| (野宿問題の授業のための) 野宿者がよく言われるセリフ――あなたはどう考える? |
この設問は、もともと野宿問題の授業前に、生徒に対して使うアンケートとして考え出した。
野宿者について生徒がどのような考え方をしているかを探ることを目的の一つにしている。
実際の狙いは、こうした「野宿者が(一般の市民から)よく言われるセリフ」を通して、近代の市民生活を成立させる3つの枠組みを浮かび上がらせることにある。この3つの枠組みが、野宿者に対する偏見・差別の多くを生み出している。
![]()
![]()
| ■野宿者がよく言われるセリフ(あなたはどう考える?) 1・ 公園や路上などの、みんなで使う場所にいるのは迷惑だ。 2・ 仕事をしようともしない。働けばよい。 3・ 努力が足りなかったのではないか。がんばって仕事して貯金していればこんなことにはならなかったのではないか。 4・ 福祉とか、困った人が行くとこがあるのではないか。 5・ 家(実家など)に帰ればいいんじゃないか。 |
■以上の「野宿者がよく言われるセリフ」に対する生徒の反応から、幾つかを抜粋する(この項、随時更新予定)。
最初に断っておくが、実際の解答の多くは「その通り」「そう思う」というものだった。ただ、それらはあまりに内容に乏しいのでここからは除いている。
▼1・公園や路上などの、みんなで使う場所にいるのは迷惑だ。
|
|
2・仕事をしようともしない。働けばよい。
・働いているでっっ。カンあつめたり あれもあつめた分のお金もはいるしあれで生活してる人もいるだろしいいやん!! ・リストラされたりとかショックなでき事があって働く気が起こらないような状態になっていると思います。頑張っていたけどそれが認めてもらえずしつぼうしてしまったりとか… ・何らかの理由で働くことができない人も中にはいるのかもしれない。 ・働こうと思っても働く場所がなかったりする。でも生活に苦労しているのだから少しは働くことも考えた方がいいかもしれないと思う。 ・仕事したくてもできない人もいると思う。 ・働きたくても仕事ないから。 ・空缶をあつめて仕事をしていた。 ・バイトくらいしたらいいと思う。 ・でも、家もなかったら、きれいな服もないし、働こうと思っても、カンカンやダンボールひろいぐらいしかないと思う。 ・でも生きるために働いているからいいと思う。 ・聞いた話によると、仕事がないらしいので仕方ないと思う。労働センター(?)に新聞紙一枚を強いて、寝ているのを見ると、そうとは思わないようになった。 ・生きていくに働くしかないから、働くべきだと思う。 ・働かないと生きられないから働いているだろう。 ・仕事がないという現実があるので、これはどうしようもないのでは。 ・仕事がやりたくてもできないだけである。 ・仕事がない。働こうとはしているが。 ・仕事をしようともしないじゃなくて、仕事がないのよ。 ・仕事をしながら、寝とまりしている人もいると思う。働くといっても、年をある程度とっていれば給料を若い人より高くしなければ、という思いもあって、雇う方も雇いにくくなるんじゃないか? ・働くといっても、する仕事がないのかもしれない。しかし、何もしないよりも、できる最低限のことでいいから、何かするべきだと思う。 ・ホームレスの人でも有力な人がいるはず。もっと能力主義にするべきだ。 ・人から施しを受けるのを待っているだけじゃだめだと思う。 ・したくてもないので仕方がない。失業率6.1%がそれを物語っている。採用法も面接が多いのでまず見た目やりれきを見ただけでおとされる。差別だ! ・今仕事がない人は多いし、しかたない。でも、できるだけ仕事は探してもらいたい。 ・働けばいい。しかし、仕事がないのであればどうしようもない。 ・仕事をしようとしないであんな格好でいられると迷惑だが、この不景気の時代、仕事を見つけるのは難しいのでどうとも言えない。 ・野宿者としての生活が板についている人が多いと思うが、やはり努力し、人生をやり直すべきだと思う。 ・野宿者も今の状況で満足しているわけはないから働こうと思っているはずだが、高齢の場合が多いので、就職先がみつからないため働こうとしても働けないのだと思う。 ・彼らは「仕事がないから」と言うと思う。彼らと、私たちの世界を区別してはいないが、自然に区別されているはず。 ・年齢の問題もあり、働けないということも考えられ、上記の意見には必ずしも賛成しかねるが、それでも何か、公共のボランティア的な職を得ることも可能であると思う。(例えば、交通整理、清掃 その他) ・彼らは日々仕事を捜している。しかし雇う方としてみれば、年齢が若い方が労働力が高いので、年をとるにつれ仕事はなくなっていくのが現状である。やはり彼らに足りなかったのは未来を先読みする能力であろう。 ・仕事があるのなら誰だって働くが、今の景気からしてそれは難しいのではないか。 ・その人だってきっと生きるために苦労しているはずだと思う。だから仕事をしないというのはその人の自由だと思うが、やはり働いた方がいいと思う。 ・不況の波により、仕事が無いのも事実。働こうとしても働く場所がないのに、このセリフはただ単にホームレスの人を不快にさせるだけでしかない。