2・いす取りゲーム

野宿=貧困になるのは「自業自得」?






「いす取りゲーム」の譬えを最初に使ったのは2001年9月の大阪YMCA国際専門学校・国際高等課程での授業「野宿者襲撃」でだった。そのときの模様は以下の通り。

生徒の質問の一つは、先週授業に来た野宿者の一人が、「こうなったのは自業自得や。みんな、おっちゃんみたいになっちゃあかん」と言ったことを引いて、「やっぱり野宿になるのは自業自得ではないかと思うんですが」というものだった。
ぼくはこう答えた。個人の努力の問題と社会の構造の問題は別だ、と。例えば「いす取りゲーム」を考えてみよう。人数に対していすの数が足りなくて、音楽が止まると一斉にいすを取り合うあのゲーム。この場合、いすとは「仕事」のことだ。仕事がなくなれば、収入がなくなり、いずれは家賃も払えなくなり、最後には野宿に至るというのは当然な話だ。さて、確かにいす取りゲームでいすをとれなかった人は「自分の努力が足りなかった。自業自得だ」と思うかもしれない。けれども、いすの数が人数より少ない限り、何をどうしたって誰かがいすからあぶれるのだ。仮にその人がうんと努力すれば、今度は他の誰かのいすがなくなってしまう。仮りに、すべての人が今の100倍努力したとしても、同じ人数がいすを取れないことでは全然変わりがない。要するに、問題は個人の努力ではなくて、いすの数の問題、つまり構造的な問題なのだ。今、失業率が5%を越えているが、これは要するに、いすの数が極端に不足している状態だ。われわれがやっていることの一つは、いすの数を増やせと行政に要求することだ。いすの数を増やせるのは、一応は行政しかないのだから(実際は「です・ます」体)。



あらためて図の説明。
 いすが3つあって、その周りに五人の参加者がいる。そして、音楽が鳴ってる間はいすの周りを歩いて、音楽が止まるとパッと座る。この場合、いすの数が3で人間が5人だから、3人が座って2人がいすからあぶれる。
 このとき、仮にAさんがいすを取ったとしよう。Aさんは「私は人よりがんばった。だからいすが取れたんだ」と思うかもしれない。そして、Bさんがいすを取れなかったとすると、Bさんは「努力が足りなかった。だから自分の責任だ」と思うかもしれない。
 そして、次のゲームが始まり、今度はAさんがいすからあぶれたとする。そのときAさんは、「今度は失敗した。前とくらべて油断してしまった。だからいすを取れなかったんだ」と思うかもしれない。
 この場合、いすは「仕事」にあたる。仕事がなくなれば、収入がなくなり、いずれは家賃が払えなくなり最後には野宿になる。これは、それほど金持ちではない多くの人にとって普通の話である。
 さて、こうして次々と「いす取りゲーム」をしていく。ここで、かりにゲームの参加者全員が今の100倍の努力をしたとしたらどうなるだろうか。その場合でも、3人しかいすに座れないことには変わりない。では、全員が今の100万倍、あるいは一億倍がんばって走り回ったとしたらどうだろう。誰かがいすを取れば、その分誰かがいすから落ちるだけだから、当然何の変わりもない。つまり、いすを取れるかどうかは「個人の努力の問題」では全くなくて、いすの数と人間の数の問題、つまり「構造的な問題」なのだ。
 90年代から2000年代まで日本の失業率は急激に上がり、2002年には5.4%に達した。これは、いわば人間の数に対していすの数が減ってきた状態である。いすの数が一つ減れば、誰がどう努力しても座れない人が絶対に一人増える。このようにして、いす(仕事)からあぶれ、野宿になる人が増えた。別に「努力の足りない人」や「野宿の好きな人」が日本で突然増えたからではない。


いす取りゲームは、ここでは「就労」の比喩、そして同時に「競争社会」についての比喩として使っている(ネットで検索すればわかるが、よく使われている比喩である)。
例えば、いす取りゲームの譬えは特に「受験競争」について当てはまる。
さらに、ここ数十年については、「学歴が低いと失業率が高い」という事実が知られている。つまり、(受験)競争の敗者が(就労)競争の敗者になりやすい、ということである。近代国家では、「学校」が特に資本主義「企業」への人材育成機関として機能してきたことを考えれば、それは当然の事である。


