佐藤豊さんへの追悼

野宿者ネットワークの夜まわりや夏のつどいなどに参加してくれていた佐藤豊さんが8月6日に亡くなられました。突然のことに、佐藤さんを知っている全員が驚きました。今回、何人かで佐藤さんの思い出を書きました。佐藤さん、ありがとうございました、おつかれさまでした。

▼生田武志

 野宿者ネットワークの夜まわりや夏のつどいなどに参加してくれていた佐藤豊さんが8月6日、亡くなりました。亡くなった翌日、佐藤さんが通っていたのぞみ作業所の堀川さんから連絡があり、突然の話に驚きました。堀川さんの話では、アパートから「火が出ている」と作業所に連絡が入り、すぐに部屋にかけつけましたが、部屋は煙でいっぱいで、佐藤さんに声をかけて足をひっぱっても反応がなく、堀川さん自身が危険な状態になったので、やむなく離れざるをえなかったそうです。
 その後、遺族の動きなどを待って、9月5日にお通夜、6日に葬儀がのぞみ作業所で行なわれ、多くの人が参列してお別れをしました。
 佐藤さんは野宿者ネットワークが夜まわりしている日本橋の道具屋筋で長年野宿をしていました。いまでは道具屋筋は数人しか野宿していませんが、その頃は十数人がいつも野宿していて、佐藤さんは通りの一番南でいつも寝ていました。そのころは顔中ヒゲで、佐藤さんというと、その後のヒゲを剃った顔より、その頃の印象が強いです。
 夜まわりで道具屋筋に行くと、佐藤さんはいつも起きていて、機嫌良く挨拶してくれました。時々、缶コーヒーなどの飲み物を、夜まわりに来る参加者4〜5人分用意して待ってくれました。野宿の人からものをもらうことは時々ありますが、佐藤さんはたびたびそうして飲み物を用意してくれて、ぼくたちは恐縮してしまいました。それで、ごちそうになったあと、近所でたこ焼きを買って差し入れしたこともあります。
 佐藤さんは当時アルミ缶を集めて生活していたはずですが、話をしていると、体調が悪く、野宿生活がしんどいという話を時々していました。ぼくたちが、「生活保護を受けてアパートに入りませんか」と何度も声をかけましたが、佐藤さんは「まだいける」と答えて、夏も冬も数年間その状態が続いていました。
 佐藤さんが生活保護を申請したのは、そのころ日本橋を夜まわりで回っていた医師の矢島さんがずっと声をかけ続けていたからです。あとで佐藤さんがよく言っていましたが、「あんなに親身になって声をかけてもらっていたら、断われなくなるわ」。そして、佐藤さんは釜ヶ崎のすぐそばのアパートで暮らし始め、それから夜まわりなどの活動や、生活保護を受けている当事者の寄り合いに参加してくれるようになりました。野宿からアパートに入って、活動に参加してくれる人はそれほどいません。佐藤さんは今度は元野宿当事者として夜まわりで声をかける側になりましたが、野宿している人たちとの信頼関係を作る上でとてもありがたいことでした。
 そして、佐藤さんは、野宿者ネットワークと夜まわりを月に一度一緒にしている山王こどもセンターにも行って、こどもたちの行事の手伝いにも行くようになりました。山王こどもセンターにも、よく保護費からお菓子を買って持って行っていました。保護費ではギリギリなので、夜まわりの時に飲み物をおごってもらっていたときと同じように、ぼくたちは「自分の生活が第一だから無理しないでね」とたびたび言ったものです。
 しかし、アパートに入ってから、どちらかと言うと佐藤さんの体調は悪くなっていくように見えました。他の人にもありますが、野宿している時の方が元気で、生活保護になってから、あちこち調子が悪くなっていくように見えます。野宿していた時に無理を重ねていたものが、アパートでの生活が落ち着いてから一気に出てくる、という面があるのかもしれません。
 野宿のときから佐藤さんはアルコール依存を抱えていて、断酒会にも通っていましたが、あるとき、アパートの2階から飛び出して救急搬送されました。あとで聞くと、幻覚を見たということです。お見舞いに行った時はかなり回復していましたが、「わざわざ遠くまで来てもらってすみません」とすっかり恐縮していました。この時の入院は数ヶ月かかりました。
 この間、佐藤さんにとって一番ショックだったのは、矢島さんが突然亡くなったことだと思います。何度か、矢島さんについての取材をテレビなどで受けたとき、直接関わった人として、佐藤さんに「矢島さんのことを話してもらえませんか」とお願いしました。野宿していたことをテレビなどで話すことはかなりの決断があったと思いますが、佐藤さんは撮影の取材をOKして、道具屋筋などの現場で、ぼくと一緒にテレビカメラの前で矢島さんとの関わりを話してくれました。
 佐藤さんが亡くなったのは8月6日月曜日の朝ですが、佐藤さんは直前の土曜日の夜まわり、日曜日の生活保護受給者の「寄り合い」にも来ていました。土曜日はかなり調子が悪く、言葉がよく聞き取れない状態で、「無理しないで、きつかったら休んで」と言いましたが、それでもやはり夜まわりをしていました。しかし、日曜昼の寄り合いでは、調子が戻っていたようです。体調には波があったようです。亡くなった原因はタバコの不始末と言われていますが、もしかしたら、そのときも体調がかなり悪くて朦朧としていたのかもしれません。
 釜ヶ崎で多くの知り合いが亡くなっていきましたが、その中でも佐藤さんの死は、あまりに突然のことで残念でなりません。もう少し、一緒にいられればよかったと感じています。
(サンケイ新聞より) 西成でアパート火災、男性が死亡 大阪 
 6日午前9時40分ごろ、大阪市西成区花園北のアパート3階の無職、佐藤豊さん(64)方付近から出火。同室を全焼し、焼け跡から男性の遺体が発見された。西成署は、亡くなったのは佐藤さんとみて身元確認を進めるとともに、出火原因を調べている。 
同署によると、佐藤さんは1人暮らし。アパート住人が佐藤さん方から煙が出ているのを見つけ、佐藤さんのケアを担当している社会福祉法人の男性職員(34)らが駆けつけて119番。この職員と住人の50代男性の2人が煙を吸って病院に搬送されたが、いずれも軽症とみられる。

