西成公園の野宿労働者 藤井さん

穴沢一良  2000年11月


藤井さん、76歳。西成公園中央部分でテントでの野宿生活をしている。毎日、決まった時間に自転車でダンボールを集めに行き、主にその収入で生活している。8年前から西成公園で野宿生活をしており、6年前の、行政・地域住民による公園からの強制排除、その翌年の排除を意図した公園事務所の大清掃、96年からの3カ年計画の公園改造工事、そして、こういった数々の強制排除に対する労働者の身体を張った闘い…  、藤井さんは、こういった西成公園の歴史をずっとみてきている数少ない仲間の一人だ。いま西成公園に200人弱暮らしている野宿労働者の代表でもあり、また、われわれ、野宿労働者支援グループである「野宿者ネットワーク」の心強い支えにもなってもらっている。
 藤井さんは、私にとって野宿労働者の中でも特別な存在である。私が、生業である木工房を作るとき、建物の改造を手伝ってもらうなど、私的にも親しくつき合わせてもらっている。小柄ながら毎日毎日動き回って働いている。自転車の荷台に山のようにダンボールをつんで走っている藤井さんに道でよく会う。ダンボールはとりあえずテント近くにストック、早朝、リヤカーに積んで寄せやへ。運ぶ途中、ときたま、自販機のドリンクを飲み、気合いを入れるのだという。藤井さんの年齢からしたら、とうに生活保護でくらしてもおかしくはない。しかし、その道をとらず、「身体を動かすのが健康のためにエエんや」と今日も走り回っている。酒を飲んだら機嫌よく昔の演歌を歌いまくる。そういえば、むかし活弁をやったこともあるという。
 西成公園の労働者交流会(月に1ぺんほどの)での挨拶でも、毎回、必ず、現在のホットな世界情勢を話題にし、そこから説き起こすように、現在の野宿労働者を取り巻く状況に関連させてしゃべる。みんな闘おうと元気よく締めくくる。この元気、柔軟さ、若さ、凛とした様……。高齢で野宿状態なのになぜ……、と私はいつも思う。私自身、年とったら藤井さんのような年寄りになりたい、といつも思っている。



藤井さんの日常生活

 とりあえず藤井さんの一日を紹介したい。
「ダンボールを寄せやに持っていくのは朝の4時半から5時やな。ダンボールの量は130キロから140キロ、前の晩に半分つんどいて残りの半分を朝積む。月のうち20日ほどやな」。
 ダンボールを集めに行くのは昼、午前午後と一日仕事だ。ダンボール賃は130キロで780円、140キロで840円、これが主な生活費になる。
「朝は食パン2枚や。昼はメシ、100円とか200円とかためておいて600円になったら1キロの米を買うんや。メシは茶碗に軽く2杯、おかずは市場などで拾ってきた野菜などやな。醤油、味噌は100円ショップで買う。夜はたいていラーメンや。たまに週に1回くらいは弁当を買って食べるけどな」。
 商店街自販機で値段の一番安いサントリーのチュウハイ140円、それを寝酒にして、たいてい8時に寝るという(野宿者ネットワークの会議のときは、朝が早いから10時になったらきちっと席を立っていく)。最近は週に4回ほど「さつきつつじ会」のアパート掃除の仕事があり、助かっているそうだ。朝1時間ほどその仕事をやって、テントに帰ってすぐダンボール集めに行く。だから、いま一日の収入は、平均800円から900円といったところである。風呂は週に2回(風呂代は230円)、おかずもなす、きゅうりなどをまめにヌカ漬けにしたりしているという。
 目いっぱい働いて、そこで得た貴重な収入を、いろいろやりくりして、誰にも頼らずたんたんと、しかも毅然と暮らしている藤井さんの生活スタイルが浮かび上がってくる。
 藤井さんのこの生き様はどこからくるのか、まず、生い立ちから聞いてみた。

