2001年7月〜9月・野宿者問題についての報告

きわめて悪質な放火襲撃が連続しておき、そして高校などでの野宿者の授業を始めて、多くの人にそれを伝えたいという思いがあったときに、総合誌にこうした文章を出せたのは幸運だったと思う(きっかけは「群像」編集部の担当者からの紹介)。事実、同時期に出た野宿者問題の季刊誌「Shelter−less」11号には「商業マスコミとホームレス報道の限界」というルポライターによる報告があって、「これまで見てきたように、大手マスコミにまともな記事を期待しても未来永劫無理なのだ」とあるのだから、講談社の雑誌にこうした記事を出せたのは異例のことだったのだろう。
基本的には、この文章を読むことが、そのまま一般の読者への授業として機能するように作っている。ただ、短い文章では本当に「さわり」だけでしかない。
野宿者問題の授業の詳細については、次のリンクを参照。「野宿者襲撃について」「野宿者の将来と若者」



 野宿者はいま、増え続けている。大都市圏では、公園、駅、河川敷、商店街などが野宿者であふれかえる状態になっている。日本全国で3万人と言われる野宿者問題、一般にいう「ホームレス」問題が重大な問題であることはいまや誰の目にも明らかになった。
 野宿者への襲撃も頻発し、止むことがない。9月20日には大阪・天王寺区でついに53才の野宿者が中学生に暴行され殺される事件が起きた。野宿者は目立つところから追い出せばそれでいい、という今までの行政の方針は明白に破綻した。もはや、何らかの根本的な対策が必要であることは明らかだ。
 しかし、野宿者の実像は一般にあまり知られていない。むしろ「テントの中で気楽に結構いい暮らしをしている」「あの人たちは仕事が嫌だからああして寝ているんだ」「自業自得」といった、現実から離れたイメージが先行して一般に流れている。
 ぼくは1986年に釜ヶ崎(行政用語でいう「あいりん地区」)に来てから、日雇労働者として働きながら日雇労働問題、野宿問題にかかわってきた。野宿者の置かれている状況や、襲撃については「野宿者ネットワーク」(注1)などの活動を通じて日常的に見聞きしてきている。そこから、比較的最近に経験した幾つかの事件、活動について報告する。


              ガソリンで野宿者を焼き殺そうとする若者たち


今年7月21日、野宿者ネットワークの夜回りで大阪、日本橋のでんでんタウンを歩く。野宿者ネットワークは毎週土曜日、夜8時から10時までの約2時間、日本橋、難波、心斎橋、阿倍野を手分けてして回る。そして、寝ている野宿者と話し、生活の相談などをしたり襲撃の情報などを聞いたりする。この日本橋はおそらく日本で最も襲撃の激しい場所の一つなので、自然に襲撃関係の話を注意して聞くことになる。
 この日の夜回りではこういう話を聞いた、つまり、7月19日(学校の終業式の日)の早朝、日本橋で寝ていた野宿者がアルコール類で衣服に火を放たれ、下半身大やけどの状態で救急車で運ばれていったというのだ。救急車やパトカーが何台もきてかなり大騒ぎだったという。その情報は、近くで見ていた複数の顔なじみの野宿者から聞いたのだが、みんなは「なんであんなことをするんだ」「自分もいつやられるかわからん」と口々に言っていた。驚いたぼくたちは、救急搬送などの記録などを問いあわせて、運ばれた病院を突き止め、火を放たれた野宿者に会うことができた。
 23日に野宿者ネットワークのメンバーが面会に行ってきた。
「Kさんの話。アルミ缶を集めて生計を立てている。いつも(事件の)現場に寝るわけではないが、その日は疲れて、ダンボールを敷いて寝た。午前3時ぐらいまで寝付かれなかった。仰向けに寝ていて、気づいたら股が火に包まれて燃えていた。(事件の発生は、おそらく4時ごろ)。慌てて消そうとしたので他のことはわからない(なぜ燃え上がったのかわからない)。が、「ヒャハハハ」という高い笑い声が聞こえた。とにかく燃えているズボンとパンツを脱ぎ捨てた。(状況を聞く限り、このとっさの行為が上半身への引火を防いだと思われる)。現場でも、警察と話をしたように思うが、よく覚えていない。その後病院には警察は来ていない。」。
 担当医師によると(Kさんの同意を得て病状照会)、陰部、両下肢の火傷、全身の10%。大体2度の火傷だが、10%のうち2%(手のひら2枚分ほどの範囲)は3度、つまり重傷。部分的には、やけどが深いところがあるので、手術することになるだろう。現時点では2ヶ月ぐらいの入院か。Kさんは思ったよりも元気そうだった」。
 ぼくも、何日かあとにカンパのお金などを持ってKさんのお見舞いに行った。「寝ているところを墨汁をかけられたりはあるけど、火をつけられるとはねー」とおだやかな顔で話してくれた。まだまったくベッドから動けない状態なので、痛々しかった。
 毎年、夏休み、春休みに入ったとたんに各地で野宿者への襲撃が勃発することが、野宿者問題に関わっている者には知られている。去年にしても、天王寺駅前商店街で野宿していたところを高校生を含む4人の若者に襲撃、暴行され、膵臓破裂による出血性ショック死で亡くなった小林俊春さん(67才)の事件は、7月22日だった。野宿者ネットワークはその一周忌を事件現場で行なったところだったのだ(注2)。そして、今年はついにガソリン類を使った襲撃である。同じような襲撃が繰り返される可能性があるので、ビラ等で知らせて注意を呼びかけなければなるまい。もっとも、注意するといっても、なるべく孤立して寝ないとか、反失業連絡会の運営するテントで寝るとか、それくらいしか対処の方法はありはしない。しかし、そうした事件の情報と警戒を呼びかけたビラをまいた直後、再び放火襲撃が起こったのである。

