「ホットロード」のための4章

紡木たくの「ホットロード」(1986〜7)論。80年代を代表し、現在に至るまで多くの読者に読み継がれ、少女漫画の一つの頂点として知られるこの作品は、多くの読み解かれ提示されるべき問題をたたえながら、具体的な形ではほとんど論じられていない。「ホットロード」の様々な細部を取り上げながら、この作品にいくつかの新たな照明を当てることをこの文章はめざしている。
「ホットロード」は、疑いなくあらゆる本の中でぼくが最も大きなインパクトを受けた本である。文章量の割には異様に長い期間を費やしているが、当時はとにかくこの文章を書き切って「ホットロード」をいったん対象化しなければ、自分の道を一歩も進めないという感覚だった。
(自分でも驚くが、書き始めたのが「ママ」の誕生日の12月某日で、書き終えたのが和希の誕生日の7月19日だ


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父の欠落
 
 1987年8月、「別冊マーガレット」に「瞬きもせず」の連載が始まる。「ホットロード」終了から4ケ月たち、「ホットロード」のあと紡木たくが一体何を描こうとするのか関心を持って待ち続けていた読者の多くは、おそらく、いくらか意表を突かれたように感じたかもしれない。
「むせかえるよーな 緑のにおいのする県立高校は 勉強もスポーツも 普通よりちょっと 下って感じで ほんとにのんびりしています」という言葉から始まる「瞬きもせず」は、その田園の雰囲気(ずっと後でそれは山口県だとわかる)、そして主人公の小浜かよ子のキャラクターの穏やかさを、物語の特徴として何よりも真っ先に感じさせるものだったからだ。
 「瞬きもせず」は田園の高校でのごく普通の日常を描きながら、この言葉の5ページ先でも、「同じとこでも ここらに近い子は まだ都会っ子で ここから自転車で40分もかけて帰る私のところは ほんとにのんびりしとるんです」と、この「のんびりしています」という言葉を繰り返す。その「のんびり」という言葉、そしてその雰囲気のやわらかさは、激しさと痛みに満ちた「ホットロード」の世界の全く反対に来るように読み手には思えるのだ。
 「瞬きもせず」はそれからの3ケ月の連載の中で、主人公が同級生の紺野芳弘から突然つきあいたいと言われ、それが彼女の父親との関係でぎくしゃくしながらも、なんとかつながっていく様子を描いていくことになるだろう。そこには、「ホットロード」にあった張りつめた緊張も、突きつめられた鋭さも見たところ見あたらない。むしろ、ごく普通の「学園恋愛もの」であるように見える。結局「瞬きもせず」は、「ホットロード」の対照になるように意図的に作られた作品だったのだろうかと君は思う。「瞬きもせず」がある種のてごたえを持った作品であることは間違いないけれども、それが「ホットロード」にあったようなショックを読者に感じさせないことも確かではないだろうか?
 だが、「瞬きもせず」の連載が終了したあとになって、君はこの作品の「ホットロード」に対しての最大の対照は他にあったということに突然気づく。それは、何よりも「父親の姿」だったのだ。
 「瞬きもせず」の小浜かよ子は、紺野芳弘に自分の父親を見られたくなくて、彼に家まで送ってもらうのを無理やり断わったりして、そのために2人の関係がおかしくなってしまう。そして、物語の最後に彼女は紺野に言う。「う うちのお父さんはー 見た目とちがっておくびょーでぇ はずかしーこともいっぱいしよるしー いっぱい いっぱいお酒ものむしー どこでもヘーキで大きい声でしゃべってぇー」「いつも他人(ひと)はー…みんなで…みるけえ」「やけえうちはー やけえ夏祭りの日も紺野くんに… 会わせたく…なくてー」「はずかしかったんよ…」「でもぉ… そんでもあれはうちのぉ あれはうちのお父さんやけぇ」。
 つまり、「瞬きもせず」では「父親の姿」が、物語にとって一貫して重要な意味を持って登場していた。そして、それこそがこの作品の焦点であり、そして「ホットロード」と最大の対照をなす点だったのではないだろうか? なぜなら前作「ホットロード」は、「父親の姿」をほとんど「細心の注意を払ってというまでに」、あらゆる場面で欠落させ続けた物語だったからだ。
 
 事実、「ホットロード」はその中で「父親の姿」の描写をほとんど完全に避け続けていた。