ホームレスの人達は、仕事をしようともしないのではなく、したくても出来ない状態にあると思う。 ・この言葉に間違いは無いでしょう。人間は仕事によって昔から生きてきました。学力の問題ではなく、どれだけ苦い思いをしてでも、能率よく仕事ができるかでしょう。一度ドロップアウトした人でも社会復帰できる社会であることに間違いはないですから。 ・勝手に決めつけられることも腹立たしいことだ。何も考えずにずけずけ言うことは避けるべきだ。 ・確かに今の日本の現状では仕事につくのは難しいかもしれない。でも何もしないより、何かしてみようとするべきだと思う。 ・働かないのではなく、働けないのではないか? ・その気になれば、働けると思う。 ・それぞれ事情があるかもしれないが、働ける人はいるはず。仕事をさがすべきである。 ・「家がないから働けない」という問題があって、そう簡単には職につけない。しかし、その為に支援する所はある。が、せっかく職についても途中でやめる。ここに「甘え」があると思う。 ・働き口がないのが実情。 ・その気になれば仕事も見つかるはずだ。税金をはらっていないホームレスが権利を主張するのはおかしい。 ・ホームレスの方々は普通の仕事をすることができない人は多い。しかし、今の時代、畑仕事等の仕事をすれば最低限の生活は出来る。「ホームレス」は「働け」などといわれるのが嫌であれば、そういった所で働けばよい。 ・カン集めをしている人がいるけど、自分のゴミをあさられるのは気分が悪い。皆がんはって動いていて、時間に追われて生きているのに、逃げているだけだと思う。 ・働ける場所があればいいと思うが、働けてたらとうにホームレスをしていないと思う。 ・仕事をしようと思っている人は沢山いると思います。実際に就職しようと頑張っている人も沢山いる。それなのに社会はホームレスの人をほとんどやとっていないと思う。国や社会は言っている事とやっている事がまったく違うと思います。 |
3・努力が足りなかったのではないか。がんばって仕事して貯金していればこんなことにはならなかったのではないか。
・この言葉はハラタツなー。だって努力してる人もいるやん その中で会社がリストラになったとかあるやん それに今がんばってるからいいやん カンあつめやその人なりに努力してるからその言い方はゆるされへんナー!!! ・自分では人一倍努力していても、それが周囲にはなかなか伝わらず、理解されないという感じがします。努力していても、それを認めてもらえない場合が多いと思います。 ・努力はしていたとしても、もしかしたら会社がつぶれてしまったというのもありえる。でもそこからどのようにして自分で努力するかが大切だと思うけど……。 ・自分の家の事情からもあるから自分だけのせいじゃないと思う。 ・これは思わない。テレビとかでも、「一緒懸命仕事をさがしていた」姿とか見たことがあるから、努力してない人ばかりだとは思わない。 ・そんな事ない。 ・他の原因で野宿している人もいると思う。 ・やる気がないと思う。 ・それは、そう思う。 ・そういう人たちもいると思うがホームレスをしている方が気楽でいいと思ってしている人もいると聞く。 ・その人自身、無器用な人なんだろうと思う。でも仕事は探しているだろうし、努力はしていると思う。 ・失業したときはどうしようもない。 ・人によってはそうかもしれない。 ・そう考えてしまう。仕事が好きだった様子をあまり感じない。 ・結局いいわけしているだけ。 ・そうかもしれないが、そうなってしまったものはしかたがない。終わったことをどうこう言われたくない。 ・仕事とはイストリゲームのようなもので、すわれる人もいればすわれない人もいる。努力が足りないわけではない。わかったようなことをいうのはよくない。 ・今の日本の現状では仕事のない人がどうしてもでてくる社会になっている。そういう人がいて、仕事のある人がいることを忘れてほしくない。確かに努力が足らず職につけない人もいるが、東大出身の人でも職につけない人もいれば中卒で職につける人もいる。 ・努力して貯金があるからといって野宿者にならないという確証がないのだから、この人達も努力していたかもしれないんだから、なんてことをいうのだ! ・「努力が足りなかった」のひとくくりでまとめられないと思う。他の人からの圧力によって、ハジき出された人もいるし、「がんばって仕事をすれば」というけれど、自分がそんなことを言われる立場にいたら… ・頑張って仕事をしてもお金が入らなかったのかもしれない。だから、頑張って仕事して貯金すればよかったんだなどと言うのはよくないことだと思う。 ・頑張って若いうちに勉強して、一流大学にでも入っていれば、何とかなったのではないか。 ・自分が悪いのに世間のせいにして自分を正当化しているだけだ。 ・人間はいつどんな事が分からない。お金がどうこういった問題ではない。明日は我が身だから気をつけなければならない。 ・努力だけではどうにもならないこともある。貯金していても野宿者になってしまう者もいるのでこれには反対。 ・当然その通りである。やとわれる立場にまわってしまったのが悪いのである。やとう側、もしくは、やとわれる立場でも、その後に必要とされる人材になればよかった。 ・不況の時代でだれでもこのような状況になる可能性があるので努力の問題ではない。そして倒産した場合、借金をして返さなければならなかったり、いろいろな理由があるから貯金の問題でもないと思うから誰もこんなことは言えない。 ・特別な事情がある人もいるだろうが、多くは自己の責任の結果のように思われるのでそう思う。 ・もっともな意見だと思う。うまれた時からホームレスではないのだからどこかで自分の責任によって、失敗してこうなったからホームレスは決して被害者とはいえない。 ・過程はもうどうでもよい。本人たちがこんな状況をどう思っているかどうかの問題。 ・ 会社の責任を持つ立場にいた人はともかく、一般社員は職を失っても即、無一文になるということは考えにくく、職のある時分にまっとうな生活を送っていれば野宿ということにはならなかったと考えられ、責任は己の中にあると思う。よって上記の意見に賛成する。 ・努力が足りなかったのではなく、彼らは時代の流れに乗り、橋などを造るための労働となった。ただ彼らに足りなかったのは未来を推測する能力と学問的知識であろう。生まれた家が貧しく、働くことで精一杯だったのなら同情するが、それを原動力に社会的地位の向上を目指さなかったので、尊敬に値しない。 ・それは、今の日本の社会構造が原因なので、当然そういう野宿者は出てくる。貯金したお金も妻や子どもが持って出ていくので、何もなくなってしまう… ・努力してもだめだった人や努力すらできなかった人もいるかもしれない。しかも仕事していて貯金していれば、というのはその人たちの事を下だと決めつけているような気がして納得できない。 ・今は不況の時代であり、努力していても仕事を奪われる可能性があるので、このセリフは間違っている。貯金に関しても銀行の倒産などによって貯金が失われることもある。努力云々ではないと思う。 ・そのような人も一部はいるでしょうが、一生懸命努力して、真面目なばかりに借金をかかえて、ドロップアウトしなければならない人もいたでしょうから、いちがいに努力が足りなかったということは言うべきではないでしょう。 ・何も知らない人に、努力が足りないなどと言われるのは耐えがたい屈辱だと思う。 ・最初はみんな、平等とまではいかなくてもチャンスがあったと思う。努力していればそのチャンスをのがすことはなかったのではないか。 ・そんな努力をしなくても生きていけていた世の中が突然変わったのだから、対応できないのが当たり前。我々もいつ彼らのようなことになるかわからない。彼らはいわゆる犠牲者である。 ・そのとおり! 貯金とかきっちりしていれば、こんなことにならなかった。 ・できない人もいるかもしれないけど、できる人はたくさんいる。自分勝手で公園に住むのは迷惑。 ・それはそうだけど、世の中不景気で、仕方がないといえば仕方が無い。会社を急にリストラされる事は、正直、だれにでも起こりうること。国がもう少し、こういう事情の人を助けたらいと思う。 ・それはその通りである。 ・それをしないということは、たぶんもう生きる楽しみということがないのだと思う。 ・社会的に前に出ようとして失敗した人も多く、他には、バブル崩壊のリストラによる人。どちらも、予期はせぬ事態ではなかっただろうか? ・働くのはみんな同じやから、仕事をさがすべきやと思うし、失業している人も頑張っているから、がんばったらいいと思う。 ・実際にそれがうまくいっていないから、このような事になっているのだと思う。このような事を言っている人自身が同じような状態になったら、同じような事を言われると思います。言われる人の身になる必要があると思う。 |
4・福祉とか、困った人が行くとこがあるのではないか。
・これもいくのにお金いるんちゃうの? ・体に傷害がっあたりとか、あきらかに福祉を必要とする人を優先してしまいがちだからホームレスの人は後回しにされがちだと思います。 ・福祉がどのような対策をとってくれるのか、理解していないから行きにくいのかも。 ・行ってもどんな所かわからないと思う。施設とかに行ってもお金がかかるから行けない人もいると思う。 ・人に頼るのはイヤだとか、施設のことを知らない人もいると思う。 ・人にたよりたくないんじゃないのかな。 ・はずかしくていけないと思う。 ・金がないから行かれない。 ・はいれないと思う。 ・けっきょく、周りも野宿者をつかって金もうけしているからあまり信用できない。 ・国の福祉の対策は、しっかり出来ているのかと思う。入りやすい環境ならば、入っているはず。 ・自分で生活できなければ行くべきだと思う。 ・行政はあてにならない。 ・そういった施設は数がやっぱり少ないのではないかと思う。何かと、いろいろな障害がありそう。 ・人まかせで自分は何もしてないのが現実。 ・良くわからない、面倒な手続きがいるのでは? ・困った人が行くところに全員がいけるわけではない。必ず余りが出る。それに、保険証などがきっといるはずだが、もっていない人もいるる行きたくても、いけない場合がある。 ・そんな所はあてにならないからまだこんなにたくさんの人がいるのだろうが! もっと国は頭を使え。 ・実際そのような施設に受け入れてもらえるのか? 