んでましたが)。
ぼく個人としては、今回被災地に行って、ようやく「止まった時間」が自分の中で再び流れ始めてきていることを感じる。「7ヶ月たってやっと」だが。だが、「流れる」時間はどこへ向かって流れているのだろうか。依然として続く被災地の問題と同時に、流れ始めた時間の中で、自分の中で「止まった」時間の意味を、あらためて考えなければならないだろうと思っている。


2011/9/26 「ホームレス襲撃相次ぐ 大阪・西成の公園、けが人も」

共同通信で配信された、西成公園で続いた襲撃についての記事。コメントもしている。
西成公園では2年前、中学生たちが投石、(おそらく)放火を行ない、公園で中学生を捕まえて、学校で話し合いをするということもあった。
今回は、3月から7月まで週2〜3回、投石などの襲撃が続いた。自転車やバイクで来ているので、高校生以上の年代だろう。
長期間、あまりに執拗に続いたので、襲撃に来る若者たちと直接話をするため、7月に2回、公園や支援者の有志が集まって公園で張り込みをした。
1回目は朝4時まで待って、「なにもなし」なので解散したら、なんと4時半に何人かがやってきて投石に来た。向こうも「何かおかしいな」とこちらの様子を監視していたようだ。
2回目は夜明けまで待ち構えたけど、その日はまったく何もなし。
とはいえ、その後、襲撃は途絶えている。張り込んだ意味があったのか。警察もパトカーをよく走らせているということで、その効果もあるのかもしれない。
記事になったのは、共同通信の記者が野宿者ネットワークの夜回り報告にある以下の襲撃の記録を見て、夜まわりに参加し、取材したことがきっかけ。
「この他に襲撃はあったのですか」と聞かれて、西成公園の襲撃の話をしたところ、公園に取材に行って、こういう記事になった。
毎日新聞に掲載されている他、記事が配信されたあと、読売新聞と産経新聞の記者から電話があったので、そちらでも記事になっているかもしれない。

7月30日
恵美須町駅で金曜日の朝4時から4時半にあった、卵の投げつけの話を聞く。5人程度、小学生から中学生ぐらいの5人ぐらいがやってきて、駅の外のフェンス越しに中へ向けてかなりの卵を投げつけたらしい。「駅の中から投げていた」という話もある。
▼元歩道橋のところにいた人からは「5人の中学生ぐらいの子たちから、生卵を10個投げられた」という話。また、投げる蹴るがあり、ケガをさせられたという未確認の話もあった。
▼道具屋筋で、月、火、水、木と2人組が蹴りを入れてくる。おそらくこのため、道具屋筋でずっと野宿していた人たちの多くが姿を消している。
▼JR天王寺駅タクシー乗り場前で3名が卵を投げ付けられている。Aさん 昨日朝5時7人の男子高校生、リーダーはバイクでチャリ4台。タマゴ7つ投げ付けられる。Bさん2、3日前朝5時男子ということ以外は不明。ダンボールを持っていかれ、タマゴを投げられる。 Cさん 一昨日朝5時、二人の20代チャリでタマゴ2こ投げられる。

8月13日
2日前の夜、東の裏で20歳ぐらいの若者に野宿者がなぐられて血だらけなったという話を聞く。
日本橋西 15+3 2週前の道具屋筋の殴る蹴るは、ホスト風の3人の若者にやられたと言う話を聞く。


2011/9/2 「貧困ビジネス被害の実態と法的対応策」・「ひまわり」再録

日弁連の貧困問題対策本部編『貧困ビジネス被害の実態と法的対応策』(8月29日発行)が今日届いた。「居住」「派遣労働」「医療」「金融」「風俗」「保証人」などに関する貧困ビジネスの実態と、その法的な救済策をかなり網羅した本。多くの章を弁護士や司法書士が書いていて、実態に関して、例えば居住をめぐる貧困ビジネスについて「もやい」の稲葉剛さん、労働者派遣について「首都圏青年ユニオン」の河添誠さんが書いている。ぼくは、「医療をめぐる貧困ビジネス」について、1980年代の大和中央病院から最近の山本病院事件までの事例を書いてます。
原稿依頼があったのが2年近く前で、知り合いの普門大輔弁護士が中心になって編集が進み、ようやく完成。
原稿から一部引用。
「医療に関する「貧困ビジネス」の規模の大きさは想像を絶する。2009年度の生活保護の支給総額は3兆72億円と、ついに3兆円を超えた。だが、医療費補助は実にその約半分を占める。ここに目を付け、時には犯罪的な手段を駆使して医療費を稼ごうとする病院が増加しているのだ。」
「大阪市が、生活保護の患者が入院している200の病院を調査すると、2009年11月からの3ヶ月間、患者全員が生活保護受給者だった病院が34あったという。
 そして、これは生活保護受給者が入院している病院だけの問題ではない。通院する生活保護受給者は激増しているが、高齢者専用のアパートに囲い込んだ受給者に診療を繰り返す、あるいは過剰な検査や投薬をして医療費を稼ぐといった病院の問題が現われ始めている。「病院全体が生活保護で生計を立てている」状況が進行しているのだ。」
「貧困ビジネスは「セーフティネットの綻び」につけ込んだ産業と言える。その解決のためには、行政による厳密なチェック体制を作り、さらに「無料低額診療所」や「まともな医療保険」によって多くの人が早期に治療を受けられるようにすることが必要だ。そうでなければ、国民健康保険料を払えない人々が膨大な人数になり、生活保護受給者が激増している今、患者を利用して不必要な検査や投薬を行ない、生活保護費を無尽蔵に食いものにしていく病院はさらに規模を拡大していくことになるだろう。」
残念ながら、生活保護による医療費の問題は、今後もっと大きな問題になっていくのかもしれない。

▼13日に中川俊郎の「ひまわり」の演奏データをアップして、「今聞くと少しテンポが速い上に、幾つかキズがある」「いずれもう一度やり直すかもしれない」と書いたけど、やっぱり気になるので3日かけてもう一度録音した。
ひまわり(8月31日REC)
前よりよくなっているはず。ただ、同じ曲を何度も弾いていると感覚がマヒして、しばらく時間をおかないと、いいのか悪いのか自分でもよくわからなくなってくる…


2011/8/13■(16日追記) 自分の葬式の音楽(続き)