 「ホットロード」はその連載第1回から、宮市和希の口を通して「うちにはパパの写真がありません」と語り始める(後で和希が言うように「ママ」が「かくしちゃって」)。そして、和希の死んだ「パパ」は「写真」だけでなく、それからも「ホットロード」の中に姿を現すことはない。つまり「ホットロード」は、和希の「パパの姿」をどんな形でも決して描写しようとしないのだ。和希は「パパのことを覚えてんのって1コっきゃない。遊園地にパパとばばぁと3人でいって おーきなチューリップがいっぱい咲いてた」と春山に話す。そのとき、和希の手を引く「パパ」らしき男の人の後ろ姿が描かれる。だが、その記憶は本当はママの恋人の「鈴木くん」の事だったことが最後にわかる。それを知って、和希は強いショックを受ける。
 そして、春山の義理の父親は、春山の母親や(異父)弟と一緒に暮らしているのに、その姿をほとんど見せることがない。わずかに、3巻の43ページ(引用ページはコミックスによる)の最後のコマと次のページの最初のコマ、(そして多分4巻の134ページ)にほとんど表情もわからない影のような姿で描かれるだけである。その描写のあまりの粗さは、逆に読者に不審を感じさせるのである。「ほんとのお父さん」については、春山は「しんない。どっかで酒くらって死んでんじゃねーの」「オレそっちの血ー ひいたから」とだけ言う。
 そして、和希が家出中に世話になっていた小百合さんも、「いまおやじが会社でどっかいっててぇ 一ヶ月ぐらい帰ってこないからさ」「ま 自分ン家だとおもってゆっくりしてきなよ」という次第で、和希は小百合の父が不在の間だけやっかいになる。そしてその一ヶ月後、小百合は和希に言う。「和希ー ごめん… おやじがさー帰ってくんだよ んでー悪いんだけどさー」「…べつにー うち いてもらってもいんだけどさ」「うちのおやじー」「なぐんだよね」「酒乱っぽくてさ」「そーゆーのってあんま… 見せたくないじゃんよ」「あはは」。そして、それを聞いて和希は「なんだかわかんない けど この時は むねがつまりそうだった…」と思う。
 そして更に、和希の親友の絵理の父親になると、もう「ホットロード」の中ではいるのかいないのか、一緒にくらしているのかどうか全く不明になってしまっている。和希は中3の秋の一ヶ月ほど絵理の家にあずけられていたのだから、父親がいたとすれば当然何らかの交渉があったはずである(実際、母親との会話は出てくる)。だが、それについても「ホットロード」は完全に不明にしている。こうして、「ホットロード」はそのあらゆる場面で「父親の姿」をすっぽりと欠落させている。父親は「ホットロード」の中ではいつも「どっかいってる」「どっかで死んでる」あるいは「かくしちゃて」る。まるで、「ホットロード」という作品そのものが「父親の姿」について、「そーゆーのってあんま… 見せたくないじゃんよ」と言っているかのように。
 
 そして、「そーゆーのってあんま… 見せたくないじゃんよ」と小百合が言うのを聞いて、和希が「なんだかわかんない けど この時は むねがつまりそうだった…」と思うように、「瞬きもせず」の小浜かよ子は、物語の最後で自分の父親と紺野の二人が話をしている場面を見て、「なんだかわからんけど この場面(けしき)を 一生覚えとこーと思った… 一生 瞳に…」と思うのである。「ホットロード」の和希と「瞬きもせず」のかよ子の2人は、父親をめぐって、それぞれ口を合わせたように「なんだかわかんない けど」と言う。ここで和希が「むねがつまりそうだった」という他ない何かを、「瞬きもせず」の小浜かよ子は「なんだかわかんない」まま、作品の枠を越えて彼女から受け取っていたのだろうか。そして、それは「ホットロード」と「瞬きもせず」という2つの作品の呼応の中で、もしかしたら作者である紡木たく自身「わからない」ままかもしれないものを問いかけ、そして解決していたのだろうか。もちろん、作者自身のことは読者にはわからない。けれども、和希とかよ子の2人がそろって「なんだかわかんない」と言うものが、この2つの作品にとって重要な意味を持っていたことは確実である。「瞬きもせず」は、やはりいいようのない緊張を持つ作品となっていて、それはおそらくこの「父親」の描写がその最大の要因になっている。というより、「ホットロード」を読んだあと「瞬きもせず」を読むと、「父親の姿」をよくここまで描いたなと、その点だけで読者はあらためて驚くのだ。いわば、「ホットロード」が「父親の姿」を読者に決して見せようとしなかったように、「瞬きもせず」の小浜かよ子は「父親の姿」を紺野芳弘に見せようとせず、その結果作中の2人の関係はぎくしゃくしてしまっている。つまり、「父親の姿」について「ホットロード」で作者自身が行っていることを、「瞬きもせず」はその作中のテーマとして描いている
