井上太一氏への応答
 2022/07/9


 『動物倫理の最前線』への書評に対し、著者の井上太一さんから応答「生田武志氏に答える」があり、多くの重要な問題提起を受けました。
 動物問題にかんする議論の発展、そして互いの意見の明確化のため、ここで全力で応答を試みます。とても緊張感のある、やりがいのある論戦です。
 なお、先は「書評」だったので「である・だ」体でしたが、今回は「応答」なので「です・ます」体で書きます。
一つには不必要に敵対的な印象を避けるためですが、当然、内容上で妥協するつもりは全くありません。(以下、太字は「生田武志氏に答える」からの引用)


〇ビーガニズムへの言及について


 井上さんから、
「ビーガニズムとは利用形態のいかんにかかわらず全ての動物搾取に反対する思想であり実践であること」「矛先を向けるのが工場式畜産だけであってはならないという意識が、脱搾取派固有のアイデンティティをなすといってもよい」という点から、先に書いた書評での記述が気になる、という指摘がありました。
 確かに指摘の通りです。もちろん、ビーガニズムが畜産物だけでなく、動物実験を経た製品、動物を利用した娯楽など、あらゆる形での「動物に対する搾取」を否定しようとする立場であることは理解していますが、先のぼくの文章では、その重要性に対する意識が欠けていました。
 井上さんからは「脱搾取が工場式畜産への反対だけでなく、狩猟や伝統畜産なども含めた全ての動物利用に反対する立場であるという点」が強調されています。「工場式畜産」(『いのちへの礼儀』では「工業畜産」とした)の廃絶について、ぼくと井上さんでは意見の違いはそれほど大きくないと思いますが、「狩猟や伝統畜産など」、さらにペット(コンパニオン・アニマル)については、以下でも触れるように意見が大きく異なります。
 その立場のちがいを考える上でも、重要な指摘だと思いました。


「肉食男根ロゴス中心主義」(『いのちへの礼儀』では「肉食=ファロス=ロゴス中心主義」とした)について

「肉食男根ロゴス中心主義の支配が「日本にはあてはまらない」と言い切ってしまうのは、大きな問題があると思われる」「肉食規範・男尊女卑・感情蔑視の三拍子が揃った現代日本の価値体系は肉食男根ロゴス中心主義そのものであり、これを本邦に無縁の西洋的メンタリティと切り捨ててしまうのは、現存する抑圧構造の理解から遠ざかる結果となるように思えてならない。」

 明治維新後のヨーロッパ文化の導入、第2次大戦後のアメリカ文化の影響によって日本文化は劇的変化を遂げました。しかし、その根本が「肉食男根ロゴス中心主義」になることはなかったと思っています。
 近代以降の日本で「富国強兵」政策の結果として「肉食」も導入され、動物に対する搾取が本格化したことは間違いありません。しかし、おそらく歴史的・地形的な条件によって形作られた「米食=ムラ社会=天皇制中心主義」は依然として健在で、われわれの精神構造のかなりを支配しているのではないかと思います。
 言うまでもなく、「米を食べる人」がみんな「天皇制」支持者というわけではありません(欧米の肉食者が全員「男性中心主義」というわけではないの同じように)。デリダの議論がそうですが、われわれがふだん意識しないような「規範」が、「主食」をとりまく社会構造によって形作られている、ということです。
 日本の肉食は、いまも米を主食とした「副食」として規範化されています。さまざまな西洋・中国・インドなどの「肉主体」の料理が、元の姿をいわば歪められ、「白いご飯に合う」ように徹底的にアレンジされて「副食」化されているからです(『いのちへの礼儀』では「餃子」を例に挙げました)。
 いまもなお、日本では肉はあくまで「副食」であって「中心」ではありません。「米を食べない人(パン食の人など)が米食者より下に見られることもない。米が権力の象徴だった時代は、かつてはあったとしても、もはや終わったのではないだろうか」とありますが、米食は、物理的には減り続けているにも関わらず、「象徴的」主食として機能しています。欧米で、工場式畜産の結果、安価な肉が大量生産され、貧困層がマクドナルドなどで大量に肉食し、一方、高所得者層が「野菜中心」「高額・少量の肉食」に向かう傾向があるとしても、それによって「肉食」中心主義は揺らがないのと似ています。