いろいろな葬式に出て感じることの一つだが、流されている音楽がたいていイマイチではないだろうか。
スターリンの国葬では、リヒテルたち何人かのピアニストがショパンのピアノソナタ第2番の「葬送行進曲」を弾いたそうだ。TPOにはあっているが、いまどき、あんな底抜けに暗い曲を使う葬儀場は多分ないだろう。
最近は葬儀場だけで流される独特の音楽がある。多くは弦楽器主体のアダージョでなだらかな曲で、悪い曲ではないけど、いかにも「それっぽい」というか、しつこく悲しみを煽ってくるようで、聞いているとなんだか気が重くなってくる。別に葬儀でハイになる必要はないけど、もう少しいい曲はないのかなあと、つい考えてしまうことがある。
釜ヶ崎の知り合いの葬儀では、頼まれてよくオルガンを弾く。葬儀はたいてい神父(本田哲郎さんとか)が執り行なうので、賛美歌「主よ御許に近づかん」や「いつくしみふかき」を弾くことが多い。そういう場ではもちろん文句なしの曲だけど、キリスト者ではない人間がキリスト教音楽を弾いているので、自分ではちょっとした違和感を感じる。
音楽が好きな人によっては、「自分の葬儀ではこの曲を流してくれ」と指定することがある。モーツァルトのレクィエムとか、フォーレのレクィエムとか。それはそれでいいけど、それだったらいっそのこと、自分で弾いた曲を流したらいいんじゃないかと考えた。録音したデータを残しておくか、ホームページでこうしてアップしておけば、いつ死んでも葬式で使ってもらえるじゃないか(震災といい、いつ死ぬか誰にもわかりません)。
それで考えた一つは、中川俊郎の「ひまわり」。中川俊郎はもともと現代音楽の作曲家で、20代前半で国際作曲コンクールで自作自演の曲で1位になり注目された。その後、現代音楽の方では極端な寡作になった一方、CM音楽を数多く作曲して、そっちの方で有名になっている。オーケストラ曲では「オーケストラのための(第2楽章)」がYUTUBEに出ている。これは作曲者本人による一種の協奏曲と言うべきものか。
「ひまわり」は、もともと夏目雅子が出る公共広告機構の骨髄バンク ドナー登録のCMで使われたピアノ曲。CMは非常にゆっくり弾かれていたが、CD「Cocoloni utao ナカガワトシオ ソングブック」の自演ではもっと早く弾かれている。作者の自演も非常にいいけど、これがベストかというと、ちょっと違うような気がする。
この演奏は、今聞くと少しテンポが速い上に、幾つかキズがある。あとで、その点をやり直して録音してみたけど、こっちの方がキズはあっても全体としては雰囲気があるようだ。でも、いずれもう一度やり直すかもしれない。
もう一つは、ラヴェル24歳のときの亡き王女のためのパヴァーヌ。有名な曲だけど、前は聞いても「ふーん」ぐらいにしか思わなかった。あるとき、半分寝ながらテレビ朝日の「世界の車窓から」を音だけ聞いていたらこの曲が流れてきて、「この曲、すごくいいけどなんの曲だっけ?」と思った。そう思ってしまったら仕方がないので、弾き始めた。
弾いたことのある人はみんなわかるだろうが、この曲は聞いた感じは簡単そうなのに、弾いてみると結構難しい。特にメロディをスラーでくっきり聴かせるのが技術的に難易度が高い。その点、いろいろ聞いた中でルイス・ロルティは「どうやって弾いてんの?」と思うぐらい抜群にうまかった。一番参考になったのは、ラヴェル自身の演奏したピアノロール。一般的なイメージよりも、かなり早いテンポ設定だ。
「ひまわり」も「亡き王女のためのパヴァーヌ」も、亡くなった人を悼むコンセプトの音楽なので、葬儀にはなかなかよろしいのではないだろうか(自分を夏目雅子や王女様になぞらえるつもりはないです、もちろん)。ぼくが死んだおりには、他にも葬式向きの音楽を録音しておくので、それを使って下さい。あと、葬儀に集まったみなさんへのご挨拶も、今のうちにマイクで録音しておこうかなあと考えてるところだ。

(追記)
上の二つの音源はどちらもmp3ファイル、ビットレート128kbps。数値上はFM〜CD程度の音質のはず。
このビットレート変換だと、サイズはWAVファイルの10分の1以下になるが、それでも5分以上かかる「亡き王女のためのパヴァーヌ」は5376KBと、このホームページでアップしたファイルで過去最大。音源ファイルはやはりかなり重い。
「ひまわり」と「亡き王女のためのパヴァーヌ」でピアノの音が違うが、これは電子ピアノにプリセットされているいくつかのピアノ音源を使い分けたため。
電子ピアノで弾いたときの限界はいくつかある。
一つは、メロディを浮き出させることが難しい。例えばスタインウェイのグランドを弾くと、中高音域のメロディがくっくり浮き出してくるのに感心するが、電子ピアノでは伴奏音とメロディが単色になって区別しにくい。「音色の使い分け」ができないということだろう。
もう一つは、電子ピアノについてよく言われるように、(複モルデントなどの)連打音が出しにくい。特にバロック音楽で頻用される装飾音のとき、本当に難儀する。ぼくがきちんと弾けてないという事もあるが、まともなピアノで弾くとずっとマシなので、やはり電子楽器特有の問題だろう。最近の電子ピアノはこの点が改善されているようなので、できれば買い換えたいんだが…


2011/8/10 自分の葬式の音楽

普段、電子ピアノでピアノの練習をしているけど、電子ピアノにはレコーダー機能があって、それを使って演奏のチェックをときどきしている。ただ、ぼくの電子ピアノ(展示品処分で買ったカワイPW7)は、「オーディオインターフェイス」を通さないとパソコンなどのデジタル機器に取り込めない。それで、何年か前(2006年11月)、ヤマハのオーディオインターフェイス「UW10」を買ってパソコンと接続しようとした。
ところが、ピアノの背面に来るコードのピンが結構でかくて、それが壁にぶつかって物理的につなげない(!)事を発見した。すっかりうんざりしてあきらめて、それから数年たった。しかし、今年4月に、もしかしたらピンが「L字型」のコードがあるんじゃないかと思いついてアマゾンで探してみたら、あっさり見つかった(前のとき、あきらめずにもう少し探せばよかった)。というわけで、そのコードを買って、自分の演奏をパソコンに取り込んで、そのデータを携帯プレーヤーなんかで毎日チェックする習慣がついた。
そこであらためて気がつくのは、自分が弾いている時に聞いているのと、録音してあとで聞き返すのとでは、まったく同じ演奏でも全然違って聞こえることだ。
たとえば声楽の場合、発声の生理的条件で「自分の声を自分で聴く」のと「自分の声を他人が聴く」のとでは物理的に全くちがう(録音された自分の声を聴いてギョッとするのは、その意味で当たり前)。なので、特に声楽の場合は、録音した自分の演奏を聴いてチェックする必要がある。
アコースティックピアノなどの楽器の場合、「自分で聴く音」と「他人が聴く音」は基本的には同じだ(パイプオルガンの場合、設置場所によっては弾き手には聞き手よりも小音量でかつ音が遅れて聞こえるが。西南学院大学のパイプオルガンを弾かせてもらったとき実感した)。だが、楽器にしても、生の音と録音された再生音は次元が異なるから、それは「違って聞こえる」。だが、電子ピアノの場合、最初からサンプリング音(電子音)だから、それを録音・再生しても、聴いていても元の音とほとんど変わりがない。それでも、自分の演奏を録音して聴くと、それがびっくりするぐらい全然違って聞こえる。
具体的には、アーティキュレーションやフレージングの不自然さ、テンポの揺れ、打鍵の硬さなど、あまりの稚拙さ、「弾けてなさ」に自分で驚いてしまう。要するに、自分で弾いている時は、自分の幻の理想の演奏を「聴いて」いるだけで、実際の演奏は全然聴いていないということらしい。楽器やっている人は、演奏を録音してチェックすることが本当に必要だ(他の人の演奏と比較すると更に効果的。グルダがミドルティーンのアルゲリッチにしていたレッスン方法)。
それで考えたけど、日常の生活でも、ふだん幻の「理想の自分」をイメージしているだけで、実際の自分(他人から見ての自分?)のことは全然わかってないんだろうな、と思った。だから、自分の日常生活を記録しておいて後日チェックすると、すごくためになるかもしれない。
バラエティ番組で、普段の生活を隠し撮りして、それを番組で本人にいきなり見せるのがよくある(「ロンドンハーツ」の「どスケベホイホイ」など)。はめられた芸人さんはものすごく落ち込んでいるけど、あれは「思ってた自分と全然ちがう」というショックも大きいんだと思う。
ぼくも録音したのを聴いてへこんで、楽譜に修正のチェックを入れて、練習し直してまた録音、というのをいま繰り返している。かつては暗譜していた「ゴールドベルク変奏曲」を今あらためてやってるけど、この調子だと全曲録音するのに半年ぐらいかかるか?
考えてみたら、何年間かチェンパロを習っていたとき、レッスンを全部レコーダーで録音していたらよかった。「平均律」第1巻全曲の他、クープランやスカルラッティ、フリーデマン・バッハ、バルトーク、スコット・ジョプリンなんかを相当量弾いていたから、チェンバロで自分の演奏を何十時間分も録音できたはずだ。
(続く)


