DAYS                     めったに更新しない(だろう)近況



▼最近の活動については、こちらでもいろいろ書いてます。
「いす取りゲーム」と「カフカの階段」については「いす取りゲーム」と「カフカの階段」の比喩について、あるいは「極限の貧困をどう伝えるか」を参照してください。
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■2024/4/17
■ 『貧困を考えよう』の入試問題

きのう、聖隷クリストファー大学(静岡県浜松市)から「入学試験問題への著作物引用の報告について」と問題のコピーが(岩波書店経由で)送られてきた。
社会福祉学部の入学問題で、『貧困を考えよう』(岩波ジュニア新書2009)が3ページ引用され、「○○とは何か、100字以内で答えなさい」「この文章を読んで、あなたが考えたこと、感じたことを800字以内で述べなさい」といった設問。
いつも思うが、みなさんの解答を読ませてほしい!
『貧困を考えよう』はいままで何度も大学入試問題で使われているが、今後は『10代に届けたい5つの“授業”』が、ぼくの文章に限らず、入試に使われるのではないだろうか。



■2024/4/8
■ 「10代に伝えたい5つの“授業”」の記事・坂本隆一作品の演奏

『10代に届けたい5つの“授業”』(3月27日刊)の記事が今朝の朝日新聞で出ています。
「社会の課題、現場からの「授業」 ジェンダー・貧困など5テーマ、本に」。
以下はデジタル記事(有料記事、冒頭のみ)

まったく別の話で、xの投稿
「坂本龍一作品の坂本本人のピアノ演奏を、死後にCDを埃の中から引っ張り出して来て聴いてみてもあまり私には響かなかったけど、なぜか生田武志氏の演奏する坂本作品は響く。」
とあった。
確かに、坂本隆一の自作演奏は素晴らしいんだけど、ときどき「?」な時がある。一つは、同じ自作曲を長年弾いてきて、「新鮮さがなくなってるんじゃないか」と感じる場合だ。
もう一つは、作曲者本人とは別のアプローチで演奏した方が「曲が生きてくる」場合があるかもしれない。たとえぱ「aqua」(映画「怪物」のラストでも使われている)は、最初に楽譜を見たとき、「坂本龍一がこんな単純な曲書くんだ」としか思えなかった。しかし、梅田の野宿者襲撃殺人事件の追悼集会が教会であったとき、会場にピアノがあるのを見ていて、「こういうとき、集会冒頭で弾くといい音楽はなんだろう」と思っていて、「aquaをテンポを落として弾くと合うのでは」と思いついた。その後、自宅でいろいろ試みて、その結果、本人監修の楽譜の「♩=68」よりずっと遅くなった。この曲はその方がインパクトがあるかもしれない。
ぼくも、高校の時にショパンの「バラード第3番」を高校生が弾くのをFMで聴いて、その真摯な演奏が、のちに聴いたどのピアニストの演奏より心に残っている。たとえば、定評のあるルービンシュタインは、あまりに「余裕ぶっこいてる」演奏のように感じられるのだ。そんな感じで、アマチュアの演奏の方が「響く」ことはあるのだろう。
いずれにせよ、ぼくには過分な言葉ですが、励みにします。


■2024/3/29■ フィリピン・セブ島に行ってきた

24から27日、フィリピン(セブ島)に行っていた。
写真のような地域をいくつか回って、そこで活動している人たちと話し合い、ぼくも日本の野宿問題を写真を使いながら説明した。
こどもたちがいっぱいいて、釜ヶ崎とは全然ちがう世界でした。
詳しいことは「現代の貧困を訪ねて」で書く予定。



■2024/3/14■ 『10代に届けたい5つの“授業”』

3月22日に『10代に届けたい5つの“授業”』(大月書店)を共著で出します。
今日、うちに届きました。
「学校で教えたい授業シリーズ」を東京、大阪で行なったのが2009年。
「あれはいい試みだったなあ」と思って、再度、授業シリーズを企画し、それが(内容を一部変更して)書籍化されることになりました。



松岡 千紘(著)/ 吉野 靫(著)/ 貴戸 理恵(著)/ 野崎 泰伸(著)/ なかの まきこ(著)/ 生田 武志(編)/ 山下 耕平(編)

目次
●第1限 ジェンダーって、結局なんなの? ……松岡千紘/吉野靫
前編 社会とジェンダーの関係を「自分ごと」として考える
    はじめに/1 ジェンダーってなんだろう?/2 「普通」を問い直す
後編 性的マイノリティの存在から、社会と自分の関係を考える
    はじめに/1 社会のなかの性的マイノリティ/2 学校のなかの性的マイノリティ/おわりに

●第2限 わたしたちのまわりで広がる貧困――非正規雇用、生活保護、野宿……生田武志
    はじめに――ぼくが出会った貧困問題/1 2020年代の「こどもの貧困」/2 若者の貧困の背景――ひとり親・虐待・奨学金・発達障害/3 「こどもの貧困」は「女性の貧困」と     「社会の貧困」/4 ロスジェネ世代・高齢者・障害者・外国人の貧困/5 「経済大国」で「貧困大国」の日本――格差と貧困/6 生活保護バッシングと野宿者への襲撃/7 では、どんな社会が望ましいのか?――オランダモデル・フレキシキュリティ・ベーシックインカム/おわりに――自分のまわりをもう一度よく見てみよう

●第3限 不登校から学校の意味を考える……山下耕平/貴戸理恵
前編 不登校ってズルいですか?
   はじめに/1 不登校の歴史/2 不登校の理由、学校に行く理由/3 選択肢が増えれば解決する?/4 だいじょうぶであるには?
後編 何のために学校に行くの? 社会とつながるって?
    はじめに/1 私の話と、精神医学による「個人の異常」とする不登校理解/2 社会学による説明――「社会の変化が不登校として現れている」/3 なぜ勉強はつまらない?
    4 日本の特徴/    5 不登校の「その後」

●第4限 「自分ごと」として相模原事件を考える……野崎泰伸
    はじめに――なぜ相模原事件なのか
    1 優生思想の問題/2 地域で生きる/3 どんな社会が生きやすいか
おわりに――相模原事件を超えていくために

●第5限 わたしたちは動物たちとどう生きるか……生田武志/なかのまきこ
前編 「家族」の動物と「食べ物」の動物
     はじめに/1 家族の動物――ペット(コンパニオン・アニマル)
     2 「食べもの」としての動物――畜産動物/3 動物の福祉――アニマルウェルフェア/4 世界から見た日本の評価――解決する三つの方法
後編 実験動物・展示動物・野生動物・震災と動物
     はじめに/1 遠いようで実は身近な実験動物の存在について/2 「展示」される動物たち/3 資本主義社会に翻弄される野生動物/4 震災、人災と動物たち/おわりに――自分に何ができるか考えよう


■2024/2/11■ 7年ぶりにピアノ音源をアップした

2011年~2017年2月までピアノ音源をいろいろアップしてきたが、すっかり止めていた。理由は、
・グランドピアノをスタジオなどで借りて、レコーダーを設置して録音するのは、あたり前だが手間と時間とお金がかかるので、面倒になってきた。
・電子ピアノをパソコンに繋いでピアノ音源を鳴らす方法を採ってきたが、音源の音質がイマイチだ。
ピアノ音源は評判の良い「IVORY Ⅱ ITALIAN」を使ってたけど、音の色合いが気に入らなくなってきた。さらに、レイテンシー(打鍵してから音が出るまでの時間)が多少ある問題と、電子ピアノを電源入れて、さらにパソコンを設定する手間もあって、使わなくなってしまった。(最近「IVORY Ⅲ」が出たけど、かなり高価。それにパソコンに相当高いスペックが求められるので「高嶺の花」という感じだ)
とはいえ、演奏を改善する最も有効な方法は「先生につく」ことと「録音して聴きかえす」ことだ。「録音して聴かなきゃ」とはずっと思っていた。
最近、何年も使っていた電子ピアノがダメになったので買い換えた(KAWAI)。使ってみると、USBメモリを入れて演奏をwavで録音できる機種だった。それをピアノから外して携帯プレーヤーに入れて、寝っ転がりながらチェックする、というお手軽な方法が可能になった。また、電子ピアノの内部音源は日進月歩のようで、「IVORY Ⅱ」に比べても問題無い感じで聴けるようだ。
ということで、何曲かレコーディングして、きのう3つをこちらにアップした。「前回いつだったのかな」と見ると「2017年2月14日」で、ほぼ7年経っていた。早いな!
再開してみると、「育てて仕上げる家庭菜園」みたいな感じで、それなりに面白い。これから、時々アップしようかな。
ただ、アップしなくなった最大の要因は、「ずっと弾いてる曲が難しすぎて、録音できる状態ではない」ことで、これはまだまだ解決できない。


■2023/12/11■ 「総特集カフカ」P317の抜け

今日気づきましたが、P317に以下の通り「父親、」が抜け落ち、意味が通らなくなっています。ゲラの手入れが反映されていないようです。



12月13日追記
青土社の該当ページに訂正告知がアップされました。

1月2日追記
誤記がありました。 P317 後ろから7行目
フェリーチェ(誤)→フェリーツェ(正)
ぼくの元原稿が間違ってました。



■2023/12/8
■ 現代思想・臨時増刊号「総特集カフカ 没後100年」

「現代思想」臨時増刊号「総特集カフカ 没後100年」(今日届いた)に「裏切られた墓碑銘――動物・階段・夢」を書いてます。
カフカが自分の「墓碑銘になる」と書いた「人間と動物の法廷」「人間と動物の全共同体」の問題から始まって、「祖父と父の遺産」、「カフカの階段」とアフォリズムのトポロジカルな問題、「フェリーツェの夢」での動物と女性たちとの共同性という内容。
道又蒼彩さんの「カフカの階段」版画連作を、本人の許可を取って使わせてもらいました。
武蔵野美術大学大学院で版画を研究している道又さんは、今年ギャラリー「aaploit」(東京都文京区)で個展「own pace」を開き、そこで「カフカの階段」などを展示しました。この個展を見に行くつもりでしたが、ぎっくり腰と腱が骨から剥がれるケガで動けなくなって、残念無念にも行けなくなりました。
そこで、ギャラリーを通じて道又さんと連絡を取って作品画像を見せてもらい、Zoomでお話しをうかがいました。それについては、「現代の貧困を訪ねて」の175回と176回で書いてます。
ケガについては、「腰痛は突然やってきた――高額療養費制度」で書いたけど、動けない間、病院ではずっと「カフカ小説全集」を読み続けてました(新潮版「カフカ全集」は1990年代に読んでいた)。そのさい、当然ながら自分の問題として「つまづく」「立ち上がる」などの言葉にすごく敏感になり、カフカ論で書いた問題に気づくきっかけになりました。
「転んでもただでは起きない」あるいは「ケガの功名」ですね。

2023年下半期から始まったシリーズ「動物問題連続座談会」第2回目は、NPO法人アニマルライツセンター代表の岡田千尋さん、スタッフの鈴木萌さんをゲストにお話しをうかがっています。


■2023/10/22■ 動物問題連続座談会第1回 動物から考える社会運動

深沢レナ(大学のハラスメントを看過しない会代表、詩人、ヴィーガン)さん、関優花さん、栗田隆子さんと「動物問題連続座談会第1回 動物から考える社会運動」を先日5時間ぐらいかけて行なって、それがNoteで公開してます(Youtubeへのリンクもあります)。
ハラスメント、動物、支援活動、文学など多様な論点について話し合ってます。
座談会の最後に話してますが、以前から裁判記録を読んで注目していた深沢レナさんから連絡をいただいて、こういう座談会を行なうことになりました。
もともとは9月10日に東京で行なうはずだったのが、ぼくが思わぬぎっくり腰とそれに伴うケガをして、10月にzoom開催になってしまった…


