野宿者襲撃論
(前篇―T)



2000年4月1日から仮に「文書」として 

T―▼1990年10月2日「暴動」 ▼1990年秋「反差別共同闘争」 U―▼「2000年12月31日〜2001年1月1日」 V―▼「2001年2月7日 フリーターは野宿生活化する?」▼「2001年3月6日 フリーターに未来はない?」 W―▼「野宿者襲撃論」

という構成で書いてきた文章は、最終的に2つの「フリーター論」と「〈野宿者襲撃〉論」にまとまった。
「〈野宿者襲撃〉論」の「前篇・後書き」で書いたように、ぼくは1986年から釜ヶ崎で日雇労働運動と野宿者支援運動に関わってきて、襲撃の話を日常的に見聞きしていることもあって、この問題に長く関心を持っていた。この文章は、これまで考えていたことをまとめたものである。
「〈野宿者襲撃〉論」は、ぼくが長く考えてきた事の一つの面をすべて投入した内容になっているのかもしれない。そして、2つの「フリーター論」と「野宿者襲撃論」を書き終え、今までとは全く別の方向へ向かわなければならない位置に自分が来たことを痛感している。



「日本の若者は殺さない」(2003年4月4日・朝日新聞)

「日本の若者は、おそらく世界一、人を殺さない若者だ」。(…)長谷川真理子・早大教授はいう。
 酒鬼薔薇を名乗る中学生の神戸事件。21歳の若者による京都市の小学校の児童殺害事件。若者による殺人事件は近年、凶悪化し、増えているという印象が強い。しかし、過去40年、数だけ見れば若者の殺人は急激に減り続けてきた。
 犯罪精神医学の影山任佐・東工大教授も以前から注目してきた。「これは欧米にもアジアにもない、日本特有の現象だ」という。
 世界保健機関の最新のデータ(99年)によれば、日本の殺人被害者は人口10万人当たり0.6人で、主要国の中では最も少ない。フランス、英国、ドイツよりも少ないし、オランダやスウェーデンの半分にすぎない。米国と比べれば約10分の1だ。一方、殺人者の出現率も1.1人(02年、人口10万人当たり、未遂を含む)で、最低レベルになっている。先進工業国の中で極めて殺人者率が高い米国の研究者は、日本をうらやむ。影山さんによれば、ドイツには「日本では、なぜ殺人が起こるのかということより、なぜ起こらないかを研究した方が良い」と書いた犯罪学の研究書まであるという。
 とはいえ、日本も昔からこんなに殺人が少なかったわけではない。第2次大戦中を除いて、戦前も戦後も、殺人者率は、3〜4人を中心に上下していた。それが、1950年代末から急に減り始め、90年代までにはほぼ1人になった。これだけでも世界的に十分珍しいのだが、この減少に最も寄与したのが、戦後生まれの若者たちだったということが日本の大きな特徴だ。
 古今東西を問わず、殺人は20代前半の男性が最も犯しやすい。(…)この年代の殺人者率は、55年はほぼ23人だった。それが年々減り、90年以降は2人前後で推移している。40年間でざっと10分の1になった。(…)一方、中高年の殺人は若者たちほどには減らなかった。このため90年代半ばには、30〜50代の中年男性の方が20代前半の男性よりも殺人者率が高くなってしまった。
(…)小柳武・法務省法務総合研究所総括研究員は「殺人はエネルギーがなければできない犯罪だ」という。同研究所の02年版犯罪白書を見てみると、若者の暴行、傷害、強姦などの犯罪率も、昔と比べて激減している。総じて、暴力犯罪のエネルギーが少なくなっているといえる。