 だが、「瞬きもせず」は当初の3回の連載のあと半年のインターヴァルをおいてから、1990年まで全7巻に及ぶ長期連載を始めるだろう。そして、そこでは「父親の姿」の問題は一挙に背景に遠のき、物語は一貫して小浜かよ子と紺野芳弘のラブストーリーとして描かれる。そしてその中では、最初の連載の際の異様な緊張は消え、「瞬きもせず」は穏やかな「学園恋愛」作品になっていく。だが、少なくとも「瞬きもせず」の最初の連載は、「ホットロード」が父親の姿の描写を一貫して避け続けたためにその結果描かれるべくして描かれた、「ホットロード」を真に補完する「対」、あるいは「ホットロード」への本質的な批評となる作品だったのではないだろうか。
 そして、「ホットロード」。「ホットロード」自身にとって、こうした「父親の姿」の徹底した欠落は何を意味していたのだろうか。つまり、おそらくすぐには読者には気づかれないこの「父親の姿」の欠落は、それが不自然なまでに、そして細心の注意を払ってというまでに行われているために、「ホットロード」のいわばある「横顔」を読者に感じさせずにはおかない。なぜ、「ホットロード」は父親の姿を徹底して欠落させるのだろう? そしてもうひとつ問うが、「ホットロード」に欠落しているものは、この「父親の姿」だけだったのだろうか?
 

 宮市和希の14才から17才にかけての物語、「ホットロード」は1985年12月から1987年4月まで「別冊マーガレット」に連載された。その中で、彼女は万引きし、髪を脱色し、母親と衝突して家出し、暴走族「ナイツ」に入っていく。和希はナイツにいる16才の春山洋志と出会い、やがて一緒に暮らし始める。春山はナイツの「総頭」になるが、新宿の暴走族「漠統」との抗争に巻き込まれる。そして漠統との最後のケンカの日に春山はトラックにはねられ危篤状態になるが、ギリギリの状態で助かる。春山は左半身のマヒを残しながら、和希と一緒に生きていくことになる。
 この物語は、連載当時の読書調査で人気1位を記録していた。そしてそれはコミックスになってからも特に女子中学生、女子高校生の間で10年以上読み継がれてきた(例えば1996年のコミック・キューの企画「女子高生100人アンケート」の「今までで一番好きなマンガは?」では1位「伝染るんです」、2位「ホットロード」他)。そして読者によっては、この本のことを「もしこの本を読んでわからなければ、わたしたちの気持ちはわからない」あるいは「わたしの宝物」と言ったりもする。
 そうした読者の熱烈な支持は、自分でも止められない激しいエネルギーを抱えた14才の和希が、17才になって「今までひといっぱいキズつけました」「これからはその分ひとのいたみがわかるようになりたい」と語るまでの内面的な変化のリアリティから来ていたのかもしれない。そして、その間彼女が見た、暴走や不安、孤独などが、他に比べるもののないような純粋さと激しさをもって描かれた点にあったのかもしれない。いわば読者は、10代のある一瞬だけに自分が見た空気が、夜が、そして不安が、信じられないような鋭さで描き出されたことに驚いたのだ。「ホットロード」は「暴走族の物語」だけれども、「族」の世界とは無関係な読者も強く感動させるある普遍性を持っていた。そして「ホットロード」は読者の反応を、熱烈な共感かまったくの拒否かの真っ二つに分けるのだが、それは読者がその10代の一瞬の「空気」を呼吸していたか、そしてそれを記憶しているかどうかの問題になるのかもしれなかった。
 けれども、ここで触れたいと思うのは、そうした「空気」というよりも、「ホットロード」に描かれる「画面とセリフ」に描かれたいくつかの事実にある。つまり「ホットロード」には、そのストーリーの流れの一方で、例えば「父親の姿」の欠落のように、繰り返し読む中ではじめて読者が気づくような微妙ないくつかの細部が存在していた。そして、その細部はやがて結びつきあって、「ホットロード」の目に見えるあらすじとはちがう別の「枠組み」を読者の前に映し出すように見える。言い換えれば、「ホットロード」には登場人物たちへの深い共感と同時に、その中にほとんど数学的なほどに厳密な構造があった。そして、登場人物たちは、彼ら、彼女ら自身気づかないままに、その構造によって物語の中を突き動かされている、という感じなのだ。
