1──主要部としての・あるいは「継ぎ合わせの器は、ナイフで切られた果物となりえるか?」

 「反復」の中でキルケゴールはこう言っている。
「わたしのいうことがまったくのまやかしではないとして、わたしのとりとめもない思想(アフォリズム)を誰か体系鑑識家の手もとに送り届けてみるのが一番よいだろう。おそらく体系のなかのひとつの注くらいになれるものがないでもあるまい──たいしたものだ! そうなれば、わたしもよもや無駄飯ばかりを食ったことにはならぬだろう!」(桝田啓三郎訳)。 
 キルケゴールはその著作の中でつねにヘーゲルについて語る。彼が18の時に死んだヘーゲルを。ここでいう体系とは、もちろん「反復」の中でも繰り返し語られるヘーゲルの体系のことである。「わたしの思想に、ヘーゲル体系の一つの注になれるものがあるかもしれない」。これは単なる卑下だろうか。それともキルケゴール独特のアイロニーなのか。しかしむしろ、キルケゴールはもっとはっきりと、自分の哲学全体がヘーゲル哲学の「注」でしかないと、言うこともできたのではないだろうか。
 
 そういうことが言い得るのだろうか、キルケゴールの哲学が他人の哲学の「注」でしかないということが。しかし、彼自身が時に考えていたかもしれないことを、この箇所で思わずという感じで言っていたのだとすれば。そして、おそらくここにはいくらかの正当性がある。ただしその場合、「注」とは普通言われるのとはいくらかちがった意味でとらえなければならないのだが。
 それはむしろ「補注」なのである。「補注」とは、本文では語り得ないものを別の場所で語ることである。それは、「本文」の余白であり、それによって「本文」の意図、目的を「本文」とは別の場所で完成させるものである。だとすれば、それは「本文」と共同作業するものであり、それこそが「本文」の意図、目的をはじめて作り出し、「本文」を真に終了させるだろう。そして、キルケゴールがやっていたのは、そういうことではなかっただろうか。彼の哲学は、1から10までヘーゲルとの闘争としてあった。言い換えれば、キルケゴールの「哲学」というものは存在しなかった。存在しているのは、彼とは別の、他者の哲学との「闘争」だけなのである。キルケゴールの著作が個性的である、オリジナルである、というのはそれ自体としては正しい。しかしそれは、あくまで別の哲学、ヘーゲル哲学との闘争=共同作業の結果として考えられるべきもののように思われる。
 
 なぜキルケゴールの哲学がヘーゲル哲学の「注」だということになるのだろうか。しかしその問いは、「ヘーゲル哲学の注」でしかないキルケゴールが、他の多くのオリジナルな哲学者たちにもまして、なぜあれほど刺激的であり挑発的であるのか、という問いへとつなげるべきだと思える。つまり、一体どういうことなのか、君はある時期からこう思ってきた、彼以降の哲学者たち、例えばハイデガー、ベルクソン、サルトル、フーコー、デリダ、ドゥルーズといった中のだれよりも、キルケゴールは今も最も破壊的であり、刺激的であるように見える、と。言い換えれば、それはヘーゲル哲学との格闘において、キルケゴールが最も戦略的に有効な方法を採ったということだ。例えば、ハイデガーはキルケゴールの影響を深く受けた哲学者だったと言われている。しかし、「存在と時間」の時間論、「瞬間」論は、キルケゴールと比べた場合、むしろ抽象的であり、まったく非戦略的なのではないだろうか。ハイデガーは自分がキルケゴールを越えたと明らかに考えていたが(「存在と時間」のキルケゴールに関する「注」)、むしろ彼はキルケゴールの言う「瞬間」から、そのエッセンスをほとんど骨抜きにしてしまったようにも見える。またサルトルの「存在と無」は、その徹底的な合理的思考と緻密さとによって感動的な哲学書だが、キルケゴールと対比すると、それも普通の意味での、つまりごく伝統的な意味での「哲学」の枠内にあるようにも見える。キルケゴールは自分の最も重要な本の一つを「断片の哲学」と呼んでいた。そのネーミングはもちろんヘーゲルの「体系」「全体性の哲学」に対抗してのものだったが、それに対して言えば「存在と無」は、ごく普通の意味で「体系的な哲学」なのである。キルケゴールの「断片の哲学」は、「全体性の哲学」に対する徹底的な抵抗の中ではじめて存在していた。しかし、キルケゴールはレヴィナスのように、「全体性の哲学」に対して敵対する別の「哲学」を置いたというわけではない。事実、レヴィナスの哲学はキルケゴール的な「断片の哲学」とは全然関係が無く、彼は「哲学をスタートさせるがままにさせておく」ことに対してかなりナイーブな哲学者である。ある意味では、レヴィナスは彼が敵対するハイデガー以上に、「哲学」に対する戦略に関して無自覚な思想家だったのかもしれなかった。
 
 「注」は、他の文章つまり「本文」を前提にする。そして他の哲学の「注」は、「他の哲学」を前提にする。キルケゴールの場合、彼は自分の思想をヘーゲルと「対」になる言葉で繰り返し語ろうとする。
 例えば「哲学的断片」という題名である。「断片」の原語「Smule」は、「かなり強い分割性、砕断性と、些少性と些末性と、無用性、無意義性、残余性の意味が同時に含まれているのであって、つまり、『切れっぱし』、『かけら』といった点に特に強調点が見いだされる」「キェルケゴールが他の語を措いてこの語を取ったについては、勿論、彼の述べるところが哲学的体系(特にはヘーゲル乃至ハイベーャのそれのような)の如きものではないということを皮肉に暗示しようとするところにその第一義的意味合いがあるであろう」(大谷長「哲学的断片」解説)、つまり「体系」と「断片」の対。
 「不安の概念」の「序論」では、「体系を書こうという気構えでいる人は、大きなことに責任がある。しかし特殊問題について書こうとする人は、小さなことについて忠実であることができ、またそうであらねばならない」。「体系」と「特殊問題」、「大きなこと」と「小さなこと」の対。
 あるいは「『哲学的断片』への結びの学問外れな後書き」(それにしてもなんという題名だ)の一節、「人が自分は単独の実存在する人間である事を意識しているかのように語るのは、希にしか、或いは全く聞かれない、そしてたといが百万人や諸国家や世界史的発展について語っても、それは汎神論的に目眩を起こしているのだ。(…)この事によって人は再び、私の命題たる、主体性が真理である、を思い出すだろう、というのは、客観的真理は、実存在する者にとって、いわば抽象の思惟の永遠性なのだから」。つまり「客観的真理」と「主体性」、「百万人」と「単独の実存在する人間」の対。
 そして「哲学的断片」の「序」がある。「ここにお目にかけるのは、『だれの力をも借りず、だれの指図をも受けず、だれの金にも頼らずして』ものされた一編の小品にすぎない。これをもって学問の世界に仲間入りをさせてもらおうなど、夢にも考えるところではない。この世界で認められるためには、真理への『経過』や『移行』に憂き身をやつし、体系の完結者、準備者、参与者となること、協力者ないしは追随者となること、そして英雄、とゆかぬまでもそのへんによくいる相対的英雄になること、いや最小限度、絶対に比類なき提灯持ちたることが要求されているのだから。/本書は一編の小品にすぎない。あのホルベルグの学士よろしく、小生も『神よみしたもうて』さらに17編を書きつづけてみたところで、これ以上のものになりっこないことは請け合いだ。半時間物の短編ばかり書いている作家がたまさか何か変わった仕事に手を出して、いかめしい大冊を書きまくってみたところで、やっぱり変わりばえしないのはあたりまえだろう。/ところでこの程度の仕事こそ、小生の能力には分相応なのだ、小生が体系に奉仕しないでいるのは、『怯懦からというより、功績をあげたがゆえに』国務を退いて閑居したあの気高いローマ人の場合とちがって、小生が気ままなのらくら者で、『心の底から』なまけ好き、それでいてちっとも疚しいとは思っていないからである」。つまり、「大冊」「体系」と「小品」「短編」の対、「英雄」と「気ままなのらくら者」「心の底からなまけ好き」の対。そこで、この対の系列に「本文」「注」を入れても、多分誰も文句を言わない。
 ところでこうした「対」は不均衡である。「客観」と「主体性」は別として、「大きなこと」と「小さなこと」、「体系」と「断片」とでは、普通に考えれば(あなたは「大きく」わたしは「小さい」)単なる卑下である。では、「大冊」と「短編」ではどうだろう(ヘーゲルはいわば偉大な長編作家だが、それに対してわたしは偉大な短編作家になりたいとか?)。あるいは「英雄」と「のらくら者」とでは。しかしキルケゴールが「それでいてちっとも疚しいとは思っていない」と言うのであれば、それは単なる卑下ではない。というよりこれは、意識的に自分のことをまぬけで、小さい者のように語ってみせるユーモアではないだろうか。そして自分を笑うのと同時に、間接的に「大きい」相手のこっけいさをも笑ってみせている。「断片」という言葉について、大谷長は「彼の述べるところが哲学的体系の如きものではないということを皮肉に暗示しようとする」と言う。だがこの場合、「皮肉」は相手だけを笑うのではない。ちょうど(キルケゴールが常に念頭に置く)ソクラテスのように、自分は何も知らないので相手に教えてほしいというように、まず自分を笑ってみせている。確かに自分の哲学について「断片」「注」と言うとき、キルケゴールは何かを暗示しようとしているのかもしれない。だが、その暗示された内容は、明言しようとすれば多分かなり複雑なものとなる(だからこそこの文章はこんなにも長い!)。一つは「断片」「小品」と対になる「体系」「大冊」というもののこっけいさであり、そこでは「大は小を兼ね」ない役たたずなものとなる。「デンマークが鉄ペンの大きさよりも大きくは画かれていない全ヨーロッパの小地図によって、デンマークを旅行しなければならぬようなものだ」(「『哲学的断片』への結びの学問外れな後書き」)。また一つは彼の哲学そのものが、このヘーゲルに対する戦略の中ではじめて存在しているという事実である。ちょうど「ソクラテスの哲学」というものが、相手との対話なしには存在しないように。
 
 この事態をキルケゴールは「間接の攻撃」と言うのであり、それを「『哲学的断片』への結びの学問外れな後書」に読むことができる。
「かくして、間接の攻撃は最も危険な攻撃になるという事実が、ヘーゲルの哲学を見舞うことになる。一人の訝る若者──だが彼は実存する疑惑者だ──が学問の英雄に対する青年の愛すべく限りない信頼のために、ヘーゲル的積極性の中に真理、実存在に対する真理、を見いだすことで自らを慰めるものとせよ、彼はヘーゲルについて刺すような風刺を書くことになるだろう。人は私を誤解しないでもらいたい。私は、すべての若者がヘーゲルに打ち勝ち得るなどとは思っていない、そんな事では決してない、もし若者がそうする程空想的で愚劣であるなら、彼の攻撃は何の意味もない。否、若者はヘーゲルを攻撃しようなどとは決して考えるべきではない、そうではなくて逆に彼は、女性的な献身さを以て絶対的にヘーゲルの下に身を低くしようとすべきだ、尤もそれと共に彼の疑問を固持するだけに十分な力を持ってそうすべきだ、すれば彼はそうとは気付かずに風刺家なのである(…)ヘーゲルに対する若者の称賛、彼の熱狂、彼の極まりない信頼は、正しくヘーゲルに対する風刺である」。
 まず、キルケゴールが言う「女性的な献身さ」という女性観が、男性哲学者による性的差別偏見であることは言っておきたい(他者への献身が美徳であることは確かだが、それがここでは女性だけに結び付けられている)。さて、ここで言う「間接の攻撃」は、直接の攻撃でも直接の信頼でもないところに来る。つまり「直接の攻撃」=「ヘーゲルに打ち勝つ」のでもなければ、「直接の信頼」=「(単なる)ヘーゲルに対する称賛、熱狂、信頼」でもないそれらとは別のベクトル。そして、ここで一つ言えることは、直接の「攻撃」や「信頼」には風刺やユーモアはなく、「間接の攻撃」にはそれがあるということである。この「間接の攻撃」を語るのに、「体系」の「注」という表現は、実際ぴったりではなかっただろうか? 
 
 そしてもうひとつ言えるのは、「直接の攻撃」と「直接の信頼」は多く目にすることができるが、「間接の攻撃」はめったにお目にかかれないということである。
 ヘーゲル哲学の「『注』でしかない」と言うキルケゴールは、決してヘーゲルに「打つ勝ち得るなどとは思っていない」。しかし「それと共に彼の疑問を固持するだけに十分な力を持って」いる。そして、そこには「風刺」あるいはユーモアがある。ところが哲学者の中には、自分のことをいわばくそ真面目に「他の哲学の『注』でしかない」と考える者もいる。それは「他の哲学」の真実性、必然性を尊重するあまり、その「注」であることに自ら甘んずる他ないと考えるのであり、それは一般には「継承者」「後継者」又は「亜流」と言われている。
 また、その逆に自分のことをこれもくそ真面目に「他の哲学の『攻撃者』」であると考える者もいて、それは何と呼べばいいのかわからないが、ともかく「亜流」「後継者」の単なる裏返しである。
 しかし、くそ真面目に「継承者」になる者の逆の立場とは、むしろ「オリジナル」な哲学者ではないだろうか。この場合、哲学者は、他人の哲学の風下で考えることを拒絶する。問題は、「自分の頭で考える」ことなのだから。ある哲学が他の哲学を前提にして作られているというとき、それは「亜流」である。それはいわば人の力を借りた思想であり、オリジナリティ、発展性を持たない。それに対して、過去に類例のないような、斬新な哲学こそが求められる。
 こうした真面目さは、他者の思考を不純物と考える点で、ある種の潔癖さによって支えられている。しかし、この潔癖さは限界まで突き詰めていくべきではないだろうか。つまり、不純なものを拒絶していった結果、最後に残されるはずの「自分の頭」、自分の精神、自分の思考が「不純」だとすればどうすべきだろうか。つまり、君が何かを考えるとき、それはつねに、すでに誤っているのかもしれない。少なくとも、自分の思考が「真理」だということを証明することは決してできないのではないだろうか。そこで「自分の思考に誤りがあったとしても、試行錯誤の中で少しずつ真理へと移行できる」という考え方はあり得るとしても、それは単に楽天的な期待かもしれない。思考に最初にある「誤り」が、真理と共存できる程度の誤りかどうかはわからない。もしも、それが決して真理に転化しえない絶対的な「誤り」だったとしたら、また求める「真理」が少しでも「誤り」と共存することの不可能なものだったとすれば、どうなのだろうか。
 こうしたプリミティブな懐疑は、哲学史の上でデカルトのテーゼ「我思う、故に我有り」によって解決済みだと言えるだろうか。しかし、ある意味でデカルト以後の哲学の歴史は、最も明晰でなく、最も判明でない概念こそが「我」であり「思考」であり「存在」であるということを示していたのかもしれない。例えば「思考」について、君は「思考」を最高度に意識的な、明白な活動と一方では思いながら、一方では「思考」が具体的に何なのか、ほとんど何も知らない。「思考」そのものが判明でなく、その基礎が不確実だとすれば、問うことのできる唯一の問いは、「思考とは何か」を「思考」によって問うということ以外にはないのではないだろうか。確かに君は16のときにそう考えた。
 しかし、そこでの「思考」の主語は何なのだろうか。ヴァレリーの言うように、思考とは自分が自分に向かって話すことであるとすれば、思考の主体は「話す自分」と「聴く自分」という、分裂した一人称単数である。そしてこの「自分が自分に話すのを聴く」という純粋な内面性について、デリダは「形而上学の歴史は絶対的な〈自分が話すのを聞きたい〉である」と書く。「声の作業としての自己─触発は、或る純粋な差異が〈自己への現前〉を分裂させに来ることを予想していたのである。このような純粋な差異のうちにこそ、空間、外面、世界、身体、等等といった、自己─触発から排除しうると考えられているすべてのものの可能性が、根を張っている」(「声と現象」)。しかし、ここで君は再びキルケゴールについて、つまり自分の思想が他の哲学の「注」になるかもしれないと言ったキルケゴールを思い出す。キルケゴールが自分の思想を他の哲学の「注」と言うとすれば、それは「自分が自分に話すのを聴く」という自己完結性によっては決してとらえられない。つまりこの場合、「思想」はそれ自体、他の哲学への「間接の攻撃」という戦略そのものなのである。
 つまり、キルケゴールの思考は、他の哲学に対する戦略、あるいはコミュニケーションとしてあった。思考を「自分が話すのを聞く」こととみなすことは、確かに「形而上学」なのだ。だがそれは、デリダの言うように「或る純粋な差異」を隠蔽するためにそうなのでなく、他の哲学と関係なく「思考」が可能だという非現実性のゆえにそうなのではないだろうか。ある意味では、「形而上学」とは、自分が無から(自分の頭だけから)生まれてきたように考えたがる傾向のことである。しかし、そんなことはソクラテス、プラトンの昔からありえなかった。哲学の思考には「他者」が存在する。そして、その他者は「他の哲学」なのだ。その意味から、「思考」の主体は「わたし」ではない。おそらく、思考の主体は単数ではなく、常に複数なのだろう。そうだとすれば、「われ思う」は「複数の思考」を常に伴っている。と言うよりも、「われ思う」とは、マッハがニュートンの「絶対空間」「絶対時間」について言った意味での「形而上学」なのである。実際にはある物体と他の物体との「関係」しか問題ではないにかかわらず、我々はそれを「絶対空間」の中での出来事のようにみなしたがる。「われ思う」とは、それに似たものであって、現実に考えうるのはある哲学と他の哲学との関係のみである。その意味で、「自分の頭で考える」というオリジナル信仰は、ごく素朴な形而上学である。
 