 また、デリダの言う「ロゴス」は、西欧形而上学を支配する原理の一つで、「理性」「言葉」「論理」といった意味で解されます。アリストテレスの「人間はロゴスをそなえた動物である」のように、動物と人間の差異としてよく語られます(ただし、ぼくの大学時代の専門だった古代ギリシャ数学ではロゴスは(数・量の)「比」です)。また、「ヨハネ福音書」の「はじめにロゴスがあった。そしてロゴスは神のもとにあった。そして神であったのだ、ロゴスは」(田川建三訳)とあるように、ユダヤ=キリスト教的な「唯一の神」とも結びついています。
 しかし、日本の場合、そうした意味での「ロゴス」は今もなお希薄であると思います。ちょうど、海外の料理がその元の姿を歪められ「白いご飯に合う」ように徹底的にアレンジされてしまうように、さまざまな西洋・中国・インドの宗教が、「主」である「天皇制」に合うように徹底的にアレンジされ、いわば「副食」化されているのです。たとえば、正月には神社にお参りに行き、クリスマスや結婚式はキリスト教で行ない、葬式は仏教式に行なう、といったようにです。これは、世界の多くの国で考えられない事態です。
 ぼくは、韓国やフィリピンなどと比べて日本でキリスト教がこれほど浸透しないのは、「天皇制」が一種の象徴的宗教として機能しているためではないか、と思っています。何もかも一見受け入れながら、それによって自らが変化することだけはしない「島国」的な精神構造ということです。マスコミや政界などで天皇制に関する議論が「絶対的なタブー」とされているのはその裏面です。
 天皇は、武家政権の成立以降、その時々の権力者の口実として使われる「象徴」として存在し、日本は意思決定の責任が不明確な国家となりました。そして、今もなお、われわれの社会は確立した主体が「ロゴス」に基づいた議論を闘わせて合意を形成するのではなく、さまざまな意見を折衷して、波風が立たないよう「なあなあ」で合意を形成しています。
 デリダの「肉食男根ロゴス中心主義」のアイデアは、「われわれの諸文化では、主体は供犠を受け入れ、肉を食べる」(『主体の後に誰が来るのか?』)とあるように「主体」に関する議論で現れています。しかし、日本は一貫してロゴスに基づく「主体」の確立ではなく、「ムラ社会」を基準として社会を形成してきました。平たく言うと「世間」です。これには、歴史上、日本人の大多数は稲作農民で、隣の水田から順番に流れる灌漑用水の管理も村が共同で行なうため、近隣との不和は生存に直結するタブーとなった、などの歴史的背景があります。「争い」は徹底して避けられ、「村」の利益を最優先する「和」の精神が作られたわけです。こうした精神構造は、現在もほとんどそのまま残っています。
 2004年に起こったイラクの日本人人質への「自己責任」論で、多くの海外メディアが、日本人のかなりの部分が、よりによって犯罪被害者である人質を非難するという奇妙な現象の理由について、日本独特の「集団主義」を挙げていました。事実、日本政府や街の人たちの多くは、なぜか「人質はみんなに迷惑をかけた」と言っていました。日本人にとって、「世間」に同調することこそ「責任ある人」の定義で、「人に迷惑をかける」ことは最大の「悪」なのです。
 今年起こった知床半島沖での観光船事故でも、社長が現地会見でいきなり「このたびは(世間を)お騒がせして大変申しわけございませんでした」と土下座していました。彼にとって、違法な業務による事故で多くの人命を失わせたことより、「世間さまを騒がせた」事が「罪」だったわけです。
 「米食=ムラ社会=天皇制中心主義」は依然として健在だというのは、こういうところから来ています。
 