7月29日(日曜日)早朝、日本橋で再び野宿者への放火襲撃。
(大阪読売新聞30日付)「29日午前5時52分ごろ、大阪市浪速区日本橋5の路上で、ダンボールをしいて寝ていた野宿生活者の男性(62)が若い男に油のようなものをかけられ、火をつけられた。通りかかった焼き肉店の店員が119番通報。そばにいた別の野宿者とともに、布団で火は消し止めたが、男性は胸や腹にやけどを負い重症。若い男はそのまま逃げた。浪速署は殺人未遂事件で捜査」。
 19、29日のどちらの現場も、野宿者ネットワークの夜回りのコースに入っている。29日の現場については、襲撃の8時間ほど前に、19日の放火襲撃についての情報と警戒を呼びかけるビラをまいたばかりだった。
 31日、ぼくはこの人のお見舞いに行ってきた。Sさんはまだ救急病棟にいた。ただし、痛みがひどいなどの理由で、薬で意識を抑えられていた。したがって、話などはまったくできなかった。ともかく、最初見たとき、顔も含めて全身に火傷している状態なので驚いた。担当の医師によると、全身35%の火傷、18%は3度の火傷、救命できるかどうかという危機的な状態である。数回は手術を行い、救命できたとしても退院は少なくても2〜3ヶ月以上かかるであろう、そして後遺症もそうとう残るであろうということだった。(結果として救命された)。
 本人の様子を見てよくわかったのだが、犯人は完全に殺す気でやっている。これは、いやがらせとか、そういうレベルではまったくない。
 現場近くで野宿している人たちに聞いたところ、朝6時頃、「ああー」というすごい声でびっくりして外へ出てみると、火のついた状態でSさんが走ってきた。あわててみんなで水をぶっかけたり布団でくるんだりして火を止めたという。「救急車が来るまでの時間がすごく長かった」と話してくれた人は言っていた。
 犯人は一体どういう人間なのか。目撃談からは、「若い男」とわかるだけである。ただ、野宿者ネットワークでは、現場付近でこれに関連するらしい話を野宿者から聞いていた。17日前後、明け方に10代ぐらいの若い2人組が白い乗用車で乗りつけてくる。空き缶に油を入れ、花火を発火装置にして爆発させて遊んでいる。そして、寝ている労働者のダンボールに向けて花火の火を向ける、など。時間的にも場所的にも、そして流れからしてもこの2人組が放火犯である可能性は高いだろう。しかし、結局警察は今に至るまで犯人を逮捕してはいない。さらに、(その後も日本橋ではあばらを4本折るに至る集団襲撃が起こっているのに)新聞報道されたのは29日の事件のみである。考えてほしいのだが、例えば公園なり路上なりで、無差別の殺人未遂事件が立て続けに起き、しかも犯人は逃走中とくれば、日本中が大騒ぎになるような大報道が普通はされる。にもかかわらず、この事件は、野宿者問題にかかわる者以外ではほとんど話題にもならない程度の報道だった。それはなぜなのか。それは、襲われたのが野宿者だからである。他の理由は思いつけない。つまり野宿者は、襲撃者からも一般メディアからも、かくも明確に差別されているのである。しかし、このような放火襲撃が意味するものは何なのか。
(その後の夜回りでも、9月に「夜2時、40代のサラリーマン2人が4人のいるダンボールを蹴りまくる。怪我を負う」。「夜2時、黒いバンがエアガンを4〜5発打ってきた」、10月に「ゴミ箱から缶をさがしていると、木刀でどつかれ蹴られた」などの報告が続いている。そして、ついに9月20日、天王寺区で53才の野宿者が中学生に暴行され殺される事件が起きている)。


