手紙―紡木たくへの

 


 はじめてお手紙します。
 ぼくは1964年6月生まれで、紡木さんと同年になります。千葉市で生まれて倉敷市で育ちました。「ホットロード」を連載中に読んで感動して、それからずっと紡木さんのまんがを読んできました。
 「ホットロード」を読んだきっかけは、当時大学生だったぼくが家庭教師で教えていた中学3年の女の子でした。そのころ、釜ヶ崎(大阪にある日雇労働者の寄せ場)や野宿者の問題にかかわり始めていたぼくは(山下公園のあたりをご存じだったら、多分「寄せ場」のこともわかりますね!)、そこで通っていた野宿者向けの施設の縁で、この子の家庭教師をやることになりました。
 彼女は、当時で言う「ヤンキー」で、自分で言うところでは「やることはなんでもやった」という子でした。そのときはもう「卒業」して、母親とは事情で別れて父親のところにいて、高校目指して勉強中という時期になっていました。そこで、ぼくにお呼びがかかったわけです。
 家庭教師の最初から、雰囲気がなんかおもしろいやつだなーとは思いました。なげやりなようでいて、言うことが妙に鋭かったりするわけです。なんかのことで描いた絵をみせてもらったら、手のひらから舌が出ているデザインがあったりしました。妙にインパクトがありました。たまに昔の写真なんか見せてもらいましたが、濃ーい化粧をした彼女(なにしろ80年代…)と一緒に車に乗ったハデハデの「彼氏」(17、8だっけ?)が写っていました。これで日本各地を回ったと言っていましたよ。写真では、どこから見ても中学2年や3年には見えなかったです。ついでに言うと、彼女、外見は「ホットロード」1巻の最後にある「リアル和希」にちょっと似ていました。コミックスが出たとき、見て「似てるなー」と感心したくらいです。ぼくは彼女に灰谷健次郎の「兎の眼」をプレゼントしたりしました。活字の本と言えば「小公女」かなんかを1冊しか読んだことしかない、と言っていた彼女も、熱心に読んで「これはおもしろかった」と言っていました。
 その彼女が貸してくれたのが、「ぶーけ」1986年11月号に集中掲載された、当時「別冊マーガレット」に連載中の「ホットロード」でした(当時、「ぶーけ」と「別マ」はこういうこと、よくやってましたね)。コミックスで言えば、第2巻の53ページから第3巻の52ページまででしたね。持って帰ったぼくは、読み始めましたが、最初は絵柄が気にくわなくて(失礼!)乗れませんでした。特に最初は春山の顔がなんか気にくわなかった。でも、読んでいくうちにすっかり引き込まれて、197ページ分を読み終わったときにはひたすら驚いていました。ぼく自身、特に14才の頃に感じていた不安や、孤独や、目的のない破壊的な感覚などが、そこに描き出されていると感じたからです。そういう作品に出会ったことはありませんでした(その後も、そういう思いを強く持ったのは、タイプはちがいますが岡真史の「ぼくは12歳」文庫版に附された中学3年の少女の手紙ぐらいです)。「すごくおもしろかった、これは」と言って返すと、貸してくれた彼女は、「学校へ行くとこ(コミックス3巻)と、家出するとこ(2巻)がよかったやろー」と言っていました。同感でした。ぼくは、それと、春山が「漠統」に殴り込んで、その場面が「完全カット」になって、突然海の光景になる最後のところが印象に残りました。その号の「ぶーけ」はその後、古本で買って今でも持っています。
 それからは、自分で「別冊マーガレット」を買って、「ホットロード」を読み続けました。出ると中学の彼女と「ホットロード」の話をしました。コミックスもしばらくして第1巻が出たので、発売日に買いましたね。今ではコミックス第3巻にある、高津先生と和希が待っているところで、「ママ」が「出かける直前に体の具合が悪くなった」とかで来なかったときの場面を、「これが今月の名場面」と彼女に言ったりしました。それと、ノート1ページ分くらいの「ホットロード」の感想(「ホットロード」論?)を書いて彼女に渡したことなんかを思い出します。やがて彼女は高校にめでたく合格してお別れになり、ぼくは一人で「ホットロード」を読み続けることになります。それと同時に、「ホットロード」の前に出ていた作品も読んでいきました(その中では、ぼくは「これからも ずっと…」が好きです)。そして「ホットロード」は最終回になり、それからしばらくして「瞬きもせず」が始まりました。やがて「瞬きもせず」が長期連載になり、それが1990年まで続き、そして「純」や「かなしみのまち」が始まり…。やがて、紡木さんの作品を目にすることはなくなっていきました。