 紡木たくは、その連載中に「『ホットロード』は問題の多い作品かもしれない」と言っていた。作者の言う「問題の多さ」は、多分「暴走族の物語」という題材の点にあったのだろう。確かに、死とスレスレの暴走やレイプ未遂を描く「ホットロード」は、その点だけで十分に問題作だったのかもしれない。けれども、「ホットロード」が読者を惹きつけたのは、その「過激さ」によってだったのだろうか。後で言うように、その点で「ホットロード」は控え目なほどだったのではないだろうか。「ホットロード」が読者を惹きつけた力は、その物語の生々しさと同時に、物語の厳密な「構造」と、そしてそのストーリーの流れを打ち壊してまでも一貫する「抽象性」にあったのかもしれない。たとえ「ホットロード」を描く作者自身、そしてそれを読む読者も、それについて意識しないままだったとしても。
 作者による「瞬きもせず」は、それ自体「ホットロード」を読む一つの鍵になっていて、2つの作品の対照からそれぞれのある横顔が浮かび上がる。「ホットロード」連載中からの読者だったぼくは、一つにはそれに気づいたことから、この物語をあらためて読み直し始めた。今、「ホットロード」に描き込まれている「構造」と「欠落」にかかわるそれらいくつかの問題を、ここでできる限り展開させてみようと思う。
 それを、「ホットロード」の前作「机をステージに」の主人公、佐藤真紀が書いたメモの「破かれた断片」を振り返るところから始めることにしよう。 
 

「もうこーゆーの 見たくない」
 
 「ホットロード」の直前、紡木たくは「机をステージに」(1985年7〜10月)を連載している。「机をステージに」は、無理解な学校側に抵抗して生徒たちがバンドを続けていく内容になっている。そしてそれは、主人公の佐藤真紀が、「苦しいことなんか 何もないんだ 悩みなんかも ぜんぜんないし だけど 知らないうちに 時間だけが すぎてくみたいで ときどき… 死んでもいいかなぁ なんて… 思うんだ」と書いたメモを破き、その断片「死んでもいいか」「思うんだ」を、後のバンド仲間の高屋恵(♂)が偶然読むところから本格的に始まる。
 つまり、この「死んでもいい」という言葉は、「机をステージに」の本質的な背景を作っている。けれども、この言葉に対応するような事件は物語の中に現れない。「机をステージに」の中で、「死」の問題は佐藤真紀の心の中だけにとどめられ、それが物語の中で展開されることはない。この言葉を作品の中で繰り返し口にし、なおかつ「死」のギリギリ近くにまで進むのは、「ホットロード」の和希と春山である。
 「ホットロード」の中で、和希は深夜の暴走の中、テイルランプの光を見て「こんなキレイなものはきっと他にない(…)死んでもいい」(U―128)と言う。春山は「オレは ミホコのためになら いつだって死ねる」(T―81)と言う。そして、暴走する春山を見て、和希は「いつ死んでもいーよーな瞳をしてる」(V―108)と言う。
 こうして、和希は「机をステージに」の佐藤真紀のメモを引き受けたように、「死んでもいい」という言葉を繰り返す。「ホットロード」は間違いなく「死」の問題に強いこだわりを持っていた。いわば「ホットロード」は、「机をステージに」が一瞬読者に見せたもの、「生と死」の問題を正面から描いた作品なのである。「ホットロード」は、「生か死か」という状況を走る暴走族の物語として、「いつ死んでもいーよーな」自殺スレスレの暴走や、危険きわまりない行動を繰り返し描いていた。「ホットロード」はそれを少女マンガとしては異例にかなりリアルに描写する。だが、まさにその点で「ホットロード」という物語の特性の一つが現れるように見える。
 例えばそれは、2巻37〜52ページにある。春山が「漠統」の呼び出しに応じて、茅ヶ崎近くの駐車場に一人で出かける。和希は電話で「やめて」「なんでそんなバカなことすんの?」「あんた死んじゃうよぉっ」「そんなの… やだぁー…」と必死に止めるが、春山はそれを振り切って、「お前一人?」「一人じゃつまんねー」「手ェぬいてやるから安心しろよ」と余裕で構えている「漠統」のところへ行く。そして春山は、敵の「頭」めがけて、手にくくりつけた鉄パイプを振りかざして襲いかかる。そして、まさに「頭」に殴りかかるその瞬間、画面は突如転換して江ノ島の見える海岸の光景に移り、「族の世界は 思ってたよりもずっと こわかった」というテロップが入る。
