2001年2月7日 ―フリーターは野宿生活化する?



 「群像」3月号発行。僕は「シモーヌ・ヴェイユのために」という文章を書いた。その最後の部分。  
「例えば、現在進行形の日雇労働者の総失業、総野宿生活化(そして一部の生活保護化)の最大の原因は、高齢化し、相対的に賃金が上昇してきた日雇労働者を、景気後退にあわせて資本が一気に就労から切り捨てたためである。一言で言えば使い捨てである。資本は、景気の安全弁としての下請け構造の末端を、日雇労働から別の不安定就労形態、例えば派遣労働者や相対的に若年で低賃金なフリーター層などへ移動しようとしている(将来、フリーター層のかなりの部分は野宿生活化するのではないか?)。その意味では、寄せ場にかかわる者は、このまままであれば資本の軸足移動の後始末を強いられ続けることになる。つまり、社会的距離の発現と関係の創造と同時に、資本への抵抗は依然として不可欠なのだ」。
 80年代末、寄せ場の活動家同士で、寄せ場の日本全国への拡大、つまり全国の釜ヶ崎化という話を何度かしていたことを思い出す。当時、バブル経済の登り坂の中、建設・土木業界は絶好調で、そのあおりで釜ヶ崎をはじめとする全国の寄せ場はその人的規模を拡大し続けていたからだ。そして、バブル崩壊から10年以上たった今日、その我々の予想は、現実となりつつある。つまり、近年の従来の寄せ場の日雇労働市場としての機能喪失(そして野宿者の激増)と同時進行したフリーターの激増(2000年現在で150万人、すなわち1985年の3倍。ただし「フロム・エー」の試算では344万人!)によって、あらゆる職種にわたる不安定就労形態の拡大が実現されているからである。それはあらゆる職域、地域にわたる日雇労働市場化(周知のことと思うが、日雇労働には文字通りの「日雇」と同時に、週雇い、月雇い、無期限といった様々な形態がある)、つまりアルバイト情報誌と携帯電話を軸にした「寄せ場」化であり、フリーターは現実として多業種日雇労働者だからである。
 したがって、彼ら彼女らは気づかないだろうが、フリーター問題はそのかなりの部分が日雇労働問題と重なっている。そして、野宿問題のかなりの部分が日雇労働問題である以上、フリーターと野宿とは強い相関関係を持っている。ネット上で、フリーターによるフリーターのためのホームページ(フリー太郎の「フリーターズ・フォーラム」http://www.freeterweb.com/を僕はよく見ています)を見ていると、「フリーターの未来はホームレス?」みたいな発言をたまに見るが、それは今後徐々に現実味を持った話になっていくはずである。
 フリーター激増の原因は、幾つかの調査によってある程度確定できる。主要な原因の一つは、働きたくても正規雇用の口が少ないからだ。現在、すでに常用労働者の3分の1はパート、アルバイト、派遣などの非正規労働者になっている。政府、特に財界は、これまで使ってきた安定的な雇用層を少数の中核的な労働者に限定し、多数の労働者を流動的な雇用層に置き換えようとしている。コンビニ、ファストフード、スーパーや衣類販売などのサービス業のかなりの部分がフリーターによって成り立っているのは誰の目にも明らかだ。そして、それと同時に銀行、出版業、流通業その他諸々のあらゆる職種にわたって事務上の単純業務などがパート、アルバイトにまわされ、正規労働者ができる限り少数に押さえ込まれる傾向が見られる。理由は、もちろんそのほうが安くあがるからである。