                  多様化し増加し続ける野宿者


 現在、日本の野宿者総数は約3万人とされている。これに対して大阪市内の野宿者は約1万5000人程度だと考えられる。つまり、大阪市だけで全国の野宿者の約半数がいる。その理由は、大阪市内に日本最大の日雇労働市場=寄せ場、釜ヶ崎があるからである。
 従来、日本の野宿者のほぼすべては日雇労働者だった。日雇労働者は就労構造の最末端にあって、景気の安全弁として、必要なとき、つまり好景気では目一杯使われ、不必要なとき、つまり不景気時では一気に就労から切り捨てられるということを繰り返してきた。そして、日雇いという形態では、雇用先の建設土木会社から健康診断、健康保険、年金などの保証、支援はほとんどされない。むしろ、危険、汚い、きついという「3K労働」の中での労災もみ消し、賃金未払い、飯場での暴力、労働条件の約束違反といった横暴がまかり通っている。その結果、正規雇用労働者なら簡単にクリアできる問題で、日雇労働者は収入が途絶え、住むところを失い、簡単に野宿状態へと追いつめられることになる。従来、日本のあらゆる地域で、野宿者のほとんどすべてが日雇労働者だったのはこのためである。
 そもそも日雇労働者が古くから存在し、そしてとりわけバブル期に急増したのは、建設、土木資本がそれを必要としたからだ。日々変動する現場での人的需要に対して、建設・土木資本は正規雇用労働者の増強による以上に、日雇労働者の増強によって対応した。建設・土木資本の要請にあわせて、末端の下請け、いわゆる手配師は、賃金を上げ、新聞広告を出し、日雇労働者を日本全国、世界各国からかき集めてきた。必要なときに使うだけ使って、いらなくなったとたんに、後は好きにしなさいと放り出したというのがこの10年間の現実である。この結果、数千、数万の日雇労働者が野宿生活を余儀なくさせられた。つまり、これは社会的な問題、人災なのである。
そして現在の野宿者激増は、この「不安定就労・失業から野宿へ」というパターンが、あらゆる職種へと拡大していることによる。最近の新人野宿者は、会社員、鉄鋼作業員、板前、自衛官などなど、元の職種は多種多様だ。どうかすると、背広を着て、携帯電話をもって野宿している、という感じである。要するに、「まさか」自分が野宿するとは思ってもいなかった人たちだ。野宿に至った原因を聞いてみれば、もちろん人それぞれだが、主要には失業し、貯金を使い果たし、住居を失い、再就職もままならず、というパターンで共通している。よく知られているように、現在の日本は終身雇用神話が崩れ、様々な職種でいつ首を切られるかわからない状況になってきつつある。その結果として、失業のいわば最終形である野宿者も又多様化しているわけだ。したがって今後、野宿にいたる可能性は誰にでもある(例えば、事実として「多業種日雇労働者」である激増するフリーター層の将来はどうだろうか。上に描いた不安定就労としての日雇労働の問題をもう一度見て、フリーターの現状と比べてほしい。ほぼすべて一致することが分かる。現時点で150万〜450万と言われるフリーターのうち、かりに99%が野宿に至らないとしても、1%だけでも2〜5万人程度の野宿者の発生を意味する。おそらく、現実にはその割合はもっと多くなるのではないか。経済界による正規雇用労働者の絞り込み=アルバイト・パートの増加傾向が続く限り、20年後には経済格差の結果としての野宿者は激増している可能性がある)。現在の日本政府の経済政策の結果、過去に例のない大量の失業者が発生し、そのかなりの部分が野宿生活化するという可能性は現実性が高いと思われる。実際、日本が経済的モデルにしているアメリカでは、野宿者数は40万〜80万人とされており、しかも若年層がかなりの比率を占めることが知られている。しかも、日本の野宿者対策は、諸外国と比べても決定的に後れをとっているのである。
 そして現在の社会は、いったん野宿に至った人が再び住居と仕事を持つ生活に復帰することが極端に困難な仕組みになっている。例えば、住所がない人は、職安が絶対に相手にしてくれない。また、着ていく服もない。そして、住居を借りる際の敷金、礼金の問題。さらに就職できたとして、1ヶ月先の給料までどうやってしのいだらいいのか。これらの困難は、もちろん社会的ななんらかの支援によって解決できるはずのものだ。しかし、行政の放置状態が長らく続いた結果、大半が55才以上の野宿者は、野宿生活脱出のきっかけのないまま路上や病院で次々と死亡していくという事態が続いている。
 また、ここではスペースの関係であまり触れられないが、女性野宿者の数は増えつつあり、今後より重大な問題になってくるという危機感をわれわれは持っている。女性の場合、失業と並んで、家族との不和、夫の暴力が野宿の大きな原因を占めている。
(なお、野宿者数などは運動体の把握しているもの。行政発表の数字とはかなり異なるが、われわれの数字の方が実態に近い)。 


