野宿者ネットワークと釜ヶ崎の1年

 釜ヶ崎周辺の日雇労働者、野宿者に関する状況は、この一年、依然として厳しいものだった。
 野宿者ネットワークが活動を開始した1995年は、「日雇労働者の街」「寄せ場」としての釜ヶ崎が深刻な不況に陥り、多くの労働者が市内の繁華街や公園で野宿をはじめた時期だった。野宿者ネットワークは「釜ヶ崎反失業連絡会」を構成する団体の一つとして、失業して野宿になった労働者の支援のため、大阪府、大阪市に対する「反失業闘争」、センター開放やテントでの集団宿泊などに取り組んできた。その成果として、特別清掃事業やシェルターなどが実現していった。
 しかし、その後の対策は頭打ち状態となり、特別清掃事業やシェルターが「野宿を固定する役割を果たしているのではないか」とも議論される状態になる。そして、「日雇労働者・野宿者」の多くが生活保護になっていき、釜ヶ崎が「福祉の街」となる、日雇労働者の街→野宿者の街→生活保護の街という変化が進行している。そして、いま生活保護から野宿に戻る動きが増えつつある。
 今年は、東北の震災に関わる問題も起こった。東日本大震災直後の3月17日ごろ、釜ヶ崎の「西成労働福祉センター」が手配業者からの依頼をもとに「宮城県女川町、10トンダンプ運転手、日当1万2千円、30日間」という求人情報を掲示した。それに応募して採用された60代の日雇労働者2人が東北に向かったが、その仕事内容は、福島第1原発の敷地内で防護服を身に付け、がれきの撤去作業というものだった。その1人が3月下旬ごろにセンターに電話で「話が違う」と訴え、原発敷地内で原子炉を冷やすための水を積んだ車の運転などをしたことも確認された。その労働者は30日間の仕事を終えた後、センターに「5号機と6号機から数十メートル離れた敷地内で作業した。安全教育はなく、当初は線量計もなかった。(約2倍の)計60万円受け取った」と説明したという。
 労働者を雇った業者「北陸工機」(岐阜県大垣市)は東京電力の3次下請けで、「(元請けから依頼があったのは福島第1原発での作業だったが)混乱の中で女川町の現場を伝えてしまった」と釈明した。一方、愛知県の元請け業者は「“福島第1原発付近で散水車の運転手”と業務内容を伝えたが、原発敷地内の作業とは言っていなかった」と話したという。
 職業安定法は、事業者側に対して、求人票に正確な労働条件を記載することを義務付け、うその条件や内容を示して労働者を募集することを禁じている。しかし、仕事がない日雇労働者にウソをついて現場に送り出し、危険な仕事をさせるケースは以前から続いている。労働者・野宿者の側も、仕事がなく、生活が苦しい状態が続けば、「おかしいな」と思っても目の前の仕事を取らざるをえないという問題がある。情報を伝え、危険な仕事に警戒する必要が今後も続くと考えられる。
 また、4月5日には、昨年7月11日におこなわれた参議院選挙のさい、釜ヶ崎で「投票に行こう!」と呼びかけた仲間たち7人が「公務執行妨害」の容疑で逮捕され、関係先14カ所以上が家宅捜査を受けた。不当逮捕された7人のうち、3人は4月26日までに釈放されたが、4人が「威力業務妨害」で起訴された。野宿者・日雇労働者の権利を守る運動へ大規模な弾圧であり、起訴された4人の仲間たちの無罪釈放、そして貧困ゆえ住居がなく住民登録できない人たちの選挙権行使の回復を求めていきたい。