 労働省がまとめた99年の総実労働時間は、全体で月平均約153時間、それに対してフリーターの月平均労働時間は約160時間。つまり、数字の上では正規雇用よりフリーターの方が長時間働いている。しかしフリーターの仕事は低賃金で、平均収入はリクルートの調査によると12.5万円であり、正規雇用労働者の平均的な月収より低い。フリーターには原則としてボーナスや昇給などはないから、正規雇用労働者との格差はさらに広がる(ただし、正規雇用労働者の方が長時間働いている、あるいは時間換算すれば正規雇用労働者の方が単価が安い、という見解もある。いずれにせよ、職場は文字通りの千差万別だから一概にはいえない)。そして、多くのフリーターは健康保険や国民年金といったセーフティネットを保証される職場にいるわけではない。フリーター自身もそこまでとても気が回らないし、そもそも社会保障上の問題について把握している若者はそれほどいない(会社が全部やってくれている分、正規雇用労働者もあまりわかっていないだろうが)。むしろ、フリーターは突然の解雇、低賃金、サービス残業といった雇用側の一方的な都合、あるいは理不尽な横暴に最もさらされやすい立場にいる。つまり、ちょっとした病気や何かのアクシデントでいつクビになるかわからないということだ。よく言われるように、非正規雇用労働者の立場は日本の労使関係では非常に弱いのである。フリーターの意識調査でも、「病気をしたとき収入がなくて困る」「いざというときの保証がない」「将来が見えず心配」といった不安が多いが、それもプロのアルバイターとしての事情を考えれば当然である。さらに、フリーターはすでに職業差別の対象である。「いつまでブラブラしているの」「そろそろきちんとした仕事に就いたら」「長くやってる仕事じゃない」「いつまでもこんなことじゃだめなんだから」等々、周りの人はしつこく言うらしい(日雇労働やってるぼくも、そういうことをよく親や友だちから言われましたよ)。例えば、結婚が問題になったとき、親・親族は相手(の男。女性の場合はそうでもないようだ)がフリーターだと知ったとたん顔色を変えるのではないだろうか(日雇労働の場合はもっとひどい反応だけどね!)。要するに会社などの組織での正規雇用でない仕事は「きちんとした仕事」ではないということらしい。職業に貴賤はないという話はうそだったのである。
 そして、こうした不安定就労形態の問題点は、そのまま我々がかかわってきた日雇労働の諸問題と重なるのである。日雇労働者は就労構造の最末端にあって、景気の安全弁として、必要なとき、つまり好景気ではめい一杯使われ、不必要なとき、つまり不景気時では一気に就労から切り捨てられるということを繰り返してきた。「土方殺すにゃ刃物はいらぬ。雨の3日も降ればいい」といわれる業界である。仕事から切り捨てられる時期が何週間も続けば、即、死活に関わる問題になる。そして、日雇いという形態では、雇用先の建設、土木会社から健康診断、健康保険、年金などの保証、支援はほとんどされない。むしろ、危険、汚い、きついという「3K労働」の中での労災もみ消し、賃金未払い、飯場での暴力、労働条件の約束違反といった理不尽な横暴がまかり通っている。その結果、正規雇用労働者なら簡単にクリアできる程度の問題で、日雇労働者は収入が途絶え、住むところを失い、簡単に野宿状態へと追いつめられることになる。従来、日本のあらゆる地域で、野宿者のほとんどすべてが日雇労働者だったのはこのためである。
 こうした日雇労働者の現実に対して、世間一般の人たちの反応は例えばこんなものであった。「日雇労働という仕事を自分で選んでやっているんだから、仕事がなくなって困っても自業自得じゃないか」「正規雇用の口はゼロではないのだから、結局努力が足りないだけではないか」、そして最終的には「日雇労働者(=ホームレス)は社会から逃げて好きでやっている」「だから排除すべきだ」「だから更正させるべきだ」。しかし、こうした意見はすべて、構造上の問題を個人の責任にすりかえている点で共通している。日雇労働者が古くから存在し、そしてそれがとりわけバブル期に急増したのは、建設、土木資本がそれを必要としたからである。日々変動する現場での人的需要に対して、建設・土木資本の総体は正規雇用労働者の増強によって対応する以上に、日雇労働者の増強によって対応した。