「日本の若者は、おそらく世界一、人を殺さない」
「20代前半の殺人者率は年々減り、90年以降は2人前後。40年間でざっと10分の1になった」。(注1)
 こうした事実にもかかわらず、以前と比べ、若者たち、特に10代の少年たちが明らかに頻繁に起こしている殺人事件があるように見える。野宿者襲撃による殺人である。
 特に1990年代後半以降、若者による野宿者襲撃事件はそれまでの大都市だけでなく地方都市にまで拡散し、そこでの残虐な事件が繰り返し報告されるようになった。しかも、野宿者襲撃は、スキャンダラスなものでない限り報道もされないが、一般に知られているよりもはるかに頻繁にあり、かつ残虐なのである。寝ているところをエアガンで撃つ、花火を打ち込む、体にガソリン類をかけて火を放つ、投石する、消火器を噴霧状態で投げ込む、眼球をナイフで刺す、ダンボールハウスへの放火、殴る蹴るの暴行等々といった襲撃が日常的に行われている。その結果、多くの野宿者が怪我を負い、うち毎年数人が致死傷を負うに至っている。
 野宿者=ホームレスの存在は、先進国ではありふれたものである。事実、アメリカでは研究者や支援者の推定によれば1年間に350万人近くがホームレスを経験しており (注2)、イギリスでは同様に40万人、フランスではほぼ同数がいるとされている。そして、それらの国々でも日本と同様に野宿者襲撃が日常的に起こり続けている(注3)。
「90年代半ばには、30〜50代の中年男性の方が20代前半の男性よりも殺人者率が高くなってしまった」。しかし、奇妙なことに、野宿者襲撃を行なう者はそのほとんどが若い男性なのだ。野宿者襲撃の容疑者として検挙された者は、その多くが中学生、高校生、そして10代の労働者といった年代にある。しかも、襲撃行為はとりわけ学校の夏休みが始まったその瞬間に一気に増加するというパターンがかなり普遍的に見られる。一方で、殺人者率が高いはずの「30〜50代の中年男性」の野宿者襲撃はきわめて少ない。つまり、10代後半の少年グループが55から65歳程度の野宿者を襲い暴行する、というのが野宿者襲撃の典型的なパターンとなっている。
 凶悪犯罪の一般状況に完全に反する野宿者襲撃のこの状態は、何によっているのだろうか。

(注1)
「20代前半の殺人者率は年々減り(…)40年間でざっと10分の1になった」。では、未成年による殺人についてはどうだろうか。少年犯罪は「増加し凶悪化している」という理解が一般的だが、実際には少年による殺人は1965〜1975年にかけてそれまでの数分の1に一気に急減し、その後もこれといった数的変化は起きていない。(ただ、窃盗などの犯罪は急増している)。
 この点については、河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学」、あるいはマッツァリーノ「反社会学講座」第2回「キレやすいのは誰だ」を参照のこと。

(注2)
「最も適切な推定は Urban Institute による研究(Urban Institute 2000)で、それによるとこの年にホームレスを経験した人数は350万人であり、そのうち子どもは135万人である」。
(http://www.nationalhomeless.org/numbers.html)
ホームレス数のカウントについては、ホームレスの定義やカウントの方法上の相違の問題があるため、議論が多い。この National Coalition for the Homeless のページはそうした問題も含めて参考になる。
 なお、2003年に厚生労働省によって発表された日本の野宿者数は、あまりに杜撰なために参考程度にしか使いようがない。この発表によると日本の野宿者数は2万5000ほどだが、現実には4万人程度だと思われる。また、日本の野宿者襲撃の実態については、「野宿者ネットワーク」のホームページhttp://www1.odn.ne.jp/~cex38710/network.htmなどを参照のこと