藤井さんの生い立ちから戦争体験まで

 「わしの生まれは泉佐野(大阪)で漁師の三男や。大正13年元日に生まれたんや」。家が貧しかったので小学校を卒業して東洋製網というワイヤロープを作る会社に入った。そこから青年学校普通科に計6年いった。その学校では奈良橿原神宮に行軍をしたり、大阪城公園にある第4師団から軍事訓練を受けたりした。そうこうしているうちに、16歳のとき徴用令状がきた。呉(広島)の海軍工しょうに入所と命令された。昭和19年2月には徴兵検査で第2種兵役とされ、堺の中部31部隊に入隊、そこで検閲を受けて合格。ある日、御堂筋を行軍して大阪駅に行った。そこに特別列車がきて、500人くらいが下関に送られた。下関で船に乗せられ、着いたところが「しんないぼう」という朝鮮の地だった。21歳と6ヶ月ときだった。そこから汽車に乗せられて着いたところが北朝鮮のピョンヤン、そこから、2キロ離れたところの部隊に編入された。そこに6ヶ月いて、それでまた出動命令が下った。そこから満州へ。満州第878軍事郵便所気付満州3759部隊に編入されて、そこで、その部隊にいるときに、昭和20年8月7日、ソ連が満州を攻めてきた。「命がこれでしまいやなと思うたけど何とか必死に一命をとりとめて、投降したわけですわ」。

 一藤井さんの記憶には驚かされる。
年月日、場所が細かいところまでしっかり出てくる一

 そこで3ヵ月後の11月まで黒龍江のそばで待機させられた。そこは布団もなく、ただワラをかぶって寝ていた。「ものすごく寒かったなあ」。3ヶ月も待機の理由は、11月になると川に氷が張るからだ。氷の厚さは2メートルにもなる。そこを歩いて渡って向かい側がソ連のムラゴエチェンスというところ。ここで2晩とめられた。布団もなく、外はマイナス20度にもなって寒かった。
「そこで初めてソ連の子供を見たんや。満州からソ連が盗んだ大豆を子供らが生で食べてたんや。ドイツと戦争をしてたから自分の国で食べるものもなかったんやな」。
 2日後に、捕虜になった1500人が貨物列車に乗せられた。シベリア鉄道は世界で一番長い。15日間汽車に乗った。駅に停まり停まりして、それで時間がかかった。
「海やと思ったら違うね、バイカル湖だったんや。日本の本土がすっぽり入る。湖で海軍が練習して日本海に行く。ソ連は面積の割に海が少ないところや」。