建設・土木資本の要請にあわせて、末端の下請け、いわゆる手配師は、賃金を上げ、新聞広告を出し、日雇労働者を日本全国、世界各国からかき集めてきた。必要なときに使うだけ使って、いらなくなったとたんに、後は好きにしなさいと放り出したというのがこの10年間の現実である。この結果、数万の日雇労働者が野宿生活化を余儀なくさせられていった。つまり、これは社会的な問題、人災なのである。職業にかかわる社会的な、いわばマクロな問題と、その職業を個人が好きで選んだかどうかという問題は、当然ながら全く別の次元にある(例えば、看護の仕事の異常な過酷さが問題になっているとき、「そういう仕事とわかった上で自分で選んでやっているんだから、すべて我慢すべきだ」と言うのだろうか)。問題にされるべきことは、人間が使い捨てされて野宿しなければならない現在の社会のシステムなのだ。それでも、こうした野宿者が同情なり共感なりの対象ではなく、むしろ偏見や差別の対象になっているのはなぜなのか。
 現在、フリーターはほとんど野宿生活化していない。この理由は一つには、かつての日雇労働者がそうだったように、彼ら彼女らがまだ若く、がんばりが利いているからだろう。とりあえず、条件は悪くてもアルバイトは探せばあるし、仕事がある限りまあなんとか暮らしていける。仮に家賃が払えなくなって家無し(ホームレス)状態になっても、しばらく夜はずっと遊んで昼間働きに行ったり、友達のところに居候になったり、一時的に親元に帰ったりといろいろな手段が可能である。こうした手段が日雇労働者にはできない。それはなぜなのか。まず、平均して55才程度になった現在の日雇労働者には、もはやアルバイト情報誌に載っているような仕事は不可能である。つまり、他業種への転換はきかない。そして、友達はやはり日雇労働者だとすれば(だいたいそうなのだが)、その人も狭いドヤ(簡易宿泊所)住まいだから、とてもじゃないが同居などできない。さらに、日雇労働者の多くはもはや親を当てにできる年代ではなく、そして兄弟、親戚づきあいを絶っている割合が異常に多いからである。このことは、日雇労働に対する職業差別が強く影響している。
 しかし、若さと並ぶ最大の理由は、おそらくフリーター層の4分の3以上が永続的に親元に住んでいる(いわゆるパラサイト・シングル。ついでながら、この言葉は蔑称=差別語だと思う)状態にあるからである。つまり、フリーター層の大半は親と同居しており、家賃や食費、その他諸々の経費をあまり考えなくていい立場にいる。収入が途絶えようが病気をしようが、親元にいる限り一応問題ない。同居していない場合も、まだ若いフリーター層のかなりは、父母からの援助をそれなりに受けている。つまり、フリーター層の多くは父母の世代の過去、現在の収入を頼りに生きている。収入の低いフリーター層はそうしなければ生活が成り立たないのだから、もちろんそれは一方的に非難するようなことでない。しかし、その親世代の資源は、多くの場合、いつかは途絶える。その数十年後、つまり現在のフリーター層が中年となったとき、ごく単純に考えて彼ら彼女らは野宿生活に一気に近づくはずである。
フリーター層の中年化は、その他にもいろいろな現象を生むだろう。第一に、アルバイトは年功序列型賃金ではないから、そのころには同世代の正規雇用労働者との所得格差が今よりはるかに進んでいるはずである。現在進行形の日本における経済格差はこの点で激化する。日本の正規雇用労働者は高学歴者に偏っているから、この経済格差は学歴格差と平行して進むことになる。さらに、フリーターの定年が30才と言われている点も問題である。もっとも、そろそろこの数字は40才だと言うべきだろうが。確かに、アルバイトの募集は年齢制限を35才程度においているところが多い。しかし、現状のままで150万(344万?)フリーターの大半が正規雇用労働者となることが可能かと言えばそれは大変怪しい。また正規雇用労働者も部分的にフリーターになっていく。さらに、高校卒業生の10分の1以上は即フリーターになっていく。ではどうなるのか。日雇労働者のたどった先例を考えれば、最悪の場合、やはり野宿生活化する可能性がある。