2011/7/20 仙台・石巻へ


(津波で墓石やガレキが散乱した墓地。右上に麦わら帽子が写ってしまった)

7月11日夜8時に夜行バスで大阪を出て、12時間後に仙台駅に着いた。被災地に来るのは3回目。
1ヶ月前には各所の避難所をまわり、2回目は石巻市の16人くらいが泊まる漁村の避難所で暮らした。今回は、前回行った石巻市の漁村でカキの養殖が再開されたのでそれを手伝い、その後、津波で流された石巻市のお寺の墓地を整理する作業などに行った。
石巻市は、もともとカキの養殖で生計を立てていた地域が多いが、津波のためにカキの養殖施設が壊滅した。宮城県漁協によると、津波で生き残った種ガキはせいぜい数%。これから再建しても、収穫が安定するまでに、うまくいっても種ガキは3年、食用のカキは5〜10年くらいかかると言われている。生き残った種ガキも、震災のあと、みなさん被災生活に追われていて放置されていた。震災から4ヶ月たって、さまざまな支援によって、ようやく種ガキを養殖する作業が再開されたのだ。
カキは、カキの種をホタテの貝殻にくっつけて養殖していく。パレットに積まれたカキが、銅線に70〜80枚の貝殻に小穴をあけて通してある。これを手作業で一枚一枚にバラして、機械でこんな感じで(映像にあるこの場所で、この人たちと作業していたんだが)回転させ、それを下の写真のようにカゴに入れて、海に戻していく。

1ヶ月ほど前に避難所で暮らしたとき、現地の人たちは海に出ることが全くできず、自衛隊や民間団体が持って来た食料でご飯を食べながら、「仕事もしないでご飯ばっかり食べてるよお」と自嘲して言っていたものだ。それが今回は、仕事をようやく再開できて、かなり活気が甦っていた。
ここの種ガキは広島や四国に送られていて、ぼくたちが行ったときも、四国のカキ業の人たちが作業に参加していた。ふだんお世話になっているので、人手が必要なこういうときに、ボランティアとしてやってきたということだ。
この人たちは、ふだんこういう作業をやっているので当然、段取りが早い。ぼくたちはカキの養殖について素人さんで、言われたことをあたふたとやっていく。作業は、ホタテの貝殻で手を切ったり、重みで手首が痛くなったり、超暑い中、結構な肉体労働ではある。こういう作業を3日間手伝った。
一日終わると、地元のみなさんは、「自衛隊とボランティアは本当に神様だよね」と言っていた。役に立っているのは、主に四国から駆けつけた人たちだと思うが、炊き出しや物資配給とちがい、こうした作業は今後につながる希望が感じられて、こちらもやっていて気分がかなりちがう。
それにしても、1ヶ月ほど前にこの浜の近くの集落にいたOさんも子どもたちの多くもいなくなっている。少しの間にどんどん様子が変わっていく。

一番上の写真は、石巻市民病院近くのお寺の墓地。このあたりは津波の被害が甚大で、周囲で残っている家がほとんどない有様だ。江戸時代以来の墓石も破壊され、ガレキが散乱しているが、ある程度まで墓石を整理しないと、ユンボなどの重機も入れない。そこで、下の写真のように手作業で瓦礫を片づけていく。ただ、ガレキにスコップが全然入らなくて、汗水流して動いてもさっぱりはかどりません。

作業していると、地元の人が何人かやってきて、「遺骨の入った壺がどうなっているのか見てみたい」と言う。お墓が壊れて、遺骨を納めた場所まで海水や汚物が入り込んでいるかもしれないので確認したいということだ。みんなで墓の基部を「よーいしょ」と起こして中を見ると、確かに海水が入ってヘドロがたまっている。遺骨の壺を取り出して、中を掃除して下の写真のようになる。家族の方は、おじいさんの遺骨の入った壺を大事に抱えて、お寺に洗いに行っていた。


今回、火曜日の朝から日曜の晩まで、6日間現地にいた。土曜日は作業がなかったので、ちょうどこの日、仙台市役所前で開催されていた「東北六魂祭」に行ってみた。震災からの復興を祈願して、青森ねぶた祭、秋田竿燈まつり、盛岡さんさ踊り、山形花笠まつり、仙台七夕まつり、福島わらじまつりを同時に行なうという、ちょっとありえないお祭りだ。午後からのステージを見に行くと、ご覧のように「わらじ」「竿燈」「ねぶた」などが終結していた。



しかし、5時からの「パレード」では、集まった観客が多すぎて、歩道は10メートル歩くのに10分かかるみたいな「真夏のおしくらまんじゅう」状態になっていた。まっすぐ歩くのが絶対無理で、人の波にもまれて体をぐるぐる回転させてようやく前に進むという感じだ。5時過ぎると更に人が押し寄せて、立って背伸びしても「人の頭の海」でほとんど何も見えない。まわりでは子どもが何人も泣くし、暑さで何人か倒れて救急車がやってくるし、かがむこともできないので足下にペットボトルやタオルが散乱している。最後には、「人が多すぎて危険」ということで、パレードはほとんど進まないで中止になった。関東とか遠方から来た人も多いので、「何も見えなかったぞ」「警備がちゃんとしてない」と結構多くの人が怒っていた。というわけで、カキ養殖やお墓の作業より、この祭りの方がずっと疲れました。

1ヶ月前に来たときから、被災地のようすはどう変わったか。一つは、ガレキの撤去もかなり進み、あちこちにびっくりするほど巨大なガレキの山ができていた(この処分がまた問題なんだが)。仮設住宅の建設も進んでいる一方で、「これからどうなるのか」という悩みがいよいよ現実的になっていた。
たとえば、カキの養殖は再開されたが、収穫が安定するまでに食用のカキで5〜10年くらいかかるとして、その間、どうやって生活するかという問題がある。事実、カキに限らず、今回の被災でワカメ等の養殖を辞める人も多いという。養殖用のイカダや船などを津波で流されたり、一緒に仕事をしていた家族を亡くしたり、仕方なく別の仕事や住む家を探して地元を離れる人が多いからだ。
また、仮設住宅はできてきているが、「家賃がタダ」なだけで、避難所とちがって、食料などの生活支援は基本的になくなる。8月15日までに現在の避難者数だけ仮設住宅を建てるという予定だが、仮設ができても、そこに入る人がどれだけいるかは疑問とされている。
さらに、7月に入って、仮設住宅での孤独死がすでに数件報道されている。「パーソナルサポート」という形で、野宿者支援を続けてきた「仙台ワンファミリー」などが仮設住宅を回る活動を始めている。生活保護を受けている人へのアパート訪問活動は、ぼくたちもボランティア活動でずっと続けているが、訪問しても大半が不在だし、行っても歓迎されない場合もあり、必要ではあるが難しい活動であることは間違いない。おそらく、コミュニケーションを取ることだけを目的にするのではなく、医療相談や法律相談を組み合わせた形で訪問し、同時に入居者の自治会組織を作ってそこと協働していくことが効果的なのだろうと思う。
ボランティアについては、数ヶ月たって、参加者がどんどん減っている。これから夏休みになるので、大学生たちが参加していくとは思うが。また、いくつかの組織が、職員を順繰りに(給料や交通費を保障した上で)被災地に送り出し、組織的・継続的なボランティア活動を展開しているが、中には「順番で来ただけ」という、あんまりやる気のない人が来ていた。作業していても、見るからに本気でやってないし(現地の人たちが「あの人たち、なんなの?」と言っていた)、夜になったら何人かで仙台名物の牛タンを食べに出て行って、そのあとキャバクラに繰り出していくという流れだ。活動が組織的になると、情熱が伴わなくなっていくという、典型的な話なのかもしれない。震災から4ヶ月たち、当座の「命をつなぐ」ことに問題が集約していた時期から、問題が多様化し、一目で現実を見渡すことができない時期に来ているということを感じる。