 だとすれば、君がキルケゴールの哲学として知っているものは、実はヘーゲルとキルケゴールとの複数の思考、つまり共同作業による哲学だったということになるだろう。その点で思い出すのは、ヘーゲルが、自分に至る哲学史を自分の哲学の準備と見なしていたことである。「準備」、それは「主役と下働き」という形において一つの「共同作業」ではないだろうか。ということは、ヘーゲルも哲学が「共同作業」の産物であることを明言していたのではなかっただろうか(しかしこれは何という高飛車な形でだろう)。もちろんヘーゲルのこの哲学理解はあまりに強引な「こじつけ」、つまりフィクションでしかない。しかし、そのフィクションにあるリアリティがあることも事実であり、それはおそらくヘーゲル哲学そのもののリアリティと同値なのである。ある意味では、キルケゴールはこの哲学史観からヘーゲルを(強引に)解放した。しかし、それもまた新たなフィクションであって、キルケゴールもまた後続の哲学者によって(「実存主義の祖」とかいった)新たなフィクションの中で読み直される。
 おそらく、哲学史はこのフィクションとしての共同作業の連続なのであり、「真の」哲学史というものは存在しない。相手を理解するためには、相手を変化させなければならないわけである。では、自分の哲学を「ヘーゲル哲学の注」というキルケゴールにとって、その共同作業はどのようなものなのだろうか。「共同作業」にもいろいろあることは、他の哲学に対するヘーゲルとキルケゴールとの態度を比べただけでも明白であるようだ。しかしそれを明確にするために、キルケゴールが「直接の攻撃」と「間接の攻撃」とを区別したのと同様に、「共同作業」を2つに区別していくのが有効であると思う。つまり、それは「直接の共同作業」と「間接の共同作業」の2つに分かれる。そして、「間接の攻撃」がキルケゴールによれば「最も危険な攻撃」であるのと同様、「間接の共同作業」はおそらく「最も危険な共同作業」となるのではないか。
 
 「共同作業」は2つに区別される。その一つの「直接の共同作業」は、とりあえずは先にキルケゴールが言っていた「直接の信頼」と同様に考えられる。つまり、それは(単なる)「ヘーゲルに対する称賛、熱狂、極まりない信頼」であり、「ヘーゲルに対する風刺」には決してならない。それは例えば、自分のことを(くそ真面目に)「他の哲学の〃注〃」「他の哲学は〃大きく〃自分は〃小さい〃」と考えることである。
 ところで、もしその哲学者がより「成長」して「大胆」になって、自分が「小哲学者」から「中哲学者」へ、さらに「大哲学者」になったと自覚したとしたらどうだろう! そうなったとしたら、今度は彼は「(他の哲学は)自分の哲学の注(準備)である」「他の哲学は小さく自分は大きい」と(真面目に)考え始めるかもしれない。つまりその哲学者は「他の哲学に打ち勝ち得る」と思い始めるのであって、その意味から自分のことを「発展的継承者」と自称するのかもしれない。キルケゴールはそうした態度を(対ヘーゲルに関して)「空想的で愚劣」と言っていた。だが、この2つの態度はおそらく同じことの裏返しであって、一方が「空想的」なら他方は「世俗的」であり、そして一方が「愚劣」なら他方は「鈍感」なのである。キルケゴールが「間接の攻撃」について問題にしたのは、哲学と哲学との「間」、「関係」、つまりコミュニケーションの範疇の問題だった。その範疇で「空想的」で「鈍感」である限り、哲学者としては失格である。そして、この哲学と哲学と「間」の範疇に属する言葉として、例えば、なにより「影響」という単語がある。そして、今この言葉を使って、「直接の共同作業」と「間接の共同作業」を区別する方法を見いだすことができる。
 つまり、一般に「他の哲学」から「影響を受け」、それをもとに自分の哲学を作るというすべての場合、それは「直接の共同作業」だと考えることができる。では、「影響」と「直接の共同作業」とを重ねて考えるとき、その意味はどのようなものになるのか。
 
 「影響」について、ヴァレリーはこう言っている。
「ある精神の作用が他の精神に及ぶと、偶然にもこれが特異な価値を帯びるということがよくあり、そうした出来事は、予想不可能であるばかりか確証することさえ全く覚束ないことが多い、能動的な結果を生むに至る。私たちにはっきりわかることと言えば、他から派生したこの能動性は、あらゆる型の知的生産にとって本質的なものだということである。科学においてであろうと、人文学においてであろうと、何らかの業績の源泉を尋ねるならば、ある人間が行うことは、別人が行ったことを反復するか反駁する──つまり、調子を変えて繰り返したり、洗練・増幅・単純化したり、意味を加えたり加えすぎたりする──か、さもなければ、抗弁したり転覆したり破壊したり否定したりするのだが、そうすることによって、先達の仕事をわが物にするとともに、眼には見えない形で利用するのである。正反対のものから正反対のものが生まれるのだ。/ある作家のことを私たちが独創性に富むと言う場合、その作家の精神の内で他の作家たちがどのように変身させられているかという、隠された過程を辿りきれていないのである。つまり、その作家が行うことは、極めて複雑かつ不規則な形で、他の作家たちが行ったことに依存している、と言いたいのである」。
 ここでは、ヴァレリーの言う「作家が行うことは、極めて複雑かつ不規則な形で、他の作家たちが行ったことに依存している」ということに同意できる。だが、その「依存」の中には「直接の共同作業」と「間接の共同作業」との2つがあり、それを区別しなければならない、と言いたいのである。そしてヴァレリーが言った「別人が行ったことを反復するか反駁する──つまり、調子を変えて繰り返したり、洗練・増幅・単純化したり、意味を加えたり加えすぎたりする──か、さもなければ、抗弁したり転覆したり破壊したり否定したりする」ということ、これらはほぼすべて「影響」であり「直接の共同作業」であると言いたい。
 事実、こうした他の哲学に対する「反復」「反駁」は、哲学者が自分の哲学を作り上げるために、他の哲学をいかに利用、活用するか、あるいはそれをいかに否定するかという問題へと集約されるように見える。そこでは他の哲学は、自分の思考のための「触媒」のようなものと見なされている。
 しかし、「間接の共同作業」にとっては、事態はそうではない。「間接の共同作業」の場合は逆に、「自己」の方が「複数の思考」にとっての触媒となるだろう。少々言い換えれば、「間接の共同作業」の場合、哲学はそのすべてを「他の哲学」に依存するだろう。ヴァレリーの言うように、「ある作家のことを私たちが独創性に富むと言う場合、その作家の精神の内で他の作家たちがどのように変身させられているかという、隠された過程を辿りきれていない」。だが「間接の共同作業」にとって、「その哲学者の精神の内で他の哲学者たち」はまったく「変身させられている」ことなく、ある意味で哲学者は、「他の哲学者」にすべてを依存して、自分の哲学を語っていると考えられる。T・S・エリオットは「先入見を持たないで詩人に近づくと、その作品のいちばんすぐれた部分ばかりでなく、いちばん個性的な部分でさえも、死んだ詩人たちつまりその祖先たちがそれぞれ不朽の名声を力強く発揮している部分なのだとわかる」(「伝統と個人の才能」矢本貞幹訳)と言っているが、「間接の共同作業」で起こるのはまさにそういうことなのである。
 
 ここでは何を言いたいのだろうか。つまり、「間接の共同作業」の場合、哲学者はその哲学すべてを厳密に「他の哲学」に負っており、この両者はある意味で完全に「合致」している、と言いたいのである。例えば、君がどう見てもキルケゴールは、その哲学の「いちばんすぐれた部分ばかりでなく、いちばん個性的な部分でさえも」ヘーゲル哲学そっくりそのままの形をしているのではないだろうか。そして、キルケゴールが今もなお哲学者として刺激的かつ挑発的な存在であるのは、彼の哲学がいわばあまりに厳密にヘーゲル哲学と「合致」しているがためではないだろうか。これに対して、ヘーゲルと「直接の共同作業」をしている哲学者は、実はヘーゲルにあまり似ていない。言い換えれば、ヘーゲルに「影響」を受けたとされるほとんどの哲学者は、ヘーゲルとの厳密な一致にまでは至っておらず、いわばその「イメージ」に関してある程度似ているにすぎない。この相違は相対的とも言えるが、ある意味では絶対的なものである。
 この相違は、ある意味でベンヤミンの比喩によって語られていた。ベンヤミンは「翻訳者の使命」の中でこう言っている。
「つまりひとつの器の破片が組み合わせられるためには、二つの破片は微細な点にいたるまで合致しなければならないが、その二つが同じ形である必要はないように、翻訳は、原作の意味におのれを似せるのではなくて、むしろ愛を籠めて微細な細部にいたるまで原作の言い方を翻訳の言語のなかに形成し、そうすることによってその二つが、ひとつの器の破片のように、ひとつのより大いなる言語の破片として認識されるのでなければならない。まさしくそれゆえに翻訳は何かを伝達するという意図を、また意味を、極端なまでに度外視しなければならない、そして、この観点からすれば、翻訳にとって原作は、それが翻訳者とその作品とを伝達の労苦と秩序化とからすでに解放しているかぎりにおいてのみ、本質的なのである。翻訳の領域においても、初めに言葉ありきが妥当する。それに反して翻訳の言語は意味に対しては自由に振る舞ってよいし、また自由に振る舞わねばならない、そうすることによって、それは翻訳固有の志向様式を、原作の志向の再現としてではなく調和として、原作の志向を伝達している国語への補完として、響動せしめるのである。したがってある翻訳が、とりわけそれが成立した時代に、翻訳の言語で書かれた原作であるかのように読めるということが、その翻訳にたいする最高の賛辞ではない。むしろ、その作品が言語完成への大いなる憧憬を語っているということこそ、逐語性によって保証される忠実の意義なのである。真の翻訳は透明であって、原作を蔽わず遮らず、翻訳固有の媒質によって強められた純粋言語の光を原作の上にいっそうくまなく射さしめるのである」(円子修平訳)
 ここでベンヤミンにならって言えることは、「ある翻訳が、とりわけそれが成立した時代に、翻訳の言語で書かれた原作であるかのように読めるということが、その翻訳にたいする最高の賛辞ではない」ように、ある哲学に対する最高の賛辞は、(他の哲学の「補注」や「批評」には見えずに)その哲学だけでオリジナルに生まれたように読める、というものではないということである。つまり、ある哲学が「あたかもそれだけで生まれたようにオリジナリティに満ちている」という賛辞、それはむしろ「哲学者の使命」(「翻訳者の使命」のある箇所でベンヤミンはこの言葉を使っている)に反したものの言い方である。事実キルケゴールの哲学は、彼が「ヘーゲルの体系の注」というとおり、それはヘーゲル哲学と「同じ形である必要はない」が、「組み合わせられるために」「微細な点にいたるまで合致」しているではないか。そのとき二つの哲学は「その二つが、ひとつの器の破片のように、ひとつのより大いなる言語(哲学)の破片として認識される」のではないか。あるいはそれを指して、キルケゴールは自分の哲学を「断片の哲学」と言っていたのだろうか。そこでは「オリジナリティ」という概念はむしろ無効である。そしてそこでは「そうすることによってそれは翻訳(哲学)固有の志向様式を、原作(他の哲学)の志向の再現(それは「影響」のすることである)としてではなく調和として、原作の志向を伝達している国語(他の哲学)への補完として、響動せしめる」だろう。まさしくヘーゲルとその「補注」であるキルケゴールは「響動」する。しかし、それは「影響」の範疇で行われることではなく、「間接の共同作業」のすることである。
 さらに言えることは、「翻訳は、原作の意味におのれを似せるのではなく」哲学もまた「他の哲学の意味」に「おのれを似せるのでは」ないということである。ここでいう「他の哲学の意味」とは、言い換えれば「他の哲学のイメージ」である。多くの場合、その「イメージ」は哲学の作者自身が持つイメージ、あるいは意図でもある。そこで、哲学者は「他の哲学のイメージ」あるいは他の哲学者の意図に対しては「自由に振る舞ってよいし、また自由に振る舞わねばならない」。この事態を指してキルケゴールは「間接的伝達」と言っていたのである。「人間と人間との間の普通の交際はまったく直接的である、なぜなら人は一般に直接に存在しているからである。もしだれか或る者が何事かを陳述し、そして他の者がその同じことを言葉通り承認するなら、彼らは一致しそして相互に理解したものと認められる。陳述者が思惟=現存在の二重性に注目していないが故にこそ、伝知(伝達)の二重反省にも彼は注目することはできないのである。したがって彼は、この種の一致が最大の誤解たり得るという事を感ずかないし、当然また、主体的に実存在する思想家が二重性によって自らを自由にした如く、伝知の奥義は他者を自由にするという点にあるという事、そして正しくその故に彼は自らを直接に伝えることはできず、いなむしろそのようなことをするのは不敬虔ですらある、という事を感ずかないのである」(「哲学的断片への結びの学問はずれな後書き」345)。
 つまりキルケゴールは、哲学者はその哲学を他者に「直接に伝えることはできず、いなむしろそのようなことをするのは不敬虔ですらある」と言う。それは、何に対しての「不敬虔」なのだろうか?(「哲学者の使命」に対しての?)。いずれにせよ、他の哲学を「言葉通り承認する」つまり「直接の共同作業」を行う哲学者は、それが「最大の誤解たり得るという事に感じずかないし」、その「不敬虔」に気づくこともないのだろう。むしろ、「伝知の奥義は他者を自由にする」。つまり「翻訳の言語は意味に対しては自由に振る舞ってよいし、また自由に振る舞わねばならない」。そしてそのとき、ベンヤミンが言う以下の事態が、哲学においても起こるはずである。
「諸国語の生成において発現を、いや、建立を求めているもの、それこそはあの純粋言語の核そのものである。(…)外国語のなかに鎖されているあの純粋言語を翻訳固有の言語のなかに救済すること、作品のなかに囚えられているこの言語を改作のなかで解放することが翻訳者の使命である。この使命のために彼は自国語の腐朽した柵を打ち破る」。
 
 結局のところベンヤミンは、「微細な点にいたるまで合致しなければならない」翻訳の場合、「原作」とその「翻訳」によって、その2つともどもその「一部」となる「全体」が呼び起こされる、と言うのである。ベンヤミンはそれを真の言語、「純粋言語」と呼ぶ。しかし、もちろんそれはあくまで「亀裂」を入れられた「全体」であって、完全な「全体」ではない。そこで、例えばこれらの破片同士が結合して「一つの器」を作り上げるのだとしても、その器は破片同士の亀裂から内容物が漏れ出ていくだろうから役立たずである。いわばこの「ひとつの器」は、手塚治虫の「ヒョウタンツギ」や「ブラック・ジャック」、そして登場人物たちからその「つぎはぎ」ぶりをからかわれていた初期「鉄腕アトム」のように、無理やりつぎはぎにされて作り上げられた合成物である。その場合、リアルなものは「亀裂」であって、「全体」とはそれを通して暗示されるにとどまるのではないだろうか。
 哲学の場合、どのような事態が起こるのだろうか。自分の哲学を「ヘーゲルの体系の注」というキルケゴールは、それを言葉通りにとれば、ヘーゲル哲学+キルケゴール哲学によって、より「完全」な哲学を実現しようとしているように見える。しかし、現実に行われているのは、キルケゴールの哲学とヘーゲルの哲学とは「微細な点にいたるまで」境界線=亀裂が引かれており、この2つに共有されるものは何ひとつ(あるいは、唯ひとつしか?)ないということではないだろうか。そして、この2つの哲学は「足し算」によって全体を作ることができない。「足し算」ができるのは、他の哲学に対して「継承者」あるいは「敵対者」の立場にある哲学、つまり「直接の共同作業」を行う哲学に限られるからだ。これに対して「間接の共同作業」をする哲学は、「継承」でも「敵対」でもない、いわば「ねじれの関係」(それはただ一点で交わる)を哲学と哲学の間に作り出す。そこで、その2つの哲学を並べるとき、示されるのは「全体」というよりむしろ「別の次元」となるだろう。つまり、「哲学」が必然的にとるだろう次元に対し、いわば「垂直」の方向が示される。そしてその亀裂からは光が差し込むだろう。「真の翻訳は透明であって、原作を蔽わず遮らず、翻訳固有の媒質によって強められた純粋言語の光を原作の上にいっそうくまなく射さしめる」。つまり哲学は、それと「間接の共同作業」をする他の哲学によって、強められた光を受ける。しかしそれは何の光なのか? 翻訳にとっての「純粋言語」に値するものは、哲学の「共同作業」にとっての何なのか? 「行間を読む」という言い方がある。明示されざるものを苦心して読み取るという意味のこの言い方が、単なるフィクションではないある現実性を持っているとすれば、「哲学と哲学の間を読む」ことも同様に意味を持っているはずである。そして前者が「一つの文章の見えざるテーマ」を読むことだとすれば、後者こそ今求めたいものである。この哲学と哲学の間から差し込む光は、ある「全体」を暗示するのかもしれない。そして、翻訳が今ある言語の相対的な不完全性を示すことによって「純粋言語」を暗示するのだとすれば、ここでの暗示もそれと同様の方法によってなのかもしれない。つまり、哲学と哲学の間の「亀裂」=「境界線」は、そのまま他の哲学そのものの「定義」となり、その言葉通りの意味で「明確化」「限定化」(define)となるはずである。「間接の共同作業」は、先行哲学を「定義」し「限定」する(それはイメージにおいてのみ似る「影響」には決してできない)。しかし、それは何に対しての「限定」なのか? 「限定」される以上、その哲学は「全体」ではない。そしてヘーゲルの言うように「真理は全体である」とすれば、それはもはや「真理」ではない。しかし、光はまさに、この「哲学」と「真理」とのズレからやってくるはずなのである。
 
