夜回り報告



 野宿者ネットワークは、毎週土曜日午後7:30にふるさとの家に集まり、8:00にそれぞれ分かれて、釜ヶ崎の周辺部を夜回りしている。大きくは、日本橋でんでんタウン、心斎橋筋、アベノ・天王寺周辺の3コースですが、日本橋は堺筋を挟んで東西2コース、心斎橋筋は長堀通りを挟んで南北2コースにそれぞれ分かれ、合計5コースになる。日本橋は東西それぞれ表通りと裏通りに分かれるため、厳密には7コースある。
 夜回りは、時々路上版ビラを渡し、襲撃の有無を尋ね、医療・生活相談・炊き出し・反失連情報を仲間に伝え、話込みで仲間とのつながりを大切にしている。97年以来、事情があって中止せざるをえない日を除き基本的には毎週廻っている。(越冬期間一12月25日から1月10日一は越冬実の夜回りに合わせて3日に1回、午後10時から廻る)


日本橋東側夜回りに見られる野宿する仲間の状況変化


 日本橋東側の過去3年の野宿する仲間の数に焦点を当てて、状況変化を概略的に紹介したい。

 97年の状況一公園や高速下で次第に増加

 97年夏、私が夜回りを始めた頃は、東側の3つの公園(日本橋公園、日東公園、愛染公園)には、夏場にダンボールを敷いて寝る仲間を除いてテントは皆無か、数えるほどしかなかった。
逆に、堺筋本通りのアーケードのある部分には、60-80名の仲間がダンボールで囲って野宿していた。阪神高速高架下部分も当時は20名の仲間がテント.で生活しているぐらいだった。
 しかし、秋頃から、日本橋公園や高速下にテントを張る仲間が次第に増えていった。目本橋公園に恒常的に20テントが並び、高速下も3040テントに増えていった。(日本橋公園はこの年の冬ころから現在に至るまで、顔ぶれは多少変化しているが、20-25テントぐらいにテントの数は定着している。)
 この当時はまだ、夜回りしている東側全体でも野宿している仲間は120-150名ぐらいだった。
 97-98越冬期は、本通りの仲間が15名ぐらいに減り、40-50名が南港臨泊に入所したと推測される。他方、公園や高速下でテントを張る仲間の数はほとんど変化なく、テントの仲間は南港臨泊にほとんど行かないことがわかる。
これはその後の越冬期においても同じ傾向である。当時、越冬期は東側全体でも100名前後であった。

98年の状況一堺筋本通りの仲間が急増する

 98年5月の寄せ場における端境期から、本通り、高速下の仲間の数が急増する。本通りだけで、120-160名の仲間が、裏通りに40名の仲間が、高速下のテントには60名の仲間が野宿することになる。この状況は98年10月末まで続く。この時期東側全体では、250-320名の仲間が野宿することになる。私たちが夜回りを初めて現在に至るまでこ
の時期が野宿を余儀なくされる仲間の数が1番多いときである。これは西側も同じであった。
 98年秋から冬、本通りの仲間の数が少しずつ減少していく。同じ時期に、日東公園、愛染公園にテントを張る仲間の数が増え、定着していく。日東公園は秋口には17テントに定着し、愛染公園は冬場に15テントに定着する。
 日東公園は小さな公園で、17テント以上には入れず、現在までほとんど同じ仲間が暮らしている。98-99越冬時も、公園、高速下の仲間はテントで越年し、本通りの仲間は20名位を除いて南港臨泊に入所したようである。
 同じ頃、仲間からの話では、寺田町公園や四天王寺、天王寺公園南側に仲間の数が増大しているとのことだった。
99年、私自身も当時それらの地城を廻ってみて増え方の著しさに驚いた。これらの地域は、私たちが夜回りしているゾーンの更に、釜ヶ崎から見て外側にある地城であり、私たちが廻れていない地域である。

99年の状況一公園への定着、南・北'テントと11月高齢者特掃枠の拡大

 越年期を過ぎて、仲間が次第に戻ってくるのが通年だが、99年は98年のような著しい増え方をしていない。夏場は一時的に増えるが、本通りだけを見ると60-80名の間で1年が推移した。
これは、公園への定着、上のさらなる周辺部公園の増加と、反失連で勝ち取った北テント・南テントの影響であろうと推測される。愛染公園の南辺のテントが公園の東辺に移り、秋以降、空いた南辺に新たな仲間12名が次第にテントを立てていった。
 99年11月、それまで積み重ねられてきた対大阪市・府に対する仲間の闘いめ中で、高齢者特別清掃就労枠が拡大された。登録労働者は約1800名に達した。これを前後して次第に東側ではこれまで裏通りに20-30名の仲間が寝ていたが、裏通りの仲間の数がかなり少なくなる。