 今書いてて思い出すんですが、彼女に見せた「ホットロード」についてのノートは、そのとき自分が一番こだわっていたものと、「ホットロード」に描かれたものに共通する何かがある、という直感から書いていたのでした。なぜ、ぼくにとっては「ホットロード」がインパクトのある本だったんでしょう。「ホットロード」の中で鈴木君が言っていますが、「でもボクは和希ちゃんや他の… たとえば暴走族じゃない子たちにも そんな時は一度はきてしまうもんじゃないかって思ってる。」「それは大人にとってはすごくこわいことだし一歩まちがえば大変なことだけれど」「もしかしたら一生のうちで なにも見えないで走ってしまう時は ほんの一瞬かもしれない」。確かに、暴走族じゃないぼくにとっても、「一生のうちでなにも見えないで走ってしまう」「ほんの一瞬」があったからです。ぼくにとってはそれは、特に中学2年の頃、具体的にはつっぱっていた同級生たちとのかかわりでした。ただ、そのとき具体的な何があったかということ以上に、そのころぼくがずっと感じていた焦燥や、絶望や、不安、そして決して到達できない(けれども到達しなければ自分の存在の意義が失われるような)「何か」、そうしたものが一体となった感覚が、死と紙一重な形で自分をつつんでいるように思えていたということです。それは後から振り返れば、「本当の不安」だったり「本当の絶望」だったり「本当の夢」であるように思えました。そしてそのとき自分がいたその世界は、「本当の夜」や「本当の空」、「本当の現実」であるように見えました。「生と死の間」で自分の存在そのものが危うくなる中で、すべての感覚が限界までくる状態と言うべきだったのでしょうか。ただ、それは本当に「ほんの一瞬」の、多分1年にもならないような時間のことでした。
 そういう感覚は、中学3年に上がったときにはもう消え始めていきました。高校に入って以降では、なおさらです。ぼくは、それは自分のエネルギーが、つまり「努力」が足りないためなのかもしれない、と思ったりもしました。何か、それが得られないなら自分の命を捨てた方がよい、というようなものを必死に追っかけていないためではないか、だから「生か死か」という緊張感がなくなってしまったのではないか、ということです。それで、ぼくは15才から21才くらいまでひどくあがいていたんですが、何をどうしてもあの「一瞬」を取り戻すことはできませんでした。そのため、自分にとっての現実の喪失感はどんどん激しくなって、21才の時点で明らかに「このままだったら死ぬ他ない」というところまで来ました。それで、ぼくは貧困の極みでの路上死や、日雇労働という形態のための差別・偏見などの問題を抱える釜ヶ崎に行くようになりました。こうした日本の様々な問題が集中する現実のハードな場所に自ら望んで行ったのは、こういう現実への強い関心と一緒に、その時のぼくにとっては、もう一度あの「一瞬」のように生きるため、という動機が大きく働いていました。
 そしてそれ以来、自分で日雇労働をやりながら、ぼくは日雇労働問題や野宿者問題にかかわり始め、それから16年経った今も同じようにかかわり続けているわけです(とはいえ、寄せ場の活動に長く関わっていると、その人がどういうきっかけで来たかというのは、興味深くはあっても、結果的にはどーでもいいことになってしまいますが)。寄せ場の問題はもちろんハードで、自分のそれまでの生き方や経験を大きく揺さぶられるものでした。それでもその一方で、そういう現実の厳しさが自分の求める「現実感」とはつながらない、という思いも当初はずっと持ち続けていました。