しかし、実際には「いす取りゲーム」は「競争」の比喩として適切とは言えない。つまり、音楽が止まったときにいすを取り合うあのゲームは、その勝敗をほとんど「偶然」にまかせている。「いすの前で足踏みする」、「人を暴力で押しのけて座る」といった違反行為がなければ、いす取りゲームは体力や学力にほとんど関係しない、むしろ非常に公平なゲームと言える。その意味で、いす取りゲームは「くじ引き」をゲーム化したものに近い。われわれがいす取りゲームをしたとき感じる一種の爽快感は、この「公平」さのためなのだろう。
「競争社会」の比喩としては、本当は「いす取りゲーム」よりも「ビーチフラッグ」の方が適当だろう。後ろ向きに腹這いになり、スタートの合図とともに遠くの旗を取り合うあのゲーム。これは明快に体力の「強い者」が勝つゲームである。しかも、現実社会に当てはめて考えれば、スタート地点自体、すでに格差が作られている。つまり、家庭において「資産」がある、あるいは両親の「学力」が高いこどもが、その後の学力競争に関してかなり有利であることはよく知られている。スタート地点ですでに格差があるわけである。こうして、ある程度以上のスタート格差が生じた場合、不利な立場の者の一定部分は、「競争」を早々とあきらめて「今を楽しむ」方向に向かうことになる。(これは「まったり」とか言われている)。
以上のような事情にもかかわらず「いす取りゲーム」の譬えを使うのは、ひとえにその「わかり易さ」のため、そしてより重要な点として、失業や野宿に陥るのは「たまたま」だったのではないか、何らかの要因がたまたま重なれば誰でもそうなる可能性があったのではないかということを暗示するためである。つまり社会における「偶然」性の問題を示す意味がある。


授業の中で、「仮りに、すべての人が今の100倍努力したとしても、同じ人数がいすを取れないことでは全然変わりがない」と言ったが、いすを取るために「仮に1000倍、100万倍努力」しても、もちろん結果はまったく同じである。結果が同じだとすれば、この「1000倍、100万倍」の努力はまったく「無駄な努力」だったということになる。
とすると、仮に音楽がなかなか止まらなくて、なおかつ参加者が「100万倍の努力」をしていれば、いずれゲームの参加者はばたばたと「過労死」してしまうかもしれない。そして、ゲームは「いすの数」と「人間の数」が同数になるときに終了するだろう。これはブラックジョークではない。現実に、野宿者の多くは仕事を求めても得られず、その結果として野宿に至り、最悪の場合に路上死している。


いす取りゲームの話は、失業率と野宿問題に関する比喩だったが、もちろん「正社員」のいすの取り合いと考えることができる。2003年以降、失業率が改善しているが、これはよく知られているように、そのほとんどが、人権費削減のために多くの企業が正社員数を絞り込んでパート・アルバイトなどの不安定就労層を増やした効果だった。つまり、いす取りゲームは「就労―失業」から「正規雇用―不安定雇用」へとその軸を移動していると考えられる。
2006年6月の朝日新聞のインタビューで竹中大臣が、「不良債権を処理せずに放っておいたら、いま二百数十万人の失業者が、たぶん400万〜500万人になっていた。所得ゼロの人がそれだけいたら、格差はもっと拡大していたでしょう。経済をよくすることは格差を縮めることです。小泉内閣はまさにそれをやったんです」「格差ではなく貧困の議論をすべきです。貧困が一定程度広がったら政策で対応しないといけませんが、社会的に解決しないといけない大問題としての貧困はこの国にはないと思います」と言っていた。
「社会的に解決しないといけない」「貧困はこの国にはない」って!)。
しかし、実は90年代以降のいわゆる「ニューエコノミー」期のアメリカでも、経済成長と失業率の改善が顕著だった。しかし、極限の貧困であるホームレス問題はその中でも進行し続けていた。失業率の「いす取りゲーム」から、正社員と不安定就労層あるいは低所得層の「いす取りゲーム」への軸移動があっただけで、結果として絶対的貧困の問題が解決されたことはない。多分、日本はその方向をまっしぐらに追いかけている。


政府は「再チャレンジ支援」によってフリーターを減らすと言っているが、財界が全体として「不安定雇用層」を増やしている以上、誰かが「チャレンジ」に成功して正社員になれば、当然誰かが正社員になれなくなる。いす取りゲームの構造を変えずに「チャレンジ」を言うのは無意味である。
しかし、「いす取りゲーム」の比喩を使って野宿者の「自業自得論」について触れたとき、生徒の感想には次のようなものもあった。
「でもそのいすにすわれなかった人は、どりょくがたりないと思う。あまった2人は、つぎのいすとりゲームをしたらいいと思う。それでもすわれない人は、ひっしにしてないと思う。人間死ぬきでしたらなんでもできる。人生勝組になる!!」
「自分は、余った人には絶対ならないようにがんばろうと思った」
しかし、こうして競争のゲームに乗っかって「死ぬ気で」「がんばろう」としても、全体の結果は変わらないとすれば、それは無意味かもしれないではないか。そうではなくて、むしろゲームの規則を変えてはどうか、という話がありえるわけである。