(注3)
 個人的に、釜ヶ崎で野宿者問題に関わっている人で海外経験のある何人かに、各地の野宿者襲撃の状況を聞いてみた。
 例えばドイツで数年生活していた人の話では、ドイツではネオナチによる外国人襲撃が大きな社会問題だが、野宿者襲撃としては、公園のベンチで寝ている人を狙った襲撃を「何度か聞いたことがある」程度だという。
 なお、「欧米のホームレス問題 実態と政策」によれば、
「とくに、なんらかの極右のイデオロギーを動機にした青年によるホームレス生活者への暴力は、ドイツ社会に影を落とす深刻な問題の一つになっている。『ホームレス生活者扶助連邦協議会』の推計によれば、1989年から2000年にかけて少なくとも107人のホームレス生活者が殺害されており、203人が重傷を負っている。(…)ミュンヘン市で行われた調査によれば、ホームレス女性の56%は持ち物を強奪され、34%は肉体的に痛めつけられ、3分の2は性的な虐待を受け、3分の1は強姦された経験をもつという」。
 また、アメリカ(サンフランシスコ)でホームレス支援活動に関わった人の話では、そこでは若者による野宿者襲撃が問題になっている気配はほとんど感じられず、地元の支援団体のスタッフに「日本では特に若い人たちが野宿者の人を襲い傷つける傾向がある」という趣旨のことを言うと、「なぜそんなことをするのか? お金やモノをとるためか?」などと逆に質問されてしまう状況だったという。
 ただし、実際にはアメリカにおける野宿者襲撃(Hate Crimes and Violence Against People Experiencing Homelessness)は非常に多い。例えば1999年から2002年のでの4年間に襲撃によって死亡したホームレスは123人、負傷者は89人と報告されており、死亡者が年間で数人程度である日本とは文字通りケタがちがう。そして、襲撃者の大多数はハイティーンの男性と報告されている。しかも、ケース報告を読むと、その残虐さにおいて日本を上回るのではないかという印象がある。詳細については下のページを参照のこと。
(http://www.nationalhomeless.org/facthatecrimes.html)
 こうした事実にもかかわらず、アメリカのホームレス支援者の間でさえ襲撃があまり問題にされない場合があるのは(NCHの報告によれば、1999年〜2002年で「野宿者にとって最も危険な州」第1位がサンフランシスコのあるカリフォルニアなのだが)、アメリカの犯罪全体の多さに対して野宿者襲撃があまり目立たないことによるのだろうか。
 後でも触れるが、社会における差別や排他性の問題は、日本においては「野宿者」問題において突出して顕在化していると言えるかもしれない。


T・「人の命は大切」なのか?


 現在あるような、主に未成年の少年たちによる野宿者襲撃はいつから始まったのだろうか。それについては、興味ある調査が一つ残されている。
 1982年末から83年2月にかけて横浜市で起こった「浮浪者」(当時こう呼ばれた。実際は「野宿日雇労働者」なのだが)襲撃事件によって、野宿者襲撃が日本で最初に社会問題となった。14才から16才の少年10人が野宿者を次々に襲い、3人が死亡、十数人が重軽傷を負った事件である。その多くがかつて「やさしい子」「めだたない子」と言われていた少年たちは、逮捕されたとき「こんなことで逮捕されるの?」「骨が折れるとき、ボキッと音がした。それを聞くとスカッとした」「やつらは抵抗しないから、ケンカの訓練にもってこいだった」「抵抗するのがいたら、それはそれでおもしろかった」などと語り、社会に大きな衝撃を与えた。
 そして事件の後、新聞社の調査によって、こうした野宿者襲撃は1975年頃から横浜近辺で「常識」になっていたことが明らかにされた。朝日新聞によると、事件後に盛り場で補導された少年少女のうち57人が「襲撃をやった」と認めた。彼らによれば、こうした襲撃は少なくとも8年前(=1975年)から始まり、その後ずっと中学生たちの間で続けられていたという。
「こどもたちは当時から、襲撃を『浮浪者狩り』『こじき狩り』などど呼んでおり、襲撃に出かける時は、『(浮浪者を)タコろう(殴ってタコのようにグニャグニャにする、という意味)』などと誘い合っていた、という」。
 そして、その後も、全国の寄せ場周辺で少年たち(襲撃者には大人も少女もいるが)による野宿者襲撃はとぎれることなく続き、野宿者が全国に遍在する今に至ることになる。
 つまり、こうした襲撃は経済史的に言えば高度経済成長終焉後に特有の現象なのだ(注4)。もちろん、それ以前から野宿者へのいやがらせ行為はあった。だが、それは1950年代、60年代に「そのころだっていじめはあった」「オレらも動物をいじめたりしたもんだ」とかいう話とおそらく同じ性質のものである。昔の野宿者に対する「からかい」と現在の「襲撃」とは、昔の「(「いじめっ子」による)いじめ」と今の「虐待」がちがうように性質が異なっているはずである。
 高度経済成長終焉後に野宿者襲撃が増えた原因としては、一つには、この時期から現在の形での野宿者の存在が常態化したという事情があるだろう。つまり、野宿者との物理的な接触が(現在、地方都市でそうなっているように)増えたのである。しかし同時に、この時期から常識からは不可解と言える少年犯罪が現れ始めているのであって、野宿者襲撃はその一部だとも言える。
 宮台真司が、香山リカとの対談で言っている。
「(かつて少年院の教官をしていた元ARBのロックシンガー)白井久さんは、83年に大きな転機があったと言います。ちょうど横浜で中学生たちによる浮浪者殺害事件があった年です。この頃から突然、先に述べたような(「中学も卒業できず、字もろくに読めない連中、めちゃくちゃな生活環境に育ったために、社会性を身につけるチャンスがなかったような」)タイプが減り、代わりに中流家庭の、昔の基準で言えば崩壊家庭でもないし生い立ちも悪くない子が増え、些細な理由で集団的に浮浪者を叩き殺すといった種類の犯罪で、少年院に入所してくるようになったと言うのです。その結果、従来の少年院や少年刑務所にいる教官たちにとって、少年たちが不透明になり、仕事の実感がうまく掴めなくなったそうです」(「少年たちはなぜ人を殺すのか」)。
 つまり、野宿者襲撃は少年犯罪の一つの転機を画し、さらにそれ以後も途絶えることなく続いているということになる。上の対談で宮台真司が言うように、
「今は、52年以降や64年以降のピーク時と比べれば少年による殺人件数は半分程度です。理由は、他に生きる手段がないので犯罪を犯すという機会のアノミー(手段不足による混乱)が消えたから。70年代半ばの成熟社会化以降、目標のアノミー(目的を持てないがゆえの混乱)が優越するので、動機は理解不可能になります。全体件数が減っても『理由なき殺人』のような気持ちの悪い犯罪が増え、マスメディアを騒がせることになるわけです」。
 つまり、この時期から、世間を騒然とさせる不可解な「理由なき」少年犯罪が現れ始めている。少年犯罪の質的変化が、83年の野宿者襲撃事件を一つの転機として現れているのである。