「男尊女卑・感情蔑視」について

 井上さんの言う日本の「男尊女卑」はいっそう興味深い問題です。経済・政治などにおいて日本が「男尊女卑」社会であることは、たとえばジェンダーギャップ指数などが示す通り、疑いようがありません。森・元組織委会長の「わきまえておられる」発言が示すように、女性はとりわけ公の場から差別、排除されています。
 ただ一方で、日本の男性は、それこそ「男根ロゴス中心」的に屹立した主体ではなく、いわば社会的「去勢」(「ファロス」は精神分析で言われる「去勢」の概念に関わる)が十分になされていない「幼児」的主体なのではないでしょうか。しかも、それによって男尊女卑が「悪質化」しているとも言えます。以下、ジェンダー問題に触れるため、動物の問題から直接は離れますが、興味深い点なので長めに書きます。ご容赦ください。
 たとえば、1980年代までの日本の男性のメンタリティとしてよく知られたのは「会社人間」(いまでいう「社畜」)でした(ここで言う「会社」には職場としての「役所」なども含まれます)。会社人間は、図式化すれば「(会社=社会)=私」という人間類型で、「会社のためになることが最優先で、それが悪であるはずがない」という発想を特徴としています。これは「会社」という「ムラ社会」独特の発想です。
 一般に日本では、「学校=社会」「会社=社会」という図式が強固で、それ以外に「社会」の選択肢がほとんどありませんでした。いわば、男性は「学校→会社」以外の社会を知らずに人生を過ごします(そのため、「会社人間」のこども世代には、その反作用として、逆の「(会社=社会)≠私」という人間像が大量出現しました)。いずれの場合も、社会的に多様な立場や意見との衝突、合意形成を経験できないため、社会性の欠如と未成熟が現れがちです。
 こうした日本の既婚男性の多くは「会社」以外の生活を「妻」に依存しています。そこから、会社退職後の男性の「孤立」問題が生じます。ここにある問題を浮き彫りにするのが、日本の男性の「自殺」理由です。
「(日本の)男性は離婚が増えると自殺も増えるのですが、女性の自殺は離婚とは無関係」「1968年から2019年の推移でみると、男性の相関係数は0.91と高い。対して、女性は0.03とまったく相関がありません」https://president.jp/articles/-/55821?page=1。
 日本は男性について「失業・離婚」「失業・自殺」「離婚・自殺」に強い相関があるという特異な国です。日本、アメリカ、ドイツ、スウェーデン、イタリアの比較では、「離婚・自殺」で「欧米4カ国すべて負の相関であり、イタリアに関してはむしろ『離婚が多いほうが男の自殺が少ない』」https://president.jp/articles/-/55821?page=2。
 つまり、日本の男性は「離婚すると自殺しやすい」特異な性格を持っています。それどころか、「実は『夫婦関係の不和』による自殺が、健康問題を除けば現役世代でも高齢世代でも2番目に多い理由になっています。妻との不和で夫は自殺してしまうのです。女性にはその傾向はありません」https://president.jp/articles/-/55821?page=3
 それは、おそらく日本の既婚男性の多くが「仕事」以外の生活を妻に「おんぶに抱っこ」で生活しているからです。「おんぶに抱っこ」=「幼児がおんぶの次には抱っこしてと甘えるように、他人の好意に甘えて、迷惑をも顧みずに頼りきること」(コトバンク)。このため、「離婚」「不和」があると、男性はたちまち心理的な「拠り所」を失ってしまいます。「職場」以外の生活を、ほとんど妻に任せ、依存しているからです。逆に、多くの妻は離婚すると夫の呪縛から解放され、「スッキリ」します。
 ここから、日本の男性が「職場」以外で失敗を犯すと、妻が夫に代わってそれを「世間に謝罪する」という奇妙な光景が現れます。
 『いのちへの礼儀』で触れたように、三田寛子は夫の不倫が報道されると、「夫婦でまだまだ至らぬことが多々ありお騒がせしております。私も至らぬ点ありましたので反省しております」と述べ、日本中から「神対応」と絶賛されました。この「神」は、まさに日本の「神」です。
 渡部建の不倫でも、佐々木希がインスタグラムで「この度は、主人の無自覚な行動により多くの方々を不快な気持ちにさせてしまい、大変申し訳ございません」と、「世間」を「不快な気持ちにさせ」たことを謝罪しました。いずれも、「被害者」とも言える妻が、夫が「世間を騒がせた」ことを反省・謝罪したのです。
 ここでは、妻が夫に対する「監督不行き届き」を謝罪しています。おそらく、日本の夫は「職場」以外には社会性がない「でかい幼児」で、家庭において、妻に心理的依存をする一種の「母子関係」を作っています。「昨夜、女房にさんざん怒られた」と「ぼやいた」という森元会長もそうでしょう。政界(これも「永田町ムラ」を頂点としたムラ社会)で絶対的な権力者でも、家庭では「娘にも孫娘にもしかられた」という「幼児」なのです。
 男性は「職場」という経済的基盤、そして「政治」という行政機能を担っているために「男尊」を維持し、その他の生活はほとんど妻に依存します。しかし、失業すると男性は「男尊」の根拠を失い、さらに、離婚すると同時に孤立して「自殺」に向かいやすいわけです。
 一方、1970年代後半生まれ(「就職氷河期世代」「ロスジェネ世代」)以降の男性は、その一定層が「正規」雇用などに就く事が困難で、しかも「お見合い」などの社会的な婚活制度が機能しない「就職と結婚の自由市場」化のため、「低収入で性的パートナーがいない」といういわゆる「弱者男性」化してしまいました。彼らは、最初から従来パターンの「男尊」の根拠と依存先を失って自信喪失しています。それは、従来型の男性が「失業」「離婚」し「絶望」している姿とかなり似ています。客観的には経済的にも政治的にも男性は女性に比べ「強者」であるにかかわらず、社会的「未成熟」「依存」性が一貫しているのです。
 日本の男性が「会社」以外のさまざまな社会と関わりを持ち、そこでの立場の違い、意見の衝突などを経た「成熟」した主体であれば、このような「依存」は少なくできるかもしれません。そうした日本独自の「男性性」を産み出す社会構造を変えるには、NGOやNPOなどへの参加、ボランティア活動など「職場」以外の社会的ネットワークを作ること、そして、家事・育児をパートナーと平等に行なう社会制度の構築(一例として「オランダ・モデル」)という、「資本」「国家」「家族」の組み替えが必要でしょう。
 