そんないろいろなことをやっている間、ぼくは14才のころのことを繰り返し自分の中で振り返っていました。でも、そのたび「これは単なるノスタルジーなんだ、昔を振り返るんじゃなくて今自分がどう生きるかが問題なんだ」と自分に言い聞かせてはいました。けれども、時が経つにつれ、これはどうもそういう問題ではないのかもしれない、とも思うようになってきました。つまり、どれだけ努力しようが、エネルギーをかけむけようが、絶対にあのころのようには生きられない、ということがますます明白になってきたからです。26ぐらいまでには、14才のころ自分に起こったことは、取り返しのつかない何か1回限りのことだったんだ、ということを完全に確信するようになっていました。それは、14前後という段階で一瞬だけ、いわば一瞬の光のようにやってきたものだったので、それをそのあとも実現しようとするのはどうしたって不可能なのかもしれない、と思うようになってきました。ぼくの考えでは、その14前後の極限的な現実感覚を最後まで維持し続けた人に、1943年に34才で死んだシモーヌ・ヴェイユがいます。失業者や下層労働者の苦しみに寄り添うことを至上命題として生き抜いたこの人をめがけてぼくも日本の寄せ場に来たようなものです。けれども、ある時点で、ぼくはこの人とはちがう、つまりこの人のようには生きられないし、そうするつもりもない、ということを実感として思うようになっていました。確かにシモーヌ・ヴェイユはすごいけれども、この人が求め続けた「極限性」は、現実世界の中ではある種のトンチンカンさを生むようになっています。一言で言えば、シモーヌ・ヴェイユには、ある「極限」志向のあまり、現実の社会や他者との関係を見失うことが多々あるのです。そのことを、ぼくは特に寄せ場での差別問題や、後で言いますが「ホットロード」についての文章を書くことから思うようになりました。もちろん、そう言うことは、シモーヌ・ヴェイユを否定することではないし、まして、14の頃の「生と死の間」という感覚を否定することにもなりません。しかし、ぼくの人生そのものを決定づけるようなあの「一瞬」が永遠に取り戻し不可能で、更にそれを何かの形で「延長」していくことが(例えば)シモーヌ・ヴェイユのようになることだとすれば、残る道は何なのかということは、依然として最大の問題でした。
 ぼくが「ホットロード」連載中に中学の彼女に見せたノートは、そのとき自分が一番こだわっていたものと「ホットロード」に描かれたものに共通する何かがあるという直感から書いていた、と言いました。そのときぼくが驚いたのは、自分が感じていたあの「一瞬」の不安や、絶望や、夜がここに、そして同世代によって全面的に描き出されている、ということにありました。そして「ホットロード」を繰り返し読み、そして寄せ場での試行錯誤のうちにぼくが考えるようになったのは、一つは「ホットロード」に自分の持つものと共通する「何か」があるとするなら、それを自分の言葉で「抽象」できる限り「抽象」し尽くして取り出してみよう、ということでした。あの「夜」、あの「空」、あの「現実」としてしか言えないものを、抽象化の結果として結晶化させることができるなら、それは一つの普遍的な思想として、自分にとっての出発点になりえるはずです。そして、これがぼくの「ホットロード」論の出発点になりました。その当時の1990年頃、ぼくは他のすべてをゼロにリセットして、いわば自分の記憶と「ホットロード」だけを頼りに、自分のそれから生きる方向を作り出そうとしていたようなものです。
 そしてもう一つの出発点は、「ホットロード」論を書くその延長に来ました。つまり、「ホットロード」を抽象的に読むこと、例えば「和希たちは、自分が絶対に実現不可能なものに向かって走っている。彼女たちのひたむきさと過激さはそこから来る」、というような読み方は、基本的に、ぼく自身の感覚を他人の作品に当てはめることです。「ホットロード」の多くの読者が「これは私の思いを語ってくれている」「これを読んでわからなければ、わたしの気持ちもわからない」と言ったことは、もちろん当たっているでしょうし、ぼく自身だってそう思っています。けれども、どれだけ「これは自分の思いを代弁してくれている」と思ったとしても、それは「自分」が語っているのではなくちがう人の作品である以上、絶対に「自分の思い」をそのままに語っているわけはありません。というより、そういう読み方を続けていくと、どこかで無理が出てきます。
