神戸女学院中学部2年 2010年度 感想文


▼野宿者の授業をきいて

私は今回の話を聞き、「野宿者」はその「家族」がつくったのではないか、と思いました。自分の子どもに向かって死ねと言ったりすることにおどろきました。また、襲撃も、「ホームレス」が「ハウスレス」を攻撃する、ということを聞いて本当にそうだと思いました。でも、襲撃事件で本当に悪いのは、「ホームレス」だけではないと思います。その少年たちを「ホームレス」にした環境や周囲の人々、そして襲撃はいけないことだと教えきれなかった人々も悪いのではないでしょうか。ゲーム感覚でやり、うさ晴らしの道具として人を使用し、さらに悪質な方法を求めて人間を実験台にすることが、早く無くなればいいと思います。また、日本が国境なき医師団の本格的な活動地であることを聞いておどろきました。日本は衛生環境も良いし、医師を派遣する側だろうと思っていたからです。野宿者の方も、環境が良くないとはいえ、日本の中なのだから、難問キャンプなどよりは衛生環境も良い方なのだろうと思っていました。でも、「日本の野宿者の医療状況は、難民キャンプのかなり悪い方に相当する」ということを知り、本当にも国や私達が改善していかなくては、と思いました。例えば、ほんの少しのお金や物資を提供するだけでもしていこう、と思います。

▼野宿者の優しさ

「先入観」とは、これほど恐ろしいものだったのだろうか。私は今回、この探求の授業を受けて思いました。私はこの授業で「野宿者」について多くのことを知りました。食べ物がなくなったらお互いに分けて食べあうこと、犬を飼っている野宿者が入院中の時など他の野宿者がその犬の世話をしていること、拾った犬や猫に自分の収入の3分の1ものお金をかけて世話していることなど。もし自分に家がなくて生活するのに困っていたら…と考えると、自分のことで精一杯で他人や動物の面倒なんてみていられないと思いました。そんな野宿者達に対して暴力、暴言をふるっている人、「目を合わせてはだめよ」と言っている母親、彼ら達は野宿者たちの事情を知らないからこんなことができるのではないでしょうか。「野宿者の存在価値はゼロに等しい」と思っている人がいるからこそ野宿者達に対する暴力が止まらないのではないでしょうか。「野宿者の存在価値はない」という先入観を捨てて、野宿者もちゃんとした仕事をしているということを知ってほしいです。
私はこの授業で「野宿者の優しさ」というものを知りました。

▼私の改心

私は今までいわゆる〃ホームレス〃の人達を〃努力ができなかった人達〃として見てきました。頑張って働いて、努力をおこたらなかったら、家を失うなんていうことにはならないと考えていたからです。この授業で私が学ぶことができた大きな事は、この考え方(偏見)を改めることです。ホームレスの人の歩んできた人生のことなど何もしらないのに、分かったような口調でさげずむようなことを言うのは最低だと分かったし、またそれを今までやってきた自分がとても恥ずかしく思えました。
また、私はホームレスの人を路上で見かけても、〃私には関係ない。女だから〃と思っていました。なので、女の人のホームレスもいて、また年々増えてきているということを知った時、すごく驚きました。ホームレスになってしまった人々の原因は一様ではありません。その人それぞれの理由があり、また、その原因はその人自身のせいではないことがたくさんあります。失業、DV、派遣切り…ホームレスの人ができてしまうのは、私達が生きている社会のせいだということがたくさんあるのです。よく、学校の先生や親などが、「同じ社会にいる者同士なんだから、困った時は助け合いなさい」と言うことがあります。そして、その言葉通り、夜回りをしたり、ビッグイシューを買ったり、自分がホームレスの方にできることは何か? と自問し、考え行動している人達がいます。
それと同時に、〃自分には関係ない〃と何も行動をおこさない人もいます。そして私は行動ができない人の一人です。私より小さい子達は夜回りをしているのに…
幸い、私はこの授業をうけることで、ホームレスの方々の現状を知ることができました。〃知る〃ことも、今の私にできる小ささな事の一つだと思います。
これを私の考え、行動を改める大きな出来事として、生かしていきたいです。