 そして、この光がある「愛」を通してはじめて発現するということには、やはり注意しておくべきだろうか。つまりベンヤミンはこう言っていた。「翻訳は、原作の意味におのれを似せるのではなくて、むしろ愛を籠めて微細な細部にいたるまで原作の言い方を翻訳の原作のなかに形成し、そうすることによってその二つが、ひとつの器の破片のように、ひとつのより大いなる言語の破片として認識されるのでなければならない」と。「愛を籠めて」、しかしその「愛」は、通常考えられている「愛」とはかなりかけ離れている。ふつう「愛」とは、相手の「意味に」、つまりそのイメージに「おのれを似せる」ことであるはずである。例えば「名訳」といわれる多くの翻訳のように、そして哲学者に対する多くの「学派」のように、対象のそれらしいイメージに「おのれを似せる」ことであるはずである。しかしベンヤミンの言う「愛」は、対象である原作の厳密な「定義」「限定化」を行い、それによって対象の真理とのズレを作り出す。むしろその「愛」は、原作を新たな「光」のもとに照らし出す「改作」なのである。「外国語のなかに鎖されているあの純粋言語を翻訳固有の言語のなかに救済すること、作品のなかに囚えられているこの言語を改作のなかで解放することが翻訳者の使命である」。
 しかし、翻訳者の原作への「愛」についての語るこの言い回しは、むしろ原作へのある種の反抗をも暗示している。つまり、原作を「改作」し、その中に「鎖され」「囚えられている」ものを「解放」「救済」するというのなら、そこには原作へのある種の攻撃が不可欠なのではないかということである。事実、翻訳者の原作への「愛」は、「純粋言語」を救済するための攻撃と共存していて、この「愛」と「攻撃」とは切り離し不可能なものなのではないだろうか? つまりそれは、キルケゴールがヘーゲルに対して「間接の攻撃」と言っていた事態そのものなのである。「ヘーゲルに対する若者の称賛、彼の熱狂、彼の極まりない信頼は、正しくヘーゲルに対する風刺である」。
 キルケゴールもまた、ベンヤミンが翻訳者について言うのと同じように「愛を籠めて微細な細部にいたるまで」ヘーゲル哲学と合致する。それは、キルケゴールによればヘーゲルへの「間接の攻撃」=「最も危険な攻撃」となる。多分、そのキルケゴールのヘーゲルへの「愛」と「攻撃」は、「ヘーゲル哲学のなかに鎖され」「囚えられている」ものを「救済」し、それを「改作のなかで解放」しているのではないだろうか? つまり哲学に降り注ぐ「光」がそこから現れるのである。
 そして引用の中にあるように、キルケゴールはヘーゲルへの「愛」は「そうとは気付かずに」、つまり意識しないままに「最も危険な攻撃」となると言う。つまり哲学にとって最も重要な事態は、その哲学者が「そうとは気付かない」場所で起こる。言い換えれば、哲学者は彼の最も重要な作業を、そうとは気付かないままに行う。なぜ「気付かない」のだろうか? この「最も危険な攻撃」、つまりヘーゲル哲学の「改作」は、第三者的立場からの哲学の「解釈」あるいは「鑑定」ではなくて、キルケゴールの哲学とヘーゲルの哲学の厳密な「合致」によって、つまりこの2つの哲学の境界線の新たな創出によって行われるからだ。キルケゴールは思考し、そしてその著作を書くのだが、それは彼のヘーゲル解釈であると同時に、その思考と著述がそのまま彼自身とヘーゲル哲学との関係の創出になるのである。言い換えればキルケゴールの思考は、その思考自体がヘーゲル哲学との関係の一因子だからである(自分の思考それ自体がある事態の一要素となるとき、思考する者はそのすべてを理解し見通すことができるだろうか)。「翻訳者の使命」でベンヤミンが言った「哲学者の使命」という言い方をここで使うなら、「哲学者の使命」は、哲学者の意識できない場所で遂行されるのである。
 普通、意識できないとは、思考できないということである。思考できないとは、哲学できないということである。つまり、ここにはある種の不可能があるわけである。したがって、もし思考という作業が哲学にとってすべてであるのなら、思考という概念は、意識の領域から何らかの形で移動されなければならない。君は思考する。けれどもこの作業の最も重要な部分は意識不可能であり、「思考」と意識の「主体」とはいわばその軸を異にしている。「私」が思考するとき、その最も重要な場所を「私」は知らないのだろう。その意味で、思考は私の他者なのである。
 
 他の哲学の「定義」とは、つまり「解釈」である。つまり、この場合で言えばキルケゴールの哲学は、ヘーゲル哲学に対する解釈にそのすべてがかけられているわけである。そしてこの「解釈」は、その哲学の通常のイメージ、つまり多くの哲学者によるアカデミックな解釈からは普通遠く離れている。ちょうどヘーゲルが「哲学史」を自分の哲学の準備と見なしたように、それは哲学史を読み換え、自らがそれとの新たな力関係に入っていくことを意味しているからだ。この意味で、解釈とは哲学と哲学との間に働く一対一の特別な力関係であり、それは通常、赤の他人にはデフォルメされた(デタラメな)解釈にしか見えない。キルケゴールとヘーゲルの場合で言えば、キルケゴールの哲学はヘーゲル哲学そのものにとって不可欠な「一部」(なにしろ「注」なのだから!)となるのだが、言い換えればここではキルケゴールの哲学がヘーゲル哲学の新たな定義の「原因」となるのである。あるいは、この「解釈」の場の中では、どちらが「原因」か「結果」かという区別が意味を失なうのである。
 ヘーゲルは、キルケゴールとの共同作業の中で、彼が自分について考えていたのとは異なる役割を演じている。つまりヘーゲル哲学は「強められた光」を受けて、思いもかけない新たな角度から読み直されている(この点で最もいい例は、やはりデュシャンの「L.H.O.O.Q」だろうか)。ここでのキルケゴールの方法は、ヘーゲル哲学を延長したり、あるいはヘーゲル的ではない「他の哲学」を樹立するような多くの哲学者の方法とは異なっている。それらはいずれも、ヘーゲル哲学をそのままの形にしておいている、いわば「ヘーゲル哲学をスタートさせるがままにする」ことにおいて共通している。しかしキルケゴールは「注」の追加によって、ヘーゲル哲学が単独で持っていた意味に、ある変容、ズレを導入する。ヘーゲルが自身の哲学を「真理」(=「全体」)と言っていたとすれば、ヘーゲル哲学はこの「真理」との、たとえ微細であれ確実に存在するズレ、隙間を告知されるのである。この隙間によって、ヘーゲル哲学は一種の空中楼閣性を示される。そしてそれ以後、ヘーゲル哲学はもはや、それ「単独」というものを考えることが不可能なまでになるだろう(いわば、ヘーゲル哲学は「髭を剃ったモナ・リザ」になる)。そこにキルケゴールの哲学が存在するこの隙間は、彼によれば「断片」「小品」「短編」である。しかし同時にそれは、無限の、探求され尽くされない領域だったのではないだろうか。ヘーゲルがいったんつかんだと考えた「真理=全体」は、わずかな「隙間」を残して逃れていく。この決して制覇されえないわずかな距離は、キルケゴールの言う「瞬間」なのである。つまり(ライプニッツ流に記号化すれば)「dt」、空間概念として捉えるなら「dx」となるそれ。
 キルケゴールはこう言っている。
「ヘーゲルとその学派は、前提なしに哲学を始めること、あるいは哲学の前には完全無欠の無前提以外になにものも先行してはあいならぬという、とてつもない思想によって世間をあっといわせはしたが、しかし移行とか、否定とか、媒介とか、つまりヘーゲルの思想におけるもろもろの運動原理は、その体系的展開のなかで一定の居場所を与えられもしないで、何の気がねもなしに使われている。これが前提でないというのなら、前提とはいったい何のことだか私にはわからない。どこにも説明しないでそれを使うことが、そもそもそれを前提することなのだ」「体系的思想はその奥底の動きについては何か隠しだてをしているように思われる。否定、移行、媒介は、三人の覆面した、うさんくさい秘密のスパイで、これらが一切の運動をひき起こすのである。よもやヘーゲルもこれらの連中を不逞の輩とよぶようなことはあるまい。」「このことば(移行)は歴史的自由の領域にその故郷をもっている。移行はひとつの状態であり、また現実的だからである。純粋に形而上学的なもののなかへ移行を持ち込むことの困難さについては、プラトンも十分によく理解していた。だからこそ瞬間というカテゴリーのためにあれほどの努力を払ったのである。この困難を無視することは、明らかにプラトンを乗り越えて『前進する』ゆえんではない」。(「不安の概念」田渕義三郎訳)
 ヘーゲルが哲学を建築するにあたって無定義のまま常に使っていた「否定」「移行」「媒介」が、キルケゴールによって、それ自体探求に値する重要な問題として取り上げられる。これによって、ヘーゲルはいわばその足元を幾分かすくわれてしまっている。さて、上の引用の後はこう続いている。
「ところで、私はいつぞやある思弁家がこんなことを言っていたのを聞いた覚えがある。あまり先回りしていろいろな困難をひどく気に病んではいけない、そんなことをしているようではけっして思弁にたどり着けるものじゃない、と。このように、大切なのは自分の思弁が真に思弁となることではなく、ただ思弁にたどり着くことだけだというのなら、思弁にたどり着くことだけに気をくばるがいいと、まったくきっぱり言ってのけることもできよう。ちょうど自家用馬車でデューアハーヴェ(コペンハーゲン近郊の自然公園)に乗り込むほどの資力のない男が、そんなことはなにもくよくよすることはないさ、けっこう乗合(おんぼろ)馬車で行けるじゃないか、と言ったとしたら見上げたもので、それと同じである。まったくそれにちがいない。どちらの乗り物にしたところで、たぶんデューアハーヴェに行けるはずである。これに反して、どうにかこうにか思弁にたどり着けるものなら、乗り物など何であろうとかまうものかと固く心にきめてかかるような男は、めったに思弁にたどり着けるものではない」282
 だとすると、いったん明らかにデューアハーヴェに着いたかに見えた男(ヘーゲルを指している?)は、本当はそのスタートの段階でつまづいていたのだということになるのだろう。「この困難を無視することは、明らかにプラトンを乗り越えて前進するゆえんではない」とキルケゴールが言うように、男は本当はデューアハーヴェへ向かって「前進」などしてはいなかったのだろう。
 この「デューアハーヴェ」行きの話は「不安の概念」ではここで終わるのだが、キルケゴールはそのあと再び「哲学的断片への結びの学問外れな後書き」で、デューアハーヴェに行くことの意味について、宗教上のスパイ(異端審問官?)と一人の男との長い対話という形で考察している。そこで男はこう言う。「デューアハーヴェに行く事は、もし人がそれが自由にできるのなら、また仕事の妨げとならぬなら、妻子とそれに召し使いをも一緒につれて行き、そしていい時間に帰宅するなら、無邪気な喜びであり、人は無邪気な喜びに参加すべきであり、臆病に修道院へ行くべきではない、これは危険を避けるというものだ」。スパイはこう言う。「だが君は我々の会話の初めに、君は前の日曜日に牧師が、人間は全く何事もなし得ない、そして我々は常にそのことを考えてみるべきだと言うのを聞いたと言わなかったか、そして君はそれを理解したと言わなかったか?」。「左様」。「すると君は、問題になっている点を忘れている。それが無邪気な楽しみだと君が言うとき、それは責めある事柄の反対である。だがこの対立は道徳または倫理に属する。これに反して牧師は神に対する君の関係について語るのである。デューアハーヴェに行くことが倫理的に許されているからといって、それが宗教的に許されているということには勿論ならない。そして、ともかく、牧師の言葉によれば、神の思いと結び付ける事によって君が証明しなければならないのは、正しくこの事なのだ。ただ注意すべきは、それが単に一般的にというのではないことだ」239。
 単に「無邪気な楽しみ」であり、簡単な行いだと思われていた「デューアハーヴェ」行きは、こうしてこの男にとって途方もなく困難な、あるいは不可能な行いであることが明らかとされる。いわば「デューアハーヴェ」の前には一人の門番が立っていたのである。そこへ一人の男、困難など予期しておらず、公園というものはだれにでもいつでも近寄れるはずだと考えている男がやってきたが、しかし門番は今は入ることを許せないと言うようなものである。キルケゴールはヘーゲルについて、もう一つ譬え話を「死に至る病」で語ってくれている。「ある思想家が巨大な殿堂を、体系を、全人世と世界史やその他のものを包括する体系を築き上げている──ところが、その思想家の個人的な生活を見てみると、驚くべきことに、彼は自分自身ではこの巨大な、高い丸天井のついた御殿に住まないで、かたわらの物置小屋か犬小屋か、あるいは、せいぜい門番小屋に住んでいるという、実におそるべくもまた笑うべきことが発見されるのである」(桝田啓三郎訳)474。これはデューアハーヴェの話の言い換えである。「ある思想家」は、てっきり「自分自身ではこの巨大な殿堂」に到達したと思っていたが、実際によく見てみると、彼はそこにはいないで、そのそばの「門番小屋に住んでいる」! 多分彼は、実際には門番小屋に住んでいるのに、「巨大な御殿」に住んでいるという幻想の中に生きているのかもしれない。それは「おそるべきもまた笑うべきこと」だろうか。この悲喜劇を解決するためには、彼の目をさまさせて、彼が実際に住んでいるのは「門番小屋」だということをまず分からせてあげなければならない。多分、それを教えるべき「門番」はたまたまこの偉大な思想家の場合は不在だった。そのため、彼は本当の門番の代わりに門番小屋に住むはめになってしまったのだろうか?(よくある話だろうか?)
 あるいは違う例を使えば、「デューアハーヴェ」とは亀のことである。古代ギリシャの俊足の英雄、アキレスが「永遠に」追い続けているあの亀。アキレスは亀なんてすぐ追い付くことができるさと考えていたが、実際にシミュレートしてみると、アキレスが亀のいた地点にたどり着いたときには、すでに亀は幾分か進んでしまっており、以下同様に繰り返され、アキレスは論理上「永遠に」亀に追い付くことができない(亀とアキレスの間には、dxという非アルキメデス体をなす無限小超実数の距離が「永遠に」存在する)。これは「飛ぶ矢」のパラドックスと同様、逆説であるが、しかしこれらのゼノンのパラドックスがある意味で今もなお挑発的であるように、キルケゴールのいう逆説(「デューアハーヴェに行くことが倫理的に許されているからといって、それが宗教的に許されているということには勿論ならない」!)もまた挑発的なのではないだろうか。
 この「アキレスと亀」がキルケゴールの思想の比喩として大変適切なものであることは、以下の2つの「不安の概念」からの引用によって明らかである。「こうして、罪は突発的なもの、すなわち飛躍によって現れる。(…)このことは悟性にとってはつまづきであり、ゆえにそれは神話なのである。そのかわりとして、悟性はひとつの神話を自身で創作するが、その神話は飛躍を否定し、円を直線に分解してしまい、こうしてすべてはなめらかに運んでゆく」228。「だから、人間は必然的に罪を犯すなどと言おうとするのは、飛躍という円を直線に引きのばすものである」316。曲線を直線に分解しようとすること(それはスタンダードな微分の思考法だが)は最終的には不可能であり、罪の飛躍を必然によって説明することが不可能であるように、アキレスは亀についに追い付くことはできない。つまり一言で言うなら、アキレス(=ヘーゲル)がただちに亀(=デューアハーヴェ)を追い越す世界から、アキレスが亀に「永遠に」追いつくことができないという世界への変容、それがキルケゴールによってヘーゲル哲学にもたらされた決定的変化なのである。そして逆説とは、多くの場合すでに存在する体系への批評としてある(プレ「エウクレイデス原論」の数学に対するゼノンのパラドックス、プレ「公理論的集合論」つまり「素朴集合論」に対するラッセルのパラドックス、「論理哲学論考」に対するウィトゲンシュタインのパラドックス…)。キルケゴールはこう言っている。「それはひとつの逆説であるようにみえる。だが逆説をくだらぬものと考えてはならない。逆説とは思想の情熱であり、逆説をもたぬ思想家は、情熱をもたぬ恋人、つまり『ただのお友達(パトロン)』にすぎないからである。しかしすべて情熱の極致は、自己自身の破滅を欲するところにある。それゆえ理性の情熱の極致も、理性自身にとってなんらかの仕方で破滅をもたらさずにいない『つまづき』を、あえて欲するところに見られるのだ。こうして、自分の力では考えおおせない問題を、ことさらに発見しようとするところに、思想のもちうる逆説の極致が現れる。こうした思想の情熱は根本的にはすべて思想といわれるもののなかにひそんでいるのである」(「断片の哲学」96)。そして「逆説をその最も簡潔な形に凝縮すれば、これを瞬間と呼びうるからである」114 

 さて、ここでは結論的に以上のように言った。だが、それは実は君の最終の判断ではないはずなのである。このキルケゴールの言う「逆説」、そして「アキレスと亀」のパラドックス、それらの話のあらゆる結論をことごとく見渡すことはまだできないし、それらの話が君を導いていったのは、君にとって不慣れな思考法でもあった。君にというより数学者の論議にふさわしいような非現実的な事柄だった。単純な話が形のゆがんだものになってしまい、実を言えばそんなものから自分を振り落としてしまいたいと思うのであった。
 だが、それがそうした単純な話が形のゆがんだものになってしまう不慣れな思考だとしても、このようなパラドックスの重要性は決して疑えない。それはあるいは「真実」ではないのかもしれない。だが、すべてを真実だなどと考える必要はない、ただそれを論理上必然だと考えなくてはならないのではないだろうか。
 したがって、それが「必然」である以上、君はこの「不慣れな思考法」をたどり続ける。それは、数学にとって、パラドックスの創出という不慣れな思考法が、他のなによりもその前進に力を持ったということを君は知っているからである。
 