 それは多分、「ホットロード」の中で最も印象的で衝撃的なシーンの一つだ。だが、ここでは春山と漠統とのケンカの場面は全く描かれず、「完全カット」になっている。それについて、春山は後になって「めたくそやられてんのオレ」と「すっかり冗談にして」(V―71)和希に、したがって読者に軽くそれを伝えるわけなのだった。
 暴力的な場面のクライマックスでの突然の転換という、これと似た例は他の場面にもあった。例えば、「ホットロード」の終わり近く、春山がトラックに跳ね飛ばされて「意しきもどったら…キセキだって」という状態になる。その事故の場面で、トラックは春山のまさに目の前にまで迫る。だが、衝突のシーンそのものはやはり「ホットロード」の画面からは「完全カット」になっている。「ホットロード」は衝突の瞬間に、再び江ノ島を望む海沿いの場面に転換して、「春山は 5mそらを とんだ」というセリフで衝突を暗示する(あるいは、W―128の小さな春山の姿がそれなのだろうか、あるいはそれは和希が事故についてとらえた一つのイメージではないか?)。
 「暴走族の物語」という「ホットロード」の中でのこの「欠落」は何を示すのだろうか。多分、「ホットロード」は激しい「暴力的な場面」をその中で徹底して欠落させていた。つまり、「ホットロード」は、描こうと思えば描けた過激な暴力の場面を絶えずどこかで抑え続けている。それは、「ホットロード」の他のいくつかの場面でも確かめられるはずである。
 例えば、「あたしたちもー 卒業まえにこんなことしたくないんだよー。でもさー ケジメってもんがあるじゃんよー」(←意味不明)と言う上級生の3、4人に、和希がトイレの中でどつき回されバケツで水をぶっかけられる場面(U―70〜71)。それは、「リアル」というより「暗示」的な描写になっていないか。あるいは、春山とナイツのメンバーとが「漠統」との問題で対立してケンカをはじめる場面(V―183)。和希が「やめてぇっ」「いやー」「やだー」と泣き叫ぶこのシーンは、その「暴力」の描写を決して具体的に描かず、全体として抑制し続けている。
 これらを見ると、「ホットロード」が「暴力の描写」を「細心の注意を払ってと言うまでに」回避し続けているということは、かなりの確実さで言えるのではないだろうか。そして、この「暴力の欠落」は、「ホットロード」全体のイメージについてもあてはまるかもしれない。「ホットロード」は、実際に暴走族にいた読者から「実態はあんなものじゃない」とも言われていた。それは、「ホットロード」が描こうと思えば描けた「暴力」を、作者が常に抑え続けていたそのためではなかっただろうか。
 つまり、「ホットロード」での紡木たくのペンは、死、殴り合い、事故といった人が傷つく「暴力」の描写の段階になると、突然その動きが止まるように見える。その結果現れるのが、暴力の場面の「完全カット」であり、「暗示」であり「抑制」となる。そしてそれが、「実態はあんなものじゃない」という(まるで戦争体験についてのような)読者の反応を呼ぶ。(ただ、そのことはおそらく作者自身が意識していた。「ホットロード」自身、あえて一コマだけの登場人物に「宮市は運がいーんだよ」「あたしの友だちなんか族入って メチャクチャにされちゃったよ」(W―189)と言わせているように)。
 「ホットロード」のこの「暴力」の欠落は何を意味しているのだろうか。「父親の姿」の欠落について、小百合は「うちのおやじー」「なぐんだよ」「そーゆーのってあんま… 見せたくないじゃんよ」と言っていた。彼女が「見せたくない」父親の姿が「ホットロード」の中からすっぽりと消えるように、「なぐんだよね」という「暴力」もまた「ホットロード」から消える。小百合が「見せたくない」「そーゆーの」は、「おやじ」の姿と同時に、「なぐんだよね」という「暴力」でもあったように見える。物語の終わり近く、春山の危篤で表情を失った和希を見て、「だから… 族なんかかっこいいもんじゃないんだよ」「もうこーゆーの 見たくないね」と絵里の姉が言う。そして、春山とナイツの仲間とのケンカのとき、和希は「やだー」「やめてぇっ」「いやー」と必死で泣き叫んでいた。そして「ホットロード」の最後、17才になった和希は、「だれかが事件おこしてつれてかれたり 死んじゃったり そーゆーのきくたんびに 胸がつぶれそーに痛いです」と言う。おそらく、「ホットロード」の暴力の欠落には、この「胸がつぶれそー」な「痛み」が、そして彼女の「やめてよー」という叫びが常に反響していた。