2011/6/29■(7月1日追記) パレードは200台の酔っぱらっていて旗の包茎の車を含んでいた

土日に用事で名古屋に行ったとき、出たばかりの『アインシュタイン その生涯と宇宙』(上下)を本屋で見つけた。2冊あわせて1000ページ近い大著で、アインシュタインの評伝としては最も充実しているようだ。「時計と同時性」について必死に考えた人間としては見逃せない本なので、その場ですぐ買った。
上巻は、特に1905年の「奇跡の年」の経過や、そこから一般相対性理論への紆余曲折が割合詳しくたどられていて、読んでてものすごくおもしろい。で、今日から下巻を読み始めたんだけど、「13章 さまよえるシオニスト」に来て、この本がとんでもないことになっていることに気がついた。例えば

数数千が、訪問代表団と会合するためにユニオン列車車庫に群がった、そして、パレードは二〇〇台の酔っぱらっていて旗の包茎の車を含んでいた。アインシュタインとワイツマンはオープンな車で乗った、そして、国家警備隊マーチッグバンドとユニフォームのユダヤ人の退役軍人の枠組みはそれらに先行した。道に沿った賛美者は、アインシュタインの車をつかんで、ステップでジャンプした、警察はそれらより引きちぎろうとしたが。
 アインシュタインがケイス学校でクリーブランドでAppliedScience(現在のCaseの西洋のReserve)について話していた間、有名なマイケルソン―モーレーがどこで実験するかが行われていた。そこで、彼は個人的に会った、一時間以上、その実験の新しいバージョンがプリンストンカクテルパーティーにアインシュタインの疑い深い応答を引き起こしたデイトン・ミラー教授と共に。
(P61)

「二〇〇台の酔っぱらっていて旗の包茎の車」! その「車をつかんで、ステップでジャンプ」! 映画にしたら、かつてないほど凄まじい映像になりそうだ。
また、敗戦後のドイツのハイパーインフレについてはこのように語られる。

しかし、そして、下部は経済から落ちた。一九二三年の始まりで、一かたまりの価格はその年の終わりまでに10億のマルクかかりに七〇〇のマルクまで行った。はい、一〇億。
一九二三年一一月に、国有財産によって支持されて、新しい通貨(レンテンマルク)は紹介された。一兆の古いマルクが1新しいレンテンマルクと等しかった。
(P63)

「下部は経済から落ちた」ってなんなのかな…。それと、「はい、一〇億」とか、この翻訳はときどき、いきなりくだけた口調になる傾向がある。
ヴァルター・ラーテナウの暗殺については、こう描写されている。

一九二二年六月二四日の朝、いくつかの若い国家主義者が、ラーテナウが働くために乗っていて、手榴弾にロブで打たれる機関銃を使用することで彼をスプレーして、次に急いで立ち去ったオープンな車を横についた。
アインシュタインは残忍な暗殺で荒らした、そして、ドイツの大部分は悲しまれた。
(P65)

「彼をスプレーして、次に急いで立ち去ったオープンな車を横についた」。よかったなあ、暗殺されたんじゃなかったんだ。(機関銃を「浴びせる」という意味のspray なんだろうな)。
も一つ引用。

 彼の慣性は説明しにくかったのですが、それは一九二〇年代の間、彼の私生活と彼の学術上の著作物で両方で明白になった変化を暗示していた。かつて彼は仕事から仕事まで跳んだ落ち着かない反逆者だった、洞察に関する洞察、抑制の気があった何にでも抵抗して。彼は従来の体面によって不快にさせられた。しかし、今、彼はそれを擬人化した。自分が身軽なボヘミアンであると思った空想に走る若者であるので、彼は決着をつけた、皮肉な分離におけるいくつかの一刺しだけで、溺愛的なhausfrauがあるブルジョワ的な人生と重いビーダーマイヤー家具がぎっしり詰め込まれた豊かに壁紙を張られた家に。彼はもう落ち着かなくはなかった。彼は付き合い易かったです。(P68)

さっぱり意味がわからないが、この調子で13章全体が続く(ただ、冒頭だけまとも)。「溺愛的なhausfrauがある」と、ドイツ語が原文のままであるように、どうやらこの翻訳は13章全体を「翻訳ソフト」で訳して、そのまんま印刷・出版してしまったみたい。
「監修後書き」を読むと、多くの章は大学教授とか翻訳家が担当しているけど、13章などいくつかの章は「編集部が手配し」、用語統一などは「時間上の制約から編集部が行なった」とある。13章の最初の方だけなんとか訳したものの、時間がなくなってパニクった編集の人が、やってはいけないことをしてしまった模様。翻訳がおかしな本はときどきあるけど(『モーツァルト・レクイエムの悲劇』もなかなかのものだった…)、これは本当の「反則」、正真正銘の欠陥商品だ。
まだネットでも問題になってないみたいだけど、出版社はまともに翻訳し直して、無償で購買者に交換すべきだろう。読んでも本当にワケわかんないです。(それにしても、「二〇〇台の酔っぱらっていて旗の包茎の車」の原文って、どうなっているのかな?)
(なお、武田ランダムハウスジャパンに苦情とまともに翻訳した本との交換を求めるメールを出しました)。
 
(7月1日追記)
今日、武田ランダムハウスジャパンから返信があった。
「下巻13章についてはご指摘の通りで誠に申し訳ありません。これは、校正・校閲が不十分であったことが原因です。(…)当該書籍は現在、回収を行っております。また、ただ今、改訂版の作成をすすめております。7月内を目処に改訂版を刊行する予定にいたしております。
すでに購入された読者の皆様には、誠にお手数ではございますが、下記まで着払いでご送付くださいますよう、お願い申し上げます。」ということだった。
(個人的には、13章だけの話だから、英語版の原書をすぐ送ってもらった方がありがたい。でも、そうもいかないか…)


2011/6/18 入試に出る『貧困を考えよう』など

数日前、『貧困を考えよう』(岩波ジュニア新書)の一部が横浜国立大学の教育人間科学部の入試に出題され、大学入試過去問題集(赤本)に収録したいので許諾を、という手紙が世界思想社教学社から来た。以前にも『ルポ 最底辺 不安定就労と野宿』が大阪市立大学で出題されて同じ手紙があり、そのとき、しばらく考えてから収録の許諾をしたが、今回もOKした。
出題内容は、「こどもの貧困」の箇所の引用して、「ここにはどういう説明が入るか、これこれの言葉を用いて説明しなさい」といった設問が5つ。設問の一つは、「下線部3は、この文章が書かれた2009年の状態を反映している。2010年度からこれに関連して開始された新しい家族関連支出の名称と支給の対象をそれぞれ答えなさい」とある(「こども手当」のこと)。本の内容がどんどん古くなっていく…
前もそうだったけど、入試の問題に使われても、大学から連絡は来ないんだよね。
また、岩波書店から『貧困を考えよう』(4刷)が一冊送られてきて、帯に「本田由紀さんがすすめる『社会を考える』5冊」として、「財政のしくみがわかる本」などと一緒にこの本がリストアップされている。ありがたし。

「ちくま」6月号に、森絵都さんの『この女』について書いてます。
『この女』の後書きにあるように、2年前ぐらいに森さんと編集者が釜ヶ崎に取材に来たとき、釜ヶ崎を案内して、夜回りにも来ていただきました。その縁もあって、ここでこの本について書いてます。
また、月刊「春秋」2011年2/3月号「特集〈無縁〉の肖像」で、「野宿者支援の経験から ・貧困・無縁・NFO」という文章を書いてます。