 具体的には、ぼくはある時、「ホットロード」には一貫して「父親」の姿が欠落していることに気づきました。それは、「たまたま」とか「なんとなく」というようなものではなくて、物語に流れるある痛みとつながっていると感じられるようなものでした。それは、「ホットロード」の後に始まった「瞬きもせず」が、主人公の小浜かよ子が紺野君に「父親の姿を見せようとしない」という話だっただけに、なおさらです。ぼくは、父親を早くになくした知り合いの女性が、父親のことはほとんど口にしないこと、そしてただ一回だけ居酒屋かなんかで父親のことを少し話したとたん、トイレかなんかに立ってその場をはずしてしまったことを印象的に憶えていて、「ホットロード」の父親の欠落に気づいたとき、それを思い出しました。「ホットロード」で起こっていることは、まさにそういうことだと思いました。けれども、この「父親」にかかわる「痛み」の感覚は、ぼくには本当は(想像はできても)自分のこととしては「わからない」ものです。多分、それは「女性にとっての父親」という問題にかかわっていたのでしょうか? そして、それが作品にとって重要な意味を持っているとすれば、「ホットロード」を「自分の思いを代弁する作品」としてではなく、「自分とはちがう他者の作品」として読まなければならないということを意味していました。そうでなければ、それまでぼくがしていたように「ホットロード」を自分の思いだけから読むことにしかなりません。ぼくは、誰かがどれだけ自分と同じ思いを持っているように見えても、あくまで自分とはちがう人間として存在しているという、とても当たり前のことをこのときあらためて発見したようなものです。この時を境に、ぼくはそれまでの「ホットロード」についての文章の内容とスタイルを変え始めました。それは、同時にそれに見合った文体を作り出さなければならないことを意味していました。
 「ホットロード」のための文章を作っていく一方で、自分が14のころに見た「ほんの一瞬」、「ホットロード」がそれをかいま見せる世界が2度と取り返し不可能なものだとすれば、今の自分はどういう世界に生きることになるのかということを、ぼくは考え続けていました。ぼくには、長い間「ホットロード」には人生で経験し得ることの(質的な意味での)「すべて」がそこに描き出されていると思えていました。何をどうしようと、自分にとっての「ほんの一瞬」の経験を越えるものは何もないと思えたからです。にもかかわらず、ぼくがこれからも生きていこうとするなら、どのような生き方が可能なのか? ぼくが考え続けたのは、たとえどれほどそこに「すべて」があると思えるような世界にも、全く別の世界へ通じる転換点があるはずだ、ということでした。
 「ホットロード」の描いた「一瞬」の世界が、そこに戻ることも、そしてその「延長」で生きることも、それを「忘れる」ことも不可能だとすれば、一つの方法は、それを「裏返し」にした世界を作り出すことです。言わば、「ほんの一瞬」の世界が決して触れることのできない領域を、ただしそれと対等な次元で作り出すということです。
 ぼくは、自分の14の頃の経験を自分なりの言葉に抽象化し続けたあと、それを別の世界へ裏返しにする試みを始めました。ぼくは、キリスト者でもないのに中学1年の3学期に新約聖書の「福音書」を読んでショックを受けたんですが、そこには、例えば「もし右の目があなたに罪を犯させるなら、それをえぐり出して投げ捨てなさい。全身が地獄に投げ入れられるよりは、体の一部を失う方が、ましだからである」、「求めなさい。そうすれば与えられるであろう。捜しなさい。