▼冷たい人間、温かい人間

私は塾、習い事、学校の行き帰りによくホームレスの方を見ていましたが、ホームレスの方について何も知らなかったということを今回の授業で改めて実感しました。そもそも、「ビッグイシュー」の存在を知ったのは先輩の探求礼拝があったのが初めてでしたし、「路上死」や「襲撃」などがあることさえ知らなかったと思います。
私は先輩の探求礼拝のお話を聞いてから、ホームレスの方に声をかけてみようかな、おにぎり1コあげようかな、ビッグイシューかってみようかな、などと思いましたが、実行に移すことは出来ませんでした。その実行できなかった理由は、ホームレスの方々に偏見を持っていたからです。怠け者だとか、なせもっとがんばらないのだろうかなど、心のどこかで思っていました。「Q10」というドラマの中で、染髪しているクラスメイトに何も声をかけないのは、冷たくもあり、また優しくもあるというようなセリフがあったのを思い出しました。少しちがうとは思いますが、ホームレスの方に襲撃をする人をなんと冷酷な人間だと思っている私達も、実は知らんぷりをする冷たい人間でもあるのだと思いました。冷たい人間か温かい人間か、誰だって温かい人間がいいに決まっています。私はすぐに実行できないと思うけれど、誰にでも温かく接しれる人になりたいです。

▼困難を乗りこえるための勇気

「ホームレスの方々は本当に必死で仕事を探しているんです」。この言葉に、私はとても驚いた。ホームレスの人たちは、仕事をサボってまじめにせず、そしてとうとうリストラ。もう仕事のやる気がおこらず、遊びほうけ、家をおいだされ、空き缶を拾わざるを得なくなったのだ、という勝手な考えが私の中にあったからだ。だが、今日の話をきいていると、ホームレスの人たちはこの不況で、一生懸命働いていたのに、バシバシと会社の都合でやめさせられたという方がほとんどなのだ。もし私がこのようなホームレスの立場であったら、生きる希望をなくし、空き缶さえも拾わず、そして凍死するというパターンになるのではないだろうかと思う(これはあくまで私個人としての考えであるが)。「私であったら、このようなことになってしまうであろう人生」を歩んできたホームレスの方々は、それでも少しは収入がほしい、つまり仕事がほしい、と言っているのだ。私は驚くのと同時に、感動もした。こんなにきびしい世界でそれでも仕事という希望をもって、生きている人たち――ホームレスの方々――がいるのだ、ということに。私は、たった一つの悩み、例えばテストなど…があるだけでもくじくじしている自分がなさけなくなった。今日は、ホームレスの方々について学び、大きな困難を乗りこえることのできる勇気を教えてもらった気がします。

▼社会

今日、野宿者達についてのお話しをうかがい、ビデオを見てすごく感じた事は、野宿者は強い人が多いということでした。家族を失い、お金もなくて、生きることもむずかしいというとてもつらい状況にいるはずなのに、助け合ったり笑ったりするということは強い人にしかできない事だと思います。また、野宿者の一人が「本当に泣きたい時がある」といっていたのを聞いて、私は「私だったら野宿生活になった時点で本当に泣きたいどろこではないのに、この野宿者は強いなあ」と思いました。
今、たくさんの人々がそんな人達のことを差別し、けいべつしているけれど、本当は差別したり、けいべつしたりしている人々の方が弱い、野宿者達より下に見られるべき人達なのでは、と思いました。

▼野宿者の授業をきいて

私はあまり釜ヶ崎について、知りませんでした。
小学校の時、毎週水曜日のお弁当をおかずなしでおにぎりだけにし、そのおかずの分をお米にして、みんなであつめ、釜ヶ崎に届ける、ということをしていましたが、あまりよくわかっていませんでした。しかし今日の授業をきき、たくさんのことがわかりました。
その中でも一番心に残ったことが、私達と同年代である10代の少年達が野宿者の方をおそい、その野宿者の方がたくさん亡くなっている、ということです。
しかし、おそわれてケガをしたおじさんは若者をゆるしていました。私はなぜかと思いました。いきなり意味もなく「ムシャクシャするから」という理由だけでおそわれる。本当に意味がわかりません。
中3の女の子の作文の「おそう人にはhouseはあるがhomeがない」というのは本当にもっともだと思いました。
おじさんにはhomeがあるから若者をゆるせるんだなあと思いました。
日本には野宿者に対する多大なる偏見があります。授業をして下さった先生のようなことはまだできないけれど、少しでもなにか私にできることはないか、さがしてみようと思います。