ビラで書いたり、集会では発言しているけど、釜ヶ崎では、労働者が原発事故の現場仕事に連れて行かれる事件があり、野宿者の住民票削除について抗議活動した人たちが逮捕、起訴されるという弾圧事件があった。釜ヶ崎では、信じられないようなことが起こり続けている。以下、2つの事件について簡単な説明を。
 原発事故については、東日本大震災直後の3月17日ごろ、釜ヶ崎の「西成労働福祉センター」が手配業者からの依頼をもとに「宮城県女川町、10トンダンプ運転手、日当1万2千円、30日間」という求人情報を掲示した。それに応募して採用された60代の日雇労働者2人が東北に向かったが、その仕事内容は、福島第1原発の敷地内で防護服を身に付け、がれきの撤去作業というものだった。その1人が3月下旬ごろにセンターに電話で「話が違う」と訴え、原発敷地内で原子炉を冷やすための水を積んだ車の運転などをしたことも確認された。その労働者は30日間の仕事を終えた後、センターに「5号機と6号機から数十メートル離れた敷地内で作業した。安全教育はなく、当初は線量計もなかった。(約2倍の)計60万円受け取った」と説明したという。
 労働者を雇った業者「北陸工機」(岐阜県大垣市)は東京電力の3次下請けで、「(元請けから依頼があったのは福島第1原発での作業だったが)混乱の中で女川町の現場を伝えてしまった」と釈明した。一方、愛知県の元請け業者は「“福島第1原発付近で散水車の運転手”と業務内容を伝えたが、原発敷地内の作業とは言っていなかった」と話したという。
 職業安定法は、事業者側に対して、求人票に正確な労働条件を記載することを義務付け、うその条件や内容を示して労働者を募集することを禁じている。しかし、仕事がない日雇労働者にウソをついて現場に送り出し、危険な仕事をさせるケースは以前から続いている。労働者・野宿者の側も、仕事がなく、生活が苦しい状態が続けば、「おかしいな」と思っても目の前の仕事を取らざるをえないという問題がある。
4月5日には、昨年7月11日におこなわれた参議院選挙のさい、釜ヶ崎で「投票に行こう!」と呼びかけた仲間たち7人が「公務執行妨害」の容疑で逮捕され、関係先14カ所以上が家宅捜査を受けた。不当逮捕された7人のうち、3人は4月26日までに釈放されましたが、4人が「威力業務妨害」で起訴された。
 大阪市は2007年3月29日に、釜ヶ崎解放会館など支援施設に置かれていた釜ヶ崎日雇労働者2088人もの住民票を職権で削除した。そのため、選挙人名簿に記載されず、有権者であるにもかかわらず選挙権を行使することができなくなった労働者・野宿者の権利を守るため活動していた人たちが逮捕されたのだ。野宿者・日雇労働者の権利を守る運動へ大規模な弾圧だ。起訴された4人の仲間たちの無罪釈放、そして貧困ゆえ住居がなく住民登録できない人たちの選挙権行使の回復を求めていきたいと思う。


2011/6/7 仙台・石巻へ



5月29日夜8時に夜行バスで大阪を出て、12時間後に仙台駅に着いた。被災地に来るのは2回目。
この日、台風の影響で、仙台駅発着の在来線が朝から12時過ぎまで完全にストップ。学校にも家にも行けない高校生たちが駅で大勢、右往左往していた。ここから、「ホームレス支援全国ネットワーク」が運営する救援物資の倉庫に車で迎えに来てもらって、そこで全国から運ばれた物資(布団、食料、衣類などなど)の整理作業を手伝った。
1ヶ月前には各所の避難所をまわる活動に行ったが、今回はそこからずっと石巻市の16人くらいが泊まる漁村の避難所で暮らした。ここには「グリーンコープ」と「ホームレス支援全国ネットワーク」が共同で関わっていて、近くにはボランティアなどが泊まれて物資が置けるプレハブを設置している。
この集落は、海が目の前に広がる場所にあるため、もろに津波を受け、上の写真の状態。2ヶ月半以上たっているが、自衛隊が通路を確保するために瓦礫をかき分けたぐらいで、ほとんど津波直後の状態だ。

津波のため、この集落でも2人が亡くなっていた。津波が来たとき、集落のみんなが裏の山に上り、津波の危険がなくなるまで、雪の中でたき火しながら夜を過ごしたという。電気も水道も止まったが、沢の水が豊富にあるのでそれを沸かして飲み、被災用に蓄えていた食料や、海から大箱ごと流れ着いた食料などで食いつないだ。いまでは、(確か)一週間前に電気が通り、水道も使える状態。食料は、自衛隊や支援団体が持ってくるのでとりあえず足りていて(ヤマザキのおにぎりが連日いっぱい来た)、歯ブラシや石けんなどの必需品も送られ、生活はできる状態になっていた。
ここでは、避難所でみなさんと暮らしながら、毎日出てくる必要な作業を行なう。この集落には、北海道から単身来て集落に住み込みながら活動を続けるOさんという方(ご本人が実名で書かれるのを望まないかもしれないので)がいて、その人の作業を手伝うのが主な仕事だった。
例えば、集会所には10数人が住んでいるが、狭い中で何世帯もが暮らし続けるのは、物理的にも精神的にもかなり大変。なので、Oさんの発案で、とりあえず一世帯が住める小屋を近くの地所に造ることになった。
Oさんは北海道でも幾つか山小屋を造っているそうで、そのための機材や材料を車で運んで来ている。もとは畑だった所に穴を掘って、チェーンソーで切った柱(津波で流された家の柱)を材木で叩いて埋め込んでいく。柱の頭を水平に揃え、ツーバイフォー工法で柱を組んで小屋を造っていく。下の写真がそのようす。だいたい一週間で完成するそうで、残念ながらぼくは途中で帰ったが、Oさん一人であとは作っていくということだった。



3日目は、車ですぐの隣の集落に行く。ここで家を流された人から「遺品とアルバムを取り出したい」という依頼がOさんに入っての作業だ。
家は、下の写真のように、2階部分がもとの場所から50bぐらい離れた場所に流され、その下には車が入り込んでいた。



中にはタンスなどがあるが、家の内部に入り込むことが難しい。余震も続いているので、中に入っている間に大きな余震が起こったりすると、結構危ない。Oさんが先に入って、タンスがある場所を見つけ出して開けようとしたが、柱やガラにはさまれていて何をどうしても空かない。「バールやノコギリがいるなあ」ということで、Oさんは道具を取りに車で戻っていった。
その間、家の女性の方としばらく話をした。津波は地震の30分ほどあとにやってきたという。テレビもラジオも聴けなかったので、津波の情報が入るのが遅かった。やがて「大津波が来ているらしい」と情報が入り、あわてて猫とこども、家の片付けをしている高齢のお母さんの手を引き、猫のエサだけ持って家族全員で山の上へ逃げ出したという。
第1波、第2波がきたあと、暗くなってから、漁師のつれあいさんが「船のようすを見てくる」と言って出かけていった。だが、そのあと最後の大津波がやってきた。その晩、ずっと帰りを待ち続けたが帰ってこず、翌朝、明るくなって探してみると、転覆して流された船だけが残っていた。家の方は、涙を流しながら、そのようすを話してくださった。「亡くなった主人の遺品と、こどもたちのアルバムたけでも見つけたい。けど、自力では入ることもできない」ということで、作業を依頼されたということだった。(また、人がいないとき、どろぼうがやってきて、手の届くところから金目のものを取り出しているということだ)。
そういう話を聞くと、当然だけど、「なんとかして見つけ出そう」と思う。道具を持ってきたOさんと一緒に家に入り込み、Oさんがタンスを壊して中にあるものを引き出して、家の外に出していく。衣類や書類がいろいろ出てきたが、アルバムが見つからない。「もうさがすところがないなあ」と言っていたころ、思いついて下の瓦礫の中をあさってみると、ネガやアルバムが散乱しているのを見つけ出した。
外に出して中を見てみると、海水に浸かった上に2ヶ月半たっているので、変色したり写真どうしがくっついたりしている。だが、こどもたちの七五三など、家族の写真がだいたいあったようだ。本業がカメラマンでもあるOさんが「無理にはがさず、水につけてから、ゆっくりはがしてみてください」と言われていた。ぼくたちは車で帰ったが、そのあいだ、家の方はずっとアルバムをめくって写真を見ておられた。