(注4)
 宮台真司と斉藤環の対談から引用(斉藤環「OK? ひきこもりOK!」)
「(斉藤)学習塾の増加というのは何でしょうか。これも学校的価値観の普及の完了みたいなものですかね」
「(宮台)統計的には75年が転機です。家計に占める教育費の割合、小中学生の塾通いの割合は75年から急増します。だから、75年をエポックだと見ていいのではないでしょうか。(…)」
「(斉藤)学校基本調査を見ても、75年から不登校は現在に至るまで一直線の増加に転じています。その是非はともかくとして、この時期はやはり何かのエポックだったのかもしれませんね。」

 前田雅英「少年犯罪 統計から見たその実像」より引用。
「戦後社会の転換点――1975年の意味
一般的な形で「日本の少年非行の転換点は何年だったのか」などと問うことは、あまり意味がない。(…)ただ、戦後を俯瞰した場合に大きなカーブをあえて挙げれば、それは70年代中頃であった。(…)何よりこの時期から、少年の犯罪の増加がほぼ一貫して進行することになる。と同時に、少年犯罪の主役が、年長少年から、中間・年少少年に入れ替わる。少女の犯罪が増加をはじめるのもこの時期からなのである。そして、少年犯罪の地域差が消えていく。」

 さらに言えば、1975年は専業主婦の割合が頂点に達し、合計特殊出生率の低下が始まった年である。それは、従来型の「家族」像が折り返し地点に達したことを意味している。(国際的には、ベトナム戦争でサイゴンが陥落した年である)。
 また、この年には「ぼくは12歳」の岡真史が飛び降り自殺をし、第一回コミック・マーケット(コミケ)が開催されている。