               今、野宿者はどのような生活をしているか


 野宿者ネットワークの夜回りには、時々高校生や大学生といった一般からの参加者がある。参加した人の多くはその感想で、野宿者について持っていたイメージと実際に話した印象はまったくちがったと言う。「どうやってごはんを食べていってるんですか」という夜回りでの問いに、例えば一人の野宿者はこう答えている。「ダンボール、アルミ缶を集めてや」「一日いくらくらいになりますか」「どんなにやっても1000円にはいかんかなあ」「何時間ぐらいダンボールを集めてるんですか」「大体、10時間ぐらいかなあ」「どこらへんまで行ってるんですか」「奈良の方まで行くこともあるよ」「歩いて?」「そう、自転車とかで」。
 調査によれば、野宿者の8割はダンボール集め、空き缶集めをしている。ということは、大阪市近辺は極度の過当競争になっているということだ。そこで、野宿者(というか労働者)の多くは、歩いていける、あるいは自転車で行ける距離なら近畿一円どこでも行くということになる。大変な労働だが、それでも一時間あたり100円かそれ以下である。そうやって稼いだ金で、安い食堂で食べたり路上で自炊したりして食いつないでいる。「気楽な生活」どころか、とんでもない低賃金重労働なのだ。ふつう、だれだってこんな割に合わない生活は好き好んでしない(もっとも、福祉を勧めても「人の世話にはならん。空き缶集めでやっていける」と言って野宿を選択する人もかなりいる。この前、夜回りで話した76才の人もそうだった。年齢を考えると、「終生野宿」と言っているように聞こえた…)。
 そして、話していていつも心が痛むのだが、野宿者の多くは年齢が55才から65才までに集中していて、体のどこかが具合の悪い人が多い。多いのは腰痛、足の故障、内臓疾患などだが、そんな本来療養すべき状態の人が、真冬でも多数路上で野宿している(言うまでもないが、真冬の野宿は命がけだ)。それは、健康保険もないし、現金もないからだが、そうなると我慢に我慢して最後に悪化してしまったところで救急車で運ばれるということになる。そして最後に行き着くのは、路上死である。実際、ぼく自身、何度も行路死の第一発見者になっている。すぐ横で、みすみす人が冷たくなって死んでいくという現実に慣れることはできない。
 ところで、日本には憲法というものがあって、その25条によれば「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」し、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」のではなかったか。そしてそのために「生活保護法」があるのではなかったか。ところが福祉事務所は、野宿者については多くの場合、どれだけ貧窮していても「住居がない」という理由で生活保護の支給を拒否している。アパートなどの住居があるけど収入も貯金もなくなったという人には生活保護が支給される(ことになっている)が、さらに困窮している野宿者は「住居がない」から生活保護が適用されない、そんな不思議な法適用がずうっとまかり通ってきた(厚生労働省は最近ついに、住所のない人にも生活保護を適用するよう自治体に指示を行った。とはいえ、現場の実態はほとんど変わっていない)。要するに、とことん困っている人については、それこそ救急車で運ばれるまで行政は無為無策なのである(注3)。
 野宿者の全般的な状態はこのようなものだ。しかし、実態を知らない、あるいは一部を聞きかじっているだけの人は、「野宿者は気楽でいい暮らしをしている」といったデマを振りまいて野宿者差別をあおるのである。桝添要一氏がテレビ等で繰り返す、「今の日本は本当に困っているか? ホームレスの人で、糖尿病の人がいる。いいものを食べ過ぎているんだよ」といった発言はその典型である。ぼくはこの15年間、数多くの野宿者とかかわってきたが、「いいものを食べ過ぎて」糖尿病になったという人にはお目にかからなかった。まあ、3万人の野宿者の中にはそんな人もいて、桝添氏はその例をたまたま知っていたのだろう。しかし、そういう人にはまず会えないが、病気をかかえながらリヤカーをひっぱって生活する高齢の野宿者や、襲撃にあって怪我を負う野宿者は数え切れない。ごく少数(一人?)の例を挙げて、全体像を差別をあおる方向にねじまげる桝添氏の発言は悪質であり、社会にとって大きなマイナスである(もちろん桝添氏だけに限った話ではないが、なにしろこの人は国会議員なのだ!)。