 
 しかし、君はこうした論述の中で、比喩を使い過ぎてはいないだろうか?キルケゴールが言ったデューアハーヴェの話が、ここではゼノンのパラドックスの「アキレスと亀」の話や、カフカの「律法の門前」の話に譬えられる。それらの比喩の濫用のため、キルケゴールについて語ろうとする論点がむしろ曖昧なものとなる危険に君は陥ってしまっているのではないだろうか。いうまでもなく、これらの「譬え話」はすべてちがったコンテクストのもとに成立しているからである。
 しかし、実はまったくそうではない。むしろ君は、かつて彼からこう言われていたではないか。「君の比喩の使い方は、ボルヘスの『カフカの先駆者たち』からきてるんだろう? ボルヘスはこう書いているじゃないか。「わたしはかつてカフカの先駆者たちの全体的展望を思いたったことがある。彼のことを初めのうちは、伝説の鳥不死鳥のように、類例を見ない独自の存在だと思っていたが、彼をよく知るにつれ、様々な文学、様々な時代のテクストのなかに、彼の声、彼の癖を認めるように気がしたからである。以下にその一部を年代順に記録しておく。/最初は運動を否定するゼノンの逆説である。A点にいる運動する物体はB点に到達することができない。なぜなら、それはその前にAB両点の中間点に達せねばならず、さらにその前には中間点の中間点に、またその前には中間点の中間点の中間点に、というように無限の中間点に到達せねばならない。この有名な命題の公式は、まさしく「城」のそれと同じである。こうして、運動する物体と矢とアキレスが文学における最初のカフカ的登場人物である。(…)第三のテクストは、これまでより容易に見当のつく出典、すなわちキルケゴールの著作から採られている。両作家の知的親近性はほとんど誰もが知っていることである(…)。北極探検がもう一つの寓話の主題である。説教檀に立つデンマークの牧師たちは、探検に参加することは魂の救済にとって有益であろうと告げていたが、やがて彼らは、北極に到達することが困難であり、たぶん不可能であること、こうした冒険が誰にもできるものではないことを認める。彼らは最後に、どのような旅行も──例えば、定期便によるデンマークからロンドンへの船旅も──貸馬車による日曜ピクニックも、実際の北極探検になると宣言する』。君の取り出す比喩は、この『カフカの先駆者』そのままなわけだ」。
 そして「確かにその通りだ」と君は答える。「もっともぼくは、ボルヘスがカフカの先駆者として、ゼノンのパラドックスと、あとキルケゴールや韓愈を挙げている、ということしか知らなかったんだけど。あとで『カフカの先駆者たち』を読んでみると、キルケゴールの寓話というのは、まさにデューアハーヴェに行く話そのままだ。そのキルケゴールの北極行きの寓話は読んではいないけれど、多分デューアハーヴェという名前も出て来るんじゃないかな。でもまあ、それはいいのさ。確かに君の言う通りで、ぼくの比喩の出し方はボルヘスの文章そのまま。ただしボルヘスの言う『程度の違いこそあれ、カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然と現れているが、カフカが作品を書いていなかったら、われわれはその事実に気づかないだろう』とは思わないけど(「アキレスと亀は歴然とキルケゴールの先駆者になっているよね)。ぼくとしては、キルケゴールも言っているように『新しい物事を発見するのがわたしの願いではなく、むしろしごく単純と思われるようなことについて思索するのがわたしの喜びであり、わたしの気に入りの仕事』なんだから」。
 けれども、君は同時にこう思う。なぜ、君はキルケゴールについて書きながらカフカを呼び起こそうとするのだろう? そもそもキルケゴールをヘーゲル哲学の「注」であるというのを「それはむしろ『補注』なのである」と書いたとき、君はカフカを念頭に置いていた。ベンヤミンは言っている。「カフカは、あるkomplementäre Welt(補角的世界、補足的世界)の中に生きている(この点で彼はクレーによく似ている。クレーの絵画における仕事は、カフカの文学における仕事と同じように、本質的に孤立している)。カフカはかれを取り巻いていたものを認めなかったが、それを補足するものを認めた」。二角の和が直線であれば、その二つの角は相互に補角をなす。この「補角」という比喩は、ベンヤミンが言った「ひとつの器の破片が組み合わせられるためには、二つの破片は微細な点に至るまで合致しなければならない」という比喩とあまりに似ている。そもそも「翻訳者の使命」は、一つの言語が他の言語を「補完」するという言い回しを多用していた。キルケゴールはヘーゲル哲学に対する「補注」である。だがそれはキルケゴールが「補角的世界を生きている」ということではないだろうか。カフカはキルケゴールについて言っている。「ぼくが予感していたように、彼の場合は、いろいろな本質的相違にもかかわらず、ぼくの場合と非常によく似ている。少なくとも彼は世界の同じ側にいる。彼はまるで友人のようにぼくの肩を持ってくれている」(「日記」1917年10月8日)。この「世界の同じ側」、それは一つの角度に対する「補角的世界」、一つの「本文」に対する「補注」的世界なのであると君は思う。
 だが、問題となるのはむしろ、カフカの言う「本質的相違」であるのかもしれない。キルケゴールとカフカとが「世界の同じ側」にいながら「本質的相違」を持っているとすれば、君はキルケゴールがカフカと重なり合う部分だけを読もうとしているのではないだろうか。この2人はやはりまったくちがっている。例えば君はキルケゴールに対して尋ねる問いの答えをカフカに聞くことはありえるが、その逆は決してありえないだろう。君は確かにキルケゴールに尋ねるが、その答えはいつでも他の人からかえってくるのだと思う。













































































                   
 というより、一般的に言って、人がある著作家に尋ねるとき、その答えは常に他の著作家から帰ってくる(べきな)のではないだろうか?
 
 なぜならある人がある著作家に尋ね、答えがその著作家から返ってくるとき、それは多くの場合、その人とその著作家とが「イメージ」において重なる部分から返ってくるにすぎないからだ。つまりそれは多くの場合イマジナリーな空間での自問自答、自己確認(自己満足)に終わるのである(もちろんそこに第三者としての他の著作家が入ればそれで自問自答が避けられるというわけではない)。
 
 その中で「何の気がねもなしに使われている」「ヘーゲルの思想におけるもろもろの運動原理」、つまりヘーゲル哲学の立つ地盤が持つ困難な「逆説」がキルケゴールの哲学との接触によって析出化されることによって、この「体系」は地盤の堅固性を失って、いわば空中楼閣のようにふらつき始める。
 ある意味では、このヘーゲル哲学の持つ「逆説」の問題の探究が、そのままキルケゴールの哲学だといってもいいのである。先の引用の通りキルケゴールは、ヘーゲルは何の前提なしに哲学をはじめるのだと言いながら「否定、移行、媒介」といった運動原理が「その体系的展開のなかで一定の居場所を与えられもしないで、何の気がねもなしに使われている」と言っていた。「これが前提でないというなら、前提とはいったい何のことだか私にはわからない」。つまり「否定、移行、媒介」というヘーゲル哲学の(無定義)用語は、キルケゴールによれば現にヘーゲル哲学の「前提」でありながらその「体系的展開のなかで一定の居場所」のないもの、言い換えればヘーゲル哲学の内部でもあり外部でもあるもの、つまりヘーゲル哲学の境界=限界なのである。キルケゴールはヘーゲルがその哲学を建築するにあたって縦横無尽に使いまわしていたこの「否定、移行、媒介」を(実際にキルケゴールが主に問題にしたのは「移行」についてだったが)、「瞬間」と同様の逆説をはらむ問題として取り上げた。それによって確かにヘーゲル哲学はある種の空中楼閣化を余儀なくされる。だがそれと同時に確認すべきなのは、この「否定、移行、媒介」というキルケゴールの言う「三人の覆面した、うさんくさい秘密のスパイ」が、キルケゴールの哲学とヘーゲルの哲学とが接する唯一の地点、つまりこの2つの哲学の「境界線」としてあったということである。
 つまりヘーゲル哲学の中の「移行」は、キルケゴールの哲学のすべてがそこからスタートする「前提」あるいは境界となっている。キルケゴールの言うように「このことば(移行)は歴史的自由の領域にその故郷をもっている」。そのように、キルケゴールは「移行」の問題によって、「歴史」の問題、「自由」の問題を取り上げたと言えるだろう。「移行はひとつの状態であり、また現実的だからである」と言うように、彼のいう「現実」の問題を取り上げたと言えるだろう。「純粋に形而上学的なもののなかへ移行を持ち込むことの困難さについては、プラトンも十分によく理解していた。だからこそ瞬間というカテゴリーのためにあれほどの努力を払ったのである」。そのように、キルケゴールは「移行」によって、「瞬間」という彼の中心的テーマを受け取ったと言えるのだろう。つまりヘーゲルが「どこにも説明しないでそれを使う」前提が、キルケゴールの哲学にとって、そのもろもろの重要な概念が発生する「前提」となっている。つまりそれは、ヘーゲルとキルケゴールの2人がまさにその地点を背中合わせにして逆の方向を向く地点、哲学と哲学の間の「境界線」なのである。
 その「境界線」こそが、ヘーゲル哲学を空中楼閣に陥らせる「逆説」としてある。ところで2つの哲学の境界線とは、つまりベンヤミンの「一つの器」の比喩にいう亀裂なのだった。哲学と哲学が「ねじれの関係」において交わるただ一点、それが「逆説」である。
 
 ヘーゲル哲学という「本文」に対して自分の哲学を「注」であると言うのと同様、キルケゴールの言う「断片の哲学」はヘーゲルの「体系」「全体」へ向けての「間接的攻撃」である。ということは、ヘーゲル哲学とキルケゴールの哲学との関係は、完全に非対称である。つまり「注」はその原因を「本文」に依存しており、「注」である哲学は先行する哲学なしには存在しない。もちろんこれは、オリジナリティの不足、自立性の不足などではなく、「歴史」の定義そのものとして考えられるべきことであるが。この関係の非対称性は、翻訳の場合「原作」と「翻訳」という非対称性である。そして、それは「翻訳者の使命」のベンヤミンによって「詩人の使命」と「翻訳者の使命」の相違として語られていたものなのである。
「ルター、フォス、シュレーゲルなど優れた翻訳者たちは詩人としてよりは翻訳者としてはるかに重要である。他方、ヘルダーリーンやゲオルゲのような優れた詩人は、かれらの活動の全体から考えるならば、詩人の概念だけによって把握することができない。かれらを翻訳者としてだけで把握できないことはいうまでもない。つまり翻訳がひとつの固有の形式である以上、翻訳者の使命もひとつの固有の使命として把握され、詩人の使命とは区別されねばならないのである。
 翻訳者の使命は、翻訳の言語への志向、翻訳の言語のなかに原作の反響を目覚めさせるあの志向を発見することにある。この点に創作とは根本的に異なる翻訳の特徴がある、というのは創作の志向はけっして言語そのもの、言語の全体性に向かうのではなく、直接的に、特定の、言葉による意味の関連だけをめざすからである。しかし翻訳は、創作のようにいわば国語の森林そのもののなかにあるのではなくて、その外にあってこれと対峙する、そして、その森林に踏み込むことなしに、翻訳の言語の谺が外国語で書かれた作品の反響を発しうるあの唯一の場所に原作を呼び込む。翻訳の志向はたんに創作の志向とは別ななにものかをめざすばかりではない、つまり、外国語で書かれた個々の芸術作品から出発してひとつの言語全体をめざすばかりではなく、それ自体が別な志向でもある。詩人の志向は素朴な初発的な直感的な志向であり、翻訳者の志向は演繹的終局的理念的な志向である」。
 さて、ここで言われていることはすなわち哲学について言われていることなのである。つまり哲学には、他の哲学と厳密に合致する、つまり他の哲学との「間接の共同作業」を志向する哲学と、そうしない「詩人」的(「本質的に詩人」と言われたハイデガー…)あるいは「創作」的(哲学における「教養小説」と言われる「精神現象学」…)哲学とがあるということなのである。
 「詩人」的「創作」的哲学は、いわば「哲学の森林そのもののなかにある」。それは、哲学をスタートさせるがままにさせた自然発生的な(国語的な)哲学、人が哲学を行うとき、ごく自然にスタートするだろう思考法である。それに対して「補注」となる哲学は「その外にあってこれと対峙する、そして、その森林に踏み込むことなしに、補注である哲学の谺が本文である哲学の反響を発しうるあの唯一の場所(「ねじれの関係」にある哲学と哲学とが唯一共有するあの「一点」?)に本文である哲学を呼び込む」。それは、「創作」的哲学そのものを対象とするという意味で、「創作」的哲学に対してある意味で「高次」の哲学、言い換えれば第2次の哲学となるだろう。あるいはそれは「創作」的哲学に対してそれを「再考」する哲学となるだろう(キルケゴールは「不安の概念」で言っている、「よく知られているように、アリストテレスは『第1哲学』という名称を用い、この名称によってさしあたり形而上学的なものを示した(…)。『第1哲学』を、内在またはギリシア的にいって想起を本質とする学問、あるいは異教的学問ともいえる学問全体の意味にとり、『第2哲学』を、超越または反復を本質とする学問の意味にとることができる」217)。つまり「翻訳者の使命もひとつの固有の使命として把握され、詩人の使命とは区別されねばならない」ように、「詩人的創作的哲学の使命とは区別されねばならない」「ひとつの固有の使命」が哲学にはあるのである。
 ベンヤミンにならって言えば、「創作」的哲学は「素朴な初発的な直感的な」哲学であり、その志向は「けっして哲学そのもの、哲学の全体性に向かうのではなく、直接的に、特定の、哲学による意味の関連だけをめざす」。それに対して他の哲学の忠実な「補注」である哲学は、そのような「特定の哲学による意味の関連」に関心を持つことはない。むしろ(すでに引用したように)「翻訳作品が言語完成(補完)への大いなる憧憬を語っているということこそ、逐語性によって保証される忠実の意義なのである」ように、「補注」である哲学は、「意味の関連」の中でのオリジナリティではなく、ただ「哲学完成」を、ここでいう「哲学そのもの、哲学の全体性」を求めることをその意義として持っている。つまり「補注」となる哲学は、「素朴な初発的な直感的な」「創作」的哲学と「哲学そのもの、哲学の全体性」との隙間(逆説)を発見し明確化することをその使命としている。再び比喩的に言えば、この哲学は、哲学=「アキレス」と、「哲学そのもの」=「亀」との隙間を発見し、かつ「補完」しようとするのである。更に言い換えれば、それは「直線」(限りなく円に外接、内接していく多角形)と「円」との隙間(それはどのような顕微鏡によっても見ることはできない!)を「演繹的・終局的・理念的」に発見しようと試みるのである。
 
 つまり「全体」に対しての「断片」の哲学が、言い換えれば「本文」としての哲学に対する「注」としての哲学が、「哲学そのもの、哲学の全体性」を間接的にではあれ指し示すことができる。「注」、「断片」、どう言うにせよ「第1の思考」に対する「第2の思考」、「再考」が「哲学そのもの」をはじめて暗示するという。
 しかし、そこにはある種の逆説があるようにも見える。つまり、他の哲学=「最初の思考」を前提にした「再考」が、なぜ「哲学そのもの」を呼び起こすということになるのだろうか? なぜならそれは、「再考」ではない「思考」によっては「哲学そのもの」を呼び起こすことはできないと言っているように見えるからだ。事実、もし「思考」によっては「哲学そのもの」に近づくことができないとすれば、思考には一体どのような意味があるのだろうか?
 しかし、常識からどう見えるにしても、それは事実である。というより、むしろ積極的にこう言うべきなのではないだろうか、つまり人は思考すればするほど「哲学そのもの」からは遠ざかる、と。言い換えれば、原理的に人は考えれば考えるほど間違う。少なくとも、考えれば考えるほど「哲学者の使命」からは遠ざかる。
 なぜそのように、「思考」の進行と「哲学そのもの」あるいは「哲学完成」とがくいちがうのだろうか? 答えは明快であり、つまり普通、人が「思考」と呼ぶものは、哲学の内部で「意味の関連」を求めることにあるからだ。創作がそうであるように、哲学的思考もその中で「意味の関連」が豊かになればなるだけ、思考が根底に持つ逆説から遠のいていく。したがって、君は思考しはじめたとたん「哲学そのもの」から遠ざかる。
 つまり、思考それ自体は「哲学そのもの」に近づかないだろう。「哲学者の使命」にとっては、むしろ「思考をスタートさせるがままにさせること」(何度か使うこの言い回しは、ブランショの「物語をスタートさせるがままにさせることへの激しい拒絶」という言い方からの借用)への留保が絶対に必要となるのである。では、それは「考えない」ことを意味するのだろうか? もちろん、そうではない。では、どうちがう?
 