成人が入れるような施設が近くにあるってきいたことがないくらいだから、そのような施設は少ないだろうし、「養われている」っていう思いをしたくない人は多いと思う。 ・本当は行きたい。しかし、何か事情があって行けないのだと思う。だから社会はそれを察し、何かそれに対する対策を講じるべきである。 ・受け入れてもらえるなら、恥ずかしさなどはすてて、素直に入ればいい。 ・そういう所に行かなかったらそういう施設の意味がない。自分のためにも行くべきだ。 ・別に誰でも入れるわけでもない。またセンターに入れても人数制限があるので全員というわけにはいかない。保険証があっても、見た目だけで受けつけてくれない。 ・全くだ。そこに移行としない人の気持ちがわからない。 ・その通りだと思う。しかし、受け入れてもらえないのであればどうしようもない。 ・行ったほうが安全で食べものもあるし衛生的だから行った方がいいと思う。自分のプライドが許さなくてもその方がいいと思う。 ・よく知らないが本人がそう思うならいけばいいと思う。ただその施設の方々へ迷惑をかけぬように精神面での努力が必要だと思う。 ・福祉施設といっても入るためには金がいるかもしれないし無料でひきうけてくれる施設ならそういう人達がすでにたくさん入っていて満員の状態なので入るのも難しいと思う。もっとそういう人達を助ける政治が必要だと思う。 ・福祉はそういう人たちの救済のために作られたのだろうが、実際難しい。解決しないであろう。世界が違うのだから… ・ 行政も全ての野宿者の面倒をみきれる程の余裕があるわけでもないので上記の意見には賛成できない。 ・人数が多すぎて行っても相手にしてもらえないのであろう。役所にだって他にすることがある。まあ、最下層民はいつの時代も必要なのだ。 ・困った人がいくとこがないのではないか。 ・それは僕も思う。なぜそういったところがあるのに利用しないのかと思う。もしかしたら福祉に受け入れてもらえないんじゃないかと思うが、そうだとすると福祉は受け入れる人をえらぶのかと思って腹がたつ。 ・残念ながら、日本はホームレスに関する福祉はそんなにない。このセリフを言うのは、ホームレスという人の存在に関してムチであると言っているようなものだと思う。前に大阪でそういう施設を作ったと聞いたが、まだまだ全国的には少ないのではないかと思う。 ・福祉施設に行くと生活も楽になるでしょう。でも、他人の世話になって生きていくことに、たえることができるでしょうか?今の社会は互いの援助なしにはやっていけません。しかし、自分の力だけで生きていきたいと思うときがやってくるでしょうから、福祉にたよる生き方には賛成できません。 ・一件、何事もうまく穏やかに解決できるようだが、手前勝手で無責任と僕は思う。 ・今、日本にいる野宿者全員をカバーするだけの機能があるとは思えない。それがないから野宿者になったのではないか。 ・社会保障を受けようにも、受け入れてもらえないことが多い。 ・あると思う。 ・その施設が短い期間しかいれないし、お金がかかるのは意味がない。 ・あるけど、その所はすぐ満員になり、職についても、そこは「ご飯も出るし寝られる」という甘えから、いつになっても減らない。 ・福祉施設は確かに横暴だが、根気よく通い詰めてほしい。 ・人に頼るのはよくない。 ・規則がきびしい。最終的には社会復帰を目的としていることが、現実逃避をしている大半のホームレスがいかないと言われているが、そうでないホームレスにもそういう場所がある自体知らない人が多いのでは?と思う。 ・福祉とかに行っても、また公園に帰ってくるから、行っても意味ない。 ・ホームレスなどの人々を積極的に助けようと行動するとこもあるが、現状では、そのほとんどが逆であると思います。 |
5・家(実家など)に帰ればいいんじゃないか。
・かえるのはいやでしょ! なんか…。 ・家が本当になかったり、もしくはぎゃくたいを受けていたりなどの理由で家に帰れない人が多いと思います。 ・家がない、もしくは家に帰りたくないかもしれない。 ・家に帰りたくても帰れない人もいる。 ・家があっても、事情があって帰れない人や、家のない人が多いと思うから、無理な場合もあると思う。 ・帰れる家がないねん! ・みすてられた。 ・帰る家がない。 ・家もない人が多いと思う。 ・帰る家がないとか帰りたくない事があるからなんじゃないのか。 ・各自に理由があるので、それは違うと思う。「炊き出し」の時に話をしたオジサンも、家族はバラバラと言っていた。 ・家族の縁とかの問題があるのでそれは難しいと思う。 ・家はないのでは? ・家があるのであれば、帰ればいいと思う。 ・ないからここにいるだけ。 ・帰る家があればここにはいないだろう。 ・家に帰れない理由がある。野宿をするにはそれなりの理由があるはず。このような質問をするのはおかしい。 ・帰れない理由がある人もいるんだよー。 ・家に帰れるなら帰っているハズ ・帰りたくても帰れない。普通に考えても、人は誰でも暖かい家庭を築きたいと思ってる。それがムリだから、こういう自体になったんなら、家にかわるようなところ、それを何らかの力で手に入れさせてあげたい。 ・家があるならプライドを捨ててでも帰らねば。 ・家に帰ってやり直せるはずだ。 ・人には事情てものがある。家に帰っても嫌な人がいるぐらいだから別に家にこだわらなくてもいいと思う。 ・家がないからしかたないのではないだろうか。 ・帰ればいいと思う。しかし、家がないならどうしようもない。 ・家がないからしかたがない、あったとしてもこんな状態だから帰れない理由も分からなくない。 ・彼らは大人であるのであの年で未だに親を頼るというのは甘い気もするが、これ以上落ちない所まで来てしまっているのだから助けを求めてもいいようにも思う。ただしその後は自立できるよう努力する必要があると思う。 ・こんな状態になったということはよほど大変な事情があるので家がなくなったか、あっても家族にあわせる顔がないのだと思う。経済的に家族と一緒にくらせない状態になっている人達が野宿しているのでそういう人を少なくするためにもっと経済政策が必要だと思う。 ・世界が違ってしまったら、なかなかその壁を突きやぶることは難しい。だから、人間扱いされないと言われるのも無理もない。 ・帰る家があるなら帰るべきであると思う。 ・家がない。そういう人たちの家を作ったり、助けたりするような事を考える人が今の日本には少ない。 ・そもそも家がないから野宿をやっているのに何を言ってるんだろう。むしろ、例え住んでいるのが段ボールでもそこを家と決めれば立派な家だと思う。 帰る家がないからホームレスなのではないか? 帰る場所があっても、帰れないという事情があるという人もいるかもしれない。 ・何らかの理由があって野外生活をなさっているわけですから、家に帰れとは言いにくいですね。家に帰ると身近な者に迷惑をかけるかもしれないと考える方も少なくはないでしょう。どうしても、命にかかわるときだけ真けんに考え、家に帰れるなら、帰れば良いでしょう。 ・人の事情に首をつっこむことはしてはいけないと思う。野宿者だって人だからいたずらにこう言われることは良い気はしない。一番言っていけないことだと思う。 ・あるなら、そこにどんな理由があっても帰るべきだと思う。野宿するよりつらい、ということは考えにくい。でもそれは家があったらの話で、ないならどうしようもないのでは。 ・ないから野宿してるんじゃ… 家に帰って、何がある? ・家がないからホームレス。 ・どんな事情があるにせよ家があるなら帰ったらいいと思う。でも家がないからホームレスだと思う。 ・自分のこのすがたで家に帰れないし、親に会えない。 ・家がない、家に帰れないからホームレスになってしまったのだ。他人事のように言うのは本当によくないと思います。 |
▼
これらのセリフは、野宿者に対して常に言われるものである。
ここでその一つ一つに答えてみよう。
■「1」について。
世の中には大体のところ、路上や公園みたいな、みんなが使う「公有地」か、個人や法人のための「私有地」しかない。確かに、公園が狭くなったり、道が歩きにくくなったりするのは問題ではあるだろう。(一方、「特に迷惑になってない」場合も実際は多い。それでも「迷惑だ」と言う人がいるが、それは「目障りだ」という言葉の言い換えではないかと思う。)
しかし、だからといって「公有地」でない「私有地」で生活していると、今度は「不法侵入」かなんかで訴えられてしまうのだ。要するに、野宿者に対して「みんなで使う場所にいるのは迷惑だ」と言うのは、野宿者に対して「消えてなくなれ」と言っているのと同じである。
それに、阪神淡路大震災の時などもそうだったが、災害に遭った人たちは、とりあえず学校や公民館や公園みたいな「公有地」に避難して被災生活を送っていた。こういう「公有地」が、「野宿」という社会的災害(人災)に対する避難所として使われるのは当然のことだ。「みんなの場所」は、とりわけ「今困っている人」のために使われるべきだからだ。
■「2」■「3」について。
これについては、よく「いす取りゲームとカフカの階段」の比喩を使って答えている。仕事に就けるかどうかは、個人の努力というより、人間の数といすの数の問題、つまり構造的な問題だ。
また、いったん野宿になると、「年齢のために仕事が見つからない」「住所がないとハローワークが相手にしない」「着ていく服がない」「交通費がない」「「敷金・礼金がないので部屋に入れない」「野宿とわかると会社が相手にしてくれない」「就職したとしても、一月先の給料日までの生活費がそもそもない」など多くのハードルがあり、事実上、自力で仕事に就くことが不可能になっている。
■「4」について。
これについては、福祉事務所をはじめとする福祉行政が、特に野宿者に対してどれほど不備で不当なものかを事例を挙げて説明するしかない。一般に、野宿者はどれだけ困窮していても、「働ける」「住居がない」という理由で生活保護受給を拒否されている。
例えば、夜回りで72才の女性野宿者に出会った時、どうすればいいか? ぼくはこういう人と一緒に福祉事務所の釜ヶ崎出張所(市立更正相談所)に行ったことがあるが、福祉の職員は「女性用の施設はない」と言って、この人を何の手だても与えず追い返した。それにしても、こうした厳しい現実は、一般にはほとんど知られていない。
■「5」について。