                なぜ野宿者は襲撃されるのか?


 こうした状況にある野宿者に対して、上の放火襲撃のような陰惨な襲撃が行われている。
 野宿者襲撃は、先に触れたように殺人でもない限り新聞にも出ないが、一般に知られているよりもはるかに頻繁にあり、悪質である。エアガン襲撃、花火の打ち込み、投石、消火器を噴霧状態で投げ込む、ダンボールハウスへの放火、殴る蹴るの暴行等々やりたい放題の状態なのだ(寝ていたところを、目玉をぐさっとナイフで刺されたという例もあった!)。われわれが毎週夜回りしている日本橋でんでんタウン周辺だけでも、こうした襲撃が3日に1回の割合で起こっていた。詳細については野宿者ネットワークの把握したデータをホームページで参照していただきたい。そのため、野宿者ネットワークのメンバーで、襲撃の集中する深夜の時間帯に合わせての夜回りなども時折している。幸か不幸か、襲撃の現場にはなかなか遭遇しない。
 従来の野宿者襲撃には、おそらく2つの要因がある。一つは学校・社会の中での心身のストレスの鬱積である。殺人などの襲撃を行った少年たち(襲撃者には大人も少女もいるが)は、「ホームレスは臭くて汚く社会の役にたたない存在」「何かをしなければ生きる価値ないし、何もしなくてホームレスになったっていうのはほんとに価値がない」「無能な人間を駆除する、掃除するって感じ」「働けって腹が立つ」などと語っている。この「無能な人間は駆除される」「役に立たない存在は価値がない」という発想が、そのまま学校などで彼らが常にさらされているストレスであることは明瞭である(例えば、「働け」というのは、彼らが常に言われるか感じているかしている「学校へ行け」という圧力の言い換えではないか)。若者たちはそのストレスのはけ口を求めて弱者を狙う。つまり、路上で無防備に寝ざるをえず、他の社会から疎外されている「社会的弱者」を標的に選ぶ。
 もう一つの要因は、言うまでもなく一般社会による野宿者への偏見・差別である。つまり、大人たちが野宿者を一応は合法的な形で排除している所を、若者たちは暴力の行使という形で直接実行しているだけだ、ということである。社会的マジョリティが公園の「整備」とか町内の「環境保全」とか(あるいは高齢者などのための「動く歩道」建設とか!)いった理由をでっちあげて野宿者を「排除」しているところを、襲撃する若者たちは直接暴力に訴える。早い話が、行政・市民が「迷惑だ」と言って野宿者を商店街や駅や公園から追い出し、こどもに「話しかけられても無視しなさい」「勉強しないとあんな人になっちゃうよ」などと教えていること自体が、野宿者を社会的孤立へ追いやり、さらには襲撃の後押しをしているのである。
(ただ、今回起きたガソリン類による放火襲撃の場合、このストレス要因によって説明が付くのかどうかは微妙だ。従来の殴る蹴るの襲撃は、その肉弾的暴行によってストレスを発散し、自分たちの存在をある昂揚によって確認しているのだなという想像がつく。暴行自体にエネルギーがかけられている上、殺人に至った場合も、結果的に殺してしまったという気配が強い。つまり、「殺人」としては効率がきわめて悪いのだ。しかし、この放火襲撃の場合、明確な殺意が込められている上、ガソリンをかけて火をつければそれで済む。つまり「殺し」として非常に簡単で効率が高い。もちろん、正確なことは実行犯を捕まえない限り不明だが、他の若者らが将来、殺人を目的とした同じタイプの襲撃を始めるのではないかという危機感をわれわれは持たざるをえない)。
 したがって、野宿者襲撃は、一部の若者の異常な行動というより、日本社会のゆがみと非人間性とが暴力的な形で噴出したものである。実際、若者による襲撃はある意味ではわかりやすい、したがって対処の仕方の明快な野宿者差別なのだ。それに対して、一般社会からの野宿者、日雇労働者への差別・偏見は、それに対する対処がずっと陰険で扱いにくい。襲撃を阻止しようとするなら、野宿者と社会の関係そのものを変えなければならない。ぼくは運動体の一員として、釜ヶ崎での医療・福祉活動、越冬、公的就労等を求めての大阪市役所・府庁前の野営闘争などにかかわってきた。だが、最終的には日雇労働者・野宿者と一般社会との関係がネックとなるという思いをしばしば持った。野宿者への支援・連帯活動は一般の社会からあまりにも無視され続けている。そもそも野宿者の実像は、一般の人にも、こどもたちにもほとんど知られていない。事実、これだけ野宿者問題が大きな社会問題であることが明らかであるにかかわらず、学校でも社会教育の場でも、野宿者問題についてはほとんど何も教えない。そもそも、先生たちも野宿者問題について基本的なことを知らないのだ。こうした知識の不在はなんとしても解消しなければならない。例えば、現在の日本社会が、「差別」「無視」、そして「襲撃」という若者と野宿者の最悪の出会いを作り出しているとすれば、われわれは正しい認識のもとでの若者と野宿者との出会い、新しい関係を作り出したいのである。ちょうど、21才のときに初めて釜ヶ崎に行ったぼく自身が、その出会いによって、社会観や価値観を他の世界では知り得なかったような形で、そして自分の人生そのものが変わってしまうような形で大きく変えられたように。