 しかし、フリーター激増の理由は一般には、正規雇用の絶対的不足ではなく、フリーター自身のライフスタイルに求められているようだ。「やりたい仕事が見つからないため」「いろいろな体験するため」「夢を追求をするため」「会社に縛られる生活を嫌ったため」といった理由である。
 こうした発想の増加は、労働、雇用に対する考え方の変化として語られることがある。 学校を卒業したら、独立して自分の生活資金を稼ぐために、会社などの組織の一員となって定年まで働く、という図式が崩れてきたというわけだ。それは、年功序列、終身雇用という、高度経済成長を作り上げてきた日本型雇用形態の相対化現象と同時進行している。そして、この図式はフリーター層の親世代が生きてきたものでもある。フリーター層は、それこそ図式的に言えば、家庭を顧みるひまもなく、朝早く出勤しては夜遅くまで働き、休日も何やかやで出かけて行くお父さんの家で育っている。そうした労働実態を見て、「こんなでいいのかなあ」と考えて、「会社に縛られる生活を嫌」って、例えば「いろいろな体験するため」「夢を追求をするため」フリーターになる、というのは確かにまともな判断かもしれない。金よりも自由と自分の時間をというわけで、それはそれでよくわかる話である。こうした若者のサラリーマン忌避志向と、行政ー資本のバブル崩壊後の正規雇用労働者絞り込み志向とがたまたま(?)一致した結果、フリーターの爆発的増大が起こったということは確実に言える。そもそもフリーターという言葉を最初に作った「フロム・エー」は、バイトなどをしながら夢を追求する若者たちのことを指してこう言ったという。その「夢追求」型フリーターを筆頭に、フリーター像は「敷かれたレールの上をそのまま走ることを拒否し」「社会を遊泳する」自由人として語られることになる。
 しかし、当然ながら例えば「夢」は実現しないかもしれないから「夢」なのであって、「夢を追求する」若者も、そのうち10人に9人とかはいつかは夢をあきらめて違う生き方をする。例えば、プロのミュージシャンになれる者は一握りで、あとの残りはスタジオ関係の仕事に就くとか、あるいは音楽と全く関係のない仕事に就くとかすることになる。つまり、夢と現実との折り合いをつけるのである。「やりたい仕事」を見つけられる人が残念ながらひと握りで、あとはあまりやりたくもない仕事に就いていくのと同じである。
 では、夢と現実との折り合いをつけるのはどの時点なのか。その期限が、フリーターの上限だと言われた30歳なのだろうか。確かに、現代日本の「成人」年齢が30歳だとされているから理屈は合う。事実、フリーターは、成人年齢と就職年齢とのギャップに起因する現象だと言われている。仕事はしなければならないが、社会の中で自分の行うべきことをまだ決定していないモラトリアム状態である。能力か財力のある者は、大学院に行ったり海外旅行や留学に行ったりして時間を引き延ばしている。それと同じように、多くの若者はフリーターになっていくのだろうか。
 しかし、フリーターがあくまで猶予期間の姿であることは、誰よりもフリーター自身が自覚している。アンケートによれば、フリーターを続けたいという人は6.5%、定職に就きたいという人は67.5%である(リクルート)。ほとんどのフリーターは、フリーター生活が一生続いていくものだとは考えていない。いずれは定職に就く(あるいは定職に就いている男性と結婚する)ことになるのだろうと考えている。しかし、ここが問題なのだが、例えば日雇労働者にアンケートをとってみても、「日雇労働をずっと続けるつもりで寄せ場に来た」という人はおそらく数%だろう(ぼくは運動体の一員として日雇労働者、野宿者への数百人規模のアンケートを何度かしたが、こういう設問はさすがにしなかった)。