■2023/5/26■ 川崎市での『眠っているウサギ』上演とアフタートーク

5月13日、川崎アルテリオ小劇場で、くるみざわしん(劇作)、高橋正徳(演出)、劇団コーロ公演の「眠っているウサギ」のアフタートークに参加した。
以前に八尾市での公演とアフタートークにも参加したが、出演者の変化もあって、高校生による野宿者襲撃をテーマにしたこの演劇は、受験競争の中での高校生たちの孤立、社会的な野宿者への差別、野宿者どうしの支え合いや反目などを重層的に描いている。
事件によって、高校生たちが通っていた塾の先生が野宿になるなど、登場人物たちの関係が大きく変容していく。そして、殺された人の野宿仲間との出会いをきっかけに、野宿者と自分の関係を問い直し、野宿の人々の新たな関わりが作られていく。2019年にも八尾市で公演を観たが、出演者の変化もあって、あらためてさまざまな思いが湧き起こるのを感じながら劇を見続けた。
公演には小説家の木村友祐さんが来られていて、Twitterでこう書いていた。
「少年の路上生活者への襲撃・殺人を真正面から捉えた、本気の作品。観ていてずっと胸の中が掻き乱されていた。なぜ事件が生まれるか、本質的問題が全部詰まっていたから」
「弱者虐待の構造の全体を可視化させたのは、フィクションの力だろう。犯行におよぶ最前線は少年。だけど、そうさせる源流は、やはり親(大人)たちの路上生活者への差別視にある。子どもは敏感に社会の価値観を察する。中学高校での教育劇のために作られたというけど、すべての大人たちこそが観るべき。」
 ぼくも、この作品が各地で上演されることを期待している。

川崎に行ったその足で大阪を通り越して倉敷へ。コロナ禍の期間まったく帰ってなくて、4年ぶりに帰りました。友だち何人かに会い、中西圭三のライブがたまたま岡山であったので見に行って、彼と同級生と3人で晩御飯食べました。


■2023/5/11■ 書評での計算間違い

下にある共同通信配信の、雨宮処凛さんの『学校では教えてくれない生活保護』書評は、全国各地の20ほどの新聞に掲載され、先日、共同通信社からドバっと送られてきた。
それを今日、あらためて読んでたら、
「これは、27年前から生活保護問題の支援をしているぼくにとっても発見に満ちた見事な一冊だ。」
とあって、
「あれ? 1986年からやってるけど、27年か? ……37年だ!」と気づいた。計算間違いしてた! 2023-1986=37だよ。
ゲラの校正をしてても気付かなかった。斎藤幸平さんから毎日新聞の記事で取材された時も計算間違いしてた(下の2021年10月3日のところで書いた)けど、数学史を専攻した人間がこれだよ…


■2023/4/2■ 雨宮処凛『学校では教えてくれない生活保護』書評・リレーインタビュー

共同通信配信の書評で、雨宮処凛さんの『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社2023)について書いてます。(われわれがやった「学校で教えたい授業」とタイトルがよく似てる…)
いろんな地方紙などに載るもので、これは福井新聞。 
原稿で書いたように、「読んでいくと本当に「社会を見る目」が変わるよ」「これは、27年前から生活保護問題の支援をしているぼくにとっても発見に満ちた見事な一冊だ。」ということですね。

一般財団法人・大阪府人権協会のサイトのリレーエッセイで、「人を追いつめる孤立・孤独。新たな共同体の創造で支え合う社会へ」のインタビュー載ってます。


■2023/3/5■ 「学校で教えたい授業」2023・「現代と共鳴するカフカ」

「学校で教えたい授業」20023は進行中で、3月11日は
ぼくとなかのまきこさんで「人間と動物の関係」(対面のみ)
「共同討議」をやります。(配信あり)。こちらは松岡千紘+吉野靫+ラボルテ雅樹+桜井啓太+貴戸理恵+山下耕平+生田武志の予定。
場所は立命館大阪梅田キャンパス(大阪富国生命ビル5階)多目的室。
オンラインの場合はすべてPeatix受付、以下のURLをどうぞ。
https://jyugyou2023online.peatix.com/

今日の東京新聞の「<社説>週のはじめに考える 現代と共鳴するカフカ」(同内容の中日新聞)で「カフカの階段」について触れられてました。
われわれの世界はカフカ的だということなんですね。
「カフカの階段」については一番上にあるリンクでどうぞ。


■2023/1/13■ 「学校で教えたい授業」2023

2009年に「学校で教えたい授業シリーズ」を東京、大阪で行ないましたが、
今年、「学校で教えたい授業」2023を行います。今回は、動画配信がメインとなります。
こちらのリンクから入ってください。
ぼくはなかのまきこさんと〈人間と動物の関係〉を担当します。

〈企画趣旨〉
 貧困、生活保護、ジェンダー、不登校、外国ルーツの当事者、人間と動物の関係など、学校の授業では取り上げられることが少ないものの、学んでほしいテーマがあります。どれも身近な問題であるにもかかわらず、子どもたちが学び、当事者と語りあうような場は、ほとんどないというのが現状です。
 そこで、それぞれのテーマや現場で活動(あるいは研究)する者が集まり、これらのテーマについての授業を行い、意見交換する場をもつことにしました。学校で教えたい5つのテーマについて、50分×2コマ=100分程度の授業を行い、最後に、それぞれの問題に共通する社会的背景や課題について話し合う共同討議を行います。
 差別や貧困を絶ち、新たな社会を創造するための授業がどのようなものか、ともに考え、学校や社会での実践につなげていくため、教育現場ではたらく方はもちろん、教職を志す学生の方、子どもと関わる方など、幅広い皆さんのご参加をお待ちしています。

▼〈ジェンダーと社会〉
 2月11日(土)13:00~13:50/14:00~14:50 
 私たちが「自由」に生きるためには、いくつかの社会的な条件が必要です。その一つは、性別をめぐる社会規範を解きほぐし、性別に基づく格差、性的指向やジェンダーアイデンティティを理由とする差別などを解消していくことです。このプログラムでは、ジェンダーという概念を通じて、異なる個人が同じ社会で生きていくことについて考えます。

《講師》
 松岡千紘(まつおか・ちひろ)
 大学教員、専門は憲法学・フェミニズム法学。自身の経験を動機にして、性差別と個人の自律について研究している。
 吉野靫(よしの・ゆぎ)
 クィア、トランスジェンダー 。大学講師。著書に『誰かの理想を生きられはしない とり残された者のためのトランスジェンダー史』(青土社2020)など。

▼〈外国ルーツ第2世代の葛藤と希望〉
 2月11日(土)15:00~15:50/16:00~16:50
 日本社会には、400万人以上の移民や外国にルーツをもつ人々がすでに暮らしています。同化/同調圧力が根強いこの社会のなかで、差別と貧困の背景を持ちながら、「支援の現場」に携わる二人が葛藤と希望を語ります。
《講師》
 三木幸美(みき・ゆきみ)
 (公財)とよなか国際交流協会職員。フィリピンと日本のハーフ/ダブルとして被差別部落で生まれ育つ。
 ラボルテ雅樹(らぼるて・まさき)
 対人援助職に従事。テーマは生活困窮・労働・移民など。フィリピンと日本のハーフ/ダブルとして貧困家庭に育つ。

▼〈貧困と生活保護〉
 2月19日(日)13:00~13:50/14:00~14:50 
 偏見と誤解にさらされやすい貧困と生活保護。「ずるい/もっと大変な人もいる」といったあからさまな攻撃も、「かわいそう/実は頑張っている」という憐憫も超えて、性質ではなく状態を、義務ではなく権利を、自立ではなく依存を、貧困ではなく贅沢を――そんな風に考えてみます。
《講師》
 桜井啓太(さくらい・けいた)
 研究者。専門は生活保護、貧困問題。著書に『〈自立支援〉の社会保障を問う』(2017)、『自立へ追い立てられる社会』(2020)など。
 橋本真希子(はしもと・まきこ)
 不登校、引きこもりなどを経て生活保護を受給。

▼〈不登校、不登校その後〉
 2月19日(日)15:00~15:50/16:00~16:50
 不登校は、約60年ほど「問題」であり続けています。「不登校でも大丈夫」という声もありますが、いまや学校に行っていても「大丈夫」ではない社会です。不登校、あるいは不登校その後が「大丈夫」であるには、この社会はどうあったらよいのでしょうか。学校と社会のあり方を問いながら考えたいと思います。
《講師》
 貴戸理恵(きど・りえ)
 大学教員、「生きづらさからの当事者研究会」コーディネーター。専門は不登校の「その後」研究。著書に『「生きづらさ」を聴く』(2022、日本評論社)など。
 山下耕平(やました・こうへい)
 NPO法人フォロ副代表理事。「不登校新聞」元編集長。居場所や当事者研究など、不登校・ひきこもりの当事者とかかわる活動を続けている。

▼〈人間と動物の関係〉

 3月11日(土)10:00~10:50/11:00~11:50
 動物と人間の関係は不思議です。人間はペットなどの動物をかわいがる一方、捨てて殺処分したり、多くの家畜動物を殺して食べたりしています。人間と動物の複雑であまり伝えられていない問題を、「野宿の人々と動物」「ペット」「食用動物」「実験動物」「動物園」「震災と動物たち」というテーマで考えます。
《講師》
 生田武志(いくた・たけし)
 1986年から釜ヶ崎の野宿者支援活動に関わる。著書に『いのちへの礼儀―国家・資本・家族の変容と動物たち』(2019)など。
 なかのまきこ
 動物との共生を考える「ひげとしっぽproject」主宰。動物問題活動家。獣医師(休業中)。著書に「実験動物の解放」「野宿に生きる人と動物」等。

▼〈共同討議〉
 3月11日(土)13:00~16:00 
 立命館大阪梅田キャンパスで行われる共同討議の様子を配信します。


■2022/11/28■ 「現代思想」2022年12月号の鼎談・日本哲学会のワークショップ

今日発売の「現代思想」12月号「特集*就職氷河期世代/ロスジェネの現在」で、雨宮処凛さん、杉田俊介さんと「討議 この荒野のような世界で」に参加しています。
見出しは「ロスジェネ論壇を『総括する』」「貧困・実存・ジェンダー」「日本社会という『無理ゲー』の絶望と希望」。貧困、世代による状況の変化、ジェンダーと労働、性をめぐる実存、釜ヶ崎や野宿の問題などについて語り合っています。
お二人が青土社、ぼくが自宅からzoomでの参加でした。

きのう、 日本哲学会の第2回秋季大会(完全オンライン)の公募ワークショップ 「動物倫理における理論と実践の関わり」に、伊勢田哲治さん、井上太一さん、佐藤靜(さやか)さん(大阪樟蔭女子大学)、東さちこさん(PEACE 命の搾取ではなく尊厳を 代表)と参加しました。オーガナイザーが浅野幸治さん。
基本的に会員のみの視聴。 
ぼくは「動物権の教育実践への課題」、伊勢田さんが「英米系動物倫理学における研究と実践」、井上さんが「動物倫理学研究の発展とその日本における課題」という報告をして、佐藤さん、東さんから質問をいただきました。
多様な立場から、それぞれ踏み込んだ発言があって、刺激のある内容になったんじゃないかな?