 こういったことから、「肉食規範・男尊女卑・感情蔑視の三拍子が揃った現代日本の価値体系は肉食男根ロゴス中心主義そのもの」ということには賛同できません。また、「ロゴス中心主義」「感情蔑視」とありますが、それは疑問です。多くの日本人は、佐々木希が言うように「多くの方々を不快な気持ちにさせて」しまうことを何よりも怖れています。多くの日本人にとって「世間」という集団「感情」こそ価値基準であり、決して「ロゴス」ではありません。
 保育園、小学生の頃から、日本人は佐々木希が言う「多くの方々の気持ち」を忖度し、「空気を読む」ことに専念します。そして、それに成功した人が「神」(対応)として讃えられています。


「狩猟と権力の結び付きに」について

「古代の天皇らは狩りを行ない、野生を捕らえるその営みによって権力を体現した。平安期には良馬の所有に価値が置かれ、貢馬や馬芸が王権を象徴する儀礼と化していく。」「王朝の貴族らも権力や軍事力を示す行事として騎射や競馬(くらべうま)に興じた。かたや東国の武士は大規模な狩猟を行ない、狩った獲物を食べていた」

 戦闘を繰り広げる軍人だった古代天皇、そしてその後の武家たちが「狩猟」「肉食」を旺盛に行なっていたことは間違いないでしょう。戦闘には馬が使われ、甲冑や馬具をつくるためには多くの牛皮が必要でしたから、大量の動物殺戮が行われていたはずです。
 しかし、「政権を執った上層武家は、次第に伝統文化を引き継ぎ、肉食を避け、水田=米の支配者として稲作増産に力を注ぐようになります。特に、室町幕府は天皇による殺生禁断令を明確に継承し」ていきます(『いのちへの礼儀』)
 その極点が、「生類あわれみの令」を出した徳川綱吉です。これは、他国には見られない日本の特異性です(調べても、こうした国は他に発見できませんでした。あれば、ぜひ日本と比較してみたい)。しかも、鎌倉後期頃から、狩猟や屠畜に関わる人たちを社会的に差別する意識が作られていきます。「狩猟と権力の結び付き」が、他国とは非常に異なるのです。
 言うまでもなく、日本においても「狩猟」「肉食」を好んで行なう集団は存続していました。しかし、それが社会の主流、支配的階層や中心的思想にはならなかったということです。


「かわいがることと殺すこと」について

 『礼儀』以来、生田氏が唱えている説によれば、畜産文化圏では愛情を持って育てた動物を殺して食べるという習慣があり、かわいがることと殺すことは同居していた(『礼儀』p.53)。しかし日本には僅かな例外を除いてそのような習慣がなく、肉食は近代に入って突如、産業として導入された。そのせいで家畜は愛しかつ食べる存在ではなく、単なる「食材」と捉えられた。そのような歴史的特異性が、家畜に対する日本特有の酷薄な態度をもたらしているのではないか、というのである(『礼儀』p.165-6)。
 この点についてはかつての対談でもやんわり異を唱えたが、もう一度繰り返すと、食用とされる動物への酷薄な態度は元来、畜産文化圏で生まれたものである。つまり、愛情を持って食用の動物を育て殺していたといわれる当の文化圏が、経済合理性のもとに工場式畜産を発達させたのであって、日本はただそれを律儀に輸入したに過ぎない。そもそも畜産文化圏の人間動物関係が「愛しかつ食べる」「かわいがりかつ殺す」と形容できるようなものであったかということ自体、『動物・人間・暴虐史』を読めば疑わしくなるのであるが、いずれにせよ、畜産はもとより動物の「食材」化にほかならず、技術力さえ揃えばいつでも今日のような酷薄きわまる形態へと発達しえたとみるのが妥当と思われる。