 着いたのはパラノフというところ。どこから連れてきたのか知らないが、新しい捕虜の人と一緒に、収容所に1600人入れられた。建物の中はかいこ棚式の3段ベット、そこでしばらく暮らした。食事は、朝はこ一りゃんの汁、それだけ。昼は大豆1合、夜は300グラムの黒パンひとつ、それだけが1日の食事。「1600人いた捕虜が半年あとには半分死んで800人になったんや。ほとんど栄養失調や。その中で生き延びて、ある日、将校が今からくじ引きをするというわけや。くじでまけた50人が移動してもらうといわれた。おかしいなと思ったが、わしは負けて50人の中に入ったんですわ」。
 連れて行かれたのがウラル山脈の森林伐採の現場。カラマツの伐採で、3人一組でカラマツを一日3本倒すのがノルマだった。木は直怪が2メートルもある。3入で手をつないだ長さよりもまだ太い。まず木を切るため周りの天井まであるような雪をかきだす。それから手ノコで、3人で切る。向こうのノコは押して切るタイプだ。木を倒したあと枝も払う。「枝といっても、日本の松の木ぐらいはあるなあ」。ノルマを達成できないから、ソ連兵にケツを蹴り上げられて雪の中に倒れた。また、食事も抜かれた。
 「ほんとヤセて、いつ死ぬかわからんほどだった」。作業は朝8時ごろ始まって4時ごろまで。周りは日のくれるのが早い。マイナス30度までは作業をさせるが、それより気温が下がると作業中止だった。5月ごろになると、解けた雪が川へ流れる。それまで伐採しておいた木を川へ流す。下流で受けて1箇所に積み重ねられた。
 寝る場所の部屋では、伐採のとき拾ってきた松の根をたいまつのようにして焚き、明かりにした。「すすで真っ黒になって誰の顔か見分けがつかなんだ。今思ったら泣けてくるよ。風呂にも入れてもらえんかった。顔も雪でこすって洗ったよ」。
 食事は、朝はこ一りゃんの汁、昼は抜き、夜は300グラムの黒パンとたまに朝の汁を温めたもの。「わしの隣に寝ていた人は秋田で伐採の仕事をやっていた人で………」、彼はソ連兵のお気に入りで、特別待遇、バターを入れたおかゆなどもらっていた。時たまこっそりわけてくれた。
 「普通の人間なら生きていけへんで。みんな死んであたりまえや。これで生きていたら不思議や」。
 収容所の捕虜の中には、ソ連の会社の仕事にまわされた人もいて、みんな太っていた。「人間の運・不運なんてわからんもんや」。結局、伐採は8ヶ月間続いた。伐採にまわされた50人のうち、最初の収容所に帰ることができたのは20人のみ。30人は栄養失調と倒れた木の下敷きなどで死んだ。
 「戦争をやっているときよりも無残や思うた。こんな話をしていると目頭が………、死んでいった人間に悪いなあと思う。わしみたいに小さいもんが生き延びて、180センチもあるようなごっつい身体のもんがごろごろ死んでいっている」。