▼前田

佐藤さんは、矢島さんが亡くなってからも、恩返しをしたいという強い思いから夜回り(山王コース)を続けていた。
元気だった頃は、集約の場で自らの体験談をリアルに語っていた。リアル過ぎて初めての人はドン引きするのでは、と内心ヒヤヒヤした時もあった。
体調を崩し、入院したが、再び夜回りに復帰し、しばらくは以前のように仲間たちに声をかけていたが、体調が悪くなってからは、山王コースが終了した段階で帰ってもらっていた。
その後だんだん歩くペースが遅くなり、その度に「無理はしないで下さい」と声をかけていたが頑固な性格でなかなか聞き入れてはもらえなかった。しかし、自分から「調子が悪いから休む」と言ってきた頃からかなり肉体的にも精神的にも悪化していたのだろう。
亡くなる直前の夜回りでは、蚊取り線香が欲しいという仲間がいて、佐藤さんが明日持ってくると約束していた。次の夜回りでその仲間から「どうなってるんだ!」とおかんむりの様子。当の佐藤さんはキョトンとしていた。よくよく訳を聞いたら、前述のようなやり取りがあったという。
後で判明したのだが、その頃既に佐藤さんは記憶障害もかなり進行していて自分で言ったことも数時間後には記憶からすっぽりと抜け落ちている状態だったという。(蚊取り線香は火を使うので危険と判断して、火も電気も使わないものが家に2台あったので1台をその仲間に渡し、事なきを得た。)
佐藤さんの状態がそこまで悪化していたということを知らなかったとはいえ、今から思い起こせば端々にシグナルが点滅していたように思える。それに気がつかなかったのが、とても悔やまれる。
佐藤さん、向こうで直接恩人の矢島さんに思う存分恩返し(逆に世話を焼かすかな?)して下さい。

▼佐藤さんを偲んで 梅田

 佐藤さんと初めて会ったのは、2009年の4月の夜回りからだったと思う。初めての活動の時に、夜回りに誘ってくれた私の知り合いに、佐藤さんは大声で「ヨ!ヒッサシブリヤナー!」と大声をかけ、「今、のぞみでさおり織りやってるんや! 皆遅いんや! 俺は速いんやどな!」と自慢げに話していた。やたら威勢のいい人だなというのが私の佐藤さんの第一印象だった。佐藤さんが野宿の後、アパートに住むようになり、今は野宿の人の支援の活動をしているということもその時に知り合いから聞いた。夜回り活動では佐藤さんと同じコースになることが多かった私は、佐藤さんの熱心さに脱帽するばかりだった。ポケットにはいつも薬を忍ばせ、風邪はひいていないか、困ったことはないか、威勢のいい佐藤さんとは別人で、とても謙虚に静かに話しかけていた。また、その頃の佐藤さんは夜回り同様に、仕事にも意欲的で、始めたばかりのビルの清掃を徐々に回数や時間を増やしていこうとしていて、がんばりすぎて身体を壊さないか周りが心配するくらいだった。