そうすれば、見つけるであろう(…)あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちに良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父が、自分に求める者に、良いものは何くださらないことがあるだろうか」みたいな言葉がありました。こうした言葉に14の頃のぼくは心の底から共感していました。これらの言葉は、絶対的な価値への希求と現世的なものへの拒絶でぼくを惹きつけました。ところで、こうした感覚を死ぬまでつきつめたシモーヌ・ヴェイユは、例えば、現実世界では神の救いは決して訪れない、しかしその「神の不在」にこそ「不在の神」としての絶対的な価値を認めなければならない、ということを繰り返し言っています。いわば、ここでは「捜す者は(「見つける」のではなく)見いださない」のです。それはそれで、ある世界観の徹底的なつきつめ方になっています。これに対して、「変身」や「審判」を書いた作家のフランツ・カフカは断片として(シモーヌ・ヴェイユ以前に)こう言っていました。「捜す者は見いださない。捜さない者は見いだされる」。この前半部分は、シモーヌ・ヴェイユが言っていたことと重なります。しかし、後半部分は別のことを言っているように見えます。つまり、シモーヌ・ヴェイユの言うような「神の不在」はありえるとしても、それは「不在の神」へと必ずしも移るのではなくて、むしろ偶発的で予想しなかったような他の人とのつながりへと移行することがありえる、ということだとぼくには読めました。ぼくは、このカフカの発言を一つのヒントにして、あの「ほんの一瞬」とは別の世界の可能性をたどろうとしました。つまり、思考による論理によってもう一つの別の世界を作り、なおかつそれを空中楼閣にしないため、最後に現実世界の一カ所に着地させる、という試みを始めたのです。
 その文章は「ホットロード」論と同時進行していました。「ホットロード」論の方は、書く内容自体は最初からいろいろありましたが、実際にそれを文章にする作業でエネルギーと時間を費やし続けました。単に個人的な「感想」でもなく、かといって客観的な「研究」でもなく、「ホットロード」について考え、思ったことを、作品とのかかわりの中でどう「形にするか」ということが、実際にやってみるととんでもなく難かしいことに感じられました。実際、情けない話、書いている途中で何度も「生まれ変わりでもしないと書き終えられない」と思ったりしました。それでも、「ホットロード」のための文章は書き始めてから8年たった(!)1998年になってようやくほぼ終了し、それに続いて自分自身の文章もその次の年に書き終えました。そして、この2つの文章を書き終えたとき、実感として、10代の半ばからの長い年月にわたる「何かが終わった」という思いをしました。それは、15才の時から感じていた現実の喪失感は自分にとって問題としては消え、「今」という時点をあらためて普通に生きることができるという感覚でした。つまり、何をしていてもあの「ほんの一瞬」を振り返ってしまうような生き方、例えば「ホットロード」のことを考えると、どうすればいいのかわからなくなっておたおたしてしまうような生き方から、「今」を生きる普通の生き方へ戻ることができたということです(あまりに長い間耐え続けていたので、そういうことが本当に実現できるかどうか、自分でも半信半疑になっていたぐらいでしたが)。いずれにしても、これはぼくの転機でした。それは、いわばそれまでとは「世界がちがって見える」という実感でもありました。それは、ほとんど言葉では言い尽くせないような経験なのです。この「ホットロード」論じゃない方の(「c.s.l.g」という)文章は、その後、短縮して投稿したものが運よく文芸誌の評論の新人賞をとって掲載されました(「群像」2000年6月号)。授賞式など型どおりのことをしながら、ぼくは、自分の人生の転換点が「賞」という形で公に認められたことに、不思議な思いをしていました。