■2022/11/13■ 『貧しかったが、燃えていた 釜ヶ崎で生きる人々』『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカト闘い、水俣で泣いた』

庄司丈太郎さんくの写真集『貧しかったが、燃えていた 釜ヶ崎で生きる人々』を贈っていただきました。
前篇『貧しかったが、燃えていた 昭和の子どもたち』を週刊読書人で書評しましたが、今回は「釜ヶ崎の光と影」を寄稿しています。
あらためて写真を見ていると、ぼくが知らない1970年前後の写真から、ぼくの知り合いたちが登場してくる1986年以降の写真まで、釜ヶ崎の光と影と、裏と表、そして生と死がさまざまな角度から写し出されています。
こういう濃密な世界は、もう日本で見ることは絶対できないだろうなあ…

斎藤幸平さんの『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』を贈っていただきました。
、毎日新聞の連載記事「斎藤幸平の分岐点ニッポン」を本にまとめたもので、そのうち斎藤さんが野宿者ネットワークの夜まわりに参加された「釜ヶ崎で考える野宿者への差別 内なる偏見に目を」も収録されてます。
日本各地のいろいろな社会問題をリアルに学ぶことができる、とてもいい本だと思います。



■2022/9/3
■ 井上太一氏への応答

下の応答に対し、井上さんから再応答がありました。
前編: 後編 
すぐに反応を書こうと思ったんですが、お互いの意見の違いをかなり明確にできたので、いまただちに応答するより、次の機会まで考えをまとめる時間をおいた方がいいかもしれない、と考え直しました。
いずれここで触れますが、井上さんとは別の場でやりとりする機会もあるので、あらためて意見交換ができそうです。
井上さんの率直な批判に感謝しています。あらためて、自分の考え方を検証してみます。


■2022/7/9■ 井上太一氏への応答

ようやく書いてアップ。結構長くなりました。



■2022/7/4
■ 『動物倫理の最前線』の書評への応答

先に書いた『動物倫理の最前線』書評に対する著者の応答が出ている。
最優先で返答を書いてますが、重要な問題が多いので、書いてて興味深く、調べて書いて、読み返して整理してと、なかなか終わらない。賃労働と活動(野宿者ネットワークなど)、締め切りのある原稿などで時間の大部分を取られるし。
でも、あと一週間あれば終わる予定。
 


■2022/6/21■ 『動物倫理の最前線』の書評・『いのちへの礼儀』の入試問題

井上太一『動物倫理の最前線: 批判的動物研究とは何か』の書評をアップしました。これは動物倫理を語る上で「必読書」です。

上で触れた『いのちへの礼儀』が琉球大学2022年度の入試問題に使われていた。
河合出版「大学入試小論文問題集」への「転載使用許可のお願い」が来て、問題文も見たが、120分… がっつりした問題だ。
みなさんの解答を見せてほしい!(無理か…)


■2021/12/5■ 「現代の貧困を訪ねて」

毎月連載している「現代の貧困を訪ねて」(雑誌「福祉のひろば」)が150回を越え、今日送った2022年1月号分で152回になった。2009年から12年以上書いている。
毎月の出来事について書いてて(それで、ここで書く事がなくなっているという面もある…)、振り返るといろんな事があるもんだ。
いま発売中の2021年12月号には「病院の予約が取れない!コロナ鬱の医療崩壊」の問題について書いた。これ、かなり前から現場では本当に深刻なんだけど、新聞やテレビなどで問題として取り上げられたこと、ほぼないんじゃないだろうか。
この原稿はいずれアップするけど、今回、
148回・小柳伸顕『釜ヶ崎現場ノート 1975年~2007年』(2021)(2021年9月号)

147回・座骨神経痛は突然やってきた(2021年8月号)
をアップした。



■2021/10/15■ 「日本社会は多くのDaiGoで満ちている」

ロームシアター京都 機関誌「ASSEMBLY」「日本社会は多くのDaiGoで満ちている」を書いてます。
8月15日に
〃なお、「生活保護」「ホームレス」「猫」をめぐるDaiGo発言については、「野宿」「貧困」「動物」問題それぞれについて本を書いてきた(『〈野宿者襲撃〉論』『貧困を考えよう』『釜ヶ崎から』『いのちへの礼儀』)人間として、さらに考えたい内容がある。これについては、別の場で書くかもしれない。〃
と書いたけど、それがこれです。



■2021/10/3■ 「はらっぱ」9月号の記事・「釜ヶ崎で考える野宿者への差別」(毎日新聞)

「はらっぱ」9月号に「これからの街づくりで大切なこと~釜ヶ崎からこそ見える~」を書いてます。
「子どもの家事業廃止問題」「西成特区構想とジェントリフィケーション」「新今宮ワンダーランド 多様性と包容力に溢れる街」という内容。
4月に炎上した、野宿者との交流を「デート」として描いた記事についても触れました。「このエッセイは、大阪市の「新今宮エリアブランド向上事業」の取り組みの一貫としてご依頼いただいた、街のPR記事です」というウェブ上の記事です。
〃記事をめぐり、「貧困問題をエンターティメント化している」といった批判があふれ「炎上」しました。一言で言えば、地域に関わっていないランターが、野宿状態にある人の生活の厳しさ、そして背景にある釜ヶ崎の歴史と構造的暴力の問題に触れることなく「あたたかい交流」を描いたことに批判の目が向けられたのです。あえて別の例で言えば、日本の旅行者が、海外のストリートチルドレンとの数時間の「触れあい」を社会的背景に触れることなく描き、それをその国の「イメージアップ」のPRとして使うようなものでしょう。(なお、この記事を書いたライターは批判に対して反省を行ない、自宅とともに新今宮でも暮らす決断をしています)。〃
結論として、
〃あいりん総合センターは労働者、野宿者、生活困窮者の拠点として再建され、そのセンターを中心に、釜ヶ崎全体が関西全域の「支え合いの街」「社会保障の街」となる方が、はるかに社会的に重要な意味があると思います。
 釜ヶ崎を日雇労働者や野宿者、そしてこどもたちや生活困窮者の立場からの「支えあいの街」として位置づけることは、「再開発」とは全くちがう、釜ヶ崎の「解放」を意味するものとなるはずです。〃

斎藤幸平さんの記事「釜ケ崎で考える野宿者への差別 内なる偏見に目を」(毎日新聞9月5日)に取材協力しています。釜ヶ崎を案内し、夜まわりに同行してもらいました。
記事(有料部分)の中で「自らも8年前まで日雇労働に従事していた」とありますが、質問されたときそう答えたけど、記事が出てから「違ったか?」と思ってあらためて数えてみたら、なんと13年前だった(時が経つのは早い…)。ここで訂正します。



■2021/8/15■ DaiGoの生活保護利用者、野宿者に対する差別発言・暴動に関する記事について

8月7日に公開されたDaiGo氏のYouTubeライブ動画での生活保護利用者、野宿者に対する差別発言には驚いた。が、驚いてばかりもいられない。
「僕は生活保護の人たちに、なんだろう、お金を払うために税金を納めてるんじゃないからね。 生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしいと僕は思うんで。生活保護の人が生きてても僕は別に得しないけどさ、猫は生きてれば得なんで」。
彼は、生活保護の人たちを「猫」以下の存在としている。
もちろん、猫の尊厳を尊重し、命を守る活動をしているのは素晴らしい。だが、なぜその代わりに生活保護利用者の尊厳を否定するのだろうか? 
しかも、「ホームレスの命はどうでもいい」と言い切っている。「どちらかというと、みんな思わない?どちらかというといない方がよくないホームレスって?」「邪魔だしさ、プラスになんないしさ、臭いしさ、ねぇ。治安悪くなるしさ、いない方がいいじゃん」「もともと人間はね、自分たちの群れにそぐわない、社会にそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きてきてるんですよ。犯罪者を殺すのだって同じですよ」。
彼は、野宿の人たちを「いない方がいい」と、その存在を完全に否定している。1970年代から野宿者襲撃は途絶えることなく続き、多くの野宿者が主に10代の少年グループによって殺され傷つけられてきた。彼の発言は、生活保護利用者、野宿者という「困窮者」に対する明確なヘイトスピーチで、とりわけ「野宿者襲撃」や「野宿者排除」というヘイトクライムを視聴者(チャンネル登録者は246万人)に対して扇動しているのだ。
ぼくは、1986年から野宿者の支援活動を行ない(ゆうべも野宿の人たち訪ねて回る夜まわりをしてきた)、生活保護申請に同行し、アパートに入った生活保護の人たちを訪問して相談を受けてきた。その中で大きな問題として痛感してきたのは、野宿者と生活保護利用者に対する社会的な偏見と差別だった。
襲撃した少年たちの証言から明らかだが、野宿者襲撃の根本原因には野宿者に対する強い差別がある。野宿者襲撃を阻止するためには、そうした偏見を解決しなければならない。生活保護についても、「生活保護バッシング」などの動きによって偏見が強まり、生活に困っても「生活保護だけは受けたくない」と知人や業者から借金を重ねてしまう人や、生活保護を「引け目」と感じて社会的な孤立や鬱になっていく人たちを見てきた。
 そのため、ぼくは2001年から全国の小中高、大学などで「貧困と野宿を考える」授業や講演を行なってきた。また、教員研修や職員研修など、大人対象の講演も行なってきたし、本も書いてきた。ぼくは、こうした授業を日本で一番やってきた人間だろう(授業の履歴)。しかし、DaiGoが20万回以上も再生されるチャンネルでこうした発言をすれば、相対的に、ぼくたちがやってきたような数十年の努力は一夜で吹っ飛ばされるかもしれないのだ。
ただ、今回は、この発言について多くの人たちが反対の意志を示し、「生活保護問題対策全国会議」「一般社団法人つくろい東京ファンド」「コロナ災害緊急アクション」「一般社団法人反貧困ネットワーク」による声明も出された。この結果、DaiGoは一応の「謝罪」を示すに至った(まだ、いろいろ疑問のある「謝罪」だが)。
しかし、DaiGoのような発想を持つ人は相当数いて、ことあるごとに繰り返されるのかもしれない(ぼくは、彼の発言は、かなりの人が「ふつう」に持っていることを、ぶっちゃけてしまっただけではないか、という疑問も持っている)。それを止めるには、彼のような発言がどのように生まれてきたのか、今後ていねいに検証する必要があるのだろう。