1ヶ月前に来たときから、被災地のようすはどう変わったか。一つは、多くの地域に電気やガス、水道が通り(前に行った女川の集落はいまでも電気が来ていないらしいが)、生きていくことに問題はなくなった。お金がなくても暮らしてはいける状態だ。一方で、「これからどうなるのか」ということが大きな悩みになっていた。
ぼくがいた避難所は、カキの養殖が主産業だったが、船をはじめ関連設備がすべて津波で破壊された(今回の地震で、確か3県の漁船の97%が失われている)。今後、設備投資をしてカキ養殖を始めるとしても、とんでもない資金がかかる。ぼくが聞いたときは、近隣あわせてカキ養殖をしていた30人中、「もう一度やる」と言っている人は「3人だけ」ということだった。大きな借金をしてもう一度再建に取り組んでも、再建がいつになるかわからないし、以前のように生計を立てられるものになるかもわからない。それぐらいなら、別の場所に引っ越してちがう仕事をさがすという人がかなり出ているということだ。
ぼくが避難所に着いた日は、宮城県知事が提唱した、民間が会社として参入して漁業を行なうトピックを含む「漁業特区」の話題が出ていて、毎日新聞の記者がその取材に来ていた。県漁業組合は「家族単位で自営業として漁に出る漁師にはこの特区構想は馴染まない」と反対しているが、この地区の区長さんも同様の意見のようだった。ただ、このままで漁業が早急に復旧するとは誰も考えておらず、何らかの思い切った方法が必要ということはみんな感じているようだった。
また、「避難所」が「避難所」である間は、いまのように食料や生活必需品が毎日のように入って来るが、例えば仮設住宅に入ると、「家賃がタダ」なだけで、あとは全部自力で賄わなければならなくなる。「仕事がある」「年金が十分ある」という人は別だが、多くの家と仕事を失った人たちにとって、「カフカの階段」じゃないけど、いきなり越えられないような高い壁がやってくるのだ。
仙台では、岩手で「もやい」の震災対策本部として活動している人から、現地で「今後、どうやって生活していけばいいかわからない」という相談を受けることが増えていると聞いた。生活保護などの制度が身近でないため、生活に困った時どうすればいいのかまったくわからない人が大勢出ているからだ。阪神淡路大震災のときも、「仮設住宅」に入ると生活できなくなるため、いわば「避難所のシェルター」としての「待機所」に入る人、そして公園でテントを張って野宿生活を選ぶ人が相当いた。「避難所」後の貧困問題が東北でも現われる可能性があるのだろう。
今回、ぼくが暮らした集落には、小1から小4のこどもたち3人がいた。2人がきょうだいで、一人が、近くの集落にあった家が流されて、実家のあるこの集落に避難している。大人たちが先のことに頭を悩ませているのに比べて、こどもたちは毎日3人で明るく遊んでいた。仙台の倉庫から、ブーブークッションやチカチカのライトなどおもちゃも持っていったが、こどもたちはブーブークッションをお尻で踏んでは、何がおもしろいんだか延々と笑いまくっていた。風船バレーをしたり、4人でサッカーをしたり、早朝、夕方はこどもたちと遊んで楽しかった。こどもたちは、瓦礫の山で探検したり、壊れてゴミになった乳母車でジェットコースター遊びをしたりと(ちょっと危ないけど)被災の状況でも遊びを見つけ出している。しかし、この子たちの通う、全校数十人の小学校からも死者が何人か出たという。数日間しか現地にいない人間にはほとんど何も見えていないのだろうとあらためて思う。


2011/5/2 仙台・南三陸町・牡鹿半島へ



4月23日夜8時に夜行バスで大阪を出て、12時間後に仙台駅に着いた。宮城県に来たのは初めて。
ここから、「ホームレス支援全国ネットワーク」が運営する救援物資の倉庫に向かい、そこで福岡など全国から運ばれた物資(布団、食料、衣類などなど)の運び入れ作業を手伝った。そして午後、野宿者支援を行ない、今は被災者支援に力を注いでいる「仙台ワンファミリー」事務所に向かった。

天災は本当に突然やってきた。3月11日、マグニチュード9.0を記録する地震が起こり、その直後、大津波が押し寄せ、家や車、そして街に押し寄せ、多くの人を飲み込んでいった。そして、漏れ出した石油やガスによる火災が発生し、さらに福島ではスリーマイル島を上回るとされる原子力事故が起こった。
当日、大阪では、地震は歩いていたら気づきもしない程度だった。一緒にいた人に、「東京の知り合いから『大きな地震があって駅から動けなくなった』とメールが来た」と言われ、「関東で地震があったのか」と知った。家に帰ってテレビを見ると、生まれて初めて聞く「大津波警報」のあと、本当に巨大津波が各地に押し寄せる映像が入ってきた。信じられないような映像に、テレビから目が離せない時間が続いた。
被害のようすが徐々に明らかになると、ふだん野宿者支援に関わる者としては、現地の膨大な被災者とともに、現地の支援者や野宿者のことも心配になった。数日して、「仙台夜まわりグループ」から、若林地区の学生、市民がボランティアに駆けつけ、14日から事務所で被災者に向けてのカレー、豚汁、ご飯の炊き出しを始めたという知らせがML経由で入ってきた。炊き出しは、仙台市だけでなく他の市でも行なうという。炊き出しは野宿者へ向けてずっと行なっていたので、もともと道具やノウハウを持っているのだ。
その後、「仙台ワンファミリー」が震災当日(!)から炊き出しを始めたと知った。野宿者支援団体は本当に反応が早い。こうした現地の動きにあわせ、「ホームレス支援全国ネットワーク」など全国の野宿者支援団体も動き始め、続々と現地に入り、全国各地での後方支援も始まった。

震災のあと、あまりに激しい被害に、他の人も感じたことだろうが、時間がとまってしまったような感覚に陥った。そして、自分に何ができるか考えた。義援金を少額ながら送ったあと、野宿者ネットワークなどで使っている救援物資を送るというのはどうだろうと考えた。「仙台夜まわりグループ」や、「ホームレス支援全国ネットワーク」で現地に入っている人と連絡をとって寝袋などの必要性を聞いた。すると、「沿岸地域で車中生活をしている人がかなりおり、週に一回の夜(昼)回りで野宿している人にも出あう。なので、寝袋はあれば助かる」と言う。そこで、ただちに現地に送る段取りをとった。
さらにボランティアの必要性について聞くと、「こちらがコーディネートできる状況ではない。4月半ばになれば、なんとかなるかもしれない」という話だ。実際、現地に支援で入る人はいるが、現地で寝場所と食料を自分で確保することが条件になっていた。ということは、テントかある程度の大きい車で行かないと活動はまず無理そうだ。
その後、8日間、熱を出して寝込んでまったく動きがとれなくなった。回復してから、現地に行っている人から状況を聞き、一週間の予定で活動に参加する計画を立てた。ただし、ゴールデンウィークは学生などが一気にボランティアに入るだろうから、行くならその前だ。そして、前からボランティアで入りたいと言っていた20歳の調理師の人と一緒に夜行バスで仙台に行くことになった。

