■9月25日・「野宿者襲撃について」の授業の簡単な報告
「野宿者襲撃について」の回は、野宿者ネットワークのメンバー2人で授業を行った。まず、野宿者ネットワークの夜回りを撮影した番組のビデオ5分と、野宿者襲撃を行った若者の証言の番組のビデオ8分(後で「野宿者の将来と若者」のところでも引用しているS君の証言)を見て、襲撃の状況の模様を話し、後半に質疑応答という構成である。授業について具体的に言うと、生徒は20人程度だったが、まず最初に、ビデオが絶対に見えない位置に座る生徒たちがいた。そして、その生徒たちが授業を始めたしょっぱなからメールを打ったり鏡を見ながら化粧を始め出すのには驚いた。「最初のビデオぐらい見ろよー」と結構ムカムカしたが、まあ我慢して襲撃の報告に移った。襲撃の話の間も、他の一人の生徒は机の上で微動だにせず腕枕し続けているのだった。ただ、あまりに一貫してその体勢なので、多分こいつはこうして話を聞いているのかなとは思った(後で先生に聞いたら、実際「あの子はいつもああして実は話を聞いています」ということだ)。ところで、ネットワークのメンバーによる襲撃についての話は、臨場感があって迫力あるものだったが、生徒たちは刺激的なところでは表情などに明らかな反応を見せて、かなり真剣に聞いていた。最後のころには、ビデオ見えないエリアの生徒の一人も、「でもゴミをひろっている人たちってどうなんでしょう」とか質問をしてきていた。
生徒の質問の一つは、先週授業に来た野宿者の一人が、「こうなったのは自業自得や。みんな、おっちゃんみたいになっちゃあかん」と言ったことを引いて、「やっぱり野宿になるのは自業自得ではないかと思うんですが」というものだった。ぼくはこう答えた。個人の努力の問題と社会の構造の問題は別だ、と。例えば「いす取りゲーム」を考えてみよう。人数に対していすの数が足りなくて、音楽が止まると一斉にいすを取り合うあのゲーム。この場合、いすとは「仕事」のことだ。仕事がなくなれば、収入がなくなり、いずれは家賃も払えなくなり、最後には野宿に至るというのは当然な話だ。さて、確かにいす取りゲームでいすをとれなかった人は「自分の努力が足りなかった。自業自得だ」と思うかもしれない。けれども、いすの数が人数より少ない限り、何をどうしたって誰かがいすからあぶれるのだ。仮にその人がうんと努力すれば、今度は他の誰かのいすがなくなってしまう。仮りに、すべての人が今の100倍努力したとしても、同じ人数がいすを取れないことでは全然変わりがない。要するに、問題は個人の努力ではなくて、いすの数の問題、つまり構造的な問題なのだ。今、失業率が5%を越えているが、これは要するに、いすの数が極端に不足している状態だ。われわれがやっていることの一つは、いすの数を増やせと行政に要求することだ。いすの数を増やせるのは、一応は行政しかないのだから(実際は「です・ます」体。いす取りゲームの比喩は、経済の何かの比喩で使われているのを岩波新書か何かで読んだ)。
全体としては、襲撃については「そんなひどいことが実際にあるのか」という驚きの声と、「そんなことをする奴らはおかしい」という感覚だった。できれば、人ごとではなくて、自分たちの現実と襲撃する若者とをひきつけて考えて欲しかったが、そこまで議論は展開できなかった。というわけで、これは今後の課題である。(生田)
黒字、枠内は生徒に配ったもの。赤字はこちらのメモ。
「たとえてみると、ここに2人の男がいて、一人は低い階段を5段ゆっくり昇っていくのに、別の男は1段だけ、しかし少なくとも彼自身にとっては先の5段を合わせたのと同じ高さを、一気によじあがろうとしているようなものです。
先の男は、その5段ばかりか、さらに100段、1000段と着実に昇りつめていくでしょう。そして振幅の大きい、きわめて多難な人生を実現することでしょう。しかしその間に昇った階段の一つ一つは、彼にとってはたいしたことではない。
ところがもう一人の男にとっては、あの1段は、険しい、全力を尽くしても登り切ることのできない階段であり、それを乗り越えられないことはもちろん、そもそもそれに取っつくことさえ不可能なのです。意義の度合いがまるでちがうのです。」
(カフカ「父への手紙」)
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カッコの中に何が入るか、しばらく考えてもらう。
■(左)
失業
病気
雇用保険(失業保険)切れ
貯金切れ
家賃切れ
頼れる人がいなくなった
■(右)
不景気で仕事がない
住所がないと職業安定所が相手にしない
着ていく服がない
敷金・礼金
一月先の給料までどうやってしのぐ
■この結果、野宿者は増える一方になっている。これを解消するためには、右の壁に段差を入れていく必要がある。例えば、行政による仮設住宅のような衣食住の一時的保証。
アメリカ |
イギリス |
韓国 |
フランス |
(左上の図から) 新規月卒求人数の推移(総務省労働省「職業安定業務統計」) バブル期の伸びから一転して、91〜92年を境に求人数は軒並み落ち込んでいる。とくに、高校卒は上下変動が大学卒よりも激しく、好景気の時は大量に求人募集されるが、一旦冷え込むとそのしわよせももろに受けてしまっている。 完全失業者数、完全失業率の推移(総務省「労働力調査特別調査」各年) 数字の上で見るかぎり、完全失業者数、完全失業率は平成2年以降急激に増加し、99年には350万人、4.7%まで上がった。労働白書では、この傾向の一因は「求人と求職のミスマッチによるもの」と述べている。2001年、ついに5%を超えた。 (右上) (総務省統計局「職業構造基本調査」を労働省政策調査部で特別集計) 1982年から1997年までの15年間で、フリーターの数は3倍に膨れあがっている。1997年以降も確実に増加しており、2001年の現在200万人は優に超えているといわれている。 (下の図) 15〜24才雇用者の雇用形態別構成(総務省「労働力調査特別調査」各年) 全体的に、この5年間ではパート・アルバイトの比率が高まっている反面、正社員の数は減少している。とくに女性の場合、正社員の雇用比率が10%近くも落ち込み、入れ替わるようにパート・アルバイトの割合が8%とのびている。 |
テレビ放送で「野宿者を襲撃する若者」(日本テレビ)に対するインタビューを見る。高校生の時、襲撃(野宿者を殴る、蹴る、持ち物に放火する…)を繰り返し、今大学生になった21歳のS君がインタビューに答えている。彼は、頻発する若者たちの野宿者への襲撃についてこう言っている。「殴ることもそうですけど、殴ることだけではなくて、みんなで殴るのがストレス発散になると思うんですね。テストの点数がどうとか、成績についてどうとか言われるのが、まあ、ストレスと言えばストレスですね」。