DaiGoの発言は、視聴者からの「親から全て間違っていると言われた」という相談に対して、「いじめられたから、親に虐待を受けたから自分は成功できないという人がいるけど、同じ状況でも成功している人はいくらでもいる」と答えたところから始まった。
彼自身、「小学1年から中学2年までの8年間に亘っていじめを受けていたが」「自分の行動一つで世界は変えられると考えるようになった」とされる。また、「東京大学に入れなかったことで、かなりのコンプレックスを抱いたまま大学生活に突入する」が、「このコンプレックスに打ち勝つために、大学時代に何かを成し遂げなければならないと強い使命感のようなものを感じ」(wiki)たという。彼は、配信で「人間は自分の力で未来を切り開くものだと僕は思ってる」と言っている。彼には、「自分」の努力で「何かを成し遂げなければ」ダメだ、という信念があるようだ。彼の野宿者への異様な差別観は、そこから来ているのかもしれない。「努力し続け成功しなければ生きる価値はない」という圧力、そうしなければ自分の居場所がなくなるというストレスが常にあり、その裏返しのように、彼の目には「何もしていないで寝ているホームレス」(多くの野宿者はアルミ缶集めなど低賃金重労働をしているが)への蔑視を募らせているということだ。
以前、大人のグループに野宿問題を話したことがある。そのとき、ある会社経営者が立ち上がって、「私は以前、会社経営に失敗して、死のうと思った。しかし、そこから必死になって、もう一度、会社を建て直すことができた」「だから、この(野宿の)人たちも、がんばればなんとかなるはずだ、野宿から抜け出せるはずだ」と強く言ってきたことがある。
会社を建て直したという体験は素晴らしいが、それを絶対視して、他の人がそうできないことが「許せない」ようなのだ。これは、「逆境から這い上がった」人によく見られる傾向なのだろう。DaiGoの生活保護利用者や野宿者に対する強烈な偏見もそこから生まれているのかもしれない。
DaiGoは、13日の配信で「ホームレスの人とか生活保護を受けている人は働きたくても働けない人がいて、今は働けないけど、これから頑張って働くために、一生懸命、社会復帰を目指して生活保護受けながら頑張っている人、支援する人がいる。僕が猫を保護しているのとまったく同じ感覚で、助けたいと思っている人、そこから抜け出したいと思っている人に対して、さすがにあの言い方はちょっとよくなかった」と言った。つまり、「これから頑張って働く」「抜け出したいと思っている」人だけを認めて「反省」したのだ。
しかし、「自助努力」だけが問題だというなら、そもそも「社会」や「社会保障」は必要ない。ここには、「貧困は社会が生み出す構造的問題だ」という視点が完全に抜け落ちている。「世の中にはいろいろな人がいる」ことを前提に、危害を与えない限り、すべての人が最低限度の自由や生活を保障されるべきだ、というのが現代社会の前提だろう。それに、「いすとりゲーム」の譬えで言えば、「頑張っている人」だけを支援するのは、事態をますます悪化させる結果にしかならないのだ。(もしかして、彼は「頑張って」いる猫だけ選んで助けているんだろうか?)
彼は、配信で「いじめられても誰も助けてなんてくれなかった。自分でがんばってなんとかするしかないんです」「だから人より猫が大事」と言っている。彼には、「猫」や「家族」以外の人間への絶対的な不信があるのかもしれない。
彼の本には「誰とでも心を通わせる」「相手を意のままに操る」「相手の本音を見抜く」といったタイトルが入っているが、彼に必要なのは、相手を意のままに操らず、ふつうに誰か他人と心を通わせて、多様な社会のあり方に自分の存在を開いていくことなのではないだろうか(これは、自戒も込めて、のことですが)。
なお、「生活保護」「ホームレス」「猫」をめぐるDaiGo発言については、「野宿」「貧困」「動物」問題それぞれについて本を書いてきた(『〈野宿者襲撃〉論』『貧困を考えよう』『釜ヶ崎から』『いのちへの礼儀』)人間として、さらに考えたい内容がある。これについては、別の場で書くかもしれない。

ところで、DaiG発言と同じ8月7日に出た新聞記事が、釜ヶ崎と野宿者について非常に問題のあるものだった。(こちらはぼくの知る限り、まったく問題にされていない)。(19日追記。ここで触れられていた)
西成暴動60年…転換期を迎えるあいりん
「狂気に包まれた」。新聞でこの言葉を見るのは近年まずないので驚いた。が、驚いてばかりもいられない。
この記事は、1961年の釜ヶ崎の最初の暴動を振り返る内容だ。1961年暴動については、小柳伸顕『釜ヶ崎現場ノート 1975年~2007年』(2021私家版)でこのように語られている。

釜ヶ崎暴動は、一九六一年八月一日午後九時過ぎ、釜ヶ崎一のパチンコ屋大一付近の交差点で六二歳の日雇労働者柳田さんが、タクシーに轢かれて瀕死の状態にあったことが引き金になった。
 柳田さんは、轢かれたまま二十分路上に放置されていた。救急車も来ない。目と鼻の先にある西成署からパトカーが来たのが二十分後。しかも警官は、まだ脈のあった柳田さんにムシロをかけたという。その人権無視というか、労働者に対する態度に「遺憾な点」があったとは、大阪府警も公式の席で認めている。つまり、事故処理にあたった警官が、「人命」よりも「事故現場の保存」に力点を置いた結果だ、と大阪府警は弁解した。
 それにしてもひどい話だ。目撃者たちは、まだ柳田さんに脈があり、救急車が早く来たら助かっていた、と証言している。にもかかわらず警官は、「死んだ」と認定し、ムシロをかけたのだ。事件で駆けつけた労働者たちが、そのあまりの扱いに「アンコ(日雇労働者)だって人間だ」との叫びをあげたのは当然である。その叫びは、六〇〇人、一〇〇〇人の群れとなり、「労働者を人間と見ない」派出所の警官やそれを鎮圧しようとする警官隊に向けられ、やがて暴動へと発展していった。決して計画的な暴動ではなかった。これまで日雇労働者を人とも思わない行政あるいは世間一般に対する精いっぱいの「抵抗」がそこにあったのではないか。

つまり、暴動は「警察の日雇労働者への差別」に対する抗議活動として行われた。それを「狂気」と表現するのは、たとえばアメリカで警察のアフリカン・アメリカンに対するヘイトクライムに対する抗議として広がった「暴動」を新聞が「狂気」と表現するのとまったく同じだ。それは、社会問題の矮小化であると同時に、活動に参加した人々への侮辱と言える。(ただし、暴動の中で起こった略奪や放火などを肯定するつもりはない)。
そもそも、「狂気」は従来、統合失調症など精神疾患を指す差別語だった。こうした言葉をいま新聞に使うことは理解を越えている。
記事は、基本的に警察の立場から書かれており、そこには暴動の主体だった日雇労働者や野宿者の視点は完全に無視されている。
一方、1990年暴動のとき現場にいた新聞記者はこう報告している。

信じられない光景だった。六日午前一時過ぎ、地区北西隅にあたる南海新今宮駅ガード下の大通りに面した壁の前で、首にタオルを巻いていた労働者風の男五人が、通りかかったラガーシャツにジーパン姿の少年二人を取り囲み、いきなりけり上げた。男たちは言った。「警察や。石役げたやろ。手を見せろ」。二人へのひざげり、往復びんたは約十分間続いた。
 二人はこわごわ手のひらを差し出し、「投げてません」と小声で言った瞬問、ほおを張られた。(…)専門学校生という一人は「ボクたちみたいに、見物に来たことが騒ぎを大きくしたことは反省している。でも、警官からこんな目に遭わされるなんて」。もう一人の大学一回生は「『警察だ』と言うので、免許証を見せたら、『お前ら、なめとるんやろ』と頭突きされ、次々に足を十数回けられた。殺されるかと思った」と震えていた。同様のシーンは午前一時から二時の間だけで別の場所も含めて十回目撃した。頭突きやひざげりの後、道路に正座させられる少年。壁に両手をつけさせられながら背後からけり上げられた少年。(毎日新聞1990年10月6日)

産経新聞は、かつて野宿問題について全国紙で最も調査の行き届いた公正な記事を掲載していて、読んで感心したことが何度もある。おそらく、熱心で優秀な記者がいたのだろう。
しかし、このような記事を執筆した記者、そしてそれをOKした新聞社には、大きな問題を感じている。



■2021/5/2■ 斎藤幸平さんとのトークイベントのYouTube・トークの論点いくつか

4月30日の斎藤幸平さんとのトークイベントのYouTube がアップされてます。
対話だと、いろいろ抜けや説明が不充分な点があって難しいものだなあ、とあらためて感じました。
なお、以下は事前に斎藤さんに送った「トークの論点いくつか」。

▼『人新世の「資本論」』 『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』 『NHK 100分 de 名著 カール・マルクス『資本論』』を読みました。
マルクスと「資本論」を資本主義の限界にある地球環境の視野から捉え返し、新たな読みを提示した見事な本だと思いました。
批判だけではなく、新たな可能性の提示が新鮮でした。「資本論」が新たな角度から甦ってくるような過程にわくわくさせられました。(不勉強なことに、「資本論」は第2巻までしか読んでないんです。)
資本主義=経済成長という時代が過去のものになり、別の社会の可能性を考えなくてはならない今、多くの人が読んで、ともに考えていかなければならない内容だと思います。

お聞きしたいこと・考えた論点として、

○斎藤さんがマルクス、そして『資本論』に関心を持つようになった経緯はどういうものだったのか。

○資本主義の最大の問題の一つは貧困と格差だと思います。
「資本論」第1巻では、労働者たちの悲惨な労働実態が描かれていました。
現代日本では、その一つの極限例として日雇労働者と野宿者がいました。路上死、襲撃(ヘイトクライム)などにより多くの人が命を落としていました。現在は、「日雇労働者がリハーサルし、フリーターたちが本番を迎えている」とも言えます。
資本主義への対抗運動は、同時に、日雇労働者の問題を解決する運動であるべきですが、それは具体的にはどのようなものであるべきなのか。

○日雇労働の問題と並んで重要なのは、女性の問題だと思います。
現在、コロナ禍の中で、女性の失業と自殺が増加しています。また、DV被害も増加しています。
有限責任事業組合で雑誌「フリーターズフリー」を作っていたとき、最も重視したテーマの一つは、「女性労働の問題を抜きにして労働を語ることはできない」ということでした。非正規雇用が社会問題になったのは、若い男性がフリーターになったからでしたが、女性労働は以前から非正規が主流でした。そこで特に注目したのは主婦の行なうパート労働の問題でした。
斎藤さんは後期マルクスが共同体を重視していたことに注目されています。しかし、多くの場合、家父長制だった「共同体」の再評価をジェンダー問題の検討なしに行なうことは無理だと思います。
ジェンダー問題は「家族」制度の問題でもあります。資本への抵抗は、「家族」からの解放と同時に行なう必要があると思っています。それはどのようなものであるべきなのか。

○日雇労働者をはじめとする「非正規雇用」と、ジェンダーの問題への一つの解決策として、オランダ・モデルが有効だと思っています。資本主義にもいくつかモデルがあり、その中で相対的に有効だということです。
オランダ・モデルの意義と限界はどういうものなのか。そして、それを越える社会のあり方として、何が考えられるでしょうか。

○「コモンの再生としてのコミュニズム」は重要な視点だと思いました。
その具体例がいくつか挙げられていますが、「コモン」としての公園や路上などで生活し、ときに助け合って生活する野宿者も、その一つの例になると思います。
野宿者の生活や釜ヶ崎の現実は過酷さと可能性の両方の面を持っています。「災害ユートピア」がそうであるように、現在の社会のオルタナティヴとしての「ホームレス・ユートピア」がありえたのかもしれけません。、
野宿者や釜ヶ崎は「コモンの再生としてのコミュニズム」の一つの可能性を垣間見せていたのではないでしょうか。

○マルクスが「可能なコミュニズム」と呼んだ労働者協同組合について、「資本家や株主なしに、労働者たちが共同出資して、生産手段を共同所有し、共同管理する組織」とし、ワーカーズコープ労働者協同組合が挙げられています。
ぼくたちは、有限責任事業組合「フリーターズフリー」でそうした取り組みを試みました(雑誌を3冊刊行)。(注。3号は任意団体として出したので2冊だった)。
『人新世の「資本論」』で、保育園の自主管理の例が取り上げられていましたが、ぼくがアルバイトやボランティアで関わってきた学童保育「山王こどもセンター」(釜ヶ崎キリスト教協友会)は、運営法人が手放した結果、保護者や賛同者による自主運営を行いました。(その後、大阪市の「子どもの家事業」になりましたが、橋下市政による廃止され、ふたたび学童保育になっています。)
こうした試みは各地で行われていますが、必ずしも成功ばかりではありません。かなりが苦闘しています。
こうした取り組みを維持・発展させていくためには何が必要なのか。

○斎藤さんの本では「資本主義と環境問題」が最大のテーマとなっています。
「工業畜産」は環境破壊の最大要因の一つです。しかし、グリーンピースなどの環境保護団体は、畜産業の問題になると、無関心か、話をはぐらかす傾向があります。日本でも、環境問題に関心のある人々も「工業畜産」には無関心という事が多いようです。
こうした偏りは何によるのでしょうか。どうすれば、環境問題と動物問題をともに考えていくことができるでしょうか。