仙台に着いて二日目、「仙台ワンファミリー」からトラックに支援物資を積み込んで、各地の避難所に物資を届けてニーズを聞く活動に参加した(ただし、運転できないので助手席。この日に運転していたのは、NPO釜ヶ崎から派遣されて1ヶ月ここで活動している人だ)。
仙台市からトラックで市内、そして海岸沿いを走ると、まるで爆撃にあったように破壊された町が続く。個人の家、庭、商店、公園、電柱などの人間の営みがことごとく破壊されている。テレビでの映像は見ていたが、当たり前だが、目の前で見るとその衝撃はまったくちがう。しかも、(個々の例外的な区域はあるが)、沿岸地域の多くが福島、宮城、岩手の3県にわたって延々と破壊されているのだ。これが第二次世界大戦以来、日本で最大の激甚災害だということをあらためて実感した。



ぼくたちが向かう避難所の多くは、山道をいくつも越えた小さな集落が多かった。その一つが、女川原発近くの民家に作られた避難所だ。そこは小さな入り江に作られた集落で、家々は津波で文字通り壊滅的に破壊されていた。津波は高く、二階建ての家の屋根に自家用車があった。屋根は三角形だが、その斜面に車がひっかかっているのだ。いちばん上の写真にあるように、家のいくつかは津波で転倒し、90度ひっくり返った状態になっていた。
この避難所は生き残った民家に16人が集団生活していて、地震から44日たっているのに、まだ電気も水道も来ていなかった(なお、近くの女川原発は稼働を中止している。そのそばにある「原発PRセンター」も当然、閉所中)。この集落に来るには山道を車で1時間ぐらい走る必要がある。その道路の各所が崩落したりヒビ割れしたりていて、大型の作業車が走行することができず、そのため電気復旧が難しいらしい。
ぼくたちが納豆や米など物資を運んでいくと、「よぐ来てくれたねえ、コーヒーでも飲んでいぎな」と歓迎していただいた。いっしょに物資を運んでいると、そこの人が「本当に難民になっちまったなあ」と言っていた(実際、「難民を助ける会」という団体も、各所の避難所に物資を届いている)。
コーヒーをいただきながらいろいろ話を聞く。ここは、水も止まっているが、井戸水があるし、味噌は自家製のものがあり、すぐ目の前の山では山菜もとれる。そして、自衛隊やNPOがときどき物資を運んでくるので、なんとか自給生活を送れているという。寝るときは、土間をあがったところで雑魚寝。だが、震度3程度の余震が毎晩続いていて、いつでも地震による崩落や津波から逃げ出せるようにスタンバイして寝ている。「ぜんぜん安心して寝られない」ということだ。
ぼくたちは、いま必要な物資や今後なにが心配かなどを聞く。そして、それをメモして、一週間、10日後にもう一度ここを訪ねていく。「仙台ワンファミリー」の人は、「一度行っただけだと、信頼関係も作れない。繰り返し現場に行って話すことで、何が必要かを話してくれるようになる」と言っていた。そこらへんは、野宿者に対する夜回りとまったく同じだ。こうして、車で行ける限りの避難所を暗くなるまでまわっていく。

避難所の中には、ごく普通の民家もある。ぼくたちが行った中では、家の1階の半分まで波がやってきたが、家は一応無事、という9世帯が避難している家があった。しかし、この人たちも生活に困り果てていた。というのは、そこはへんぴな場所で、もともと自家用車がなければ買い物も病院も行けない場所なのだが、一帯の車はすべて海水に浸かって、動かなくなっていた。家はあるけど動きがとれない「買い物難民」状態になっているのだ。
自衛隊も他の団体も、こういう一見「大丈夫」な家にはまったくやってこない。避難所になっている家の人は体調が悪く、寝込んでいる事が多いという。たまたま「仙台ワンファミリー」に知り合いがいて、連絡が入ったので回ることができたという。今回が訪問2回目ということで、ダンボール箱20近くの食料品などをおろしていった。そこの避難所の人は「本当に助かりました、ありがとう」「今度はいつ来てくださいますか」と感謝されていた。
帰り道、トラックの中で「ああいう、目立たないけど困っている避難所って他にもいっぱいあるんだろうなあ」という話をした。

三日目から、南三陸の避難所へ2日間の炊き出しに向かう。ここは、ニュースで繰り返し伝えられたが、町役場から津波が来ることを伝え続けて、津波に呑まれて亡くなった女性職員がいた町だ。
避難所や炊き出しの多くは、各所で自然発生的に生まれた。しかし、炊き出しも40日を越え、炊事を担当する人たちは疲労困憊してしまっている(よく言われることだが、非常事態で活動し続けるのは40〜50日が人間の限界とされる)。そこで、民間の支援団体が2日間の炊き出しを行ない、その間みなさんに休んでもらうという活動だった。
この活動は、「セカンドハーベスト」(廃棄される食品などを必要な人たちに届けるフードバンク)で上野公園の炊き出しを行なっている人たちなど3人が中心になり、そこにぼくともう一人の調理師が加わる5人チームで行なった。
200食分、1日では2回の食事。材料はぜんぶ車に積み込んで持って行く。なお、ご飯は自衛隊が炊いて持ってきてくれる。



この区域も、電気や水道が来ていない。水道は2日に一回補給車が来て、でっかい水槽に水を入れていき、みんながポリタンクで取りに来る。電気もないので、夜6時すぎると真っ暗で何もできなくなる。そのため、ぼくたちは夜明けと同時に起き出して炊き出しを始め、10時頃に200食のご飯を作り、それが終わるとただちに夕食の用意を開始して、6時にすべて終わるとちょうど暗くなるので寝る、というサイクルになった。体力的にはなかなかきつく、2日経ったら足腰が痛くて、歩くのも苦しくなっていた。
ここの公民館にはLPガスがあったので、写真にあるように水さえ汲めば普通に調理ができる。これと、100人分の調理ができるでかい寸胴で味噌汁やおでん、ウィンナー、ニラ卵いためなどを作っていく。食器をあらう水がもったいないので、下の写真のように、器にラップを敷いてその上に食事を置いていく。



地元の方もいろいろ手伝ってくださった。食べながらの話で、「津波が『黒い壁』になってやってきた」「必死に逃げ出したけど、あと1分か2分遅れたら巻き込まれていた」といった話を聞いた。みなさんの話は、知人の行方不明者のことや今後の生活のことが中心だが、「お先真っ暗」と言う人は多かった。家のローンが残っている人、家族が見つからない人、漁業など仕事を失った人、そして家族を亡くした人、あまりに立ち向かわなければならない問題が多すぎる。
また、電気も水道もまだ通らない上、40日以上たっているのに仮設住宅の見通しもつかない。沿岸はすべて津波で破壊されているし、いつまた津波が来るかわからないが、その他の場所はほとんど山だからだ。「山を切り崩して高台に住むしかないねえ」と何人かが言われていた。
日常の買い物も難しい。この区域は「町全体」が流されたので、商店などがすべて近辺から消えた。何を買うにしても、車で1時間以上かけないと手に入らない。
そういえば、水道も電気もないのに、お風呂や洗濯はどうしているのだろうか。気になって聞くと、「自衛隊が移動のお風呂に入れてくれる。あれは本当にありがたい」と言われていた。(ボランティアが自衛隊の風呂に入りにいくのはどうかと思ったので、ぼくたちは行かなかったが)。洗濯は「川で洗濯」ということだった。「本当に『おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川にせんたくに』よ」ということだ。
外で煮炊きをしていると、近所の小学生のこどもたちが見にやってくる。小学校が避難所になっているので、自由参加の「青空教室」以外、遊ぶ時間がたっぷりあるようだ。手の空いているとき少し一緒に遊んだりしたが、こどもたちは元気で、非常時を楽しんでいる感じもある。東北のこどもに会うのは初めて。こどもが(女の子も)自分のことを「オレ」「おら」と言うのがおもしろい。大阪では子どもが「おら」と言うのは「クレヨンしんちゃん」の影響だが、こちらの大人(女性)に聞いたら、「私たちも自分のこと『おれ』と言ってたよ」と言っていた。