 一こんな体の小さい藤井さんが、なぜ過酷な捕虜生活と労働の中で生き延びたのか、その理由を知りたいと思った。一

「青春時代を国のために使われるだけ使われて、これは死ぬわけにはいかん、いま死んでたまるか、もう一度生きて故郷の上を踏むんやと思っていた。そんだけの決意はもっていた」。
「作業をやっているとき、時々ふ〜っと何がなんかわからんようになるときもあった。そのとき、死んでたまるかと思った。その意志をもっていたから生きてこれたんやと思う」。

 一藤井さんの話を通して、捕虜生活がすさまじく過酷な状況であるその一端をわずかながらに知ることができるわけだが、藤井さんが生き延びることができたのは、小柄であるにもかかわらず藤井さんの身体が丈夫なのも理由のひとつだろうが、それ以上に、国に殺されてたまるか、必ず生きて帰るという屈強な意志があったからなのだろうと思った。一

 8ヶ月経って、もとの収容所へ戻ってきた。ソ連の兵隊が風呂に連れて行ってくれた。収容所に1ヶ月おったころ診察があった。医務室の女医に「裸になれ」といわれ、裸になったらケツの肉をつままれた。「女医は、身体の状態から早う日本へ帰さならんと思ったんやろな」。
ある日、将校が来て「おまえ日本へ帰れるぞ」といった。「へ〜え、ホンマかいな」と思った。伐採に行った人間と、やせている人間150人が集められた。
 「どこへいくんかなあ、またロシアのどこかへいくんかいな」と思っていたが、そこから歩いて軍港へ行き、船に乗せられた。船の窓の幕をすべて下ろされ、外がみえんようにさせられた。隙間からこっそりのぞいてみたら、港は戦艦だらけだった。船が動いて、着いたのは北朝鮮の「せいしん」というところ。そこからさらに8キロぐらい歩かされ、「こご山」というところに連れて行かれた。そこで初めてテントを張って寝た。そこでは1年8ヶ月ぶりに米のおかゆを食べた。うまかった。この地で、山に薪を取りにいったりという生活をしているうちに赤痢にかかってしもた。血便がぎょうさん出て「こんなところにきて死ぬのか、もう少しで日本に帰れるのに」と思い、以前、赤痢には消し炭を食べると直るということを何かの本で見たのを思い出した。そこで山から、人を焼いた骨をかきわけ、消し炭を拾ってきて、それを砕き、ダンゴのようにして3つ、水も飲まんと無理やり食べた。それをしたら2日後に血便がぴたっと止まった。
「死ぬ瀬戸際には、何でもやれるもんだと思った。人間、生きたいと思ったら何でもやらなあかんよ」。
 ここには3ヶ月いた。体調もよくなった。ある日、ソ連の命令で、朝鮮の広南港に連れて行かれた。そこで、戦争に連れてこられてから初めて日本の船に乗った。外国を離れて、着いたところが佐世保の針音という港。昭和22年2月のことだった。そこに着いたときのこと、港のスピーカーから「国破れて山河あり、みなさん方のふるさとの山も、みんなを迎えてくれるでしょう」という声が流れてきた。「そこで引き揚げたみんなが泣いた。わしも泣いたよ」。みんな苦労したなあ。炭鉱仕事に行かされて、ひざから下のない人もいた。ソ連から北朝鮮の港につくまで、船の中で5人死んだ。そのまま海へ放り込まれた。
 針音という島には米軍がいて、並ばされ、最初に進んだ人間は白いものをふりかけられた。「DDTだったんやな」。注射もされた。米軍は親切やったから(ソ連兵に比べ)神様みたいなものやなあと思った。2週間、鉢音にとどめられ、それから、船、汽車に乗って大阪へ帰ってきた。針音につれてこられてから20日ほどたっていた。大阪の実家は焼けずに残っていた。

 一藤井さんの生い立ちから戦争体験、敗戦後のソ連での捕虜生活、そして、無事大阪に帰り着くまでを記した。藤井さんが今回話してくれたことは、膨大な体験のごく一部にすぎないと思うし、また、私自身聞き取れていない部分もあると思う。しかし、藤井さんが野宿をしながらもたんたんと、また毅然と生きている理由が少しばかり感じ取れたと思っている。ー

「帰ってきてからが大変や。この体験があるから耐えられる。人間は、自分で決意して生きていこうと思ったらどんなことをしても生きていけるもんや」というのが今回の、藤井さん聞き書きの締めくくりの言葉になるだろうか。
 次号では、藤井さんが日本に帰り着いて、野宿に至るまでのことを聞き書きしたいと思う。


連載第2回

 前号No11では、藤井さんが敗戦、シベリアでの捕虜生活から無事、日本に帰りついたところまでを記した。そのあと、敗戦後の日本で仕事をみつけ、日雇い労働者として生活しながら、野宿にいたるまでを、今回聞き書きした。

