再び・
ここで「カフカの階段」にもう一度戻ってみよう。
階段の上の部分を指して、「ところで、ここでは何をやっているのかな?」とある。
ところで、「階段の上では何をやっているのかな?」
普通の答えは、「仕事と家のある元の生活」だ。
しかし、ここでの答えは「上ではいす取りゲームが行われている」というものだ。
「いす取りゲーム」+「カフカの階段」、これが現在の日本の就労と野宿の現状である
「カフカの階段」の比喩を最初に使ったのは、2001年11月の大阪YMCA国際専門学校・国際高等課程での授業「野宿者の将来と若者」でだった。
この授業でここまで説明したとき、一人の生徒が(「Affluent society」を書いた生徒!)、「でも、階段を上がってもまたいす取りゲームになるんだったら意味ないじゃない」と言った。
ぼくは「まさにそうなんでね、一人階段を上がればその代わりに一人が落ちる、つまり失業するんだとしたら、こうやって段差を作っても本質的な解決にならないのかもしれません」と言った。
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もちろん、これはおおざっぱな話で、現実には誰かが一人就職したら他の一人が失業するわけではない。また、なんらかの職業訓練によって、従来は人手のなかった職種に野宿者などが進出できれば、それはいわゆる摩擦的失業の解消であって、望まれるべき解決となるだろう。
しかし、ここで言うのはマクロな視点から見た話である。つまり、現在、日本にいる数百万人の失業者がただちにどこかに就職できるような状況は全 くない。つまり、それだけの人数が階段を上がれば大体同数が階段から落ちる他ない。これは、もちろん「正規雇用と不安定就労」の「いす取りゲーム」についても当てはまる。
そうした「いす取りゲーム」状態の中では、壁に段差を作る支援を行なっても、それだけでは本質的な解決にならないのではないだろうか。
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だとすれば、問題は「いす取りゲーム」の規則そのものを変える、という方向になるだろう。
競争のゲームに乗っかって「死ぬ気で」「がんばろう」としても、全体の結果は変わらないとすれば、それは無意味である。むしろゲームの規則そのものを変えることができるのではないか。
いす取りゲームをいかに変えていくべきか
「いす取りゲーム」を前提とする限り、解決策は通常、以下の3つしかない。
「1」・人を減らす。
「2」・いすを増やす。
「3」・いすを分け合う。
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シンプルに考えれば、この3つの方法しかありえないことは自明である。
まず、「1」の「人を減らす」は無理。(ただし、数十年のちには、少子高齢化のために日本全体として「人手不足」になることが確実視されている)。
「2」の「いすを増やす」は、仕事を増やすことであり、具体的には、「景気の回復」、(特に野宿者のための)「公的就労の拡大」、「社会的起業」などが考えられる。
「3」の「いすを分け合う」は、ワークシェアリングである。
ゲームはその性質によって2種類に分類することができる。「競争ゲーム」と「協力ゲーム」とである。
「競争ゲーム」は、相手を負かすことを目的に行うゲームであり、例としては「テニス」「チェス」「サッカー」そして「いす取りゲーム」などがある。
「協力ゲーム」は、参加者が協力し合って結果を求めるゲームであり、例えば「蹴鞠」「伝言ゲーム」などがある。
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上の「競争ゲーム」「協力ゲーム」の議論は、アルフィ・コーンの「競争社会をこえて」などを参照している。
ただし、このゲームの2つの種類分けは実際にはなかなか微妙である。例えば、「チェス」や「テニス」のようなゲームでさえ、典型的な「競争ゲーム」の面と 同時に、プレーヤーどうしの「協力」によって創造的な「棋譜」「試合」を作り出す、という「協力ゲーム」の面を持っている。
また、「野球」「サッカー」「リレー」のような競技の場合、チーム内では「協力ゲーム」を行い、チーム間では「競争ゲーム」を行う、という複合ゲームと言える。
ついでながら、「競争ゲーム」の例はいくらでも出せるが、「協力ゲーム」の例はなかなか出てこないだろう。
「いすを分け合う」ワークシェアリングは「協力ゲーム」の一種である。それは、「いす取りゲーム」と同じ条件の中で、異なる「ゲームの規則」を導入することによって成立する。
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「いすを分け合う」ことの利点は、参加者がいすを求めて「100倍、1000倍」の努力を払うような無駄な努力をせずに、全員があっさり(譲り合って)座ることができるということにある。「必ず何人かがいすからあぶれる」という不公平さは、これによって解消される。