いま日雇労働をしている人の多くも最初は、ずっと日雇労働をやっていくつもりで寄せ場に来たわけではなかった。また野宿者へのアンケートでも「定職に就きたい」という回答が大多数を常に占める。それでも日雇労働者、野宿者が決して減らなかったし、特に野宿者がむしろ激増しているのはなぜなのか。一つには、すでに触れたように、日本の経済システム自体が日雇労働という雇用形態を常に必要としていたからである。そしてさらには、日本の労働現場が、一度正規雇用からはずれた者に対しては、再びそこに入る門戸を極度に閉ざしたシステムになっているためである。例えば、知り合いの日雇労働者が定職に就いたなどという話をぼくは一回もきいたことがない(現在行政が野宿者対策として本腰を入れている「自立支援センター」も、肝心の正規雇用就労に関しては壊滅的な状況にある)。それと似た状況が、現在のフリーターにはある。つまり、日雇労働をめぐる状況がそうだったように、現在、より大規模な形で、日本の経済システムがフリーター層を必要としている。そして、正規雇用労働者の絞り込み現象が続く限り、フリーター層の減少は総体としてありえない。したがって、不安定就労形態の持つ多くの問題点を抱えたまま、フリーター層は増大していくだろう。そしてそのうちのかなりの部分は、かつての日雇労働者がそうだったように、若いとは言えなくなった、たまたま仕事が無くなった、怪我や病気が長引いた、当てにできる友達がいなくなった、親兄弟と疎遠になってしまった、などの様々な条件が重なって、意志に反して野宿生活へと陥る可能性がある。その確率が仮に現在の人数の1%だとしても、それは2万人程度の野宿者の発生を意味する。これは世界的には決して異常な事態ではない。むしろ、欧米などのいわゆる先進国では日本よりずっと野宿者数が多く、しかも失業青年層がそのかなりの部分を占めていることが知られている(発展途上国では家族ぐるみの野宿が多い)。その意味では、日本は他の先進国並みになるわけである。
 では、その危険に対してどうすべきなのか。よく言われるように、若者のフリーター生活化を阻止して、正社員にするような教育を行うべきなのか。フリーター「問題」と言われるぐらいだから、フリーターになる若者の意識に問題があるのであって、そこをなんとかすべきなのか。しかし、そうした発想は「日雇労働者になる人間に問題がある」という考え方とまるで変わらない。政治・経済上のシステムにかかわる問題を、フリーターになる若者にすりかえるのは単なるごまかしである。しかし、こうしたすりかえはもう始まっている。「結局のところフリーターは努力が足りないのではないか」「フリーターという仕事を自分で選んでやっているんだから、仕事がなくなって困っても自業自得じゃないか」「正規雇用の口はゼロではないのだから、結局努力が足りないだけ」、「フリーターは社会から逃げて好きでやっている」。もちろん、そんなことはないのだ。フリーターを好きでやってようとどうだろうと、他人にとやかく言われる筋合いがあるわけない。やりたい人がフリーターで一生過ごせれば、それはそれでいいのではないか。ちょうど、日雇労働者が日雇労働者として仕事を持って一生過ごせれば何の問題もないように。しかし、現在の日本の政治、経済の状況では、フリーターは問題をしわ寄せされて生きていくことを余儀なくされるほかないだろう。その結果は、最悪の場合、野宿の果ての路上死である。
 したがって、こういうことが言えるだろう。フリーター層は、野宿問題、および日雇労働問題に関心を持ち、自分自身の問題の先例として考えた方がいい。できれば、我々と現在の政治・経済の持つ諸問題に対して共闘しようではないか。もしかしたらフリーターの中には野宿者襲撃をしている者がいるかもしれないが、そんなことをしている場合ではないのである。




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