 つまり、「ホットロード」は「暴力の場面」を、その「胸のつぶれそーな痛み」のために、言葉を失うように「失う」。いわば、「ホットロード」の「暴力」の欠落は、「もうこーゆーの 見たくない」という「痛み」の「傷跡」となる。「ホットロード」の紡木たくのペンが、人が傷つく「暴力」の描写の段階になると、突然その動きが止まるのは、おそらく作品に流れ続けるこの「痛み」のためである。そして、和希の言う「痛み」は、「ホットロード」の違う言葉で言えば「弱さ」でもあった。
 「ホットロード」の最終回で、担任の高津先生は和希を「何を見ているのかわからなかったねェ… 弱いのと激しいのが一緒になったような瞳で… 本当に難しかった…」と振り返る。この「弱いのと激しいのとが一緒になったような」という言葉は、そのまま「ホットロード」そのものにあてはまるだろう。「ホットロード」は和希の「視点」=「瞳」から描かれた作品だった。高津先生の言うように和希が「弱いのと激しいのとが一緒になったような瞳」だったとしたら、「ホットロード」全編は「胸がつぶれそー」な「痛み」=「弱さ」と「激しさ」が交錯する物語としてあったのかもしれない。
 事実、この「痛み」と「激しさ」の交差は、「ホットロード」の最も本質的な性質の一つだったように見える。例えば「漠統」にひとり殴り込む春山の描写は、その殴り込みの中心の突然の「欠落」の中で、「思ってたよりも ずっとこわかった」という、どんな血まみれの描写よりもおそろしい「こわさ」、そして「不安」を読者に見せていなかっただろうか。そして「ホットロード」の中心部で描かれる和希や春山の繰り返す暴走、あるいは「ホットロード」の全体は、「実態はあんなものじゃない」といわれる抑制された描写の中で、どんな安定にも向かわない激しい「不安」と「孤独」を見せていたのではないだろうか。そしてその「痛み」と「激しさ」の「一緒になったような」世界にこそ、「ホットロード」の多くの読者はひきつけられたのではなかっただろうか。
 この「激しさ」と「痛み」の交差、それは登場人物の口を借りて作者自身が言うように、「もしかしたら一生のうちで」「ほんの一瞬」(V―87)にしか存在できない不安定なものだったのかもしれない。そこでは、決してどんな「安定」にも解消されない「不安」が、そして永遠に解消されない「痛み」が現れる。そしてそれは、「弱いのと激しいのが一緒になったような瞳」を失った者にはもう決してとらえることのできないものかもしれない。この意味で、人を「キズつけ」る場面の欠落は、「父の欠落」ともに「ホットロード」を特徴づける一つの「横顔」となる。
 

「うちは きたない」
 
  そして、「痛み」と「激しさ」という相反するものの交差は、「暴力」の欠落とはさらに別の形をとって「ホットロード」を形作る。それは物語を強力に推進させると同時に「ホットロード」の中の幾つかの要素を一方的に拒絶し、欠落させ、「ホットロード」の画面の最大の特徴の一つを作り出すはずである。
 「暴力」とは別の形で欠落するもの、それはまず「大人」、というより「大人」の描写にある。つまり、「ホットロード」には大人の登場人物が存在はするのだが、その特徴の欠落が問題になる。
 例えば、「ホットロード」の中では大人の「名前」がほとんどない。宮市和希、春山洋志、玉見トオル、森下絵里、霜村美穂子、野澤ユッコ(正式名は不明)などフルネームのそろった少年少女はいっぱいいるのに、「姓名」のうちの「名」のある大人は実は一人もいない。「姓」にしても、子供から分かる親を別にすれば、全巻を通して「鈴木くん」と「佐々木先生」そして「高津先生」くらいしか出てこない。
 そしてこのことは、「ホットロード」に和希や春山たちと対抗できるような個性をもった大人が全くいない、ということとつながっている。「ホットロード」を読めば、そこに登場する多くの大人が、和希や春山とくらべて存在感に欠けているということはだれの目にも明白だ。ただ、高津先生の存在だけが微妙な線として残る。高津先生のいくつかのセリフを見ると、作者自身が和希たちに向かって語りかけようとしていることがよくわかる。しかし全体として、この高津先生のキャラクターに、和希たちに匹敵するようなリアリティがあるとはやはり言えそうにない。
 そして「ホットロード」を見ると、「ママ」といい、高津先生といい、警官たちといい、全体に「大人」が全然「大人」に見えないように描かれていることに気づく。いわば「ホットロード」の大人は、顔からシワの線を消してしまうとそのまま「子供」になってしまうような不自然な大人になっている。つまり、加齢現象、「大人になっていくこと」の自然な描写が欠けている。