夜まわりと生活保護

 野宿者ネットワークとして行なっている毎週土曜日の阿倍野・心斎橋・日本橋の夜回りで、2010年5月21日〜6月4日の夜回りで出会った野宿者数は、全コースで平均113人だった。昨年の10年の同時期の平均は107人。ただ、今年は動物園前の入り口付近のコースを増やしているので、その分10人ほど多い。つまり、実態として去年から数人の減少。同じ時期の野宿者数は、09年184人、08年209人、07年259人、さらにさかのぼると、2002年6月8日は(当時の少ない範囲で)493人。結果として、ここ10年あまり大きく減少しつづけた野宿者数が、ここではじめて底を打った可能性がある。
 野宿を脱した人々の多くは、生活保護でアパートに入ったか、病院に入ったかなのだろう。いま、われわれが夜回りで出会う野宿者には、「まだアルミ缶(ダンボール)集めで自力でがんばりたい」「借金問題や家族問題があり、生活保護を受けられない」という人たちが多い。
 一方で、夜まわりでは「以前に生活保護を受けていたが、また野宿に戻った」という人に出会うことが明らかに多くなってきた。野宿者ネットワークが生活保護を紹介した人の中にも、隣人とのトラブル、精神的な問題(被害妄想など)、家賃滞納などの理由で野宿に戻る人がかなりの割合になる。支援があればアパート生活を維持できたかもしれない場合は多く、われわれの力不足を感じることは多い。
 生活保護を受けた人たちへの支援としては、野宿者ネットワークとして、生活保護を受けた人たちへの病院訪問、アパート訪問などの活動を続けていたが、2010年5月から、「寄り合い」としてボランティアや生活保護当事者が集まる場をつくり、日常的にアパート訪問をするという活動を始めた。ここに活動するボランティアが徐々に増え、支援活動は活発になっている。一方で、金銭管理が必要な人など、困難な問題を抱える人もかなりおり、その対応には限界を抱えている。具体的には、毎日数時間、相談に対応できる体制がないと、生活を支えることが困難な人たちが何人もいる。
 生活に困窮した人たちからの電話での相談も相次いだ。20代から60代、女性の相談も含むが、「仕事がなくなって野宿になった」「家族の暴力で家を出た」などの理由が多い。いずれも、相談を受けた上で、生活保護など、今後の見通しがつくまで支援を行ない、アパートなどに入ったあとも生活支援の活動を続けている。
 また、特に今年に入って、西成区役所をはじめ、大阪市全体で「就労活動に熱心ではない」などの理由で生活保護を打ち切る動きが進行している。大阪市長が「生活保護の有期化」「就労意欲に乏しい受給者の打ち切り」を国に訴えているが、すでに現場では生活保護を打ち切る動きが始まっているようだ。大阪の場合、「反貧困ネットワーク大阪実行委員会」や「生活保護切り下げ反対実行委員会」などが生活保護に関わる運動を続けており、秋にも集会などが検討されている。また、厚生労働省は生活保護制度の改変を検討しており、全国的な運動と連携しながら活動していく必要がある。