 マルセル・デュシャンは「人間が持つアイデアは生涯に1つか2つ」と言っている。それは正しいのだが、より正確にはそのアイデアは多くの場合、他者のアイデアから触発された「再考」あるいは批評なのである。この最もよい例の一つは、ラッセルの論理学への批評である「論理哲学論考」と、それへの批判である「哲学探究」の著者であるウィトゲンシュタインだろうか。ウィトゲンシュタインはその生涯に2つの大きな仕事を成し遂げた(それは論理実証主義と日常言語学派という潮流を生む)。だが、いずれもその核心のアイデアは極めて短い時期に形成されている。つまり、「再考」はそれがどれだけ長い期間にわたる労作であれ、そのアイデア自体はきわめて短い期間に形成される。すなわち、他者のアイデアへの批評として(もしデュシャンの「遺作」が、「大ガラス」への「批評」だったとしたら!)。
 さらにボルヘスはこう言っている。「どんな人の人生も、それがどれだけ複雑かつ充実したものであっても、実際は一つの瞬間からなりたっているのではないか――わたしはかつてそう思ったことがある。人が己の何者なるかを永久に知るあの瞬間のことだ。わたしが右に再現を試みた、誰も知らない啓示の一瞬から、カリエゴ(カフカと同年生まれの詩人)はカリエゴになる。この時、彼はすでにある詩行の作者であり、後年彼はそれを次のように着想することを許されるだろう」(「カリエゴ覚書」中村健二訳52)。ボルヘスが詩人について説明するこの「一瞬」は、哲学にとっても当てはまる。「どんな哲学も、それがどれだけ複雑かつ充実したものであっても、実際は一つの瞬間からなりたっている」。キルケゴールの思想は「一瞬」からなりたっている。それは「ヘーゲルに対する若者の称賛、彼の熱狂、彼の極まりない信頼」が、彼自身「そうとは気づかずに風刺」となったあの瞬間である。この時、彼はすでにある哲学書の作者であり、後年彼はそれを「不安の概念」「哲学的断片」「死に至る病」などの形に形成することを許されるだろう。
 このボルヘスの言う「ひとつの瞬間」を、「翻訳者の使命」のベンヤミンが空間における「ただ一点」として語っていることを付け加えておくべきである。
「この観点からすれば翻訳と原作との関係において意味にどのような意義が残るかは、ひとつの比喩によって把握できる。すなわち、接線が円につかの間しかもただ一点において接触するように、そして、点ではなくてこの接触がさらに無限へとその直線軌道をたどるこの接線の法則を規定しているように、翻訳は、言語運動の自由のなかで忠実の法則にしたがいながらそのもっとも固有の軌道を辿るために、つかの間、しかも意味の無限に微小な点において、原作に接触するのである」。
 そのように、キルケゴールはヘーゲル哲学に「ただ一点(逆説)において接触する」、そして「点ではなくてこの接触がさらに無限へとその直線軌道をたどるこの接線の法則を規定している」。それは具体的にはキルケゴールがヘーゲル哲学とともに作り出した「亀裂」であって、彼はその無限へと辿る思想の軌道においても、ある意味でこの亀裂から離れることは全くない。この意味でキルケゴールの「再考」はすべて、他の哲学との間に生じた「一瞬」から成り立っている。
 
 ヴァレリーは言っている。「哲学することが可能なのは、直感を記述することの不可能性にもとづく。彼らは考えている以上のことを語る。/思索者が『存在』等などについて語るさい、もしその瞬間に彼が考えていることを正確に人が見抜いたら、哲学のかわりに何が発見されることだろう。/『われ思う(コギト)』とは何か。せいぜいが翻訳不可能な状態の、翻訳でないとしたら」(カイエB1910 村松剛訳)
 したがって、ヴァレリーによれば哲学の可能性はある種の不可能性に基づくわけである。それは「直感を記述することの不可能性」だという。しかし、「直感」は天から(あるいは無意識から)やってくるインスピレーションなのだろうか? しかし、「無」から直感が現れるなどといういわば神秘的出来事は本当にあるのだろうか(すでに言ったが、それは無用な形而上学なのではないか?)。むしろ、ヴァレリーの言う「直感」は、デュシャンのいう「一生のうち1つか2つ」という「アイデア」ではないだろうか。つまり、ボルヘスの言う「人が己の何者なるかを永久に知るあの瞬間」。
 ヴァレリーは「哲学者は考えている以上に語る」と言う。しかし、普通に言う「考える」が(ヴァレリーの言ったように)「自分が語るのを聞く」ことだとすれば、「考える以上に語る」というときのそれは何なのか。いうまでもなく、それは「直感」である。そして、それは「記述不可能」であるために、哲学者はそれ以上に語ってしまう。普通に言う「思考」が「自分が語るのを聞く」という意識的活動だとすれば、それと「直感」=「思考」との間にはズレがあるわけである。
 言い換えれば、「思考」とは記述不可能な「直感」であって、哲学者の「語る」こと(「書物」)ではないということである。哲学者の意識(「自分が語るのを聞く」)と思考にはズレがある。いわば、「考える」とは実践であって主観ではないからだ。君は自分が何を「考えている」のか本当は知らない。しかし、哲学の可能性はまさにこの原理的不可能性にもとづいているのである。
                  
 しかし、「再考」「補注」が暗示する「哲学そのもの、哲学の全体性」は、結局どのようなものなのだろうか? 
 ひとつ言えることは、この「哲学の全体性」は、ヘーゲルの言う「真理は全体である」というものとはその方向が全然ちがうということである。事実、ベンヤミンは「言語そのもの、言語の全体性」である「純粋言語」について、「翻訳者の使命」の中である種の留保を繰り返していた。「翻訳は、結局、二つの国語相互のあいだにあるもっとも内奥の関係の表現にとって合目的的なのである。翻訳はこのかくれた関係そのものを表示することはできないし、建立することもできない、しかし翻訳はこの関係を萌芽的もしくは集約的に実現することによってこの関係を発現させることはできる」。「このことはもちろん、あらゆる翻訳は諸国語の異質性に対処するひとつのともかくも暫定的な方法にすぎないという事実の承認を含んでいる。この異質性の一時的暫定的な解決とは別様な解決、瞬間的最終的な解決は人間には閉ざされている、あるいはいずれにせよそれを直接の目標とすることはできない」。
 そのように「哲学そのもの、哲学の全体性」もまた、「人間には閉ざされている」「瞬間的最終的な解決」なのだろうか? つまりそれは哲学者によって「それを直接の目標とすることはできない」が、ただ「補注」となる哲学によって「萌芽的にもしくは集約的に」「発現させることができる」にとどまるのだろうか?
 それが「萌芽的に」ではあれ示されるのは、哲学にとってはキルケゴールの言う「断片の哲学」であり、言語にとっては、ベンヤミンによれば何よりもヘルダーリンの翻訳である。
 
 ベンヤミンは言っている。
「シンタックスに関する逐語性もまた意味の再現を完全に崩壊させ、たちまち理解不可能に陥ってしまう危険を含んでいる。19世紀の眼にはヘルダーリンのソフォクレス翻訳がこのような逐語性の凄まじい実例と映ったのであった。(…)この翻訳においては、二つの言語がきわめて深く調和しているために、意味は風に触れられて鳴るアイオロス琴のように言語に触れられるにすぎない。ヘルダーリンの翻訳は翻訳という形式の原型である。そして、ピンダロスの第三ピューティア頌歌のヘルダーリンによる翻訳とボルヒァルトによる翻訳との比較がしめすように、それとテクストの完璧な置き換えとの関係は、原型(Urbild)と模範(Vorbild)との関係に等しい。しかしまさしくそれゆえに、他の翻訳にもましてそこにはあらゆる翻訳の巨大な根源的な危険、すなわち、拡大され完全に支配された言語の門が不意にしまって、翻訳者を沈黙のなかに閉じこめてしまう危険が潜んでいる。ソフォクレスの翻訳はヘルダーリンの最後の作品であった。そのなかでは意味は深淵から深淵へと転落し、竟には言語の底なしの深みのなかに失われようとする」。
 さて、ここでいう「二つの言語がきわめて深く調和している」という事態が、あの「ひとつの器の破片が組み合わせられるためには、二つの破片は微細な点にいたるまで合致しなければならない」という比喩によって表される「純粋言語」の発現を示すものであることは疑いない。翻訳、つまり言語と言語との衝突から「より大いなる言語」の発現が想定される。ただ「まさしくそれゆえに」それは、「意味の再現を完全に崩壊させ、たちまち理解不可能に陥ってしまう」「あらゆる翻訳の巨大な根源的な危険」と分離不可能なのだとベンヤミンは言う。
 
 「原型(Urbild)と模範(Vorbild)」。 
「キルケゴールが今もなお哲学者として刺激的かつ挑発的な存在であるのは、彼の哲学がいわばあまりに厳密にヘーゲル哲学と『合致』しているがためではないだろうか。これに対して、ヘーゲルと『直接の共同作業』をしている哲学者は、実はヘーゲルにあまり似ていない。言い換えれば、ヘーゲルに『影響』を受けたとされるほとんどの哲学者は、ヘーゲルとの厳密な一致にまでは至っておらず、いわばその『イメージ』に関してある程度似ているにすぎない」。
 このキルケゴールのヘーゲルとの「合致」については、すでに「間接の共同作業」という言葉を当てた。しかし、ここでベンヤミンにならって言うなら、キルケゴールの哲学はいわば「哲学における共同作業の原型(Urbild)」なのではないだろうか? ヘーゲルの「補注」となるキルケゴールとヘーゲルに「影響」を受けた多くの哲学者の相違、それは「(ピンダロスの第三ピューティア頌歌の)ヘルダーリンによる翻訳とボルヒァルトによる翻訳との」相違ではないのか。つまりキルケゴールと他の多くの哲学者と相違は、ベンヤミンを経由して、「共同作業」の「原型(Urbild)と模範(Vorbild)」との相違として命名されるはずなのである。
 そして、「翻訳という形式の原型」であるヘルダーリンの翻訳には、「あらゆる翻訳の巨大な根源的な危険」が明白に示されるという。ベンヤミンは暗示するのだが、ヘルダーリンはやがて文字通りに「言語の門が不意にしまって、彼を沈黙のなかに閉じこめてしまう危険」へ、ある種の「狂気」へと向かっていく。
 では、「共同作業という形式の原型」であるキルケゴールの哲学の場合、あるいはそこでもヘルダーリンの場合と同様のことが示されるのだろうか。つまり、キルケゴールの場合にもいわば「哲学の門が不意にしまって、彼を沈黙のなかに閉じこめてしまう」「意味は深淵から深淵へと転落し、竟には哲学の底なしの深みのなかに失われようとする」「あらゆる哲学の巨大な根源的な危険」が現れるのだろうか。つまりそれは、哲学におけるある種の「狂気」の問題となるのだろうか?
 
 しかし、厳密なヘルダーリンの逐語訳が「意味の再現を完全に崩壊させ、たちまち理解不可能に陥ってしまう」のは、ベンヤミンによれば「翻訳の言語は翻訳者の言語よりも高次な言語を意味するからであり、そのためにその国語固有の内容にとっては不整合で暴力的で異質なものになるからである」。「高次」であるのは、それが常識的な言語が知らない別種の整合性、別種の秩序を復元しようとし、それをいわば反映しているからだ。それが、「模範」的な翻訳言語からは「理解不可能」とも見られるのである。その別種の整合性、別種の秩序はベンヤミンの言葉によれば「純粋言語」であり、比喩としての「ひとつの器」である。
 しかし、「ひとつの器」を語るベンヤミンがおそらく呼び起こしていたものは、むしろひとつの神話ではなかっただろうか? 「翻訳者の使命」の最後にベンヤミンが語り始めるのは聖書の翻訳についてである。そして、その神話は聖書の中にある。
 かつて、人々の言語はひとつだった。だが、「天に届く」バベルの塔のくわだてによって、それは神の怒りを受ける。「みよ、彼らは皆一つの民、一つの言語である。そして、彼らのなし始めたことがこれなのだ。いまや、彼らがなそうと企てることで彼らに及ばないことは何もないであろう。さあ、われらは降りて行き、そこで、彼らの言語を混乱させてしまおう」(「創世記」⊂「旧約聖書」月本昭男訳)。
 ベンヤミンの語る「一つの器」はしたがって、かつてあったというバベルの言語の復元である。言語の混乱以前の、唯一の言語の復元、ただ、その「亀裂」の入った複製なのである。翻訳は、特にヘルダーリンのソフォクレス翻訳のような逐語訳は、このバベルの言語を暗示する「断片」となっている。
 では、同様にキルケゴールがヘーゲル哲学の「注」となることで行ったことも、何物かの「複製」となるものだったのだろうか? キルケゴールの哲学は、ヘーゲル哲学と「組み合わせられるために」「微細な点にいたるまで合致」している。そのときこの2つの哲学は、「ひとつのより大いなる言語(哲学)の破片として認識される」。この「(亀裂の入った)大いなる哲学」は、何物かのコピーなのだろうか。例えば、かつて人々の哲学は複数ではなく「ひとつ」だった。つまりそれは唯一絶対であり、批評や付け加えを一切必要としない哲学だった(そのとき「彼らが、なそうと企てることで彼らに及ばないことは何もない」?)。それゆえ、神々は「降りて行き、そこで、彼らの哲学を混乱させ」たのか? この唯一絶対の哲学は、言葉どおり「最初の哲学」であり、かつ「最後の哲学」である。キルケゴールとヘーゲルとの共同作業によって作られた「ひとつの器」「大いなる哲学」は、この唯一の哲学のコピーとなるのだろうか。
 
 しかし、「意味の再現を完全に崩壊させ、たちまち理解不可能に陥ってしまう危険を含んでいる」逐語訳が、決してかつてあったというバベルの言語をそのままは再現しないように、ヘーゲルとキルケゴールによる「合致」もまたこの「唯一の哲学」を再現しはしない。それぞれの哲学がその「唯一の哲学」の断片となりえるとしても、両者の合致したものが「唯一の哲学」を作り上げるわけではないのである。むしろ、その2つの哲学の「合致」は、「唯一の哲学」やそのコピーではなく、神々によるその「混乱」の痕跡を意味するのではないだろうか? 唯一絶対の哲学を「哲学そのもの、哲学の全体性」と呼ぶとすれば、亀裂の入った「ひとつの器」は、その再現の不可能性を語っている。言い換えれば、この亀裂の入った「ひとつの器」は、「哲学そのもの」を再現するものではなく、それを不可能にした「混乱」の記憶を呼び起こしている。「創作」的「詩人」的な哲学が気づくことすらない混乱の記憶を。
 あるいは、よりキルケゴール的に言うなら2つの哲学の共同作業はその混乱の記憶を「反復」するのである。キルケゴールは「最初の罪」である「原罪」が今もなお反復されると「不安の概念」で言ったが、キルケゴールとヘーゲルとの共同作業によって、ここでは思考の原初の「混乱」が反復されている。神話上の出来事、レヴィナスあるいはデリダが使う言い回しによれば「決して現在だったことのない過去」の出来事が、哲学の共同作業によって現前させられる。あたかも心的外傷が「強迫反復」として、時間の経過に無関係のような生々しさで人を襲うように、原初の「混乱」は哲学と哲学の間に回帰する。
 具体的にはこの混乱は、キルケゴールの言う「逆説」によって示されるだろう。キルケゴールの哲学とヘーゲル哲学とが接する唯一の境界線、つまりあの「ひとつの器」の亀裂としてのパラドックス。それはキルケゴールによれば「理性自身にとってなんらかの仕方で破滅をもたらさずにいない」ものであり、信仰によってしか解決できない。
 したがって、この亀裂は修復不可能となる。それは理性と哲学がそこで破滅し、信仰へと道を譲る臨界点なのである。したがってそれは「あらゆる哲学の共同作業の巨大な根源的な危険」であるだろうか。その中では「創作的、詩人的」哲学が作り上げていたような「意味の関連」はその基盤を失う。そして「意味の関連」が失われたあと残るものは、あの「混乱」の残響である。かつて唯一絶対の哲学、「哲学そのもの、哲学の全体性」が一挙に混乱させられた残響が、2つの哲学の調和による「響動」の中で再び響き始める。そして2つの哲学の間の亀裂からは光が差し込むだろう。「真の翻訳は透明であって、原作を覆わず遮らず、翻訳固有の媒質によって強められた光を原作の上にいっそうくまなく射さしめる」。光、つまりあのバベルの哲学、「哲学そのもの、哲学の全体性」の光? しかし、光が差し込むためには、その亀裂には「隙間」がなければならないはずである。
 
 光と響き。それらが発生するためには、2つの哲学の間にはわずかにでも隙間が存在しなければならない。つまり、2つの哲学の「合致」に隙間がなくなり、それが「密着」となるとき、光も響きも消えるはずなのである。
 それは何を意味するのだろうか? 仮に2つの哲学の間に隙間がないなら、文字通り「拡大され完全に支配された哲学の門が不意にしまって、彼を沈黙のなかに閉じ込めてしまう」だろうということである。「門が不意にしまる」。男の目にかすかな光をこぼれさせていた門が、その時閉まる。それは終末の時であり、「彼を沈黙のなかに閉じ込める」。これはヘルダーリンの場合に起こった事態かもしれず、またこうした事態はたびたび起こることかもしれないが、少なくともそれはキルケゴールの場合に起こったことではない。むしろ彼は「沈黙のなか」どころか、あの「断片の哲学」の「序」のように、ほとんど軽薄、あるいはユーモラスなまでにしゃべり続けているではないか? したがって、キルケゴールの場合、「閉まる」「閉じ込める」といった事態とはまったく異なる事態が起こっているわけである。
 キルケゴールがヘーゲル哲学に発見した解決不可能な「逆説」は、哲学的思考の一つの限界、終末を意味するものだった。だが、キルケゴールにとってはそれは更に、別の哲学的思考への位相的な転換点としての意味をも持っていたはずなのである。逆説はたとえ解決されなくとも、そのままもう一つの別の哲学への出発点ともなりえる。かつてエピメニデスのパラドックスを解決しようとした古代ギリシアのある哲学者は、最後に「狂死」したと伝えられている。危険なのは、解決不可能な逆説の中にあくまでとどまり続けることである。それは文字通りの迷宮入りなのだからだ。しかし、パラドックスは解決すべきアポリアではなく、そこから新しい空間へと移行すべき転換点となりえるのではないだろうか? 終末としての逆説にとどまり続けることは、やがて沈黙と闇とに包まれる危険に近づいていくことを意味する。だが、実際にはヘーゲル哲学とキルケゴールの哲学との間の「逆説」は終末ではなく、一つの空間を別の位相空間へと転換するわずかな距離、隙間が存在する。「考える前に跳ぶ」ことが必要となるようなわずかな隙間、つまり悟性によっては説明できない「突発的なもの、すなわち飛躍」が。キルケゴールはヘーゲル哲学に「ただ一点(逆説)において接触する」、そして「点ではなくてこの接触がさらに無限へとその直線軌道をたどるこの接線の法則を規定している」。つまり、「点ではなくて」「接触」がキルケゴールの「軌道をたどる法則を規定している」。それは「接触」であり、つまりわずかな距離(dx)と瞬間が存在するだろう。そこに光と響きの可能性が、そしてキルケゴールの思考のすべての可能性があるのである。
 