 これは、家内産業的あるいは伝統的な畜産と、現代の工業的・大規模畜産を「断絶」と見るか「連続」と見るかの問題だと思います。
 約1万年前、狩猟採集生活を送っていた人類が動物の「家畜」化を発明し、動物の「生殖・生育・屠殺」をコントロールするようになり、野生とは全く異なる動物種を誕生させたことは革命的変化でした。それは動物に対する深刻な暴力を生んでいます。
 しかし、同じ「肉食」でも、人類史とともにある「狩猟・漁」と有史以来の「畜産」、そして「工業畜産」とではその意義がまったく異なるのではないでしょうか。それを区別しなければ、「屠殺」と「肉食」に関する議論は永久に噛み合わず、平行線をたどり続けるはずです。これは『いのちへの礼儀』で最も強調したかったことの一つです。
 このちがいは、日本で言えば。1950年代までの沖縄とヤマトとの違いで現れます。「かわいがることと殺すこと」とありますが、これは名護市の島袋さんの言葉でした。
「犬はね、当時(1950年代)だいたい当たり前に食べていたんですよ。もちろん名前をつけてかわいがって。豚やヤギには名前をつけませんでしたね。どこの家庭でも豚やヤギも、2、3頭は飼ってました。それから猫も薬としてだれかの具合が悪くなると食べていましたよ。名前はねえ、みんなタマだった。/家畜をかわいがることと食べること、これは対立するものではないんですね。ぼくらは子どもの頃に仔犬をかわいがって一生懸命育てます。で、ある日突然、夜の鍋になって。それは当たり前のことなんです。ぼくは泣かなかったですね。いろいろですよ」(内澤旬子『世界屠畜紀行』)。
 われわれからは想像を絶する内容ですが、ここでは、現代日本で言う「ペット」「家畜」が分離せず、したがって「かわいがることと食べること」も分けられていません。こういった文化で育った人が、「肉食」について、現代畜産の環境だけで育った人間とまるで異なる感覚を持つことは明らかです。
 ヨーロッパの牧畜文化でも、「ペット」「家畜」があまり分離せず、「かわいがることと食べること」が分けられない時期は長かったと思います。そこで、人々の多くは自ら育てた動物たちを屠殺し、さばいて食べていました。ある一定の「覚悟」を持たなければ肉食することはできなかったわけです。
 一方、明治維新までの日本人の(漁師と猟師以外の)大部分は「育てた動物を殺して食べる」ということをほぼしていませんでした。「富国強兵」で肉食が国策導入されたとき、肉食についての「覚悟」を持たないまま受け入れたのだと思います。
 ぼくの理解が誤っている場合、「動物の福祉」「動物の解放」にこれほど冷淡な現代日本の態度はどこから来るのか、井上さんの考えを聞きたいところです。
 伝統的な畜産と現代の工業畜産はもちろん「連続」していますが、20世紀半ば以降のテクノロジーの導入、そして「家族(ファミリア)の一員」である動物が「資本の一員(食材)」と「家族(ファミリー)の一員・ペット」となる変化の過程で、人間―動物関係は次元のちがう暴力を産んだ、と見るのが妥当ではないかと思います。


寄り添い(ケア)の倫理について

 私にはなぜこのアプローチが感情一本槍の勧めと解されるのかが分からない。寄り添いの倫理は他者の主観的経験を汲むために、従来軽視されがちだった感情の行使が必要であると説くものであって、感情の赴くままに物事を判断するという枠組みでもなければ、まして感情をぶつけあうのがよろしいという教えでもない。

 確かに言われる通りで、「感情の復権」という表現に違和感があってあの内容を書いたんですが、「寄り添い(ケア)の倫理」を「感情のぶつけ合い」のごとくに語る事は不適切でした。『動物倫理の最前線』で「よりそいの倫理を支持する人々は概して正義の倫理(古典的な道徳理論)に批判的であるが、二つのアプローチが相容れないとは考えない。むしろ両者は異なる角度から問題を捉える枠組みとして、しばしば相補的な役割を担う」とあり、その通りだと思います。
 「寄り添い(ケア)の倫理」はソーシャルワークの領域で語られることがありますが、ぽく自身の経験で言うと、ケースの相談にあたって「公平性」や「正義」という基準、仕事など「経済」的条件、「生活保護」などの「法・社会制度」を頭に置いていますが、そうした基準の優先順位だけで問題が解決することあまりありません。むしろ、当事者の話をじっくり聴き、家族など関係者と話し合いを重ね、時間をかけて何人かで考えているうち、思いもかけなかった変化が現れ、当事者全員が予想していなかった結末に至る(うまくいかなかった場合も含め)、というのが普通です。
 「ケアの倫理」で語られる「ハインツのジレンマ」であるように、倫理的原則の優劣で割り切るのでなく、関係者たちが相互依存の関係にあることを意識し、そこに関わり続けることが確かに重要です。


「憐れみや思いやり」について

 続いて尊厳のくだりで気になったのは、憐れみや思いやりが「上から目線」ではないかという指摘である。これもよく聞かれる議論であるが、他者の悩みや苦しみに思いを馳せて胸を痛める心の働きや、それにもとづくしかるべき配慮が、なぜ「上から目線」ということになるのだろうか。そもそもそうした感情を抜きにした時、「自分と他者の尊厳をともに尊重したい」という強い意志が生じるとは思えない。

 これは全く納得できません。たとえば、ぼくは野宿者支援などに関わっていますが、野宿の人たちに「憐れみや思いやり」の気持ちで関わったりはしません。他の支援者もそうでしょう。外国人に対する日本人、障碍者に対する健常者、沖縄に対するヤマト(本土)の場合でもそうです。
 たとえばですが、女性差別が問題になっているとき、男性が「憐れみや思いやり」の気持ちで女性に関わるのでしょうか。社会的に異なる立場にあり、差別に遭っている人々に対して、その尊厳に対する敬意と配慮を持ちつつ、自分たちの加害性を常に問いながら関わりを作っていく、という感じではないでしょうか。それはもちろん「感情の否定」ではないですよ。
 人間による動物に対する「搾取」や「差別」が問題になっている場で、「憐れみや思いやり」という言葉はどうしたって使えないだろう、と思います。