 こんなことをこうして書いてきたのは、「ホットロード」がぼくにとってどういう意味を持っていたかを、紡木さんになんとか伝えたかったからです。実際、もし「ホットロード」がなかったら、間違いなくぼくの人生は全然ちがうものになっていたでしょう。あんまりその意味が大きすぎて、「ホットロード」がない場合の自分が想像がつかないほどです。事実、今この手紙を書きながら、その内容が自分の人生の「大部分のまとめ」になってしまっていることにあらためて驚くのです。まとめてしまえば、すごく簡単な、つまりは貧相な人生のようです。けれども、他の道はまったく不可能である以上、ぼくには存在しなかったものです。たいていの人は、14前後のことなんかは「懐かしい思い出」か「めったに思い出しもしないこと」にして、どんどん先に進んで生きていくように見えます。しかし、そういう生き方は、ぼくにはおとぎ話やSFみたいに想像できないものでした。それでも、いろんな人生がある中で、自分の人生がこういうものであることに、「なぜ?」という不思議な思いは消えることがありません。特に、「ホットロード」が自分にとってこれだけ大きな意味を持ち続けることには、今でも「なぜ?」という思いを持ちます。
 インターネットで、たまに紡木たくファンの掲示板を見るんですが、紡木さんの作品について、いまでも10代の読者が「感動しました」と書き込みをしていきますね。「(今と違って)スカート長い!」とか言われてますが、「ホットロード」や「瞬きもせず」が、時代を徐々に違えながら、読者を感動させ続けているのは確かなようです。 一方で、ぼくと同世代かもう少し下の人たち(「娘が5才で…」とか)は、一様に「リアルタイムで読んでいたけど、久しぶりに押入から出して読んで懐かしかった」というように言います。すでに「ホットロード」終了から15年が経っているのだから、それも当然でしょうか。けれども、ぼくにとっては、特に「ホットロード」は今も懐かしい作品とかでなく、現在進行の形で存在している作品です。それは、先に言ったように、「ほんの一瞬」の世界が「決して触れることのできない領域を、ただしそれと対等な次元で作り出す」ことが、ぼくにとっていまだに課題であるためでしょうか。その一部は「c.s.l.g」という文章で実現できたとしても、一つにはそれが出発点にすぎないという気がするからです。今もぼくにとって「ホットロード」は、どうにかして自分がそれに匹敵する世界を作り出さなければならない、そういう意味で最大のライバルなのです。そのためにぼくは、今いる場所から、自分の世界を切り開けるだけ切り開いていこうとするでしょう。
 この間も、「ホットロード」のための文章の直しを寝る前までやっていたら、頭の中が興奮して、11時過ぎに寝たのに朝の3時に目が醒めました。そしてそれから2時間かけて、久しぶりに「ホットロード」全巻を続けて読みました。そのとき、あらためて、この物語の広がりと豊かさに感動しました。この中には、完全に完成された一つの世界が描ききられている、という思いでした。そして、こういった作品を描き切ることのできた作者の存在を考えざるをえませんでした。そして、それと同時に自分の「ホットロード」論の貧しさも。
 けれども、この手紙に同封して、「ホットロード」のための文章をお送りします。いろんな意味で恥ずかしいんですが(特に作者に送るとは!)、ぼくが「ホットロード」からもらったものへの限りなくわずかな反応として、お送りさせてください。全部読んでなんてとても言えませんが、もしよろしかったら、失礼なところもあるかもしれませんが、拾い読みでもしてみてください。
 この15年間、何度か手紙を出そう、いつか出そうと思って、今初めて実際に書き、ここまできました。まんがの中で、書くべき事を描ききってしまったとよく言われる紡木さんは、今どういう暮らしをしておられるのでしょう。紡木さんと同世代であるぼくたちは、「ホットロード」の和希のママがそうだった35才さえとっくに越えてしまいました。それを考えれば、無限のように長い時間が経ってしまったような気もします。
 一人の同世代の熱心な読者として、紡木さんの健康と幸せな暮らしとを願っています。どうかお元気で。
さようなら。


5.10投函
 

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