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ワークシェアリングを導入し成功した例としては、オランダが知られている。「オランダ・モデル」として知られるこのシステムは、社会保険などのセーフティ ネットの完備したフルタイムの「正社員」と、セーフティネットが不完全で、短時間労働の「パート」という区分を「政府・労働者・使用者」の協力の下に解消 し、多様な就労スタイルを実現することによって、失業率の大幅な低下と経済成長を実現させた。
この対極は、「(自由)競争」のもとで貧富の差が昂進し続けるアメリカ・モデルと言える。
むしろ、自由競争に基づくグローバリズムの中で南北問題が激化し続けるこの世界そのものがそうだ、というべきだろうか。
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ただし、「協力」が「競争」とくらべて倫理的に優越するものかどうかは疑問である。むしろ、その二つは互いに「補完」関係にあるものと言うべきかもしれない。
エスピン=アンデルセンの「福祉資本主義の3つの世界」「ポスト工業経済の社会的基礎」や柄谷行人他の「NAM 原理」にある議論だが、近代国家における 「共同体」あるいは「(広義の)福祉」のあり方は、「資本」「国家」「家族=民族」の3つの極によって規定されている。「資本」が競争原理によって成立す るとすれば、「国家」は税の「再分配」、「家族」は「相互扶助」によって成立している。「再分配」と「相互扶助」が一種の「協力ゲーム」であることは疑問 の余地がない。しかし、それは「資本」に対して優越する価値を持つのだろうか?
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そして、ワークシェアリングは失業問題に対して決定的な「解」なのだろうか?
ワークシェアリングは「いす取りゲーム」の中でのいすの「わかちあい」と喩えることができる。だが、この競争原理に基づく「いす」自体が、日本の市場経済 内部のものでしかない。つまり、その中で「わかちあい」をいくらしても、原理的に何も変わらない。つまり、ワークシェアリングは日本経済内部での「当座」 の「局地的」な解決策にすぎない。
この「当座の」「局所的な」解と同時に、そうではない「永続的」で「グローバル」な解、少なくとも「中期的」で「対外的」な解が必要なのである。
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事実、フリーターによるワークシェアリング待望論は、「自分の今の生活スタイルを守る」ものとして言われることがある。だが、むしろワークシェアリング は、従来の「国家」「資本」「家族」の前提の上に成り立ったその「生活スタイル」をうち破り、様々な他者とつながり、新しい社会スタイルを作っていく、よ り広い「協力ゲーム」へのきっかけの一つであるべきなのではないだろうか。
なぜなら、第一にその守るべき「自分の生活スタイル」は、資本による世界的な南北格差と環境破壊の上に立って作られている。そして、「自分の生活スタイルを守る」ことは、あくまでその衣食住足りた狭い社会での後ろ向きな現状肯定でしかないように見える。
現状の世界への批判と変化の展望を持てない限り、従来の「国家」「資本」「家族」に依存した上で「自分のため」だけに働くという生活スタイルは保守化し、 退嬰化することになるだろう。つまり、「競争原理に基づく資本への抵抗」は、「質的、量的にグローバルなわかちあい=協力ゲーム」にまでいくべきではない だろうか。
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「競争ゲーム」への抵抗としての「協力ゲーム」は、「国家」「市場」「家族」内部のゲームではなく、それら「ゲームの規則」の存在しない者どうしの「協力」でなければならないだろう。それは、いわば国家、資本、家族への「闘争としての協力ゲーム」(=共同闘争)となる。
それは、従来の「国家」「資本」「家族」のゲームの規則からは互いに不整合で異質とされていた者同士が結びつく「共闘」となる。とりあえずは、それを日本 経済内部での「シェアリング=わかちあい」から、質的、量的により「広い」グローバルな闘争としての「わかちあい=協力ゲーム」へと言ってもよい。
この闘争に、日本内部の「南北問題」である野宿者問題が含まれることは言うまでもない。
▼この点については、ここではこれ以上は触れられない。「フリーター≒ニートひきこもり≒ホームレス――ポスト工業化日本社会の若年労働・家族・ジェンダー」(「フリーターズフリー」創刊号)で扱っているので、そちらを参照していただきたい。