2000年の状況一さらなる外延部公園への拡大、三角公園横にシェルター開設

 2000年に入り、日本橋東側は、本通りで40-60名の仲間に減少する。4月からの特掃登録労働者数は約2800名に達し、4月に三角公園横に600名が入れるシェルターができたことも影響していると思われる。公園は日本橋、日東公園ともほとんど増減はない。しかし、愛染公園では夏に、東側の仲間に南側の仲間が追い出されるという事態が起こった。背後に地域住民の意向が働いているようだ。夏ごろから、NTT浪速支店裏路上にテントが次第に増えだした。現在12テントを数える。本
通りにいた人も多い。
 一方、この時期は長層公園、大阪城公園、更に、堺市の大仙公園、大泉緑地公園、八尾市の久宝寺緑地公園で、野宿する仲間が急増する時期でもあった。大阪市内の公園のみならず、大阪市周辺部の各市の公園に野宿する仲間が増えた年であった。
 夏以降、高速下の仲間に対する工事を理由とした追い出し攻撃が執拗に掛けられた。前号(bP1)でもお知らせしたように、2度の交渉を持ったが、最後までがんばった仲間に建設局中央工営所は毎週多人数で押し掛け、「説得」という名の排除恫喝をかけ、仲間約40名のテントを次第次第に12月までに追い出してしまった。追い出された仲間のテント跡地にはテントを張れないようにとんがりコーンを釘で打ち付けることまでされていた。
 何人かの仲間は近くの裏通り=NTT浪速支店裏に移動したが、ほとんどの仲間は追い散らされたままである。

2001年の状況一高速下工事で仲間が排除される

 2001年2月現在、日本橋東側では、本通りで40-50名、3公園で約60名、高速下の工事エリア外で約10名、裏通りで約10名、合計120名の仲間が野宿を余儀なくされている。99年頃までは本通りでも顔なじみの仲間が多かったが、2000年ぐらいから顔ぶれがドンドン変わり、移り変わりも早くなっているような気がする。高速下の工事は、中央部のフェンスを拡幅して高速下にテントが張れない状態になった。本通りはアーケード改装工事で特に西側は野宿する仲間が1桁台に減少している。
 この3年の東側の仲間の状況変化を見たとき、本通りでのダンボールだけの野宿から、公園、高速下での雨露をしのげるテント生活が確実に増え、公園でのテント生活定着化が進み、公園も日本橋という釜ヶ崎に近いところから、次第に、釜ヶ崎から外延部の公園へと野宿一生活する場所を求めて広がっていることがわかる。それはもはや、
センターに毎朝来て職を求めても仕事にあり就けないこと、アルミ缶集めに郊外へ向かわざるをえないこと、従って釜の近くで住む必然性がなくなったことを意味している。
 この1年、顕著なことは、建設局中央工営所の野宿する仲間や私たちへの対応の変化である。「強制排除はしません。皆さんにお願いに上がっているのです」と言いながら、「説得」と言う名の排除桐喝で追い出していることである。巧妙な言葉のすり替えである。そして、テント跡地に2度とテントが張れないように柵を固定するやり方は、池の公園でも行われている。(S)


心斎僑夜回り報告


北心斎橋(本町〜長堀橋)
 1-2月期は、昨年で1月22日54人、29目46人、2月5日46人、13日50人、19日77人、26日70人であったが、今年は1月20日38人、27目40人、2月3日35人、10日34人、17日38人(2月23日現在)である。かなり少なくなっている。
 その原因の第1は、やはり地域での野宿者追い出しの圧力が強くなっているからと考えられる。本町の阪神高速(中央大通り)下の船場センタービル側道で、昨年7月頃から野宿者追い出しが始まり、50人ぐらい野宿していた労働者が、9月頃には5-6入に減少した。
 この側道は、センタービルの敷地内(私有地)であったため、当初は、「段ボール等を敷いて寝ないように」という紙切れが多数張り巡らされ、さらにプラスチックのボードに代えられた。かなりの労働者が、大阪城公園に移動したようである。
 他方、寒い時期なので、より暖かいところに移動している人もいるようである。昨年も1-2月期は少なかった。西成にシェルターができてからは、臨泊にいった労働者で、今年は寒い日が多いのでシェルターを利用する人がかなりいるようだ。
 野宿労働者の声としては、仕事がないかというのが多いが、自立支援センターのことや、シェルターについて聞いてくる人もいる。生活保護については,あきらめているのかあまり聞かれない。
 そのほか、風邪薬が手に入らないかとか、下着の替えがないか(野宿の仲間には、船場では衣服の替えは結構手にはいるという人もいる)という話もよく聞く。
 ほとんどの人が段ボール、アルミ缶で生活しているようだが、顔見知りのところで時々手伝い仕事をもらったり、特別清掃にいくなどがある。また食料が手に入る場所がいくつかあるので、昼間は図書館や南御堂など思い思いの場所で時間を過ごし食料を手に入れて生活しているという人も何人かいる。
 心斎橋筋は、この間、年ごとに住み難くなってきている。(A)


南心斎橋(長堀橋〜ナンバ)

 ナンバの夜回りコースは、地下街(近鉄の入り口付近から南街会館まで)⇒千日前⇒道頓堀⇒戎橋筋⇒心斎橋である。そこで感じるのは、ここ数年で野宿の伸間が一挙に減ったことである。越冬以降においても減少傾向にある。千日前、道頓堀も極端に減っている。特に、顔なじみになる仲間は少なくなって、初めて見る仲間と遭遇する機会が多くなっている点が顕著である。
 そのため関係性を作ることが以前にも増して困難になっている。それでも「ネットワーク」の名前を知っている仲間も少なくない。「クチコミ」情報が行き渡っていることが伺える。
 ナンバはこの数年の間で大きく変貌している。この街は完全に若者にとって代わられている。アーケードの両側は彼らに「占領」され隙間もないほどだ。ここで寝るのは難しくなっているが、それでも仲間たちは少しの隙間を利用して寝床を確保して喧喋と電飾に耐えながら逞しく生き抜いている。
(M)