▼時と場所

私は、ホームレスとして暮らしている人は何かその人自身に悪い理由があってそうしているのだろうと思ってました。何故かというと、母や祖母は路上で寝ている人を見て、「目を合わせちゃだめよ」とか、「勉強しないとああなってしまうわよ」とか言っていたからです。しかし、今回この授業を聞いて、その人達にもどうしてもそうしなければならない理由があるのだと分かりました。
今までは、ホームレスの人を見かけても、「だいじょうぶなのだろうか」と、ちらと思うだけでしたが、国境なき医師団の人の「大阪のホームレスの人たちの医療状態は難民キャンプの中でもかなり悪い環境にあたる」という言葉を聞き、そんなにひどいところで暮らしていたのか、と驚きました。私は冬場など、寒さで凍えながら人が死んでいっているときにも、暖かい部屋でテレビを見たり、みかんを食べたりして笑っていたのかと思うととても悲しくなりました。自分が持っているもの、食べているものの少しでも分ければ一人でも助かっていたのかもしれないと思うと、やりきれない気持ちになります。先生のお話にあった、パニックになった学生にも少し共感するところがありました。
私達1人にできることはとても少ないし、小さいです。でも、多くの人が集まれば、とても大きくなります。欧米では、寄付の習慣があり、とつつてもない金額が寄付されたと聞いたこともあります。こんな習慣が日本にもあればいいのにと思います。私はまだ、何をすべきかもわかりませんが、少しずつ、小さくても誰かの助けになりたいです。

▼ホームレスのおじさん

私の住んでいる所にホームレスのおじさんがいます。いつも薄汚れた服を着て、見かける時はパンを食べているかラジオを聞いています。私は通学途中に見かけた時に、「こんな所にいるのは迷惑だなぁ」と横目で睨んで、足早に通りすぎてしまいました。講義で中高生がホームレスの人を襲撃していると聞いた時は、ただ、「ひどい」と他人事のように思っていました。しかしよく考えれば、自分のやったことも同じでした。学校では「愛神愛隣」の精神で炊き出しや募金といった素晴らしい活動が行なわれているのに、私は少しも日常生活に生かせていませんでした。それどころか、ひどいことをしていました。私がやってしまったことをなかったことにはできませんが、これを踏まえて生かすことは出来るはずです。これからはもちろん、大人になっても募金活動や炊き出しなどに積極的に参加していきたいです。私が睨んでしまったおじさんをこのごろ見かけていないので謝罪できていないのですが、私にホームレスのことについて深く考えさせてくれたおじさんをいつまでも覚えていたいと思います。

▼日本社会の差別意識を変えるためには

私は、小学校低学年の時、当時幼稚園だった弟と母の三人で大阪の都心部を散歩していたら、公園でホームレスの人を見かけました。弟はホームレスなどもちろん知らず、母に大きな声で、「どうしてあの人はあんな所で寝ているの?」とたずねました。すると母は激怒し、結局弟はなんで自分が怒られたのかわからずギャーギャー泣き叫んでいました。私はその様子を見て、「あの人たちに関わると怒られる」と思い、それ以来なんとなくホームレスの人々をさけていました。
しかし、この学校に入り、釜ヶ崎の人々の様子や日本社会の現状を知ることで、ホームレスの人々も家のある人々も同じ人間である、ということに今さらながら気づき、少しでも力になれるように、米の日週間ではお米とお釜の寄付を必ずするようにしています。
話は戻りますが、そもそもホームレスを差別する意識を子供に持たせたのはやはり大人だと思います。もしあの時、弟の質問に、小さな子には難しいかもしれないですが、いろいろな理由で仕事がなくなってしまったが、私達と同じ人であるという事をしっかりと教えていたら、私が差別することはなかったかもしれません。なのできっと、ホームレスを差別する日本社会の意識を変えるにはまず、子供の意識を親が変えてあげる必要があるのではないかと思います。