 残虐な野宿者襲撃が起こったとき、常に襲撃を行なった少年たちの「心理」について分析が行われる。しかし、襲撃にあってわれわれが最も関心を引かれるものの一つは、そうした「分析」を含めた、事件に対する社会の反応である。
 83年の野宿者襲撃事件を追跡した青木悦は、この事件についてある中学校で大人たちや生徒たちと話し合った時の出来事を記している。(以下、青木悦からの引用は「横浜『浮浪者』襲撃事件を追って―― やっと見えてきたこどもたち」1985による)
「1983年2月にあかるみに出た横浜の、いわゆる「浮浪者」連続殺傷事件について、ある中学校で話し合っているところだ。(…)私はその一ヶ月ほど前に、襲撃に加わった少年のひとりと会って、彼が事件後一年たっても人を殺したことをはっきり認識していないことを知り、驚いた、と語った。(…) さらに生命というものにどこか実感がないような気がしたと語った。
 大人の側は深刻な顔になった。それまで『浮浪者』をどう考えるかに話が行き、『汚いといって差別するのはおかしい』というタテマエ論から『でも、あの人たちは自由でうらやましい』といった言葉まで出ていた。そういう意味では、みんなが〃評論家〃的に語り合っていた。ところがここで『生命への実感』などという、しんどい問題が出てきて、それぞれ考え込んでしまった」。
 青木悦によると、発言の場に同席していた「そのときの中学生たちの席の動きに、ちょっとふしぎな感じを抱いた」という。そのとき「大人たちが深刻そうな顔をしてうつむいているのに対し、彼らは一様にその大人の顔をじっと上目づかいに見つめているのだ。にらんでいるといってもいい。少なくとも自分の心の中に思いを沈ませるという風ではなく、どちらかといえば挑戦的な表情で見ている。何かある、と思った私は、じっと黙った」。
「今の子どもたちは、幼い頃から虫を殺したり追っかけたりもできなくなっている。生命を実感する機会が少なくなっているのではないでしょうか」。
 ひとりの親がこう語ったのを口火に、教師も他の親も次々と話し始めた。
「今は核家族で、たとえば老人の死にめぐりあう機会も少ない。死を実感できないことは生も実感できないのではないだろうか」。
「テレビの中に、簡単に人の死が出てくる。あれを小さいときから見ていれば、人間の死にも鈍感になるだろう」。
 そして、そのとき一人の女子生徒が立ち上がり「あの少年たちは遊んだだけよ」と「強く、はっきりと」言ったという。彼女は、じっと青木悦の顔を見て今度はゆっくりと言った。「少年たちは、最初から人を殺す気がなかったのじゃないかと思うんです。単なる遊びで襲撃をしていったんだと思うんです」。この発言に、まわりの中学生たちもうなずいた。
 さて、ここでの「遊んだだけよ」という言葉と、それに対する中学生たちの反応に、当然われわれはとまどう。「遊んだだけ」で野宿者がなぶり殺されては、たまったものではないからだ。
 しかし、こうした中学生たちの反応は、おそらく大人の自分たちへの「分析」に対する「過剰反応」なのだ。中学生たちは、無責任な「分析」にいらだち、不必要な攻撃を含んだ反応に出る。
つまり、「幼い頃から虫を殺したり追っかけたりもできなくなっている」のも「テレビの中に、簡単に人の死が出てくる」のも「今は核家族で、たとえば老人の死にめぐりあう機会も少ない」のも(実際には戦前でも世帯の半分以上は核家族だったが)、中学生たちが自分で好き好んでそうしたのではない。そういう社会は、大人の方が作ったのである。そういうことを棚に上げた上で、若者を「生も実感できない」「人間の死にも鈍感になる」と批評する大人に対して、中学生たちが不信と侮辱を感じるのは当然ではないだろうか。
 この少女は、クラスで行われていた、どちらかが気絶するまで闘わせる「仮死ごっこ」に触れ、「たまたま死んじゃったから事件になってさわぐけど、その直前まで行ってる遊びはいっぱい学校の中にあります」と言う。それを聞いた学校の先生は立ち上がり、「おまえら、いつからそんな遊びやってたんだ。先生も知らないぞ―」と顔を赤くして叫んだ。
「生徒たちはその瞬間にまるでカーテンを降ろしたように表情を固くし、口を一文字に結んでしまっていた。(…)中学生たちはそれ以後、〃優等生〃に終始した。『二度とこんな事件が起きないようにしなければならないと思います』などと語った」。
 もちろん、ここでは意味をなすコミュニケーションは成立していない。事件にショックを受けた大人たちによる無責任な分析、それに対する中学生たちの過剰反応、さらにそれに対する感情的な反応という不毛なやりとりが行われたのである。しかし、こうしたやりとりは、野宿者襲撃をめぐって以後20年以上、繰り返し再現されることになる。