 もちろん、「大人」のこうした造形の「欠落」は、紡木たくの「ホットロード」以前の作品から共通する特性ではあった。10代の一瞬の輝きを描く「ホットロード」以前の紡木たくの作品が、大人の存在をはなから拒否していることは、いわば当然なのかもしれない。しかし「ホットロード」はそれらとは違う。なぜなら「ホットロード」は、14才から17才という2年半にわたって和希が成長していき、「母親」という大人との生々しい関係を生きる物語だからだ。そして、その中で「男親」が完全に欠落し、一方で「女親」との関係がクローズアップされているとすれば、そこには「性」の相違の問題がかかわってくる。
 確かに「ホットロード」は「大人」の存在を認めておらず、「大人になってくこと」の自然な描写がを欠けている。けれども、それは自分とは関係ない「大人」を拒絶するということだけではなく、和希たち自身が「大人になっていくこと」、つまり大人への「成長」を受容できないことを意味していたのではないだろうか。そもそも和希たちが「大人」を激しく拒絶するとしたら、それは何よりも彼女たち自身が「大人」になる年代にいたためだった。そしてそれは、和希の年代にとって、心だけでなく自分の体そのものが変わっていくというような変化を、つまり性的に「大人になっていくこと」を意味する。
 「ホットロード」の中で、「性」が直接テーマとして語られることはそれほどはない。しかし、例えば「ホットロード」は、和希をはじめ、女性の「胸」の描写をほとんどしない。事実、「ホットロード」は、和希をはじめ、「ママ」、絵理、宏子さんといったすべての女性について、「胸のふくらみ」を描写しない。ただこれは「ホットロード」だけではなく、紡木たくの作品全般に対しても言えることだった。つまり、紡木たくの女性キャラクターは、ボーイッシュというか、全員いわば「胸がない」ように描かれている。多分例外は、「あの夏が海にいる」P32の、主人公が夏の間だけ仲良くなった和実(♂)の(実はいた)「彼女」だけである。しかし、この彼女は、当然のように顔も名前もないまま一瞬で物語から消えうせる(ついでながら、紡木たくの作品には、この「和実」「恵」「和希」のように名前では性別がわからない登場人物が多い)。
 そもそも、「ホットロード」で和希はいつも比較的ブカブカ(?)の服を着ているように描かれている。そのため、物語の全編にわたって、和希の体の輪郭はよくわからないままになっている。事実、「ホットロード」の中では、例えば水着を着るとかいう、和希が体の輪郭を見せる画面は存在しない。水着にかんしては、春山の部屋にいる和希を絵里が訪ねて海へ誘うシーンがあった。「海いかない?」(絵里)、「水着…ない」(和希)、「あるある」(絵里)(V―120)。というわけで、2人は海に出かける。そして2人は海のそばで春山に会い、その場面まで描かれる。そして更にそのあと、絵里がうきわを持って帰ってくる場面はある。だが、その間の水着になって海へ入る画面だけが「ホットロード」から欠落している。
 こうした「欠落」は、以上のように物語の流れとは無関係のように現れる。それらは、それによって物語が進行するという意味で「ホットロード」を動かすのではない。しかしそれに対して、その「拒絶」が物語の流れそのものを作っているものが「ホットロード」には存在する。
 「ホットロード」の冒頭、「きょうはママの誕生日」、和希は万引きをする。けれども、それは恋人からのプレゼントのくつを大切にそばにおいている、うわのそらの「ママ」に対して向けてだった。(あたしはこれをプレゼントしてあげる…)。「あたし今日 万引きでつかまったよ」「連絡なかった?」。和希は「ホットロード」の中で、まず「ママにプレゼント」するという姿で現れる。つまり、恋人からのプレゼントに対抗して自分の「万引き」をプレゼントする、という形で(ここで、和希が万引きしたのが300円の「ぶたのシャーペン」だったことを思い出そう。春山が2回目に和希に顔を合わせたとき、いきなり「ぶたぁっ」と言う。そして「ホットロード」の最後の春山のセリフは「ぶたちゃん 今日のオベントーなーに?」である。つまり、「ホットロード」の中で「ぶた」は、春山が見破ったように和希自身を指している)。 けれども「ママ」は、「この人は35才のくせにすっごいお天気やで いつまでもお嬢さまで わがままで…」和希に「なぁんにもいえねー」ままでいる。和希はそれから何度も「ママ」にむかって「プレゼント」(動詞の 「present」 には「紹介する」「示す」という意味がある)を繰り返す。しかし、「ママ」はそれに全く気づかない。いらついた和希が「きょーから〃不良(不りお)〃になってやるっ」とどなって家を出ていくと、「ママ」はため息をついて「どーしてあたしに似なかったのかしら」と言う。