もちろん、野宿者個々人をとってみれば、家に帰れる人もいるし、また帰った方がいい人もいる。しかし、問題は野宿問題と「家族」問題との関係にある。
野宿問題は主要に「失業」に起因している。だが、例えば沖縄の失業率はヤマト(本土)の2倍であるにもかかわらず、沖縄の野宿者数はきわめて少ない(2000年頃には多分数十人程度)。その理由は、「失業したらヤマトに仕事を探しに行く」こともあるだろうが、とりわけ「家族、親族の絆が強いこと」にあるのではないか。つまり、親族・家族あるいは地域の中で、誰かが困ったら互いに助け合うという精神が強く生き残っているため、誰かが野宿生活に陥るということは少ないのだろう。これに対して、ヤマトではそうした精神が相対的に希薄化している。そしてこの相違は、野宿者の数におそらく相当の影響を持っている。
海外では、例えばイギリス・アメリカの場合、日本以上に家族像が「個人主義」の方向へと変化しているのだろう。つまり、こどもは働くようになったらあとは「困っても自分で何とかする」わけである。このことは若年野宿者数の(日本と比べての)桁違いの多さと明らかに関係している。これに対して、イタリアなどの南欧諸国では、日本と同程度に家族の「相互扶助」が強く残っていることが明らかにされている(エスピン=アンデルセン)。韓国などのアジア諸国でも同様である。これらの「家族像」の相違あるいは変容は、野宿問題全般と強く相関する。
| これら「野宿者がよく言われるセリフ」をよく見てみると、それらが「資本=市場」「国家=行政」「家族=共同体」に対する「思いこみ」の上に立っていることがわかる。 つまり、「仕事をしようともしない(から野宿をするのだ)」という考え方は、「捜せば仕事はあるはずだ」という前提の上でのみ成立する。しかし、失業率がある程度以上増加した場合、「いす取りゲーム」の比喩で明快なように、個人の努力の如何にかかわらず非自発的「失業者」は必ず存在する。そして、失業して収入がなくなれば、いずれは野宿に至るほかはない。 また、「家に帰ればいい」という考え方は、「家族・親族は無条件に相互扶助するものだ」という前提の上でのみ成立する。しかし、世界的に進行する家族像の変容、多様化は、そうした前提を徐々に無効化している。 そして「福祉とか、困った人がいくところがあるんじゃないか」という考え方は、「国家あるいは行政は、生活に困った人に対する社会保障を用意している」という前提の上でのみ成立する。事実、「憲法第25条」と「生活保護法」の存在は、そのことを示しているように見える。しかし、現実の法の「運用」においては、日本はいわゆる先進国の中でも「国家」による生活保障がきわめて弱い(この弱さは、とりわけ野宿問題において集中的に示されている)。 例えば社会保障給付費総額の対国民所得比を国際比較すると、日本は先進諸国に対してきわめて低い水準にあり続けている。一般に、日本の社会保障の特徴は、生活保障が(「国家」によってではなく)「家族」と「会社」によって担われてきた点にあるとされている。 |
▼
つまり、これら「野宿者がよく言われるセリフ」は、「資本=市場」「国家=行政」「家族=共同体」は充分に機能しており、そこでは例えば野宿者を生むような事態は存在しえないはずだという「信念」を語っていると考えられる。「市場の失敗」「国家の失敗」「家族の失敗」などというものは存在しえないわけである。
ほとんど「教会の無謬性」「社会主義国家の無謬性」を思わせるこの種の原理主義が、野宿者への強い偏見と差別を生み出している。
▼
さらに、「公園などの、みんなの使う場所にいるのは迷惑だ」という考え方は、「みんな」という「公共」「社会」は、野宿者のような生活困窮者のために使われるべきではない、という前提の上でのみ成立する。その意味で、それは「強者の論理」であり、ここで言う「みんな」とは(たまたま運の良かった)「強者」のことである。「資本=市場」「国家=行政」「家族」の失敗(あるいは変容)に起因する野宿者は、「みんな」の場、つまり「社会」から排除されるべきだ、ということである。
そこでは、「資本=市場」「国家=行政」「家族」に代わるべき「社会」像は一切考えられていない。
エスピン=アンデルセンの「福祉資本主義の3つの世界」「ポスト工業経済の社会的基礎」や柄谷行人他の「NAM 原理」にある議論だが、近代国家での「共同体」あるいは「(広義の)福祉」のあり方は、「資本=市場」「国家=行政」「家族=民族」の3つの極によって規定されている。 「資本」が「競争」原理によって成立するように、「国家=行政」は税の「再分配」、「家族」は「相互扶助」によって成立している。 |
▼エスピン=アンデルセンの「福祉資本主義の3つの世界」(1990)は、従来は「福祉後進国」→「福祉先進国」という単線ラインで考えられていた福祉国家論を、「資本」「国家」「家族(あるいは同業組合などの共同体)」(それぞれ「自由主義」「社会民主主義」「保守主義」として考察されている)という「3つの世界」の極で捉え直し、各国の社会保障のあり方をこの3つの極によって実証的に位置づけた(「20世紀終盤の社会科学における一つのマイル・ストーンになった」とされる)研究である。「ポスト工業経済の社会的基礎」(1999)は、「福祉資本主義の3つの世界」への批判を受けて、特にジェンダーの視点から「3つの世界」の変容と関係を緻密に捉え直すものになっている。