○マルクスが家畜動物の問題について触れているのを読んで、強く関心を持ちました。
しかし、マルクスが構想したアソシエーションの主体、あるべき共同体の一員に動物は入るのでしょうか。それとも、あくまで人間を主体とした客体なのでしょうか。
カフカは「人間と動物の全共同体を見渡すこと、その根本的な偏愛、願望、道徳理念を認識し、これを単純な規定に還元(…)することに努めてきた」と言っていましたが、マルクスは「人間中心主義」を出ていたのでしょうか。
(なお、『人新世の「資本論」』P272の「食べ放題、シーズンごとに捨てられる服、意味のないブランド化、すべては「必然の国」における動物的欲求に縛られている」は、人間中心主義的な表現ではないでしょうか。)
『いのちへの礼儀』では「家族・国家・資本」に対する「動物との共闘」と言いました。それを広い意味での社会変革、いわばアソシエーションの一つと考えられないかと思っています。
動物たちとわれわれとの関係の変革は、社会変革にとって不可欠ではないでしょうか。

○「SDGs」は「持続可能な開発目標」で、資本主義の内部で環境問題を解決しようとする方向です。斎藤さんの「SDGsもまた、自分たちが気候変動問題に取り組んでいると思い込み、辛い現実から目をそらす役割を果たしているという意味で、現代版の「大衆のアヘン」にすぎない」という批判は鮮やかでした。
一方、動物問題で、現状の資本主義のままで「工業畜産」を改善しようとする方向はアニマル・ウェルフェアと言えます。しかし、 ナイバートが言うように、「むしろそれが問題意識を抱く市民をなだめて、意味のある変革への呼びかけを鎮め、より大きな社会の刷新へ向かおうとする運動の勢いを殺いでしまう可能性の方が大きい」(『動物・人間・暴虐史』)。これは斎藤さんの「SDGs」批判とかなり平行しています。そして、ナイバートは、人間によるすべての「動物搾取」を否定し、資本主義の克服とヴィーガニズムを提唱しています。
アニマル・ウェルフェアとヴィーガニズムあるいは「動物解放論」をどう考えるか、『いのちへの礼儀』でかなり考えました。理論的には対立していますが、現実的には両方の立場を両立させざるをえない面があるからです。
アニマル・ウェルフェアは「大衆のアヘン」にすぎないでしょうか。「持続可能な開発」と「資本主義の克服」に、われわれは現実としてどのように関わるべきでしょうか。

斎藤さんからも、何か論点や疑問点などがあれば教えてください。


実際のトークでは取り上げた点もできなかった点もある。また、事前にいただいた斎藤の質問にもうまく答えられず、情けないところです。


■2021/4/26■ 斎藤幸平さんとのトークイベント・ネズミの食べかけを食べるとどうなるのか

30日18時~、『人新世の「資本論」』『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』の斎藤幸平さんとのトークイベントがあります。
当初はジュンク堂難難波店3階カウンター横特設会場で定員20名のトークセッション(Wordファイル)の予定だったけど、緊急事態宣言に入ったこともあり、オンラインになりました。

罹災証明の関連でわかったけど、いま借りている家は大正時代に建てられた100年を超える物件だ。なので、もともと土間の台所も含め、外からネズミもイタチも入り放題になっている。
引っ越した直後はイタチが天井で大暴れして、夜中にドタバタ音で起こされて困った。ただ、大騒ぎはイタチがネズミを追いかけていたためのようで、ネズミがいなくなったら、イタチが入って来ることはなくなった。
と思っていたら、イタチがいなくなったらしく、今度はネズミがしょっちゅう出入りするようになった。朝、台所にネズミのフンが落ちてるし、台所に置いてあった食品類が食い荒らされていることがある。食品はコンテナや扉のある棚に入れておくんだけど、うっかり置きっぱなしにしていたものを食べられてしまうわけだ。
ある時、小腹が減ったので、扉のある棚に入れておいたチョコレート(3個100円のスニッカーズ)を食べていた。食べてると、袋が一部破れているのに気がついた。よく見ると、ネズミが食べた穴が空いている! 
あわてて吐き出して、うがいをしたが、一部は食べてしまったはずだ。
「ネズミの食べかけ」を人間が食べたら、一体どうなるのか? 心配になってネットで検索してみると、「中国でネズミの食べかけた食品を食べた男性が○○という病気になり死亡」とか恐ろしい記事が出てくる。なので、指を喉に突っ込んで吐こうとしたけど、自分ではなかなか簡単に吐けるものではないということはわかった。
もう少し検索してみると、医者が回答するサイトで「こどもがネズミの食べかけたお菓子を食べてしまいました。大丈夫でしょうか?」と質問しているのを見つけた。まさにこれ。回答を見たいんだが、医師の回答は課金しないと見られない。
仕方ないので、お金を払って見てみると、「日本においては大きな心配はありません。雑菌がいるぐらいですから、一日様子をみましょう」みたいなことがあった。
それから一日、とんでもない下痢とかにならないか不安に過ごしたが、とりあえず無事でした。
なお、ネズミは、人間が扉を開けるための「指一本分の隙間」から棚に侵入していた!
以後、食品類は管理を徹底しているが、イタチやネズミに囲まれての生活は続く。


■2021/1/14■ 罹災申告書とラジオ出演

正月早々ですが、
うちのある長屋の、一軒おいて隣の2階から出火した。住人の不在中、電気器具から出火したらしい。
朝9時半頃、消防隊員が大勢やってきてその家のドアを破壊して突入、消火する大騒ぎになった。
消防隊員がうちに来て「危ないので避難してください。上がらせてもらいます」と、ホースを持って中に突入した。そして、延焼確認で天井を破壊するなど、なかなか大変なことになった。
その後、無事に鎮火。結果としてボヤ程度で済んだけど、火元の家はしばらく住めないようだ。
「これを使ってください」と、消防隊員から大家さんの分も含めて罹災申告書を2通もらった。
初めて手にした罹災申告書。被災者として役所とやりとりすることになりました。

翌日、外出中に電話があり、出るとTBSラジオの人からで、「荻上チキ・Session」の中で、関西3府県で明日緊急事態宣言が発出されることについて野宿者や生活困窮者の支援者としてコメントとしてほしいと言われた。(荻上チキさんの番組は、前に野宿者襲撃問題で電話出演したことがある)
出番は3時半から、ということは1時間後。
携帯電話で「コロナ問題で大阪の街のようすはどうか」「野宿の方や生活困窮の方の状況はどう変わったか」「どのような相談があるか」「緊急事態宣言が出た場合、懸念されるのは?」「困窮している方にアドバイスは」などの質問に出先で答えました。
それにしても、いきなり話が来るよね…


■2020/12/25■ 「現代の貧困を訪ねて」最近の記事

「福祉のひろば」で2008年ぐらいから連載している「現代の貧困を訪ねて」の最近の記事をアップしてます。今日、校正した記事で140回。
「今月は書くことないな~」と思う時もあったけど、結局、貧困問題は絶えることなく起こるので、こうして続いている。
139回で触れたクヌート・ハムスンは、ヘンリー・ミラーの『 わが青春のともだち』(田村隆一+北村太郎の素晴らしい訳)で中学生の時に名前を知って、読んでみたいとずっと思っていた。
この連載では文学について全然触れてないので、反応がどうだろうと思っていたけど、編集の方によると、「12月号のクヌート・ハムスンのお話、知らなかったという方が多く、読んでみたい!いつもの連載と違う角度でまたおもしろかった、という感想を多くいただきました!」ということだった。
岩波文庫でハムスンの恋愛小説『ヴィクトリア』訳は出てるけど、『飢え』のノルウェー語からの翻訳をどこかで出してくれないものだろうか。


■2020/11/28■ オンラインセミナーなど

11月29日20時~
明日です。新型コロナのパンデミックを軸に、動物や貧困の問題について、という内容。

2021/01/24 (日)13:00 - 17:00
「いのちへの礼儀」を読んで~動物との関係を考える実行委員会主催

11月にあった沖縄キリスト教学院大学の編入学試験に『貧困を考えよう』(岩波ジュニア新書)が使われていた。
沖縄ということで、感染問題が収まった暁に、授業か講演で呼んでもらえるとうれしいれけど、どうでしょう。 


■2020/10/16■ ジュンク堂書店難波店でのトークセッションの記録

8月30日、大阪のジュンク堂書店難波店で井上太一さんとのトークセッションを行ないました。その記録が人文書院の「NOTE」で公開になりました。
前篇
後篇
このイベント、オーストラリアからのzoomでの参加者など、熱心な方が多く、質疑のやりとりが長く続きました。申し訳ありませんが、そちらは文字起こししておらず、カットになってます。


■2020/8/10■ 「福音と世界」9月号

10日発行の「福音と世界」9月号の特集「責任という旅路」に「パンデミックの危機と動物たち」を書いてます。
この問題について語られることがなぜか少ない中、ぼくにとっても、いい機会になりました。

こちらの「福祉のひろば」連載の「現代の貧困を訪ねて」の最近のいくつかをアップしてます。


■2020/6/26■ ジュンク堂書店難波店でのトークセッション

8月30日16:30から、大阪のジュンク堂書店難波店で井上太一さんとのトークセッションを行ないます。入場無料、定員30名

《人間以上》の社会正義を求めて~
『いのちへの礼儀』『現代思想からの動物論』刊行記念トーク

チラシ(ワード文書)

井上さんには、『いのちへの礼儀』をお贈りし、
「井上さんが翻訳された本を読みながら、動物解放論、動物の権利論の起こした問題を常に意識しながらこの本を書いてきました。
その中で、動物問題についての建設的な議論が日本でほとんど成立していないことは大きな問題だと痛感しています。
内容について、ご意見をいただければ本当にありがたいです。」
とメールしました。
そして、井上さんから書評をしていただきました(4月4日)。
それに対して、ぼくからのメール(4月7日)(ワード文書)。
このやりとりを起点に、対談の機会を探してましたが、なかなか見つからず、
今年、ジュンク堂書店難波店でいったん開催が決まりましたが、感染問題から延期に。
というわけで、今回、ようやく告知ができることになりました。


■2020/4/26■ コロナウィルス不況による生活困窮、そして野宿現場の課題
岐阜の野宿者襲撃・殺人事件
『いのちへの礼儀』の「サンガジャパン」の記事・大学入試問題