 佐藤さんには、大好きな大尊敬する大恩人の矢島先生と一緒に夜回り活動する至福の時があったから、彼は孤独にならずに自分のがんばりを楽しめたのだと思う。「佐藤さん!タバコの吸いすぎには気をつけてね」と忠告される時も、緊張しつつ嬉しそうだった。でも、たまに「矢島先生の前では、吸ってないのになんでばれるんやろ?」と私に不思議そうにこぼす、いつもタバコ臭い無邪気な人だった。
 夜回りのときの佐藤さんは、矢島先生の前では小さな子どものようで、先生が亡くなられてから、佐藤さんのポケットにはいつも矢島先生の写真が入っていて、ポケットから写真を出しながら、「『佐藤さん、ちゃんとしてる?』っていっつも言われてるみたいで、俺気ィ使うんや」とこぼすので、私が「そんなに肌身離さず持ってるからや」と言うと佐藤さんは「ポケットだけちゃう、家に帰って、ドアを開ければ前に、テレビを見たら上に、目が覚めたら天井にあるんや、もうたまらんで!」とぼやいた。佐藤さんの苦悩も全く考えず、私はその時「そら、あかんわ。」と冷たく言い放っただけだった。

 その後、軟弱な私の夜回り参加は激減し、久しぶりに会うごとに佐藤さんの体力は目に見えて衰え始め、昨年は長い入院生活を送ることになった。一度お見舞いに行った時に佐藤さんは、開口一番「今、これ作ってんねん!簡単や。」と首にも腕にもジャラジャラとビーズのアクセサリーをつけ、「やるわ。」と気前よくくれ、コーヒーまでご馳走してくれ、上機嫌でたくさんのおしゃべりをしてくれた。以前の威勢のよい佐藤さんに戻ったようで、すぐにも退院と私は思ったが、退院はずいぶん後になった。

 「ヨ!うめだはん!」と肩を叩かれ、振り向くと佐藤さん、「いつ退院したん?」「今日!」「体調は?」「まあまあやな。」そんな短い会話を交わした昨年の8月の夏祭り。

そして、今年の夏祭り、佐藤さんはいなくなった。

恐ろしく長く、恐ろしく空虚であっただろう佐藤さんのこの一年、その深い孤独を一瞬も気づかずに淡々と過ごしていた私。いや、佐藤さんは誰にも気づかせなかったのだと思う。
心から敬意を表し、天国に向かって「佐藤さんどうしてる?」って話しかけると、「まあまあやな。」と声が聞こえてくる。

▼矢島晶子

佐藤豊さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます
私の娘祥子は、生前毎土曜日、佐藤さんと同じコースを夜回りしていました。
私は、今年の春に同じコースを佐藤さんと回らせていただきました。
痩せて体調は万全ではありませんでしたが、初心者である私を気遣って下さり、終了後は祥子が生前住み、今は私達家族の住む家の近く迄送ってくださいました。
多弁ではなかったけれど、優しい心遣いの人でした。
「矢島祥子先生は私にとって家族以上でした。」と繰り返し私に話してくださいました。
私は『佐藤さんは「死ぬ迄釜で生きる」と言っていた祥子の釜の大切な家族だった。』と思っています。
死後早期から、「矢島先生は自死していない」と声を上げ、経済生活が厳しいなかでも、『医師矢島祥子先生と時間を共有する集い』の仲間として共に歩んでくださいました。
いま天上で祥子と再会しているのかもしれません。
「みんなしっかり生きて!」と地上の私達に呼びかけているかもしれません。
佐藤豊さんの死について様々な事が語られていますが、今は見えない、佐藤さんが生きた真実の証をこれからも探し見届けたいです。
天上でも地上でも、祥子と佐藤豊さんは共にいます。
合掌

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