柄谷行人他の「NAM 原理」(2000)は、「資本=貨幣による交換」国家=収奪の再分配」「ネーション=贈与の互酬性」を近代国家における三位一体として規定し、この3つの極が互いに「補完関係」にあることを示した上で、これら「資本と国家への対抗運動」として「アソシエーション」の原理を提出している。
(ただし、両者の「3つの極」に対する規定は相当に異なっている。)
▼
「資本=市場」「国家=行政」「家族」は、相互補完関係にある。
言い換えれば、それら一つ一つは「不完全」であり、他の極による「補完」が必要である。
それらを「市場の失敗」「国家の失敗」「家族の失敗」として語られることがある。
例えば、介護保険は、高齢者介護という従来は「家族」内部で行われていた「扶助」を、行政と市場(介護サービス事業者)の介入によって補完しようというものである。
富永健一「社会変動の中の福祉国家」より引用。
「これら(ゴールド・プランおよび介護保険制度)は、高齢者の世話は家族がする、という伝統的な通年の通年の消滅が公的に宣言されたことを意味するという点において、福祉国家の歴史上、それが決定的に新たな段階に突入したことを示す重要な出来事である。1980年代の日本は、1973年の「福祉元年」政策が福祉を拡大しすぎたため、石油危機後の高度経済成長の終了とともに財政困難に陥ったのを、下方修正しはじめた時期であった。ゴールド・プランと介護保険制度の発足は、この基本的な流れに逆行する新しい動きの開始を意味している。もちろん、家族は今でも、そうすることが可能である場合には、高齢者の介護をしている。しかし多くの家族にとってそれが困難になった、ということがまさに現在起こりつつある問題なのであり、そのような状況に対処するために、他人であるヘルパーに有料で、しかしながら社会保険による支払いをつうじて、介護をゆだねることが公的に制度化されたのである。」
すでに定着した例で言えば、公立・私立の「保育所」を考えればよい。
▼
だが、それは「失敗」というより、「変容」として捉えるべきものである。
例えば乳幼児保育や高齢者介護が「市場」や「行政」の手にゆだねられる事態は、「家族の失敗」というよりも「家族の変容」として考えるべきものだろう。とりわけ核家族化と女性の就職率の増加によってこれらの事態は起こっている。だが、それ自体は「失敗」と言うべきものではない。
しかもこの「家族の変容」そのものが、「市場」と「行政」の変容と連動せざるをえない。例えば市場と国家は、その新たな市場を開拓し、雇用現状を維持するためには、家族の変容に合わせて様々な「サービス労働」の大幅な増加に取り組まざるをえない。
「資本=市場」「国家=行政」「家族=血縁共同体」は、相互補完関係にある。 しかし、その一つの「失敗」が他の2つによって「補完」されることは必ずしも保証されない。 つまり、「2つの世界」または「3つの世界」がそろって「失敗」する領域が存在しえる。 |
▼
この事態をベン図を使って表してみよう。
それぞれの円は、「国家・行政」の失敗、「資本・市場」の失敗、「家族」の失敗(あるいは変容)を示している。(いわば、それぞれの円は近代国家における「健康で文化的な最低限度の生活」にあいた「穴」である)。
すると、次の図「1」が得られる。
図1

▼
領域「Y」つまり3つの円の外は、仕事があり、行政による生活サービスが充実し、家族の相互扶助が働いている状態である。
領域「X」つまり3つの失敗(変容)の重なった領域は、失業し、行政から放置され、家族の扶助を望めない状態である。野宿者のほとんどはこの状態にある。
▼
では、領域「A」は何か。これは、家族や血縁共同体の相互扶助は機能しているが、「国家の失敗」と「市場の失敗」が重なっている場合である。実例として、ここには「沖縄」があてはまる。
領域「B」は、市場における生活の保障はあるが、「国家の失敗」と「家族の失敗」が重なっている場合である。つまりこの場合、経済は好調で失業率は低いが、「国家」による生活保障は手薄で、家族による相互扶助もあまり機能していない場合である。
具体的には、90年代のアメリカが近いかもしれない(と言っても、当時のアメリカは経済は好調と言われる反面で所得格差は拡大し続けていたのだが)。
領域「C」は、国家による再分配は機能しているが、経済は低調で、家族の相互扶助もあまり機能していない状態である。
具体的には、北欧の幾つかの国家があてはまるかもしれない。
▼
野宿者の他に、バブル期でさえ領域「X」にあてはまる人々がいた。すなわち、外国人労働者である。
日本の経済の好調と賃金の相対的な高さに望みを託した多くの外国人労働者が、特に1980年代に日本に多数やってきた。彼ら、彼女らは、日本の外国人就労問題への排外性の問題もあって、その多くが「不法滞在」という形で建設土木労働、風俗産業に従事せざるをえなかった。暴力飯場に押しこめられたり、不当に低い賃金で働かされるなどなど、悲惨な問題が続出した。