 コロナウィルスの影響による生活困窮の広がりを受け、野宿者支援や貧困問題の現場は臨戦態勢になった。
 さまさざまな飲食業、観光業、イベント業など売り上げに壊滅的な影響を受け、長期休業や廃業を強いられているが、ぼくが驚いたのはご近所にある飛田遊郭だ。飛田新地料理組合は感染の怖れがあることから営業自粛を決め、「営業する店は除名する」と宣言し、4月3日に加盟約160店舗の休業を決めた。4月6日頃、飛田を歩いたら本当に全店が閉まっていた。飛田と同じ町内に30年住んできて初めて見る光景だ。
 これにより、ここで働いていた1000人以上の呼び込みの女性や、いわゆる「仲居」の女性たちは全員失業した。他の夜の歓楽街や風俗業も自粛となっているので、他の仕事は簡単には見つからない。彼女たちは、いずれ貯金が切れれば生活困窮に陥るだろう。
 「緊急事態宣言」が4月7日に東京や大阪府に出て、「遊興施設」の1つであるネットカフェが含むさまざまな業種に対する休業要請を行なった。東京都での調査では、ネットカフェ利用者の約26%が住まいがないために寝泊まりしている。人数は1日当たりおよそ4000人で、大阪でもそれに準じる人数だろう。これらの人々がいきなり寝場所を失うことになったのだ。
 4月18日、19日に「コロナ災害を乗り越える何でも電話相談会」実行委員会による電話相談が25地域・31会場であり、ぼくも相談員として入った。全国で5009件の相談を受けたが、ぼくが受けた相談は「タクシー運転手だが、会社から週一日しか仕事がないと言われた」「売り上げが減った会社から肩たたきにあっている」「店が開店休業状態で住宅ローンが払えない」「仕事がなくなり、家賃が払えず、追い出されるかもしれない」(公開可)などだった。持続化給付金や住居確保給付金、生活保護、休業手当など、とりあえず使える制度の紹介をしたが、それだけで解決するとはとても考えられない。国による保護が手厚い大企業は莫大な内部留保(利益剰余金)でしばらく持つ。しかし、小規模事業者、そして派遣社員、パート、アルバイトはたちまち生活困窮に陥ってしまっている。
 釜ヶ崎では、「あいりん手づくりマスクプロジェクト」からマスクの提供があり、野宿者ネットワークの18日の夜まわりで配布としていった。なにしろ、いまやマスクがないとスーパーに入るのも憚られる状態になりつつある。マスクをして寝ている野宿の人も多く、多くの人が喜んでマスクを受け取ってくれた。
 そして、釜ヶ崎では多くの団体、個人が連携し、「新たに生活困窮・ホームレス状態に至った方を対象とした緊急相談会」(新型コロナ・住まいとくらし緊急サポートプロジェクトOSAKA)で夜まわりと相談会を4月23日と24日に行ない、ぼくも夜まわりと相談会に入った。
 難波、心斎橋を3時間歩き続けたが、ネットカフェは完全に閉まり、マクドナルドもテイクアウトのみになり、さらにコンビニのイートインコーナーもすべて閉鎖されていた。公園や路上ではとても野宿できない冬のように寒い夜だったが、夜過ごせる場所が街から完全に消えていたのだ。夜まわりの中で、地下鉄の広場、ドンキホーテなどを回り、アーケード下で寝ている人、コンビニのイートインコーナーに多くの荷物を置いている男性などにチラシを渡し、相談会を案内していった。相談会では、上のホームページにあるような「住まい(家、寮、ネットカフェなど)がない」「家賃を滞納していて、払える見込みがない」「所持金が10万円を切っていて、今後の収入も期待できない」という人の相談を聞いた。
 こうした相談にあたりながら、支援の仲間で「これはまだ始まったばかりだ。失業者や経営破綻の人々が爆発的に増え、しばらくして貯金や家賃が切れて、これからもっと多くの人たちの相談がくる」と話し合った。予想しなかった社会変動の中、貧困問題に関わるぼくたちは、10年前のリーマンショックと同様の正念場を迎えつつある。
 
▼野宿者への10万円の「特別定額給付金」問題

 こうした中、一人10万円の「特別定額給付金」が決定された。その給付対象者は、4月27日に「住民基本台帳に記録されている者」で「やむを得ない場合に限り、窓口における申請及び給付を認める」とされている。
 懸念されていた生活保護利用者への給付は、全額給付されて収入認定されないことになった。問題は、住民票がないケースもある野宿状態の人々だ。
 総務省は、「路上生活者(ホームレス)やネットカフェで寝泊まりする人」も、住民登録している市区町村での給付申請が可能だとした。しかし、住民票が消除されている人、住民票のある地域から離れている人も多い。
 野宿状態であっても、4月27日の時点で全国のどこかに住民票があれば(住民基本台帳に記載されていれば)給付を受けることができるとされている。一方、住民票がすでに消除されている場合は、「戸籍の附票を取り寄せる」などによって、住民であったことを確認することで再登録することもできる。しかし、この場合、住所を新たに設定する必要がある。
 アパートなどに入れる人はそれでもいい。しかし、釜ヶ崎やその近辺で野宿している人たちは、数年にわたって野宿している人が多く、何らかの事情でアパートに入っていない人たちだ。「まだ日雇労働や、アルミ缶集めでがんばりたい」「生活保護を受けると扶養紹介で、たとえば何十年も会っていない親族やこどもに通知が行ってしまう。それだけは困る」「生活保護を受けたが、役所から無理な就労指導をされて、心が折れてアパートを出た。あんなのはもう無理だ」、そして統合失調症や鬱、あるいは人間関係に困難があり、支援者や行政と接点を持てない、持ちたがらない人たちだ。
 給付金は住民票のある地域の役所の窓口で手続きをして給付を受けることになる。その場合、情報によれば「遠方であっても住民登録をしている場所まで行く必要があります。現在地で受け取るのであれば、住民登録を現在地に移してから手続きをしないと給付金が受け取れないようです」。
 つまり、10万円をもっとも必要とする「極限の貧困」状態にある野宿の人々は、「特別定額給付金」を受け取るのが現実にかなり困難になる。
 きのうの夜まわり前、これをどう解決するか、野宿者ネットワークのメンバーで話し合ったが、まだ結論が出ない。夜まわりでは、野宿のみなさんに今のところの状況を伝えていった。多くの人が関心を持っていて、いろいろ話してくれる。多くの場合、住民票が前にあった場所はわかるが、いまどうなっているかわからない。「住民票がないからダメでしょう」と言う人もいる。本人確認の書類が役に立つはずなので聞いてみると、アパートにいた時に作った「住基カード」を持っている人が何人かいた。しかし、「何もない」「飯場で盗られた」などの人もいて、この場合、解決方法が難しいかもしれない。
 この「特別定額給付金」については、他の夜まわりなど支援団体とも協議しながら方法を考え、野宿の人たちに呼びかけていくことになるだろう。
 
▼岐阜市での野宿者襲撃・殺人事件

岐阜市で野宿していた81歳の渡邉さんが19歳の若者グループによって投石、暴行によって3月25日に殺されたと、会社員などの少年3人、傷害致死の疑いで大学生2人が23日に逮捕された。逮捕の報道を受けて、中日新聞と朝日新聞から電話取材があり答えた。(記事は未見)
 当日、若者たちは渡邉さんらを襲撃する目的で現場に集まり、逃げる渡邉さんを追いかけ、暴行を加えたとされる。死因は頭を強打されたことによる脳挫傷と急性硬膜下血腫だった。渡邉さんと、一緒にいた女性は、以前から少年5人を含む男女10人ほどから投石されていたという。逮捕された5人は大学の硬式野球部の元部員や現役部員らで、男女は野球を通じた友人だったとみられる。
 取材で話した内容は、「野宿者襲撃はこの数十年間ずっと続いている」「襲撃の根底には野宿者への社会的な差別・偏見がある。この差別は社会で解決されていない」「投石が続き、警察が何度も動いているにもかかわらず、こうした事件に至ったことは残念だ。パトロールや、行政の福祉と連携などがされていたのか検証して欲しい」「市、県は市民、県民に対して野宿・貧困問題の啓発を行なっていたのか。行なっていないなら、この事件を受け、早急に取り組むべきだ」「若者たちのいた中学、高校が公立であれば、県教育委員会、市教育委員会は野宿問題の授業などに取り組むべきだ。こうした事件が起こった以上、教育委員会は無対応で済まされない」「同様に、若者が在籍している大学での野宿者差別への取り組みが問われる。なんらかの対応が必要だ」「過去の深刻な襲撃事件を見ると、襲撃した若者には、虐待、ネグレクト、いじめなど、深刻な被害を受けた経験があることが多く、暴力の連鎖が見られる。この事件についても、襲撃した若者の背景に注目すべきかもしれない」など。
 「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」としても、今後の取り組みを話し合っている。大阪でも何度も深刻な襲撃事件が起こり、そのたびに追悼、教育委員会への申し入れや話し合い、シンポジウムなどを行なってきた。しかし、襲撃事件が止むことはなかった。とはいえ、取り組みをやめるわけにはいかない。 
 だが、現在ウイルス問題で集会などがきわめて困難であるため、いま何ができるかをみんなで考えているところだ。

▼『いのちへの礼儀』の記事・入試問題

25日発売の雑誌『サンガジャパン』Vol.35(2020spring)特集「食べるーー食と心の健康」で12ページほどのインタビューを受けています。
取材された岩崎眞美子さんの読みがとても深く、本の内容をよく伝える記事になっています。これを読めば、この本のことがかなりわかります。個人的には「前篇」「間奏」「後篇」のつながりについて触れていただいたのはありがたかったです。

世界思想社教学社から、『いのちへの礼儀』の一部が十文字学園女子大学の1月23日の入試問題に出題されたと、大学入試の過去問題集「大学入試シリーズ(通称:赤本)」に転載許可を求める連絡があり、問題のコピーが同封されてきた。
「前篇」から5ページとかなり長文が引用され、内容や漢字について「問7」まで設問されている。
なかなか難しい問題でした。


■2020/2/3■ 動物問題についての講演など

1月19日、浜松市で「動物にとって人間とは何者なのか?」という講演をした。(市社会福祉協議会主催の「第6回福祉ふれあいフェスタinはままつ」の催しの一つ)。
2019年8月4日、5日に『ライフミュージアムネットワーク2019 /動物と震災』で、木村友祐さん、管啓次郎さんと一緒にトーク、スタディツアーには参加したけど、動物問題について一人で90分まるまる話す講演は初めて。
野宿・貧困問題については2005年から、子どもの貧困問題については確か2010年くらいから話し始めたが、やはり最初はいろいろ試行錯誤した。それで、今回は映像や画像も含め、かなり時間をかけて準備した。

私たちは「家族の一員」としてペットを愛する一方、「産業動物」として多くの動物を殺して食べています。また、野生動物のシカやイノシシを年間100万頭以上殺処分する一方、トキやニホンザルなどはさまざまな施策によって保護し続けています。私たちの動物への態度はよく考えてみれば不思議なところがあります。
講演では、最初に動物虐待とこども・女性への虐待の関係について考えます。そして、家畜動物の現状、特に1970年代以降の家畜の「生」の変容をたどっていきます。
欧米では、1970年代以降、「動物の福祉」「動物の解放」の運動が起こり、動物実験や動物園、畜産の問題について大きな社会変化がありました。
その事が日本にどのような意味を持つか考えて、最後に「震災と動物」の問題に関して、福島県の「反杭牧場」「希望の牧場」について紹介します。

箇条書きすると
・導入
・犬や猫の殺処分・虐待問題(少年Aや井上ひさし)
・かつて家庭で行われていた庭先などでの屠殺
・家畜(4本足のニワトリなど)
・ニワトリの一生
・野生動物(シカ、イノシシなど)
・外来種
・震災と動物
(動物実験は準備はしたけど時間がなくて省略)。
『いのちへの礼儀』のダイジェストに、諸般の事情で本に入れられなかった内容を織り込んだ。さまざまな動画や映像を織り交ぜながら話していく。
やってみて、「なんとか話せそうだ」という感触を持った。
狙いは、日常で意識されることのない人間と動物の複雑な関係を目前に提示して、あらためて人間と動物の生を考え直すということですね。


■2019/12/27■ 「眠っているウサギ」・「読書人」のアンケートなど

明日から釜ヶ崎では越冬という年末年始ですが、
2019年12月21日、高校生の野宿者への襲撃をテーマにした演劇「眠っているウサギ」を見てきた(八尾市文化会館プリズムホール)。上演後、脚本のくるみざわしんさん、演出の高橋正徳さんとのアフタートークにも参加した。
朝日新聞の記事にあるように、脚本家のくるみざわしんさんが「2012年秋、少年4人がJR大阪駅の高架下で寝ていた富松国春さん(当時67)に暴行し、死なせた事件がきっかけだった。(…)事件後に開かれたシンポジウムにも参加。長年、ホームレス支援を続ける「野宿者ネットワーク」の生田武志代表らが、次の襲撃事件が起こらないように、野宿者への理解を深める授業を各地の学校に広めていることを知り、「舞台を通じて力になりたい」と脚本の構想を温めてきた。」「劇団コーロでは稽古の合間に、生田さんを講師にホームレス問題の学習会を開いたり、関連する本を読んだりして、準備を進めてきた。」
野宿者襲撃事件が劇になることには危惧の念もあったのですが、野宿の人たちへの社会の眼差しと、少年たちの行きづらさの問題が両極から描かれていて、納得いく内容でした。
劇中で、野宿者が殺された場所に登場人物たちが花束を置くシーンがありましたが、場面は変化しても、その花束は舞台に置かれ続けました。それは、殺された野宿者を決して忘れてはならないと示しているように感じられる演出でした。