▼野宿者と私たち

私は今まで、野宿者はどこか遠い世界の人々のような気がしていた。しかし、今回のお話しを聞いて、そんな気持ちではいけないと思った。野宿者を自分たちとは違う存在ととらえ、関わろうとしない姿勢が、野宿者に対する偏見を生み、襲撃事件や野宿者がいつまたでも職につけないといった問題につながるのだと思う。幸い、私たちには帰る家があるし、十分に教育を受けることができる。だからこそ、この問題から目を背けてはいけない。これから社会を変え、野宿者を助けることができるのは、私たちだ。他人事ではいけないと思う。いすとりゲームが激しくなり不公平な社会が続くのか、全員がいすに座ることができる、誰もが当たり前に帰る家があり、安心して暮らせる社会になるのか、責任は私たちにあるのだと思う。

野宿者の授業をきいて

私は今までホームレスの人々は、ごも箱にすてられている物を食べて暮らしているのだと思っていました(あと内職)。なのでまず、仕事を募集しに車が来ることにびっくりしました。あとよくみる大きな台にダンボールをたくさん積んでいるのは、仮の家の為だけではなく、売るためにもあるのだと初めて知りました。前、家の前に大きな台があって車が入れられなかったので動かそうとしたのですが、すごく重かったのを覚えています。あのおじさんは毎日生きるために、あれを引っ張りながらあちこちをまわっていると考えると胸が痛くなります。そしてそれを見て何もできずにいる私がふがいなく感じます(あと、商店街の方々が親しげにダンボールや缶を渡しているのを見てなんだか嬉しくなります。)。私は「ホームレスは社会のゴミだ」と言う少年達に怒りを覚えますが自分はどうなんだろうと考えます。野宿者の授業を聞き終えた今でも、私はホームレスの人々を心のどこかで見下しているのが、偏見しているのが分かり悲しいです。自分の事を見直す大切な機会でした。


日本社会はシビアだ、と私は思いました。裕福な人ほどいい暮らしが出来、どんどん貧しい人と差を開いていく。また、例えば、前科がある人はどんなに自分を更生しても、軽蔑の目で見られる。野宿者もそれと同じで、一度野宿者になると、なかなか元の生活に戻れないんだと思いました。そういう環境に生きていても必死に生きる姿はすごいと思いました。
今回のお話しの中で、初めて知り、感動したことは、自分が野宿者という立場でお金があまりないのにに捨てねこにお金をかける人、動物愛にあふれた人がいることや、野宿者同士がお互い助け合って生きる、優しい心を持っているということです。私の住んでいる地域でも数人の野宿者の方をたまに見かけることがあるのですが、私はあまり良い印象を持っていませんでした。今回のお話で、その方のことを何も知らないのに悪い印象を持つのは良くない、偏見だったと思いました。私たちが今こうしてるあいだにも、野宿者の方はつらい生活を送っている、ということを忘れずにしていかないといけないと思いました。

▼野宿者と襲撃者

野宿者の人々を自分と年齢の近い人達が襲撃しているという事実を初めて知りました。アルコールをかけて火をつけたり、殴って内臓を破裂させて殺してというのも衝撃をうけましたが、そのグループに加わっていた男子生徒が後日の卒業式の式辞で、「命の大切さ」のようなことを生徒代表として読んだことの方がもっと驚きました。生徒代表ともあろう男子が人を傷つけることによって、喜びを得ようとしているからです。野宿者の人は家がなくても、ぼろぼろの服を着ていても、この男子と同じ人間なのに、その人を殴ったり火をつけたりして楽しんでいます。話を聞いて、野宿者の人には勿論ですが、それ以上に襲撃者がはるかに悲しいかわいそうな存在だと思いました。野宿者は金銭的に貧しいけれど、この襲撃者たちは金銭的に豊かであっても野宿者の人たちよりも心は貧しいからです。日々の生活で孤独を感じたり、ストレスがたまったりすることが、このような襲撃につながるのなら、普段から周囲の人々に目をむけて、声をかけたり、「大丈夫?」と心配してあげることから始めたいと思いました。