この場合、外国人労働者は、「国家」(外国人であるために)・「家族」(出稼ぎであるために)・「市場」(過酷な中間搾取・ピンハネのために)のいずれについても生活の保障を受けなかった。
1980年代、外国人労働者問題が起こったとき、ただちに寄せ場の労働者たちが「これは自分たちの問題だ」と言って支援活動を開始した事実は、その意味でも重要である。
▼
これら「3つの世界」の「失敗=変容」の穴の大きさは時と共に変化する。
60年代〜80年代の日本の場合、国家による福祉政策は手薄であったが、異例なほどの低失業率と、家族の相互扶助の充実(そのいずれも、専業主婦の存在を前提としていた)によって、野宿者の存在はマイナーな問題にとどまっていた。(女性の野宿者が男性とくらべてきわめて少ない理由は、この点から考えることができる)。
ただ、失業にさらされやすく、家族からも切り離され、国家からも放置されてきた寄せ場の日雇労働者だけが、野宿に至る危険と隣り合わせの状態にあった。事実、当時の野宿者のほとんどすべては日雇労働者だった。
しかし、90年代以降の日本は、経済の不調→失業率の増大と、家族像の大幅な変容とをともに経験してきた。その結果、図2に見られる変化が現れたと考えられる。
図2

▼以上のように、そもそも大きく空いていた「国家=行政の失敗」という「穴」(そもそも日本は「福祉国家」であったのだろうか)に加えて、「市場の失敗」と「家族の失敗」とによる「穴」が拡がった。このため、従来は小さかった領域「X」が図2に見られるように拡大し、その結果として野宿者が激増する事態になったと考えられる。
▼
90年代以降の図1での領域「X」の増大、すなわち野宿者の増大によって、日本は地方都市にいたるまで駅や公園に野宿者があふれ出す有様になった。それまでの「野宿者は目立つ場所から追い出せばそれでいい」という行政の方針は事実上破綻し、なんらかの対策が必要であることが徐々に誰の目にも明らかになってきた。
その意味で、2002年施行の「ホームレス自立支援法」は、国家=行政が野宿者問題の存在をついに公的に認知し、なんらかの対策を明示したという点で歴史的な意義を持っている。ちょうど、2000年にスタートした介護保険制度が、「高齢者介護」を家族のみにゆだねることが不可能であることを公的に認知し、対策を明示したことと似た意味を持つだろう。
▼
ただ、この「ホームレス自立支援法」は、基本的に「自立支援」あるいは「社会復帰」という姿勢、つまり「健全な一般社会からこぼれおちたホームレスを自立させ、社会復帰させる」という発想で一貫している。ここでは社会そのものへの批判も、野宿者を生み出し続けるシステムへの批判も皆無である。
つまり、国家を頂点とする行政は、その「国家」「市場」「家族」の失敗=変容から生まれる野宿の問題を、生活保護法に基づく「行政による生活保証」ではなく、破綻しつつある社会・経済システムへと野宿者をお手軽な形で再び押し込め「復帰」させるという形で対処しようとしている。しかし、その実現可能性は(誰もがそう思うように)きわめて疑わしい。
しかも、本当に「復帰」できれば個々の野宿者にとってはまだマシだろうが、この「ホームレス自立支援法」によって、大量の劣悪「収容施設」を生むだけの可能性が相当に高い。その場合、この法律は「収容と排除」の法として機能する。
▼
事実、1990年以前から考えれば、野宿者をめぐる状況は一変した。
当時の運動は、「最下層の日雇労働者」の場、具体的には新左翼系の「労働運動」だった。一方、医療、福祉などの問題をキリスト者が担っていた。一般の人は相当の覚悟がなければ入ることさえできないような特殊な空間だった。
そして、90年代の野宿者激増によって、野宿問題は、「労働運動」からある種の「マイノリティ問題」へと変わっていった。例えば、日雇労働者として(当事者として)運動していた活動家も、野宿の問題については「支援者」になった。むしろ、それまで寄せ場とは全然関係なかった一般社会の人たちの方が「野宿当事者」になるという、劇的な変化が起こった。
例えば、「ホームレス自立支援法」の「健全な社会からこぼれおちたホームレスを社会復帰させる」という基本的な性質は、寄せ場の運動が先鋭的に持っていた「社会への闘争」という姿勢と完全に相反する。寄せ場・野宿者の運動は、日雇労働者、野宿者に対する社会の不当な差別と闘い、さらには寄せ場という「日本の縮図」から日本社会そのものの構造を撃つというもののはずだった。
そこでは、「国家」「資本」「家族」の矛盾と限界の地点に立って、そこからどのような変革が可能かということが常に問題だった。
▼
現在の野宿者激増は、日本全体の「釜ヶ崎化」「寄せ場化」と言うべきものである。
この事態に対する行政の対策は、「健全な一般社会からこぼれおちたホームレスを自立させ、(野宿者を生み出し続ける)社会へ復帰させる」という「ホームレス自立支援法」の発想で一貫している。
しかし、われわれの取るべき方向はその逆である。つまり、「日本全体の釜ヶ崎化・寄せ場化」を文字通りに実践すること。それは釜ヶ崎・寄せ場で行われた(あるいは「行われるべきだった」)闘争を日本全体に波及させることである。
未完・続く(多分)
■戻る