猟師の存在と動物の「恐怖心」について

 私は尊厳の尊重という原則が、「健全な恐怖心」を植え付けるという名目でのパターナリスティックな暴力を正当化するのであれば、それは有害な論理に違いないと確信する。狼がいようといなかろうと、自然界にはほかにいくらでも危険が溢れており、狩猟者がお節介にも野生動物に喝を入れてやる必要はない。そもそも殺される動物たちにとっては、猟師の恐怖を知った時には既に死ぬだけの状態なのであるから、尊厳も何もあったものではない。猟師のたわごとを真に受けず、こうした当然の倫理的判断をするためにも、やはり動物たちの身になって考える憐れみや思いやりが必要であると感じた。

 狩猟は人類の発生と同時に、というより、人類に関係なく続いている行為であって、そこで生じる「恐怖」「痛み」は動物の尊厳と両立するだろう、と思っています。
 ただ、『いのちへの礼儀』でも詳しく辿ったように、「ホモ・サピエンスの特徴であるオーバー・キル」によって、人類は多くの動物を絶滅させていきました。アメリカのリョコウバトの絶滅が有名ですが、銃などのテクノロジーの発達によって、その危険はいまも増大しています。これは、人類が始まって以来、解決できずにいる深刻な問題だと思います。
 しかし、引用した千松信也さんのような「ワナ猟」は、そうした「オーバーキル」とは無縁です。テレビ番組を見ていたら、彼は狩りの最中に足を滑らせて複雑骨折し、病院で手術を勧められ。それを断っていました。「手術して猟に来たら、動物から見たら卑怯でしょう。動物たちは手術しませんから」ということでした。彼のような猟師の存在は、われわれの社会が肉食をする限り、「本来、動物に対してこれだけの責任と覚悟が必要とされる」ということを示す存在となるのではないか、と思います。肉を食べる限り、動物に対して最も「卑怯」でない存在ということです。
 なお、2020年度のシカとイノシシの捕獲頭数は計135万3700頭(前年比9%増で過去最高)でした。森林被害と農作物被害を減らすために駆除しているのですが、捕獲されたシカの9割は埋めたり焼却処分されています。オオカミの絶滅、1960年代半ば以降、森林が人間から放置され「森林飽和」(太田猛彦)と言われるシカやイノシシにとっての良好な生息地が増えたこと、さらに里山が放置された深山化したことなどが理由です。人間がオオカミを絶滅させるなどの動物虐待、自然破壊を行なった結果 不自然なバランスで鹿や猪などが増えてしまったわけです。井上さんが指摘されたように、「耕作地放棄や不適切な植樹をした整備地が食糧源となり、鹿の行動や生存率に影響」(P316)したということです。
 したがって、「解決策は、鹿の銃殺ではなく土地管理の見直しである」(P316)。つまり、森林と里山の整備によって、シカやイノシシの生育数を調整する(すなわち、餓死させる)方法は考えられます。家畜であれば、人間が生殖をコントロールしているので生息数を調節できますが、野生動物の場合は「餓死」になります。
 しかし、猟師が鹿たちに「健全な恐怖心」を与えることがパターナリスティックな暴力だとすれば、環境管理によって「鹿の行動や生存率に影響」を与えることもそうなのではないでしょうか。人為的に「餓死」させる政策と「狩猟」のどちらがいいのかは判断が難しいと思います。そして、全国の森林と里山の整備という政策が日本で実現できるかどうか、わかりません。
 この現状で、伝統的な猟師の存在を否定することは倫理的にも政策的にもできないだろうと思います。


「動物の解放と子どもの解放」について

 動物の解放と子供の解放がいかにして共闘できるかというテーマは探究されてよいかもしれない。もっとも、人の子を年相応の子供として扱うことと、成熟した動物を子供として扱うことは別の事態であり、人の子の扱いと動物の扱いは大きく異なるのであるから、ことさらに動物を人間家族のポジションに当てはめて捉えるのも危うさがあるとは思われる。