 しかし、パラドックスはあくまで解決すべき目標なのではないだろうか? それを発見し、解決しようとする努力から、様々なアイデアが生まれ、思考の進展がありえたのではないだろうか? 
 それは確かにそうなのだが、しかし問題は、それが正しいのはある一つの方向においてのみだということである。パラドックスの発見はそれ自体大きな意味を持つが、それがその発見以後に持つ意義は2つに分かれている。例えばエピメニデスのパラドックスは、ラッセルによって一般的な形で解決されたと言われている。だがラッセルのその解決(非述語的定義の禁止)は、数学からワイヤーシュトラスの定理(上に有界な実数集合は最小上界をもつ)のような基礎的な定理を排除してしまうことが知られている。つまり、ラッセルの解決を数学に適用することは事実上不可能である。したがって、数学はパラドックスを完全に排除するのではなく、数学的内容と無矛盾性とをある程度両立させるという新たな数学的方法、公理論化を進めるのである。
 別の例で言えば、アインシュタインはニュートン力学の内部に当然あるべき「同時性の定義」が欠けていることを、そしてその定義の内部では観測に必要な「時計」の論理的起源が説明不可能なパラドックスとして残ることを見いだした(「動いている物体の電気力学について」を見よ)。そこで、アインシュタインはこのパラドックスを(カルナップたち科学哲学者のように)解決しようとするのではなく、「同時性の定義」を軸としてニュートン力学からの完全な転換を図ろうとする。
 つまりいずれの場合も、パラドックスには2つのベクトルが働いていることが確かめられる。その1つは、パラドックスの中にあくまで止まろうとするものであり、それはエピメニデスのパラドックスの場合にとってはラッセルの方法として、時計のパラドックスの場合はカルナップたち科学哲学者の論考(「物理学の哲学的基礎」)として現れる(そのいずれも最終的に破綻するのだが)。もう1つは、そのパラドックスを位相の転換軸として、そこから全く異なる思考方法へ一挙に転換しようとするものである。この2つのベクトルは互いに刺激しあい絡み合いながら科学史の中で共存する。
 それと同様、ヘーゲル哲学とキルケゴールの哲学との境界線である「逆説」には、2つのベクトルが働いている。1つは逆説を哲学がそこで破綻する臨界点とみなそうとするベクトルであり、もう一つは逆説を、哲学が新たな位相空間へと突入する転換点とみなそうとする。一方では哲学は破綻し、一方では転換する。しかし、逆説に働くこの2つのベクトルは交差しえるのであり、またそうでなければならない。なぜなら、どちらか一方のベクトルにとどまることは不可能だからだ。後者のベクトルだけに向かうのは単なる「直接の共同作業」に陥ることであり、前者のベクトルだけにとどまることは「原初の混乱」の残響を追いながら、やがて理性の破滅へ、そして門が閉じ沈黙の中に閉じ込められる事態へと突き進むことになる(あの門の前の男のように?)。キルケゴールの場合、それとは異なるベクトルが働いている。つまり、「閉まる」「閉じ込める」ことと同時に、「解放する」「打ち破る」ベクトルがそこに働いているのである。
 
 (すでに引用したように)ベンヤミンは言っている。「外国語のなかに鎖されているあの純粋言語を翻訳固有の言語のなかに救済すること、作品のなかに囚えられているこの言語を改作のなかで解放することが翻訳者の使命である。この使命のために、彼は自国語の腐朽した柵を打ち破る」。
「純粋言語」の発現は、単に「沈黙」と「意味の再現の完全崩壊」の危険となるのではなく、ベンヤミンによれば「自国語の腐朽した柵を打ち破る」ことでもあった。国語はそれによって変容する。つまりここに2つのベクトルが存在する。
 ベンヤミンは後者の事態についてこう言っている。「しかしもし諸国語がその歴史のメシア的終末にまで生長しつくすならば、そのときこそ翻訳は諸作品の永遠の死後の生と諸国語の無限の復活とに触れて燃え上がり、絶えずあらたに、諸国語のあの神聖な生長、すなわちそれら諸国語に隠されているものが啓示からどれだけ離れているか、それはこの距離の認識のなかにどのように現在するかを検証するのである」。
 これが国語の変容の最終形態である。メシア、死後の生、復活、啓示、これらキリスト教的概念は、まさにキルケゴールにふさわしい響きを持っているだろうか。しかし、それらはむしろ「バベルの言語」「神々による混乱」そして「亀裂から光が差し込む」といったユダヤ教的、否定神学的概念の「対」として意味を持っているのではないだろうか。これは単なる「信仰」ではなく、むしろユダヤ教に対する「批評」「再考」なのである。
 原初の混乱、破壊の記憶を呼びさますこと、それが「亀裂」としての逆説の使命である… こうした「逆説」に対する理解から、したがってこのキリスト教的概念はまったく別の理解をもたらしている。何よりも、それは哲学の「腐朽した柵を打ち破る」だろう。つまりそれは、ちょうど「意味の再現を完全に崩壊」させるヘルダーリンの逐語訳がドイツ語の別種の可能性を示すように、すでに作り上げられ、それしか選択の余地はないと思われていた強力な哲学を「打ち破り」、哲学を別の世界に「解放する」。より正確に言えば、哲学の「腐朽した柵」は「逆説」という一点で「打ち破」られ、そこから哲学は予想もつかなかった新たな飛躍によって解放される。
 したがって、「理性の破滅」と哲学の「解放」は、同じ事態を違う角度から見た2つの表現である。キルケゴールはこう言っていた。「こうした思想の情熱(逆説)は根本的にはすべて思想といわれるもののなかにひそんでいる」。「理性の破滅」(それは「狂気」か?)も「解放」も、哲学にとって不可避なものなのだろう。しかし、この「解放」とは具体的には何なのだろうか。つまり、「理性の破滅」と対になる「すべて思想といわれるもののなかにひそんでいる」ものとはキルケゴールの場合、具体的には何だったのだろうか?
 多分それは、「笑い」なのである(ある種の「狂気」が「根本的にはすべて人間といわれるもののなかにひそんでいる」ように、「笑い」は「すべて人間といわれるもの」にとってそれなしには生きていけないものである…)。
 
 「断片の哲学」をはじめとしてキルケゴールの著作には、笑いあるいはユーモアが一杯詰まっている。ただ、ここではキルケゴールのその「笑い」が多くの場合、ヘーゲルに対して向けられていたということに注意しておいた方がいいのである。
 例えばヘーゲルは本当は門番小屋に住んでいるみたいな話はキルケゴールの本の中にいっぱい出てくるのだが(もう一つ例を挙げると、「不安の概念」の「それは、すでにヘーゲルの論理学についてもいえるのであって、『移行』ということの意味はなんであるかを答えでくれる前に、彼はいちはやく三巻の『大論理学』を著述することに移行してしまったのだ」)、これはヘーゲル哲学に対する彼の言う「風刺」である。キルケゴールはいわばヘーゲル哲学を笑い飛ばしている。ただ、すでに引用したようにその笑いは「ヘーゲルに対する若者の称賛、彼の熱狂、彼の極まりない信頼」と同時である。したがって、キルケゴールのヘーゲルに対する笑いは、より高い立場から相手を笑うという「嘲笑」ではないヘーゲルはものすごくこっけいだけれども同時にものすごく偉大なのであり、またその逆でもある。キルケゴールは「哲学的断片への学問はずれな後書き」で言っている。「彼の哲学的知識、彼の驚くべき博識、彼の天才的洞見、そしてふつう哲学者について言われえるあらゆる長所を私はいかなる弟子にも劣らず認めようと思う――だが否、認めるというのではない、これは余りに高ぶった表現だ、称賛しようと思うのだ、教えられようと思うのだ、だがそれにもかかわらず、人が、人生で十分試みをなして切羽詰まって思想に頼っていくと、その隠れなき全ての偉大さにもかかわらず、彼がこっけいなのを見いだすだろう」453。
 キルケゴールのヘーゲルに対するこの笑いは、「体系」と「注」、「大きなこと」と「小さなこと」、「体系」と「断片」といった対の表現に現れていた。キルケゴールの場合むしろそれは、意識的に自分のことをまぬけで、小さい者のように語ってみせるユーモアなのだった。そして、キルケゴールの自分自身に向ける笑いは、「ちっとも疚しいとは思っていない」(「哲学的断片」「序」)以上、より高い立場から自分を笑うこと、つまり「自嘲」ではない。
 つまりここには「嘲笑」でも「自嘲」でもない笑いがあるわけである。「嘲笑」は相手を、「自嘲」は自分を否定する。したがって、キルケゴールとヘーゲルとの間に響くものは、両者を共に肯定する笑いだといえるのだろうか? しかし、それは「どちらもそれぞれ正しい、お互いにがんばろう」などと言っているわけではない。間違いなく、キルケゴールはヘーゲル哲学に徹底的な「最も危険な攻撃」をかけているのだから。また、2つの哲学は「どちらも欠点はあるが、それそれいいね」と言っているのではない。2つの哲学は相入れないのであって、それこそ「あれかこれか」なのである。両方に足をかけて立つ方法はない(「止揚」は不可能なわけである)。たとえ2つの哲学を足しあわせたとしても、結果は「(亀裂の入った)ひとつの器」ではなかったか? つまり、完全な器、完全な立場は存在しない。しかし、この哲学の原理的な不完全性が、キルケゴール的な笑いの条件の一つとなる(このためにヘーゲル哲学には嘲笑以外に笑いがない)。
 
 だが、この哲学の不完全性の認識は、それ自体では単なる壊滅的否定へとしかつながらないだろう。つまりそれは、「こっけい」なヘーゲル哲学への嘲笑と、それを決して補完できない「注」であるキルケゴールの哲学自身への自嘲との両方を招くわけである。
 したがって、ここではそれとは違う事態が起こっている。つまり、「嘲笑」「自嘲」がどちらもより高い立場からの「嘲り」だとすれば、キルケゴール的な笑いはもはやそうした超越的立場は存在しないということを意味しているのではないだろうか? すでに言ったように、キルケゴールが行ったことは、ヘーゲル哲学の体系を空中楼閣化することだった。だが、キルケゴールは決して空中楼閣の外にある堅固な地盤から行っているのではない(なぜなら逆説は、キルケゴールによれば理性によっては解決不可能なのだから!)。確かにヘーゲル哲学は壮大な空中楼閣かもしれないが、ただそれは乗り越え不可能な、言い換えれば、いわば我々がそこに住まざるをえないような空中楼閣なのである。空中楼閣は打ち壊されるのではなくて、単に相対化されるのみである。
 ヘーゲルとキルケゴールのいずれも絶対的位置を占めることが不可能だという意味で、それらは不完全だというべきだろうか。しかし相対的でない絶対的位置、堅固な地盤とは、ベンヤミンが翻訳について言った意味での「人間には閉ざされている」「瞬間的最終的な」解決ではないだろうか? つまり、翻訳には「一時的暫定的な」、いわばはかない解決しかありえないように、哲学もそうなのかもしれない。哲学は「一時的暫定的な解決」であり、言い換えればそれは「歴史的」である。歴史を越えて真理を語る「最終的な解決」は存在しない。この意味で、笑いが、キルケゴールのユーモアが肯定しようとしているものは、複数の哲学によって成り立つ「歴史性」である。
 そして、ここで言う歴史が、あの「間接の共同作業」(「共同作業の原型」)の別名であることは言うまでもないことだろうか。キルケゴールの哲学がヘーゲル哲学なしには決してありえない、言い換えればキルケゴールの哲学がヘーゲル哲学に(ベンヤミンの比喩のとおり)すべてを依存しているということ、それが「歴史」である。
 
 2つの哲学は相いれず、そしてその両方に足をかけて立つ方法はない。それは、逆説が理性によっては解決不可能であるように、歴史(原型の共同作業)が理性によっては統合不可能だからである。したがって歴史とは、一つの理性、あるいは一つの哲学によっては表現不可能な次元が発現する場所である。
 笑い、ユーモアは、この一つの理性によっては表現不可能な「歴史」を肯定している。キルケゴールのユーモアは、自分の哲学とヘーゲル哲学との互いの不完全性を、「一時的暫定的」であることを笑うだろう。
 このことは、たとえそれが人間にとっては不可避な事態だとしても、厳密な意識にとっては絶望すべき事態だろうか。しかし、新約聖書の旧約聖書への追加(あるいは並列)が、単独の旧約聖書に対して全く新しい世界をもたらすように、ヘーゲル哲学に対するキルケゴールの「注」による補完は、いわば全く新しい世界を提出しているのではないだろうか? 「一時的暫定的な解決」について、ボードレールはこう言っている。「現代性とは、一時的なもの、うつろいやすいもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、他の半分が、永遠なもの、不変のものである」(阿部良雄訳)。そしてこのボードレールのこの言葉に付け加えてブーレーズはこう言っていた。「すなわちボードレールがこのことばに与えていた意味における現代性。あるいはこの規準は、まったくとるに足りないものと思われるだろうか? 『果物をナイフで切ってしまえば、その果物の部分は再び接合されないということは、永遠の事実である』。以下は自明なことである。『牧神』のフルートあるいは『雲』のイングリッシュホルン以後、音楽は今までとはちがったやり方で息づく」。 亀裂の入った「一つの器」、つまり「決して現在だったことのない過去」は、ボードレールの言うナイフで切られた「果物」つまり「現代性」へと変容するのだろうか?
 
 キルケゴールはこう言っている。「逆説をその最も簡潔な形に凝縮すれば、これを瞬間と呼びうる」。そして「瞬間においてはじめて歴史がはじまる」(「不安の概念」)。
 そして「瞬間」は、キルケゴールの言うように「一切の過去的なものも、一切の未来的なものももたないところの現在的なものを、そのまま言い表したものである。というのは、この点にこそ感性的な生の不完全さがあるからである」(「不安の概念」)。というわけで、瞬間とは「現在」である。ただし、キルケゴールの言うようにそれは「感性的な生の不完全さ」つまり「断片の時間」としての「瞬間」である。それは、人間の「生」は、時間を越えた「永遠」を持つことはないということを意味している。いわばそれは「人間には閉ざされている」時間の「最終的な解決」であり、むしろ神の領域だからである。「永遠的なものもまた一切の過去的なものや、一切の未来的なものをもたない現在的なものを言い表している。そしてこれが永遠的なものの完全さなのである」。
 それに対して人間は、「一時的暫定的」な時間を、つまり「瞬間」を持つだろう。その意味で、人間の「感性的な生の不完全さ」は「瞬間」に、「歴史」に示されている。事実、「永遠」の中に住む神には、「歴史」はないのではないか(神の歴史?)。例えば、神は他の誰かにすべてを依存する「共同作業」が可能なのだろうか。そして何より、神は果たして自分を笑う「ユーモア」を持つことなどできるのだろうか?(「哄笑」はできるらしいのだが…)。
 
 「瞬間」はキルケゴールにとって中心的な概念の一つであり、彼はそれを特に「不安の概念」の第3章で説明している。
「時間の無限の連続は無限に無内容な現在だからである(これは永遠的なものの戯画である)。インド人は7万年にもわたって支配した王統について語っている(注、ヘーゲルの歴史哲学による)。その王たちについては何も知られてはいないし、その名前さえわかっていない(とわたしは思っている)。もしここに、時間というものについての例証としてこれを取り上げると、7万年は思惟にとっては無限に消えゆくものであり、表象にとってはひとつの無限に無内容な幻視にまで伸びひろがり、引き伸ばされたものである。これに反して一つの王様が次に次の王様を引き継がせるなら、現在的なものがそこに定立されたことになる」。
 これは言い換えれば、歴史の成立とともに「現在的なものがそこに定立された」ということである。つまり先のキルケゴールのテーゼに反して、「歴史においてはじめて瞬間がはじまる」。キルケゴールによれば、「瞬間」とは「具象的な表現であり、そのかぎりではあまり取り扱いやすい相手ではない」。キルケゴールはそれをインゲボアが海のかなたの恋人のフリティオフをながめる時、「彼女の感情のほとばしり、ため息、ことばなど」の中に描いている。「だから一瞬というのは時間をさし示すものであり、しかも注意すべきは、この時間は運命をはらんだ葛藤における時間を示している」。
 しかし、ここで言うインゲボアとフリティオフの関係は、実はキルケゴールとヘーゲルの歴史的関係でもありえたのではないだろうか? なぜなら、キルケゴールの言う「運命をはらんだ葛藤における時間」とは、キルケゴールが時間と空間のかなたのヘーゲルをながめるとき、「ヘーゲルに対する若者の称賛、彼の熱狂、彼の極まりない信頼」が「そうとは気づかずに」「まさしくヘーゲルに対する風刺」となるあの「一瞬」を描いて、まさしく言い得て妙な言葉だからである! キルケゴールにとってヘーゲルは、事実「運命」ではなかったか。そしてその両者の関係は、「称賛」と「風刺」が一体となった「葛藤」だったのではないだろうか? キルケゴールにとって最も重要な「瞬間」は、彼自身が決して「そうとは気づかずに」ヘーゲル哲学との関係において生きる時間であって、それは決して彼の思想の「中」で表現されたものではなかった。
 「もとより感性的な生を規定するために、生が瞬間のうちにあり、ただ瞬間のうちにのみあるとしばしば言われている。その場合、瞬間ということばによって永遠的なものからの抽象が考えられているのであって、その抽象がもし現在的であるというなら、それは永遠的なものの戯画である」。
 事実、生とは瞬間である。ただし、瞬間とは他者との間の「運命」であるとしてのことだが。キルケゴールはヘーゲルとの具象的な、つまり歴史的な関係を生きている。繰り返すが「歴史においてはじめて瞬間がはじまる」、つまりこうである、「歴史においてはじめて生がはじまる」。
 