「大阪の家に帰って、親はとっくに亡くなっていたね」。帰ってから約1年経って、戦友をたずねて東京に行った。軍隊当時から仲のよかった人間で、訪ねてこいやといってくれた。戦友は農業をやっていた。お互いに「帰れてよかったなあ」と言いあい、その晩はどぶろくを一緒に飲んだ。
 「ここで2、3日いたかなあ。そのあと上野の地下街に行ったら浮浪者(注)があふれていたなあ」。東京は焼夷弾で一般住宅の屋根も茶色になっていた。多くが戦争で家を焼けだされていたから、地下街にはたくさんの人がいた。働かねばならないと思った。
 そうこうしているうちに、「お一い、飯場にいかんか」と一人の人間が声をかけてきた。飯場は三鷹市の「しもでんじゃく」というところ。ぶらぶらしてても仕方がないので、親方が5,6人集めた中に入って仕事に行った。この仕事が終いになって、また、のがみに帰った。当時、上野のことを、の.がみといった。新宿西口闇市の赤提灯はばくだんという酒があってよくのみに行った。ばくだんとは、工業用アルコールをうすめた酒だ。
 また飯場に行かんか、と声をかけられた。その当時、日雇い労働者ということがわからなかった。
 今度の飯場は、群馬県利根郡渋川町、日本発送電の仕事。水力発電のタービンを回すため、水の通路を掘る作業だった。12,3人行った。
 飯場には、一升枡にハンコがいっぱいつめてあった。ハンコがたくさんあれば、幽霊人数を水増しして、米などの配給を受けるためだと、あとでわかった。
 当時は、小さなつるはしが唯一の工具、それで掘って、後ろ側に出す。さらにトロッコに積んで捨て場へ持っていく。その繰り返しだった。
 その仕事も3ヶ月で終わり。金をもらって帰ったが、当時は金の値打ちなどない、闇市に行ってばくだんを飲んだり、食べたりしていた。
 また、渋川町の飯場から声がかかって、仕事に行った。銭高粗の孫請けの飯場。仕事は、直前にきた台風で田んぼの中にたまった土砂を取り除く作業だった。そこもトロッコを使って土運びの作業だった。
 その飯場の建物は川の真中の中洲に建てられていた。そこをある日突然、鉄砲水が襲った。飯場が水で埋まった。
 「みんな、こわがってなあ」。銭高組の人がロープをほおってくれたが、届かない。人命保護もくそもない。そうこうしているうちに、一時間ほどしたら水がひいてきた。
 「ああ助かった。水がひいてきたぞ」とみんな喜んだ。
 その現場も終わり、仕事があると聞いたので、横浜の野毛というところに行った。目雇い仕事がいっぱいあった。主に、日吉台というところの住宅建築現場の仕事をした。船舶の仕事もあって、直行で2年ぐらい行っていた。外国から綿の原料を積んでくる、それをおろす作業が主だった。
.そのうち「船舶の仕事は向かんなあ」と、再び野毛に帰り、プータロウ(釜ではアンコという)をやっていた。ここも、しょっちゅう飯場が迎えにくる。
 ここには、3年ほどいた。そのあと、静岡の飯場に行った。野球場、河川工事、石垣積みなどいろんな仕事をやった。元請は鹿島組。その飯場は、夜になったら絶対外に出さない。昼はえらい仕事。石垣用の石をモッコに入れてかつがされた。「世話役は、日の丸鉢巻を締めて竹刀を持って、はよせえ、と怒鳴られ、どつかれたよ」仲間の通称バタコに「おい、こんなとこおったら殺されるぞ。逃げよう」ともちかけ、世話役がどこかへ行った隙に二人で逃げた。竹やぶの中に逃げ込み、山の中を歩いた。横浜に帰ったら、また、飯場の人間と顔を合わせないとも限らないので、のがみ(上野)に行った。
 「いつも薩摩の守ただのりですわ」。のがみから、東急建設の下請けの仕事に行った。バタコと一緒だった。トロッコで土砂運び、そのあと、鉄道の橋かけ工事だった。その仕事が終わったころ、バタコの親が、くにから彼を迎えにきた。家に帰って来いということで、会津若松へ帰っていった。また、私は一人になった。

一藤井さんは、静岡にいる時、飯場で働いていた女性と所帯を持った。3年いっしょにいたが、事情があって別れたという一

いろいろあったが、決意して、昭和33年に大阪に帰ることにした。

一日本に帰ってからの敗戦後の上野付近の雰囲気が藤井さんの話を通して伝わってきた。当時の、何もあてのない中では飯場での肉体労働しか仕事がなかったのだろうか。
 藤井さんの話を開きながら、あることを思った。
 私のおじ(母の兄)は敗戦と同時に藤井さんと同じように捕虜となった(満州)。何回か脱走を試み、連れ戻され、死ぬ目にあうような体験もしながら日本に帰りついた。岩手生まれの実直な人で、敗戦の事実を受け入れがたかったようでもあり、日本に帰り着いてほどなく、親族の前からふらっと姿を消した。何年かたって消息がわかったのは横浜付近の病院でだった。アル中で行き倒れのところを発見されたそうである。藤井さんも横浜にいたらしいから、ひょっとして同じ労働者の集まる場所にいたのかもしれない、と想像した一