                高校などでの野宿者問題の授業


 2001年9月から、ぼくたちはチームを組んで大阪YMCA国際専門学校・国際高等課程(高校に相当する)や、大阪府内の公立高校などで、野宿者問題についての授業を始めている。例えばYMCAでは、100分×12回を「寄せ場と野宿の関係」「野宿者襲撃について」「野宿者と福祉」「野宿当事者と語る」「釜ヶ崎、西成公園へ行く」「寄せ場、野宿者の歴史」「将来の野宿者と若者」といった内容で先生方の協力のもとに行っている。過去、こうした授業の取り組みは幾つかあったが、これだけの規模のものは日本では前例がない。
 YMCAの場合は、ぼく自身が授業計画を売り込みに行った。担当の先生と話をしてみると、ちょうどその頃、社会問題を扱う授業を担当する先生方も、従来の授業のやり方に限界を感じ始めていた時期だったということだ。それで、トントン拍子に話がまとまって、売り込みに行ってから2〜3ヶ月で授業が始まった。チームを組む4人は授業など初めての経験なので、やってしまってから「ああすればよかった、こうすればよかった」ということの連続だが、先生方と打ち合わせを重ねながらなんとかかんとか進行させている。
 例えば、「野宿者襲撃について」の回は、野宿者ネットワークのメンバー2人で授業を行った。まず、野宿者ネットワークの夜回りを撮影した番組のビデオ5分と、野宿者襲撃を行った若者の証言の番組のビデオ8分を見て、襲撃の状況の模様を話し、後半に質疑応答という構成である。授業について具体的に言うと、生徒は20人程度だったが、まず最初に、ビデオが絶対に見えない位置に座る生徒たちがいた。そして、その生徒たちが授業を始めたしょっぱなからメールを打ったり鏡を見ながら化粧を始め出すのには驚いた。「最初のビデオぐらい見ろよー」と結構ムカムカしたが、まあ我慢して襲撃の報告に移った。襲撃の話の間も、他の一人の生徒は机の上で微動だにせず腕枕し続けているのだった。ただ、あまりに一貫してその体勢なので、多分こいつはこうして話を聞いているのかなとは思った(後で先生に聞いたら、実際「あの子はいつもああして実は話を聞いています」ということだ)。ところで、ネットワークのメンバーによる襲撃についての話は、臨場感があって迫力あるものだったが、生徒たちは刺激的なところでは表情などに明らかな反応を見せて、かなり真剣に聞いていた。最後のころには、ビデオ見えないエリアの生徒の一人も、「でもゴミをひろっている人たちってどうなんでしょう」とか質問をしてきていた。
 生徒の質問の一つは、先週授業に来た野宿者の一人が、「こうなったのは自業自得や。みんな、おっちゃんみたいになっちゃあかん」と言ったことを引いて、「やっぱり野宿になるのは自業自得ではないかと思うんですが」というものだった。ぼくはこう答えた。個人の努力の問題と社会の構造の問題は別だ、と。例えば「いす取りゲーム」を考えてみよう。人数に対していすの数が足りなくて、音楽が止まると一斉にいすを取り合うあのゲーム。この場合、いすとは「仕事」のことだ。仕事がなくなれば、収入がなくなり、いずれは家賃も払えなくなり、最後には野宿に至るというのは当然な話だ。さて、確かにいす取りゲームでいすをとれなかった人は「自分の努力が足りなかった。自業自得だ」と思うかもしれない。けれども、いすの数が人数より少ない限り、何をどうしたって誰かがいすからあぶれるのだ。仮にその人がうんと努力すれば、今度は他の誰かのいすがなくなってしまう。