小学生の時から塾に通い、中学生のときにはトップクラスの成績だった彼にとってのストレスの原因は、いい子を演じ続けることだったという。「でもやっぱり親には反論というか、殴ったりもできないし、それをすると自分にとってもマイナスになるし、それを考えると、ホームレスなら殴られても構わないかなとも思います。無能な人間を、なにもしない人間を駆除する、掃除するって感じになりますけどね」「(聞き手)むしろ正義感があったってこと?」「そうですね、正義感、ある意味、ちょっとかっこいいのかな、裏の仕事屋、裏の正義みたいな」「何かをしなければ生きる価値ないし、何もしなくてホームレスになったっていうのはほんとに価値がないことだとぼくは思います」。
もちろんここには野宿者の実体についての無理解がある。つまり、なぜか世間の多くの人々は、野宿者はみんな好きで野宿をしている、仕事や人間関係の難しさから逃げ続けたあげく、ああしてホームレスになったんだと思いこんでいる。彼はこの世間一般の偏見に洗脳されている。もちろんそれは社会一般に対する啓蒙によって解決すべき問題なのだ。しかし、ぼくがこのインタビューを見て思ったのは、彼が「何かをしなければ生きる価値がない」と言うこのセリフは、むしろ彼自身が学校や家庭でさんざん言われてきたことではなかったか、と言うことだった。いい成績をとることが、そのまま学校、家庭、友達関係といったあらゆる場面での優位を保証するとすれば、一生懸命勉強して(成績に関して)有能な人間であるための努力を続けることを余儀なくされる。そうしなければ、精神的な意味での自分の居場所がなくなるからだ。まさに心理的に「駆除」され「掃除」されることになる。学校を中心にした狭い世界の中では有形、無形のこうした「何かをしなければ生きる価値はない」という圧力が日々かかり続けている。もちろん、彼ら彼女らがこんな価値観を本気で信じているとは思われない。学校の外の世界で適当に息を抜ける者は、もちろんそんな価値観など話半分に聞いているだろう(それでも相当なストレスではあるだろうが)。だが、そうした価値観を身をもって生きてしまう優等生にとっては、「無能な人間は駆除される」という圧力は、彼らの心身を日々傷つけることになる。その結果、彼らはその価値観、「何かをしなければ生きる価値ない」という無言の圧力を他者に向け、その言葉を文字通りに実行してストレスを解消してしまう。つまり、ここでは彼ら自身が価値観の実行者である野宿者襲撃という形で。事実、若者たちが野宿者についてよく言う「働け」というセリフは(もちろん、野宿者は働きたくとも仕事がないのだ)、彼らの常に感じている「勉強しろ」「学校へ行け」という有言無言の圧力の言い換えではないのか。いわば、彼らは自分に向けられる抑圧を受け入れるそのために、その抑圧を文字通りに他者に向けて実行している。(生田)
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これは、ある中学校の担任の先生が、毎日自分が今まで教えた生徒に学級通信という形でメールを流したものらしいですけど、とっても素晴らしいと思いました。 こういう視点を子供たちに与えてくれる先生がいることは、素晴らしい事です。 もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう。その村には・・・
57人のアジア人
21人のヨーロッパ人
14人の南北アメリカ人
8人のアフリカ人がいます
52人が女性です
48人が男性です
70人が有色人種で
30人が白人
33人がキリスト教
19人がイスラム教
13人がヒンドゥー教
6人が仏教 28人がそれ以外 89人が異性愛者で
11人が同性愛者
6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍
80人は標準以下の居住環境に住み
70人は文字が読めません
50人は栄養失調に苦しみ
1人が瀕死の状態にあり
1人はいま、生まれようとしています
1人は(そうたった1人)は大学の教育を受け
そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています
もしこのように、縮小された全体図から私達の世界を見るなら、相手をあるがままに受け入れること、自分と違う人を理解すること、そして、そういう事実を知るための教育がいかに必要かは火をみるよりあきらかです。
また、次のような視点からもじっくり考えてみましょう。
もし、あなたが今朝、目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることができたなら・・あなたは今生き残ることのできないであろう100万人の人達より恵まれています。
もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も体験したことがないのなら・・・あなたは世界の5億人の人達より恵まれています。
もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことができるなら・・・あなたは世界の30億人の人達より恵まれています。
もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのなら・・・あなたは世界の75%の人達より裕福で恵まれています。
もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら・・あなたはこの世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちの一人です。
もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら・・・それはとても稀なことです。
もしこのメッセージを読むことができるなら、あなたはこの瞬間二倍の祝福をうけるでしょう。なぜならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて、その上あなたはまったく文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。
(以下略。また、元の文章では「33人がキリスト教。67人がそれ以外」となっているのを修正) |