「父権的抑圧の歴史と現状を概観して分かるのは、種差別がフェミニズムの問題であり、性差別が自然・動物倫理の問題であるという事実にほかならない。女性・動物・自然の抑圧はいずれも父権性の思想を反映し、互いを強化する関係にある」(p285)と明言するのに、「こども」の問題に触れないのはきわめて不自然です。家庭でのこどもの虐待、学校でのこどもへの物理的・心理的抑圧、国際的にも深刻な「こどもの貧困」(これについては『貧困を考えよう』(岩波ジュニア新書)で詳しく書きました)、多くの人が「この社会ではこどもを生み育てることはできない」と考えざるをえない異常な少子化などを考えれば、「女性・こども・動物の抑圧はいずれも父権性の思想を反映」すると言うべきでしょう(「父権性」であると同時に日本的な「ムラ社会=天皇制中心主義」だと思いますが)。
 社会における「女性」と「動物」の扱いの相似性を考えれば、「こども」「動物」の相似性も当然、現れる問題です。「探究されてよいかもしれない」じゃなくて、探究すべき事だと思います。
 これは、ぼくが地元の山王こどもセンター(学童保育・児童館)に1986年からアルバイトやボランティアとして関わって来た経験などから言うのですが、われわれは、社会と家庭が「人の子を年相応の子供として扱うこと」における問題に、「動物をこども扱いする」問題と同様、意識的であるべきだと思います。善意でこどもたちを「こども扱い」する問題、と言ってもいいですが。
 『いのちへの礼儀』で、さまざまなこどもの例を挙げました。そこでは、「世界中でもっともやさしく、もっとも理解ある」「けっして罰したりしなかったし、きわめて寛容で忍耐強い」親でさえ、こどもと馬、狼などの動物との新たな関係を認めることができません。それが、彼らが生きている「家族的公理系」にはありえない出来事だからです。そこでは、こどもと動物の関わりが新たな社会の可能性を開いていますが、まわりの善意の大人はそれに気づかず、むしろ暴力的に抑圧するのです。
(なお、これはぼくには、中高生など子どもたちが野宿者を訪ねる「夜回り」や、釜ヶ崎のボランティア活動に参加することへの親の激しい拒否反応と重なって見えます。)


ペットの存在について

 CASの根幹をなす動物の権利論はそもそもペットの所有を認めないので、家族への対抗運動についてそれ以上の議論が行なわれないのは当然かと思われる。少なくとも動物たちにとっては、人間の家族に組み込まれないことがすなわち家族からの解放なので、あとは現実にペット産業を廃絶するための運動を進めればよい。

 動物の権利論での「ペットの所有」廃絶の主張について、ぼくは賛同しません。
 もちろん、『いのちへの礼儀』でも詳しく触れた現代の「ペット産業」の問題、虐待、動物放棄と殺処分、そして数世紀続くペットの生態改造などの問題はできる限り解決すべきです。避妊手術や「室内飼い」なども、ペットには避けられない大きな問題ですし、「愛玩動物」としてだけ扱うことが、動物の尊厳を否定するものであることについて同感です。しかし、犬、猫をはじめとする「ペット」(コンパオン・アニマル)が倫理的に廃絶すべきものとは思えません。
 家畜とペットが分かちがたい状態だったことは先に触れました。家畜動物については、マイケル・ポーランが言うような「動物は人間に生存を保証されるのに対し、自身の肉、乳、卵を提供することにした」という「契約論」が語られることがあります。もちろんこれは、人間だけに都合のいい身勝手なフィクションです。
 しかし、犬(元はオオカミ)や猫は、われわれ人間という種や、その中の個体に関心を持ち、自ら近づいてくることがあります。『いのちへの礼儀』ではエレーヌ・グリモーに近づいたオオカミや、「いつでももっともひどく傷ついている子を探し出して近づいていく」犬たちについて触れました。どういうわけか、動物たちの一部は人間に関心を持って近づき、人間も他の動物に関心を持って近づき(野生のオオカミの群れに加わったショーン・エリスのように)、時に同居さえ始めます。これは人間と他の動物にとって、希有な「出会い」の一つだと思います。現在のコンパオン・アニマルの祖型には、そうした出会いがあるはずです。
 動物の権利論の主張でなされる「ペット」「家畜」の廃止がされた場合、残るのは一般に「野生動物」です。しかし、人間と他の動物の関わりは、さきほど「こどもと動物」にテーマについて触れたように、さまざまな多様性と特異性がありえると思います。その中には、人間と他の動物との希有で幸運な出会いがあるのではないか、ということです。
 それを否定するのは、ことわざで言う「たらいの水と一緒に赤子を流す」事になるのでは、と懸念しています。


小説での動物について

 松浦理英子や笙野頼子のファンタジー小説が現実世界における人間と動物の共闘や家族への対抗について何の有益な示唆を与えるのかはよく分からず、その後に取り上げられる動物介在療法その他では、あくまで人間が家族公理系から解放されるのみであって、動物はそのための媒介、ないし道具とされているに過ぎない。人間と動物が「矛盾を孕みながら共存」するかぎり、人間が動物の力を借りて解放されることはあっても、動物がともに解放されるシナリオは全く出てこないのである。