 殺人に至った野宿者襲撃事件に対して社会が示す典型的な反応の一つは、「いのちの大切さ」を訴えることである。
 比較的最近の例では、2002年1月の東村山の野宿者殺害事件(詳細は下で触れる)のとき、犯行を行なった少年たちの中学校の校長は全校集会を開いて「いのちの大切さを訴えた」。また、事件後、東村山市教育委員会は臨時の校長会を開き、会議で「いのちの大切さの指導」や、生徒の日常生活の把握に努めることなどの徹底を各校長に求めた。いじめによる自殺があったときも、不可解な少年犯罪が起こったときもほとんど必ず語られるこの「いのちの大切さ」という言葉は、しかし現実には何を語っているのか。
 ぼくは、若者による野宿者襲撃についてこう書いたことがある。

 従来の野宿者襲撃には、おそらく2つの要因がある。一つは学校・社会の中での心身のストレスの鬱積である。殺人などの襲撃を行った少年たち(襲撃者には大人も少女もいるが)は、「ホームレスは臭くて汚く社会の役にたたない存在」「何かをしなければ生きる価値ないし、何もしなくてホームレスになったっていうのはほんとに価値がない」「無能な人間を駆除する、掃除するって感じ」「働けって腹が立つ」などと語っている。この「無能な人間は駆除される」「役に立たない存在は価値がない」という発想が、そのまま学校などで彼らが常にさらされているストレスであることは明瞭である(例えば、「働け」というのは、彼らが常に言われるか感じているかしている「学校へ行け」という圧力の言い換えではないか)。
 若者たちはそのストレスのはけ口を求めて弱者を狙う。つまり、路上で無防備に寝ざるをえず、他の社会から疎外されている「社会的弱者」を標的に選ぶ。
 もう一つの要因は、言うまでもなく一般社会による野宿者への偏見・差別である。つまり、大人たちが野宿者を一応は合法的な形で排除しているところを、若者たちは暴力の行使という形で直接実行しているだけだ、ということである。社会的マジョリティが公園の「整備」とか町内の「環境保全」とかいった理由をでっちあげて野宿者を「排除」しているところを、襲撃する若者たちは直接暴力に訴える。早い話が、行政・市民が「迷惑だ」と言って野宿者を商店街や駅や公園から追い出し、こどもに「話しかけられても無視しなさい」「勉強しないとあんな人になっちゃうよ」などと教えていること自体が、野宿者を社会的孤立へ追いやり、さらには襲撃の後押しをしているのである。
(初出・月刊「現代」2002年1月号 一部変更)