 けれども、やがて和希は春山と出会い、和希にとって春山が次第に大きな意味を占めてくるのと比例するように、次第に「ママ」に対して攻撃的な態度へと変わっていく。そして和希にとって決定的な家出の日、和希は「なぜさぼったりするの?」「なにしてたのよ…」という「ママ」、つまり恋人と会っていて和希が熱で倒れているのに深夜まで帰ってこなかった「ママ」にむかって言う。「じゃあママはあの日何やってたの?」。その時、和希の中にはその夜恋人と2人でいたはずの「ママ」の姿が思い浮かぶ。「あんたの男にくわしてもらうのはもうやだよ」。それに対して「ママ」は、「あたしたち…高校の時からずっとずっと好きだったのよ」「なぜ? なぜなの? なぜ好きなのに離れさせられなきゃならないの?」「どぉして… 別々のひとと結婚しなくちゃならなかったの?」と言って泣き始める。和希はその「ママ」を凝視しつづける。しかし、そこにいるのは「ママ」ではなく、いわば「あんたの男」に対する「女」の姿ではないだろうか。和希は「きたない」と思う。「…いらない子だったら生まなきゃよかっじゃないか」。そして和希は心の中で「きたない」「うちはきたない」「もォこんなことはいいたくないのに」「すごくきたない」と叫び続ける。
 ここで語られているものは何なのだろうか。「きたない」「すごくきたない」と言う和希は、「もォこんなことはいいたくないのに」と思いながら、その時一体何に突き動かされていたのだろうか。和希はここで、「ママが女であること」に拒絶を示しているのかもしれない。もし「ママ」が「あんたの男」の恋人としての「女」であるとしたら、同時に和希にとってはかけがえのないはずの「パパ」は「イヤイヤ結婚した男」、忘れてしまいたい男でしかなくなり、その男に似た娘である和希(「どーしてあたしに似なかったのかしら」!)は、やはり「ママ」にとって忘れてしまいたい存在でしかなくなる。つまり、ここで和希は2つの不安の中にいるのかもしれない。1つは和希を無条件に自分の子どもとして愛してくれる母親がいないということへの不安であり、それは物語の中で和希の孤独感とともに「ホットロード」の結末近くまで流れつづける。しかしその一方で、和希は「ママ」が一人の「女」であるということへの不安を、さらに言えば「拒絶」を持ち続けていたのではないだろうか。
 もちろんそれは「ホットロード」の中で、直接に語られるものではない。それはあくまで「父親の姿」の、「胸」の、「体の輪郭」の「欠落」などから見た一つの捉え方でしかない。しかし、やがて和希が物語の中で次第に「ママ」に対して攻撃的な態度をとりはじめる時、そして「ホットロード」の中で「ママ」との葛藤の描写が繰り返されるとき、それは愛情を求めようとする母親への「プレゼント」としてであると同時に、「女であること」そのものに対する拒絶としての意味を持っていたという気がする。なぜなら、和希は家出の時、「女」の姿で泣く「ママ」をみて「きたない」と言うのだから。「きたない」という言葉は「不潔」ということである。この、ある意味で「ママ」に対してあまりに一方的だったかもしれない言葉は、しかし和希にとって、自分自身の「性」に対する、自分でもついに意識しなかったかもしれない「拒絶」だったのではなかっただろうか。彼女は「うちは(そして和希にとってそれは和希とママしかいない)きたない」というのである。この言葉が「ホットロード」全体の中で持つ意味については、最後にもう一度触れるだろう。
 「ホットロード」は、宮市和希という少女が家出し、春山と出会い、暴走族に入っていく「暴走族の物語」であるように見える。しかし、そのさまざまな細部の中で「ホットロード」はそうしたあらすじとはちがう作品の姿を、それとは異なる幾つかの力の交差を、その「欠落」によって読者に対して見せていくはずである。
 
             
               (その1「そーゆーのってあんま… 見せたくないじゃんよ」)
 
 

「ホットロード」のための4章
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