↑電気がないので、ソーラーシステムで灯りや携帯電話を充電していた。

避難所になった公民館の一つには、その横に石碑が建っていた。見てみると、こうあった。



「地震があったら津波の用心。そりや来た逃げろ、この場所へ」
昭和8年とある。三陸沖地震による津波の石碑だ。つまり、「津波はここまで来た。だから、ここから先へ家は建てるな」ということになる。
今回の津波は、1933年のときよりもさらに高くやってきたという。公民館は無事だったが、ここから海寄りの区域はすべて津波の被害にあっていた。下の写真のように。80年前の記憶が忘れられていたのは仕方ないのかもしれない。だが、「ここにはもう家は造れない」ということは多くの人が言っていた。



避難所を回った他、連休に入った4月29日には、七ヶ浜でボランティアを受け入れた地元の社会福祉協議会から「仙台ワンファミリー」に依頼があって、被災した家から泥出しの活動に来た「ボランティアのための炊き出し」にも参加した。
ボランティアは、カトリックのシナピス、モルモン教、一般参加の人の他、大学生が多かった。大学生協が呼びかけたらしく、七ヶ浜には帯広畜産大、広島大、東京大、早稲田大、津田塾大の学生など全部で150人近くが参加していた。ドロ出しの作業は4時に終わりで、それから続々とボランティアがこのセンターに帰ってくる。そこで、ぼくたちがおにぎり、ウィンナー、カレーうどんを「お疲れさまー」と出していく。彼ら彼女らは、数日間、ここに泊まり込んで活動をしていくという。みんな、「疲れたあ」と言いながら、たいへん明るい表情をしていた。



連休中に被災地にボランティアが集中することは予想されていた。ただ、あらかじめ参加日程と活動内容を現地と調整して行くならいいけど、「車やリュックに荷物を詰め込んで、いきなりボランティアセンターに行くという人が多いんじゃないか」と、現地の支援団体の人たちは心配していた(実際、多いようだ)。せっかく行ってもマッチングの問題で活動できないかもしれないし、さらに車で行くと、渋滞がひどくなって物資配給の活動に支障をきたす可能性もあるからだ。
また、活動している人からは「遠くからボランティアに来るくらいなら、その交通費をカンパしてくれた方が支援になるのに」という意見も聞いた。こちらにも耳の痛い話だが、確かにそういう面もある。
また、家屋のドロ出しなどの作業をボランティアがするより、行政が被災者を雇ったてその仕事を提供した方がいいのではないか、という意見もある。(だが、瓦礫撤去の仕事が行政から出されたが、思ったほど被災者から希望が集まらなかったという事実はある。仕事に行っている余裕がなかったり、短期の仕事ではなく、次の恒久的な仕事を探すことを選ぶ人が多かったためらしい)。
また、被災地に様々な生活物資が送られていて、もちろんそれは非常に役立っているのだが、ある程度たつと(通常の貨幣経済が回り出すと)、それによって地元の商店の営業が脅かされ、地元経済が低迷してしまう危険がある、ということも言われている。事実、雲仙普賢岳の被災では、救援物資によって地元の商店のかなりがつぶれてしまったという話も聞いた。これは今回の震災の場合はかなり先の話かもしれないが、いずれにしても、ボランティアと同様、現場とのマッチングの問題なのだろう。
そして、義援金、支援金は役に立つが、なかなか被災者のもとに届かないことが問題になっている。日赤には大変な額のお金が入ってきたが、現地では「あれだけお金が入っているのに、日赤の動きはよくわからない」という話は口々に聞いた。団体がでかくなると小回りがきかないという、よくある話なのかもしれない。「お金は、現場でこまめに動いている団体に送った方がずっと役に立つ」というわけだ。これは、野宿者支援の現場であてはめればよくわかる話ではある。

一週間いて印象に残ったことの一つだが、支援活動をしている人に「仙台に移り住んで、これからずっと支援活動を続ける」と言う人が何人かいた。一人は、もともと埼玉で肉体労働をしていて、地震の事を知って、直後に被災地にやってきた。だが、「マッチング」の問題で活動できなかった。一緒に来た仲間の多くは帰って行ったが、その人はしばらく留まって何かできないか探し続けて、支援団体と出会い、それからずっと物資補給の活動を続けていると言っていた。このままではお金は入って来ないので、「しばらくしたら、こっちが支援される方になっちゃうかもしれないです」と言っていたが。
別の人は、近々、地域で農業を始めるつもりでいたが、震災後、食料支援や炊き出しのコーディネーターで走り回り、当分は活動が必要なことがはっきりしたので、仙台に移り住んで仙台市民として活動する、と言っていた。どの人も、活動を続けているうち、被災者の人たちと信頼関係ができてきて、「このままここから出ていくことはできないなあ」ということになったのだという。震災そのものは不幸な出来事だが、その中で、自分の生き方を変えて被災者に向き合おうとする人たちがいるという事は印象に残った。
ぼくはと言えば、一週間だけいて帰った。もちろん、大阪での活動があるので、いつまでも被災地にいるのは無責任でしかない。だとしても、短い期間でも現地に行くとに意味はあるだろうと思っていたが、実際に行ってみると、現地のあまりの被害の大きさと、その解決の遅さ(阪神淡路大震災のときは、50日目ではかなり仮設住宅への移行が進んでいたはずだ)に思った以上に打ちのめされてしまった。ここでは触れなかったが、原発問題も大変なことになっているのだ。
被災地に行く前も「自分に何ができるか」を考えたが、帰りのバスで座っていて、あらためて「一度行って終わりじゃなくて、大したことはぜんぜんできないとしても、月に一回ぐらいは大阪から被災地に通って活動すべきではないか」と思った。ふつうはそんなことはぜんぜん考えないが、この震災は「一度行っておしまい」にするには、あまりに問題が大きすぎる。
ぼくたちの夜回りなどにも、しばらく熱心に参加していて、いろいろ考えて、ある時期からぱったり来なくなるという人が多い。そういうとき、いつも「こちらとしては、そういうパターンよりは、頻度は少なくてもいいから定期的にときどき参加してくれた方がありがたいのになあ」といつも思う。そう思うんなら、自分もそうした方がいいんじゃないか、ということだ。
とはいえ、いまぼくは収入がたいへん少なく、往復2万4000円程度のバス代が大変きつい。自分の生活状況と合わせて考えないといけないのだが、被災地の人たちや、活動の中で自分の生活を変えた人たちに出会って、やっぱりそうすべきかどうかと考え続けている。

さて、震災という被災者と失業などの人災による野宿者の問題についてはあちこちで書いてきたが、あらためてこの点について触れておこう。
 ぼくたちは、主に失業、例えば「派遣切り」などの「人災」によって家を失った野宿者への支援を続けてきた。今回起こっているのは、いわば、大地震という「天災」によって家や仕事、そして家族や知人、友人を失なってしまった問題とも言える。今回の震災について、英語圏のニュースでは、例えば「Japan begins task of housing thousands left homeless by tsunami」「Some 434,000 people were made homeless and are living in shelters」と報じている。英語の「homeless」は「何らかの理由で住居を失い、シェルターや寮、知人宅などで過ごしている状態の人」を指しているので、被災者も失業などによる野宿者もすべて「homeless」とされる。事実、そこには共通する問題は多い。
 たとえば、多くの被災者は体育館などで集団で雑魚寝しているが、そうした生活での疲労やストレスは当然ながら大変なものだ。被災者からは、「よく眠れない」「あったかい風呂に入りたい」「プライバシーがない生活は苦しい」「畳の上で寝たい」「毛布が足りない、布団がほしい」「将来がわからないのが不安」などの声が伝えられている。これは、われわれがいつも聞いている野宿者の声そのままだ。いま、数十万という空前の規模で被災による「野宿」状況が作られている。地震以前からの野宿者も含め、いままでと同様、われわれはこの状況にある人々を支援しなければならないのだろう。


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