 大阪では、労働者の集まる場所がなかった。最初、西成区の四條どおりから仕事に行っていた。
 「そうしているうちに大阪万博がはじまったなあ」
 万博で日雇い労働の仕事が増えた。そのころは建設機械がない。手掘り。一人のノルマ(小まわり)が幅40センチ、深さ30センチ、長さ60メートルの溝を掘ることだった。
 「わしは必ず二つ分やったよ」
 大阪万博の仕事は突貫工事だったので、小まわりが2つも3つもあった。その分、出面(賃金)もよかった。
 「その当時は、寝坊して朝10時に出て行っても仕事があったよ。今から考えたら極楽やったなあ。今は地獄や」
 そうこうしているうちにオイルショックになった。いつもと同じようにセンターに出て行ってもさっぱり仕事がない。そのうちドヤも追い出された。
 「仕事がなくてみんな怒っていたなあ」

一藤井さんが大阪にきて仕事をしだしたのは1958年ということになる。そのころからの釜ヶ崎の労働状況を、西成労働福祉センターのありむら潜さんにもいろいろ開いてみた。それも付け加えながら、藤井さんの話を補足する。
 1962年に第一次釜ヶ崎暴動が起こり、その翌年に、西成労働福祉センターが開所する。そのときは、現在の建物はできていなかったので、求人は、南海ガードをはさんだ西側の青空寄せ場(求人活動用の広場や早朝屋台群)で行われていた。大阪万博の賑わいはこの青空市場でなされていたという。
 現在の労働センターの建物ができたのは1970年。
 このあと76年に「建設労働者の雇用改善に関する法律(建労法)」ができて、業者への行政指導がなされてくるが、それまでは、手配師の横暴がまかり通っていた。72年ごろ暴力手配師追放釜ヶ崎共閉会議(釜共)ができ、労働者の怒りが手配師にぶつけられた。
 大阪万博景気は釜ヶ崎におけるひとつの黄金時代で、今でも労働者に郷愁を持って語り継がれている一

「わしはあちこち大きな現場に行ったよ。千里ニュータウン開発工事で住宅を建てた。そのあと万博、そして、緑地公園の仕事、泉北ニュータウン、関西空港の仕事にも行ったよ」
「われわれ日雇い労働者は縁の下の力持ちや。大阪府や市のために一生懸命働いてきたんや。今仕事がなくみんなホームレスになるとき、すぐ何とか手立てを講じてほしいと思うね」

 一藤井さんに、なぜ日雇い労働者になったのか聞いてみた一

 「戦争から帰ってきて、会社づとめはやらなかったよ」。理由は、日雇い労働はいつでも仕事にいける自由があるから。ひとつの会社に勤めることはできなかった。また、肉体労働のほうが給料が上という時期もあった。ドヤに入って仕事に行きだしたら会社づとめはできない。ただ、日雇い労働は不安定で、季節的にも仕事があるなしがある。雨が降ったら仕事がない。機械が入ったら仕事がなくなる。また、年をとったら仕事がない。「そんなこんなで、今となっては、会杜づとめのほうがよかったかなあと考えることもあるよ」

一74、5年オイルショックで労働センター求人が落ち込んだが、立ち直り、79年の第2次石油危機で再び仕事が落ち込んだ。このころから、野宿を余儀なくされる労働者が目立ちはじめた。そして、経済も弱り、労働者の高齢化も進んだ93、4年ごろから労働センターでの求人もどん底状態で、出ロがなくなっていった。
 藤井さんは、このころから西成公園でテント生活をはじめだした一