「週刊読書人の2019年の収穫! 42人へのアンケート」で、角幡唯介さんが『いのちへの礼儀』を取り上げてくれていただいてます。「膨大な文献を渉猟し、人と動物とのあいだで成立してしまった恐るべき不条理を徹底的に論じつくしている。」
それで今頃気づいたけど、やはり週刊読書人の「2019年上半期の収穫から」で、田中智彦さんが取り上げてくれていただいてました。「「国家・資本・家族」に抗して「いのちの尊厳」を守るための、新たな視座と可能性を拓く思考の軌跡。」
ありがたいことです。

共立女子大学(家政学部児童学科 併設高校特別推薦入学者選抜)の入試問題で、「究極の貧困をどう伝えるか」(『反貧困の学校』明石書店所収)が小論文試験に使われたので「ご了承賜りますようお願い申し上げます」と連絡がありました。
「経済の貧困」と「関係の貧困」のベン図と文章を題材に2つの設問。
この図はたびたび入試に使われるなあ。


■2019/11/12■ 「維新政治下の大阪再開発と釜ヶ崎」

「福音と世界」12月号 特集「ネオリベラリズム再考」に「維新政治下の大阪再開発と釜ヶ崎」を書いてます。
『釜ヶ崎から 貧困と野宿の日本』 (ちくま文庫)の冒頭や、ここの4月27日のとこで触れた「西成特区構想」と「大阪都構想」の関連、そして釜ヶ崎のジェントリフィケーション問題についての現時点でのぼくの解答になってますね。
(あと、原稿の文字数のため省略しましたが、「小さな政府」は同時に「社会保障=ソーシャルセキュリティ」を否定し「攻撃は最大の防御」という意味で「セキュリティ」を先鋭化させる「強い国家」でもある、という指摘は大澤真幸、「疑わしきは監視せよ」という言葉は(確か)五十嵐太郎のものです)


■2019/7/24■ 庄司丈太郎『貧しかったが、燃えていた 昭和の子どもたち』書評

「週刊読書人」(7月19日)で写真集『貧しかったが、燃えていた 昭和の子どもたち』の書評をしています。1960年代から1990年暴動までの釜ヶ崎のこどもたちを中心にした貴重な写真群。
知り合いがたくさん写ってて、「山王こどもセンター」や「ふるさとの家」「こどもの里」に持っていってはゲタゲタ笑いながらみんなで見てました。

2010年か2011年に買ったパソコン(windows7)がそろそろ限界なので、ついに買い換えた。毎度のことだが、パソコンの環境移転のため、毎日大変な労力と時間がかかる…


■2019/6/2■ 書評など

トーキングヘッズ叢書No.78 (2019年04月30日発売)で岡和田晃さんが『いのちへの礼儀』の評を書いてくださっています。
「動物と人間の関係を問い直すことは、平成に続く〃御代〃で想定される社会システムとは、抜本的に異なる秩序のあり方の模索にも繋がるのである」

週刊朝日」6月7日号で管啓次郎さんが書評を書いてくださっています。
「本書だけは、ぜひ読んでほしい。なぜなら、わわれの社会はすでに、ヒトと動物との関係を全面的に考え直さなければやっていけない段階に達していると思うからだ」

東京新聞中日新聞の「書く人」(2019年5月19日)で「日本では『動物の権利』も『動物の福祉』も相手にされず、嘲笑すらされている。性差別や障害者差別への意識の高まりと比べると、異常な無関心です」と言っていますが、性差別や障害者差別よりも、自分が直接関わっている貧困・野宿問題を例として挙げた方がよかったです(なお、この記事の校正はしていません。校正していたら、この箇所は手を入れていた)。
もちろん、性差別や障害者差別は依然として深刻で、貧困・野宿問題と同様、解決にほど遠い状態です。マスメディアなどさまざまな場でこれら問題が議論されるようになり、広く社会化されてきたことは確かですが、一方、激しいバックラッシュ(反動・揺り戻し)も起きており、一進一退であるようにさえ見えます。
ただ、50年前と比べれば、これらの問題についての当事者、支援者の粘り強い運動によって社会が多少なりとも動き、マスメディアの論調の変化、教育や企業での研修の増加、法改正など、わかりやすい前進があったことも確かです。
一方、「動物の福祉」「動物の権利」の問題は、日本においては全体としてはむしろ悪化し続けてきたといってよく、社会がほとんど変わっていません。それが「社会問題」だと認識すらされておらず、むしろ嘲笑されている、という段階です。そこが貧困・野宿問題などさまざまな社会問題と大きく異なる点だと思うわけです。


■2019/5/20■ 書評など

東京新聞夕刊文化面のコラム「大波小波」の「人間と動物の解放へ」(2019年4月23日)で『いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち』が紹介されてます。
共同通信が配信する書評が各地方紙で掲載されています。熊坂元大さん(徳島大准教授)によるもの。
東京新聞中日新聞の「書く人」(2019年5月19日)で紹介されてます。
ウェブ上で井上太一さんによる書評が出ています。本を井上さんに贈呈したところ、こうした書評を書いていただきました。(井上さんとはメールで意見交換しています。一つには、こうした真剣で内容ある批判に応答できることを期待してこの本を書いたのです)。
あいりん総合センター閉鎖問題について、インタビューを受けた記事(5月17日)が出ています。


2019/4/27■ あいりん総合センター閉鎖問題での強制排除

4月24日、あいりん総合センター管理者の国と大阪府は、閉鎖に反対してセンター1階を自主管理していた労働者、支援者を強制排除した。センターの周辺には規制線が張られ、警察や大阪府、労働局の職員など100人以上が排除にあたり、警察、行政側と労働者・支援側がもみあいになった。
ぼくは元野宿の人のアパート訪問や会議などで文字通り一日走り回っていてセンター前には5分ぐらいしかいなかった。現場では行政側と労働者・支援が衝突していたが、こういう現場に過去も何度もいた。
特に2000年以降、大阪市各地そして全国で野宿者テントの強制排除、行政代執行が続き、追い出された野宿者が行き場を失い、別の公園や河川敷などにテントを移すという事態が繰り返された。今から振り返っても、こうした強制排除は社会的な意義がまったくなかった。公園でテントを叩きつぶされても、野宿者はどこかで生きていかなければならない以上、別の場所でテントを再建することになる。テントをつぶされて移動されられる野宿者がしんどいも思いをさせられるだけだ。今回も、「あいりん総合センター」閉鎖の問題とテント排除とで違いはあるが、同じようなことが繰り返された。
あいりん総合センターには、上階に市営住宅、借用書を書くと無料で医療を受けられる「大阪社会医療センター」がある。「あいりん総合センター」は耐震に問題があるとして解体が予定され、すでに「あいりん職安」と「西成労働福祉センター」はすぐ横の南海電鉄高架下に移設している。
一方、センター内の「大阪社会医療センター」とセンター上部にある市営住宅は移転先施設が完成していないため閉鎖は2年先となっている(市営住宅は5月いっぱいで閉鎖)。労働者の使う場所だけが2年も前に閉鎖されることになったわけだ。なぜ労働者の場所だけ閉鎖するのか、という疑問は当然出てくるだろう。いままで通り開けておいて大きな問題が生じるとは思えないからだ。
あいりん総合センターの自主管理はこれが初めてではない。1994年頃には、釜ヶ崎反失業連絡会が夜間に1階を自主管理して、毎晩1000人以上の野宿のため、ブルーシート、マット、毛布をトラックで運び込み、徹夜で警備し、朝には完全撤収、という「センター解放闘争」を長期間にわたって行ない、ぼくもずっと参加していた。この取り組みが、その後の夜間シェルターにつながる。これについて、強制排除は行なわれなかった。
あいりん総合センターは、今までも夜間(18時~朝5時)はシャッターを閉めていた。だが、あいりん総合センターの2階には100人近い人たちが日中も寝ていた。野宿していてアルミ缶集めをしている人の中には夜働いて昼寝る人もいるし、日雇仕事にあぶれて行き場がない人たちもいる。そういう人たちが利用している場所だったのだ。また、日雇労働者やいまは生活保護の人も、1階部分で集まって話をしたりしていたし、将棋などを行なう娯楽室、地下には100円で利用できるシャワーもあった。それらが利用できなくなってしまったわけだ。
なお、下のインタビュー(の再現)で釜ヶ崎の「再開発」と言っているが、これは社会学でいう「ジェントリフィケーション」を指している。テレビの短いインタビューで「ジェントリフィケーション」と言っても仕方ないので、わかりやすく「再開発」と言った。釜ヶ崎のジェントリフィケーション問題については『釜ヶ崎から 貧困と野宿の日本』 (ちくま文庫)の最初の章で詳しく書いているので、関心ある方はそちらを読んでみてほしい。
ニール・スミスの『ジェントリフィケーションと報復都市』によれば、
「ジェントリフィケーションとは、民間資本とミドルクラスの住宅購入者や賃借人が流れ込むことでインナーシティ(都心近くで貧困な人々が密集して住む地域)の貧民や労働者階級の地域が改造されることを意味します。そしてその地域は、それまで資本の引揚げとミドルクラスの流出を経験してきた場所です。もっとも貧しい労働者階級の地域が、作り替えられようとしているのです」(原口剛訳より一部改変)。
「西成特区構想」に始まる事態はローカルな問題ではなく、世界で同時進行している「空洞化した都心への資本の回帰」という現象の一つである可能性が高い。


2019/4/2■ あいりん総合センター閉鎖問題

きのう、移設・閉鎖問題のさなかにある「あいりん総合センター」について、現場でテレビ朝日のインタビューに答えました。
話した内容は、

・あいりん総合センターが1970年代初頭に立てられ耐震に問題があるとしても、補強工事、あるいは労働施設として再建される予定であれば、これほど閉鎖・移設について反対運動が起こることはなかっただろう。反対運動が起こるのは、閉鎖されたあと、この場所が労働施設ではなく、駅前再開発に使われる可能性があるからだ。

・2012年の橋下市長(当時)による西成特区構想は、釜ヶ崎の街のあり方を大きく変えていくものだった。問題は、これが西成特区構想以前から「大阪維新の会」によって提唱された「大阪都構想」とリンクしていると考えられることだ。
維新の当初案は、西成区は西区、中央区、天王寺区、浪速区とともに新「中央区」となり、西成区役所が新「中央区役所」となるものだった。橋下橋下市長がよく言っていたように、「西成を大阪の中心」にするもので、西成区を都市の中心や官公庁街などに作り替えていく構想だった。

・釜ヶ崎は交通の要所にある。環状線「新今宮駅」の真ん前、関西空港に直結する南海本線「新今宮駅」もあり、新幹線に直結する「動物園前駅」が通り、チンチン電車まで通っている。一方、釜ヶ崎の労働者は高齢化し、次第に人口が減っていくと考えられている。政治家や企業家がこの土地の将来の価値の利用を考えていることは間違いない。

・橋下市長は、「あいりん総合センターは、解体後、跡地の北半分を駅前再開発に使いたい」と明言した。あいりん総合センターを拠点とする、数十年かけての釜ヶ崎「再開発」が想定されているのだろう。ここが再開発に使われれば、街の様相は一変する。

・再開発によって、この地域の一部は、おしゃれな店やホテルが建ち並ぶ、梅田や難波のような街へと変化していくことも考えられる。それによって、地価が上昇し、家賃も高騰し、貧困者や野宿者がいることすら難しい地域になっていくことが十分考えられる。それは、ここで暮らしているわれわれにとって「あってはならない」ことだ。