 この説明は、少年たちによる野宿者襲撃の説明としては実は不十分なのだが、それについてはあとで触れる。
 2002年の東村山の事件の場合、図書館で騒いでいた少年たちは、野宿していた鈴木さんにしかられ、その腹いせに仕返しを図ったという。おそらくその時、「ホームレスのくせに」という考えがはたらいていたのだろう(実際、一緒に少年たちを注意した図書館の職員には仕返ししていない)。そして、少年たちは鈴木さんに対して3回にわたって計1時間半以上暴行を繰り返した末に殺害した。死因は「全身性打撲などに基づく外傷性ショック死」とされ、肋骨だけで26カ所の骨折があったという(西村仁美「悔 野宿生活者の死と少年たちの十字架」2005)。
 したがって問題は、人を暴行して死に至らしめる少年たちの感性と同時に、野宿者への偏見にある。社会全体に浸透している野宿者差別を抜きにしてこの事件を語ることは、当然ながらできない。
 しかし、事件に対して校長や教育委員会の言う「いのちの大切さ」という発想は、そうした社会的差別の問題をすべて「流して」、問題をいきなり「人間(生き物?)はすべて大切だ」という抽象論・博愛論にしてしまう。その場合、「野宿者襲撃」の個別性は消され、「いのちの大切さ」という一般論だけが残される。別の例で言うなら、それは女性差別や人種差別が問題になっている場で、「人間はすべて平等ではないか」=「同じ人間じゃないか」と言い出すようなものである。しかし、言うまでもなく、そんなことは当然の前提、あるいは遠大な結論でしかない。問題はむしろ、その「人間」がなぜ他の人間への差別や偏見を捨てないのか、という具体的な「関係」の点にある。
 似た例で言えば、こども同士の間で在日朝鮮・韓国人への差別があったとき、日本人のこどもの一人が「朝鮮人だって人間じゃないか」と言ったという話を以前何かで読んだ。それは多分、在日朝鮮・韓国人への差別に限らず、繰り返しいろんな場で語られるセリフ(「○○だって同じ人間じゃないか」)なのだろう。しかし、よく考えてみれば、誰にしても、朝鮮・韓国人が「人間じゃない」と思っているわけはないのだから、この「朝鮮人だって人間じゃないか」という言葉の意味は、「朝鮮人といえども人間だ」というものでしかありえない。
 振り返って、かの東村山市の中学の校長の「いのちの大切さ」という発言は何を意味していたのか。もしかしたら、あの言葉の真意は「(ホームレスといえども)いのちは大切だ」というものではなかったか(ありうる!)。だとすれば、この「いのちの大切さ」という言葉は、実は確信犯的な差別発言なのである。
 この事件で問われるべきことの一つは、野宿者に対する社会そのものの偏見・差別だった。学校の教師がこの事件について何か語るとすれば、自分たちの社会が野宿者に対してどのような関係を持ってきたかということを当然に自らに問わなければならなかった。
 それに対して、「いのちの大切さ」という博愛論は、それら社会的責任の問題をすべて消し去ってしまう。つまり、それは現実には、単なる抽象的な「責任逃れ」として機能する。したがって、教師たちがどれほど「深刻そうな顔をして」「いのちの大切さ」についてしゃべろうと、中学生たちには単に空虚である。いわば、ここでも「大人たちが深刻そうな顔をしてうつむいているのに対し、彼らは一様にその大人の顔をじっと上目づかいに見つめているのだ。にらんでいるといってもいい。少なくとも自分の心の中に思いを沈ませるという風ではなく、どちらかといえば挑戦的な表情で見ている」となるのではないか。
 そしてここで、1984年に一人の女子生徒が立ち上がり「あの少年たちは遊んだだけよ」と「強く、はっきりと」言う代わりに、「いのちの大切さ」という言葉の欺瞞性に対して一人の生徒が立ち上がって「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」と言ったとしても不思議ではないだろう。
 「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」という発言は、1997年の酒鬼薔薇事件ののち、「ニュース23」の特集に出演した男子高校生が発言し、以後、大きく取り上げられた設問である。このタイトルの本や雑誌の特集が幾つも出され、様々な解答が生み出された。(最も一般的だったのは「君が殺せば、君も殺される(だから殺すな)」というものだったが、もちろんそれは、大坂池田小児童殺傷事件の容疑者のような「自分が死ぬために人を殺した」という自暴自棄な人間の登場、そして自爆テロの頻発によって完全に説得力を失った)。きわめて様々な解答が出されたが、それらが全くピントをはずしているように見えたのはなぜなのか。それはおそらく、「なぜ人を殺してはいけないのか」という設問の意味が、一つには「命の大切さ」という無意味な言葉のインフレ状態に対する「過剰反応」だったからである。横浜の野宿者襲撃事件の直後、そして酒鬼薔薇事件の直後、「今のこどもたちには、いのちの大切さが実感できていない」というセリフがあらゆる場所で蔓延した。このような無責任な「分析」「批評」にいらだった若者が、不必要な攻撃を含んだ反応をしたとしても不思議ではない。