 藤井さんの、日本に帰ってきてからのことを聞き書きした。
 敗戦直後、そして帰阪してからの仕事と生活。聞き取りのなかでは、藤井さんの記憶の鮮明な部分が断片的に語られてくる。とにかく、敗戦後のドサクサの中を肉体労働で生き延び、帰阪してからは、釜ヶ崎の日雇い労働者そのものの生活をたどってきたのだと思う。
 寄せ場の日雇い労働者は、単身生活と長年の肉体労働で、70代ともなると、すでに亡くなるか、もしくは病院にいることが多くなる。藤井さんのように、野宿しながらも、元気で、自力で日々の糧を稼いでいる人はまれといえる。
 並外れた身体の丈夫さもあるのだろうが、それにしても、ごくあたりまえに日々を淡々と生きている。冬でもくらしの中に暖房はない。火は炊事のときだけ。とにかく、その日その日の命をつなぎとめている…  などというこちらの表現も超えてしまっているかのように、それをあたりまえとして暮らしている。
 次号は、野宿をしはじめたときの様子、そして、野宿生活の中であったことなどを聞き書きしたい。

(注)藤井さんの言いたかった、当時の様子、雰囲気を伝える言葉としてそのまま使った。



連載第3回

前回の聞き書き(ニュースNO12)では、「次号は、野宿をしはじめたときの様子、そして、野宿生活の中であったことなどを聞き書きしたい」としめくくった。今回はこれにそってはじめていきたい。

■野宿をしはじめてからのこと

平成2年まではセンターに出て仕事をしていた。そのころは手配の車もなくなっていた。だから、最初に野宿したのがそのころや。日本橋界隈で、路上でダンボールをひいて寝ていた。食べるのは、西成警察裏の四角公園や三角公園の炊き出しに並んだ。
西成公園にきたのは平成3年。路上ばかりでは身体がもたへんし、食えないので公園に野宿することにした。まずリヤカーが必要だと思ったから、手作りで作った。荷台は木、26インチの車輪、そのリヤカーで北津守、南津守をダンボール、新聞を集めて回った。そのときは、ダンボールはキロ7円、1日150キロ積んで1050円になった。
「リヤカーで仕事をやりだしてから、はじめて炊き出しにいかなくてもすむようになったな」
西成公園にきたときは、テントを張っている人は12人〜13人だった。
「わしは、中央のトイレ寄りにテントを張った。しかし土曜日曜になると野球にくる子供らの声がやかましい。
民間の人に迷惑をかけないほうがいいと思って今のところにテントを移したよ」。
藤井さんの現在のテントは、公園中央のさらに中央にある。
藤井さんが、西成公園にきた当時は公園に12〜3張りほどのテントがあったが、強制排除の行われた1994年(H6年)には、70〜80張りほどになっている。
「そのころは、1ケ月にいっぺん公園事務所が掃除にきたよ。テントに張り紙をするわけや。それは、この物件は公園内に設置されているものであり、○月○日までに撤去してください、もし撤去しない場合はこちらで処分します、というもんや。そのころはみんなそのたんぴにテントをたたんで道路に持っていった、婦除が終わったらまたテントの張りなおしや。これをず一っとやっとった」。
「行政は何をするかというと、つかみバサミでその辺のごみを拾うだけや。
なんもテントを移動せんでもいいわけや。みんなをいじめてるんやないかと思ったよ。それを、強制排除のある年まで何べんも繰り返しておった。何でこんなつらい目をせなならんのや、こんなことされなならんね、と思ったね。」
こうした、掃除のたびの移動が3年ほど続いたある日、公園事務所の人間が3人一組で公園にきた。そして、大事なものは持っていってくれ、いらん物は置いていってくれ、といって、さらに、○月○日までに出て行ってくれ、と張り紙をした。そこには、公園事務所と大阪市長と記してあった。
「いつもと違う、おかしいと思ったね」
「今までのビラは、公園事務所ぱかりなのに、今回は市長の名前が入っている、これは何かあるなと思ったね」。
西成公園に最初の強制排除が入ったのが1994年7月である。
藤井さんは、カバンひとつに着替えだけ入れて、木津川の渡船場の待合室に,いった。そこに、同じ排除された仲間3人で寝た。昼は、公園に帰ってきて、グランドの腰掛に掛けて、これから先どうしたらいいかと考えていた。排除があって1ヶ月ぐらいして、公園の向こうを見たらテントを張っている人間がいる。その人間に聞いた。「大丈夫か、何も行政はいってこんか」。「別にいうてこんで」、それで、またテントを張りはじめた。
テントが30張りほどになって、そこに、支援が入ってきた。「西成公園の強制排除を許さない会」、野宿者ネットワークの母体となる会である。
このあたりの詳しい経過は、野宿者ネットワークニュースのバックナンバーに記してあります。