仮りに、すべての人が今の100倍努力したとしても、同じ人数がいすを取れないことでは全然変わりがない。要するに、問題は個人の努力ではなくて、いすの数の問題、つまり構造的な問題なのだ。今、失業率が5%を越えているが、これは要するに、いすの数が極端に不足している状態だ。われわれがやっていることの一つは、いすの数を増やせと行政に要求することだ。いすの数を増やせるのは、一応は行政しかないのだから(実際は「です・ます」体。いす取りゲームの比喩は、経済の何かの比喩で使われているのを岩波新書か何かで読んだ)。一般社会の人は、そして野宿者自身さえ、野宿を「自業自得だ」と感じるのかもしれない。しかし、それはいす取りゲームでいすからあぶれた人が「努力が足りなかった」とされると似たようなものだ。そもそも、いす取りゲームは競争社会の比喩であり、そして失業・野宿はむしろ、ビーチフラッグの譬えが適当なような弱肉強食の社会のものである。しかも、競争力の相違の上、親の資産その他のように、スタートライン自体にすでに大きな格差があるのが現実なのである。そのことを、受験競争といういす取りゲームをやっている彼ら、彼女らは身近な感覚で知りえるのではないだろうか。
 この授業を始める前にとったアンケートでは、次のような意見の生徒が大方だった。「(野宿している人をどう思いますか?)なまけものと思う。だってがんばれば仕事だってできるハズやのにしようとせーへんねんもん。そんなんあかんわ。しかもあっしんちの前の○○公園にはホームレスの家を作ってんで。そんなんに金を使うんはムリやと思う」。そして、授業を4回したあととった感想ではこういうものがあった。「(授業を通して野宿者に対する考えが変わった点はありましたか?)最初は家の近くにホームレスの人が青いテントを公園のまわりにたてて生活していたから、めいわくな人たちだなーと思ったけど、ホームレスの人たちはその人なりにいろいろと事情があることがわかって今はそんなことは思っていない。いろんなことにがんばった結果がどうあれできるかぎりのことをやったからいいと思うし、かわいそうだとも思う」。
 YMCAのこのクラスには、以前から釜ヶ崎の炊き出しに通う男子生徒がいた。また、卒業生で前から釜ヶ崎に通っている女子も授業に時折参加している。そして、この授業をきっかけに、3年生の女子生徒の一人は自分から関心を持って、釜ヶ崎の炊き出しや夜回りに参加するようになった。こうした取り組みは、野宿者を取り巻く全体の厳しい状況から言えば、やはり焼け石に水であり、重傷にバンドエイド程度のものだろうか。そして、直接日雇労働者や野宿者にかかわるものではないという意味で、間接的であり実効性のあまりないやり方だろうか。しかし、ぼく自身はこの授業の取り組みに今までにない意味を感じている。寄せ場の労働者と野宿者に直接かかわるたたかいと同時に、寄せ場・野宿者と社会との関係を変えていく運動が緊急に必要だと思えるからだ。そして、そこには未来の状況を変えていく余地がまだ大きく残されているはずである。若者の野宿者への見方が変わり、そして野宿者と若者との新しい関係を作り出すきっかけを与えることができる限り、ささやかなものであっても、ぼくたちはこれからもこの試みをさらに続けていくつもりでいる。


(注1)
「野宿者ネットワーク」
1995年10月、ダンボールを集めながら野宿していた藤本さんが若者たちによって道頓堀川で水死させられた事件をきっかけに結成された。毎週土曜の夜回り、西成公園、関谷町公園での交流会、行政交渉、野宿者の抱えている様々な問題の相談等を行っている。