襲撃と教育現場の課題

 大阪市内では、去年夏休み前、大川西側の都島橋付近で、花火を打ち込んだり、小石を投げ込んだりの襲撃が頻発した。一週間前に3回襲撃された人が出て行ったとか、2週間前に小石の投げ入れや花火の打ち込みに対して警察に訴えたという人もいた。
 また、住之江では、7月20日から29日まで、小学生年代のこどもたちによる襲撃が続いた。時間帯は夕方4時から5時ごろで、人数はいつも8人ほど。『こじき、出てこい』などおの暴言やからかい、打ち上げ花火の撃ちこみや石の投げ込みがあった。
 こうした襲撃の頻発を受けて、10月28日、野宿者ネットワークと「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」(全国の教員や支援者など240人が参加)とで大阪市教育委員会と話し合いを行なった。教育委員会は、襲撃がたび重なることについて、危機感を持ったようだった。こちらは、大阪市独自の取り組みとして、襲撃をなくすための教育現場での取り組みをもっと行なうべきだ、と主張した。教育委員会は、授業の実現については、「他の問題(障害者、部落、女性差別など)についても、授業を何回行なうようにという指導、強制はしていない。それと同じで、野宿者問題についても授業を一律に強制はできない」という姿勢だった。しかし、今後、深刻な襲撃が起こった場合は、直接、教育委員会と情報交換できるように申し入れ、そのことについては了解ができた。事実、その後、継続的な情報交換を行なっている。
 今年4月には、住之江区公園のテントの野宿者に小学生たちが投石などを繰り返し、19日に4年生3人が、テントに向かって「出てこいや」「こじき」などとからかい、テントの野宿者がゴルフクラブでコツンとどつき、2人が軽傷を負うという事件があった。通報を受けた住之江署が傷害の疑いで逮捕し、のちに起訴された。ここは「長居公園仲間の会」の夜まわり範囲で、当事者の面会に行き、野宿者ネットワークも参加する「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」で情報交換をし、教育委員会や国選弁護士との打ち合わせを行なっている。
 また、西成公園では4月からたびたび中学生年代のこどもたちが10数人やってきて、テントや人に投石するという襲撃が繰り返されている。以前にも中学生たちが投石を繰り返したことがあるが、今回の子どもたちについては、学校などは特定できていない。6月に入ってからは、ほぼ2日おきに、深夜に20人ほどのバイクや自転車の若者たちが投石に来ている。警察に通報しても、「こんなところで寝ている方が悪い」などと言う警官さえいて、問題解決につながっていない。
 4月に入り、日本橋を中心に「18〜20歳の自転車3人組みに蹴られる」「3日間連続、朝5時くらいに自転車に乗った若者(学生には見えない)に蹴られた」「夜9時、6−7人の高校生が来て、自転車を蹴り倒していった。体の上に倒れた」「夜9時半〜10時ごろ、カラーコーンを投げ込まれた」「夜の1時頃、5〜6人の高校生ぐらいの若者が生卵を投げつけてくる。このため、日本橋本通りで寝ていた人の多くが避難している」といった話を聞くようになった。
 襲撃はあちこちで続いているが、捕まえることは困難で、取り組みが難しい状態にある。襲撃は特に10代の少年グループによって途絶えることなく各所で続いており、野宿の現場、教育現場での取り組みを続けていく必要がある。

日本橋公園の強制排除

 2006年5月に大阪市浪速区の日本橋公園で起こった、生活している状態のテントを、そのとき不在の人のテントも含め、寝具、食器、現金など生活道具もろとも撤去した強制撤去事件については、当事者と野宿者ネットワークとで大阪弁護士会に対して人権救済申し立てを行なっていたが、今年3月2日、大阪弁護士会は、行政手続法などの手続きを守っておらず人権侵害に当たるとして大阪市長に警告した。警告書で、大阪弁護士会は「人権侵害性の有無は損害賠償請求権が認められるか否かという裁判所の判断とは別に判断しうる」と指摘。撤去前に市職員が男性に署名させた「承諾書」について、地裁判決が「真意に基づき作成された」と判断したのに対し、同弁護士会は「拒否し続けるのに疲れ、心理的に耐えられなくなって署名したと考えるのが自然」とした。
この事件については、提訴後、大阪地裁で08年12月に請求を棄却、大阪高裁で09年7月に控訴を棄却されている。いずれの裁判では、裁判官は「本人が撤去を最終的に了解した」と(本人が否定しているにもかかわらず)判断した。こうした不当な判決に対して、弁護士会として妥当な判断のもとに警告が出したことはありがたかったが、残念ながら出るのがあまりに遅すぎた。人権救済申し立ての判断は数年かかるのが普通とされているが、せめて高裁判決前に警告が出ていることが望ましかった。

 野宿者ネットワークの活動は、「日雇労働者の支援・共闘」が「野宿者の支援・共闘」と重なる時期に始まった。そして、いま「生活保護」問題の比重が大きくなりつつある。おそらく、今年は生活保護制度が全国で大きな問題となっていくだろう。野宿者ネットワークも、夜回りや西成公園での交流会、そして生活保護受給者との寄り合いなどの活動をもとに、変化し続ける野宿・貧困問題に対して、他団体と連携しながら新たなアプローチを進めていかなければならないだろう。

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