 ちょうど、野宿者襲撃について「あの少年たちは遊んだだけよ」という反応にわれわれがとまどうように、「なぜ人を殺してはいけないのか」という設問にわれわれはとまどう。しかし、それは社会の無意味な「分析」に対する「過剰反応」(開き直り)という点でおそらく一致する。そして、このような「過剰反応」にまともに答えようとすれば、それは、あの少女の発言に対して「おまえら、いつからそんな遊びやってたんだ。先生も知らないぞ―」と顔を赤くして叫ぶのと、役割としてはあまり代わらないことになる。われわれは、過剰反応にまともに答えるのではなく、それが起こった文脈をとらえなければならなかったはずである。
 この点で、宮台真司が酒鬼薔薇事件の直後、この設問の解答を求めるメディアをすべて拒否し、設問に対する「解答」があればそれで若者たちは納得するのか、これはそういう問題なのか、と反問したのはさすがである。
「TBS『ニュース23』の夏休み特集に出演した男子高校生が、『人を殺しちゃいけない理由が分からない。自分は死刑になりたくないから殺さないからだ』という主旨の質問をした。これは酒鬼薔薇事件が若者たちのコミュニケーションにもたらした余波である。/この質問に対して、その場に居合わせた大人たちは誰一人まともに解答することができなかった。むろん私は『いけないものはいけないんだ』と叫ぶことを要求しているのではない。そんなことは誰にでもできるが、質問した彼にとっては問題にもならない。/私か期待したのは、『そもそもこの種の疑問は、いったん抱かれてしまうと、もはや疑問を抱いた人間を納得させるような答えを見つけることが困難な性質のものだ』という明確な言明であった。この種の言明は、社会科学の長き歴史の一つの到達点でもある。/私たちが人を殺さないのは人を殺してはいけない明確な理由があるからではない。人が滅多に人を(平時に仲間を)殺さないという自明な事実に対する信頼がまずあり、その上で人を殺してはいけないという観念も抱かれるし、かかる観念に基づく殺人への否定的反応も生じる。(…)それを『根拠なき自明性』と言うことができるだろう。したがって、この自明性が疑われはじめると、疑いを払拭するような明確な根拠を持ち出すことはそもそも困難になる」。(「透明な存在の不透明な悪意」)
 しかし、「なぜ人を殺してはいけないのか」という設問は、別に「社会科学の長い歴史の一つの到達点」でも、「根拠なき自明性」の喪失(最近の宮台真司のよく使う言葉で言えば「底が抜けた」状態)でもないだろう。かなりの部分、社会の無責任な発言に対する「過剰反応」だったはずである。こうした具体的な文脈を無視して「長き歴史の一つの到達点」や「底が抜けた状態」を語り出すことは(「歴史の終わり」という言説と同様に)悪しき抽象論である。
 もちろん、若者のある部分に、「人を殺してはいけない」という自明性の喪失があること、つまり「理由なく人を殺しても全く構わない」という感性が現れていることは疑わない。それは、人を殺した上で「こんなことで逮捕されるの?」「骨が折れるとき、ボキッと音がした。それを聞くとスカッとした」と少年たちが口々に言ったという83年の横浜野宿者襲撃事件ですでに明白である。このような変化について、宮台真司は「なぜ人を殺してはいけないか」(「人生の教科書[ルール]」)で、「仲間を殺すな」「仲間のために人を殺せ」という万古不変のルールが社会の流動化による「仲間」範疇の変化によって不明確になったこと、日本では「共同性」の作法=同調はあっても、「共生」の作法=自立と相互貢献の教育システムがないこと、他人とのコミュニケーションを通じて肯定され尊厳を獲得する「承認」の供給不足、といった幾つかの要因を挙げている。特に最後の要因は、自分の存在の価値が実感できない以上、他者の存在を尊重することもできないということを指している。つまり、自分の存在を尊重される経験を持たなかったこどもにとっては、「なぜ人を殺してはいけないのか」もわからない、ということである。
 こうした要因については、後で詳しく触れるだろう。しかし、こうした背景の以前に、われわれは「(ホームレスといえども)いのちは大切だ」というような発言によって、若者たちに「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」という反応を挑発し続ける「社会」の責任を問わなければならなかったはずである。「人の命の大切さ」を説く者と野宿者襲撃する少年とは、事実上「共犯」関係に立っている。われわれは、野宿者襲撃の原因を少年たちだけに帰するのではなく、むしろ野宿者襲撃と社会との関係をまず問う。一言で言えば「ホームレスを襲撃するような『壊れた』少年を、健全なわれわれの社会に引き戻す」という発想はどこまで行っても不毛だからである。

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