 ベンヤミンは「翻訳者の使命」の中でただ一回、「哲学者の使命」について語っている。「芸術作品の生とその死後の生という考え方は、メタファーとしてではなく、まったく文字通りに理解されなくてはならない。有機的な肉体性にのみ生を認めてはならないことは、思考が最も偏見にとらわれていた時代においてすらそのように考えられていた。(…)むしろ、歴史をなすあらゆる存在、たんに歴史の舞台であるにとどまらないあらゆる存在に生を認めるとき、はじめて、生の概念はそれにふさわしい権利を獲得することになる。なぜなら、自然によってではく、ましてや感覚や魂といった曖昧な現象によってではなく、最終的には歴史によってこそ、生の圏域は規定されるからである。そこから、あらゆる自然の生を歴史のより包括的な生から理解する、という哲学者の使命が生ずる」。
 これを少し言い換えれば、「生」は「死後の生」から理解されるのであって、その逆ではないということである。しかし、「死後の生」とは何なのだろうか。それはそもそも、キリストによる死後の復活のことだったのではなかったか。(すでに引用したように)「しかしもし諸国語がその歴史のメシア的終末にまで生長しつくすならば、そのときこそ翻訳は諸作品の永遠の死後の生と諸国語の無限の復活とに触れて燃え上がり(…)」。キリスト教ドグマによれば、人間はアダムとイブの「原罪」により、永遠の命を失ったのである。そしてそれは、原罪をあがなったキリストを人間が信じ、「死後の永遠の生」を得ることによって回復されるのである。その場合、「死後の生」とは何なのか? それは、「原初の混乱」がいわば「決して現在だったことのない過去」であるのに対して、人間にとって「決して現在になることのない未来」の出来事となるだろう。つまり、それは「原初の混乱」のいわば裏返しの概念である。もちろん、ここでベンヤミンが言う「死後の生」は、そうした意味ではない。
 
 マルセル・デュシャンは言っている。「けれども、死ぬのはいつも他人」。彼の墓に刻まれるこの言葉を、しかしさらに君はこう言い換えてみる。「けれども、生はいつも他者の生」、あるいは「生はわたしの他者である」。つまり、わたしの「生」は他者によって与えられるのであって、それ以外には存在しない。そこで起こる事態は、キルケゴールの言う「運命」である。
 「原初の混乱」=「決して現在だったことのない過去」と「死後の永遠の生」=「決して現在になることのない未来」、この裏返しの関係にある概念は、裏返しであるためにいずれも何かを決定的に欠いている。それは、いわば瞬間としての「現在」であり「歴史」である(「運命をはらんだ葛藤における時間」と言えば一番いいだろうか)。あるいはボードレールの言う「一時的なもの、うつろいやすいもの、偶発的なもの」としての「現代性」。ベンヤミンの言う「死後の生」は、歴史において生が発現する事態を言っている。わたしの「生」は、他者によってはじめて発現するのであって、その他の場所には存在しない。もちろん、この「生」は、ベンヤミンが注意するように生物的な意味での「生」ではない。しかし他者によってはじめて発現するわたしの「生」は、「メタファーとしてではなく、まったく文字通りに理解されなくてはならない」。そのとき「はじめて、生の概念はそれにふさわしい権利を獲得することになる」。では、哲学者の使命が語るべき「死後の生」とは、具体的にはどういうものだったのか? 
 
 
 それをメタファーとして語ることができるだろうか?
 キルケゴールは「おそれとおののき」の題辞として、「クルクィニウス・スペルブスが、庭園で、けしの頭によって告げたことを、彼の子は理解したが、使者は理解しなかった。(ハーマン)」という文章を引用している。
 ローマ皇帝、クルクィニウス・スペルブスの子は、狡知を用いてガビーの市民の支配者になったとき、ローマにある父のもとへひそかに使いの者を送り、次にどういう手を打てばいいかをたずねた。クルクィニウスは、使者を信頼しなかったので、彼を庭園に連れ出し、歩きながら、杖でいちばん高くのびているけしの頭をいくつかたたき落とした。使者にはその意味がわからなかったが、子はそれをきくと、市の指導的人物の首を刎ねよという忠告であることを知り、ただちにこれを実行した。
「この題辞はキルケゴールが、第三者には理解できない何ごとかを、レギーネに伝えようとしていることを暗示している」(桝田啓三郎の訳注)。
 さて、ここに3人の人物、皇帝、使者、子がいる。訳注によれば、皇帝=キルケゴール、使者=著作、子=レギーネである。この場合は、使者のもたらす情報は、第三者には知られていない一種の暗号として、唯一の受け手によって解読される。
 しかし、君の見るところ、この逸話はむしろキルケゴールとヘーゲルの関係について(またも!)語っている。ただ、そこでは使者=ヘーゲル、子=キルケゴールであるが。
 この逸話の焦点は、使者は自分が何を言っているのか、その本当の意味は知らないという点にある。むしろそれは、間接的に聞く立場である「子」によって初めて明らかとなる。つまり、使者は自分が知らないまま何かを伝達している。それと同じく、メッセージを発する「皇帝」たるべきヘーゲルは、自分が何を言っているのか知っているようで、実は知らない。(ここでもまた「実におそるべくもまた笑うべき」悲喜劇が…)。より正確に言えば、ヘーゲルは自分が言っていることが、キルケゴールの存在によってどのように機能するかということを知ることができない。例えば、ヘーゲル哲学はキルケゴールの哲学という「補注」によって「ひとつの器」の断片となるのだが、もちろんヘーゲル自身はそんなものは見たことも聞いたこともなかった。ではヘーゲルが「使者」、キルケゴールが「子」だとすれば、自分の言っていることの意味を知らないこのメッセンジャー=ヘーゲルがもたらした「メッセージ」とはそもそも何なのだろうか。そして、キルケゴールによって発見されるメッセージをヘーゲルに与えた「皇帝」とは一体誰にあたるのか?
(それはヘーゲルの無意識なのか、それともヘーゲルを越えた「哲学そのもの」なのか?) 
 だが、ヘーゲルが使者としてもたらしたメッセージは、キルケゴールの解釈によって、というより2人の共同作業によってはじめて発現したものなのである。ヘーゲル哲学の「真意」をキルケゴールがヘーゲル自身の指示にしたがって解読したのでもないし、またキルケゴールがヘーゲルを差し置いて発見したのでもない(もしそうなら、キルケゴールはヘーゲルを「乗り越えた」ことになるだろう)。キルケゴールの引用する史実のように、「子」はメッセージの「真意」を解読することによって使者に対して優位に立つが、キルケゴールとヘーゲルの場合、そうした優劣関係は存在しない。つまり、ここでは両者の優劣の基準となるメッセージの「真意」は存在しない。
 したがって、その「真意」を持っている「皇帝」もまた存在しないのである。それは、言い換えればヘーゲルの著作の中には、解読されるべきものは何もないということである。だとすれば、「皇帝」の対となる、「真意」を解読すべき「子」はどうだろうか。当然というべきか、「子」もまた存在しない。ヘーゲルが比喩にいう「使者」だとすれば、キルケゴールは決してそれを解読する「子」ではなく、彼もまたヘーゲルと対等なもの、おそらくは自分が何を言っているのか知らない第2の「使者」でしかない。
 つまり、ここに「皇帝」と「子」は存在せず、ただ複数の「使者」だけがいる。自分が何を言っているのか知らない、何者かから何者かへの使者たちが。そのとき、使者は他の使者へと何を伝えるのだろうか、それを誰から誰に、そしていつ、どこに?
 かれらは、王様になるかそれとも王様の飛脚になるか、選択を迫られた。全員が、まるで子供のように、飛脚となって駈けまわることを望んだ。このため世の中は飛脚ばかりとなったのである。かれらは世界中を駈けめぐり、なにしろ王様がいないので、おたがいに無意味になった通告を叫びあっている。(かれらにしてみれば、こんなみじめな生活には終止符を打ちたいのだが、服務宣誓のためにそれをあえてすることができないでいる)。47(飛鷹節訳)
 
 しかしある意味では、この使者たちの叫び合う「無意味な通告」以上に、逸話の伝える「子」のふるまいは常軌を逸したものではなかっただろうか? つまり、使者から皇帝のふるまいを聞いた子は、それを例えば「高額所得者の蓄財を没収せよ」ととった場合も、または文字通りに(しかし「文字通りに」とは?)「その地の高いけしを切り落とせ」ととった場合もありえたはずである。しかし「子」はその報告を聞いて、その地の有力者の首をはね始める。それは、普通に考えれば「狂気」と判断されえる異常な解釈である。
 また、メッセージの始点である「皇帝」についても、なぜ彼は他でもなく「けしを切り落とす」というふるまいに及んだのだろうか。その理由については、逸話は何も語らない。だが、他の何でもなく「けしの頭を切り落とす」ことを選択したことには、何らかの理由があったはずである。つまり、そのふるまい自体が解釈の対象でありえるのである。
 皇帝の存在しない使者たちの通告は無意味だが、皇帝の伝言、そして受け手である彼の後継者の解釈も、ある意味ではそれを越えて異常である。ここでのコミュニケーションの疎通は、こうした異常性の上ではじめて成立しており、それこそがキルケゴールの引用する史実(比喩)に特異性を与えている(例えば、キルケゴールの期待したものが、彼の著書を読んだ読者が常軌を逸したふるまいに及ぶことだったとすれば?)。
 
 使者は使命を持っている。使者は誰かからのメッセージを他の誰かへと伝達する。そのとき、使者が最終の受け手に会うことができなければ、使者は次の使者へとメッセージを伝達し、場合によっては第3、第4の使者がそれを仲介していく。それによってメッセージはその主から受け手へと伝えられていく。
 その場合、使者一人の存在を越えたメッセージの流れが存在している。たとえ一人の使者が死のうと、その使者=死者から受け手へ、あるいは新たな使者への連鎖が、個人を越えたメッセージ伝達の流れを作る。このメッセージの流れにとって、使者は流れを作る一分子にすぎない。つまり、ここには使者個人の生を越えた、別種の「生」があるわけである。仮に、このメッセージの流れが使者個人の生を越えた価値を持つのだとすれば、使者はそれを自分の生よりも優先するだろう。そこにあるものは、使者にとってのいわば「死後の生」なのである。
 それはいわば「悠久の大義」である。この「大義」に殉ずることによって、個人は個人を越えた「生」を生きる。そこでは、個人の生き死には二義的となるだろう。それは、特に政治と宗教にあらわに現れる発想である。
 この事態を、例えば噴水に託して語ることもできる。噴水の水の一滴一滴は現れては消えていくが、噴水の形そのものは不変である。そのように、個人はその消えゆく生を越えた永遠的なものを生きている(辻邦生)。
 しかし、そこで仮に使者は目的地に決して到達しないとすれば、どうなのだろうか。皇帝は君に死の床から使者を送った。強壮そのものの、疲れを知らぬ男だった。だが前には途方もない帝都が待ち受けている。世界の中心はまた、あらゆるものどもがひしめいている坩堝であり、死者の伝言をたずさえなどして、どうしてここをこえたりできるだろう!(池内紀訳「万里の長城」)。目的地に到達することのない使者はそのとき、例えば「高いけしの頭をたたく」という、それ自体では無意味な通告を叫び続け、それを聞く者を驚かせることになるだろうか。一定の形を保つ噴水の形は人工的に作られた計算の産物であって、液体にとってそれは一般的な形態ではない。そのように、明確な発信者→使者→受け手という関係は、現実には一般的ではないのかもしれない。そのとき、終着点である「子」は、あるいはメッセージの主である「皇帝」は存在しないのかもしれない。そのとき、使者たちにとっての「使命」はその基盤となる意義を失い、彼らは世界を時を越えて永遠に駈けめぐり、無意味な通告を叫びあう。
 
 ところで、個々の使者を越えたメッセージの流れという「死後の生」は、キルケゴールのいう「直接的伝達」に基づいている。(すでに引用したように)「もしだれか或る者が何事かを陳述し、そして他の者がその同じことを言葉通り承認するなら、彼らは一致しそして相互に理解したものと認められる」。これによって使者はそのメッセージを伝える。
 だが、キルケゴールによればそれは事実の半面なのだった。「彼は、この種の一致が最大の誤解たり得るという事を感ずかないし、当然また、主体的に実存在する思想家が二重性によって自らを自由にした如く、伝知の奥義は他者を自由にするという点にあるという事、そして正しくその故に彼は自らを直接に伝えることはできず、いなむしろそのようなことをするのは不敬虔ですらある、という事を感ずかないのである」。
 したがってキルケゴールにしたがうなら、使者の「奥義は他の使者を自由にするという点にある」。そして使者はメッセージを「直接に伝えることはできず、そのようなことをするのは不敬虔ですらある」。しかし、不敬虔とは何か? そもそも敬虔とは、使命への忠実性のことではなかったか。それは、伝えられたメッセージを一言一句忠実に再現することであり、したがって使者個人の「自由」などとは相いれないものではなかったか? 「忠実と自由――意味に即した再現の自由と、意味を再現する際の語への忠実――この二つの概念が、翻訳をめぐるあらゆる議論において旧来から用いられてきた概念である。翻訳に意味の再現とは別のものを求める理論には、これらの概念が役立つことはもはやありえないように思われる。たしかに、これまでの用法からすれば、これらの概念はつねに、解決しえないほど互いに矛盾するものと見なされてきた」(「翻訳者の使命」)。
 
 とはいえ、一方が何事かを陳述し、そして他の一方がその同じことを言葉通り承認する場合、この「一致」は多くの場合、言い換えれば「模範」的な場合、意味における一致なのである。これはキルケゴールのいう「直接的伝達」である。したがって、それは模範的な「死後の生」を発現させる。
 さて、こうした意味での模範的な「死後の生」の一つは、血筋の連続という意味での「民族」的価値として言い表されることがある(先の「悠久の大義」、その象徴としての天皇)。あるいは一つの使命に対する同志という血縁性としても(「兄弟」「姉妹」、つまり「兄弟」以上の「兄弟」…)。これらは、言うならば模範的な精神的血縁関係として理解できる。
 しかし、例えばキルケゴールとヘーゲルとの間にも何らかの精神的な血縁関係があることは確かではないだろうか。なんといっても、キルケゴールの哲学はヘーゲル哲学の「注」であって、そのすべてをヘーゲル哲学に依存しているのだから。その関係は、「同志」としての血縁関係だろうか。しかし、キルケゴールはヘーゲルの言っていることを忠実に「細部にいたるまで」反復するが、その結果はヘーゲルの意図とは(おそらく)まったくちがうものとなっている。確かに「彼らは一致し」たが、「相互に理解したものと認められる」わけではない。したがって、こうしたヘーゲルとキルケゴールとの関係は、「模範的な」精神的血族関係とは別のものである。それは、いわば「原型」の精神的血族関係なのである。
 ベンヤミンは言っている。「一般に、血縁性のあるところに必ず、類似性が生ずるとかぎらないことは明らかな事実である。この関連における血縁性の概念は、この概念が狭義においても広義においても起源(血筋)の同一性によっては充分に定義されえない(もちろん狭義における定義にとっては起源の概念を欠くことができないが)ことを前提として、狭義における血縁性の概念と一致する。(…)むしろ諸国語のあらゆる超歴史的な血縁性の実質は、個々の全体としての諸国語がひとつの、しかも同一なものをめざしている点にある。この同一なものとは、それにもかかわらず諸国語のなかの個々の国語によってではなく、それら個々の国語のたがいに補完的な志向の総体によってのみ達成されうるもの、すなわち純粋言語である」。
 したがって、ベンヤミンによれば「広義の血縁性」は「血筋の同一性」ではなく「たがいに補完的な」志向によって定義される。つまり、ヘーゲルは(ヘーゲル自身がどう思おうと)キルケゴールとともに「補完的」な志向を持っていたのであり、この両者によって、「個々の哲学のたがいに補完的な志向の相対によってのみ達成されうるもの」が現れた。両者はこの意味でのみ「血縁性」を持つ。そして、この広義の血縁関係によって、広義の「死後の生」が、言い換えれば原型の「死後の生」が言い表されるだろう。
 
 「補完」されるということは、それが完全なものではなかったということである。すでに触れたようにこの哲学と哲学の「合致」、「一つの器」に走る亀裂は、哲学に起こった原初の混乱の記憶を反復する。そしてこの「合致」は、それがあまりに他の哲学に忠実であるがために、意味の関連の崩壊を招き寄せる。「逐語性もまた、意味の再現を完全に崩壊させ、たちまち理解不可能に陥ってしまう危険を含んでいる」。ちょうど、皇帝の不在によって、服務宣誓を負った忠実な使者たちの通告が(例えば「高いけしの頭をはねる」というように)互いに無意味になるように? それを叫び続ける使者は、周囲の人々からそれを狂気だと、つまりは何らかの「症状」でしかないと見なされる危険を持つことになるのだろうか?
 