・ここが解体されると、ここで毎日野宿している人たちの行き場がなくなってしまう。すでに、浪速区や天王寺区、阿倍野区など、隣接する地域では、野宿しているとガードマンや役所の人間、警官がやってきて「ここで寝るな」と追い出される動きがずっと続いている。野宿できるのは、もはや西成区、特にこのあいりん総合センター周辺ぐらいだけだ。夜まわりをしていても、「どこに行けばいいのかわからない」という声を聞く。

・この20年で日雇労働者は大きく減っている。しかし、その人たちの多くは野宿になり、その後、生活保護になってこの街で暮らしている。労働者としては減ったが、人そのものはそれほど変わっていない。あいりん総合センターを立てかえるとすれば、この街の労働者、野宿者、生活保護利用者が使うことのできる施設として作られるべきだ。

・そもそも、再建後の構想が確定していないのに、閉鎖、解体することは順序がおかしい。閉鎖や解体の前に、地元の話し合いを重ねて、あいりん総合センターがどうあるべきかを決定すべきだ。

ということを話しました(どれぐらい放送で使われたか、わかりませんが)。
インタビューのあと、テレビ朝日の方は「なぜ反対運動しているのか、やっとわかりました」と言っていました。そんな感じで、「何が問題なんだかわからない」という人は多いのでしょう。
今回の閉鎖問題については、いろいろあって実力阻止行動には参加してませんが、このような移設の動きが問題であることは確かだと思ってます。



2019/3/1■ 『いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち』(筑摩書房)

新著が今日ぐらいから発売になってます。税込み2700円、472ページ
「ちくま」で小説家の木村友祐さんが書評「動物と人間が寄り添う新たな革命」を書いてくださっています(初校ゲラを読んでいただいた)。
以下、目次。


いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち

序・震災と動物たち(Ⅰ)
・炎上する「子猫殺し」

 
☆「動物」という言葉・「屠殺」という言葉について


前篇
Ⅰ・「家族ペット」の時代

  ペットの名、こどもの名
  「愛玩動物ではなく、家族の一員」
  「家族以上に家族らしい」動物
  2010年代――情報資本主義と「猫の時代」
  ファミリアの動物・ファミリーの動物

Ⅱ・「生体商品」としてのペット

Ⅲ・動物虐待――暴力の連鎖

Ⅳ・屠畜と肉食の歴史
  
ホモ・サピエンスの食生活の起源
  日本の食生活の起源
  肉食禁止令――「歴史のなかの米と肉」
  生類憐れみの令――「史上最大の悪政」
  生類(捨て子、行路病人、貧困者、囚人)への憐み
  「戦後」政策としての生類憐れみ
  生類憐れみの最終解決
  「生類憐れみの令」以後
  日本近代料理の起源――肉食政策と「洋食」の発明
  戦後――畜産の大規模化と工業化
  2000年代以降――「象徴」としての主食と家畜の不在

Ⅴ・畜産革命――工業畜産と動物工場
 
 「いのちの食べ方」
  トウモロコシを食べる牛
  「産卵鶏という名の機械」
  「食べるために作られたブロイラー」
  霜降り肉を作る牛
  「人間のためのミルク製造機」
  「肉を生産する機械」
  養殖魚――限られた資源のきわめて非効率的な利用
  「死の工場」から「生の企業」へ
  「絶滅(ホロコースト)よりも悪い運命」

Ⅵ・動物の福祉(Animal welfare)・動物の解放(Animal Liberation)
  
「ブタもパンのみに生きるにあらず」――アニマルウェルフェア
  動物の権利・動物の解放
  マージナルケース――シンガー事件
  動物解放運動の進展――動物実験
  動物解放運動と日本――動物実験
  動物解放運動と日本――イルカ・クジラ問題
  動物解放論とベジタリアニズム
  「しんでくれた」――ベジタリアニズムのFAQ
  「殺される側」の論理
  「痛み」(pain)と「苦しみ」(suffering)
  「動物から人間へといたる道」
  「緑の世界」とキーストーン種
  「環境保存」のための大量殺戮――外来種問題
  ニホンザルの「純血」・トキの「復活」
  「第六絶滅期」と20世紀後半の質的変換
  動物解放論争のトライアングル
  動物解放論と環境倫理学――「ナチスと動物」
  「家族ペット」時代の倫理
  「旧約聖書」としての『動物の解放』
  動物園――世界一悲しいゾウ

Ⅶ・動物の解放・人間の解放
  
pain―suffering―deprivation
  かわいがることと食べること―「命の教育」
  ペットの廃絶・肉食の廃絶
  ペット産業税と工業畜産税
  動物の解放・人間の解放

間奏
 
ある動物的伝記
 「純な心」
 英雄としてのフェリシテ
 天使としてのオウム
 「コケコッコー!オー!オー!オー!オー!」

後篇
Ⅰ・反「国家・資本・家族」の動物

Ⅱ・動物と人間の共闘
  
失踪する猫
  ペットロス症候群
  「イヌネコにしか心を開けない人たち」
  日本近代文学と犬――江藤淳
  日本近代文学と犬――二葉亭四迷
  異性愛と異種愛――ジェンダーと種差別
  モンテーニュの猫
  思考実験としての『きみはペット』
  「ひとりといっぴき」
  「モラトリアムがいま終わる」
  「銃」になった犬
  「かわりに」啼く犬
  「そばに」いる犬・狼
  「やおい」としての『犬身』

Ⅲ・動物の精神分析
  
犬・馬・狼Ⅰ
  「精神分析的な犬」
  犬・馬・狼Ⅱ
  オオカミと自傷行為の少女Ⅰ
  オオカミと自傷行為の少女Ⅱ

Ⅳ・日本現代文学と猫
  
「竜の箪笥を、詩になさ・いなくに」――笙野頼子
  『おはよう、水晶――おやすみ、水晶』
  21世紀の「闘争するフェリシテ」
  野宿者と猫の共闘――『野良ビトたちの燃え上がる肖像』

Ⅴ・戦争と動物たち
  
動物兵士たち
  1930年代――戦争と「犬の時代」Ⅰ
  1930年代――戦争と「犬の時代」Ⅱ
  1943年――そして、トンキーもしんだ
  1944年――犬やねこが消えた

Ⅵ・震災と動物たち(Ⅱ)
  
2011年――東日本大震災と動物たち
  のこされた動物たち――福島第一原発20キロ圏内
  のこされた家畜たち――福島第一原発20キロ圏内
  「希望の牧場」の誕生
  満蒙開拓団と原発
  「聖地」の牧場

終章・「野生生物の天国」チェルノブイリ

あとがき

 

2月25日、毎日新聞(有料記事なので冒頭のみ)で西成高校での授業のようすが紹介されました。一緒に授業をした元西成公園の坂本さんの話が中心。
27日、テレビ朝日「スーパーJチャンネル」関東ローカルで、釜ヶ崎暴動について話したものが放送されたそうです(未見)。



2019/2/16■ ワイエルシュトラスの経歴

10日に三校ゲラを郵送し、長く書き続けてきた原稿の作業がすべて終わった。
ということで、関係ない本を読む余裕ができたので、ゲオルグ・カントールの生涯が描かれた『「無限」に魅入られた天才数学者たち』を読んでいた。「カントールの伝記」ってないかなあと探したけど、日本語であるのはこれくらいのようだ。
期待通り、カントールの経歴についていろいろわかって興味深かったけど、その中でワイエルシュトラスの経歴はかなり意外だった。
ワイエルシュトラスは楕円関数論などの業績で世界有数の存在だったが、今や「ε-δ論法」を作った(つまり解析学の論理的基礎づけを行なった)ことで有名なのではないだろうか。ぼくの大学の専攻は科学哲学(ぼくのゼミの二つ上に椹木野衣がいたはず)、特に数学史で、数と図形、つまり代数学と幾何学・解析学の論理的基礎付けとその互換性(いわば翻訳)の問題を考えていた。そこでは、実数の連続性を扱う理論として、「デテキントの切断」や区間縮小法、ボルツァノー ワイエルシュトラスの定理、そしてε-δ論法や超準解析などを扱う。
ε-δ論法は「無限小」を実体ではなく「過程」として厳密化する。20世紀になると、アブラハム・ロビンソンによって無限大超実数(どんな整数よりも大きい数)、そしてその逆数の無限小超実数を持つ「超準解析」が作られ、ライプニッツが構想していた形の「無限小解析」が論理的に復活するが、ε-δ論法はいまも「標準」の微積分では欠かせない。こうした論理を作った数学者は、イメージとしては、「若いときから頭角を現わし、たちまち大学教授になった学者さん」ではないだろうか。ところが、実際は全然そうではない。
ワイエルシュトラスは、最初大学で法律を勉強したが、フェンシングとビールにのめり込んで、学位を得ずに家に戻った。24歳になった彼は教員養成学校に入り、やがて
「学校教師となり、少年たちを相手にドイツ語や地理、綴り方などの手ほどきをすることになった。それを彼は、四十になろうという年まで続けたのである。
 ワイエルシュトラスは十五年間にわたってドイツの片田舎で教鞭をとった。小さな田舎町では、良い書物を手に入れることもままならず、知的な研究に触れることも、触発されるような会話を交わすこともない。しかし人生のこの時期に、ワイエルシュトラスは夜中にたったひとり、今日解析学と呼ばれている分野を作り上げていたのである。わずかばかりの給料では学術雑誌に論文を送るための切手代すら払えず、ワイエルシュトラスは研究成果を発表することもできなかった。彼は数学界からほとんど切り離された状況で仕事をしていたのだ。
 ワイエルシュトラスの論文が最初に発表されたのは、教師たちの研究活動を紹介する学内紀要だった。しかしついに一八五四年、ワイエルシュトラスの大論文が世界有数の数学専門誌《クレレ》に掲載されると、無名の学校教師は一夜にして数学界の有名人になった。ベルリンの数学者たちが衝撃を受けたのは、数学史上まさに記念碑的な仕事をなし遂げたのが片田舎に住む無名の教師だったことではなく、その発見を予期させるような予備的成果がまったく発表されなかったことだった。ワイエルシュトラスは忍耐強く仕事を重ね、予備的な成果を小出しに発表するのではなく、いっさいをやり遂げてからすべてをいっぺんに発表したのだ。」

ワイエルシュトラスは、その後、理解者に恵まれず、クロネッカーから執拗に攻撃されたカントールを励まし、カントールはワイエルシュトラスの数学と人間性を評価し続けることになる。しかし、カントールはおそらくは双極性障害で、その後、何度も長く精神病院に入院することになる。
デデキントもカントールと意気投合し、数学的アイデアを手紙で交換し合うことになるが、デデキントは21歳で博士号を取ったあと、50年間、高等工業学校で教え続けた。「デデキントには、昇進しようとか、もっと良い学校に移りたいとかいう考えはなかったようである」。
また、ツェルメロは「ツェルメローフレンケル公理系」によってカントールの集合論を公理的集合論として構築したが、「ナチスがドイツで権力を握ると、ツェルメロはナチス政権に抗議してその地位(フライブルク大学の名誉教授)を辞した数少ない学者の一人となった」。なかなか気骨のある数学者だ。(なお、フライブルク大学総長になったハイデガーは就任演説で、大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴え、大学の講義の開始と終了にハイル・ヒトラーの敬礼を義務づけた)。
数学の基礎が揺らいだ動乱期の数学者の経歴がこれほど興味深いとは思わなかった。高校3年のとき、日本史の授業のレポートに「歴史で関心があるのは数学史だけです」と書いたものだが、高校生(それか中学生)のぼくにこの本を読ませてあげたかった。