▼私の偏見

私の家の周りにはあまりホームレスの人がいません。なので私は、どのような人なのか、なぜそうなったのか全く知りませんでした。そんなまま授業を受けました。最初のお話しでは興味はわきましたが、やはり自分とは違う世界の話だと思っていました。しかし、ビデオを見て、ゾッとしました。やっぱり行くのやめようかとも思いました。でもホームレスのおじさんのインタビューを聞いたら「あ、この人はリアルな人間だ」と感じました。自分とは全然違わない普通の人だと。すると、なぜか涙が出そうになりました。そのビデオを見てからの授業はどんどん頭に入ってきました。
私は最初、「いすとりゲーム」のたとえが少し納得いかないような考えでした。しかし、この授業を受けて変わりました。人はだれでも「めんどくさい」「しんどい」「もうどうにでもなれ」など、なげやりな気持ちになることがあると思います。ホームレスの人々は、その心の闇に流されてしまった人々だと思います。自業自得と言うのも正論ですが、それは酷すぎるのではないでしょうか。誰でも、そんな風になってしまう可能性があるからです。やっとその状況を打ち破ろうという気になっても、その時もうホームレスになっていたから手遅れだったという人もたくさんいると思います。こんな状況は絶対に変えなければいけません。
私の父は市役所で生活保護の仕事をしています。なのでもっと詳しくその状況を父に聞こうと思います。
私はこの授業を受け、少しだけですが、ホームレスの人々のことを知り、自分の偏見を減らせました。こういう教育は多くの学校でするべきだと思います。特にビデオを見るのは効果ばつぐんだと思います。衝撃でしたから。多くの人達があのビデオを見て、授業を受けられるようにして欲しいです。若者による襲撃も減ると思います。きっと多くの人々はホームレスの人について全然知っていないと思います。だから、リアルな教育を受けないと偏見は減りません。最後になりましたが、この授業を受けさせていただいてあり(ウラへ)(ウラ面のコピーがなかったのでここで中断)

▼これから自分たちにできること

私が、「野宿者の授業」を聞いて、一番疑問に感じたことは、私達の同じくらいの少年達が、野宿者の方たちを襲撃し、殺してしまうこともあるということです。話を聞いていて、少年達には心の安らぐ場所や、自分の居場所がないから、野宿者の方たちを襲撃するんだ、と分かったとき、悲しくなりました。私と同じ年の人が自分の居場所を求めていることもひどいと思ったし、その、寂しさを解決する方法が、ホームのあるホームレスの人を襲撃して、寂しさを紛らわしているなんて、絶対起こってはいけないことだ、と思いました。こういう襲撃は、ホームレスの人たちや少年達にとっても、良いことは一つもないから、なくさなければいけないです。そうするために私達は何をしたら良いのか考えてみると、まず、自分の居場所のない人の居場所になってあげること、そして友達に、襲撃までいかなくてもホームレスの人たちにいたずらをしている人がいたら、同じ年だからこそ、きちんと注意してあげることだと思います。私は、野宿者の方たちに襲撃をする少年、少女たちの居場所になれるような人になりたいです。

▼生きる意味つまり生きる希望

野宿者は、望んで野宿者になったわけでもないのに、日本には2万人もの人が野宿者となっている。そして、1年で400〜500人もの人が路上で亡くなっている。亡くなった方々もその人なりに必死で生きていこうとしていた人も少なくなかったと思う。私が疑問に思ったのは、「死にたい」と言う野宿者でした。普段毎日幸せに生活している私にとって「死にたい」と言う言葉とはほぼ無縁でした。私は自分の中では「死ぬ」という時は、「自分が生きる意味がなくなったとき」と考えています。しかし、この野宿者は生きたいと思っているのに、若い少年少女達によるいじめや暴行で亡くなっていく人々がたくさんいます。この事実にはとても胸が痛いです。なぜ、「死にたい」と思う野宿者がいるのか? それは、生きる意味つまり生きる希望を何かによって奪われたからだと私は思います。私達に出来ることは、野宿者に生きる希望を持ってもらうようにするように努力することではないのかと思います。私達は家族や友達に助けられて生きている。そして、私達も家族や友達やその他の人達とも助け合いながら生きていかなければならないんだと思った。

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