 ラカンによれば、「神経症は、存在が主体に向かって提出した一つの問いであって、それは『人が世界にやってくる前にいた場所から』(フロイトがハンスに向かってエディプス・コンプレックスを説明したとき言った表現)提出される」(「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」⊂「エクリ」佐々木孝次訳)。事実、忠実な使者が叫ぶ「けしの頭をはねる」のような通告は、「皇帝が使者に向かって提出した一つの問い」なのだろうか。それは「使者が世界にやってくる前にいた場所」つまり「皇帝」のいる場所から提出されるだろうか(しかし、カフカによれば皇帝は最初から存在しなかったのだが!)。
 それと同様、哲学が他の哲学に「補完」されることによって発現するパラドックス、つまり哲学にとって解決不可能な「逆説」は、ラカンにならって「存在が哲学に向かって提出した一つの問い」だと言いえるだろうか。「それは哲学が世界にやってくる前」、つまりあの原初の混乱の瞬間から提出されているのだろうか。
 しかし、哲学に発現するパラドックス、例えばキルケゴールがヘーゲル哲学に発見したパラドックスは、「まえ」というよりは、いわば「あと」から発見されている。それは2つの哲学の共同作業によって初めて発現するのだから。パラドックス、そしてそこから発生する空間は哲学の「死後の生」なのであって「哲学が世界にやってくる前」の話では決してない。そもそも、ラカンのいう存在とは、いつ、どこに存在するものなのか? あるいはそれは、特定の時間と空間を超越するゆえに、存在と言われているのか?(ラカンがこの論文で「むしろ私が彼を翻訳」しているというハイデガーのように?) 
 カフカの無意味な通告を叫ぶ使者の話は、ノートの1917年12月2日のものだが、同年11月30日のものは「ザインというドイツ語は、動詞“存在する”と所有代名詞“彼のもの”という、二つのものを意味する」というものである。したがって、それにならってラカンの言葉は次のように言い換えられる。「パラドックスは、哲学に向かって彼のものが提出した一つの解決であって、それは哲学が世界を去ったあとにくる場所から提出される」。
 「哲学が世界を去ったあと」、それは哲学の「死後の生」である。そしてそれは、特定の時間と空間を超越することのない、歴史上の出来事である。
 
 君は、突然、自分が使者だったことを思い出す。君は自分が自由な個人だと思っていたが、君は自分が服務宣誓を負った誰かから他の誰かへの使者だったことを思い出す。君には伝言を伝えなければならない使命がある。しかし、君にはその伝言の主が誰だったか思い出せない。そしてそれを伝えるべき宛て先さえも思い出せない。しかし、その使命が果たせない限り、君は自分が誓った服務宣誓を逃れることはできないだろう。したがって、君は自由な個人となることもない。ウィトゲンシュタインは、霊魂不滅というものは、人が自分には死ぬことによっても免れることのできない義務があると感じることによって意味のある言葉になる、という風なことを言った(マルコム「回想のウィトゲンシュタイン」86)。そうだとすれば、君は自分の使命を果たさない限り、使者として宛て先を求め続けるまま、永遠に生き続けることになるだろう。
 しかし、求める者は目的を見いだすだろうか。「求めなさい。そうすれば、与えられるであろう」。捜す者は宛て先を見いだすだろうか。「捜しなさい。そうすれば、見つけるであろう」「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちに良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたたちの父が、自分に求める者に、良い物をくださらないことがあるだろうか」(マタイ7ー7、11)。しかし親は、時として子にとって理解に絶する行いをしはしないか。まして天におられる父の言動は、君の思考をはるかに越えてはいないか(あのわけのわからない「旧約」の神みたく!)。したがって、同等に逆の場合もありえるのだろう。「捜す者は見いださない」。つまり、肯定的な神学(というかイエスの言葉そのもの)から否定的な神学へ。では、そのとき「捜さない者」はどうなるのか?
 カフカは言っている。「捜す者は見いださない。しかし捜さない者は見いだされる」(ノート 1917年12月13日)。「捜す者は見いださない」。ならば、普通に考えれば「捜さない者は見いだす」のではないだろうか。しかし、カフカによれば「捜さない者は(おそらくはその意図に反して)見いだされる」(ゲルハルト・ノイマンの言うスライドしていく逆説=グライテンデス・パラドックス214)。では、その捜さない者を見いだすのは誰なのだろうか? おそらく、「存在」=「彼のもの」の中の「彼」だろうか。
 
 君は、自分の言っていることの本当の意味は知らない。使者である君は、言葉を預かっただけなのだから。そして、自分が使者であることを忘れた者は、言葉を預かったということも忘れている。つまり、自分の使命と、そして服務宣誓とを忘れているわけである。 しかし、使者はその宛て先を見いだすことはない。言葉が伝達されるのは、ただ「捜さない者が見いだされる」ときだけなのだから。つまり、他者によって君の言葉が意図しない形で見いだされたとき、君は使者だったということに気づくのである。つまり、パラドックスが「あと」から見いだされるように、使者はあとから見いだされる(ボルヘスの言う「カフカの先駆者たち」のように)。
 したがって、使者の記憶は、彼が「見いだされる」瞬間にはじめて作り出される。君は言葉を預かったが、それが誰からかというと、ある意味では「あと」から来る他者からだということである。この事態は、先に言った、使者が語ったことがその本人の意図とはまったくちがうものとして他の使者に理解されてしまうという事態、つまりキルケゴールの言う「間接的伝達」である。しかし、あとの使者は、第1の使者への「忠実」を誓った上でそうする。そしてこの伝達は、「他の使者を自由にする」だろう。
 したがって、「捜すものは見い出さない」ベクトルから「捜さないものは見い出される」ベクトルへと移動するとき、使者たちの皇帝への「服務宣誓」は、他の使者への「忠実」へとその位相を変えるのだろう。同時に「現在だったことのない過去」は「死後の生」へと、「存在」は「彼のもの」へと変わる。そして原初の混乱の記憶の想起もまた、別のものへと変わる。再び引用するが、「『第1哲学』を内在またはギリシア的にいって想起を本質とする学問、あるいは異教的学問ともいえる学問全体の意味にとり、『第2哲学』を、超越または反復を本質とする学問の意味にとることができる」。そしてこの「反復」の箇所に注があり、その中でキルケゴールは「『反復』の概念とともに、はじめて本来の意味で現実性が姿を現す」と言う。219
 
 一言で言えば、あとの使者は先の使者の言葉を忠実に「反復」するのである。この反復は、「ひとつの器の破片が組み合わせられるためには、二つの破片は微細な点にいたるまで合致しなければならないが、その二つが同じ形である必要はないように」「意味におのれを似せるのではなく、愛を籠めて微細な細部にいたるまで原作の言い方を」形成する。
 そして、このような「反復」は「死後の生」となる。例えば翻訳とは、原作の他の言語への「反復」であり、原作の「死後の生」ではなかっただろうか。そのように、使者の言葉を忠実に反復する他の使者は、先の使者の「死後の生」を生きる。そしてこれによって、先の使者もまた新たな「生」を生きるのである。なぜなら、「反復」は反復されるものを作り出すからである。つまり、原作が他者による反復によって「ひとつの器」の破片となるように、(ベンヤミンの言い方によれば)反復によって原作は「改作」されるからである。
 それと同様にして、ある種の思考は他の思考の「反復」であり、その「死後の生」となるのではないだろうか。そしてこの「死後の生」は、あとから「生」を作り出す。「というのも、原作はその死後の生において変化するからであり、死後の生が、生あるものの新生と変容でなかったら、死後の生とは言えないからである」(「翻訳者の使命」)。すなわち「生」は、あとからくる他者の反復によって「新生と変容」を被ることになる。「死後の生」とは、複数の思考による共同作業だからである。そして、この事態の最も明白かつ有名な例を、君は次のものの他に求めることができるだろうか?
 神からの言葉を預かる使者、預言者の書である「聖書」は、「使徒(=使者)」の書である「新約聖書」によって「旧約聖書」として解釈される。「新約」は「旧約」の忠実な補完であることを表明する(福音書における旧約聖書の解釈)。もちろん、それはこじつけである。事実、例えばユダヤ教徒はそんなことは信じないし、彼らにとって唯一無二の「聖書」は「旧約聖書」などではありえなかった。しかし、このこじつけ(=フィクション)は、きわめて強いリアリティを持っている。
 「聖書」は「新約聖書」によって、「『旧約聖書』+『新約聖書』」という合冊本の一部となる。ある意味では、「旧約聖書」は他の生命体と共生することとひきかえに(ミトコンドリアみたいに)より広く強力な生活圏を得ることに成功したわけである。「新約聖書」の誕生同様、「聖書」から「旧約聖書」への変化は、まさに「新生と変容」なのではないだろうか? 内容そのものには一言一句の変更もないにもかかわらず、「新約聖書」の存在のみによってそれは「新生と変容」を被る。一言で言えば、それはユダヤ教からキリスト教への転換である。ある意味では、「新約聖書」とは「旧約聖書」の反復であり、キリスト教とは「新約聖書」と「旧約聖書」との共同作業そのものなのである(すなわち神も共同作業をするわけである)。
 キリスト教世界では一家に一冊ある「聖書」はこうして、人々に信仰とは「旧約聖書」を前提にした「第2の思考(=再考)」であり、反復であり、共同作業であるということを教えている。キルケゴールは信仰とは理性を越えた一つの跳躍であるということを繰り返し言ったが、しかし信仰がそうであるとしたら思考もまたそうなのではないだろうか。キルケゴールは「信じようと欲するということは、悟性(しょうき)を失うことをあらわす公式にほかならない。信じるとは、まさに、神を得るために悟性(しょうき)を失うことを言うのである」(「死に至る病」467)と言うが、それはまさに「思考」についても言い得ることではなかったか? 第2の思考とは、いわば「拡大され完全に支配された第1の思考の門が不意に閉まって、彼を沈黙の中に閉じ込めてしまう危険」であると同時に、「第2の思考の門が開けられ、彼を熱狂的な探究へと解放する」(いわば「悟性を失う」ような)無謀な飛躍だからである。
 そしてキルケゴールは「これ(ギリシア的立場)とまったく同じことが、実は近世哲学全体の秘密なのである。なぜかというに、その秘密は、『わたしは考える、ゆえに、わたしはある』、つまり、考えることが存在することである、というにあるからである」と言う。「これに反して、キリスト教的には、こう言われる、『あななたちの信仰するとおり、あななたちの身になるように』(マタイ9・29)、言い換えると、『あななたちが信じるとおりに、あななたちはある』『信じることが存在することである』。かくして、近世哲学は異教より以上でも以下でもないことがわかるであろう」(「死に至る病」535)。つまり、「ギリシア的にいって想起を本質とする学問、あるいは異教的学問ともいえる学問全体」ではなく、「反復を本質とする」第2の哲学によってはじめて「存在」を語ることが可能となる。「反復」によって「存在」が可能になるのであって、逆ではない。簡単に言えば「悟性を失うことが、存在することである」。
 そして、翻訳が言語と他の言語との距離、つまり時代的・地域的・階級的・国語的な距離を前提にしてはじめて発生するとすれば、思考の反復もまた、ある種の距離から発生することになるだろう。共同作業としての思考、つまり「複数の思考」にとって「自己」が触媒となるとすれば、それは「自己」が距離そのものだったからではないだろうか? 君が自分が使者であることを思い出すとすれば、それは君が誰かから誰かへの距離そのものであるということなのだから。
 合冊本「聖書」には、その版によって「旧約聖書」と「新約聖書」との間に空白のページがある。この空白のページは、合冊本「聖書」という「一つの器」に走る一つの亀裂なのだろうか。それは宗教における原初の混乱の記憶の反復なのだろうか。むしろ、空白は「悟性を失う」跳躍だろうか。それは、乗り越え不可能な第1の思考の破綻点をむしろ出発点とし、その「腐朽した柵を打ち破」るのだろうか。そこで現れるものは、2つの思考の境界線、つまり理性によっては解決不可能な逆説であると同時に、逆説のまったく逆のベクトル、いわば2つの思考の統合不可能な複数性ではないだろうか。
 そしてそこでは、2つの思考を乗り越え、止揚させるような超越的な立場は存在しない。確かに「新約」は「旧約」の「柵を打ち破」ったが、しかし「旧約」は「新約」によってその意義を単純に乗り越えられるようなものではなかったからである。つまり、「旧約」は「新約」による解釈を逃れる意義を、あの合冊本「聖書」の中でさえ保ち続ける。この事態を、2つの思考は相手を笑い同時に自分を笑うユーモアによって肯定するだろう。そして、「旧約」と「新約」との複数性は、その2つの「書物」間の空白から降り注ぐ「光」と「響」きとして表されるだろう。「翻訳者の使命は、翻訳の言語への志向、翻訳の言語のなかに原作の反響を目覚めさせるあの志向を発見することにある」。「真の翻訳は透明であって、原作を覆わず遮らず、翻訳固有の媒質によって強められたを原作の上にいっそうくまなく射さしめる」。この「新生と変容」の行われる光と響きは、複数の思考の「響動」そのものである。
 この出来事が、キルケゴールの言う「瞬間」=「現在」の出来事であることは言うまでもない。そしてそれはまた、「新約聖書」は「旧約聖書」なしには決してありえないという意味で、「歴史」上の出来事でもある。キルケゴールによれば、人間はどんな天才といえども「永遠」という範疇の中に入ることはできない。だが、「使徒はもたらすべき新しいものを逆説的にもっており、その新しさは、本質的な逆説的であって、人類の発展にかかわる先取りといったものではないから、いつまでも存続する」(「天才と使徒との相違について」桝田啓三郎訳)。使徒がそうであるのは、彼らがキリストの「使者」として、「旧約聖書」の補完と反復という使命を(彼らなりのやり方で)果たしたからである。その結果として残された、伝統的には彼らの著作とされる「新約聖書」。それは「旧約」の延長でもなく敵対でもないねじれの関係を保つ。その関係は「本質的に逆説的であって」(「死後の生」がそうであるように)「いつまでも存続する」。したがって、ここでは「歴史的なものは永遠である」というテーゼもまた成り立つわけである。トマス・アクィナスは、人間は時間によって測られ、神は永遠によって測られ、そして天使は時間と永遠の中間としての永劫によって測られると言った(「神学大全」第1部10問5項)。それにならえば、使者は「歴史的なものは永劫である」瞬間を生きると言うべきだろうか? キルケゴールによれば、「瞬間は時間と永遠とが互いに触れ合うところのあの両義的なもの」、そして「瞬間は時間における永遠の最初の投影であり、いわば時間を中断しようとする最初の試み」(「不安の概念」)であり、つまりそれはむしろ天使がそれによって測られる「永劫」の範疇に入るものだったのだから。
 「天使が通る」のは、他者との会話がふと途絶えた瞬間だという(「時間を中断しようとする最初の試み」…)。それは、誰もが経験するように「言語の門が不意にしまって、彼らを沈黙のなかに閉じ込めてしまう危険」であると同時に、これも誰もが経験するように、両者の会話が別の次元へと転換し、コミュニケーションの「腐朽した柵を打ち破」って行く瞬間でもある。そして、この沈黙はよく言われる比喩のように「休止が音楽の一部であるように」会話の一部であるのではない。それはむしろ、ベンヤミンが翻訳について言うように「国語(会話)よりも高次な言語を意味するからであり、そのためにその国語(会話)固有の内容にとっては不整合で暴力的で異質なもの」なのではないだろうか。天使は一瞬、両者の間を通り過ぎ、消えていく。その瞬間、天使はどこから来て、どこへ行くのか? その天使を捕まえることはできないが、この天からの使者は、君の決して知らない告知を告げ、君に(あの皇帝の子のように)予想のできない常軌を逸した行いに走らせはしないだろうか? こうした「不整合で暴力的で異質な」天使の通過、すなわち「永劫」は、君の生を絶えず斜断し続ける。
 合冊版「聖書」には、この「不整合で暴力的で異質な」瞬間が、文字通りに目に見える形で現実化されている。つまり、それによって複数の思考が「響動」し、「新生と変容」が行われるあの2つの「聖書」の間の空白のページ。「翻訳者の使命」の最後は、「聖書の行間翻訳はあらゆる翻訳の原型もしくは理想である」というものだった。このベンヤミンのテーゼは、むしろ「聖書と聖書の間、その空白のページは、あらゆる思考の原型もしくは理想である」と言い換えるべきなのではだろうか。この空白のページは、「本質的に逆説的であって」「いつまでも存続する」。キルケゴールが言うように「『反復』の概念とともに、はじめて本来の意味での現実性が姿を現す」とすれば、それは「本来の意味での現実性」が一つの空白のページとして、奇跡のように物質化したということなのである。 キルケゴールがヘーゲルとの関係を通して現実化していたもの、例えば「体系のなかのひとつの注」として語ろうとしていたものの「原型もしくは理想」は、この合冊版「聖書」の空白のページだったのである。「旧約聖書」「新約聖書」はそれ自体が合冊本であり、さらに例えば「創世記」それ自体が複数の著者を持っている。そして、あの「新約」のあの複数の伝記、つまり「3共観福音書」+「ヨハネ福音書」。つまり、「聖書」の中で空白のページはそれ自体複数化していくだろう。この「複数の思考」そのものである奇怪な本は、哲学の思考を挑発し、刺激し続ける。その挑発を最も模範的に受け止めた哲学者が、あるいはキルケゴールだったのだろうか? キルケゴールはキリスト教をその思考のテーマとしたために、とりわけそう見えるのではないだろうか。
 だが、ここでもまたベンヤミンの言うあの「血縁性のあるところに必ず、類似性が生ずるとかぎらない」というテーゼがあてはまるのだろう。「広義の血縁性」つまり原型の「死後の生」は、「原作との類似」ではなく「形式の再現における忠実」にある。合冊本「聖書」の「形式の再現における忠実」は20世紀になって、キリスト教とは一見無縁な一人の哲学者によって企てられている。この企てによって、彼はきわめて希有な「一人二役」としての「複数の思考」の哲学者として存在することになる。それは合冊本「『論理哲学論考』+『哲学探究』」を構想したウィトゲンシュタインである。

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