 ここでは、主に取り上げた小説家のうち、木村友祐の名前が挙げられていません。『野良ビトたちの燃え上がる肖像』や『聖地Cs』は別ということでしょうか。
 ぼくの現場が野宿者支援なので『野良ビトたちの燃え上がる肖像』にはとりわけ関心がありますが、ここでは、いわば「国家・資本・家族」から排除された野宿者が、人間社会から捨てられた猫と出会い、「国家」「資本」に対抗しようとする新たな「家族」を形成する、という流れがあります(粗略な要約で申し訳ないです)。野宿者と猫の両者が支え合い、新たな「公理系」を生み出すのです。『いのちへの礼儀』では、これを「共闘」と呼びました。
 松浦理英子、笙野頼子の作品についても、かなり似た事が言えると思います。両者の作品でも、動物と人間がともにに支え合い、現状の家族的公理系と闘い、別の「家族」や社会を志向するという試みがフィクションの構想力によって作られています。
 なお、動物をテーマとして文学を考察する批評がありますが、そこで扱われる作品の多くにぼくは関心が持てません。そこでは、作品も批評も、動物を単なる比喩や表象として利用しているだけで、「人間中心主義」を出ないからです。しかし、ここで触れた小説は、そういったものからはるかに離れていると思います。
 ただ、一般に、日本の文学・哲学の多くは1970年代以降の動物解放論の世界史的な意義を理解できず、それこそアリストテレスの「人間はロゴスをそなえた動物」という発想から出ていないと思います。1940年代のコジェーヴの言葉を1990年代に使った東浩紀の「動物化」や、最近見たものでは「今回の渡部直己の行為は、人としても批評家としても最悪なものです。ハラスメントとしてあまりに典型的で動物的な振る舞いに、何か吐き気のようなものすら感じます」(@kawamura_nodoka)というツイートなどがそうです。いずれも、「~に欠けた人間」の表象として「動物」が侮蔑的に扱われています。
 一方、動物介在療法では「人間が動物の力を借りて解放されることはあっても、動物がともに解放されるシナリオは全く出てこない」という批判は、ある程度あたっていると思います。ただ、当然これは「実験動物」とは全く次元が違います。そこでは、先にも言ったように、犬をはじめとする動物たちが、人間の持つ苦しみになぜか関心を持ち、われわれに近づいてくることがあるからです。
 動物介在療法はその一部ですが、われわれは犬や猫、あるいは豚や馬といった動物たちと関わって新たな可能性を示されたとき、動物への「責任」と「恩義」を感じ、その恩返しを目指すことがあります。狼と関わり、ピアニストと同時にオオカミ保護活動家となったエレーヌ・グリモーがそうであるように。
 われわれは、他の動物たちに大きな「責任」を負っています。動物たちとのさまざまな出会いは、そうした「責任を果たす」人間の存在を時に呼び起こすのではないかと思います。


最後に

 先日、映画「ワタシタチハニンゲンダ」を観ました。「在日外国人に対する差別政策の全貌を浮き彫りにする」素晴らしい映画で、胸を突かれるような思いをしながら、日本社会の排外・差別性の問題をあらためて自分の問題として考えざるをえませんでした。
 しかし、このチラシには、〃人権侵害に苦しむ外国人が異口同音に訴える。「私たちは動物ではない。人間だ !」〃とあります。
 なぜ、日本社会の外国人への差別を告発する場で「人間の動物に対する優位性」を語らなければならないのでしょうか。もちろん、この映画は「動物」なら暴力や差別は許される、と言いたいわけではないでしょう。しかし、この表現は「私たちは外国人ではない、日本人だ!」という表現と似た、深刻な問題を持っています。
 この映画を薦めてくれたのは、釜ヶ崎で活動しているシスター・マリア・コラレスで、「あの映画、見た方がいいよ。私の知り合いも何人か出ています」と言われたこともあって、観に行きました。
 映画にはシスター・マリアが在日外国人女性と一緒に出ていて、その女性が「私たちは人間だ」と言われていました。そして、「だから、間違うこともある。そうであれば、それを修正していくことができるはずだ」ということを言われていました。
 その後も外国人男性が「私たちは人間です、だから間違うこともある」と言われていました。「でも、一度の間違いで排除するのはおかしい」と。そして、「私たちは人間だ、なのに動物のような扱いを受けた」という言葉も出ていました。
 この映画の趣旨から言って、二人が言われたように「私は人間だ。だから、間違うこともある。しかし、それは修正することができるはずだ」が正しいのではないでしょうか。決してチラシが言う「私達は人間だ、動物ではない」ではありません。
 『動物倫理の最前線』では、シングルイシューに絞った運動に対する批判を行ない、さまざまな抑圧に対して連帯し共闘する「総合的解放」が語られました。それが必要だと思うのは、こうした問題が常に生じうるからです。
 もちろん現実の運動では、二つ以上の課題を同時に追究することは物理的にほぼ不可能です。しかし、運動の中では、さまざまな立場の人々や動物たちが常に関わっています。「ジェンダー」「階層」「人種」「障碍」「動物」など多くの問題がからみあう中、その一つだけを優先して他を無視することは、運動そのものへの信頼を失わせることになります。
 社会運動を進めるためには、互いの多様性や差別性を常に検証し続け、さまざまな立場からの意見を戦わせなければならないのでしょう。井上さんの言われるように「議論を通し、認めてよい違いは認め合い、埋めるべき点は埋めていきたい」ということです。
 この文章も、多くの問題が絡み合う「動物」の問題を扱ったため、かなり長くなりました。どこまで真摯な対応となりえているか自分ではわかりませんが、これが動物論の建設的な論戦の一端となれぱ幸いです。

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