(注2)
小林さんは、釜ヶ崎で日雇労働者として仕事をしていたが、不況と高齢との影響を受けて野宿に追い込まれ、一ヶ月ほど前から天王寺段ボールハウスを作って野宿していた。襲撃した4人の若者は2000年はじめから「ホームレスは臭くて汚く社会の役に立たない存在」「格闘技ゲームの技を試し、日頃の憂さをはらしたかった」と、「こじき狩り」と称して野宿者への襲撃を繰り返していた。4人以外にも襲撃に加わっていたゲームセンター仲間が十数人いると報道されている。彼らは事件当夜も「狩りにいこう」「ノックアウトするまでやろう」と誘い合い、コンビニで襲撃目的の花火を買い、酒で勢いをつけて6件の襲撃事件を起こしていた。天王寺の襲撃の1時間前には、同じ区内の公園で71才の労働者のテントに爆竹を投げ込み、驚いてテントを出た労働者に暴行を加え、さらにビニールひもで首を絞め、また他の野宿労働者から数千円の現金まで奪い取っていたという。

(注3)
政府は、01年8月〜02年3月までの限定で「緊急地域雇用特別交付金」を作った。大阪市は、この特別交付金のうち7億4千万円をNPO(非営利組織)法人「釜ヶ崎支援機構」に委託し、野宿者のための街路掃除や市有地の草刈り、遊具施設の補修、ペンキ塗りなどの就労事業を行っている(ぼくは今、この事業の責任者の一人として、野宿労働者と一緒に日々ゴミを満載したリヤカーを押している)。一日6時間で、日当は5700円の仕事が輪番で回るが、一人につき月に2回程度しかこの仕事は回ってこない。つまり、それは野宿脱出に至る規模のものではまったくないのだが、登録する3300人あまりの野宿者にとっては収入の大半(1万円強で!)を占めている。労働者に聞くと、「これのおかげでいやな拾い食いをしなくてすむ」「これでたまには風呂に入れる」と言う。来年4月以降、大阪市は市単独規模に事業を縮小しなくてはならない。大阪市は「予算がほしい」と交付金の継続を国に求めているが、どうなるかまだ決まっていない。
 また、国と自治体が作った、野宿者に宿舎を提供しながら仕事をあっせんする「自立支援センター」は野宿者問題への切り札とされたが、入所者の就職が10人に1人以下であることがスタートして1年たって明らかになった(朝日新聞10月14日)。野宿者の年齢のこともあるが、最大の原因は会社側が(元)野宿者をまったく相手にしないということにある。この「自立支援センター」は入所期間が最長半年である。つまり、入所者の9割以上は、半年たって再び野宿に戻った(あるいは生活保護等になった)ことになる。もちろん、元のテントなどは残っていないから一からのやり直しである。
 2000年には、数百のテントが並んだ大阪の長居公園にシェルター建設が計画され、行政、地域住民、野宿当時者・支援者の思いが複雑に交差する中、「自立支援センター」からの就労を最終的な出口として3年で閉鎖するという条件で、シェルターが強行的に開所された。シェルターに入らない野宿者に対しては行政から毎日のように4〜5人で取り囲んでの「シェルターに入れ」という説得が続き、嫌気がさした野宿者の多くが他の場所に野宿の場を移していった(我々はこれを「説得排除」と呼ぶ)。その結果、2001年秋の段階で1桁のテントしか残っていない。しかし、その「自立支援センター」からの就職が10人に1人以下だったということは、このままであればシェルター建設は結局、野宿者の「追い散らし」としてのみ機能するということだ。あれだけの予算と労力は一体何のためだったのか。にもかかわらず、この10月、新たに大阪市は野宿者の最も多い公園の一つ、西成公園でのシェルター建設計画を発表した。西成公園は野宿者ネットワークが数年来、交流会・学習会などのかかわりをもってきている場所であり、われわれにとってこの問題は大きな試練となる。
 いずれにしても現在の行政の野宿者対策はこのように、焼け石に水、重傷にバンドエイド程度にしかなっていない。「収容と排除」の発想を180度転換した上で、少なくとも今の数十倍以上の規模の取り組みを行わなければお話にならない。その意味からも、国会で審議される予定の「野宿者支援法」の行方は重要であり、注意を要する。当座の野宿者対策としては、仮設住宅あるいは低家賃住宅の建設、ダンボール、アルミ缶の適正価格による買い上げ支援、公的就労の拡大、生活保護実施の適正化等が考えられる。中、長期的対策は、それ自体大きく複雑なテーマなのでここでは触れられない。




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