■以下、いろいろ聞いてみた。

一野宿していて苦労している点は何ですか?一
人並みの生活ができないことかなあ。
しかし、まったく金がないときでも、食べるものがなくても落ち込むことはない。わしの場合は欲がないから、どこからも金が入らない。しかし、西成公園の強制排除のときは落ち込んだ。どこへいったらいいのかなあ、と。

一藤井さんの死生観について聞いてみた一
わしの場合、軍隊で鍛えられているから、また、体を動かしているから長生きできているんではないかと、自分では思っている。
人間は寿命を持って生まれてきている。わしは寿命のある限り、たとえば入院するにしても、自分の寿命がきたら、強気いうても人間それで一生終わりやと思うている。それで、死ぬことは怖くも何ともない。むかし、満州で耳のそば3〜5センチのところを敵の銃弾がピユーッピューッと飛んでいくところを生き延びてきて、だから死ぬことは怖くはない。死を怖がっていたら1日も生きていけんよ。満州にいたとき、中国人の有名な言葉がある。中国語でメパール、仕方がないという意味だ。それですべて終わった。あきらめがよかった。中国人が処刑されるとき、メパールといって死んでいった。
わしの場合は無縁仏や。弟はいるが、借金で、弟も「この兄貴は信用できない」と見切っている。西成公園にきて11年、弟とは音信不通。
死ぬ間際まで働こうと思っている。

一野宿も運命ですか?一
もともとサラリーマンになる気持ちはなかった。朱に交われば赤くなるということわざがある。天王寺のところに「戻らず坂」というのがある。いったん、釜のほうに坂を下りたら、そこは日雇い労働者の町、上がれなくなる。それで、その坂の名前があるよ。

一藤井さんの生きる支えは何ですか?一
生きる支えというのはない。21・2才のとき軍隊で鍛えられた。それが今の丈夫さや。そのときから気力で生きてきた。今でも気力で生きているよ。こんな野宿生活をしていても生きていかなあかん。寿命までは気力で生きる。今まで3〜4回死にぞこなっている。戦争、シベリアでの捕虜生活、群馬の中洲での鉄砲水…。その日1日1日精一杯生きていく。
釜の労働者でも、年とっても30代40代の気力を持っていたら、仕事をさすべきだ。

一いまのテント生活はどうですか?一
今のテント生活が好きなわけではない。テントにいたら蚊に食われ、ダニに食われ、アリに食われる。シェルターに入ったらそういうのはなくなるやろうけれど、部屋は狭いし、入る気はない。行政に対し恨み(強制排除の)もある。
どんな高齢になっても福祉をもらって、身体にとっていいのかなあ。
自動販売機の前で4〜5人が朝から酒を飲んでいる。それはいいことではない。自分の寿命を縮めている。
藤井さんの存在は、私の生き方に対し切り離されたものではない。藤井さんがこうして生活し、生きているという存在そのものが、私にとって支えのようなものになっている。人はこうも生きていけるものなのだ、というような。

この、藤井さん聞き書きシリーズ3回で、藤井さんの全体像をとりあえず記した。
藤井さんが言っているように「わしのことを出そうと思えば戦争、シベリアのことなどでも書き切れないぐらいいっぱいある」。そうだろうと思う。
この野宿者ネットワークニュースで、藤井さん聞き書きをできる限り続けて、あっちへいったりこっちへ行ったりしながら、藤井さんに迫っていきたい。